石の信仰とさえの神と
折口信夫
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道祖神の話は、どうしても石の信仰の解決をつけておかぬと、その本当の姿はわからぬ。柳田先生の『石神問答』は、道祖神を中心にしての研究であったが、そのために、いろいろな石の神体のことを問題にせられた。筑前にある神籠石は、神道では、「いはさか」だと言われているが、石が敷き並べてあるばかりでなく、岩石のもある。「こうご」は、かっぱのことでもある。先生はあらゆる石の信仰を問題にせられたが、もういっぺん、そのいろいろの石の信仰を考えぬと、道祖神はわかってこない。ある場合には道祖神そのものが、石の神かと思えるほどである。それをはっきりさせねばならない。
日本では、石の神はいろいろあるが、石が海岸に漂着するという信仰が古くからあった。常陸の大洗磯前神社の「かみがたいし」(神像石)など、一夜のうちに忽焉と、暴風雨の後に現われた、と歴史の書物にも書いてある。この神像石はあちこちにあった。常はなんとも思うておらぬから注意にあがらぬが、暴風雨の後などには、もとからあったものとも知らず、漂うてきたものだと思うことがある。この石の漂着するのを、寄り石(漂着石)信仰とわれわれは言うている。
日本では、もう一つ、石の成長する信仰がある。壱岐国の渡良島では、石を拾ってきて、祀っておいたら、だんだん大きくなったという話がある。これは、石漂着の信仰と、石成長の信仰と、二つのものが重なって、一つになったのである。石が寄ってくるということは何か。石でなくても、遠いところから、この土地へ漂うてきた、と信じられるものなら何でもよい。神なら神が、舟に乗ってこられたことになるが、もっと抽象的、神秘的な威力のある霊魂が、その土地にやってきた話となる。
「たま」は、むきだしで来たとも考えるし、また、物の中にはいって、来たとも考えているが、どちらが元というのでなく、知れる限りにおいては、両方とも平行してある。まず、普通の形では、霊魂がそのままやってくると考えるのがわかりやすいと思うが、やはり、物にはいってくるか、あるいは、こちらの物にはいっていることがあるのである。霊魂のはいっているものを、やはり、たまと言う。古い時代のもので、たまが海岸へ寄せる話では、石のことや貝のことや、いろいろある。たまが漂着してきて、たま(玉、珠)に憑くと考えたのである。すると、古い歌に、海辺で「玉や拾はむ」というようなのがたくさんあるが、わりあい素直に釈けるわけである。誰かがその物の中に霊魂があると信じると、その物は玉ということになる。自分を守る霊魂がはいっていると信ずるものを、身体につけているものは、やはり、たまである。そうして、たまの多くは、石であった。
この石のなかで、もっと著しい話は、石が子を生む話である。これも、柳田先生はいろいろ書いておられるが、石は大きくなったり、また、分裂したりする。石が分裂することは、霊魂は分割することができるという昔の考えからゆくとわかりやすい。昔は、霊魂を分割して与えることができると考えていた。できれば分ちやすいものを選ぶので、たとえば、植物もたまになる。
などの歌は、松そのものが、たまであり、その松を分割して、威力をもっているものにしたのである。
しかし、われわれが主に霊的な玉として考えやすいのは、石である。装飾品としての玉の石以外に、霊魂が籠っているものとする玉の石は、ごく小さいものから大きいものまである。石が子を生む話は、霊魂を分割する習慣があるから、それにちょうどあたる条件を備えたものがあったわけである。だから、石が子を生むことは簡単に説明できる。ところが、石が成長するのは、人間と同じことである。たまが石に宿っているのは、一時の状態であって、本当は人体にはいらねばならぬ。それなのに、だんだん、石にとまっているたまを考える。つまり、信仰の対象としての石を考える。はいってくるものに威力を感じさせると、たまの威力で、石がだんだん大きくなると考える。だから、日本の石は、いろいろな信仰の対象となりやすい。
神を溯ってゆくと、たまになり、たまから神さまという澄みきった考えに進んでゆくから、神さまの神さまたる力をば留めておくところが、石ということになる。石を神だと考えぬまでも、神を祭るためには、石の中に、たまがはいっているものとして、たまの所在である石を祀る。また、石の中にはいっているたまを祀る。だから、われわれの国のあらゆる社や祠の神体を調べると、石であることがたくさんある。清らかな石そのものであることが多い。かならずしも、生殖器の形をした石とは限らぬ。
