一寸法師
江戸川乱歩
|
私は探偵小説を書くのですが、探偵小説といっても、現在では色々の傾向に分れていて、昔の探偵小説という感じからは非常に遠いものもあるのです。私が書きますものは、それは完結して見なければ分らないのですが、恐らく本格探偵小説といわれているものには当らず、そうかといって、もっとも新しい傾向である、いわばモダン型でもなく、やっぱり私好みの古臭い怪奇の世界を出でないであろうと思います。つまり私自身の探偵小説を書く外はないのであります。
そこで、もし始めてこの種の小説をお読みになる読者があったなら、私のものだけによって、今の探偵小説とはこんなものかなんておっしゃらないで、もっと外の傾向のものをも合せ読まれんことを希望致すのであります。
小林紋三はフラフラに酔っ払って安来節の御園館を出た。不思議な合唱が──舞台の娘たちの死物狂いの高調子と、それに呼応する見物席のみごとな怒号が──ワンワンと頭をしびらせ、小屋を出てしまっても、ちょうど船暈の感じで足許をフラフラさせた。その辺に軒を並べている夜店の屋台が、ドーッと彼の方へ押寄せて来るような気がした。彼は明るい大通をなるべく往来の人たちの顔を見ないように、あごを胸につけてトットと公園の方へ歩いた。もしその辺に友達が散歩していて、彼が安来節の定席からコソコソと出て来るところを見られでもしたら、と思うと気が気でなかった。ひとりでに歩調が早くなった。
半町も歩くと薄暗い公園の入口だった。そこの広い四辻を境にして人足はマバラになっていた。紋三は池の鉄柵のところに出ているおでん屋の赤い行燈で、腕時計を透して見た。もう十時だった。
「さて帰るかな、だが帰ったところで仕方がないな」
彼は部屋を借りている家のヒッソリした空気を思い出すと、何だか帰る気がしなかった。それに春の夜の浅草公園が異様に彼をひきつけた。彼は歩くともなく、帰り途とは反対に公園の中へと入って行った。
この公園は、歩いても歩いても見尽すことのできない不思議な魅力をもっていた。フト何処かの隅っこで飛んでもない事柄に出っ会すような気がした。何かしら素晴しいものが発見できそうにも思われた。
彼は公園を横断する真暗な大通を歩いて行った。右の方はいくつかの広っ場を包んだ林、左側は小さな池に沿っていた。池では時々ボチャンボチャンと鯉の跳ねる音がした。藤棚を天井にしたコンクリートの小橋が薄白く見えていた。
「大将、大将」
気がつくと右の方の闇の中から誰かが彼を呼びかけていた。妙に押し殺したような声だった。
「ナニ」
紋三はホールド・アップにでも出っ会したほど大袈裟に驚いて思わず身構えをした。
「大将、ちょっとちょっと、他人にいっちゃあいけませんよ、極く内ですよ、これです、素敵に面白いのです、五十銭奮発して下さい」
縞の着物に鳥打帽の三十恰好の男がニヤニヤしながら寄り添って来た。
「ソレ、何です」
「エヘヘヘ……御存知の癖に。決してゴマカしものじゃあありませんよ、そらね」
男はキョロキョロと四辺を見廻してから、一枚の紙片を遠くの常夜燈に透して見せた。
「じゃあ貰いましょう」
紋三はそんなものを欲しいわけではなかったけれど、フと物好きな出来心から五十銭銀貨とその紙片とを交換した、そしてまた歩き出した。
「今夜は幸先がいいぞ」
臆病な癖に冒険好きな彼の心はそんなことを考えていた。
もうヘベレケに酔っ払った吉原帰りのお店者らしい四五人連が、肩を組んで調子外れの都々逸を怒鳴りながら通り過ぎた。
紋三は共同便所のところから右に切れて広っ場の方へ入って行った。そこの隅々に置かれた共同ベンチには、いつものように浮浪人らが寝支度をしていた。ベンチの側にはどれもこれもおびただしいバナナの皮が踏み躙られていた。浮浪人達の夕食なのだ。中には二三人で附近の料理屋から貰って来た残飯を分け合っているのもあった。高い常夜燈がそれらの光景を青白く映し出していた。
彼がそこを通り抜けようとして二三歩進んだ時、傍の闇の中にもののうごめく気勢を感じた。見ると暗いためによくはわからぬけれど、何かしら普通でない非常に変挺な感じのものがそこに佇んでいた。
紋三は一瞬間不思議な気持がした。頭がどうかしたのではないかと思った。だが、目が闇に慣れるに従って、段々相手の正体が分って来た。そこにたたずんでいたのは、可哀相な一寸法師だった。
十歳位の子供の胴体の上に、借物の様な立派やかな大人の顔がのっかっていた。それが生人形の様にすまし込んで彼を見返しているのが、甚だしく滑稽にも奇怪にも感じられた。彼はそんなにジロジロ眺めては悪い様な気がした。それにいくらか怖くもあったので、何気なく歩き出した。振返って見るのも憚られた。
それから彼は、いつもの様に、広っぱから広っぱへと歩き廻った。気候がいいので、どこのベンチもふさがっていた。大抵は一つのベンチを一人で占領して、洗いざらした法被姿などが、長々と横わっていた。中にはもういびきをかいて、泥の様に熟睡しているものもあった。初心の浮浪人は巡査の目を恐れて、ベンチを避け、鉄柵の中の暗い茂みを寝床にしていた。
その間を奇妙な散歩者が歩くのだった。寝床を探す浮浪人、刑事、サーベルをガチャガチャいわせて三十分ごとに巡回する正服巡査、紋三と同じ様な猟奇者、などがその主なものであったが、外にそれらのいずれにも属しない一種異様の人種があった。彼等は一寸その辺のベンチに腰をおろしたかと思うと、じきに立上って同じ道を幾度となく往復した。そして木立の間の暗い細道などで外の散歩者に出逢うと、意味ありげに相手の顔をのぞき込んで見たり、自分でもそれを持っている癖に、相手のマッチを借りて見たりした。彼等は極めて綺麗にひげをそって、つるつるした顔をしていた。縞の着物に角帯など締ているのが多かった。
紋三は以前からこれらの人物に一種の興味を感じていた。どうかして正体をつきとめて見たいと思った。彼等の歩きっぷりなどから、あることを想像しないでもなかったが、それにしては、皆三十四十の汚らしい年寄りなのが変だった。
屋根つきの東屋風の共同ベンチの側を通りかかると、その奥の暗いところで喧嘩らしい人声がした。この公園の浮浪人共は存外意気地なしで、危な気がないと考えていた紋三は、一寸意外な気がした。で、やや逃げ腰になりながら、すかして見ると、それはやっぱり喧嘩ではなく、一人の洋服姿の紳士が、警察官に引きすえられているのだった。二言三言怒鳴っている内に、紳士はなんなく腰繩をかけられてしまった。二人は無言のまま仲よく押し並んで交番の方へ歩いて行った。紳士は、でも、歩きながら春外套で繩を隠し隠ししていた。真暗な公園には彼等の跡を追う野次馬もいなかった。同じベンチに一人の労働者風の男が、何事もなかったかの様に、ぼんやりと考え事をしていた。
紋三は不規則な石段を上って、ある岡の上に出た。まばらな木立に囲まれた十坪程の平らな部分に、三四脚のベンチが並んで、そこにポッツリポッツリと銅像か何かの様に、三人の無言の休息者が点在していた。時々赤く煙草の火が光るばかりで、だれも動かなかった。紋三は勇気を出して、その内の一つのベンチへ腰をおろした。
もう大分以前に活動館などもはねてしまって、はなやかなイルミネーションは大方消えていた。広い公園にはまばらな常夜燈の光があるばかりだった。盛り時にはどこまでも響いて来る木馬館の古風な楽隊や、活動街の人のざわめきなども、もうすっかり無くなっていた。盛り場だけに、この公園の夜更けは、一層物さびしく、変てこな凄味さえ感じられた。腕時計はほとんど十二時を指していた。
彼は腰をおろすと、それとなく先客達を観察し始めた。一つのベンチには口ひげを蓄えたしかつめらしい洋服の男、一つのベンチには、帽子も冠らぬ、魚屋の親方とでもいい相な、遊人風の男、そしてもう一つのベンチには、ハッとしたことには、さい前の奇怪な一寸法師奴が、ツクネンと腰かけていたのである。
「彼奴め、さっきから影の様に、己の跡へくっついていたのではないかしら」
紋三はなぜか、ふとそんなことを思った。変に薄気味が悪かった。その上都合の悪いことには常夜燈が丁度紋三の背後にあって、それが樹の枝を通して、一寸法師のまわりだけを照していたので、この畸形児の全身が比較的はっきりと眺められた。
モジャモジャした、濃い髪の毛の下に、異様に広い額があった。顔色の土気色をしているのと、口と目が釣り合いを失して、馬鹿に大きいのが目だっていた。それらの道具が、大抵はさも大人らしく取済ましているのだが、どうかすると、突然痙攣の様に、顔中の筋ばることがあった。何か不快を感じて顔をしかめる様でもあったし、取り様によっては苦笑しているのかとも思われた。その時顔全体が足を伸した女郎蜘蛛の感じを与えた。
荒い飛白の着物を着て、腕組みをしているのだが、肩幅の広い割に手が非常に短いため、両方の手首が、二の腕まで届かないで、胸の前に刀を切結んだ形で、チョコンと組合わさっていた。身体全体が頭と胴で出来ていて、足などはほんの申訳に着いている様だった。高い朴歯の足駄をはいた太短い足が地上二三寸のところでプラプラしていた。
紋三は彼自身の顔が蔭になっているのを幸い、まるで見世物を見る様な気持で、相手を眺めた。始めの間は幾分不快であったけれど、見ている内に、彼はこの怪物に段々魅力を感じて来た。恐らく曲馬団にでも勤めているのだろうが、こんな不具者は、あの鉢の開いた大頭の中に、どの様な考えを持ってるのかと思うと、変な気がされた。
一寸法師はさい前から、妙に盗む様な目つきで、一方を見つづけていた。その目を追って行くと、かげになった方のベンチにかけている二人の男に注がれていることが分った。洋服紳士と遊人風の男とは、いつの間にか同じベンチに並んで、ボソボソ話し合っていた。
