桜林
小山清
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私は浅草の新吉原で生れた。生家は廓のはずれの俗に水道尻という処に在った。大門から仲の町を一直線に水道尻に抜けて検査場(吉原病院)につきあたると、左がわに弁財天を祀った池のある公園がある。土地の人は花園と呼んでいるが、その公園の際に私の家は在った。新吉原花園、そんな所書で私の家に音信のあったのを覚えている。子供の私たちは其処をまた「桜林」と呼び馴染んで、自分たちの領分のように心得ていた。事実桜林は私たちのチルドレンス・コウナアであった。
聞くところによると、明治四十三年の夏の水害と翌年春の大火とは、吉原とその界隈の町の有様を一変させたと云うが、私はちょうどその大火のあった年の秋に生れた。物心がついてまもなくあの大震災があった。震災は私たち東京人の生活に一時期を画したが、私としても自分の少年の日は震災と共に失われたという感が深い。
震災後の吉原はまったく昔日の俤を失って、慣例の廃止されることも多く、昔を偲ぶよすがとてはなかった。公園もきれいに地均しをされて、吉原病院の医師や看護婦のテニス場と化してしまった。私たちがそこを桜林と呼んだのも、桜樹が沢山植えてあって、季節には仲の町に移し植えられて、所謂夜桜の光景を見せたからである。公園と云うよりは桜林と呼ぶ方がふさわしかったのである。草深くて、ささやかながら私たち町っ子の渇を癒すに足るだけの「自然」がそこにはあった。池の面も南京藻がいっぱい浮かんでいて、ちょっと雨が降ればすぐ水が溢れた。私の子供の時分にも小さい出水は毎年あった。私自身溺れかけたこともあり、また休暇に遊びに来た兵隊さんが誤って池に堕ち遂に帽子を発見出来なかったという話もある。夏ともなれば私たちは草いきれを嗅いでとんぼ採りに寧日がなかった。桜林と廓外との境には丈の高い木柵がめぐらしてあった。柵の向うは廓外のしもたやの縁先になっていて、葡萄棚やへちまの棚があって、柵には朝顔の蔓なんかが絡みついていた。私たちは朝まだき、露で下駄を濡らしては、よく朝顔の花を盗ってきたものだ。私の家はちょうど桜林の入口のところにあったので、二階の窓から上野の山や浅草公園の十二階が見えた。おそらく晴天の日には遠く富士も見えたような気もするが、はっきり記憶には残っていない。低い土地であったから、むかしの錦絵に見るようなわけには行かなかったかも知れない。
私の家はもと京町二丁目で兼東という名で貸座敷業を営んでいたが、祖父の代に店を人に譲った。祖父は三業取締の役員もしていたようで、二六新報の計画した娼妓自由廃業の運動の際にも、また救世軍がその遊説の太鼓を廓内にまで持ち込んだ時にも、間に立って調停の役を勤めたとかいう話である。
私の子供の時分、家でいちばん威張っていたのはこの祖父であった。母屋から渡り廊下のついている離れに起臥していたが、そこから家内中に号令していた。お山の大将のようなものであった。祖母などはかげでは祖父のことを「うちの代官さま」と云っていた。家長は父であったが、父は目が見えなかったし、そのうえおとなしい人であったから、隠居である祖父の威勢が家内中を圧していたのである。父は義太夫の師匠をしていた。蔵の二階が父の稽古場になっていて、たいていそこに閉じ籠っていた。祖父は俗に云うこわもてのする人柄で、口喧しいわりには、出入りの者や女中なんかの気受けは悪くなかった。大根の気性がさっぱりしていたからであろう。なにかというとすぐ「馬鹿野郎。」と大喝一声した。祖父はたいへん毛深いたちで、とりわけてひげが濃かった。すこし剃刀を怠ると恐い顔になる。髭、髯、鬚、まるで銀の針金を植えつけたようで、なんのことはない神霊矢口渡の頓兵衛を見るようであった。叢の中からぬっと迫り出して来て笠を撥ね除け、脇差を抜いて見得を切るあの顔そっくり。その顔で癇癪玉を破裂させるのだから、たいがいの者がぴりぴりした。家で祖父から「馬鹿野郎。」を云われなかったのは父だけである。父に対してはたいへんやさしかった。
私も祖父から一喝をくらって縮みあがった覚えがある。小学校の三年生のとき、貯蓄奨励の意味でポストの恰好をした貯金箱を実費で購入して生徒に頒けてくれるという企があった。若しかしたら玩具屋の宣伝であったかも知れない。ポストのおもちゃは赤い色で美しく塗装されていて、私たちの眼にはひどく誘惑的に映った。希望者だけに頒けるので、べつに無理に購入しなくてもよかったのだが、私は家に帰ってから母にしつこくせがんだ。「勤倹貯蓄なんだから。」ということを私はくりかえした。すると偶々その場にいた祖父が、「馬鹿野郎。子供のくせに、いまから金をためることなんか覚えて、どうするんだ。」と百雷の轟くような声を出した。私は面皮を剥がれた偽善者のように竦んでしまった。また幇間の喜与作さんの家に遊びに行って、「いちゃついて、どんとひじ鉄砲くらりゃ、みこみがないとね。」というへんな文句を覚えてきて、家に帰ってから得意になって披露していたら、そのときもやはり「この馬鹿野郎。」と怒鳴られた。
それでも私は祖父のお気にいりであった。ひとつは父が不自由な躯であったせいであろうが、いわば私はお祖父さん子というようなものであった。湯にもよくいっしょに入った。私が桜林で遊んでいるようなときでも、「御隠居さんが呼んでいますよ。」と云って女中のなかやが迎えにくることがあった。祖父は熱い湯が好きであった。私が我慢できなくて出ようとすると、祖父はきまって「百勘定してから。」と云う。私は早口で百まで唱えると、躯中から湯気を立てて湯船から飛び出す。私は心得ていて、欲しいものがあると、よくこの入浴中に祖父にねだった。祖父はたいてい聞き入れてくれて、母にそう云うか、また自分で都合してくれた。祖父の左の二の腕に桃の実の小さい刺青のあったのを覚えている。骨董道楽で、離れの床の間には蒐集品がごたごた置いてあった。名の無い画描きの人の、その面倒を見てやったらしく、出入りするのがいた。その人の鞠躬如とした姿が私の記憶にも残っている。そういう祖父は器用なたちで、私のために木片に船を彫ったり、また竹細工に渋紙を張ったりして飛行機の模型などを造ってくれたりした。
助ちゃんも祖父のお気にいりであった。助ちゃんは父の義太夫の弟子であったが、私の思い出の中ではその人の印象は祖父の記憶と二重になって残っている。ちゃんとした芸名がなかったわけでもないであろうが、誰もが単に助ちゃんとばかり呼んでいた。祖父はまた「助公、助公。」と呼び捨てにしていた。年頃は二十五、六であったが、如何にも年寄り臭い顔つきをしていた。その頃新派の活動役者の三枚目に小泉嘉輔というのがいて、車輓きや屑屋の役を得意にしていたが、助ちゃんはそれによく似ていた。まだ独りもので、馬道に住んでいる良助という義太夫専門の箱屋の家に二階借りをしていて、そこから毎日父の許に稽古に通ってきていた。収入と云っては出稽古が二とこばかりとたまに寄席に出る位のものであったから、貧しい暮しは知れていた。祖父はこの助ちゃんになにかと目をかけていた。馬道に祖父の贔屓にしている鮨屋があったところから、よく助ちゃんに頼んで稽古にくるついでに買ってきてもらったりしていた。祖父が「助公。」と呼ぶと、助ちゃんの爺くさい顔が皺だらけになった。
助ちゃんについてはこんな話がある。向島の小梅にいた頃、寒声を練るため、夜半物干台に出ておさらいをしていたところ裏隣りの家の窓が開いていきなり「気違い。」と怒鳴られた。勿論助ちゃんは憤然とした。翌日風呂屋でその声の主である高等学校の学生と顔を合わせたとき、あなたも勉強が大切なら、それは私も同じこと、ものを学ぶ道に二つはないと云って、相手に謝罪させたということである。助ちゃんにはそんなすっとんきょうなところがあった。またこんな話もある。弁天さまの池に若い芸者が身投げをしたことがあった。その妓は仲の町のある家の抱えであったが、さっぱりお座敷がなくて姐さんや朋輩からも冷遇されていたが、ついにわが身を果敢無んで死を択んだ。おとなしいというよりは陰気で、向い合っているとどうにも気詰りで、あれではお座敷のないのがあたりまえ。ふだんも気の毒なほどいじけていた。器量は悪い方ではなかったが。──この話を聞いて助ちゃんはひどく同情したそうで、「可哀そうなことをした。あたしが贔屓にしてやるんだったのに。」とまじめな顔をして云ったので、みんな噴き出して、祖父が笑いながら「助公。お前身につまされるんじゃねえのか。」と云ったら、「へえ、図星です。」と云ったという。
助ちゃんは私の父の許に来る前に、二、三ほかのお師匠さんの門をくぐっていた。あるとき祖母が「お祖父さんも物好きだよ。助ちゃんのどこが気に入ったのかねえ。」と云ったのを耳にして、祖父は「馬鹿野郎。助公はおれの大事なお得意だ。」と云った。いまにして思えば、あの画描きの人のことで、誰かが祖母と同じような問いをしたならば、祖父は同じく「おれのお得意だ。」と答えたことであろう。祖父はときどきそのお得意のために散財をしていた。