近代的な神道の広く行なわれない時代には、神を祭るのに、石を祠の中に入れておいたから、山の神も、えびすさまも、こんぴらさまもみな、石で表わされている。だから、石が神体になるのは、その意味で、かならずしもさえの神に限らぬ。ところが、石のもっている性質を考えてきて、石をそのまま自分らの神だと思いたい欲望から、だんだん具体的にしようとし、人間の形に似た石を望むようになる。つまり、神さまを人間と同じ形だと思うようになる。
昔は、祭りには空想でなく、現実に神を見ていた。人間が神の代わりに出てくるから、経験から人間の姿と神の姿とを同じと考えている。どんな形をした石でもよいわけだが、石を神と観ずるためには、人間の形をしたものを求める。神像石がそれである。播磨風土記に、仏の形をした石が、神島という島にあって、その眼は玉で、五色の涙を流したと書いてある。どんな神でも、石で形を表わすことができたわけである。抽象的に、海の神、山の神と考えることもできるが、石で考えることもできた。
だから、昔の人は神を三段に考えていた。①抽象的に思える、②たまのはいっている石を考える、③人間の形を考える。抽象的に考えるのは、海、山そのものを神とする場合である。抽象的な考えばかりなら、もっと早くこの考えは亡びただろうが、物が残り、山、海そのもののなかに、目に見えぬ神が内在していると考える。これ以上言うと、筧(克彦)さんみたいになるからやめる。石に対する信仰を性質のうえからみるとそうなるが、信仰されているほうからみると、ただあたりまえの御神体としてみられるわけである。
それから、占い石の信仰があって、石を持ちあげて、重い軽いで占いをすることがある。その信仰の行なわれている社会では、自分の願いのかなうときは、軽く持ちあげられるなどと考えている。それは、持ちあげる人の心持次第でできるのである。いつもあがるとは決して決まっていない。その石占いの精神は、根本は、石の中にある霊的な魂の信仰であり、また、石の魂が大きくなったり小さくなったりする考えがあるからなのだろう。そうでないと、持ちあげることの説明にはならぬ。
さらに、押え石の信仰がある。常陸の鹿島明神の社には、「かなめいし」(要石)というのがある。これは、昔からのものかどうかわからぬが、どうせ、昔は何かの神の御神体だったのであろう。この石は、地震を起こす鯰を押えていると考えていた。これは後の説明で、土地に異変を与えるものを抑える力を、石がもっているのである。石が重いからというのでなく、石に魂が宿っているから、と思うのだろう。霊力のある石の神と精霊との間に、争いによって解決がついたことを、抑えつけておく。すると昔どおり精霊が悪いことをしないと考えた。
石の信仰は、①神体としての石、②石占い、③精霊を抑える石、④生殖器崇拝の石と、この四つに分けておいたらよかろう。なにも、生殖器の形をしていなくても、昔の人は、神の威力を考えるので、ここに物を増殖する霊力が宿っていると思うことができた。自然界にはいろいろな形をした石があるから、だんだん生殖器に似た形の石が選ばれて、農村の収穫が殖えてくるということを中心にして、これが分化してゆく。そして人間が殖えてくるということになるのである。
人間が殖えてくることは、近世の田舎では、あまり歓迎すべきことではなかった。いやな語だが、「まびく」などということも行なわれた。石の力で対抗して、土地の悪い精霊を追い払うことを考える。これは、生殖器に似ているため、生殖器のもつ力の現われというふうに考える。その場合、石に含まれているたまの力というより、生殖器のもっている力と考える。その力は比喩的で、生殖器のもつだけの力が出て、悪いものを追い退けるということになる。
