雨瀟瀟
永井荷風
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その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の厄日もまたそれとは殆ど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西日に蜩の声のみあわただしく夜になった。夜になってからはさすが厄日の申訳らしく降り出す雨の音を聞きつけたもののしかし風は芭蕉も破らず紫苑をも鶏頭をも倒しはしなかった──わたしはその年の日記を繰り開いて見るまでもなく斯く明に記憶しているのは、その夜の雨から時候が打って変ってとても浴衣一枚ではいられぬ肌寒さにわたしはうろたえて襦袢を重ねたのみか、すこし夜も深けかけた頃には袷羽織まで引掛けた事があるからである。彼岸前に羽織を着るなぞとはいかに多病な身にもついぞ覚えたことがないので、立つ秋の俄に肌寒く覚える夕といえば何ともつかずその頃のことを思出すのである。
その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心にも留めず成りゆきのまま送って来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であろう。これから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代りまたさして悲しい事も起るまい。秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くようにわたしの一生は終って行くのであろうというような事をいわれもなく感じたまでの事である。わたしはもうこの先二度と妻を持ち妾を蓄え奴婢を使い家畜を飼い庭には花窓には小鳥縁先には金魚を飼いなぞした装飾に富んだ生活を繰返す事は出来ないであろう。時代は変った。禁酒禁煙の運動に良家の児女までが狂奔するような時代にあって毎朝煙草盆の灰吹の清きを欲し煎茶の渋味と酒の燗の程よきを思うが如きは愚の至りであろう。衣は禅僧の如く自ら縫い酒は隠士を学んで自ら落葉を焚いて暖むるには如かじというような事を、ふとある事件から感じたまでの事である。
十年前新妻の愚鈍に呆れてこれを去り七年前には妾の悋気深きに辟易して手を切ってからこの方わたしは今に独で暮している。興動けば直に車を狭斜の地に駆るけれど家には唯蘭と鶯と書巻とを置くばかり。いつか身は不治の病に腸と胃とを冒さるるや寒夜に独り火を吹起して薬飲む湯をわかす時なぞ親切に世話してくれる女もあらばと思う事もあったが、しかしまだまだその頃にはわたしは孤独の佗しさをば今日の如くいかにするとも忍び難いものとはしていなかった。孤独を嘆ずる寂寥悲哀の思はかえって尽きせぬ詩興の泉となっていたからである。わたしは好んで寂寥を追い悲愁を求めんとする傾さえあった。忘れもせぬ或年……やはり二百二十日の頃であった。夜半滝のような大雨の屋根を打つ音にふと目を覚すとどこやら家の内に雨漏の滴り落るような響を聞き寝就かれぬまま起きて手燭に火を点じた。家には老婢が一人遠く離れた勝手に寝ているばかりなので人気のない家の内は古寺の如く障子襖や壁畳から湧く湿気が一際鋭く鼻を撲つ。隙漏る風に手燭の火の揺れる時怪物のようなわが影は蚰蜒の匐う畳の上から壁虎のへばり付いた壁の上に蠢いている。わたしは寝衣の袖に手燭の火をかばいながら廊下のすみずみ座敷々々の押入まで残る隈なく見廻ったが雨の漏る様子はなかった。枕に聞いたそれらしい響は雨だれの樋から溢れ落ちるのであったのかも知れぬ。わたしは最後に先考の書斎になっていた離れの一間の杉戸を開けて見た。紫檀の唐机水晶の文鎮青銅の花瓶黒檀の書架。十五畳あまりの一室は父が生前詩書に親しまれた当時のままになっている。机の上にひろげられた詩箋の上には鼈甲の眼鏡が亡き人の来るを待つが如く太い片方の蔓を立てていた。本棚の蠧を防ぐ樟脳の目にしむ如き匂いは久しくこの座敷に来なかったわたしの怠慢を詰責するもののように思われた。わたしは斑竹の榻に腰をおろし燭をかざして四方の壁に掛けてある聯や書幅の詩を眺めた。
碧樹如クレ煙ノ覆フ二晩波ヲ一。清秋無クレ尽ル客重テ過グ。
故園今即如シ二煙樹ノ一。鴻雁不レ来ラ風雨多シ。
これは今なお記憶を去らぬ書幅の中の一首を記したに過ぎない。わたしはいつか燭もつき風雨も夜明けと共に鎮まる頃まで独り黙想の快夢に耽っていた。
正月二日は父の忌辰である。或年の除夜翌朝父の墓前に捧ぐべき蝋梅の枝を伐ろうとわたしは寒月皎々たる深夜の庭に立った。その時もわたしは直にこの事を筆にする気力があった。
長年使い馴れた老婢がその頃西班牙風邪とやら称えた感冒に罹って死んだ。それ以来これに代わるべき実直な奉公人が見付からぬ処からわたしは折々手ずからパンを切り珈琲を沸しまた葡萄酒の栓をも抜くようになった。自炊に似た不便な生活も胸に詩興の湧く時はさして辛くはなかった。わたしは銀座の近辺まで出掛けた時には大抵精養軒へ立寄ってパンと缶詰類を買って帰る。底冷のする雪もよいの夜であった。二斤ほど買ったパンは焼いたばかりのものと見えて家へ帰るまで抱えた脇の下から手の先までをほかほかと好い工合に暖めてくれた。精養軒の近処は夜となれば芸者の往来がはげしい。わたしはかつて愛誦した『春濤詩鈔』中の六扇紅窓掩不レ開──妙妓懐中取レ煖来という絶句を憶い起すと共に妓を擁せざるもパンを抱いて歩めばまた寒からずと覚えず笑を漏らした事もあったほどである。
詩興湧き起れば孤独の生涯も更に寂寥ではない。貧苦病患も例えばかの郎士元が車馬雖レ嫌レ僻。鶯花不レ棄レ貧といい、白居易が貧堅志士節。病長高人情というが如き句あるを思い得ばまた聊か慰めらるる処があろう。しかし詩興はもとより神秘不可思議のもの。招いて来らず叫んで応えるものでもない。されば孤独のわびしさを忘れようとしてひたすら詩興の救を求めても詩興更に湧き来らぬ時憂傷の情ここに始めて惨憺の極に到るのである。詩人平素独り味い誇る処のかの追憶夢想の情とても詩興なければ徒に女々しき愚痴となり悔恨の種となるに過ぎまい。