「存外暖かいですね」
洋服が口ひげを撫でながら、含み声でいった。
「ヘエ、この二三日、大分お暖かで」
遊び人風のが、小さい声で答えた。二人は初対面らしいのだが、何となく妙な組合せだった。年配は二人共四十近く見えたけれど、一方は小役人といった様なしかつめらしい男で、一方は純粋の浅草人種なのだ。それが、電車もなくなろうというこの夜更けに、暢気相に気候の話などしているのは、如何にも変だった。彼等はきっと、お互に何かの目論見があるのだ。紋三は段々好奇心の高まるのを感じた。
「どうだね、景気は」
洋服は、相手の男のよく太った身体を、ジロジロ眺め廻しながら、どうでもよさそうに尋ねた。
「そうですね」
太った男は、膝の上に両肱をついて、その上に首を垂れて、モゾモゾと答えた。そんなつまらない会話が、暫く続いていた。紋三は、一寸法師に習って、長い間二人から目を離さなかった。
やがて洋服は「アーア」と伸びと一緒に立上ったかと思うと、紋三達の方をジロジロ眺めながら、不思議なことには、再び同じベンチに、太った男とほとんどすれずれに腰をおろした。太った男はそれを感じると、一寸洋服の方を見て、すぐ元の姿勢に返った。そして、頭の毛の薄くなった四十男が、何か恥かしそうな嬌態をした。
洋服が突然猿臂を伸ばして──全くえんぴという感じだった──太った男の手をとった。
そして又、しばらくボソボソとささやき合うと、彼等は気をそろえて、ベンチから立上り、ほとんど腕を組まんばかりにして山を下りて行くのだった。
紋三は寒気を感じた。妙な比喩だけれど、いつか衛生博覧会で、ろう細工の人体模型を見た時に感じた寒気とよく似ていた。不快とも、恐怖とも例え様のない気持だった。そしてもっといけないのは、彼の前の薄暗い所で、例の一寸法師が、降りて行った二人の跡を見送りながら、クックッと笑いだしたことだった。(紋三はその異様な笑い顔を、それから後も長い間忘れることが出来なかった)畸形児は小娘の様に手を口に当てて少し身体をねじ曲げ、クックッといつまでも笑っていた。紋三はいくらもがいても逃れることの出来ない、悪夢の世界にとじこめられた様な気持がした。耳の所でドドド……と、遠鳴りみたいなものが聞えていた。
暫らくすると、一寸法師は滑稽な身振りでベンチから降り、ヒョコヒョコと彼の方へ近づいてきた。紋三は何か話しかけられるのではないかと、思わず身を堅くしたが、幸い彼の腰かけていた場所は大きな木の幹のかげになっていたために、相手はそこに人間のいることさえ気づかぬらしく、彼の前を素通りして、一方の降り口の方へ歩いてゆくのだった。
だが、そうして彼の前を二三歩通り過ぎた時、一寸法師の懐中から、何か黒い物が転がり落ちた。繻子の風呂敷様のもので包んだ、一尺ばかりの細長い品物だったが、風呂敷の一方がほぐれて少しばかり中味がのぞいていた。それは明かに、青白い人間の手首であった。きゃしゃな五本の指が断末魔の表情で空をつかんでいた。
不具者は、たれも見る者がないと思ったのか、別段あわてもしないで、包物を拾いあげ、懐中にねじ込むと、急ぎ足に立去った。
紋三は一瞬間ぼんやりしていた。一寸法師が人間の腕を持っているのは、極く普通のことの様な気がした。「馬鹿な奴だな、大事そうに死人の腕なんか、ふところにいれてやあがる」何だか滑稽な気がした。
だが次の瞬間には、彼は非常に興奮していた。奇怪な不具者と人間の腕という取合せが、ある血みどろの光景を聯想させた。彼はやにわに立上って、一寸法師の跡を追った。音のしない様に注意して石段を降りると、すぐ目の前に畸形児の後姿が見えた。彼は先方に気づかれぬ様に、適度の間隔を保って尾行して行った。
紋三はそうして尾行しながら、何だか夢を見ている様な気持だった。暗い所で一寸法師が突然振返って、「バア」といい相な気がした。だが、何か妙な力が彼を引っぱって行った。どういうものか一寸法師の後姿から目をそらすことが出来なかった。
一寸法師はチョコチョコと小刻みに、存外早く歩いた。暗い細道を幾つか曲って、観音様の御堂を横切り、裏道伝いに吾妻橋の方へ出て行くのだ。なぜかさびしい所さびしい所とよって通るので、ほとんどすれ違う人もなく、ひっそりとした夜更けの往来を、たった一人で歩いている一寸法師の姿は、一層よう怪じみて見えた。
彼等はやがて吾妻橋にさしかかった。昼間の雑沓に引きかえて橋の上にはほとんど人影がなく、鉄の欄干が長々と見えていた。時々自動車が橋を揺すって通り過ぎた。
それまでは傍目もふらず急いでいた不具者が、橋の中程でふと立止った。そして、いきなりうしろを振返った。十間ばかりの所を尾行していた紋三は、この不意打に逢って、ハッとうろたえた。見通しの橋の上なので、咄嗟に身を隠すことも出来ず、仕方がないので、普通の通行人を装って、歩行を続けて行った。だが一寸法師は明かに尾行を悟った様子だった。彼はその時一寸ふところに手をいれて、例の包物をだしかけたのだが、紋三の姿を発見すると、あわてて手を引っこめ、何食わぬ顔をして、又歩きだした。
「奴さん、女の腕を河の中へ捨てる積りだったな」紋三はいよいよただ事でないと思った。
紋三はかつて古来の死体隠匿方法に関する記事を読んだことがあった。そこには殺人者は往々にして死体を切断するものだと書いてあった。一人で持運びをするためには、死体を六個又は七個の断片にするのがもっとも手ごろだとも書いてあった。そして、頭はどこの敷石の下に埋め、胴はどこの水門に捨て、足はどこの溝に放り込んだという様な犯罪の実例が、沢山並べてあった。それによると、彼等は死体の断片を、なるべく遠いところへ別々に隠したがるものらしかった。
彼は相手に悟られたかと思うと少し怖くなって来たけれど、そのまま尾行をあきらめる気にはどうしてもなれないので、前よりは一層間隔を遠くして、ビクビクもので一寸法師の跡をつけた。
吾妻橋を渡り切ったところに交番があって、赤い電燈の下に一人の正服巡査がぼんやりと立番をしていた。それを見ると、彼はいきなりそこへ走りだし相にしたが、ふとあることを考えて踏み止まった。今警察に知らせてしまうのは、余り惜しい様な気がしたのだ。彼のこの尾行は、決して正義のためにやっているのではなく、何かしら異常なものを求める、烈しい冒険心に引きずられているに過ぎないのだった。もっと突き進んで行って、血みどろな光景に接したかった。そればかりか、彼は犯罪事件の渦中に巻込まれることさえ厭わなかった。臆病者の癖に、彼は一方では、命知らずな捨て鉢なところがあった。
彼は交番を横目に見て、少し得意にさえなりながら、なおも尾行を続けた。一寸法師は大通りから中の郷のこまごました裏道へ入って行った。その辺は貧民窟などがあって、東京にもこんな所があったかと思われる程、複雑な迷路をなしていた。相手はそこを幾度となく折れ曲るので、ますます尾行が困難になるばかりだ。紋三は交番から三町も歩かぬ内にもう後悔し始めていた。
片側は真暗に戸を閉めた人家、片側はまばらな杉垣で囲った墓地の所へ出た。たった一つ五燭の街燈が、倒れた石碑などを照していた。そこを頭でっかちの怪物が、ヒョコヒョコと急いでいる有様は、何だか本当らしくなかった。今夜の出来事は最初から夢の様な気がした。今にもたれかが「オイ、紋三さん、紋三さん」といって揺り起してくれるのではないかと思われた。
一寸法師は尾行者を意識しているのかどうか、長い間一度もうしろを見なかった。しかし、紋三の方では十分用心して、相手が一つの曲り角を曲るまでは、姿を現さない様にして、軒下から軒下を伝って行った。
墓地の所を一曲りすると小さな寺の門に出た。一寸法師はそこで一寸うしろを振返って、だれもいないのを確めると、ギイと潜り戸を開けて、門の中に姿を消した。紋三は隠れ場所から出て、大急ぎで門の前まで来た。そして、暫く様子をうかがってから、ソッと潜り戸を押して見たが、内部からかんぬきをかけたと見え、小揺ぎもしなかった。潜り戸のしまりがしてなかったところを見ると、一寸法師はこの寺の中に住んでいるのかも知れない。だが必ずそうとは極まらぬ。そういう内にも彼奴は、裏の墓地の方から逃げだしているかも知れないのだ。
紋三は大急ぎで、元の道を引返し、杉垣の破れから寺の裏手をのぞいて見た。すると、墓地の向側に庫裏らしい建物があって、今丁度そこの入口を開いて、たれかが中へはいるところであった。その時、戸の隙間から漏れる光に照しだされた人影は、疑いもなく不恰好な一寸法師に相違なかった。人影が庫裏の中に消えると、戸締りをするらしい金物の音がかすかに聞えた。
もう疑う余地はなかった。一寸法師は意外にもこの寺に住んでいるのだ。紋三はでも念のために杉垣の破れをくぐって庫裏の近くまでゆき、暫くの間見張り番を勤めていた。中では電燈を消したらしく、少しの光も漏れず、又聞き耳を立てても、コトリとも物音がしなかった。
その翌日、小林紋三は十時ごろまで寝坊をした。近所の小学校の運動場から聞えて来る騒がしい叫び声にふと目をさますと、雨戸の隙間をもれた日光が、彼の油ぎった鼻の頭に、まぶしく照りつけていた。
彼は寝床から手を伸して、窓の戸を半分だけ開けて置いて、蒲団の中に腹ばいになったまま、煙草を吸い始めた。
「昨夜は、己はちとどうかしていたわい。安来節が過ぎたのかな」
彼は寝起きの口を、ムチャムチャさせながら、ひとり言をいった。
総てが夢の様だった。お寺の真暗な庫裏の前に立って、中の様子をうかがっている内に、段々興奮がさめて行った。真夜中の冷気が身にしみる様だった。遠くの街燈の逆光線を受けて、真黒く立並んでいる大小様々の石塔が、魔物の群集かと見えた。別の怖さが彼を襲い始めた。
