能の見はじめ
中勘助



 なにか書かないかといつて「能楽思潮」を贈られたが私はずゐぶん古い能楽愛好者ではあるけれども能楽を研究したこともなければその暇もなかつたし、そのうへ学校を出てからは気分的に、或は住居その他の関係からも久しく観能を中絶しなければならなかつた。今この雑誌を見ると必要なこと、面白いことはほかの人たちがみんな書いてゐるし、次つぎの号にも書くだらう。今さら私が蛇足をそへる余地はない。で、ただ古いといふところに多少の興味でもあるかもしれないと思つて私がそもそも能といふものを見はじめた時のことを書いてみることにした。

 中学三年の頃だつたらう、とするとやがて六十年になる。祭礼のとき気まぐれから二三人の友人と学校の帰りに靖国神社へいつた。学校は飯田町にあつたから近かつた。そして別にあてもなく能楽堂のあるところへはひりこんだ。うたひについて多少の知識をもつてるのは私だけだつたが──父が謡をやつてたので──私が誘つたわけではなかつたらう。見所は地面に敷いたむしろで大体いはゆる首本党が前に坐り、その後方に私たちのやうな弥次馬が立たり坐つたりして見物する。正面に高く臨時に設けた桟敷は専ら軍人その他の偉い人たちのためのもので、日清戦争後間もない頃ゆゑ軍人が格別威勢がよかつた。が、実はこれが大向うで、シテが薙刀なぎなたでも使ふと喜んで盛んに拍手したり声をかけたりする。なかには場末の小芝居のみたいな無遠慮なのもある。紅葉狩の前がすんだところだつたが後がどうだつたか知らない。地裏の低い地面から見上げるのだからろくに見えはしない。

 その次は仕舞だつたらう。先代梅若実翁の笠の段があつた。あの特徴のある謡の文句でおぼえてゐる。南蛮鉄のやうな先々代鉄之丞氏──近頃亡くなつた華雪氏のお父さん──や先代万三郎氏のもあつた。大蔵流の狂言もあつた。つんぼ座頭で山本東翁?のつんぼ、先代東次郎氏の座頭。東翁のつんぼが子供の目にもとてもよかつた。ちよんまげだつたと思ふが記憶の誤りだらうか。梅若六郎氏──今の実翁、二十前後だつたらう──の橋弁慶もあつた。子方は誰か知らない。これはわりによく見えて面白かつた。弁慶が行きちがひざまに薙刀の柄もとを蹴上げられてすはと向きなほるところが目について消えなかつた。しかしこの時は偶然演能にぶつかつたので、見にいつたのでもわかつたのでもない。出演者の名も家へ帰つてからきいたのだ。

 私が自分からすすんで能を見にいつたのは二十二三、東大の学生で、父の亡くなつたあと小石川の家で母と末の妹と三人ぐらしの時だつた。結婚まで二三年のあひだ妹とはとても仲よくした。妹は父のお供で行つたりして能には馴染みがあつた。で、茶の間の雑談のうちにすすめられたかねだられたかしたのだらう、あるとき大曲の観世くわんぜの家元に一席とつて二人で見にいつた。私はまづ見所の行儀のよさ、静粛さが気に入つた。さういふ自分はあまり行儀のいいはうではないけれど。それから楽屋でシラベがきこえ、それがすむと片幕で、笛方、小鼓方、大鼓方、と程よい間をおいて橋懸をしづしづと登場する。そのほか近頃をりをり封建的だとかいつて非難される凡ての挙止動作がすつかり気に入つた。初番目の能は「三輪」だつた。まづワキの玄賓僧都が出、更に幕があがつてシテの里の女が三輪の山もと道もなし三輪の山もと道もなしと次第を謡ひながら橋懸をしづかに辷るやうに舞台のはうへ進む。面の中で微妙に反響して玉の音と化した声、しんしんとした無色透明の緊張にきりはめられながらいつとはなしに位置を移してゆく美しい彫像。私には芸はわからないが渾身「能」に魅了され、陶酔させられてしまつた。三輪の神は舞台ではなくこの胸の中へはひつてきた。これがきつかけとなつて私は観世の家元と厩橋の梅若、靖国神社へ定席をとつて月並能にゆくほか別会にもゆくといふ能楽遍歴をはじめた。そして妹も時どきつれていつた。

 妹は二三年後九州へ嫁ぎ、そして間もなく亡くなつた。私は彼女を心から可愛がつたし、今もその記憶を可愛がつてゐる。その思ひ出の記である「妹の死」をこの年になつてもまだ涙なしには読み得ないほどに。さうして彼女を思へばいつもこの時の「三輪」を思ひ出す。「三輪」はまことに彼女の思ひ出にふさはしい能である。そして私の大好きな。

 序にいへば近頃私はまた能へゆくやうになつた。が、各流を通じて見知つた人は僅しかない。私は一旦観能を中絶したためになにか別の世界のもののやうになつた能、今は亡い人たちの至芸など思ひ浮べて一種侘しい懐旧の情にひたりながら半日を淋しく楽しんで過すのである。

底本:「日本の名随筆87 能」作品社

   1990(平成2)年125日第1刷発行

底本の親本:「中勘助全集 第一二巻」角川書店

   1965(昭和40)年8月再版

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2017年311日作成

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