奥常念岳の絶巓に立つ記
小島烏水
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泊まったのは、二の俣の小舎である。
頭の上は大空で、否、大空の中に、粗削りの石の塊が挟まれていて、その塊を土台として、蒲鉾形の蓆小舎が出来ている。立てば頭が支える、横になっても、足を楽々延ばせない、万里見透しの大虚空の中で、こんな見すぼらしい小舎を作って、人間はその中に囚われていなければならない、戸外には夜に入ると、深沈たる高山の常、大風が吼けって、瓦落瓦落いう、樺の皮屋根の重量の石が吹き上げられて、一万尺も飛ぶかとおもうのに、小舎の中は空気までが寝入っている。
自分は今まで、富士山や木曽の御嶽の、頂上の小舎に寝泊まりしたし、或は谷間に近く石の枕で野宿をしたことは幾度もあったが、実は今夜ほど、気味の好く無かったことはない、自分は一人である、この狭い小舎の中、というよりも天外に奔放する一不可思議線のアルプスに、人類としては、自分と導者の善作と只った二人が存在するばかりだ、この二人は生れてから昨日までの長い年月に、互に顔も知らねば名も知らぬ人々である、しかして、二人が呼吸のある屍骸を抱き合わないばかりに横えているところは、高く人寰を絶し、近く天球を磨する雲の表の、一片の固形塊で、槍ヶ岳は背後より、穂高山は足の方より、大天井岳は頭を圧すばかりに、儼然と聳立して、威嚇をしている、僅にその一個を存するとも、猶以て弱きを圧伏するに足るのに、ここに三個を並存している。
自分が少くとも、この一夜に於て、何よりも、誰よりも、最も親しむべき保護者として頼める善作は、呼吸を窒められたかと疑うばかりに、安々と寝ている、我と彼とは隣り合っているというだけで、自分の心中の恐怖は彼の冷然、化石の如き不可導熱体に波及しないから、二人の間は、全然没交渉である、「無邪気は、強し」とはワーズワース詩中の一句である、彼の恭謙なる、昨夜までは自分に事うること、主従の如くであったが、ここに至って無邪気なる彼は、いつの間にか自分の生命から二番目の赤毛布──山中唯一の防寒具──を奪って、スッポリ頭から冠って快く寝ている、自分も寒いから、痩腕の力限りに毛布の端を引ッ張ってみたが、びくとも動かない、寒気は彼をして、真個の正直者となさざれば止まなかったのである。
併し流石に敲き起して毛布を奪い返えすまでに、自分も従容と寝てはいられないのである、石で風を抑えた戸帳代りの蓆一枚が、捲くられもしないのに、自分の枕許に、どこよりともなく、影の如く幻の如く、近づくものがある、足音を偸でも「或る物」は「無き物」よりも、隠然たる権威を挟んで予め一種の警告を与えるものである、彼は忍びて先ず、自分たちが生きているのか、死んでいるのかを試んとする如く、つくねんと佇んで覗っている、天地皆死んだとき、宇宙は星の外に皆吹き払われて、空洞になってしまったとき、自分の眼は冴え冴えしくなり、耳まで鞘を払った刀身の如く、鋭利になって、触るれば手応えあらんずるとき、幻は微小なる黒体となって、毬の如く独楽の如くに来た、この黒体が只一つ動くために、小舎の中に静粛に圧伏されている空気までが、それに伴れて活きて来た、自分は昼の疲労も失せてしまい、俄破と頭を擡げると、黒体の小動物はコトコトと音をさせて、石の穴についと辷り込んだ、裾を引いて取ったように。
外へ出て見ると月は高い、槍ヶ岳は大海から頭をのそりと出す烏帽子岩のようで、雪の白条は岩の上へ鴎が糞を落したようだ、自分は恍惚として、今山の巓に立っているのか、波の寄る渚を歩いているのかと、惑った、夜の自然は一切を平等にして、山とか海とかに仮現する異性を失わせる。
足の下、一面は雲の波で、月があっても、凸面に氷を張り詰めて、下界を固く封鎖して了った、この下に都府あり、簇々たる人家あり、男女あり、社会あり、好悪あり、号泣放笑ありといっても、これは黎明が来るまでは存在しない世界である、仰げば星は快楽の象表、月は光明の窓、わが小舎にトロトロ燃え残っている焚火のみが、人の手に成った唯一の活動──これも事業なり──を示すのを外にして、天下の人類と、その作れるものは悉く廃滅し了んぬ。
風が寒くて、皮下まで冷たいものを注射されるようだ、そのたびに身の毛が慄つ、再び小舎に戻る。まどろむこと一瞬間、焚火も全く消えた、一個の逞ましい木像と、一個の冷たい大理石像と、小舎の中に横わる、一は依然として動かないのに、一は蠢めいて待つものあり。
待ちに待った朝は来た、朝がいかなる方面から、いかに忍び足に寄って来て、一秒ずつ額を白くしたかは徹夜凝視しても解らない、夜と朝の筋目が判然と目立つほどなら、地球の緯度線が草鞋の爪先に引っかかるわけである、しかも争う可らざるは朝の神秘なり、一たび臨むとき、木偶には魂を、大理石には血を与る。