どこかで、押しつぶした様な、いやな鶏の鳴声がした。それを聞くと彼はもう堪らなくなって逃げだしてしまった。墓場を通り抜ける時は何かに追駈けられている気持だった。それから、夢の中の市街のように、どこまで行っても抜け道のない、複雑な迷路を、やっとのことで、電車道の大通りまでたどりつくと、丁度通り合せたどっかの帰りらしい空のタクシーを呼び止めて、下宿に帰った。運転手が面倒臭そうに行先を尋ねた時、彼はふと遊びの場所をいおうとしたが、思い直して下宿のある町を教えた。彼は何だか非常に疲れていたのだ。
「おれの錯覚なんだろう。人間の腕のふろ敷包みなんて、どうも余り馬鹿馬鹿しいからな」
部屋中に満ち溢れている春の陽光が、彼の気分をがらりと快活にした。昨日の変てこな気持がうその様に思われた。
彼は一つ大きく伸びをして、下宿の主婦が置いて行ってくれた、枕頭の新聞を拡げると、彼の癖として先ず社会面に眼を通した。別に面白い記事も見当らぬ。三段抜き、二段抜きの大見出しは、ほとんど血生臭い犯罪記事ばかりなのだが、そうして活字になったものを見ると、何かよその国の出来事の様で、一向迫って来なかった。だが、今別の面をはぐろうとした時、ふとある記事が彼の注意をひいた。それを見ると彼は何かしらギクリとしないではいられなかった。そこには「溝の中から、女の片足、奇怪な殺人事件か」という三行の見出しで、次の様な記事が記されていた。
昨六日午後府下千住町中組──番地往来の溝川をさらっているうち人夫木田三次郎がすくい上げた泥の中から、おもりの小石と共にしまの木綿風呂敷に包んだ生々しき人間の片足が現れ大騒ぎとなった。戸山医学博士の鑑定によれば切断後三日位の二十歳前後の健康体の婦人の右足を膝関節の部分から切断したもので切口の乱暴なところを見れば外科医等の切断したものでないことが判明したが附近には右に該当する殺人事件又は婦人の失踪届出なく今のところ何者の死体なるや不明であるが、──署では極めて巧妙に行われた殺人事件ではないかと目下厳重調査中である。
新聞では左程重大に扱っている訳でもなく、文句も極簡単なものであったが、紋三の眼にはその記事がメラメラと燃えている様に感じられた。彼は蒲団の上にムックリと起き上って、ほとんど無意識のうちに、同じ記事を五度も六度もくり返し読んでいた。
「多分偶然の一致なんだろう。それに昨夜のは己の幻覚かも知れないのだから」
と強いて気を落ちつけ様としても、そのあとから直ぐに、あの奇怪な一寸法師の姿が──さびしい場末の溝川の縁に立って、風呂敷包を投げ込もうとしている、彼奴の物すごい形相が、まざまざと眼の前に浮んで来た。
彼はどうするという当もなく、何かに追い立てられる様な気持で、寝床から起上ると大急ぎで着換えを始めた。
どういう積りか、彼は洋服箱の中から仕立おろしの合のサック・コートと、春外套を出して身につけた。学校を出てからまだ勤めを持たぬ彼には、これが一張羅の外出着で、可成自慢の品でもあった。上下おそろいのしゃれた空色が、彼の容貌によく映った。
「マア、おめかしで、どちらへお出かけ?」
下の茶の間を通ると、奥さんがうしろから声をかけた。
「イイエ、一寸」
彼は変なあいさつをして、そそくさと編上のひもを結んだ。
併し、格子戸の外へ出ても、彼はどこへ行けばいいのか、一寸見当がつかなかった。一応警察へ届けようかとも思ったが、それ程の自信もなく、何だかまだあれを自分だけの秘密にして置きたい気持もあった。兎も角昨夜の寺へ行って様子を探って見るのが一番よさそうだった。若や昨夜の出来事は皆彼の幻覚に過ぎなかったのではないか。そんなことが頻に考えられた。もう一度昼の光の下で確めて見ないでは安心が出来なかった。彼は思い切って本所まで出かけることにした。
雷門で電車を降りると、吾妻橋を渡って、うろ覚えの裏通りへ入って行った。その辺一帯が夜中と昼とでは、まるで様子の違うのが、一寸狐につままれた感じだった。同じ様な裏町を幾度も幾度も往復している内に、でも、やっと見覚えのある寺の門前に出た。その辺はごみごみした町に囲まれながら、無駄な空地などがあって、変にさびしいところだった。門前にポッツリと一軒切りの田舎めいた駄菓子店があって、お婆さんが店先でうつらうつらと日なたぼっこをしていたりした。
紋三はさえた靴音を響かせながら、門の中へ入って行った。そして昨夜の庫裏の入口に立つと、思い切って障子をあけた。ガラガラとひどい音がした。
「御免下さい」
「ハイ、どなたですな」
十畳位のガランとした薄暗い部屋に、白い着物を着た四十恰好の坊さんが坐っていた。
「一寸伺いますが、こちらに、あのう、身体の不自由な方が住まっていらっしゃるでしょうか」
「エ、何ですって、身体が不自由と申しますと?」
坊さんは目をパチクリさせて問い返した。
「脊の低い人です。確か昨夜非常に遅く帰られたと思うのですが」
紋三は変なことをいい出したなと意識すると、一層しどろもどろになった。来る道々、考えて置いた策略なんかどこかへ飛んで行ってしまった。
「それは、お門違いじゃありませんかな。ここには人を置いたりしませんですよ。脊の低い身体の不自由な者なんて、一向心当りがございませんな」
「確このお寺だと思うのですが、附近に外にお寺はありませんね」
紋三は疑い深か相に、庫裏の中をじろじろ眺めまわしながらいった。
「近くにはありませんな。だが、おっしゃる様な人はここにはおりませんよ」
坊さんは、変な奴だといわぬばかりに、紋三をにらみつけて、無愛想に答えた。
紋三はもう持ちこたえられなくなって、このまま帰ろうかと思ったが、やっと勇気を出して続けた。
「イヤ、実はね、昨夜ここの所で変なものを見たのですよ」彼はそういいながら、ズカズカと中へ入って上り框に腰をおろした。「よく見世物などに出る小人ですな、あれがある品物を持って、ここの庫裏へ入る所を見たのですよ。もっとも向うの杉垣の外からでしたがね。全く御存じないのですか」
紋三はしゃべりながら益々変てこになって行くのを感じた。
「ヘエー、そうですかねエ」坊さんはさもさも馬鹿にした調子で、「一向に存じませんよ。あなたは何か感違いをしていらっしゃるのだ。そんな馬鹿馬鹿しいことがあるもんですかね。ハハハハハハ」
「どこの方か知らぬが、あなたも随分妙ないいがかりをなさるね」
暫く問答をくり返している内に坊さんはとうとう怒り出した。
「一寸法師がどうの、人間の片腕がどうのと、あなたは夢でも見なすったのではないかね。知らんといったら知りませんよ。ご覧の通り狭い寺で、どこに人の隠れるような所がある訳でもない。お疑いなら家探しをして下すってもいい。又、近所の人達に聞いて下すってもいい。この寺にそんな不具者が住んでいるかどうか」
「イヤ、なにもあなたをお疑いする訳ではありませんよ」紋三はもうしどろもどろになっていた。「僕のつもりでは、そういう怪しげな男が昨夜ここへ忍び込むのを見たものですから、御注意申上げたいと思って伺ったのです。でも変ですね。僕は確に見たのですが」
「見なすったら、見なすったでもいいが、私は今少し忙しいので」
坊さんは渋面を作って、気違いに取合っている暇はないといわぬばかりであった。
「イヤどうもお邪魔しました」
紋三は仕方なく立上った。そして、ほとんど夢中で門の外まで歩いた。
「己は確にどうかしている。何という気違いじみた訪問をやったものだろう。坊主に嘲弄されるのは当然だ。だがあの調子では、奴さん別にうしろ暗いところがあるようでもない。どうも、やっぱり訳が分らないな」
彼は暫くぼんやりして、門前にたたずんでいたが、ふと思いついて、お婆さんの居眠りをしている駄菓子屋の店先へやって行った。
「お婆さん、お婆さん、そこにあるせんべいを五十銭ばかり下さい」彼は欲しくもない買物をして何気なく尋ねて見た。「この辺に子供のような脊の低い、つまり小人島だね、そういう不具者はいないだろうか。お婆さんは知らないかね」
「左様でございますね。私も永年この辺に住んでおりますが、そんなものは見かけたことも、うわさに聞いたこともございませんね」
婆さんはけげんらしく答えた。
「この前のお寺ね、和尚さんのほかにどんな人が住んでいるのだい」
「アア、養源寺ですか。あすこはあなた妙なお寺でございましてね、お住持お一人切りなんですよ。ついこの間まで小僧さんが一人いましたけれど、それも暇をお出しなすったとかで見えなくなってしまいました。ほんに変くつなお方でございます。何かの時には私のつれ合がお手伝いに上りますので、よく存じておりますが」
婆さんは話好きと見えて、雄弁にしゃべり続けた。だが、紋三はここでも別段に得る所はなかった。彼はいい加減に話を切上げて、せんべいのふくろを荷厄介にしながら電車道の方へ歩いた。道々、酒屋とか車の帳場とかへ立寄って、同じような事を尋ねたけれど、どこでも一寸法師を知っている者はなかった。彼は益々変てこな気持になって行った。
雷門で電車に乗ってからも、彼は妙にぼんやりしていた。何か頭に薄い幕が張ったような気持だった。
「まあ、小林さんじゃありませんか」
電車が上野山下をすぎた時、だれかが彼の前に立って声をかけた。物思いに沈んでいた紋三は、その小さな声に飛上る程驚かされた。何か悪い事をしているところを見つかった感じだった。相手を識別しない前に、額の辺が真赤になった。
「ホホホホホホ、ぼんやりなすっているのね」
そこには、思いがけぬ山野夫人が、ニコニコして立っていた。
「どちらへ?」
