結婚
中勘助



 姉の死と同時に私のところの家庭はもう久しく予期された行きづまりに到著とうちゃくした。残されたのは頭が悪くてもののいえない七十をこした兄と六十に手のとどく私、どうにもならない。病中は私が主婦の代役をし、お見舞にきて下さる親戚やお知合いの婦人の好意に頼ってしのいできたもののそれは余儀ない窮余の窮策で、いつまでも続くものでなく、続けるべきものでもない。で、私は考えてたことを実行することにした。結婚。私は誰彼に候補者の物色をお願いした。ある人は祝福してくれた。ある人は悲愴な顔をした。また他の人は意外なことが降って湧いたように仰天した。何でもないものを。結婚しないのも私の思慮なら結婚するのも私の思慮である。場合に応じて適当な生活法をとるだけのことだ、永い独身生活から結婚生活への転換はなにか際立った感じを与えるだろうけれども。皆にお願いした私の言葉はいろいろだったろうが結局条件は 健康で、善良で、地味で、兄の世話をよくしてくれる人で、少しは話のわかる人というのだった。事情が許さないから出来るだけ早く。

 なにかとひとの御厄介になって後始末に日を送るうちに姪の文枝さんと芳ちゃん兄弟が相談して話を一つもってきた。文枝さんの女学校一年以来の親友でお茶の水の専攻科を出てから三年東大の美術史を聴講した人、ある書道の大家の子飼いの愛弟子で二十年もそのほうの教師をしてるが初婚だという。書道は苦手だけれどひとが上手なのは都合がいい。本人、家庭の事情、その他よくわかってるし、かく一度逢ってみようということになった。しかしこちらは落第しても平気だが先方は婦人のことだからというので一日文枝さんがそれとなく誘い出し口実を設けてつれてきた。間さんの奥様がおいでになりました という取次ぎに玄関へ出たら背の高い知らない人をつれている。この人だなと思って文枝さんがとり繕うように紹介するあいだにひとわたり見る。永年の教壇生活に疲れ往復の街の塵に汚れたという様子をして、粗末ななりをし、粗末なハンドバッグをさげている。後できけば ちょいと町へ買い物にゆかない? かなにかで郊外の家からつれ出されたらしい。黄疸おうだんを病んだあげく永らくお父様の病気の看護をした疲れが回復していなかったのだそうだ。私もまた久しい姉の看護とそれに続く不幸のために心身共に疲れはてている。双方化けそうに年をとったうえに見る影もなくなったところを見合ってまあ我慢しようということになったのだからまず大丈夫だろう。さあどうぞ と座敷へ案内して石摺いしずりの手本なぞ出し話し始めたところへ来客でその日はそれだけになった。私のほうは もらってもいい ということで文枝さんはお友達にうち明け「琅玕ろうかん」と「沼のほとり」を貸して気心の知れるまでしばらくつきあってみるようにすすめ、もう一度つれてきておいていった。お友達はうまく計略にかかった自分を思い出しておかしそうに笑った。はにかむ年ではなし、話題は芸術的方面にあるし、何かと話したのち私は先方のためゆっくり考えてから諾否をきめるようにいって別れた。その後文枝さんからお友達が私に逢い私の著書を読んで もうのばす必要はないから早く話を進めたい といってるときいたのでその次に逢った時に

「そんなに早まってもし私がたぬきの化けたのだったらどうします」

といったら

「狸の化けたのでもいい」

といって笑った。化けたほうでたじたじとなる。そこでお父様にどう切り出そうかが文枝さんの次の苦労になった。子供のじぶんから往来して至極心安いとはいえ軍人あがりの頑固なところもあり、それに日本流からいえば事の運び方が逆なのだ。という訳は、お父様というのが子煩悩のせいもあるかとても石橋を叩いて渡るほうでこれまでいくら縁談をもっていってもまとまったためしがない。で、今度はひとつ本人同士の間をあらましきめてからぶつかってみようという相談だったのだ。とかくして話は切り出された。が、案のごとく石橋主義だ。ところが私がある理由から永年一般に親類づきあいをしないため文枝さんは私についてお父様を満足させるほどの説明をすることができない。そこへこちらは「出来るだけ早く」だ。ああこうの末が一場の悲喜劇となって破局の手前にまで達したらしい。しかし文枝さんが私をよく知らないと正直にいってくれたのは私の幸運だった。従来親戚の間の評判のよくない私、妄想や、誤解や、曲解や、悪意や、敵意から、偏屈、一刻、怠惰、吝嗇りんしょく貪慾どんよく、等、等、勝手放題な悪名をばらまかれた私である。いい加減なことをいわれてはたまらない。お友達のほうでは心当りを聞合せた。その結果は 調べたところ万事吉報ゆえ一日も早く話をお進めなさい というのと、酒の席で自分は膝を崩さずにいながら人をそらさないような人だ という報告だったそうだ。かたわらお父様は「沼のほとり」を読み、特に「孟宗もうそうの蔭」のなかの私が妙子を可愛がるところに打込んで 今度こそ私の心はきまった と事は一遍に落著らくちゃくしてしまった。世は様ざまだ。それを読んで私を非難する人もあるかと思えばそのために大事の娘をくれる人もある。