わたしは街を歩む中呉服屋の店先に閃く友禅の染色に愕然目をそむけて去った事もあった。若き日の返らぬ歓びを思い出すまいと欲したがためである。隣の家から惣菜の豆煮る匂いの漂い来るにわたしは腹立たしく窓の障子をしめた事もあった。かつてはわれも知った団欒の楽しみを思い返すに忍びなかったからである。庭に下りて花を植る時、街の角に立って車を待つ時、さては唯窓の簾を捲かんとする時吹く風に軽く袂を払われても忽征人郷を望むが如き感慨を催す事があった。かくては風よりも月よりも虫の声よりも独居の身に取って雨ほど辛いものはあるまい。わたしは或日の日記に、
久雨尚歇まず軽寒腹痛を催す。夜に入つて風あり燈を吹くも夢成らず。そゞろに憶ふ。雨のふる夜はたゞしん〳〵と心さびしき寝屋の内、これ江戸の俗謡なり。一夜不レ眠孤客耳。主人窓外有二芭蕉一。これ人口に膾炙する少杜の詩なり。また憶ふ杜荀鶴が、半夜燈前十年事。一時和レ雨到二心頭一。然り雨の窓を打ち軒に流れ樹に滴り竹に濺ぐやその響人の心を動かす事風の喬木に叫び水の渓谷に咽ぶものに優る。風声は憤激の声なり水声は慟哭なり。雨声に至りては怒るに非ず嘆くに非ず唯語るのみ訴ふるのみ。人情千古易らず独夜枕上これを聴けば何人か愁を催さゞらんや。いはんやわれ病あり。雨三日に及べば必ず腹痛を催す。真に断腸の思といふべきなり。王次回が『疑雨集』の律詩にいへるあり。
病骨真成二験雨ノ方ト一。呻吟燈背和ス二啼螿ニ一。
凝塵落葉無妻ノ院。乱帙残香独客ノ牀。
附贅不レ嫌如キヲ二巨瓠ノ一。徒𤶛安ゾ忍ンヤ累スニ二枯腸ヲ一。
唯応シ二三復ス一南華ノ語。鑑レ井蛢𧕇是薬王。
この詩正しくわれに代って病中独居の生涯を述ぶるもの。故に復これを録す。
その年二百二十日の夕から降出した雨は残りなく萩の花を洗流しその枝を地に伏せたが高く延びた紫苑をも頭の重い鶏頭をも倒しはしなかった。その代り二日二晩しとしとと降りつづけた揚句三日目になってもなお晴れやらぬ空の暗さは夕顔と月見草の花のおずおず昼の中から咲きかけたほどであった。物の湿ることは雨の降る最中よりもかえって甚しく机の上はいつも物書く時手をつくあたりのとりわけ湿って露を吹き筆の軸も煙管の羅宇もべたべた粘り障子の紙はたるんで隙漏る風に剥れはせぬかと思われた。彼岸前に袷羽織を取出すほどの身は明日も明後日ももしこのような湿っぽい日がつづいたならきっと医者を呼ばなければなるまい。病骨は真に雨を験するの方となる。しかしわたしは床の間に置き捨てた三味線のふと心付けば不思議にもその皮の裂けずにいたのを見ると共に、わが病躯もその時はまた幸例の腹痛を催さぬ嬉しさ。三日ほど雨に閉籠められた気晴しの散歩かたがたわたしは物買いにと銀座へ出掛けた。
わたしはその雅号を彩牋堂主人と称えている知人の愛妾お半という女がまた本の芸者になるという事を知ったのは、鳩居堂で方寸千言という常用の筆五十本線香二束を買い亀屋の舗から白葡萄酒二本ぶらさげて外濠線の方へ行きかけた折であった。
曇った秋の日は暮れるに早い。家の門を明けると軒にはもう灯がついていた。わたしは抱えて戻った葡萄酒の栓を抜いて直様夕飯をすますと煙草ものまずに巻紙を取り上げた。
拝呈その後は御無音に打過ぎ申訳も無之候。諸処方々無沙汰の不義理重なり中には二度と顔向けさへならぬ処も有之候ほどなれば何とぞ礼節をわきまへぬは文人無頼の常と御寛容のほど幾重にも奉願上候。実は小生去冬風労に悩みそれより滅切り年を取り万事甚懶く去年彩牋堂竣成祝宴の折御話有之候薗八節新曲の文章も今以てそのまゝ筆つくること能はず折角の御厚意無に致候不才の罪御詫の致方も無御座候。されば本業の小説も近頃は廃絶の形にて本屋よりの催促断りやうも無之まま一字金一円と大きく吹掛けをり候ものゝ実は少々老先心細くこれではならぬと時には額に八の字よせながら机に向つて見る事も有之候へども一、二枚書けば忽筆渋りて癇癪ばかり起り申候間まづ〳〵当分は養痾に事寄せ何も書かぬ覚悟にて唯折節若き頃読耽りたる書冊埒もなく読返して僅に無聊を慰めをり候次第に御座候。寝ては起き起きては物食ひその日その日を送行く事さへ実は辛くてならぬ心地致され候。それ故三味線も切れたる糸掛換へるが面倒にてそのまゝ打捨て鶯も先日鳥屋へ戻し遣申候。有楽座始め諸処の演奏会は無論芝居へも意気な場所へも近頃はとんと顔出し致さず従て貴兄の御近況も承る機会なくこの事のみ遺憾に堪申さず候。しかしその後は薗八節再興の御手筈だん〳〵と御運びの事と推察仕をり候処実は今夕偶然銀座通にてお半様に出遇ひ彩牋堂より御暇になり候由承り、あまりといへば事の意外なるに驚愕仕候次第。もとより往来繁き表通の事わけても雨もよひの折からとて唯両三日中には鑑札が下りませうからとのみ如何なる訳合にや一向合点が行き申さず。余りに不思議に候まゝ御無沙汰の御詫に事寄せくだ〳〵しくお尋申上候もとかく人の噂聞きたがるは小説家の癖と御許被下たくいづれ近々参堂御機嫌伺上たく先は御無沙汰の御詫まで匇々不一
封筒に切手を張っている時折好く女中が膳を取片づけに襖を開けた。食事をしたせいか燈火のついたせいかあるいは雨戸を閉めたせいでもあるか書斎の薄寒さはかえって昼間よりも凌ぎやすくなったような気がした。しかし雨はまたしても降出したらしい。点滴の音は聞えぬが足駄をはいて女中が郵便を出しにと耳門の戸をあける音と共に重そうな番傘をひらく音が鳴きしきる虫の声の中に物淋しく耳についた。点滴の音もせぬ雨といえば霧のような糠雨である。秋の夜の糠雨といえば物の湿ける事入梅にもまさるが常とてわたしは画帖や書物の虫を防ぐため煙草盆の火を掻き立てて蒼朮を焚き押入から桐の長箱を取出して三味線をしまった。そのついでに友人の来書一切を蔵めた柳行李を取出しその中から彩牋堂主人の書柬を択み分けて見た。雨の夜のひとり棲みこんな事でもするより外に用はない。