彼女は癖の、首をかしげて尋ねた。
実業家山野大五郎氏の夫人ともあろう人が、今ごろ満員電車のつり革にぶらさがっていようとは、あまりに意外なので、紋三はすっかり面喰った。
「どうも御ぶさたしました。サアどうか」
彼は兎も角立上って席を譲ろうとした。立上る時、あまりあわてたのと、その時丁度電車がカーヴの所を通り過ぎた為に、フラフラとして、彼の手が夫人の腿の辺に触ったので、彼は一層面喰って真赤になった。
「エエ有難う。丁度いい所で逢いましたわ、私少し伺いたいことがありますのよ。お差支なかったら、この次は広小路でしょうか。今度止ったら私と一緒に降りて下さいません?」
「ハ、承知しました」
紋三はまるで夫人の家来ででもある様に、鞠躬如として答えた。彼は日頃から山野夫人の美貌に対して、ある恐怖に似たものを感じていた。彼は同郷の先輩である主人の山野大五郎氏よりも、この夫人に接する時の方が一層、気づまりであった。
上野広小路で電車をおりると、二人は肩を並べて公園の方へ歩いて行った。
「あなたおひる、まだでしょうね。私もそうなのよ。でも暫く散歩をつき合って下さらないこと。その代りお話をしてしまったら精養軒をおごりますわ。少し人に聞かれちゃあ都合の悪いお話なんですから」
どういう話があるのか、夫人は非常に大事を取っている様に見えた。しかし、紋三は夫人の話が何であろうと、彼女と肩を並べて歩くさえあるに、その上彼女と食卓を共にすることが出来るというので、もう有頂天になっていた。考えて見ると彼は今朝から一度も食事をしていないのだ。
また彼は、今日一張羅の洋服を着て出たことを仕合せに思った。「これなれば、夫人を恥かしがらせないで済むだろう。いや夫人の服装と丁度釣合が取れてさえいるかも知れない」彼は一歩遅れて夫人の美しい後姿を眺めながら、そんなことばかり考えていた。
「ねえ小林さん。いつかあなたのお知合に、有名な素人探偵の方がある様に伺いましたわね。私の思い違いでしょうか」
夫人は公園の入口のやや人足のまばらになった所へ来ると、いきなり紋三の方を振向いて妙なことを尋ねた。
「ハア、明智小五郎じゃありませんか。あの男なら、友達という程ではありませんけれど、知っているには知っています。長い間上海に行っていて、半年ばかり前に帰ったのですが、その当時逢った切り久しく訪ねもしません。帰ってからは余り事件を引受けないということです。ですが、奥さんはあの男に何か御用でもおありなんですか」
「エエ、あなたにはまだお知らせしませんでしたけれど、大変なことが出来ましてね。実はあの三千子が家出しましたの」
「エ、三千子さんが、ちっとも存じませんでした。で、いつの事なんです」
「丁度五日になりますのよ。まるで消えでもしたようにいなくなりましてね。どう考えても家出の理由も、どこから出て行ったかという様なことも、まるで分りませんの。ほんとうに神隠しにでも逢った様な気がします。警察の方も内々で捜索を願ってあるんですし、主人を始め出入の方も手分けをして方々探しているのですけれど、まるで手がかりがありません。御存じの事情でしょう。私ほんとうに困ってしまいましたわ。大阪の方に少し心当りが出来たものですから、主人は昨夜用もないのにあちらの支店へ出かけますし、私は私で、今朝からこうして知り合いという知り合いを尋ね歩いているのですよ。態と電車なんかに乗ってみたりして、まるで探偵の様ですわね」そして、夫人は妙な笑いを浮べながら、三千子の話とは少しも関係のない事をつけ加えた。「それはそうと、あなたは養源寺のお住持さんを御存じなの?」
紋三はその時少からず狼狽したが、同時にある馬鹿馬鹿しい妄想がふと彼の心に萌した。
「イエ、別に知っている訳でもないのですが、然しどうしてそんなことをお尋ねなさるのですか」
「私最前養源寺の前であなたにお逢いしましたのよ」夫人はおかし相にいった。「門の空地の所ですれ違ったのですけれど、あなたはすっかりすまし込んでいらしったわね。あのお寺のお住持はやっぱり山野の同郷の人で、それは変り者ですの。三千さんのことで、私も一寸お寄りして今帰り途なのですが、あなたはあのお住持がお国の方なことを御存じないの?」
「そうですか。ちっとも知りません。僕は昨夜から狐につままれた様な気持なんです。実際どうかしているのですね、奥さんにお逢いして知らずにいるなんて。この頃何だか頭が変なのです」
「そういえば妙に考え込んでいらっしゃるわね。何かありましたの?」
「奥さんはお読みになりませんでしたか。今朝の新聞に千住の溝川から若い女の片足が出て来たという記事がのっていましたが」
「アアあれ読みました。三千さんのことがあるものですから、私一時はハッとしましたわ。でも、まさかねえ」
夫人は一寸笑って見せた。
「ところが、僕はあれでひどい目に逢っちまったんですよ。実は僕昨夜浅草公園へ行ったのです」紋三は極り悪そうにいった。「暗い公園の中で化物みたいな奴に出くわしましてね。それからすっかり頭が変になっちまったのです」
夫人が好奇心を起した様に見えたので、それから紋三は昨夜の一条をかい摘んで話した。
「マア、気味の悪い」夫人は眉をしかめて「でもそれは、あなたの神経のせいかも知れませんわ。養源寺さんは嘘をいう様な方ではないのだし、それに近所の人だって、そんな不具者がいれば気のつかないはずはありませんものね」
「僕もそう思うのです。そうだとすると一層いけないのですけれど……」
彼等はそうして三十分以上も上野の山内を歩きまわった。紋三は三千子の家出の顛末を聞き訊し、山野夫人の方では明智小五郎の為人を尋ねたりした。そして結局明智の宿を訪ねることに話が極った。
二人は精養軒で食事を済せると自動車を呼ばせて、明智の泊っている赤坂の菊水旅館に向った。紋三は妙にうれしい様な気持だった。美しい山野夫人とさし向いで食事を摂ったことも、彼女と膝を並べて車に揺られていることも、そして、その行先が有名な素人探偵の宿であることも、すべてが彼の子供らしい心を楽しませた。
車を降りて旅館の広い玄関を上る時などは、彼はすっかりいい気持になっていた。山野夫人が彼の恋人であって、彼女は夫の目を盗んで、彼と遭うためにこの内へ来ているのだ、という様なけしからぬ空想をさえ描いた。
幸い明智は在宿であった。彼は気軽に二人を廊下まで出迎えてくれた。
日当りのよい十畳程の座敷だった。三人は紫檀の卓を囲んで座についた。明智は講釈師の伯龍に似た顔をニコニコさせて、客が要件を切りだすのを待っていた。山野夫人はこの初対面の素人探偵に好感を持った様に見えた。彼女の方でも笑顔を作りながら、三千子の家出について話し始めた。彼女は笑顔になると少女の様に無邪気な表情に変ってひとしお魅力を増すのであった。
上海から帰って以来約半年の間、素人探偵明智小五郎は無為に苦しんでいた。もう探偵趣味にもあきあきしたなどといいながら、その実は、何もしないで宿屋の一間にごろごろしているのは退屈で仕様がなかった。丁度そこへ、彼の貧窮時代同じ下宿にいた縁故で知合の小林紋三が、屈竟な事件を持込んで来た。山野夫人の話を聞いている内に、彼は多年の慣れで、これは一寸面白そうな事件だと直覚した。そして、いつの間にか、長く伸ばした髪の毛に指を突込んでかき廻す癖を始めていた。
山野夫人の話はかなりくだくだしいものであったが、明智はそれを彼の流儀で摘要して、必要な部分だけ記憶に止めた。
行方不明者、山野三千子、十九歳、山野氏の一人娘、昨年女学校卒業
父、大五郎、四十六歳、鉄材商、土地会社重役
母、百合枝、三十歳、三千子の実母は数年前死亡し百合枝夫人は継母である。
召使、小間使二人、下女中二人、書生、自動車運転手、助手
これだけが山野家に起臥していた。
「で、手懸りは少しもないとおっしゃるのですか」
彼は一応夫人の話を聞いてしまってから、改めて要点を質問した。
「ハア、本当に不思議でございますわ。先程も申します通り、三千子の寝室は洋館の二階にあるのですが、その洋館には出入口が一つしかございませんし、出入口のすぐ前には私共のやすむ部屋がありまして、洋館から出て来ればじき分るはずなのでございます。よし又私共が気づきませんでも、玄関を始めすっかり内側から締りがしてありますので、抜け出る道はないはずですの」
「洋館の方の窓なんかも締りが出来ていたのですか」
「ハア、皆内側からネジが締てありました。それに窓の外の地面には、丁度雨のあとで柔かくなっていましたけれど、別に足痕もないのでございます」
「もっともお嬢さんが窓から出られるはずもありませんね。……、その前晩には何か変ったことでもなかったのですか」
「これということもございませんでした。よいの内はピアノなど鳴している様でございましたが、九時頃私が見廻りました時には、もうよく寐入っておりました。それに、丁度私の見廻ります少し前に、主人が店から帰りまして、三千子の部屋のすぐ下の書斎で、長い間調べ物をしていたのでございますから、三千子が部屋から降りて来るとか、何者かが忍び込むとかすれば、主人が気のつかないはずはございません。そして、主人がやすみます時分には、もう召使なども寝てしまいますし、すっかり戸締りが出来て、抜け出す道はなくなっていたのでございます」
「妙ですね。まさかお嬢さんが消えてしまわれた訳でもありますまい。きっとどこかに手抜かりがあったのですよ」
「でも、戸締りの方はもう間違いないのでございますが。警察でも色々調べて下すったのですけれど、刑事さんなんかも、どうも不思議だとおっしゃるばかりでございますの」
「朝の間に出て行かれた様なことはありませんか」