私の父は二つのときに失明したという。祖父は父のために図って義太夫を習わせた。十三、四の頃大阪へ修業に行き、初め五世野沢吉兵衛の手解きを受け、その後、後の摂津大掾の弟子になった。大阪へは祖父の姉で出戻りの身をそのまま家に寄食していた人が伴いて行った。家では祖母と区別するために、この人のことを大阪おばあさんと呼んでいた。父は時々学生の帰省するように東京の家へ帰ってきては、また大阪へ出向いていたようである。その間に父は結婚して、私もいちど二つのときに父母に連れられて大阪へ行ったことがあるが、その後の下阪の際には東京の祖父母の許に残った。父はそのときを最後に文楽を退いたが、その間三年というものは大阪に居着いて東京へは帰らなかった。祖父の愛が私に加わったのも、また父は別にして母までが私のことで祖父に対して遠慮気の見えたのも、ひとつはそういう事情のせいであろう。
ごく幼い頃の思い出だが、私は夜の明け方ごろになると、隣りの父の寝床に這い込んでいっては、よく父に「お話して、お話して。」とねだったものだ。すると父はいつでも「うん。よしよし。」と云って、私の毬栗頭を抱いて、寄席で聞いてきた落語や講釈の話をしてきかせてくれた。私の記憶には父の話し振りがなかなかユウモラスな上手なものとして残っている。父はまた自分から畳の上に仰向けになって、揃えた足の裏を私の帯の前にあて、私に手足を泳がさせては亀の子の真似をさせたりした。また自分の背に私を後向きに背負って、「千手観音だ。」と云って冗談をしたりした。幼い私は父の背で「千手観音、拝んでおくれ。」などと云ったりした。私はこの遊びが好きで、よく父にせがんだものであった。父はふだんは陰気で黙りがちであったが、そんな時には巧まない瓢逸なところが見られた。若しも父が並の躯であったなら、父のこういう為人はもっと外部にあらわれて、広く暖く家庭を包んだことであったろう。
祖父は聡明な人ではあったけれど、我の強い嫌いがないわけでもなかった。
おそらく父は自分の意志で事を極めたことはなかったに違いない。一家の主としても父親としても、自分から配慮するということがなく、常に人から配慮される側の人であった。世間に出て人に立ち交ったことがないばかりか、自分の息子がどんな顔をしているのかさえ知ることが出来なかったのだから。
父はときどき大阪おばあさんに連れられては寄席などに出かけていた。この人は太棹は女としてはかなりのてだれであったそうだが、私が物心がついた頃には、もう耄碌していてみんなから侮られていた。私が十のときに寄る年波で亡くなった。思えばこの人は父の守りをするためにこの世の中へ生れてきたような人であった。
私は子供のときはひどいはにかみやで、人見知りばかりしていた。戸外で活溌に遊んでいる友達の仲間入りがなかなか出来なかった。学校へ行くようになってからも、当座はそのつど送り迎えをしてもらっていた。私の周囲にもやはりいじめっ子というものがいた。私はかるい気鬱症に罹った。祖母は「なんたる懦弱だか。」と云った。祖父は心配して私を清元の稽古に通わせるようにした。一種の神経衰弱療法である。祖母はなにもよそへ遣ることはない、うちで義太夫を習わせたらと云ったが、祖父は「馬鹿野郎。清はしょうばい人にするわけじゃない。親父に倅が教わるというのも鬱陶しいもんだ。」というようなことを云った。母は不賛成のようであったが、このときも押強くは口に出さなかった。私は毎日学校から帰ってくると、その頃竜泉寺町に住んでいた延小浜という中年増のお師匠さんの許へ通うようになった。お師匠さんの家は揚屋町の番屋を抜けて刎橋を渡って金杉の方へ行く途中に在った。この人はごくさっぱりした男のような気性の人で、いつも髪を割かのこというのに結っていた。私が初めて温習会に出て梅の春を語ったときに、連中の仲の町の鶴屋という引出茶屋の主人がお師匠さんと一緒の写真を撮ってくれた。三味線を控えているお師匠さんの隣りに、紋附を着て袴をはいた九つばかりの私がひよわな小動物のような眼をして写っていた筈であるが、震災のときに焼失した。祖父を手古摺らせた私の内気も、三年生になって級長を勤めるようになってからはそれほどでもなくなって、凧揚げやとんぼ採りの仲間入りも一人前に出来るようになるばかりか、大川へ水泳ぎにさえ出かけるようになった。
私は浅草の千束町通りにあった千束小学校へ通った。その頃廓内から学校通いをするのにはちょっと不便なことがあった。というのは、ちょうどその時刻には検査場裏の裏門も五丁目の非常門も閉まっていたからである。表向き廓外へ出る道は大門口以外にはなかった。昔は大門から一歩でも踏み出すことを「江戸へ行く」と云ったそうで、また仲の町を通行することが既に「道中」であったが、しかし大正の私たちはそんな悠長な真似はしていられなかった。私の家では浅草方面へ出抜ける場合は、京町二丁目のはずれの黒助湯という風呂屋のある露地の突当りに在った小林というしもたやの土間を通り抜けさせてもらっていた。その家はちょうど廓の外郭に沿って流れているお歯ぐろ溝に接していたので、外との往来には便利だったのである。私も通学の際はそこを利用した。朝登校の際にはまだ寝ているらしく戸が閉まっていることもあった。そんなとき私が戸口をことこといわせていると、中からそこの小母さんが「いま、あけてあげますよ。」と云って、やがて戸をあけてくれたりした。長い間には迷惑に思ったこともあったであろう。私の家では月々その家に附届をしていた。
私は通学の際にはたいてい近所に住んでいる肇さんという子と誘い合わせて行った。ときには、はじめさんの妹ののぶちゃんと行くこともあった。二人とも私の竹馬の友である。私の家の裏に私の家の持ち家である長屋があったが、その共同水道からはいちばん遠い位置にある一軒にはじめさんの家族が住んでいた。はじめさんのお父さんは京一の仙州楼の本番口の妓夫をしていた。お母さんも家で、玩具問屋の註文の風船つくりの内職をして、家計を補っていた。はじめさんと私は家が近かったばかりでなく同級生であった。はじめさんはいつも木綿の盲縞の着物を着ていた。そしてその筒っぽの袖口が両方とも、またいつも金鵄勲章のようにぴかぴかしていた。はじめさんは子供の間によく見かける洟たらしの一人で、常にはな紙で拭うよりは早くその両袖を活用していたからである。大柄で色黒で団十郎のような大眼玉をしていた。口の悪い私の祖母がはじめさんのことをお神楽に出てくる「宝剣泥坊」のようだと云ったことがある。吉原神社の祭礼のばか踊りに鬼瓦のような面をした愛嬌のある物腰のそんな泥坊が出てきたことがあったが、それがはじめさんによく似ていたのである。私がまだ御飯を食べているときに、「清ちゃん。学校へ行かないか。」と云ってはじめさんが迎えにくることもあれば、私がはじめさんを誘って行くこともある。私がはじめさんの家の前で待っていると、やがてはじめさんとのぶちゃんが出てくる。のぶちゃんが私たちと一緒に行きたそうにすると、はじめさんはいつもその団十郎のような眼玉をぎょろりとさせて、「女はひとりで行け。」と云う。はじめさんは「おれは当然兄貴の権利で云っているんだぞ。」というような顔をしている。のぶちゃんは恨めしそうな顔をして「兄さんの意地悪。」と云って、仕方なさそうに私たちの後からすこし遅れて附いてくる。なんかの具合で私とのぶちゃんが先へ連れ立って行くようなことがあると、道を歩いている二人のはるか後から、「男と女と豆いり、牛の小便十八町。」とはじめさんが大声で云うのが聞える。振り返って見ると、はじめさんはやけのように草履袋を振り廻している。はじめさんとしてはひどく兄貴の威厳を傷つけられた気持がするのであろう。はじめさんの家では廓外との出入りには、やはり黒助湯の露地にある炭屋の土間を通行させてもらっていた。そこから炭を買っていたからであろう。私たちは子供の正直さで、私は小林さんからはじめさんは炭屋から、それぞれ別々に外に出て往来でまた一緒になって学校へ行った。千束小学校は小松橋の交番の前をすこし行ったところ、平野という料理屋の並びに在った。この通りを真直に行けばやがて浅草の十二階下に出るのである。学校の帰りには近道をするために、桜林を囲む木柵を乗り越えて入ってくることもあった。そんなとき公園の樹木の面倒を見ている松つぁんという植木屋さんに見つかると、「この餓鬼ッ。」と大喝一声された。松つぁんは嚇かしに云っているのであるが、私たちは鳴子の音に驚く雀っ子のように、しんから震えて逃げ出したものだ。
のぶちゃんは私たちより一つ年下であった。稚児まげに結っていて、寸の短い着物に前垂をかけていた。上唇がきもちむくれていて、いつもかすかに口をあけているような感じであったが、気になるというほどではなかった。のぶちゃんは学校から帰ると、私の父の許に義太夫を習いに来ていた。物覚えは悪いらしく、学校の成績もいい方ではなかったらしいが、稽古の方もはかばかしくなかったようである。のぶちゃんは私の家に来ると、まず茶の間の長火鉢のそばにいる祖母の許に出精簿のようなものを差し出して、稽古がすむとまた茶の間に寄って祖母の手から判を捺した出精簿をもらって帰る。これはのぶちゃんが時々稽古をなまけることがあるので、のぶちゃんに限って実施していたことで、私が夏休みに大川の水練場へ通ったときに毎日出精簿に判を捺してもらったところから祖母が思いついたのである。六畳の蔵座敷が母が針仕事などをするところで、そこに私の机も置いてあった。のぶちゃんが稽古をすませて蔵から出てきたときに、偶々そこに私が居合わせば、きっと机のそばにきた。