 式は秋ときまったがそれまでにも始終手伝ってもらいたい。それにつけても一度先方の人たちに逢っておくことが望ましいのでその日どりを打合せるうちにも目前の必要に迫られて幾度かきてもらった。いちばん困るのは兄の身につける物の世話だった。それを頼む時に私は

「兄は私より身なりが悪いと気にするからなるべくいいのをせてあげてください」

といい含めておきながらじきにそれを忘れてしまった。間もなくある日のこと、茶の間で食卓の向うに坐った兄がひどくぴかぴかするものを著てるのを見て私は家政婦さんが手当り次第に出したのだと思い

「大層いい物を著ましたね」

といったら兄は指で輪をこしらえ目へあてがって これが出してくれたのだ といった。

 お友達は眼鏡をかけている。私は そうだったのか と思って

「そりゃよござんしたねえ。いい人ですよ」

といったら 我意を得た という様子をして見せた。そうしてるうちにわかったのはそこにまるで八犬伝式因縁が絡みあってることだった。文枝さんの母親──私の実の姉はいうまでもない。亡くなった姉とは絵のほうで狩谷先生の同門で知りあっている。私のごく近しい親戚の者とお友達の妹とは別の絵の先生の同門で、その小さいじぶん附添っていったりした関係からお友達も顔見知りである。お友達が親のように慕ってる書道の先生は半世紀足らずも昔の実の姉たちの女学校での先生であり、妙子の家とはひと夏葉山でたまたま近処に家を借り、学校が同じところから近づきになって一緒に遊んだそうだ。そのうえ本人は知るまいが妙子の兄弟がその後大学でお友達の叔父さんの学生になり私宅へも入魂じっこんに出入りしている。そのほか同藩や同窓の関係などを辿ってゆくと亡くなった姉の生家や親戚、私の友人にも糸が絡んでいる。まことに「偶然」は面白くもまた怖いように目にみえぬ蜘蛛くもの網を張ってるものである。

 約束の日に私は出かけたが途中妙子が亡くなったという急報を得て引返した。妙子には不意に打明けて驚かしてやろうと思ってたものを。この日のことは「蜜蜂」に書いた。改めて打合せた日にはお友達が駅へ迎えにきた。年はとっても女だけに蝙蝠傘こうもりがさで顔をかくして歩くのをなにかと言葉をかけながら並んでゆく。疲れきった体に日盛りの炎天七、八町はらくでなかった。さて行きついた家はちんまりと門もなしに生垣をめぐらして、話にきいたとおり役をやめて娘三人と書、画、茶、生け花とめいめいくろうと乃至ないし素人ばなれのした技と楽しみをもち、つつましやかに安楽に団欒だんらんしつつ余生を送ってる老士官の住居にふさわしいものだった。玄関からあがるとすぐ二階の茶がかった四畳半へとおされ、流れる額の汗をふいて待つま程なく袴をつけた老士官があがってきた。さすがにかっぷくがよくて挨拶にもどこか武張ぶばったところがあるとはいうもののこれが昔二龍山の戦いにわずかに生き残った二人のうちの一人で、二龍山のぬしと綽名あだなされて感状や金鵄勲章きんしくんしょうを授与され、その後も永く大陸で任務についてた人とは格闘でもしてみなければわからない。工兵科だったせいもあるのか器用で絵が好きで自分もなかなかよくかき、病後まだすっかり回復してないというのにつやのいい赤ら顔の見かけに似ず生下戸きげこで、笑うとおかめさんみたいな可愛らしい顔になる。酒の話が出て、私が 酒は好きだし相当飲めるけれど一合でも五勺でもそれだけの満足ができる といった時に