「それは、小間使の小松と申しますのが、朝の郵便を持って参りまして、三千子のベッドの空なことが分ったのですが、その時分はまだ表の門を開けないで、書生が玄関の所を掃いていましたし、勝手口の方もまだ締りをはずしたばかりで、女中共がずっと勝手許にいたのでございますから、とても知れぬ様に出て行くことは出来ません」
「お嬢さんが家出をされる様な原因も、別にないとおっしゃるのですね」
明智は質問を続けた。
「ハア、少しも心当りがございません。ただわたくしが継々しい仲だものですから、妙に邪推されはしないかと、それだけが辛うございますわ。ですから、わたくしの立場としましても、一日も早く三千子の安否が知りたいのでございます。こうして主人の留守中にこちらへ伺いましたのも、そんな訳で、わたくしじっとしていられなかったものですから」
山野夫人は、もう二三度もくり返した彼女の苦しい立場を、またくどくどと説明した。
「御縁談とか、外に何か恋愛という様なことはなかったのですか」
「縁談は二三あるにはあったのですけれど、どれも本人が気に染まないとか申しまして、まだ取極めてはおりませんし、外にも別に……」
夫人は何かいいしぶって見えた。
「では御主人が大阪の方へお出でになったといいますのは?」
明智は夫人の急所を突いた。
「ハア、それはあの……」夫人はどぎまぎしながら「あちらに三千子の大好きな叔母さんがいますものですから、主人はもしやそこに隠れているのではないかと申すのでございます」
然し、今山野夫人がいいしぶったのは、もっと別の事柄らしく見えた。
「伺っただけでは、随分不思議な出来事ですが」明智は考え考えいった。「今の少しも出口のない家の中で、お嬢さんの姿が消えてしまったという様なことも、実際そんなことは不可能なんですから、どっかに極くつまらない、後では笑い話になる様な思い違いがあったに相違ないのです。そして、その点が明かになれば、存外手易くお嬢さんの在家が分らないものでもありません。一度私にそのお嬢さんのお部屋を見せて頂けないでしょうか。ひょっとしたらわけなくなぞが解けるかも知れませんよ」
「エエ、それはもう。どうかお願い致しとうございますわ。では、丁度車が待たせてございますから今からお出かけ下さいませんでしょうか」
そこで、明智の着換えをするのを待って、三人は菊水旅館を出た。明智は上海から持って来た自慢の支那服を着て、合の中折をかむった。彼は数年以前に比べると、このごろではいくらか見え坊になっていた。自動車の中では、三人共余り物をいわなかった。てんでんに考え事があった。
「極くつまらないこと、素人が考えて、馬鹿馬鹿しい様なことが、謎を解く場合には随分重大な役目をつとめます。殊に犯罪には常軌を逸した馬鹿馬鹿しい事がつきものです。そういうものを馬鹿にしないことが犯罪を解く者の秘訣です。……こんなことを外国の有名な探偵家がいい遺していますよ」
明智はだれにともなく、ひとりごとをいっていた。
三人詰のクッションに、山野夫人百合枝を中にはさんで、右に明智、左に小林紋三が腰かけていた。紋三は車が揺れて山野夫人の膝が彼の膝を押すたびに、段々身をすくめて、隅の方へ小さくなって行った。それでいて、彼はこの始めての経験を、私に楽しんでもいるのだった。
車はやがて隅田川を渡り、川沿いに向島へと向った。吾妻橋を通り過ぎる時には、紋三は今朝の不愉快な一条を思い出していた。すると、又しても三千子の行方不明と例の奇怪な一寸法師の持っていた生々しい片腕とが、いまわしい聯想となって彼の頭に浮んだ。
山野氏の自宅は向島小梅町の閑静な場所にあった。自動車は威勢のいい警笛を鳴しながら、立派な冠木門を入って行った。
掃き清められた砂利道を通って、自動車は日本建の玄関に横づけされた。その和風の母屋の右側には、かぎの手になって小さなコンクリート作りの二階建洋館があり、母屋から少し離れて左側には木造のギャレージが見えていた。決して宏壮ではなかったけれど、何となく豊かな感じを与える邸だった。
玄関を上ると、山野夫人はそこに出迎えた書生に、何事か尋ねている様子だったが、やがて長い廊下を通って、二人を洋館の階下の客間へ案内した。余り広くはないけれど、壁紙、窓かけ、絨毯などの色合や調度の配列に細かい注意が行届いていて、かなり居心地のよい部屋であった。一方の隅にはピアノが置かれ、そのつやつやした面に絨毯の模様を映していた。
「履物をお検べになりましたか」
白麻で覆ったひじかけ椅子にドッカリ腰を下すと、明智はぶっきらぼうに妙なことを尋ねた。
「ハア?」
夫人は彼の頓興な口の利き方に、一寸驚いて、微笑みながら聞き返した。彼女は一度日本間の方へ立去ろうとしていたのを、明智が話しかける様子なので、思い返して椅子についた。
「家出をなすったとすれば、お嬢さんの履物が一足なくなっているはずですね」
明智が説明した。
「アア、それなれば、粗末な不断にはきますのが見えないのでございます。それと、ショールと小さい網の手提がなくなっております」
「着物はどんなのを……」
「常着のままでございます。黒っぽい銘仙なのです」
「するとつまり」明智は皮肉にいった。「一方では厳重な戸締りがあって一歩も外へ出られないはずだし、一方ではショールだとか履物だとか、家出をなすった証拠がそろっているという訳ですね」
「左様でございますの」夫人は当惑して答えた。
「じゃ、一つこの洋館の中を見せて頂きましょうか」
明智はいいながら、もう起上っていた。
階下は客間とその隣の主人の書斎との二室きりだった。明智は書斎を一渡り眺めてから、外の廊下の端の階段を上って行った。小林と山野夫人がその後に従った。二階は三室に分れていて、その全体を一人娘の三千子が占領していた。部屋の様子で三千子が余り几帳面なたちでないことが察せられた。化粧室には姿見の前に様々な化粧道具が乱雑に並んでいた。書斎では書だなや机の上が不秩序に取散らされていた。
夫人は一々戸だなや押入を開けて見せた。机の抽斗から最近の手紙類をも出して見せたが、何一つ明智の心をひくものはないのだ。
「押入などは、その朝もよく調べましたのですが、別状ございませんでした」
夫人は少しも手抜りのなかったことを示そうとした。
「だが、幽霊ででもなければ、戸締りをした部屋を抜け出すことは出来ませんね」
明智は壁紙に触ったり、窓の締りを調べたりしながらいった。
「ひょっとしたら、お嬢さんはまだ内の中にいらっしゃるのではありませんか」
それを聞くと紋三は、三千子が五日間も家の中に隠れていたとすれば彼女はとっくに死骸になっているに相違ないと思った。彼は昨夜来の悪夢の様な感じがまだ抜け切らないのだ。
一通り見てしまうと三人は元の客間へ帰った。
「お嬢さんはピアノがお好きと見えますね。奥さんはお弾きになりますか」
明智は客間の大きな立型ピアノの前に立って、鍵盤の蓋を開けながら尋ねた。
「イイエ、私は一向無調法でございますの」
「じゃ、お嬢さんの外には弾かれる方はないのですね」
夫人がそれに肯くのを見ると、明智は何を思ったのか、いきなり弾奏椅子に腰かけて、鍵盤をたたき始めた。
明智の突然の子供じみた仕草が二人を驚かせた。が、それよりも一層変なのはピアノの音であった。明智の指が鍵盤に触ると、発条のゆるんだボンボン時計の様な音が響いて来た。
「いたんでますね」
明智は手を止めて夫人の顔を見た。
「イイエ、そんなはずはございませんが。ずっと三千子が使っていたのですから」
明智は最前たたいたキイをもう一度試みたがやっぱり同じ音がした。その次のキイも喘息を病んでいた。三人はふとおしだまって顔を見合せた。彼等はある非常に不気味な予感にうたれたのだ。山野夫人は真青になって明智の目を見つめた。
「開けてもいいでしょうか」
しばらくして明智が真面目な表情で尋ねた。
「ハア、どうか」
夫人は心もち震え声で答えた。
明智は鍵盤の下部の金具を動かして、細目にふたを開き、中をのぞき込んだ。
紋三は明智のうしろから、および腰になってピアノの内部よりはむしろ明智の表情を注視した。彼はピアノの共鳴箱の空洞の中に、ある恐しいものを予期していた。腕と足とを切断された、血まみれの女の死体が、ありありと目の前に浮んだ。
だが、すっかりふたが取り去られた内部には、一見何の異状もなかった。広い空洞の奥に、縦横に交錯したスプリングが見えているばかりだった。
それを確めると、紋三はホッとして楽な姿勢に返った。そして、今の馬鹿げた空想をおかしく思った。彼は夫人と目を見合せて、一寸微笑み合った。夫人も同じ心に相違なかった。
併し、それにも拘らず、明智だけは一層厳粛な表情になってピアノの内部を一心に検べていたが、やがて立上ると、二人の方に振向いて、声を落していった。
「奥さん、これは普通の家出なんかじゃありませんよ。もっと恐しい事件ですよ。びっくりなすってはいけません。このヘヤーピンはお嬢さんのでしょうね」
明智は細い金属のヘヤーピンを示した。
「ハア、それは三千さんのかも知れません」
「これが、ピアノの中のスプリングに引かかっていたのです。それであんな音がしたのでしょう。それから、お嬢さんの髪は細くって、いくらか赤い方ではありませんか」
彼はピンの外に一本の毛髪を指にからませていた。
「マア、では……」
山野夫人は驚いて叫んだ。
「まさかお嬢さんが隠れん坊をなすった訳ではないでしょう。一人でこの中へ入ってふたをしめることは不可能です。すると、何者かがお嬢さんをここへ隠したと考える外はありません」明智は少しちゅうちょしたあとで、「これは僕の想像に過ぎませんが、その者は、一時お嬢さんを隠して、行方不明を装って置いて、皆の注意が別の方へそれた時分を見はからって、お嬢さんの身体を家の外へ運んだのではないかと思われます」