「清ちゃん。なにを読んでいるの?」
私が読んでいる『少年世界』を見せると、
「あたしもこんどの午の日(吉原の縁日)に『少女世界』を買うの。」
「午の日で売っているのは月遅れだよ。」
「でも新しいのは買えないんですもの、清ちゃん、こんどの午の日には一緒に行きましょうね。」
「うん。」と上の空で返事をすると、それでも嬉しそうに、
「ああ、もう帰ろう。遊んでいると御隠居さんに叱られるから。あたし明日から太十をお稽古するのよ。」
のぶちゃんがそばにいるときはうるさく思うこともあったけれど、去られると物足りない気がした。
お糸さんの話をしよう。お糸さんが私の家に来たのは桜どきで、吉原はちょうど夜桜の頃であった。
吉原の桜は八重咲きが多く、上野や向島よりは遅れて咲いた。花の開く頃になると、馬力や荷車に附けられて、桜林から仲の町に移された。大門口から水道尻まで、桜のあるところは青竹の欄干で囲われ、その囲みの中に朝顔灯籠が点し連ねられた。葉桜になってしばらくすると、また根こぎにされて、桜林へ運ばれるのである。
お糸さんが家へ来る前の日、五十間の平床の親爺さんが祖父のひげを剃りにきた。この親爺さんはいつも抽出のついた黒塗りの箱をさげてきた。「御隠居さんのひげはあっしの剃刀でないと刃が立ちません。」と云い云いしていたが、お世辞ではなくて自分の腕を自慢していたのかも知れない。この人の亡くなった父親が平さんと云って、吉原の名物男の一人であったが、倅の代になってからも得意筋からは「平床」の名で贔屓にされていたようである。
平床が仕事を終わって帰るときに祖父は、
「御苦労だが、帰りに並仙に寄って明日来るようにそう云ってくれ。」と託けをした。並仙というのは角町にあった俥屋である。
「どこかへお出かけで。」
「麻布の狸穴まで行かなくちゃならない。」
「それはまた遠方へ。」
翌日祖父は朝飯をすますとすぐ俥に乗って「遠方」へ出かけた。この山の手をひどく遠く感ずる習性は、その頃の下町育ちの者でないとわからないのではないだろうか。五十にて四谷を見たり花の春。まさかそれほどではないにしても、出不精の祖父にしてはめずらしいことであった。昼すぎになって祖父は自分のほかにもう一台俥を連ねて帰ってきた。
私はちょうどそのときは六年生になる学年末の休みに当っていた。その日戸外で紙芝居を見て家に帰ると、縁側に茣蓙を敷いて、母となかやともう一人島田髷の若い女の人が、神棚や仏壇の真鍮製の器具を磨きずなでみがいていた。子供というものは、戸外の遊びからわが家に帰ってくるときは、誰もが息をはずませて駈け込んでくるものである。私が知らない人がいたので間の悪い顔をしていると、母よりも早くその人が笑顔を見せて、
「お帰りなさい。」と云った。私が返事が出来ずにもじもじしていると、重ねて、「どちらへ行ってらしたの? 頬っぺたを真赤にして。」
母がかえりみて、
「また桜林ではじめさんと樹登りをしていたんだろ。桜の枝を折ると松つぁんに叱られるよ。」
「ううん。紙芝居を見てきた。」
「また悟空に八戒かい?」
「うん。」
その頃廓内に入ってきた辻芸人には、法界節、新内流し、それから宗十郎の声色をよくつかうので評判の飴屋などがいたが、そのほかにこの紙芝居なども子供相手とは云っても、やはり芸人には違いなかろう。それにやることも当世とはだいぶ趣が違っていたし、それを渡世にしていた人の数も、いまに比べるとぐっと少なかったようだから、なにやら箔がつくというものである。揚屋町の角の鯉松という台屋の横手が興行の場所で、二時頃から夕方にかけて催した。狂言は清水というのが西遊記、高島というのが忍術ものをそれぞれ看板にしていたが、清水の方が人気があった。いまのように厚紙に背景、人物、情景等を一枚の絵にしたのとは違って、人物なども幾様にも切り抜いて、おでんのように竹串をさして、人形を操るように器用に動かした。伴奏の楽器も亦いまのようにハモニカなんかではなくて、流しの声色やと同様に銅鑼に拍子木。操る人は舞台の蔭に身を隠していて声だけしか聞えない。口跡もなかなか渋かった。舞台の前に詰めかけて息を凝らしている私たちは、銅鑼がボーンと鳴ると、芝居好きが大薩摩をきくときのように胸をときめかしたものだ。巴里の子供が見世物のグラン・ギニョールに熱狂するようなものであろう。私はこの紙芝居の玩具を一幕一袋五拾銭で西遊記の清水から譲ってもらったが、家に持ち帰って祖父に見せたら、そのとき祖父は人物の線など浮世絵の筆に似ていると云って案外な顔をした。
母はちょっと仕事の手を休めて、私を見てひやかすように、
「この人はね、そりゃ紙芝居の声色が上手なんですよ。」
「そうですか。ぜひ聞かせて下さいね。」
「うそだい、うそだい。」
「紙芝居の真似もいいけれど、衣紋竹や物差を振り廻して、唐紙や障子に穴をあけるのは御免だよ。」
「穴なんかあけないよ。」
なかやがそばから、
「清ちゃんにあげて下さいって、伊勢新の番頭さんが新しい衣紋竹を沢山届けてきましたよ。」
「うそ云ってらあ。」
形勢が悪くなってきたので、私はその場を退散した。それにさっきからきまりが悪かったのである。縁側を曲がった廊下の突当りに戸棚があって、それがそのまま私の玩具箱になっていた。そこには私の幼いときからの手遊びの玩具が入っていて、ノアの方舟の乗合のように大混雑を極めていた。震災で失ったものの中で、当時はそれほどではなくて、その後歳月を経るにつれて惜しい気持のされるものである。おそらくその戸棚の中には私の少年時代の思い出が、いっぱい詰め込まれてあるに違いないのだから。私は戸棚の中に首を突き込んで、探しものをしている真似をしていたが、べつに目当があるわけではなかった。縁側の話声に気をとられていた。
「おかみさん、花立が一つ見えませんが。」
「そうかい。どうしたんだろうね。いやだよ、なかやの膝の下にあるじゃないか。」
「おやまあ、ほんとに。」
その人の声もまじって笑うのが聞えて、しばらくして母の声が、
「ええ。おかげさまで学校の出来は悪くないんですが、お祖父さんが甘やかすものですから、腕白でこまります。」
「いいえ、いいお子さんですわ。」
私は箱根みやげの寄木細工の玩具をもてあそんでいたが、ひとりでに顔が赤くなった。
お糸さんは麻布の狸穴から俥に乗って私の家に来た。お糸さんがどうして私の家に一時身を寄せるようになったのか、私には知れていない。私は子供の気持でなんとなくお糸さんのことを遠い縁つづきの人のように思っていた。祖父は「お糸、お糸。」と呼び捨てにしていた。お糸さんはまた祖父のことを、親しみの籠った口調で「おじさん。」と呼んでいたが、恐い人である祖父がそう呼ばれるのが、はたの者の耳にはめずらしく聞えた。
お糸さんは家では玄関脇の四畳半、もと大阪おばあさんのいた部屋に寝起きした。そして家事の手伝いのほかに、いつとはなく父のために、大阪おばあさんのしていた役廻りを引受けるようになった。毎日、新聞の続物を読んで聞かせる、稽古の客のために湯茶を運ぶ、ときたま寄席行の伴をすることなど。母はと云えば、母はまた家事にかまけてばかりいる人であったから、なかやを相手にいつも忙しそうに立ち働いていた。寛ろぎのときはと云えば、針仕事をしているときであった。母のことでは、小岩にいた祖母の身寄りの許から荷車に山積みして送り届けられた漬菜を、物置小屋の土間でなかやを相手に幾つもの大樽に漬けていた甲斐甲斐しい姿と、その赤く腫れた指のことが憶い起される。
お糸さんが家にきて間もなく、その頃父の許に稽古にきていた鶴屋の内芸者の小ふじさんが、お糸さんを見かけて、先年歿した三代目尾上菊次郎に似ていると云い出した。菊次郎のファンは吉原にもだいぶいたようだが、小ふじさんもその一人で、その墓のある池端七軒町の大正寺にまで出向いて、墓前に香華を手向けてくるほどの熱心な贔屓であった。菊次郎のいない二長町は見る気がしないと云うほどの小ふじさんにしてみれば、たいていの顔が菊次郎扮するところの三千歳に見えたのかも知れないが、ほかにも同じことを云う人がいた。吉原の鳶頭のおかみさんで、家の者はこの人のことを、「ばあちゃん。」と親しく呼び馴染んでいた。吉原の鳶職は四番組で、江戸の川柳に「浅草に過ぎたる物が二つあり、蛇の目の纏、加藤大留」とある、昔は名にしおう新門辰五郎親分が籍を置いたという、その蛇の目の纏を預っていた。この頭の家で盆に出入り先に配る団扇にその纏の絵のついていたのを私は覚えている。頭は名代のデブ頭で睨みの利いた人であったが、おかみさんは「ばあちゃん。」という呼び名でもわかるように、家業柄に似ずおとなしいひとの好い人であった。ばあちゃんは歯がお神楽の獅子を見るようにずらりと金歯であった。私はいまでも金歯の目立つ人を見ると、このばあちゃんのことを思い出す。住居がやはり水道尻で池の前にあったので、ときどき私の家にもらい風呂にきては話込んでいった。祖母のいい話相手で、祖母はこの人と話しながら、ふたこと目には「そうなんだよ、ばあちゃん。」とか「まあお聞きよ、ばあちゃん。」とか云ったりした。「なにごとも時世時節でね。」という述懐めいた言葉が、ばあちゃんの口癖であった。私はいつもひとり早く寝かしつけられてしまうのだが、ふと目が覚めたときに、茶の間の方から大人たちの話声が聞えてくることがある。そんなときばあちゃんの笑声などを耳にすると、茶の間の雰囲気がばかに楽しそうに思われて、子供をさきへ寝かしておいて、大人たちだけでなにかいいことをしているのではないかしらという気がよくしたものである。ばあちゃんはお糸さんのことを「素人にしておくのは惜しい。」というようなことを云った。
