ルイ・パストゥール
石原純
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人間の病気にはいろいろの種類がありますが、そのなかで最も恐ろしいものは伝染病であって、昔の時代にはコレラやペストや天然痘などの伝染病がひどく流行し、それで数えきれないほどたくさんの人々の生命を奪ったことも、ずいぶん度々あったのでした。そのほかにも伝染病の種類はたくさんにあるのですが、昔の人たちはそれらを恐ろしいとは思っていたものの、どうしてそういう病気が伝染するのかはまるでわからなかったのですから、ともかく神さまにお祈りするとか、いろいろのおまじないなどをして、それから免れようとするのがせいぜいであったのでした。ところでこのような多くの伝染病は眼に見えないほどの小さな黴菌からおこるのだということは、今では一般に知られていますし、ですから消毒を行ってその黴菌を殺してしまえば病気もなくなってしまうこともすっかりわかったのですが、それがこれほどわかったのは、つまりは微生物学という学問がすばらしく発達して来たおかげなのです。
さて、この微生物学はいつ頃から始まったのかと云いますと、それはもちろん黴菌のような微生物を見ることのできる顕微鏡がだんだんに発達してからのことであるのは云うまでもありません。顕微鏡の最初のものは、虫眼鏡を利用してつくられたのですが、それは十七世紀の時代で、オランダのレーヴェンホークという学者が初めて水溜りのなかにある微生物を見つけ出したと云われています。微生物と云っても、もちろんその頃はどんなものかはっきりしなかったのですが、だんだんにその研究が進んで来て、十九世紀の半ば頃になってようやくそのなかには原虫類という動物に属するものと、細菌またはバクテリアと呼ばれる植物に属するものとあることがわかって来ました。またこのような微生物が見つけ出されてからも、それらの微生物はどこからか自然に湧き出てくるものだという考えが一般に行われていて、これはなかなか人々の頭を去らなかったのでした。もっとも十七世紀の時代に既にイタリヤのレーデイという動物学者は肉が腐っても蠅を近よらせなければ蛆が発生しないということを実験で示したのでしたが、微生物はまさかそうはゆくまいと、多くの人々は考えていましたし、また十七世紀の始め頃には、食料品を熱して缶詰にすると、いつまでも腐敗しないことがわかり、その方法が広く行われるようになったのにも拘らず、この際に微生物の発生しないのは、微生物に必要である空気が取りのけられているからだと云って、やはり自然発生を信じている人々もかなりあったのでした。ですからそういう考えの全く誤りであることが確かにされたのは、ようやく十九世紀の半ば過ぎのことで、そこには、ここにお話ししようとするパストゥールのたくさんの輝かしい研究が成されたからであるということを知らなければならないのです。実際に微生物学はパストゥールのおかげでどれ程進歩したかを見ますと、いかにも驚くべきほどで、昔から悪魔のように呪われた伝染病が、今では適当な方法を講じさえすれば、さほど恐ろしいものではなくなったと云うのも、すべてこれらの研究のおかげであることを思うならば、このような研究こそじつに我々人間にとってこの上なく尊い賜物であると云わなくてはならないでしょう。
ルイ・パストゥールは一八二二年の十二月二十七日にフランスのドールという小さな町で生まれました。父はジャン・ジョセフという名で、鞣皮をつくる仕事をしていたので、それだけに家も貧しく、みすぼらしい生活をしていたのでした。ルイが生まれて数年後にはマルノーという町に移り、間もなく仕事の都合でアルボアの町に転じました。この町でルイは小学校に入り、次いで自分で苦学しながらブザンソンの中学校を終えてから、パリへ赴いて高等師範学校に入学し、一八四七年にそこを卒業しました。ルイは幼少の頃には、さほどの特徴もなく、ただパステル画に巧みであって、その頃描いたものが今でも残っているのですが、その後学業が進むにつれて、だんだんに科学の研究に興味を感ずるようになり、師範学校を終える際には自分の科学上の研究を立派な論文にまとめる迄になりました。
高等師範を卒業してからも、そこでなお熱心に研究を進めている中に、酒石酸の結晶に関する論文が、パリの科学学士院会員として著名なビオーたちに認められ、それからはいつもその恩顧を受けるようになりました。間もなくディジョン中学の物理学の教師に任命されましたが、そこでは研究ができないので、それをひどく悲しんで寧ろパリに帰ることを望んでいたところへ、ビオー等の奔走によってストラスブルグの大学の助教授に任命されたのでした。そのときには彼はどんなに嬉しく感じたかわからない程で、早速にそこへ赴きました。これは一八四九年一月のことです。