「でも、あの日は一人も来客はなかったのですし、ここは一番私共の部屋に近いのですから、だれか忍び込めばすぐ分るはずでございますが」
夫人はどうかして明智の想像を否定しようとした。
「とすると、お嬢さんはその時自由な身体であったとは考えられません」明智は構わず彼の判断を続けた。「声を立てたり身動きが出来たとすれば、だれかが気づいたでしょう。恐らくお嬢さんは動くことも叫ぶことも出来ない状態にあったのです。
妙な隠し場所ですが、咄嗟の場合外に方法がなかったのかも知れません。犯罪者というものは、一寸我々では想像出来ない様な、馬鹿げた思いつきをするものです。それが都合よくお宅に外にピアノをお弾きになる方がなかったものですから、見つからないで済んだのです。だが、お嬢さんを隠した奴は、存外冷静にふるまったようです。僕はさっきから、このふたの漆の上に指紋が残っていないかと調べて見たのですが、何もありません。綺麗にふき取ってあります」
最初は何か本当らしくない様な気がしたが、段々明智の説明を聞く内に、事件の性質がハッキリ分って来た。第一に気づかわれるのは、三千子の生命の安否であった。山野夫人は、それを口にするのが恐しい様子で、一寸もじもじしていたが、態となにげない風でいった。
「三千子は誘拐されたとおっしゃるのですか。それとも、もしやもっと恐しい事では……」
「それはまだ何ともいえませんが。この様子では楽観は出来ませんね」
「でも、三千子の身体をここへ隠したとしましても、どうしてそれを外へ運び出すことが出来たのでございましょう。昼間は私共始め大勢の目がありますし、夜分は戸締りをしてしまいますから、忍び込むにしても、外へ出るにしても、私共が気づかぬはずはございませんわ。朝になって戸締りがはずれていた様なことは一度もないのですから」
「そうです。僕も今それを考えていたのです。ここのガラス窓なんかも、毎朝締りをお調べになりますか」
「エエ、それはもう、主人が用心深いたちだものですから、女中達もよく気をつける様にいいつかってますし、それにあんなことのあったあとですから、皆一層注意しているのでございます」
「もしかお嬢さんが見えなくなってから」明智はふと気がついた様にいった。「何か大きな品物を外へ持出したことはないでしょうか。このピアノでも分る様に、お嬢さんをどうかした奴は、何だか突飛な考えを持っているのです。お嬢さんを運び出すのにも、馬鹿馬鹿しい手品を使ったかも知れません。つまりお嬢さんの身体を何かしら、まるで想像もつかない品物の中へ隠して、持出したのではないかと思うのです」
夫人は明智のこの妙な考えに一寸驚いた様に見えた。
「イイエ、別にそんな大きな品物なんか、持出したことはございませんわ」
「併し、お嬢さんがお邸にいらっしゃらないとすれば、何かの方法で外へ運び出されたに違いないのです。このピアノの様子では、お嬢さんが御自分で外出されたとは考えられませんからね」明智は一寸ためらってから、「大変御手数ですが、召使の人達をここへ御呼び下さる訳には行きますまいか。少し尋ねて見たいのですが」
「エエ、お易い御用ですわ」
そこで夫人は内中の雇人を客間に呼び集めた。何となく物々しい光景だった。五人の男女が入口のドアの前に目白押しに並んで、もじもじしていた。彼等は何者とも判断の出来ない、明智の支那服姿を、妙な目つきで眺めた。
雇人の内二人だけそろわなかった。小間使の小松は頭痛がするといって女中部屋で寝ていたし、運転手の蕗屋は二三日前から実家へ帰って不在だった。
明智はそんな風に、大勢を一室に集めて訊問の様なことをやるのは余り好まなかった。いつもの遣り口とは違っていた。だが、今彼は三千子の身体が(それは恐らく死体だったかも知れないが)どんな風にして山野邸を運び出されたか、その点だけを大急ぎで調べる必要があったのだ。
山野夫人はけげん顔の雇人達に明智小五郎を紹介して、何なりと彼の質問には、少しも遠慮せず答える様にと諭した。
「こちらのお嬢さんが行方不明になられてから、つまり四月二日ですね、あれからこっちのこのお邸に出入りした人を、出来るだけ思い出して欲しいのです」明智はすぐ様本題に入った。そして先ず玄関番の書生の方に目を向けた。
書生の山木は、ニキビ面を少し赧らめて、思い出し思い出し来訪者の名前を列挙した。そして、この男女合せて、十五六名の人達は皆長年の知合で、少しも疑うべき所はないとつけ加えた。夫人もその点は同意見だった。
「その内に、何か大きな品物をお邸から持出した人はありませんか。来客ばかりでなく家内の人でも、だれでも構わない、兎も角何か大きな物を持って門を出た人はないでしょうか」
「大きなものといってもせいぜい折かばん位のものです」書生は不思議相に答えた。「自動車や車は門を出たり入ったりしましたけれど、だれもそんな大きなものを運び出した人なんかありません」
外の雇人達もそれ以上のことは知らなかった。
「裏口の方からだれか出入りしたものはありませんか」
明智は最後に二人の下女中をとらえた。
「勝手の方は、見知り越しの御用聞き位のものですわね」
女中の一人が別の女中の方を見て同意を求める様にいった。
結局何も分らなかった。自動車の助手も、主人の外にはだれものせなかった。大きな品物なんか運んだ覚えはないと明言した。もしも彼等が何物をも見逃していなかったとすれば、この上は天井裏とか縁の下とか、邸内の隅々を探して見る外はない様に見えた。だがそれは既に山野家の人達によって一応探索し尽されていた。誠に山野三千子は煙の様に消えてしまったのであった。
「だが、そんなことは不可能です。何か見逃しているものがある。現にあなた方はこのピアノを見逃していた。もっとあなた方が注意深かったなら、運び出されない内に、お嬢さんを見つけていたかも知れないのです。何かしら分り切ったものです。ごくつまらないことを見落しているのです。今おっしゃった外に、何かいい残しているものはありませんか。例えば書生さんは郵便配達が門を出入したことをいわなかった。もっとも郵便配達がお嬢さんを運び出すことは出来ないけれど、そんな風なごくつまらないものが省かれていはしないでしょうか」
「掃除屋、衛生人夫なんかもありますね」
ふと気がついた様に紋三が横合から口を出した。
「そうだ。そんな風のものです」
「アラ、掃除屋さんといえば、ねえ君ちゃん」一人の女中が朋輩を顧みて頓興な声を出した。「丁度あのあくる日ですわね。朝早くゴミを取りに来たのは。区役所の衛生夫が参りました」
終りの方を明智にいって、小腰をかがめた。
「いつもと変ったところはなかったですか」
「いいえ、別に……、でも、何だか日取りが早い様でございました。いつもは十日目くらいなのに、今度は二三日前に来たばかりのところへ、また来たのでございます」
「ゴミ箱は勝手口にあるのですね」
「ハア、通用門の内側に置いてございます」
「その男はどんな風でした。見覚えがありましたか」
明智は一寸好奇心を起した様に見えた。
「いいえ、別に見覚えはございませんが、やっぱりいつもの様に印半纒を着た汚ない男でございました」
「その男が通用門から入ったのですね。で、ゴミを持って行く所を見ましたか」
「いいえ、ただ門の所で行違いましたばかりで、私お使があったものでございますから。お君ちゃんはどう?」
「私もよく見なかったけれど、そうそう、今考えて見ると妙なことがあったわ。前の人が持って行ってから二、三日しかならないのに、内のゴミ箱が一杯になっていたのよ。私あの朝、掃除屋さんが来る前にゴミを捨てに行って、気がついていたのだけれど」そしてお君は明智の方を向いて、「忙しくって、ついそのまま忘れてしまったのでございますわ」
「そのゴミ箱っていうのは、大きなものかい」
紋三は明智の質問が待ち切れないで聞いた。彼はこうした異様な出来事には、人一倍ひきつけられた。彼は私に三千子の行方について彼自身の判断を試みようとしているのだった。
「エエ、随分大きいのですわ」
「人間が入れる位?」
「エエ、大丈夫入られますわ」
そんな問答がくり返されたあとで明智達は勝手口のゴミ箱を調べに行った。正門とは反対の側の高いコンクリート塀に通用門が開いていて、その入ったすぐの所に、黒く塗った大型のゴミ箱が置いてあった。一応それを調べて見たけれど、ただ大型であることが、あの突飛な想像を可能ならしめる外、別段何の発見もなかった。
「ゴミ箱の中へ人間を隠して、上から汚いゴミをかぶせて置く。それを衛生夫に化けた男がゴミ車に移して、どこかへ持去る。これは非常に馬鹿げた空想です。が、馬鹿馬鹿しければ馬鹿馬鹿しい程、却って本当かも知れないのです。この事件には何かしら突飛な所があります。一寸常識では考えられない様な所があります。併し、犯罪者は時に非常に突飛な馬鹿馬鹿しい思いつきをするものですよ」
明智はけげん顔の山野夫人に説明した。
それから綿密な邸内の捜索が行われた。召使達も引続き取調べられた。頭痛がするといって女中部屋に寝ていた小間使の小松には、明智がその部屋へ行って色々尋ねた。
そうして山野家の空気に浸っている間に、明智は何かしら少しずつ悟る所があった。山野夫人を始め召使達の言語表情から、おぼろげな一つの判断が生れて来る様に思われた。
明智と小林とは、晩餐のもてなしを受けて、夜に入って山野家を辞した。紋三は色々言葉を設けて明智の判断を聞こうとしたけれど、明智は紋三が自動車を降りて、彼の下宿の方へ別れて行く時まで、ほとんど沈黙を続けていた。