私もいちど六代目のお祭佐七で菊次郎の小糸を見た記憶があるが、子供のことだから、お糸さんがその人に似ていたかどうかという比較のことになると覚束ない。ただ子供心に綺麗な人に思われたので、お糸さんと一緒に暮すようになったことが嬉しかった。お糸さんが家にきた翌朝、私は起きるとすぐお糸さんを探したが、お糸さんは縁側で顔を洗っている父の介添えをしていた。父は鼻が悪かったので、洗顔のつどゴム製の洗滌器で鼻を洗うのがきまりであった。家業柄鼻は大事にしなければならなかった。お糸さんは私を見ると、
「お早うございます。」と云って一寸首をかしげた。
午後のお稽古に出かけようとしているときに、祖母からお糸さんを伏見町の二葉屋に案内するように云いつけられた。私はお糸さんと連れ立って家を出た。
「二葉屋へなにしに行くの?」
「お強飯を誂えに行くのよ。」
江戸町二丁目の裏通に伏見町という小路がある。二葉屋はそこにある餅菓子屋で、私の家では正月の餅や節句の柏餅をいつもそこに註文していた。
「清ちゃんはお習字のお稽古に行くの?」
「ううん。お師匠さんのとこ。」
「お師匠さんって?」
「延小浜さん。」
「そうお。清元なのね。いまなにを習っているの?」
「いまはね、お染。」
京町二丁目の通りを抜けて仲の町の辻に出たとき、いまを盛りの花の梢の向うに角海老の大時計を仰いで、お糸さんは山の手の住人らしく見て過ぎながら、
「ここが角海老ね。」
「そう。お糸さんは吉原へ来たことはないの?」
「いいえ。ありますわよ。」
「ぼくの家にも?」
「ええ。清ちゃんがもっと小さかった時分に。ちょうどお酉さまのときに。」
「ひとりで?」
「いいえ。おっ母さんと一緒に。」
「ぼくがいた?」
「いましたよ。清ちゃんは絣に黒無地の胴はぎの着物を着ていて、可愛らしかったわ。よく覚えていますよ。いまのおなかさんではない子守さんがいましたね。」
「しづや。」
「そう、おしづさんでしたね。清ちゃんの子守さんは。一緒に大阪へも行ったんでしょ。」
「ええ。」
「おしづさんはいまどうしています?」
「しづやはね、いま新造衆をしているの。」
しづやはその頃江戸一の徳稲弁の下新をしていた。家はまえから土手向うの山谷堀の近くにあった。
「それじゃ、いまでもときどきお家へ見えるわけね。」
「ええ。」
しづは月に一度位はなんとなく私の家に顔出しに来たものだが、往来でもまたよく行き逢った。しづやが家に来ているとき、私が学校から帰ってきたりすると、祖母や母が「そら、しづやの殿さまが帰ってきた。」とひやかすように云い云いしたものだ。しづやも顔を赤くしたし、私もなんだか照れくさかった。道で逢ったときに「御隠居さんやおかみさんにはないしょですよ。」と云われて、仲の町の大慶鮨を一緒に食べたこともある。私はこのしづやの背に負われて大阪へ行った。その頃の私はしづやという発音が出来ずに、「しいや、しいや。」と呼んでいた。
鶴屋の前を通りかかると、店先に吉原の三婆の一人である名代のその家のお祖母さんと、私たちの餓鬼大将であった中学生の実さんがいて、実さんが私を見かけて、「清ちゃん、どこへ行くの?」と呼びかけたのを聞き流して行くと、いきなり後から大きな掌で目隠しをされた。やっと振りほどいて見ると、支那人の幇間の華玉川がにやにや笑いながら立っていた。
「清ちゃん、別嬪さんを連れて澄ましてどこへ行くの?」
「知らないよ。」
「教えてくれないと、もうお祭がきても肩車をして屋台踊を見せてあげないから。」
「二葉屋へ行くんだよ。」
「さては、またけいらん巻を買いに行くんだな。」
「違わい。」
「はははは。家へ帰ったら御隠居さんによろしく。」
桜川華玉川は支那人の幇間で手品を売物にしていた。大男でいつも支那服を着ていた。その年も京二の君津楼の初午の催しで、得意の手品で私たちを堪能させてくれたが、声色、手踊なんかよりはこの方が子供たちには人気があった。
角町の角の見番の前でも髪結のおさださんが、清ちゃん、どちらへと云って、ものずきな眼つきをしてお糸さんの方を見た。
二葉屋の帰りに揚屋町の角でお糸さんと別れて、私はお師匠さんの許へ行った。そこでは連中の人たちが次の温習会の日取や席亭の相談をしていた。駒形の並木倶楽部で派手にやろうと云う人もいたが、近いところで三の輪の新世界でやることにきまった。私たちの清元の会は巴会という名称で、いつも足場のいいところから、土手八丁もようやく尽きる処三の輪のとばくちにある新世界という料理屋兼業の家か、たまには土手向うの田中町にあった吉影亭という貸席を借りて催した。巴会御連中では私なども古顔の方で、「水道尻の太夫さん。」ということになっていた。
「ところで、水道尻の太夫さんにはなにを語って戴けますか?」と鶴屋の主人が云った。この人の息子の実さんは私の遊び友達である。私は黙ったままお師匠さんの顔を見た。お師匠さんも咄嗟に「さあ?」という顔をした。「ぼく、三千歳にしようかしら。」と云ったら、鶴屋の主人が「おっと、三千歳は先刻おれが約定済みだ。これだけは譲れない。」と云って、大人たちだけにわかる含み笑いをした。お師匠さんは、「そうね。清ちゃんはもうじきお染が上がるから、いっそお染にしましょうよ。休まずにいらっしゃい。」と云った。私はいそいでお染を上げて温習会に出すことになった。
家に帰ってから晩御飯のとき祖母から、「清、お前はお糸さんに食物屋ばかり教えたそうじゃないか。」とからかわれた。私はあそこは日新亭(洋食屋)、ここが大村(そば屋)、あそこが相亀(鰻屋)、ここは野村や(水菓子屋)という風にお糸さんに教えたのである。
「そのうちお糸さんに奢らせる魂胆なんだろ。日新亭のハヤシライスが食べたいってよく泣いたのは誰だっけね。」私は子供の頃、ハヤシライス位旨いものは知らなかった。
その頃吉原ではたいていの家が都新聞を読んでいた。ちょうど「大菩薩峠」が連載されていて、私の家でもみんな愛読していた。おそらく新聞の読物としては、これほど作中人物が読者に馴染深く親しまれた小説も少ないのではないだろうか。竜之助、兵馬、お松、お君、お銀様、米友、七兵衛、それぞれに贔屓があった。子供の私は兵馬が好きで早く竜之助を討たせてやりたかった。祖父はまたムク犬がお気にいりであった。都新聞にはほかに誰が担当していたのかは知らないが、「見たり聞いたり」という欄があって、これは祖母が毎日楽しみにしていて、長火鉢の傍で老眼鏡をかけて音読していたのを覚えている。
お糸さんが家に来てからは、父のためにはお糸さんが午前中稽古の客の来ない折りに読んで聞かせていた。蔵の二階の稽古場でお糸さんが読んでいるのを、私は梯子段の中途に腰かけてこっそり聞いたこともある。「巧く仕組んでいるものだね。」とか、また三面記事でも読んでもらっているのであろう、「可哀そうに。」と父が云うのが聞えることもあった。お糸さんはまた父のために新聞のほかにも本を択んで、暇をみては日課のようにして読んで聞かせていた。お糸さんが使っていた用箪笥の上に「草枕」や「彼岸過迄」が載っているのを見つけて、私も借りて自分で読んでみた。私がそんな本を読んだのはそのときが初めてであったが、自分に解る程度に読んでいて結構面白かった。「彼岸過迄」の中にある、雨の降る日に子供を亡くしたので雨の日には訪問客に会わないという話なども、子供心に印象深く残った。また「草枕」では床屋のくだりが面白くて繰返し読んだ。床屋の親爺が「竜閑橋ってのは名代の橋だがなあ。」と口惜しそうに云うのが、読んでいてとても可笑しかったものだ。「彼岸過迄」の中に「高等遊民」という言葉が出てくるが、「高等遊民ってなあに?」とお糸さんに訊いたら、一寸考えてから、「お祖父さんのような人のこと。」と笑いながら云った。お糸さんは私がそういう本に興味を示すのを見て云った。「清ちゃんはわせのように見えるところもあるけれど、ほんとはおくてなのね。」けだし知己の言であろう。お糸さんは自分からは私にそういう読書を慫慂するようなことはなかった。