彩牋堂主人とは有名な何某株式会社取締役の一人何某君の戯号である。本名はいささか憚あればここには妓輩の口吻に擬してヨウさんといって置こう。わたしとは二十年ほど前米国の或大学で始めて知合になった。ヨウさんは日本の大学に在った頃俳人としてその道の人には知られていた。今でも折々名句を吐くのでもしヨウさんの俳号をいえばこの方でも知る人は必ず知っているに違いない。しかし彩牋堂なる別号は恐らく私の外には誰も知らないであろう。いわんや今では彩牋堂なるその家は在っても住むものなくヨウさんは再びその名を用ゆる折がなくなってしまったのである。彩牋堂の由来は左の書簡中に自ら説明せられてある。
拝啓御新作出勤の途次車上にて拝読致候。倉皇の際僅に前半の一端を窺ひたるのみに御座候得ども錦繍の文章直に感嘆の声を禁じ得ず身しばしば自動車の客たる事を忘れ候次第忙中かへつてよく詩文の徳に感じ申候。目下新緑晩鶯の候明窓浄几の御境涯羨望の至に有之候。さて旧臘以来種々御意匠を煩はし候赤坂豊狐祠畔の草庵やつと壁の上塗も乾き昨日小半新橋を引払ひ候間明後日夕景よりいつもの連中ばかりにて聊か新屋落成のしるしまで一酌致たく存候間御迷惑ながら何とぞ御枉駕の栄を得たく懇請奉候。当夜は宮薗千斎は無論の事宇治紫仙都吾中らも招飲致候間お互に親類のおつきあひその御覚悟十分しかるべく候。電話も今明日中には通ずべきはづ芝○○番に御座候由御面倒ながら貴答に接するを得ば幸甚々々
二伸 かの六畳土庇のざしき太鼓張襖紙思案につき候まゝ先年さる江戸座の宗匠より売付けられ候文化時代吉原遊女の文殻反古張に致候処妾宅には案外の思付に見え申候。依てかの家を彩牋堂とこじつけ候へども元より文藻に乏しき拙者の出鱈目何か好き名も御座候はゞ御示教願はしく万々面叙を期し申候
ヨウさんは金持であるが成金ではない。品格もあり学問もあり趣味には殊に富んでいる。わたしの処へ寄越す手紙にはその用件の次第によって時々異った雅号が書かれてあるがそれを見てもヨウさんの趣味と学識の博い事が分る。いつぞやわたしが天明時代の江戸の書家東江源鱗の書帖の事について問合した事があった時ヨウさんはその返事に林檎庵頓首と書いて来た。沢田東江の別号来禽堂から思いついた戯れであろう。自動車が衝突した時見舞の返書に富田塞南と書いて来た事もあった。次に録する手紙に半兵衛とあるのは「口舌八景」を稽古していたためとまた芸者小半の事にかかわっているからであろう。
昨夜はまた〳〵無理に御引留致しさぞかし御迷惑の段御容赦被下たく候。人生五十の坂も早や間近の身を以て娘同様のものいつも側に引付けしだらもなき体たらく耻し気もなく御目にかけ候傍若無人の振舞いかに場所がらとは申ながら酒醒めては甚赤面の至に御座候。しかし放蕩紳士が胸中を披瀝致候も他日雅兄小説御執筆の節何かの材料にもなるべきかと昨夜は下らぬ事包まずお尋のまゝ懺悔致候次第に御座候。明後日は会社の臨時総会にて残念ながら半輪亭のけいこ休みと致候。但当月中には是非とも「口舌八景」上げたきつもり貴処もせいぜい御勉強のほど願はしくお花半七掛合今より楽しみに致をり候
その頃までは何の彼のといっても私にはまだ若い気が残っていた。四十の声を聞いて日記雑録など筆を執るごとに頻に老来の嘆をなしたのも、思えばなお全く老いるには到らなかった証拠であろう。愚痴不平をいう元気のある中はまだ真に絶望したとはいわれない。今の芸者の三味線などは聞かれたものでないなぞと人前で耻し気もなくそんな事が言われたのはまだ色気もあり遊びたい気も失せなかった証拠である。遊びたい気があれば勉学の心も失せない訳である。述作の興味も湧くわけである。一夜或人の薗八節を語るを聞きわたしもその古調を味い学びたいと思立って薬研堀の師匠の家に通っていた事がある。その時分ふとした話から旧友のヨウさんも長唄哥沢清元といろいろ道楽の揚句が薗八となり既に二、三年も前から同じ師匠を木挽町の待合半輪というへ招き会社の帰掛け稽古に熱心している由を知って互にこれは奇妙と手を拍って笑った。それからわたしはヨウさんに勧められるまま朝の稽古通いを止めて夕刻木挽町の半輪へ出向く事にしたのであった。
ヨウさんは稽古の日といえば欠さず四時半頃に会社からお抱の自動車で馳けつけ稽古をすますとそのままわたしを引留め贔屓の芸者を呼んで晩餐を馳走した。そして十時半というと規則正しく帰り支度をする。雨の降る晩なぞわざわざわたしの家の門前まで自動車で送って来てくれる事もあった。ヨウさんの座敷に呼ばれる芸者は以前は長唄清元なぞの名取連も交えられていたそうであるがその頃は自然河東一中薗八という組のものばかりに限られていたので若いといっても二十五、六より下はない。既に芸者とよりは師匠らしく見える老妓もあった。さればその頃初めて十九になったとやらいう小半の姿は正に万緑叢中の紅一点あまり引立ち過ぎて何となく気の毒にも見えまた問わずしてこの女がヨウさんの御世話になっているものと推量されるのであった。
小半はいかにも血色のよい大柄ながっしりした身体付。眼はぱっちりして眉も濃く生際もよいので顔立は浮彫したようにはっきりしている代り口のやや大きく下腭の少し張出している欠点も共に著しく目に立って愛嬌には至って乏しく愁もまずきかぬ顔立であった。豊艶な女をばいつの時代にも当世風とするならば小半も勿論その型の中に入れべきものである。当世風の小半がヨウさんの持物である事を知った瞬間にはわたしは実をいえば意外な気がしないでもなかった。しかしその心持は小半が年に似ず当世風に似ず薗八の三味線も大分その流儀になっている事を知るに及んで直に取消されてしまった。