それから二日の間は、表面何事も起らなかった。明智は彼の探偵を進めていたに相違ないし、小林紋三は小林紋三で、彼自身の判断に従って、山野家を訪問したり、浅草公園や本所の養源寺の附近をうろついて見たりしていた。山野家にも新しい出来事は起らなかった。
だが、三日目の四月十日の夜、銀座通りの有名な百貨店に、前代未聞の珍事が出来した。そして、山野三千子失踪事件が、決してありふれた家出なんかでないことが判明した。
午前二時、その百貨店の三階の呉服売場を、若い番頭が一人の少年店員を伴って、見廻っていた。この店では毎晩、番頭、少年店員、警務さん、鳶のものなど、数十人の当直員を定めて、広い店内を隅から隅まで、徹宵見廻らせることになっていた。
昼間雑沓するだけに、一人も客のない広々とした物売場は、変に物すごい感じがした。ほとんど電燈を消してしまって、階段の上だとか、曲り角などに、僅に残された光が、ぼんやりと通路を照らしていた。
売場の陳列台はすっかり白布で覆われ、その大小高低様々の白い姿が、無数の死骸の様にころがっていた。
若い番頭は、物の影に注意しながら、暗い通路を歩いて行った。時々立止っては、要所要所にかけてある小箱のかぎを取出して、持っている宿直時計に印をつけた。
所々に太い円柱が立っていた。それが何か生きている大男の様に感じられた。
少年店員は懐中電燈を点して、番頭の先に立って歩いて行った。彼は虚勢をはって歩調を荒々しくしたり、口笛を吹いて見たりした。だが、それらの物音が広間の隅々に反響すると、一層変てこな気持になった。
一番気持の悪いのは、友禅類の売場の中央に出来ている、等身大の生人形だった。三人の婦人がそれぞれ流行の春の衣裳をつけて、大きな桜の木の下に立っていた。店内ではその生人形に、お松、お竹、お梅という名前をつけて、まるで生きた人間の様に「お梅さんの帯だ」とか「お梅さんのショールだ」とかいっていた。お梅さんというのは三つの内でも一番綺麗で、若い人形だった。
この飾り人形については色々の挿話があった。若い店員がある人形に恋をしたなどといううわさがよく伝わった。夜中にそっと忍んで来て、人形に話をしたり、ふざけたりしている男もあった。今のお梅さんも、あんなに美人なのだから、ひょっとしたらだれかが恋をしていたかも知れないのだ。
そんなうわさ話が生れる程あって、この人形共は何だか死物とは思えないのだった。昼間はそ知らぬ振をして、作り物の様な顔ですましていて、夜になるとムクムクと動き出すのではないかと疑われた。事実夜の見廻りの時に、人形のすぐ前に立って、じっとその顔を見つめていると、突然ニコニコと笑い出し相な気がされた。
今番頭達の行手には、その三つの人形が、遠くの電燈の朧な光を受けて、真黒く見えていた。
「ちょっと、ちょっと、いつの間に、あんな子供の人形を置いたのです。ちっとも知らなかった」
少年店員がふと立止って、番頭の袖を引いた。
「エ、子供の人形だって、そんなものありゃしないよ」
若い番頭は怒った様な調子で、小僧の言葉を打消した。彼は怖がっているのだ。
「だって、御覧なさい。ホラ、お松さんとお竹さんが、子供の手を引いているじゃありませんか」
小僧はそういって、人形の方へ懐中電燈をさし向けた。遠いためにはっきりとは見えないけれど、そこには、お梅人形のかげになって、確に一人の子供が立っていた。
どう考えても、そこに子供人形のあるはずがなかった。変だぞと思うと無上に怖くなって来た。
「オイ、スイッチをひねるんだ。あの上のシャンデリヤをつけて御覧」
若い番頭は、ワッといって逃げ出したいのをやっと踏止って少年店員をせき立てた。
少年店員は、スイッチを押しに行ったけれど、面喰っている為に、急にはそのありかが分らない。番頭はもどかしがって、少年の手から懐中電燈を奪って、それを怪しい人形にさし向けながら近づいて行った。
長い陳列台を一つ廻ると、一寸空地が出来ていて、その真中に三人の人形が立っていた。懐中電燈の丸い光が、おずおず震えながら、床をはい上って行った。人形の周囲にめぐらした鉄柵、人造の芝生、お松さんの足、お梅さんの足、お竹さんの足、と次々に円光の中に入って行った。
そこで丸い光は暫く躊躇していた。事実を確めるのが怖いといった風に戦いていた。が突然思い切って、空を切って、光が飛んで、パッタリ動かなくなった箇所には、世にも不思議なものの姿がクローズ・アップに映し出されていた。
その者は鳥打帽を冠り、何か黒いものを着て、さっき少年店員がいった通り、一寸すまし返ってお松お竹の両婦人に手を引かれていた。だが、一見してそれは子供でないことが分った。大きな顔に大きな目鼻がついて、頬の辺に太い皺が刻まれていた。俗にいう一寸法師だった。大人の癖に子供の脊丈しかなかった。それが懐中電燈の円光の中に、胸から上を大写しにして、私は人形ですという顔をして活人画の様にまたたきさえしないでいるのだ。
昼間、太陽の光でそれを見たなら、美しい生人形と畸形児との取合せが余り変なので、だれでも大笑いをしたことであろう。だが夜、懐中電燈のおぼろげな円光の中に浮び上った畸形児のすました顔は、すましているだけに一層気違いめいて、物すごく感じられた。
「オイ、そこにいるのはたれだ」
若い番頭は思い切って怒鳴りつけた。
しかし相手は答えなかった。答えの代りに丸い光の中の半身像が、丁度活動写真のフィルムが切れでもした様に、突然見えなくなった。つまり相手は逃げたのだった。
少年店員がやっとのことで、スイッチを探し当てて、一時にその辺が明るくなった。だがその時分には、畸形児は鉄柵を越え、陳列台の間を通り抜けて、どこかへ見えなくなっていた。無数の陳列台が縦横様々に置き並べてある、その間を台より低い、一寸法師が逃げて行くのでは、まるで追駈け様がなかった。
間もなく番頭の非常信号によって、宿直員全部が三階に集まった。そしてあるたけの電燈をつけて、非常に物々しい捜索が始められた。陳列台の白布は一々とりのけられ、台の下や、開き戸の中なども隈なく調べられた。三階に隠れていないと分ると、全員が二隊に分れて、一隊は四階以上を、一隊は二階以下を探すことになった。だが、あの様に種々雑多の品物を、所狭く置並べた百貨店の中で、小さな一人の人間を探し出すのは、不可能に近い仕事だった。
ほとんど夜明け方まで大がかりな捜索が続けられたが、結局分ったのは、何一品盗まれていないこと、窓その他人間の出入り出来る場所は、凡て完全に戸締りがしてあって、外部から何者かが忍び入った形跡絶無なことであった。
盗まれた品物がなければ、宿直員に越度はなく、罰俸を恐れることもなかった。
「あいつ臆病者だからね。きっと何かを見違えたんだよ」
という様なことで、捜索はうやむやの内におわってしまった。
その翌日所定の時間になると、百貨店のあらゆる窓やドアが開け放され、いつに変らぬ雑沓が始まった。
支配人は、一応出入口の係員を呼んで一寸法師のお客を見なかったかと尋ねたが、昨日も今日もだれ一人そんな不具者に気づいたものはいなかった。結局昨夜の騒ぎは若い店員の幻に過ぎなかったのかと思われた。
盗まれた品物もなく、曲者の忍び込んだ箇所もない。その上若い番頭が主張する様な不具者なんか、昨日閉店以前に入った形跡もなく、今日開店後出て行った様子もない。(そういう不具者なればだれかの目につかぬはずはないのだが)だから若い番頭の見たのは、単に彼の幻覚に過ぎなかったか、それとも又、少年店員の中のいたずらものが、臆病な彼をおどかしてやろうと、態と人形の真似なんかしていたのかも知れない。という様な事で、結局発見者が同僚達の嘲笑をかったばかりで、この事件は落着しようとしていた。
だが、その日のお昼頃になって、例の三階の呉服売場に途方もない騒ぎが起った。
桜の造花の下の三美人人形は、まだ最近飾られたばかりなので、三階中の人気を集め、そのまわりは、いつも黒山の人だかりがしていたにも拘らず、不思議とだれもそこへ気づかなかった。大人達にとっては、恐らくその着想が、余りにも奇抜過ぎたのであろうか、それを発見したのは二人の小学生徒であった。
彼等はおそろいの紺サージの学生服をつけて、柵の一番前の所に立って人形を見上げていた。
「ねえ、兄さん、この人形はおかしいよ。右の手と左の手と、まるで色が違っているんだもの、この作者は下手だねえ」
一方の小学生が人形の作者を批評した。
「生意気おいいでないよ」兄の方は周囲の見物達に気を兼ねて弟をたしなめた。「御覧よ。あの手提を提げている方の手なんか色は少し悪いけど、細工が実に細かく出来ているじゃないか。この作者は決して下手じゃないんだよ」
「だって、右と左であんなに感じが違っちゃつまらないや。そりゃ、細工は細かいけど……でも、やっぱり変だな、右の手は小さな皺が一本一本書いてあるのに、左の手は五本の指がある切りで、皺なんか一本もない、のっぺらぽうだよ……それから右の手には生毛だって生えているんだし……アラ、アラ、兄さん、あれ本当の人間の手だよ。何だかプヨプヨしているよ。ね、あの指環があんなに食い入っているだろう。きっと死人の手だよ」
彼は思わぬ発見に息をはずませて、叫ぶ様にいうのであった。「死人の手」という一言は、人形の衣裳や容貌ばかりに見入っていた見物達の目を、一せいにその問題の手首へと移らせた。その不気味なものは一番若いお梅人形の右の袖口からのぞいていた。
注意して見れば、色合といい、小皺の様子といい、生毛といい、もう死人の手首に相違はなかった。だが、常識家の大人達は、まだ彼等自身の目を疑っていた。そんな馬鹿馬鹿しい事が起るはずはないと思いつめていた。