私はまた時折お糸さんから習字の稽古をしてもらうようになった。お糸さんはこないだまで、麻布六本木にいるさる書道の先生の許に久しく学んでいたそうで、母が私のために思いついたのであった。お糸さんは私の書く字を見て手筋がいいと褒めてくれた。平素好ましく思っている人から聞いたこの支持の言葉は、その後長く私の頭にこびりついていて、字の上手と下手とでは少くとも月給が拾円は違うと、当時の相場に掛けてわが悪筆を人から憫れまれるようになってからも、私の自信の源になっていたのだから、おかしなものである。お糸さんは私のお手本には智永の千字文を択んでくれた。
四月八日の花まつりにはお糸さんと一緒に竜泉寺町の大音寺に甘茶をもらいに行った。甘茶をもらいに行くのは私の役目で、まえの年にはなかやと一緒に行った。この年毎の灌仏会の行事は私の家などでも嘉例の一つになっていた。単に甘茶をもらってくるだけのことであったが、つい外すというわけにも行かなかったのは、以前貸座敷業を営んでいたときの縁起を祝う習慣が残っていたからであろう。吉原ではたいていの家が、わざわざ浅草の観音さままで出向かずに、近間の大音寺で間に合わせていたようである。もっともこの寺は三の輪の浄閑寺と同じく遊女の骨を埋めた処で、むかしから廓とは因縁浅からぬものがあったからでもあろう。「たけくらべ」に「大音寺前と名は仏くさけれど」とあるのがそれである。甘茶をもらって家に帰ると私にはもう一つやる仕事があった。半紙を短冊形に切って、それに「千早振る卯月八日は吉日よ、さきがけ虫を成敗ぞする。」という文句を虫という字をさかしまに書いて、それを台所の柱に貼りつけるのである。さきがけ虫とは如何なる虫ぞ、なんの禁厭であったか覚えていないが、妙なことをしたものである。まえの年に書いた煤けたやつをきれいに剥ぎとって、その跡へ新規に貼るわけである。祖母は「お糸さん。折角ですが、お前さんも一筆。」と云って、お糸さんにも一枚書いてもらって、へっついの後の柱と冷蔵庫の横の柱と二箇所に貼りつけた。私たちの仕事の終るのを見ていた祖母は、えらい労でも犒うように「御苦労さん。」と云った。その一安心したようなまじめ顔を見ると、私もなにか一仕事したような気持になった。
吉原の縁日は午の日で土地柄賑やかな夜店が出た。その日には界隈の町の人たちも、大門口から五丁目の非常門から裏門からそれぞれ詰めかけてきて、素見客の仲間も常よりは多くその賑いは格別であった。夜店商人は夕方の三時頃からぼつぼつ検査場横の空地に集まってきた。荷車を引いてくる者、自転車を利用している者、大風呂敷を背負って徒でくる者、さまざまであった。いい加減集まったところでくじ引きをして、各自割当てられた場所へ荷を運ぶ。植木屋だけはいつもひとかたまりになって、夜店の列の尽きるあたりに店を出していた。この場所ぎめの際の一喜一憂する表情は見ていて面白かった。くじ運のいいとわるいでは、その夜の商いに覿面にひびくわけである。夜店の並ぶ場所は、震災後もずっと後になっては水道尻に限られたが、その頃は仲の町から水道尻一帯にかけてであった。ただ桜や菊の季節にはその美観を守るために、仲の町を避けて貸座敷のある通りに移った。
子供の私たちが、午の日を楽しみにして待つ気持と云ったら、なかった。そのまえの日から明日の天気を気にして、翌朝起きてみて雨が降っていればがっかりして、それでも夕方までには晴れてくれないかしらと未練がましく思ったりしたものだ。その日にはこの界隈にくる豆腐屋もラッパを吹いたあとで、「とうふイ、生揚、雁もどき、こんちは午の日。」と常よりは愛想のいい声を出した。
夕飯を食べてから、のぶちゃんが迎えにきたので、お糸さんと三人で出かけた。のぶちゃんに聞くと、はじめさんは夕飯もそこそこにして飛び出して行ったそうである。
「のぶちゃんは兄さんがあっていいわねえ。」とお糸さんが云ったら、のぶちゃんはかぶりを振って、「うちの兄さんはとても意地悪なのよ。あたしをからかってばかりいるの。問屋の番頭さんからお小遣いをもらったからって見せびらかしたりして。」と不服そうに云った。
あまり年の違わない兄妹はそういうものなのかも知れない。大人になればまた違うのであろうが。そう云えばはじめさんは、私とのぶちゃんが遊んでいるときなど、ふいに物蔭から出てきて、のぶちゃんの頬っぺたを突いたりして、「のぶ公の阿多福やい。お洒落しゃれても惚れ手がないよ。お臍が出べそで嫌われた。」そんなことを云って囃したてては、のぶちゃんにべそを掻かせたりしたものだ。
私はいちど学校の帰りに、はじめさんから誘われて、寄り道をしてはじめさんのお母さんがそこの内職をしている馬道の玩具問屋へ行ったことがある。はじめさんのお母さんからそこの番頭さんになにか託けがあったのである。番頭さんは二人に金平糖のお菓子をくれて、そのうえはじめさんには拾銭白銅を一つお駄賃にくれた。はじめさんは大事そうにそれを兵児帯の間にくるんで、帰る途々落しはしないかと時々手で触りながら、「ぼくは来年学校を出たら、あの問屋さんに奉公に行くんだよ。どうせぼくは勉強が出来ないんだから仕方がないや。清ちゃんは中学校へ行くんだろう。おっ母さんはね、番頭さんがいい人で気心が知れているからあの問屋さんがいいって云うんだよ。番頭さんはぼくがお使いをするたんびにお駄賃をくれるんだ。」と云った。
角町の稲本楼の前に出ていた馴染の本屋で買物をしていたときに、はじめさんが実さんと連れ立ってくるのに逢ったが、はじめさんはわざとそっぽを向いて、チエッ、チエッと云って行き過ぎた。女臭くてかなわねえやと云わんばかりのそぶりであった。のぶちゃんは顔色を曇らせて、私たちの気を兼ねるように、「どうして、うちの兄さんは、ああいけずだか。」と云ったが、その口振りには日頃の母親の嘆息をそのまま踏襲しているようなふしが見えた。
本屋で私はその頃発刊されていた『良友』という少年雑誌を、のぶちゃんは『少女世界』を、そしてお糸さんは古い『新小説』を二冊買った。お糸さんはまた小間物屋でのぶちゃんに根掛を買ってやった。
あくる朝私が御飯を食べていると、いつものように、「清ちゃん、学校へ行かないか。」と節をつけて呼ぶはじめさんの声が聞えた。学校へ行く道ではじめさんは、「清ちゃんはきのう午の日でなにを買ったの? ぼくはこれを買った。」と云って、鞄から三輪車の形をしている智慧の輪の玩具を取出して見せた。
その日の夕方私はお歯ぐろ溝に落ちた。実さんやはじめさんやのぶちゃんなどと溝のふちにいて、一元楼の蔵移しの工事を見ていたときに落ちた。私の家の隣りは一元の寮で、庭中いっぱいに大がかりに菊の栽培をしていた。季節に仲の町を飾る菊もここの庭のものであった。京二では宝来楼一元楼などは、お歯ぐろ溝を境にして店と寮とが別れていた。私の家などもかつてはそうであったが、店の方を人に譲ってから寮の庭を解放してそこに長屋を建てたわけなのである。はじめさんの家は長屋のいちばんはずれの溝際で、私たちはその窓下に集まって遊んでいたのである。お歯ぐろ溝は思いのほか深くて、あっと云う間に小柄な私は胸もとまで泥水の中に沈んでしまった。そのとき、工事に従事していた人足の人が駈けつけてくるよりも早く、直ぐ溝に飛び込んで私を引き上げてくれた人を見ると、助ちゃんであった。ちょうど私の家に稽古にきた帰りに通り合わせたのであった。
泥んこになって助ちゃんと私が帰ってきたので、家ではびっくりした。私たちはすぐ湯殿へ廻って躯を洗い、沸いていた湯に入った。私は溝に落ちたときには肝を潰したが、その驚きもしずまると、こうして助ちゃんといっしょに湯に入ったことが珍らしくて、「なかや。おもちゃ箱から椰子の実を持ってきて。」と大きい声で云ったら、なかやの返事はなくて「とぼけちゃいけないよ。」と私を叱る祖母の声が聞えた。椰子の実は祖父と仲のいい友達である京一の水鉄という水菓子屋の主人からもらったもので、私が湯に入るときに弄ぶ玩具の一つであった。私の気持ではそれで助ちゃんをもてなすつもりであった。
助ちゃんは私の背中を流してくれながら、
「清ちゃん。さっきのあの子はどこの子です?」
「あの子って?」
「清ちゃんのことを後から押した子ですよ。」
助ちゃんの云うことがわからないので、
「誰も押しゃあしないよ。」と云ってふりむいたら、そういう私の顔を見て、ふいに助ちゃんは黙ってしまった。
湯から出たら、汚れた二人の着物は既にお糸さんが洗濯して、物干竿に乾してあった。私は母から云われて改めて助ちゃんにお礼を云った。助ちゃんは「いい塩梅でした。あたしが通り合わせて。」と云って、それから如何にも感心したように、「清ちゃんはえらい。」と私のことを褒めた。私が自分を溝に突き落した友達のことを庇っていると云うのである。私には思いがけなかった。私は自分の不注意から落ちたとばかり思っていたから。助ちゃんにそう云われてもなにも思い当ることはないのである。
「誰も押さなかったよ。」とくりかえしたら、祖父があっさり、
「うん。押したというわけでもなかったのだろう。」
と云った。
祖父はまた、「助公。お前、着物を汚して気の毒したな。下帯まで汚れちまったろう。」と云って、祖母に云いつけて自分の着物を一揃助ちゃんのために出させた。助ちゃんはなにからなにまで祖父の物を身につけて帰った。助ちゃんが溝に飛び込む際に脱ぎ捨てた下駄は、のぶちゃんが持ってきてくれていた。