この時からルイ・パストゥールの熱心な、そして倦むことを知らない学問上の研究がその軌道に乗ったのでしたが、彼のすぐれた頭脳によってそれがいつも輝かしい成功を収めて行ったのでした。かくて六年後にはリール大学の教授となり、一八五七年には母校であったパリの高等師範の学校長に任命されました。ここで益々研究を積んで学界に重んぜられていたのでしたが、一八七〇年に普仏戦争が起って、パリの都も混乱に陥ったので、止むなく郷里に帰って不自由ながらも研究を続けていました。そして戦争の終った一八七四年にはパリのソルボンヌ大学の教授となり、それから更に世界を驚かすような業績を挙げました。それで一八八八年には世界のあらゆる場所から莫大な資金が集められ、彼の名を附した立派なパストゥール研究所がパリに建設されて、その所長となりました。この資金の寄附者のなかには、ロシヤやブラジルの皇帝、トルコの国王などもあり、それからささやかな農夫に至るまであらゆる階級の人々を含んでいたと云うことです。そして当時のフランスの大統領カルノーがこの研究所の開始の祝辞を述べたのに対して、パストゥールはつつましい言葉をもって、「この研究所の仕事こそは世界のすべての人々の幸福のためになされるものでなければなりません」と答えたということです。
この時から今日までこの研究所にはすぐれた学者が集まってすばらしい研究を行いつづけています。これもパストゥールの偉大な仕事のおかげであると云わなければなりません。また一八九二年には、彼の七十歳の祝賀の式がソルボンヌ大学で盛大に行われましたが、これこそパリの歴史のなかで最も美しい一頁をなすものだと評せられたとのことです。その後一八九五年の九月二十八日に病が重ってこの偉大な碩学はついにこの世を去りました。フランスでは彼を尊重して、ノートルダムの聖堂で国葬を行ってこの上もない哀惜の念を表したのでした。なおフランスの国民がどれほど彼を尊敬しているかと云うことについては、パリのある新聞社でフランスの偉人投票を行った際に、パストゥールに集まった投票の数があの名だかいナポレオンをさえ遥かにとび超えて絶対的な第一位を占めたということでもよくわかるのです。そしてこの事はまた国民が学問を尊重する念の強いことを示す点で、フランスの一つの特質をも示していると見てよいのでしょう。
パストゥールの学問上の仕事は非常にたくさんあって、ここでそれを一々こまかくお話ししているわけにはゆきませんが、ごく大体を云えば微生物に関する研究と、それで起される病気からの免疫の方法を明らかにしたことであります。まず微生物が自然に発生するものではないと云うことに対しては、たとえ空気があっても、それが完全にきれいであれば微生物が決して発生しないと云うことを、実験で示しました。普通の空気のなかにはどこにでも腐敗をおこさせる細菌がいるのですが、場所によってはそれの少ない処もあるので、人家から離れた辺鄙な場所や高い山の上ではそうであることを実験で示しました。そして高さ三千メートルもあるモンブランの山の頂きでは腐敗の殆ど起らないことをも確かめました。またこの実験に続いて、酒類を醗酵させる働きがすべて微生物に依ること、しかもその際にも微生物にいろいろの種類があって、その働きのめいめいちがうことなどを明らかにしました。これらの研究で腐敗とか醗酵とかのはたらきがすべて微生物によって起されることが確かになったので、これは学問の上で大きな功績の一つであります。なおパストゥールは、このような醗酵がいつもある温度の範囲のなかでのみ起ることを示したので、実用の上に意外に大きな効果を挙げるようになったのでした。それは元来フランスでは葡萄酒の醸造が盛んに行われていて、それが重要な産物となっていたのでしたが、醸造家が時々失敗して腐敗させたり風味をそこなわせることがあって困っていたのに、パストゥールはそれが醗酵菌の作用によることを示し、摂氏五十度乃至六十度の温度に数分間熱しさえすればこの菌を取り除くことのできるのを明らかにしたからです。それ迄は葡萄酒を保存するのに止むを得ずアルコールを混ぜていたのでしたが、それでは値段も高くなり、また健康にも害があったのです。ところがパストゥールの方法で醗酵菌を除いてしまえば、ごく簡単に保存が出来るので、醸造家にはこの上もなく都合よくなり、以来この方法はパストゥーリゼーションと呼ばれて広く行われるようになりました。またこの頃フランスには蚕にペブラン病と名づけられた一種の病気が流行し出してだんだんに全国にひろがってそのおかげで養蚕業がまるでみじめな有様になり、ある地方では桑を植えることもやめてしまったので、土地も荒れ果てるほどになりました。それで政府ではこの対策を講ずる必要に迫られ、パストゥールにその病気の研究を依嘱したので、彼はそれから五年間いろいろな苦心を重ねてこれをしらべた末に、ついに蚕から出る蛾のからだのなかに病原となる微生物のあるのを見つけ出し、その後この病気の予防法をも明らかにしました。このおかげでフランスの養蚕業も以前のように恢復して再び盛んになったのは、フランスの産業に対する大きな貢献であったと云わなければなりませんが、それと共に学問の上でも、病原体としての微生物を確実にした点ですばらしい功績を示したのでありました。