いぎたなく眠れる善作を揺り起して、炊事を命じ、自分一人寒気に慄えながら小舎の前の石峰に立た。
再び言う、脚下は雲なりと、一望茫として、北氷洋が凝ったように雲は硬く結んでいる、東方甲斐の白峰を先頭とせる赤石山系のみは、水の中に潜んでもいるように藍を潮した、我が一脈の日本アルプスは、一旦五六岳辺から胴を波の中に没してしまったが、やがて立山となって首を躍出している、と見るとき、海の底から煥発した朱樺色の火が、一文字を曳て走った。
日は未だ昇らない、夜中に高かった銀の月は、槍ヶ岳と穂高山の中間に、淡くかかっている、その脚下の鉄壁の雪田のみが、やはり白い。
どこかで、タケガラスが啼いている。
朱樺の火は燃え出した、その明るくなることは、花が発くのと同じで、万象の色が真の瞬間に改まる、槍と穂高と、兀々した巉岩が、先ず浄い天火に洗われて容を改めた、自分の踏んでいる脚の下の石楠花や偃松や、白樺の稚いのが、今眠から醒めたというように朝風に身振いしてソヨソヨと顫った、天地皆新しい。
朱樺は黄金色とかわる。
桔梗色に濃かった木曽御嶽の頭に、朝光が這うと微明として、半熱半冷、半紅半紫を混ぜて刷く、自分は思った、宇宙間、山を待ってはじめて啓示される秘色はこれであると、噫、何ぞ紫の筑波を説かん。
天は愈よ明るい、氷の海は一層の白を加うると共に、一分の硬味を減じて来た雪になったのである、玉屑累々ともいうべき空に懸れる雪の大路を無形の手で、橇を縦横に掻き廻しはじめたと見え、捏ね返した痕跡が割れ目を生じたころは、雪は一方に堆く盛り上られ、一方では掬われたようにげっそりと凹む。
時に四時四十七分、東方より金芒爛として飛ぶ、槍も穂高も、半肩以上は微黄となり、以下は大天井岳をはじめ、その一帯山脈の影が、かぶさるので闇い衣を被ている、日の昇るに伴れて、附近の大山岳、幾百の頭臚皆起って舞う。
風起る、駆け戻って朝飯を済まし、善作が後始末をしている間、一足先へ出立する、奥常念に向おうとて。
八月の炎天というのに、黒羅紗の外套を着る、毛糸の襟巻をする、革の手袋をはめる、かくして岩頭に金剛杖をブッ立て、日の出の大観を眺めていた。
善作が来ない、あまり長いから一、二町戻って見たが影も形もない、小舎まで帰ってみると、几帳面な彼は中を片附けて、蓆の戸帳まで叮嚀に卸してあるが、本人はどこにも見えない、自分を置去りにしたのではなかろうが、山路はこの辺の諺にも一分八間といって、足の爪先の向けようで、同じ頂から別れて、反対の方角に行くことになる、自分は路を迷ったのである。
太古の山中へ、一人遺されたかと思うと、雲の上にも漂泊の運命が、犇々と身に迫って来るのを感じる、声を限りに叫んだが、反響は岩の空洞よりオーイと返すのみ、自分は友を呼ぶ、反響は自分を冷嘲する、寥廓無辺の天の一角を彷徨うて、何処に自分は適帰するのであろう、昨日来た路は記憶している、引き返して中房温泉に戻れば、最も安全である、併し自分は奥常念を超え蝶ヶ岳から神河内へ下りてみたい、路を迷って幾日も山谷の間を往来するのはいいとしても、食糧品一切は、善作が荷って去った、これには弱る、又思い返えして、自分が先方を捜している通り、先方でも自分を呼んでいるに違いない、行け行けと決心した。
今は足許に岩桔梗が美しく咲いていても眼に入らない、山の西の端まで疾歩すると、その崖の尽きた下遥かに、善作が空身で立っている、手真似で下りろという、崖が急で下りられない、指す方に従って漸く下り場所をさがし、偃松の中に転げこむと、荷梯子がそっくり寝ていた、彼も喉のつづく限り呼んだという、自分も叫んだ、相顧みて破顔一笑した。
その崖を下り切ると、白い小山を蜿ねらした雪田が三稜角形に、篦で均らされたようになって、五、六町もつづいている、自分が従来見た雪田というのは、多少の凸凹があるにしても、平面か斜面になっているのにこの雪田は殆んど立体になって、狭い代りに厚味がある、北風で崖へ崖へと吹き寄せられ倚り嬰って尖立したまま、凝って雪山となったのであろう、月影を浴び、花影(高山植物の)を印する万古の雪も、幾回か人の影が落ちたかは、疑問である、げに不断の冬は、山の一角に結象して、寂寥の姿をここに寐かしている。