翌朝学校へ行きながら、のぶちゃんの話を聞くと、私が溝に落ちたのは後からはじめさんが押したからであった。はじめさんは、ほんとに押したのではない、押す真似をしただけだ。おっ母さんに云いつけたら承知しないぞとのぶちゃんを嚇かしたそうである。学校で休み時間に砂場で遊んでいたときに、不意にはじめさんが現れて、
「清ちゃん。ごめんね、ごめんね。」とひどく思いつめた口調で、私の顔を覗き込みながら云った。
「ううん。なんとも思っていないよ。」と云ったら、安心したらしく、いつもの快活な顔つきになって
「ぼくはただ清ちゃんをびっくりさせようと思っただけで、ほんとに落っことすつもりじゃなかったんだよ。」と云った。おそらくそれが真相であろう。押された当人にまるで覚えがなかったのだから。私としても腹の立つわけがなかったのである。
学校から帰ったら、ちょうど助ちゃんが稽古にきていて、離れでお糸さんが洗濯した助ちゃんの着物の綻びを繕っていた。そこにとり纏めてある下着や帯や足袋を見て、私が、
「これ、みんな助ちゃんの?」と訊いたら、お糸さんは、
「そうよ。あの溝の水は臭いわね。いまでも臭いが鼻についているようよ。」と云って、試すように、着物の袖口を鼻さきへ持っていって嗅ぐ真似をした。
「におう?」
「まさか。」
祖父がそばから、
「そうだろう。お歯ぐろ溝と云やあ、名代の溝だからな。それにふだん清やはじめが、たんと小便を仕込んでいるだろうから。清が落ちたのは天罰だが、助公もまたよく飛び込んだものじゃないか。」
吉原のお歯ぐろ溝は昔はとてもきれいで、川幅などもずっとひろく、家鴨がおよいでいたり、小舟がうかんでいたりして、その時分の花魁は小がいのお椀いっぱいの水で、口をそそぎ顔を洗ってうらの川にすてたところから、そういう名前もできたのだそうであるが、私たちのたけくらべ時代には、そんな錦絵にでもありそうなおもかげはさらになくて、ただの汚い溝川でしかなかった。
やがて稽古をすませて助ちゃんがきた。助ちゃんは昨日帰ったときの服装のままで、祖父の着物を着ていた。着替の持合わせもなかったのかも知れない。助ちゃんはお糸さんに礼を述べて、
「それでは、おなかさんの部屋でも拝借して、一寸着かえさせて戴きます。」と云った。すると祖父が、
「助公。その着物はお前に遣ったんだ。水臭いぞ。それとも年寄りの肌につけたものはいやなのか。」
助ちゃんはあわてて、
「いいえ、とんでもない。有難く頂戴します。」
「まんざら、着られないこともないだろう。」
「ほんとに、助ちゃんによく似合いますわ。」
「そうですか。どうも有難うござんした。」
助ちゃんは自分の衣類を風呂敷包にして帰った。私は助ちゃんが涙ぐんでいたように見えたので、
「助ちゃんたら、泣いているの。」と云ったら、祖父は笑いながら、
「お糸にやさしくしてもらったせいだろう。」
「いいえ。助ちゃんはおじさんのことが好きなんですわ。」とお糸さんは真顔で云った。
その日を境にして助ちゃんの足が一寸跡絶えた。毎日のように来ていた者が顔を見せなくなるのは気がかりなもので、祖父は助公の奴どうしたのだろう、具合でも悪いのじゃあるまいかと心配していた。そのうち父の弟子の中ではいちばん古参の越春さんが助ちゃんの消息をもたらした。その話によると、当時助ちゃんは浅草公園のある色物席に臨時に出演しているということであったが、それがちょっと変っていた。
「御隠居さん。一体なにをやっていると思いますか?」と越春さんは云った。
「まさか助公が手品をやりゃあしまい。」
「手品ならよござんすが、それが『ハイカラ壺坂』っていうんですから、呆れるじゃありませんか。」
「ふうん。『ハイカラ壺坂』とは助公も考えたもんだな。お里が髪をハイカラか女優髷にでも結っているのか?」
「冗談ごとじゃありませんわ。聴いている方が恥ずかしくなってくるんですから。御隠居さん、なんとかやめさせるわけには行かないでしょうか。お師匠さんの名折れにもなりますし、あたしたちだって外聞が悪いですわ。」
「そうか。そんなにひどいものか。それにしても席でよくやらしておくな。」
「それがよくしたもんで、お客には受けているようなんです。」
「それじゃ結構じゃないか。『ハイカラ壺坂』だろうと、『当世鰻谷』だろうと、客が来て木戸銭が取れれば結構じゃないか。なにも身過ぎ世過ぎだ。」
祖父が取合わないものだから、越春さんもそれきり話をやめた。私はまえにも助ちゃんの悪口を聞いたことがある。助ちゃんが父の許に稽古に来るようになった頃、誰かが助ちゃんのことを「稽古屋ゴロ」と云ったのを耳にして、母に「稽古屋ゴロってなあに?」と訊いたら、「子供はそんなことを知らなくともいい。」と叱られた。父の弟子は多く女弟子であったが、助ちゃんはいちばん新参でそのうえ肝腎の浄瑠璃があまり上手でなかったようだから、誰からも侮られていたようである。いまにして思えば、助ちゃんが祖父の「お得意」であったことを心よからず思っていた者もあったのかも知れない。
四五日して日曜日のこと、また越春さんがきて、助ちゃんのことで新しい話題をもたらした。浅草公園のある演芸場に出ている「どじょう掬い」の女芸人に助ちゃんが夢中になっているという噂を。越春さんは茶の間で祖母と話していた。
「惚れるにことを欠いて、どじょう掬いだなんて。」と祖母が露骨に眉を顰めた。
「阿呆でそのうえ悪擦れしているんですから、かないませんわ。」と越春さんは云った。越春さんは助ちゃんのことというと、なぜかむやみに反感を募らせる傾きがあったようだ。
私は縁側にいて水絵具で庭木の写生をしていたが、子供心に聞きづらい思いをした。人の心にはなぜ悪意や皮肉が巣くうのだろう。私は助ちゃんに対しては、こないだ溝に落ちたのを助けてもらったからということばかりではなく、まえからなんとなく親しみを感じていた。越春さんの話は私のその子供心を損うものであった。助ちゃんのことを口汚く云った言葉が、私に助ちゃんを侮る気を起こさせずに、反って大人同士の陰口を疎ましく思わせた。助ちゃんはなぜあんなに悪く云われなければならないのだろう。私はお糸さんを探してみたが、買物にでも出かけたのか、見えなかった。
私はお糸さんの顔を見れば気が晴れるように思った。お糸さんの眼や唇にかつて意地悪や冷淡の色が見えたことはなかったから。私は桜林へ行ってみた。桜の花は大方散り尽して葉桜になっている。遊んでいる子供の群の中に実さんやはじめさんの姿が見えなかったので、そこを去って、水道尻の通りを仲の町の方へ歩いて行ったら、京一の角にある時和泉という酒屋の前にのぶちゃんがいた。のぶちゃんは酒屋の前にあるポストによりかかって、独りでつまらなそうにお手玉をしていた。のぶちゃんは私が来たことに気がつかない。私はそっとポストのうしろに廻って、腕を伸ばして両掌でのぶちゃんの眼隠しをした。のぶちゃんはあっと低く叫んだが、眼隠しの掌をふりほどこうともせずに、
「だあれ?」私が押し黙っていると、くすくす笑い出した、
「清ちゃんでしょう。」
私は掌をのけた。
「やっぱり清ちゃんだ。すぐわかったわ。」
のぶちゃんはポストのわきに落ちたお手玉を拾いながら、私の顔を見上げた。見るとのぶちゃんの眼にはうすく涙が滲んでいる。
「なんだ、泣いていたの?」
「ううん。」
「でも涙が出ているじゃないか。」
「だって清ちゃんが、きつく眼を押したんですもの。」
「あ、そうか。ごめんね。」
「ううん。いいの。」
それでものぶちゃんはなんだかしょんぼりしているように見えた。
「またはじめさんと喧嘩したんだろ。」
「うそよ。兄さんはきょう浅草へ活動を見に行ったわ。」
「のぶちゃんはどうして行かなかったの?」
「あたし行きたくなかったの。清ちゃんはきょうはお稽古に行かないの?」
「うん。日曜には行かないんだ。」
「あら、そうね。忘れてたわ。」
私はのぶちゃんと話しているうちに、さいぜん越春さんの話を聞いたときのいやな気持を忘れてきた。
「ねえ、のぶちゃん。二人でどこかへ行こうか?」
「え?」
のぶちゃんはびっくりした顔をした。
「上野の山へ行こうか?」
私の誘いの意味がわかったので、のぶちゃんは嬉しそうにうなずいた。私はまえに実さんやはじめさんなどと、鶯谷から上野の山を抜けて道灌山まで遊びに行ったことがある。かえりには日暮里から三河島を通って帰ってきた。
「あ、そうだ、向島へ行こう。白鬚橋を渡って。」
のぶちゃんも不安と期待に眼を輝かせたが、ちょっと躊躇うように、
「いまから行くの?」
私たちはともどもに角海老の大時計を振り仰いで見た。十二時を廻っている。私はまだ昼御飯を食べていなかったが、いったん家へ帰って出直す気にはならなかった。のぶちゃんもおなかがすかないと云った。行くにしても家に無断でなければ気がすまない。私は云い出したときからその気であった。いそいそと同意したのぶちゃんを私はいつになく可憐に思った。
五十間の通りで小ふじさんがおかよさんという朋輩と連れ立って来るのに行き逢った。
「おや、おそろいでどこへ行くの? 今戸公園?」
「違うよ。内緒だよ。」
「内緒? いやだわね。まだ肩上げもとれない癖して、二人で駈落ちなんかしちゃだめよ。」