実際にこの時までは微生物がいろいろな病原になるということもよくわかっていなかったのですから、医者が外科手術を行う場合にも一向に消毒を行わないで平気ですましていたのでしたが、ここで消毒の必要であることもわかり、そこで消毒には石炭酸をつかえばよいと云うことをイギリスの外科医ジョセフ・リスターが見つけ出しました。これは一八六七年のことでしたが、その後数年経って普仏戦争が起ったので、そのおりの負傷者の手当にはそれが非常に役立ったのでした。
パストゥールはこれに続いていろいろな伝染病の予防の方法を熱心に研究しましたが、それには結局免疫という事実を利用するのが最も適切であるのを見つけ出しました。
免疫というのは、かなり古くから知られていた事実で、例えば天然痘にかかった人が癒えてしまうと、今度は二度とかかることがめったにないというのは、それであります。それでずいぶん昔からインドや支那では、天然痘にかかった人の膿汁をとってそれを傷口に入れて免疫するという方法が行われていたということで、それが十七世紀頃にヨーロッパにも伝えられましたが、十八世紀の末にイギリスのエドワード・ジェンナーという医者がこれを応用してついに種痘法の効力のあることを見つけ出しました。これは天然痘にかかった牛からその病菌を含んだ痘苗というものをつくり、それを人間に植えつける方法なのです。このおかげで天然痘に対する免疫が広く行われるようになり、その流行も大いに減るようになったのでしたが、パストゥールはこれをいろいろな病気に応用しようとして、研究を進めたのでした。
ちょうど一八七九年の頃のことでした。アメリカで鶏コレラと豚ペストとがひどく流行して、非常な損害を生じました。パストゥールはたくさんの実験を行って、まずそれらの病原体を見つけ出し、それから予防法をも考え出してそれに成功したのでした。ことに脾脱疽病という家畜の病気のおかげでフランスでも羊や牝牛が斃れることが多かったので、その予防接種の方法をパストゥールが完成したことは、羊毛の生産や牛の増産の上にも非常に役立ったのでした。これは一八八一年のことで、パストゥールは多くの人々の眼前でその実地試験を行い、効果の著しいことについて人々を驚かしたのでした。
パストゥールは、その外にビールの変質を防ぐ方法をも見つけ出したり、その他のいろいろな研究にも成功しましたが、全人類のために貢献した彼の最大の仕事と云われているのは、恐水病の病毒を発見し、そしてその予防法を考案してそれに成功したことであります。恐水病というのは、狂犬に噛まれた際におこる恐ろしい病気で、これを救う治療法はそれまで全くなかったのでしたが、パストゥールの熱心な研究の結果としてそれが見つけ出されたということは、じつに特筆するに足りることなのでありました。もっともパストゥールはこの予防法を考え出したときに、動物試験にはほぼ成功したものの、それでもこれを人間に施して果して危険がないかどうかが最初はわからないのでしたから、実際に使用するのには少からず躊躇しました。ところが一八八五年の夏近くなった頃、アルサスの小さな町から狂犬に咬まれたという九歳の子供が母親に伴なわれてパリに出て来て、その母親からパストゥールに治療を懇請したという偶然の機会がめぐって来ました。それでもパストゥールは危険を虞れて大いにためらいましたが、ついに同情の念に動かされてその治療を試みることに決心し、予防接種を行いました。併しその結果がわかるまでは心配してひどくなやみ続け、若しこれがうまくゆかなかったら、一人の子供の生命がうしなわれるのだと思うと、とても平静な気分ではいられなくなり、幾日も幾日も眠れない夜が続いたということでした。ところが四十日程も経ってその療法がまず成功を収めたということが確かになって来ましたので、これで彼の心のなかがどれほど明るくなったことでしたでしょう。その後この子供の病気が完全になおったので、彼は始めて安心して、よろこんだのでした。実際にこの予防法によって今までは全く治療の方法のなかった恐水病が癒やされるようになったということは、医学の歴史の上でいかにも輝かしい出来事であると云ってよいのです。パストゥールのたくさんの研究のおかげでことに恐ろしい病気に対する医療の方法が進んで来たということを思うと、さすがに学問の尊さを讚えなければならないでしょう。
底本:「偉い科學者」實業之日本社
1942(昭和17)年10月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
「漸く」は「ようやく」に、「又は」は「また」に、「尤も」は「もっとも」に、「之」は「これ」に、「遂に」は「ついに」に、「或る」は「ある」に、「先づ」は「まず」に、「殊に」は「ことに」に、「実に」は「じつに」に、「幾日も〳〵」は「幾日も幾日も」に、置き換えました。
※「噛まれた」と「咬まれた」の混在は、底本通りです。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には振り仮名が付されていません。
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
入力:高瀬竜一
校正:sogo
2018年8月28日作成
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