或晩いつもの如く稽古をすましてから勧められるまま座敷をかえてヨウさんと盃を交した。小半を始めいつも来るべきはずの芸者はいずれも歌舞伎座に土地の芸者のさらいがあるとやらで九時近くまで一人も姿を見せず、その晩はまた師匠までが少し風邪の気味だからと稽古をすますと直様車を頂戴して帰ってしまった。ヨウさんとわたしは女中に酌をさせながらかえって話に遠慮のいらぬのを幸江戸俗曲の音楽としての価値及びその現代社会に対する関係から将来の盛衰についてまで、互に思う処を論じ合った。三味線は言うまでもなく二世紀以前売色の巷に発生し既に完成し尽した繊弱悲哀なる芸術である。現代の社会に花柳界と称する前代売色の遺風がそのまま存在している間は三味線もまた永続すべき力があろう。三味線は浮世絵歌舞伎劇などと同じく現代一般の社会観道徳観を以て見るべき芸術ではない。生きた現代の声ではない。過去の呟きであるが故に愁あるものこれを聞けばかえって無限の興趣と感慨とを催す事あたかも商女不レ知亡国恨。隔レ江猶唱後庭花の趣がある。これまさに江戸俗曲の現代における価値であろう。これは以前からわたしの持論である。ヨウさんは日々職務の労苦を慰める娯楽としては眼に看る書画の鑑賞よりも耳に聞く音楽が遥に簡易である。豊太閤は茶を立てたが茶よりも浄瑠璃がよい。浄瑠璃も諸流の中で最もしめやかな薗八に越すものはない。薗八節の凄艶にして古雅な曲調には夢の中に浮世絵美女の私語を聞くような趣があると述べた。二人の言う処はいずれにしても江戸の声曲を骨董的に愛玩するという事に帰着するのである。
女中が欠伸をそっと噛みしめながら銚子を取替えにと座を立った時ヨウさんは何か仔細らしくわたしの名を呼んだ。そして、「実はこの間からおはなししたいと思っていたのです。あの、小半のことです。小半はどうでしょう。うまくなるでしょうか。みっしり薗八を稽古させて行々は家元の名前でも継がせて見たいと思っているのですが、どんなものでしょう。」
薗八節は他派の浄瑠璃とは異り稽古するものの少いため今の中どうにかして置かなければ早晩断滅しはせぬかと危ぶまれているものである。ヨウさんがその趣味とその富とによって衰滅せんとする江戸の古曲を保護しようという計画には異議のあろうはずがない。また小半の腕前もその年齢に似ず望を嘱するに足るべき事はわたしもとくに認めていたので、その通り思う処を述べるとヨウさんは徐に一盞を傾けつつ事の次第を話した。
「何ぼ何でもこの年になって色気で芸者は買えません。芸でも仕込んで楽しむより仕様がない。あなたの前だから遠慮なく気燄を吐きますが僕はこう見えてもこれでなかなか道徳家のつもりです。今の世の中の紳士や富豪は大嫌です。富豪も嫌いなら社会主義者も感心しません。真面目な事を言ったって用いらるべき世の中じゃありませんから、わたしはむしろそれをいい事にして毎晩こうして遊んでいるんですが……まアそんな事はどうでもいいとして……わたしが芸者に芸を仕込んで見ようなぞと柄にもない事を思い付いたのはいささか訳があります。茶碗や色紙に万金を擲つのも道楽だ。芸者に芸を仕込むのも道楽にかわりはありますまい。
わたしはこれまで随分大勢の人を世話しました。真面目に世話をしましたがその結果は要するに時勢の非なるを悟るに過ぎません。現に家には書生が三人います。惣領の忰も来年は大学にはいるはずです。わたしは人の世話をしたからとてその人から礼を言われたいなぞとそんな卑劣な考えは微塵も持ってはいません。失敗成功そんな事はわたしの深く問う処でない。唯いつまでも心持よく話の出来るような人物になってもらいたい。わたしの世話をしたものは皆成功しています。しかしわたしにはその成功ぶりが甚だ気に入らんのです。
名前は言いませんがもう七、八年前の事です。人から頼まれまたわたし自身も将来有望と思って或青年の画家に経済的援助を与えた事がありました。蕪村とか崋山とかいうような清廉な画家になるだろうと思ったら大ちがいでした。展覧会で一、二度褒美を貰い少し名前が売れ出したと思うともう一廉の大家になりすました気で大に門生を養い党派を結び新聞雑誌を利用して盛んに自家吹聴をやらかす。まるで政治運動です。しかしその効能はおそろしいもので、素寒貧の書生は十年ならずして谷文晁が写山楼もよろしくという邸宅の主人になりました。
もう一人成功した家の書生でわたしの閉口しているものがあります。これは教育家です。大学に通っている時分或日わたしに俳句を教えてくれというからわたしももともと嫌いな道ではないので蔵書も貸してやる。また時にはこっちからどうだ句はまだ出来ないかと催促して直してやった事もありました。しかし後になって考えて見るとその男は別に俳句が好きというのではない、わたしが時々句をよむから御気に入ろうと思ってそんな事をきいたのでしょう。とにかくそういう抜目のない男の事ですから学士になって或地方の女学校の教師になると間もなくその土地の素封家の壻養子になって今日では私立の幼稚園と小学校を経営して大分評判がよい。それだけの話なら何も悪くいう処はない。わたしも大に感心しなければならんのですがどうも気に入らないのはその男のやり方です。教育の事業をまるで商店か会社の経営と心得ているらしい。毎年東京へ来て朝野の有力者を訪問する。三年目には視察と称して米国へ出掛け半年位たって帰って来ると盛んに演説をして廻る。まアそれも結構です。わたしの甚だ気に入らないのは去年の事だ。やっと四十になったかならずの年輩でありながら自分の銅像をその地方の公園に建て己れの功績を誇ろうとした事です。天下の糸平の石碑がいかに大きかろうがそれは子孫のやった事だから致し方がない。自分の道楽からわが銅像をわが家の庭に立てる位の事なら差支えないがその男の遣方はそれとなく生徒の父兄を説いて金を出させ地方の新聞記者を籠絡して輿論を作り自分は泰然としているように見せ掛けるのだから困ります。
わたしは一体に今の人たちの立身出世の仕方が気に入りません。失敗して金を借りに来ても心持さえさっぱりしていれば、わたしは喜びます。いくら成功しても正義堂々としていないものはいやです。わたしはそれらの事から真面目に人の世話をするのがいやになり馬鹿々々しくなりました。それらの事が直接の原因という訳ではありませんが小半に薗八の稽古をさせている中わたしはいつかこの女を自分の思うような芸人に仕立てて見たらばと柄にもない気を起すようになったのです。世の中を相手にする真面目な事は皆駄目でしたから今度は芸人を養成しようかというのです。今の芸人は男も女も御存じの通りで皆仕様がありません。この先名人上手の出ようはずもない。それに薗八なぞは長唄や清元とはちがって今の師匠がなくなればちょっとその後をつぐべきものもないような始末ですから、もし小半がわたしの思うようにみっしり修業を積んでくれればわたしの道楽も真面目くさっていえば俗曲保存の一事業にもなろうというわけです。」