小ふじさんはおかよさんをかえりみて笑った。
山谷から橋場に出た。その日は好く晴れていたので、白鬚橋の上からは遠くに筑波山が見えた。私たちは川風に吹かれながら橋の欄干にもたれて、鐘ヶ淵の方からきた蒸気船が小松島の発着所に着いてまた言問の方へ向かって動き出すまで見ていた。私が夏泳ぎに行く水練場の在る処はこの少し上流で、千住の鉄橋の近くであった。その頃白鬚橋を渡るのには橋銭をとられた。向島側の橋の袂に関所のような小屋があって、そこで橋銭を徴集した。回数券なども発行していたようである。震災後しばらくしてから橋銭は不要になった。墨田堤に上ってから、私たちははじめは白鬚神社のある方へ行くつもりであったのをやめて、梅若の方へ行った。水神には私の親戚の家があった。けれども、ひとりならばともかく、のぶちゃんを連れては寄る気にならなかった。私たちは鐘ヶ淵のさきを墨田堤の尽きる辺りまで行き、荒川放水路に架かった堀切橋を渡って堀切の方まで行った。日曜のことなので放水路の堤には三々五々行楽の人の姿も見えた。私たちも一面に蒲公英や土筆の生えている堤の斜面に腰を下して、橋の袂の掛茶屋で買った餡パンをかたみに食べた。私たちもまだ稚かった。こんな子供じみた行動さえが、私たちにとっては一つの小さい冒険であった。私は自分に唆されたのぶちゃんが従順に附いてきたことに気をよくしていた。
それでも気がかりだったので、
「晩御飯までに帰ればいいね。」と云ったら、のぶちゃんは、
「ううん、いいのよ。遅くなってもかまわないわ。」と云った。
私たちは堤を下りて田舎道を四つ木の方へ歩いた。この辺りはまったく田舎である。小川があり土橋が架かり、水田があり木立がある。畑に耕す人の姿も見える。歩いているうちに私は駒下駄の鼻緒を切った。のぶちゃんは袂の中を探したが、鼻緒の代りになるものはなにも見つからなかった。すると、その道のほとりに煙草や荒物を商っている家があったが、店先に坐っていたお婆さんが私たちに呼びかけて、これでおすげなさいと云ってお手製の前つぼを呉れ、また火箸を貸してくれた。私はただ黙ってのぶちゃんがすげてくれるのを見ていた。私は内弁慶で外ではから意気地がない。知らない人とは口がきけなかった。私はのぶちゃんが私の代りに、はきはきと礼をいい、また器用に鼻緒をすげてくれるのに驚いた。
その家の傍には釣瓶井戸があったので、のどが渇いていた私たちは水を無心した。
「おばさん。水を飲まして下さいね。」とのぶちゃんが云ったら、お婆さんは、
「さあさあ、たんとおあがんなさい。」と云った。切髪のどことなく小意気なお婆さんであった。根からの近在者には見えなかった。
日が蔭ってきたので私たちはあわてて帰途についた。墨田堤を水神の森の方へ下りる坂みちのある処へきたときに、その坂を角隠をつけた花嫁の連れが四、五人提灯をさげて登ってくるのに行き逢った。花嫁は母親らしい人に附添われて目を伏せていた。一行は堤に出るとすぐまた反対側の坂を下りて行った。のぶちゃんは女の子らしくいつまでも見送っていたが、私が促すと小走りに走ってきて、無心に笑いながら私の掌の中に自分の掌をあずけた。なんの奇もない遠足であったが、私たちの幼心は満たされていた。
白鬚橋を渡った処に縄暖簾を下げた居酒屋があって、既に灯の点いた店の中には卓を囲んだ五六人の人影が見えた。物を煮る湯気と酒の匂いが往来にまで流れてくる。私たちはふいに里心にとりつかれたように足を早めた。
私たちが大門を入ったときには、もうまったく夜の帳が下りていた。私は仲の町の灯を見てほっとすると共に、ようやく家に近づくにつれて家の人の思惑が気になった。
「家へ帰ってから叱られないかい?」
「大丈夫よ。」
のぶちゃんの家の前に来た。のぶちゃんは私をかえりみて首をすくめて笑って見せてから、格子戸に手をかけた。のぶちゃんの後姿にはその臆した心がまる見えだ。私は背後に格子のあく音を耳にすると、長屋の前の敷石道を逸散に駈けだした。
家に帰ると茶の間にみんな集まっていて、口々にどこへ行った? とたずねられた。
「昼御飯を食べないでどこへ行ってたのさ。のぶちゃんも一緒だったのかい?」と母が云った。小ふじさんが家にきて、のぶちゃんと私を見かけたことを話して行ったのである。
「それで、水神の家へは寄ったのかい?」
「ううん。」
「寄ればよかったのに。お前、またなぜ黙って行くのさ。おかしな子だよ。お糸さんに御心配かけたよ。すみませんでしたってお詫びをしなさい。」
私は訴えるようにお糸さんを見た。お糸さんはなにもかも承知しているように頷いて、
「いいえ、いいの。もういいのね。あたしもお伴したかったわ。こんど清ちゃんに向島を案内していただくわ。お弁当をつくって行きましょうね。」
「お祖父さんがかまうものだから、とぼけた人間が出来そうだよ。」と祖母が云ったら、祖父は、
「馬鹿野郎。清はおれの孫だ。どんな人間になってもいい。おれの気に入らねえことだけはするな。」と云った。
なかやがきて「お直さんが見えました。」と云った。お直さんというのはのぶちゃんのお母さんである。立っていった母の後について行くと、裏口の格子戸の中にお直さんとのぶちゃんが立っていた。お直さんが詫びを云えば、私の母も詫びた。母はのぶちゃんに前垂の小切をあげた。そこへまたはじめさんが、お店から人が見えたと云って、お直さんを迎えにきた。はじめさんは私の顔を見ると、
「のぶ公はね、清ちゃんのように清元を習いに行きたいって云って、けさおっ母さんに叱られたんだよ。」
「うそよ、うそよ。」
「なにがうそだい。おっ母さんが浅草へ行ってこいって云っても、ふくれて行かなかったじゃないか。」
「兄さんの意地悪。」
のぶちゃんは泣きそうな顔になって、お直さんが、「なんだよ。お前たちは。」と云うより早く、「知らない。」と云うと格子戸をあけて逃げるように駈けだして行った。やがてお直さんもはじめさんも帰って行った。
祖父はおなかをすかしている私を日新亭へ連れて行ってくれた。祖父に連れられて行くのも久し振りであった。祖父は自分はスープを、私にはハヤシライスを誂えた。おかみが出てきて祖父に挨拶した。この人はいつも髪をハイカラ巻にしていた。私はこの人に尾久の大滝に連れていってもらったことがある。
「御隠居さん、しばらくお見かけしませんでしたね。清ちゃんも、いらっしゃい。来月はまたお祭ですね。今年は派手にやるそうですよ。」
「そうか。この節はすっかり引っ込んじまっているもんだから、さっぱり様子がわからない。」
「なんでも、歌舞伎見立の仮装行列を大掛りに催すって話だそうですよ。大文字屋の旦那がひどく乗気なんだそうです。」
「乗気はいいが、あの腰抜けじゃあ、行列には出られまい。」
当時の大文字屋の主人は神経痛で腰が立たず歩くことが出来なかった。
「それが御隠居さん、考えたものじゃありませんか。大文字屋さんの役だけはもう極まっているそうですが、なんだと思いますか? 鈴ヶ森の長兵衛なんですよ。」
「なるほど。駕籠で行くというわけか。腰抜けの考えそうなことだ。」
「相変らずお口が悪いですね。なんでしたら、御隠居さんも一役買ってお出になったら、いかがです?」
「馬鹿野郎。この年をして顔に白粉を塗れるか。」
祖父は見たり聞いたりすることは好きであったが、自分ではなに一つやらなかった。「お祖父さんは楽屋名人で江戸っ子の総元締のつもりでいるんだから。」と祖母がよく云い云いしたものだ。煙草はまるでやらず、酒は若い頃には無茶に飲んだこともあったようだが、五十を過ぎてからは殆ど盃を手にしなかった。
その夜帰りにお歯ぐろ溝に沿って歩いてきて一元楼の裏手に来たとき、祖父は思い出したように、「清、お前が落ちたのはここか?」と云い、いきなり溝の中に小便をしながら、「助公の奴、しばらく来ないなあ。」と呟いた。
月末に三の輪の新世界で巴会の例会があった。祖父は顔出しはしなかったが、私のために心配して、烏帽子籠に入れた長命寺の桜餅を来会者に配った。〽……足と橋場の明ちかき、はや長命寺の鐘の音も、というお染の段切の文句に因んだお土産で、お糸さんがわざわざ向島まで出向いて誂えてきてくれたものである。祖父は「おのぶと向島に道行をして、その後でお染を語るなんざあ、趣向が出来すぎている。」と云った。お糸さんは当夜も私に附いてきてくれて、なにかと世話を焼いてくれた。私のお染は幸にして評判がよかった。「清ちゃんの節廻しにはとても巧者なところがあるわ。」とお糸さんは褒めてくれた。
三社祭がすむとまもなく吉原神社の祭礼がある。当時の吉原は名物の花魁道中は既に廃止されていたが、まだ派手気の残っていた頃のことだから、祭礼の余興には芸者の手古舞、幇間の屋台踊などいろんな催しものがあった。その年は日新亭のおかみの話のように、貸座敷の楼主や台屋の有志の発起で、歌舞伎見立の仮装行列が大掛りに催されたが、思いがけなく私も一役振りあてられて、その行列に加わることになった。
祭の二、三日前に水鉄の主人が祖父の許に来て、仮装行列の話が出た。
「実はおれもその行列に出なきゃならねえ。」と水鉄のおじさんが云った。
「そいつは御苦労だな。大文字屋が長兵衛じゃあ、お前さんはさしずめ白井権八だろう。」