面前には横尾鳥の三大山塊が、駱駝の背のように起伏して並でいる、自分はこの山を常念とばかり思っていたが、一山登って、路はその横腹、偃松の稀疎になったところを行く、二の俣の小舎から横尾鳥までは一時間もかかり、横尾鳥から常念までは十町ほどの距離に過ぎぬであろうが、急の下りで、急の上りであるから、また一時間を費やす、始終奥常念は面前に屹立して、絶えず群山を威圧している、麓まで来る、前常念岳というのは、遥かに低く奥常念から岐れて、一支脈を南安曇の平原に向けて派出しているが、雲の海が底無しに深くて、何も見えない、見えるのは前常念に小さい髻を擡げている三角測量標ばかりだ。
愈よ奥常念にかかる、麓には偃松で編んだ毀れ小舎が傾いている、その辺は平坦な草原で、椀を伏せた形の石山を、草の中から天に向けて躍起しているのは、奥常念岳である、花崗の山に上りつけた人は、一枚岩の、兀々とした石山を想像するであろうが、常念岳は大天井岳と同じく、石片の乱次なき堆積である、幾百千枚も積んで、上へ行くだけ痩削して来る、この山と高さを競い得るものは、高瀬川の谷を隔てた穂高山ばかり、群山は皆沈んで了う、石片の無器用な継ぎ目を補綴するために、偃松や白花の石楠花が、少しずつ這っている、偃松の尽きたときは頂に上ったときだ、天に近づくときの最後の木は、生物の最も執拗に踏み止まった最後の健児で、彼等は自由に生れて遠慮なく蔓延る、星が隠れると殆んど同時に交代して、青々と活きた姿を見せる一本として安易に立脚することを肯んぜざる霊木である。
我は、今この高山の頂に立っている、昨日も今日も霧が下りないから、雷鳥は影も見せない、風死して動くものもない、身も魂もこの空気の中に融けてしまいそうだ、併しいつまで経っても、融けもしなければ揺ぎもしないものは、穂高と槍である、無限の時間と空間とに、不朽の身を向けている一本槍の槍ヶ岳は、ここから見ると、七、八個の鈍頂と一箇の鋭錐とを有して天を刺している、或時は月を貫ぬき、或時は雲を截る、槍に続いて赤岳や、祖父ヶ岳が見えるが、その以北は距離も遠いから、藍色に冷めている、常念は穂高と直線に睨み合い、槍に向って北東へ近く斜線を放ち、御嶽や乗鞍岳に向って南西へと遠く、大斜線を放射している。
一体蝶ヶ岳だの、鍋冠山だのという、二千五百米突以下の緑鬱葱たる山に名があって、奥常念一帯の三千米突を出入する大山脈に、無名の山が多いのは、下から仰ぎ視られないから、名の命けようが無かったのであろう、彼等は雲の表に住む、いかんとなれば、常念山脈と槍ヶ岳山脈と並行していて、その東と西は雲で、下界を封鎖しているにも係わらず、並行線の中間、高瀬川渓谷には、霧一つ下りない、しかして両山脈の障壁の外は雲に埋まって九十度の熱日も之を融解することが出来ないまでに、固く結んでいる。
この中で、我が奥常念は一と際高い、殊に蝶ヶ岳に向って低く下っているところは、波の如き山を躍らすこと七、八峰、峰は皆磐石を畳んだもので、石は皆裂け、偃松と、岩ぶすまという地衣が布いているばかり、この方面から常念を望むと、前の婉容はなくなって、見上げるように急峻に尖っている。
これらの石は皆雨に晒され、火に打たれた断片である、壊敗の形骸である、しかも血を踏まざる自然の零落は、未だ死んだこともなければ、朽ちたこともない、之を荒廃、寂莫、零落と呼べばとて、誰か彼等より、不死の性を奪う権力をか授けられたる、偉大なるは常念岳である。
常念の頂に佇んだときの自分は実にこう思ったのである、自然というものは、自分の感じた通りに現われもし、動くものであると、自然の自由とは、即ち自分の感じ得る自由である、我はこの山脈に分け入って、昨は月の清光を浴び、きょうは雲漫々たる無限を踏む、我といえる一個体、一霊魂、一可燃性の存在を許して我を通過して観ぜしむる宇宙は存外小さいものではあるまいか。
どうせ最後は静粛なる自然の中に葬られるにしても、少くとも山上の自分は、ゆうべ小舎の中で微小なる鼠一疋に恐怖した自分ではなかった。
底本:「日本近代随筆選 1出会いの時〔全3冊〕」岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年4月15日第1刷発行
2016(平成28)年6月15日第2刷発行
底本の親本:「小島烏水全集 第六卷」大修館書店
1979(昭和54)年9月20日発行
初出:「中學世界 第十卷第七號」博文館
1907(明治40)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「返し」と「返えし」、「捜し」と「さがし」、「寝」と「寐」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「信州常念岳」です。
入力:岡村和彦
校正:富田晶子
2019年11月24日作成
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