ところが、生殖器の形をした石というと、普通は男の形だが、女のも考えられてくる。とがったのなら男、くぼんだのなら女と考え、われわれが見ても判断のつかぬものまでも、男とか女とか決めている。説明をきかねばどちらかわからぬ石が、あちこちにごろごろしている。そうだから、九州あたりの「さやんかん」は、道の神とは関係なく、富の神である。花街に祀られている男の生殖器の形をした神も、やはり、富の神である。遊廓だから、エロチックな感じをもちやすいが、それは二の次で、富の神として祀られていたのである。遊廓でこの信仰が育つと、意味は変わってきて、愛敬さま、愛敬石と呼ばれる。今の愛嬌と同じことである。一口で言うと、今の人は、色気と訳してしまうだろうが、「あいけう」(愛嬌)と言うときれいで、「あいぎやう」(愛敬)はきたない色気になっている。いっぺん遊廓にはいって、また、農村などにその愛敬石の信仰が出てきている。
それだけ石の話を前提にしておくと、「さへの神」の話がわかりやすい。さえの神は、なにも生殖器の形でなくてもよく、石でさえあればよいのである。石の性質を分割するから、適当な石の信仰をもってきて、さえの神の属性にする。これにはも一つ、理由がある。私は、さえの神が男女の語らいを表わすとか、男の形だとか、女の形だとかいうのは、後の発達だと言うほうがよいと思うているのである。
われわれの分解してゆく考えは、はるか昔の人が築きあげてきたもので、分解すると、昔の人の考えがいろいろ出てくる。分解したものを寄せ進めて、塔でも作るつもりなら、どんな解釈でもつく。なぜ、さえの神が生殖器の信仰と結びついたのか。日本の神典は、近世の国学者が美しく解釈した。これが今でもつづいている。それには、理由もある。神典の中には取捨選択があって、きたないものは捨ててある。昔においてやはり、取捨選択していて、だいたい、その時代の人の頭で、きれいなと思う部分を強く述べている。だから、きれいな部分を主として考え、また、いくらか理想を加え、日本の信仰はきれいなものだ、きれいに纏めねばならぬと思う考えが少しでもあると、非常にきれいなものになってしまい、まるで野卑な信仰がなかったようにみえる。だから、われわれの先輩の研究の仕方は、理想もはいっているが、神典そのものの書き方にも煩わされているのである。
なぜ、さえの神が生殖器の神になったかを言う前に、なぜ、さえの神は子供で祀っているかを考えたいが、これは私にもわからぬ。石が村外れにあってもなくても、村外れは、さえの神のいるところと考えている。その村のいちばん外れに控えている神を、何のために子供が祀らねばならぬのか、われわれには本当は解釈がつかぬが、事実において子供が祀っている。しいて言うならば、大人は村の主な神を祀り、神とも言えぬ精霊みたいな村に付属したさえの神ゆえ、子供が管理して祀るとしておくが、もっと根本的なものに触れねば説明は役に立たぬ。
一つ、問題を柳田先生が提出された。郷土研究社の『炉辺叢書』の前に、もう一つ玄文社から出た『炉辺叢書』があって、水色の表紙で、四冊一組になって出た。その一つに、『赤子塚の話』がある。ひょっとすると、この話のほうから説明がつくかもしれぬ。塚の前を通るときに、変わったことが起こるという話である。こればかりでなく、人間の子供が間引かれて(こんな語はいやな語だが、昔はあまり子供が多いと農村が疲弊するから間引いた。今でも行なわれているかもしれぬが)、赤子塚のできる理由を、それで説明されようとした。
この塚の前を通ると、女が孕むことがあるという。これは、塚に魂があって、人の中にはいろうとしており、女の人が通るとその体にはいって懐妊することになるのである。この話がある点解釈の鍵になるかもしれぬ。つまり、まだ人間になりきらぬものの墓は、別に造る習慣があった。琉球では、家々の墓とは別に離して、「わらびばか」(童墓)を作ってある。共同墓地みたいなもので、つまり、一人前にならずに死んだものの墓ということになる。これにもいろいろあって、子供で死んだものとか、赤ん坊で死んだものとかの区別がある。子供と赤ん坊とは、昔の人にはまぎれやすい。青年と大人とは違う。青年で村の中心になったものに対して、子供はまだ完成せぬものだから、家族の一人にははいれない。こんな考えは、こちらにもあったのだろう。特殊なものは、別の墓に葬るという考えである。村の外れにその墓を作ったのが変わってきたのか、また、他のものと結びついたのか、とにかく、子供とさえの神との関係を考える導きになる。
もう一つは、その村と関係のうすい他郷のものを、死後、村の外れに丁寧に葬ると、村のためにつくしてくれると考えた。単なる行路病死者でも、敵のほうから仇するものが出てきて死んだ者でも、また、村に対する奴隷のような関係のものでも、同じことである。村とあまり切実な関係のないものが死んだとき、鄭重に葬ってやると、この力によって、外から来る精霊を防いでくれるのである。村の一員たるものの場合は、それでは不幸だから、村の墓に入れる。もし、この赤子塚を考えに入れると、他国の人の墓と結びつけて釈けるかもしれぬ。