「そりゃえらい。そりゃなかなか出来ないことだ」

といったので

「しかしそうなるまでにはやはりよほど年期を入れませんと」

といったらおかめさんが細い目をなくしてさもおかしそうに笑った。部屋の狭いためか家の人が一人ずつあがってきてひきあわされてはおりていった。羽織袴をつけてるもののいささか野武士めいたところもある私はどこか荒大名の茶の湯のかたちだったが、帰った後の評判を結婚後きくところによれば私は見かけが北欧型で、日本に永くいらっしゃるから和服がよくお似合いになります というところだということに衆議一決したそうだ。そのうえ皆は私に「顔回がんかい」という綽名をつけた。書いたものからだろう。顔回は恐れ入るが肱枕ひじまくらでごろをするところだけは似ている。家庭をもってからの心得としては執筆中には茶をもっていってもそうっとおいてくるよう、食事の用意ができても仕事の最中に呼びたてたりしないよう、あまりつましくして恥をかかせないよう、食べ物がむずかしいだろうから心をくばるよう、女の嫉妬はとりわけ見苦しいものだからくれぐれも気をつけるよう、等、等、親らしい愛情と細かい心づかいの籠った聞くだけでも有り難いものだったそうだが、実は私の行きかたはそれとはおよそ反対で、執筆のあいだに茶なぞは飲まないが出されたとて邪魔にはせず、食事の時間はきちんとしていつでも筆をおく、貧乏ぐらしは私のほうが馴れてるらしいし、食事は簡単で料理に手をかけると小言が出る、映画館でも満員電車でも安全地帯の人ごみの中でも歌をよみ詩を作るというように世間の文士型とはよほどちがったものなのだ。お父様はかねがね大の御ひいきの私の姪たちがこの話に骨を折ってくれることをひどく喜んでたという。北欧型顔回は口述試験に及第した。

 私はふとしたことから食あたりをしたのがかねての衰弱のためかいつまでもなおらず、警察の許可を得て白米のかゆをたべたりしても効果がなく、とうとう床についたまま式日になった。その朝しかたなく起き、床屋へゆく支度をしていざ出ようという時に茶の間でばったりやはりそこへ起きてきた兄と出合った。

「床屋へいくから留守番を頼みます」

 私は気軽にそういって家を出、時刻も迫ってるので行きあたりばったりの汚い家で調髪をすませて帰ったら兄が亡くなっていた。私の気もちは混乱した。私は駆けつけた今日の仲人役の間氏に式の延期を希望したが、結局同氏の意見に従い喪を秘してすませてしまうことに決心がついたのが定刻二十五分前。大急ぎで礼服に著かえるあいだに俊子さんが表でタクシーを呼んでくれる。ぼろながら間にあって学士会館へ五分前。留守のことは来賓総代のはずだった梶井さんにお願いしてきたから心配ない。事情は間氏から先方のお父様にだけ話してさりげなく式を進める。人数は時節がら、また私の流儀に従ってすべて二十人ばかり、内輪の中の内輪だけだ。披露の宴で私はあらゆる種類の酒を次つぎと飲んでよほど元気づいた。主賓である先方の伯父さんが卓子テーブルの向うから

「山本大将はお父さんが五十六の時のお子なので五十六とつけられたということですがあなたはなんとおつけになります」

といったので

「は 五十八とつけます」

と答えたら皆が一度に笑った。それまでの堅苦しさがそこでほぐれたような気がした。宴後休憩室でも私は平静に人たちと談笑した。お父様はあとで 見ていてたまらなかった といったそうだ。

 文枝さんに自動車で送られて家へついた時にはじめて事情を知った和子は茶の間の隅で初子さんに慰められながら泣いた。間もなく梶井さんや留守をお願いした人たちが帰り、家政婦さんと女中さんが部屋へ寐にいったあとそちらとは家の反対の端にかけ離れた奥で和子は次の間に、私は座敷に屍体と床を並べて寐た。平静ながら不思議な厳粛な気もちだった。遺骨にし、葬式をすませ、位牌だけになってからも座敷に飾り壇のあるあいだ四十九日私たちはこれを続けた。

 兄──それも今は一片の記憶にすぎないが──の急死のために私の結婚は目的の大半を失った。出来るだけよく世話をしようという念願だったものを。兄はまことに気の毒な人だった。人びとの歓心と喝采をかつえるように望みながらそれを買う術にははなはだ拙劣であった。私との間についていえば、自分だけが歓心喝采の中心であらねばならず、少くとも第三者のいる限り兄の前で私は有って無きがごとく、いなむしろそれ以下であらねばならなかった。かくして自ら求めてつくった敵がこの私ではなくて「不可能」という恐ろしい相手であることを覚らず、永い一生をとおしてそのために自ら苦しみ、また周囲を陰惨な暗黒にした。実に五十年私の数しれぬ譲歩も、堪忍も、寛容も、慈悲も、ついにこの人を覚醒させることができなかった。四十年ただ亡くなった姉の真心こめた不断の諫言かんげんと最後にきた老齢によって晩年多少の反省と自制を見せるようになったに過ぎない。私どもの不幸な関係はここに終った。そうして私のあらたな、間違いなく短い生活はこの人の通夜をもって始まったのである。

底本:「日本近代随筆選 1出会いの時〔全3冊〕」岩波文庫、岩波書店

   2016(平成28)年415日第1刷発行

   2016(平成28)年615日第2刷発行

底本の親本:「中勘助全集 第八巻」岩波書店

   1990(平成2)年322日発行

初出:「朝日評論 第一巻第一号」朝日新聞社

   1946(昭和21)年31

入力:岡村和彦

校正:館野浩美

2018年426日作成

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