「ひやかしちゃいけねえ。年寄りの冷水だが、仕方がねえ。おれは高野物語だ。」
「高野物語というと、なんだな、石童丸か。お前さんが石童丸になるのか。」
「まさか。茶番じゃあるまいし。おれは苅萱よ。」
「昨日剃ったも今道心というやつか。柄になく信心気を出したもんじゃねえか。」
「なにも信心気でやるわけじゃねえ。いわば勤気よ。お前さんにしろおれにしろ、吉原じゃあ古狸だ。ところで、お前さんに頼みというよりは、清坊に頼みがあるんだが」と水鉄のおじさんはそばにいた私をかえりみて、「どうだろう? 石童丸に清坊を借りたいんだが。」
「お安い御用だが、石童丸にしちゃあ、清は大きかないか。」
「なに清坊は小柄だし、おとなしいし、石童丸は柄だ。それにおれは思い立ったときから石童丸は清坊ときめていたんだ。なあ清坊、お祭りの日にはおじさんと一緒に仲の町を歩いてくれ。べつになにをするわけじゃねえ。石童丸の態で歩くだけの話だ。」
私が困って返事をしないでいると、祖父も笑いながら、「水鉄の親方に見込まれたんじゃ、清も断るわけにはいかないな。」と云った。こんなわけで、私は仮装行列に出ることになった。
仮装行列の人数は百人近くの大勢で、衣裳、鬘なども本式のを損料で借り、芝居の衣裳付や床山が出張してきていて、当日私が本陣である大文字屋へ行ったときには、その庭先に助六、権太、法界坊、お嬢吉三、定九郎など、それぞれ扮装を凝らした連中が勢揃いしていた。大文字屋の主人は既に棒鼻へ「するがや」の提灯をさげた駕籠にどっかり納まっていた。水鉄のおじさんはと見れば、墨染の衣を着て浅黄縮緬の頭巾を冠り、片手に花桶片手に念珠、すっかり苅萱道心になり澄ましていたが、私を見ると、「や、石童丸が来た、来た。」と云った。
私はすぐに庭に敷いてある茣蓙の上で、手伝いに来ていた小みなさんという年増芸者から、石童丸の顔を拵えてもらった。稚児輪鬘をつけ、常盤御前の冠るようなあの塗笠にそれから杖を持つと、それで私の仕度は出来上った。
水鉄のおじさんは私のそばに並んで立って、ちょっと型をして、
「どうだ、宗十郎に似てやしないか。」と云って笑った。小みなさんが、
「清ちゃん。あたしの口真似をしてごらん。」
「なあに?」
「いいかい? それ、このみ山に、」
「このみ山に、」
「今道心、」
「今道心、」
皆んな笑った。
私たちはすっかり仕度の出来たところで、記念写真を撮って、それから行列を繰り出した。私は水鉄のおじさんと並んで歩いた。私ははじめは恥ずかしくてすこし取り上せていたが、歩いているうちにそれほどでもなくなった。ひとつは素顔でないことが、私を厚顔にしていたのであろう。あとで聞くと、のぶちゃんも行列を見ていて私に気づいたそうである。廓内を一廻りしてから大文字屋に戻って解散した。私は着物を着かえると、白粉もろくに落さずに、家に飛んで帰った。
やはり御輿を担がなければ、お祭のような気がしない。私は盲縞の腹がけをつけ、黒繻子の襟に「小若、花園」とひなたとかげに染め抜いた浅黄縮緬の祭絆纏を羽織り、豆絞りの手拭を喧嘩かぶりにして、また家を飛び出した。この祭着は私のためにお糸さんが前から用意して縫いあげてくれたもので、お糸さんは私のその恰好を見て、「まるで、お祭佐七のようよ。」と冗談を云った。
水道尻では君津楼の寮の前に、御輿や四神剣が飾ってあった。私が駈けつけたときは、ちょうどこども御輿を担ぎ出すところで、吉原つなぎのお揃いを片肌脱ぎにした、向う鉢巻きのはじめさんが、私を見かけて、「清ちゃん、早くおいで。」と誘い込んでくれた。はしなくも幼友達の名をわが思い出の一齣のうちにしるしとどめる折りに遇った。御輿を担ぐ面々はみな私の竹馬の友である。実さんやはじめさんを始め、村山(医院)の豊ちゃん、君津(貸座敷)の甚ちゃん、もち尾張(菓子屋)の保ちゃん、長金花(貸座敷)の敏男さん、長島(芸者家)の富ちゃん、加藤(写真屋)の正ちゃん……この加藤という写真屋のことは、「たけくらべ」に正太が美登利に向って水道尻の加藤でいっしょに写真をうつそうと云うくだりがある。並んで肩を入れた私の耳にはじめさんは思いがけないことを囁いた。「揚屋町の御輿に逢ったら、喧嘩をやるんだよ。」私たち子供の間では、水道尻近辺に住む者と五丁町の中央に住む者とは、ふだんいっしょに遊ばなかった。もとより目立った敵対の感情があるわけではなかったが、なんとなくお互いに反感を感じていた。「揚屋町のやつらは、お歯ぐろ溝からこっちは吉原じゃねえと思っていやがる。」とはじめさんは大人ぶった口をきいて、れいによって団十郎をきめこんだものである。反感の対象として揚屋町の名が代表されるのは、揚屋町の鯉松の横で紙芝居を見物する折りなどに、むこうの連中に大きい顔をされるからであった。その代り桜林で遊ぶときには、わが縄張りとばかり、こちらの威勢を示した。通う学校なども、むこうは土手向うの待乳山、こちらは千束というように別れていた。
京一の通りからはじめて五丁町を「わっしょい、わっしょい。」担ぎ廻っているうちに、仲の町の大忠(震災の時吉原ではこの茶屋の土蔵だけ焼け残った)の前で、向うから目指す敵の揚屋町の御輿がやってくるのに行き逢った。はじめさんは「や、揚屋町のやつらが来やがった。」と云って、白柄組の旗本を見かけた幡随院の身内のような顔つきをした。私はどうなることかとひやひやしたが、流石にいざとなるとみんなも陰で意気込んだほどのことはなくて、無事に擦違いかけたが、瞬間申訳けみたいな形で私たちの御輿の棒鼻が相手の方へ突き出された。「おっと、危い、危い。」と云って、こども御輿の宰領をしていた四番組のデブ頭と若い衆の徳さんが、棒鼻に手をかけて御輿を押し戻した。そのとき、はずみで御輿が大きく傾いたが、私は右足に鋭い痛みを感じてよろめいた。私はそこに落ち散っていた硝子の破片を踏みつけてしまったのである。血がなかなか止まらなかった。お祭佐七は意気地なく青くなってしまった。徳さんはそういう私を背負って水道尻の村山医院に連れていってくれた。私は豊ちゃんのお父さんから治療をうけ、足に大袈裟な繃帯をされて、また徳さんにおぶさって家に帰った。
祖母は私のきまりの悪い気持には容赦なく、「意気地なしだね。それっぽっちの怪我で、御輿が担げないようでどうするんだ。」と云った。母は父の名の印の入っている絆纏を徳さんにお礼にあげた。私は最前怪我をした際に、私をおいてけぼりにして仲間の御輿が遠ざかって行ったときのことを思うと、面白くなかった。お糸さんは手古舞を見に出かけてしまっていたし、祖父の許には客が来ていた。私はふと父の許に行ってみる気になった。蔵の二階に上ってみたら、父は検査場の方から祭り囃子の聞えてくる窓べにもたれて、背なかをまるくして、口三味線で小声になにやら唄っていた。父のその姿を見たら、私はいたずら心をそそられて、そっとしのび寄ってわっと云って背なかにとりついたら、父は一寸びっくりして、
「なんだ、清か。」と云った。「お前、お祭なのに遊びに行かないのか。」
「おみこしを担いで、怪我しちゃったんだよ。ほら、こんなに。」
私は足の大袈裟な繃帯に父の手を触れさせた。父はまじめに心配して、
「ばかだねえ。気をつけなきゃ駄目じゃないか。」
私はふと思いついて、
「お父つぁん、本を読んであげようか。」
父は迷惑そうに、
「いいから、下へ行って遊んでおいで。」
「いいよ。読んであげるよ。とても面白いんだから。」
私はお糸さんから借りた「坊ちゃん」を持ってきて音読した。読みながら押しつけるように、「面白いだろ。」と云ったら、父は仕方なさそうに、うん、うんとうなずいた。
そのとき検査場の方から、わあという人のどよめきが聞えた。なんだろうと思って窓から躯を乗り出したら、「あぶないよ。」と云って父が私の兵児帯をとらえた。父の力は意外に強かった。私たちはすこしの間そのままの姿勢でいた。するとふいに父が後から私を抱きしめて、私の背なかに熱い「お灸」を据えた。私は小さいときよく本物のお灸も据えられたが、また父はよく冗談に私をとらえて、私の背なかに自分の口を押しあて強く息を吐きかけては、「お灸だよ。」と云ったりした。父の吐く息が着物を透して背なかにあたたかく感ぜられる。私は「お灸」を据えられる度にくすぐったがったものだが、そんなに嫌いでもなかった。私はもうお灸を据えられる年でもなかったが、そのとき久し振りにその「お灸」を据えられたのであった。
底本:「落穂拾い・犬の生活」ちくま文庫、筑摩書房
2013(平成25)年3月10日第1刷発行
底本の親本:「小山清全集」筑摩書房
1999(平成11)年11月10日発行
初出:「文学界 第五巻第七号」文藝春秋
1951(昭和26)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
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校正:酒井裕二
2017年8月25日作成
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