ヨウさんが小半をひかせる事に話をきめ妾宅の普請に取かかったのはそれから三月ほど後のことである。その折の手紙を見ると、
御風邪の由心配致しをり候。蒲柳の御身体時節がら殊に御摂生第一に希望致し候。実は少々御示教に与りたき儀有之昨夜はいつもの処にて御目に掛れる事と存じをり候処御病臥の由面叙の便を失し遺憾に存じ候まゝ酒間乱筆を顧みずこの手紙差上申候。御相談と申すはかの妾宅の一件御存じの如く兼々諸処心当りへ依頼致置候処昨日手頃の売家二軒有之候由周旋屋の手より通知に接し会社の帰途一応見歩き申候。一軒は代地河岸一軒は赤坂豊川稲荷横手裏に御座候。本来は築地辺一番便利と存じ最初より註文致置候処いまだに頃合の家見当り申さぬ由あまり長延候ては折角の興も覚めがちになる恐も有之候間御意見拝聴の上右浅草か赤坂かの中いづれにか取極めたき考へに御座候。当人の小半は代地は場所がらとて便利なだけ定めし近隣の噂もうるさかるべく少し場所はわるけれど赤坂の方望ましきやう申をり候。赤坂の売家は庭古びて樹木もあれど家屋はまづツブシと存ぜられ候。代地の方は建具造作の入替位にてどうにか住まへるかと存じ候へども場所がらだけあまり建込み日当あしく二階からも一向に川の景色見え申さず値段も借地にて家屋だけ建坪三十坪ほどにて先方手取一万円引ナシとは大層な吹掛やうと存じ候。江戸向は庭はなくとも我慢は出来申候へども川添ならでは奇妙ならず。
さて赤坂の方はこの辺もと〳〵成金紳士の妾宅には持つてこいといふ場所なれば買つた上でいやになればかへつて値売の望も有之候由周旋屋の申条に御座候。地所七十坪ほど家屋付壱万五千円の由坂地なれば庭平ならぬ処自然の趣面白く垣の外すぐに豊川稲荷の森に御座候間隠居所妾宅にはまづ適当と存ぜられ候。昨日見に参候折参詣人の柏手拍つ音小鳥の声木立を隔てゝかすかに聞え候趣大に気に入り申候。地勢東北は神社の森かげとなりまづ西南向に相見え候間古家建直しの折西日さへよけるようにすれば風通しも宜かるべくまさか田福が「わが宿は下手のたてたる暑かな」の苦しみもなかるべくと存じ候。とにかく山の手は御存じの如く都の中にても桃隣が「市中や木の葉も落す富士颪」の一句あり冬の西風と秋の西日禁物に有之候。方角は磁石失念のためしかとわからず今一応検分のつもり何とぞ貴下御全快を待ち御散歩かたがた御鑑定希望の至に御座候。とんだ御迷惑甚恐縮しかし昔より道楽は若い時に女。中年に芸事。老いては普請庭つくり。これさへ慎めば金が出来るとやら申す由なれど小生道楽の階程も古人の戒に適合致候は誠に笑止に御座候。とてもの事に道楽の仕納めには思ふさま凝つた妾宅建てたきもの何とぞ御暇の節御意匠被下まじくや。同じ江戸風と申しても薗八一中節なぞやるには『梅暦』の挿絵に見るものよりは少し古風に行きたく春信の絵本にあるやうな趣ふさはしきやに存ぜられ候。江戸趣味は万事天明ぶりありがたし〳〵
御病気御全癒のほどこの際一日千秋の思に御座候。
その頃世の中は欧洲戦争のおかげで素破らしい景気であった。株式会社が日に三ツも四ツも出来た位なので以前から資本のしっかりしているヨウさんの会社なぞは利益も定めし莫大であったに相違ない。贅沢品は高ければ高いほど能く売れる。米が高いので百姓も相場をやるという景気。妾宅の新築には最も適当した時勢であった。その頃旧華族が頻に家宝の入札売立を行ったのもヨウさんの妾宅新築には甚好都合であった。ヨウさんは地形もまだ出来ぬ中から売立のあるごとにわたしを誘って入札の下見に出掛けた。勿論俳味を専とする処から大きな屏風や大名道具には札を入れなかったが金燈籠、膳椀、火桶、手洗鉢、敷瓦、更紗、広東縞の古片なぞ凡て妾宅の器具装飾になりそうなものは価を問わずどしどし引取った。やがて普請が出来上ると祝宴の席でわたしは主人を始め招かれた芸人たちにも勧められ辞退しかねて「彩牋堂の記」なるものを起草した。それのみならず薗八節新曲の起稿をも依頼される事になった。
その翌日からわたしは早速新曲の資材となるべき事蹟を求めたいと例の『燕石十種』を始めとして国書刊行会飜刻本の中に蒐集された旧記随筆をあさり初めた。そしてこれはと思う事蹟伝説が見当ったならすぐにも筆を執る事ができるように毎夜枕元に燈火を引寄せ「松の葉」を始め「色竹蘭曲集」「都羽二重」「十寸見要集」のたぐいを読み返した。その頃わたしには江戸戯作者のするようなこうした事が興味あるのみならずまた甚意義ある事に思われていたので既に書かけていた長篇小説の稿をも惜まず中途にしてよしてしまった。二葉亭四迷出でて以来殆ど現代小説の定形の如くなった言文一致体の修辞法は七五調をなした江戸風詞曲の述作には害をなすものと思ったからである。このであるという文体についてはわたしは今日なお古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。わたしはどうかしてこの野卑蕪雑なデアルの文体を排棄しようと思いながら多年の陋習遂に改むるによしなく空しく紅葉一葉の如き文才なきを歎じている次第であるノデアル。わたしはその時新曲の執筆に際して竹婦人が玉菊追善水調子「ちぎれちぎれの雲見れば」あるいはまた蘭洲追善浮瀬の「傘持つほどはなけれども三ツ四ツ濡るる」というような凄艶なる章句に富んだものを書きたいと冀った。既にその前年一度医者より病の不治なる事を告げられてからわたしは唯自分だけの心やりとして死ぬまでにどうかして小説は西鶴美文は也有に似たものを一、二篇なりと書いて見たいと思っていたのである。