ともかく、赤子の魂の置いてあるところを、子供が管理するものとすると、子供がさえの神祭りにあずかる理由がわかってくる。これは、ほんの仮説であるが、子供に関するすべての行事は、さえの神が中心であり、さえの神が中心なら、子供の元服のときも、さえの神が関係してこねばならぬわけである。しかし、事実においては、さえの神を祭る子供には、小さいものから相当大きくなったものまである。
祭りの標準の形は、正月の飾りを集めて鳥小屋を作り、その中に道祖神を祀り、中にこもっている。雪の降る地方では、雪を積んでトンネルのようなものを作り、その中に道祖神を祀る。これを「かまくら」と言うている。相模の鎌倉と関係あるものとは考えぬほうがよい。私はひょっとしたら、関係があるかと考えているが。そうして、年に一度、さえの神祭りをする。ところによると、「さへの神勧進」(勧進とは、信仰による寄付行為をすすめることで、仏の手が取れたとか、神さまの衣裳が壊れたとかいう場合などに寄付させること)と言うて、子供がいろいろな物を貰いに歩く。実は、自分らが食べてしまうのだが。
普通は、正月のしめ飾りのとれた時分から十四日まで鳥小屋にいて、「とんど」「どんど」などというてしめ飾りを焼く式をする。もとは、飾りを焼いたかどうかわからぬが、火を焚いた。これで一年一度の子供の神の祭りはすむ。ところが、子供がもう一つ先に、十五を境にして元服の式があり、これがすむと一人前になる。この元服のときにすることと、子供の間にすることとが混乱する。
あるいは、私はこうも考える。子供から一人前になるときに、特殊な冠をかぶる時代があった。「なつとうえぼし」「さむらひえぼし」などという冠である。そういう時代が一生の間に何回もあった。子供と若い者との間に冠をかぶって、この時分にするものだということを示す。これが繋ぎにあるので、混乱が起こる。子供が一人前になるため、成人式を行のうたのが、形式だけになって、近代まで元服として遺っていた。頭に加工するだけである。この成年式がすむと、村の幹部になるのだから、長老たちが幹部として知らねばならぬことを教える。いろいろなことのなかで、いちばん重要なのは、生殖行為に関する知識であった。その他にもいろいろなことが行なわれたのだろうが、この生殖行為についての教えが中心になっている成年式(もちろん、神から教えられるものと思うていた)を越さぬと、一人前の若者にはなれぬ。この形が、子供の仲間にも行なわれている。これは、子供に予備として与えていたのか、または、逆に成年式のときにするのを子供も真似をしていたのか、ともかく、子供の信仰に生殖器が結び付く理由は、これがいちばん大切なところであろう。
いろいろな例を集めてきて考えると、反対の証拠もあがってくるかもしれぬ。日本の生活というても、限りなく長い生活をしているし、日本の国で原人が生まれたわけでもなく、どれぐらい長さをへているかわからない。それとともに、いろいろな要素もはいっているから、正反対のこともある。しかし、そういうふうに説明したほうが、日本のさえの神信仰を、適当に一つ一つ順序正しく釈いてゆけるのではないかと思う。
そうでないと、子供がなぜ生殖器の神を祀るのかがわからぬ。また、なぜ、さえの神が生殖器で表わされることがしばしばあるかもわからぬ。さえの神には、生殖器と全然関係のない場合もある。しかし、生殖器と関係がなくても、さえの神祭りは生殖行為の意味をどこかにもっている。つまり、成年式のおもかげが、子供の祭りのうえにも宿っているものと思われる。
底本:「日本の名随筆88 石」作品社
1990(平成2)年2月25日第1刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 ノート編 第七巻」中央公論社
1971(昭和46)年9月20日発行
入力:岡村和彦
校正:noriko saito
2017年8月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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