『鶉衣』に収拾せられた也有の文は既に蜀山人の嘆賞措かざりし処今更後人の推賞を俟つに及ばぬものであるが、わたしは反復朗読するごとに案を拍ってこの文こそ日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後といえども必ず日本文の模範となるべきものとなすのである。その故は何かというに『鶉衣』の思想文章ほど複雑にして蘊蓄深く典故によるもの多きはない。それにもかかわらず読過其調の清明流暢なる実にわが古今の文学中その類例を見ざるもの。和漢古典のあらゆる文辞は『鶉衣』を織成す緯となり元禄以後の俗体はその経をなしこれを彩るに也有一家の文藻と独自の奇才とを以てす。渾成完璧の語ここに至るを得て始て許さるべきものであろう。わたしがヨウさんに勧められ「彩牋堂の記」を草する心になったのも平素『鶉衣』の名文を慕うのあまりに出でたものである。彩牋堂記の拙文は書終ると直様立派な額にされたが新曲は遂に稿を脱するに至らずその断片は今でも机の抽斗に蔵われてある。
わたしが新曲に取用いようと思い定めた題材は『江戸名所図会』に記載せられた浅草橋場采女塚の故事遊女采女が自害の事であった。ヨウさんの賛成を待って筆をつけようと思った時は丁度七月の盆に近く稽古は例年の通り九月半まで休みになる。ヨウさんは家族をつれて大磯の別荘に行く。わたしは暑気にあてられて十日ほど寝る。秋涼を待ち彩牋堂の稽古が始まる頃にもなったら机に向おうと思っていると、今度は師匠が病気になった。十月に入って師匠が稽古に出られる頃にはその年は折悪しく主人のヨウさんが会社の用で満韓へ出張という次第。帰京すれば間もなく歳暮に近くそれから正月一ぱいこれはまた芸人の習慣で稽古は休みである。
心中采女塚はそんな事ですっかり執筆の興が失せてしまった。二月に至って彩牋堂から稽古始めの勧誘状が来たが毎年わたしは余寒のきびしい一月から三月も春分の頃までは風のない暖かな午後の散歩を除いてはなるべく家を出ぬことにしているので筆硯多忙と称して小袖の一枚になる時節を待った。独居の生涯は日頃人一倍気楽なかわり病に臥した折の不自由もまた人一倍である。それもいっそぐっと寝就いてしまうほどの重患なればとやかくいう暇もないが看護婦雇うほどでもない微恙の折は医者の来診を乞う折にもその車屋にやるべき祝儀も自身に包んで置かねばならず医者の手を洗うべき金盥や手拭の用意もあらかじめ女中に命じて置かねばならぬ。養痾のためにかえって用事が多くなるわけなので風邪引かぬ用心に寒気を恐るる事は宛ら温室の植物同然の始末である。
その年はやはり凶年であった。日頃の用心もそのかいなく鳥啼き花落ちる頃に及んでかえって流行感冒にかかりつづいて雨の多かったためか新竹伸びて枇杷熟する頃まで湯たんぽに腹あたためぬ日とてはなく食事の前後数うれば日に都合六回水薬粉薬取交ぜて服用する煩わしさ。臥して書を読もうにも繙く手先早くつかれ坐して筆を把ろうにも興を催すによしなく、わずかに書肆の来って旧著の改版を請うがまま反古にもすべき旧稿の整理と添刪とに日を送ればかえって過し日の楽しみのみ絶え間もなく思い返されるばかり。しばしば朱筆を抛って、
収二拾シテ残書一剰ス二幾篇ヲ一。
軽狂ノ蹤跡廿年前。
笑テ傾ク二犀首ニ一花間ノ盞。
酔テ扶ク二蛾眉ヲ一月下ノ船。
黄祖怒ル時偏自喜シ。
紅児癡処絶テ堪タリレ憐ムニ。
如今興味銷磨シ尽ス。
剰愛ス銅鑪一炷ノ烟。
と『疑雨集』中の律詩なぞを思い出して、僅に愁を遣る事もあった。かくては手ずから三味線とって、浄瑠璃かたる興も起ろうはずはない。彩牋堂へはそのまま忘れたように手紙の返事さえも出さず一夏を過して、秋もまた忽ち半に及んだその日の夕。わたしは突然銀座通りで小半の彩牋堂を去った由を知るやおのれが無沙汰は打忘れただ事の次第を訝ったのであった。
点滴の樋をつたわって濡縁の外の水瓶に流れ落る音が聞え出した。もう糠雨ではない。風と共に木の葉の雫のはらはらと軒先に払い落される響も聞えた。先ほどから焚きつづけた蒼朮と、煙草の煙の籠り過ぎたのに心づいてわたしは手を伸ばして瓦塔口の襖を明けかけた時彩牋堂へ宛てた手紙を出しに行った女中がその帰りがけ耳門の箱にはいっている郵便物を一掴みにして持って来た。郵便物は皆しっとり濡れていた。葉書が三枚その中の二枚は株屋の広告一枚は往復葉書で貴下のすきな芸者と料理屋締切までに御返事下さいなどと例の無礼千万な雑誌編輯者の文言。その外に書状が二通あった中の一通は書体で直様彩牋堂主人と知られた。わたしはこの際必ずお半の一条が書いてあるに相違ないと濡れたままの封筒を干す間もなく開いて見た。
久しく御消息に接せず御近況如何に候哉。本年は残暑の後意外の冷気に加へて昨今の秋霖御健康如何やと懸念に堪へず候。この分にてもう二、三日晴れやらずば諸河汎濫鉄道不通米価いよいよ騰貴致べしと存候。さて突然ながらかのお半事このほどいささか気に入らぬ仕儀有之彩牋堂より元の古巣へ引取らせ申候。古人既に閑花只合閑中看。一折帰来便不鮮。とか申候間とやかく評議致すはかへつて野暮の骨頂なるべくまた人に聞かれては当方の耻にも相なり申べき次第。と申せば大通の貴兄大抵は早や御推察の事かと存じ候。拙者とて芸者に役者はつきものなり大概の事なれば見て見ぬ度量は十分有之候。いはんや外の芸事とはちがひ心中物ばかりの薗八節けいこ致させ惚ねばならぬ殿ぶりに宵の口説をあしたまで持越し髪のつやぬけてなど申すところはとりわけ情をもたせて語るやう日頃註文致をり候事とて「口舌八景」の口舌ならねど色里の諸わけ知らぬ無粋なこなさんとは言はれぬつもりに候へども相手が誰あろう活動の弁士と知れ候ては我慢なりがたく御払箱に致申候。同じいやなものにても壮士役者か曾我の家位ならまだ〳〵どうにか我慢も出来申べく候へども自動車の運転手や活動弁士にてはいかに色事を浄瑠璃模様に見立てたき心はありても到底色と意気とを立てぬいて八丈縞のかくし裏なぞといふやうな心持にはなり兼申候。この辺の心事は貴下平素の審美論にも一致致すべき次第一層御同情に値する事かと愚考罷在候。
お半二度左褄取る気やらまた晴れて活弁と世帯でも持つかその後の事はさっぱり承知致さず。折角の彩牋堂今は主なく去年尊邸より頂戴致候秋海棠坂地にて水はけよきため本年は威勢よく西瓜の色に咲乱れをり候折から実の処銭三百落したよりは今少し惜しいやうな心持一貫三百位と思召被下べく候。まづは御笑草まで委細如レ件
雨はやっと霽れた。霽れさえすれば年の中で最も忘れがたい秋分の時節である。残暑は全く去って単衣の裾はさわやかに重ねる絽の羽織の袂もうるさからず。簾打つ風には悲壮の気満ち空の色怪しきまでに青く澄み渡るがまま隠君子ならぬ身もおのずから行雲の影を眺めて無限の興を催すもこの時節である。曇って風静まれば草の花蝶の翅のかえって色あざやかに浮立ち濠の水には城市の影沈んで動かず池の水溝の水雨水の溜りさえ悉く鏡となって物の影を映すもこの時節である。
昨来ノ風雨鎖ス二書楼ヲ一。
得テ二此ノ新晴ヲ一簾可シレ鉤。
籬菊未レ開山桂落ツ。
雁来紅ハ占ム一園ノ秋。
思出すまま先人の絶句を口ずさみながら外へ出た。足の向くまま彩牋堂の門前に来て見ると檜の自然木を打込んだ門の柱には□□寓とした表札まだそのままに新しく節板の合せ目に胡麻竹打ち並べた潜門の戸は妾宅の常とていつものように外から内の見えぬようにぴったり閉められてあった。久しく訪わなかったのでいわれなく入って見たいような気がした。普請の好きなわたしは廊下や縁側の木地にも幾分かさびが出来たであろう。庭の土も落ちつき石にも今年は雨が多かったので苔がついたであろう。わたしの家から移植えた秋海棠の花西瓜の色に咲きたる由書越された手紙の文言を思出してはなお更我慢がならず耳門の戸に手をかけるとすらすらと明いたのみならず、内にはいればこれはいかに、萩垣の彼方から聞える台広の三味線。丁度二を上げて一撥二撥当てた音締。但し女にあらず。女にあらずとすれば正しく師匠の千斎である。わたしは二の糸の上った様子から語っているのは何かと耳を傾けるとも知らず内ではおもむろに
と主人が中音。さては浮橋縫之助互に「顔と顔とを見合せて一度にわつと」嘆きさえすれば後は早間に追込んで「鳥辺山」の一段はすぐさま語り終られると知るものから、わたしは無遠慮に格子戸明けて中座させるも心なき業と丁度目についた玄関の庇に秋の蜘蛛一匹頻に網をかけているさまを眺めながら佇立んでいた。
「いや君実に馬鹿々々しい話さ。活弁に血道を上げるとは実にお話にならない。あれは全く僕の眼鏡ちがいだった。活弁の一件がないにしてもあの女は行末望みがないようだ。芸者をしている時分芸事には見込があるように思われたのはつまり非常に勝気な女で何事によらず人にまける事が嫌いだからそれで自然稽古にも精を出したものらしい。だから商売をやめたとなると競争する張合がない。一月二月とたつ中三味線の稽古はわたしへの義理一方という事になった。初めはわたしもいろいろ小言をいった。生れつき質のわるい方ではないのだから今の中みっしりやって置けといい聞かしても当人には自分の天分もわからず従って芸事の面白味も一向に感じないらしい。たとえば用がなくて退屈だという時何という気もなく手近の三味線を取上げて忘れた手でも思出して見ようという気にはならないらしい。それなら何が好きなのかというと別にこれといって好きなものもないらしい。針仕事は勿論読み書きも好きではない。唯芝居へ行って友達と運動場をぶらぶらするとか三越や白木へ出掛けて食堂で物を食い浅草の活動写真を見廻るといったような事がまず楽しみらしい。小言をいうと遂には反抗する。面倒な思をして三味線の師匠なぞになった処で何が面白いといわぬばかりの様子を見せるようになった。これでは到底望がないと思って暇をやった訳だがしかしこれはあの女ばかりに限った話ではない。今の若い女は良家の女も芸者も皆同じ気風だ。会社で使っている女事務員なぞを見ても口先では色々生意気な事をいうが辛い処を辛抱して勉強しようという気は更にない。今の若い芸者に薗八なんぞ修業させようとしたのは僕の方が考えれば間違っていたともいえる。家の娘は今高等女学校に通わしてあるがそれを見ても分る話で今日の若い女には活字の外は何も読めない。草書も変体仮名も読めない。新聞の小説はよめるが仮名の草双紙は読めない。薗八節稽古本の板木は文久年間に彫ったものだ。お半は明治も三十年になってから後に生れた女だ。稽古本の書体がわからないのはその人の罪ではない。町に育った今の女は井戸を知らない。刎釣瓶の竿に残月のかかった趣なぞは知ろうはずもない。そういう女が口先で「重井筒の上越した粋な意見」と唄った処で何の面白味もない訳だ。「盛りがにくい迎駕籠」といったところで何の事だかわかりはしない。分らない事に興味の起ろうはずはない。『五元集』の古板は其角自身の板下だからいくら高くてもかまわない買いたいと思うのはわれわれの如き旧派の俳人の古い証拠で、新傾向の俳人には六号活字しか読めないのだから木板の本はいらない訳だ。今の芸者が三味線をひくのは唯昔からの習慣と見ればよい。丁度新傾向の俳人がその吟咏にまだ俳句という名称を棄てずにいるのと同じようなものだ。僕はもう事の是非を論じている時ではない。それよりかわれわれは果していつまでわれわれ時代の古雅の趣味を持続して行く事ができるか、そんな事でも考えたがよい。僕の会社でもいよいよ昨夜から同盟罷工が始った。もう夕刊に出る時分だが今日はそんな騒で会社は休みも同然になったのでもっけの幸と師匠を呼んで二、三段さらったわけさ。」
ヨウさんは溜池の三河屋へ電話をかけわたしに晩餐を馳走してくれた。わたしは家へと帰る電車の道すがら丁度二、三日前から読みかけていたアンリイ・ド・レニエーが短篇小説。
の作意とヨウさんの話とを何がなしに結びつけて思い返したのであった。レニエーの小説というのは新妻の趣味を解せざる事を悲しみ憤る男の述懐である。男は日頃伊太利亜もヴニズの古都を愛していたので新婚旅行をこの都に試みたが新妻は何の趣味をも感じない。男は或骨董店で昔ヴニズの影絵芝居で使った精巧な切子人形を見付け大金を惜まず買取ってやがて仏蘭西の旧邸へ帰る。夫婦の仲はだんだん離れて来る。新妻の友達に下卑ていながら妙に女の気に入る医者があって主人をば精神病の患者と診断し新妻は以後主人を狂人扱いにする。或日主人は外から帰って見ると先祖代々住古した邸宅は一見新に建直されたのかと思うばかりその古びた外観を改めまた昔の懐しい家具は椅子卓子に至るまで悉く巴里街頭の家具店に見られるような現代式のけばけばしい製造品に取替えられている有様、男は憤怒のあまり周囲のものを打壊して卒倒してしまう…………わたしはヨウさんに別れて家に帰ると直様読掛けたこの小説の後半をば蚊帳の中で読んだ。……篇中の主人公がヴニズの骨董店で買取った秘蔵の人形は留守中物置の中に投込まれていたが折から照り渡る月の光に動き出して話をしだす。感情の興奮している主人公は夢とも現ともわけが分らなくなって遂にはどうやら自分ながらも日頃周囲のもののいっていたように真の狂人であるが如き心持になってしまう──というのがこの小説の結末であった。
蚊帳の外に手を延ばして燈火を消した時遠く鐘の音が聞えた。数えると二時らしかった。秋の夜ごとにふけ行く夜半過わけて雨のやんだ後とて庭一面蛼の声をかぎりと鳴きしきるのにわたしは眠つかれぬままそれからそれといろいろの事を考えた。一刻も早く眠りたいと思いながらわけもなく思いに耽る思いである。あくる日起きてしまえば何を考えたのやら一向に思い出す事の出来ない取留めのない思いである。
その後わたしは年々暑さ寒さにつけて病をいたわる事のみにいそがしく再び三味線のけいこをするような気にもならずまた強て著作の興を呼ぶ気にもならなくなった。生きがいもなき身と折々は憂傷悲憤に堪えなかったその思いさえも年と共に次第に失せ行くようである。たまたま思当るのはフェルナン・グレイが詩に、
J'ai trop pleuré jadis pour des légères!
〔Mes Douleurs aujourd'hui me sont e'trange`res ……〕
〔Elles ont beau parler a` mots mysterie'ux ……〕
Et m'appeler dans ĺombre leurs voix légères;
Pour elles je n'ai plus de larmes dans les yeux.
Mes Douleurs aujourd'hui me sont des inconnues;
Passantes du chemin qúon eut peut-être aiméeş
Mais qu'on n'attendait plus quand elles sont venues,
Et qui śen va là-bas comme des inconnueş
Parce qúil est trop tard, les âmes sont fermées.
わけなき事にも若き日は唯ひた泣きに泣きしかど。
その「哀傷」何事ぞ今はよそ〳〵しくぞなりにける。
哀傷の姫は妙なる言葉にわれをよび、
小ぐらきかげにわれを招ぐもあだなれや。
わがまなこ涙は枯れて乾きたり。
なつかしの「哀傷」いまはあだし人となりにけり。
折もしありなば語らひやしけん辻君の、
寄りそひ来ても迎へねば、
わかれし後は見も知らず。
何事もわかき日ぞかし心と心今は通はず。
なるほど情は消え心は枯れたにちがいない。欧洲乱後の世を警むる思想界の警鐘もわが耳にはどうやら街上飴を売る翁の簫に同じく食うては寝てのみ暮らすこの二、三年冬の寒からず夏の暑からぬ日が何よりも嬉しい。胃の消化よく夢も見ず快眠を貪り得た夜の幸福はおそらく美人の膝を枕にしたにも優っているであろう。しかしふと思立ってわたしは生前一身の始末だけはして置こうものとまず家と蔵書とを売払って死後の煩いを除いた。閑中いささか多事の思をなしたのは唯この時ばかりであった。
住み馴れた家を去る時はさすがに悲哀であった。『明詩綜』載する処の茅氏の絶句にいう。
壁二有リ二蒼苔一甑ニ有リレ塵。
家園一旦属ス二西鄰ニ一。
傷心畏ルレ見ルヲ門前柳。
明日相看レバ是レ路人。
その中売宅記とでも題してまた書こう。
拙作『雨瀟瀟』はかつて余が編輯せし雑誌『花月』に掲載せむがため大正七年の秋稿を起せしもの。初め「彩箋堂佳話」と題せしがその冬雑誌の廃刊と共に転居の事などありて、そのまゝ久しく筆を断ちたり。大正九年の夏築地より現在の家に移るに及び再び執筆の興を催し同年十二月の末に至りて稿を脱し得たり。あたかも雑誌『新小説』記者の草稿を求むるに会い浄写の時改めて『雨瀟瀟』となしぬ。大正十一年九月当時執筆の短篇小説数篇及雑録の類と併せてこれを一巻となし春陽堂より刊行したり。大正十三年九月『麻布襍記』の一書を梓するに当り、再びこの小篇『雨瀟瀟』を取りてその巻初に掲げぬ。昭和二年九月書肆改造社の『現代日本文学全集』第廿二篇を編輯するや『雨瀟瀟』の一篇またその巻首に採録せられぬ。この度書估野田氏またこの一小篇を取りて刊行せむとす。依って印行の次第を記し以て序に代ふ。昭和十年乙亥秋八月於偏奇館、荷風散人識
底本:「雨瀟瀟・雪解 他七篇」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年10月16日第1刷発行
1991(平成3)年8月5日第6刷発行
底本の親本:「荷風小説 五」岩波書店
1986(昭和61)年9月9日
初出:雨瀟瀟「新小説」
1921(大正10)年3月
雨瀟瀟序「雨瀟瀟」野田書房
1935(昭和10)年9月刊行
※表題は底本では、「雨瀟瀟」となっています。
※引用文の旧仮名は、底本通りです。
※底本巻末の蜂屋邦夫による訓読注記は省略しました。
入力:入江幹夫
校正:酒井裕二
2017年11月24日作成
2017年12月5日修正
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