「ねえ、伯母さん、あれ本当の人間の手だね」
小学生は遂に一人の婦人をとらえて彼の発見を裏書きさせようとした。
「まあ、いやだ。そんなことがあるものですかよ」
婦人は何気なく打ち消したけれど、でもどうした訳か、問題の手首を、まるで食い入る様に見つめていた。
「訳はないわ、あんたそんなに確めたけりゃ、柵の中へ入って触って見ればいいんだわ」
別の婦人が、からかう様にいった。
「そうだね、じゃ僕たしかめて来よう」
いうかと思うと小学生は柵を乗り越えてお梅さんの側へ走り寄った。兄が留めようとしたけれど間に合わなかった。
「こんなもんだよ」
小学生はお梅さんの右手を引抜いて、高く見物達の方へふりかざした。それを見ると、ワワワワワワという様な一種のどよめきが起った。今まで着物の袖で隠れていた手首の根元の方は、肱の所から無慙に切落されて、切口には、赤黒い血のりが、ベットリとくっついていた。
百貨店でお梅人形の騒ぎがあった同じ日の午後、明智小五郎は山野家の玄関を訪れた。丁度山野夫人が居合せて、彼は早速例の洋館の客間に通された。一寸あいさつが済むと、明智は何か気せわしく会話の順序を無視して突然要件に入った。
「三千子さんの指紋が欲しいのですが、もう一度御部屋を見せて頂けないでしょうか」
「サア、どうか」
山野夫人は先に立って二階の三千子の部屋へ上って行った。
書斎も化粧室も、この前見た時に比べて、まるで違う部屋の様に、綺麗にかたづいていた。三千子の指紋を探すのは少しも骨が折れなかった。先ず書斎の机の上に使い古した吸取紙があって、それに黒々と右の拇指の指紋が現れていた。化粧室では、鏡台や手函などは綺麗に掃除が出来ていて指紋なぞ残っていなかったけれど、鏡台の抽出の中の、様々の化粧品の瓶には、どれにも、幾つかのハッキリした指紋があった。
「この瓶を拝借して行って差支ありませんか」
「ハア、どうか。お役に立ちましたら」
明智はポケットから麻のハンケチを出して、選り出した数個の化粧品容器を、注意してその中に包んだ。
客間に帰ると、明智はテーブルの上に、今の化粧品の容器類と、吸取紙と、外に一枚の紙切れとを並べた。この最後のものには、何者かの片手の指紋がハッキリと押されてあった。明智はそこへひょいと一つの虫眼鏡を放り出していった。
「奥さん。この紙切れの五つの指紋と、御嬢さんのお部屋にあった吸取紙や、化粧品の指紋と比べて御覧なさい。虫眼鏡で大きくすれば、素人でもよく分りますよ」
「マア」夫人は青くなって、身を引く様にした。「どうかあなたお調べ下さいまし。私には何だか怖くって……」
「イヤ、僕はもうさっき調べて見て、この両方の指紋が同じものだってことを知っているのですが、奥さんにも一度、見て置いて頂く方がいいのです」
「あなたが御覧なすって、同じものなれば、それで十分ではございませんか。私などが見ました所で、どうせよくは分らないのですから」
「そうですか……ではお話しますが、奥さん、びっくりしてはいけません。お嬢さんは何者かに殺されなすったのです。こちらのはその死骸の片手から取った指紋なのです」
山野夫人は、フラフラと身体がくずれ相になるのをやっと堪えた。そして大きな目で明智をにらむ様にして、どもりながらいった。
「で、その死骸というのは一体どこにあったのでございますか」
「銀座の──百貨店の呉服売場なんです。実にこの事件は変な、常軌を逸した事柄ばかりです。そこの呉服売場の飾り人形の片手が、昨夜の間に、本物の死人の手首とすげ換えられていたというのです。警務係をやっている者に知合がありまして、早速知らせてくれたものですから、序にそっと指紋を取ってもらった訳なのですが。それから、これは手首と一緒に警察の方へ行っているのですが、その手首には大きなルビイ入の指環がはめてあったのだ相です。これも多分御心当りがありましょうね」
「ハア、ルビイの指環をはめていましたのも本当でございますが、でも三千さんの手首が百貨店の売場にあったなんて。まるで夢の様で、私一寸本当な気が致しませんわ」
「御もっともですが、これは少しも間違いのない事実です。やがて今日の夕刊には、この事件が詳しく報道されるでしょうし、警察でもいずれこれをお嬢さんの事件と結びつけて考える様になるでしょう。御宅にとっては、お悲しみの上に、非常に御迷惑な色々の問題が起って来るかも知れません」
「マア、明智さん、どうすればいいのでございましょう」
山野夫人は、目に一杯涙をためて、一種異様のゆがんだ表情で、明智にすがりつくようにいうのであった。
「早く犯人を探し出して、お嬢さんの死骸を取戻すほかはありません。こうなれば警察の方でも十分捜索してくれるでしょうし、案外早く解決がつくかも知れません。その後、御主人は御帰りないのですか」
「ハア、主人はこちらから電報を打ちまして一昨日帰ってもらったのでございますが、ひどく子煩悩の方だものですから、あのピアノのことなんか申しますと、もうとても生きてはいないだろうと気落をしてしまいまして、まるで病人の様になって、人様にお逢いするのもいやだと申して、寝間に引こもっているのでございます。そんな訳でございますから、今のお話も主人に知らせましたものかどうかと先程から迷っている様な訳でございますの」
「それはいけませんね。だが、御主人も余り御気落がひどい様ですね。じゃ、今日は御目にかかれませんかしら」
「ハア」夫人はいい悪く相に、「先程もあなたのいらしったことを申したのですけど、今日は失礼させて頂くと申しているのでございます」
「では、僕はこれで御暇しますが、今日までに調べましたことを二三御報告して置きましょう」明智は少し考えてから続けた。「先ず例の衛生人夫の行方です。ゴミの中へお嬢さんの身体を隠して持去ったかも知れないという、あの衛生人夫ですね。僕はあの翌日一杯かかって、出来るだけ調べたのですが、吾妻橋の東詰までは、色々な人の記憶を引出して、どうにかこうにか跡をつけることが出来ましたけれど、それから先は、橋を渡ったのか、河岸を厩橋の方へ行ったのか、それとも左に折れて業平橋の方に向ったのか、どう手を尽しても分らないのです。現に唯今でも僕の配下のものが一人その方の捜索にかかり切っている様な訳ですが、まだ何の吉報もありません。
もう一つは、お宅の蕗屋という運転手です」明智は何かニヤニヤ笑って夫人の顔を見た。「奥さんはお隠しなすっていた様ですが、それは御無理とは思いませんが、お隠しなさるということはどちらかといえば却って人に穿鑿心を起させるものです。僕は早速蕗屋のことを調べました。そして、恐らく奥様以上に詳しい事情を知ることが出来たのです。お嬢さんと蕗屋との間柄は、双方真面目だった様ですが、どちらかといえばお嬢さんの方が一層熱心だったかも知れません。これは多分あなたも御承知だろうと思います。ところが蕗屋はそれ以前から小間使の小松(あの朝お嬢さんの寝台が空っぽになっているのを発見した女ですね)この小松とかなり深い関係があった。つまり一種の三角関係という様なものがあったのです。
その蕗屋が丁度お嬢さんの行方不明と前後して、御暇を頂いて郷里へ帰っているというのは、御主人が御考えなすった通り、何か意味があり相に見えますね。で僕も御主人と同じ道を取って、蕗屋のあとを追って見たのです。四月二日以後の彼のあらゆる行動を調べて見たのです。ところが、彼は三日の夕方突然御主人に御暇を願って、その晩の汽車で彼の郷里の大阪へ立っています。その時彼が単身で、女の同行者などなかったことは、沢山の目撃者(多くは同業者ですが)が口をそろえて証明しております。
御主人は大阪で蕗屋にお逢いなすっているのではありませんか。お目にかかってその模様をお伺い出来ないのは残念ですが、蕗屋はお嬢さんの今度の変事には、恐らく何の関係もないのでしょう。ただ、彼は何かを知っているかも知れませんがね」
明智はそういって、山野夫人をじっと見つめた。夫人は青ざめて、涙ぐんで、さしうつむいているばかりだ。明智は彼女の表情から何事をも読むことが出来なかった。
「表面に現れている点だけでいえば、この際一番疑わしいのは小間使の小松です」明智は一段声を低くしていった。「彼女にとって、お嬢さんは恋の敵だったのです。それに小間使なればいつだってだれにも疑われないで、お嬢さんのお部屋へ出入出来ますし、お嬢さんのいらっしゃらないことを第一に発見したのもあの女だったのです。そして、それ以来病気だといって一間に、とじこもっているのも変に取れば取れないことはありません」
「イイエ、あれに限ってそんな恐しいことを致すはずはございません」山野夫人はあわてて明智の言葉をさえぎった。「あれは不幸な娘でございます。両親ともなくなってしまって、ひどい伯父の手で、恐しい所へ売られるばかりになっていましたのを、主人が聞込んで救ってやったのでございます。そしてもう四年というもの、娘分同様にして養って来たのでございます。当人もそれをひどく恩に着まして、口癖の様に御主人のためなれば命も惜くないなどと申しまして、それはまめまめしく働いて居てくれるのでございます。それに気質もごく優しい娘ですから、どの様な事情がありましても、三千子をどうかするなんてことがあろうはずはございません」
「そうです。僕も小松がそんな女だとは思いません」明智は頭の毛を指でモジャモジャやりながら、「ただ、表面の事情があの女に嫌疑のかかる様な風になっていることを申上げたのです。だが、小松に罪のないことはよく分っていますが、罪はなくても何か知っていることがあるかも知れません。この間も僕は、あの女の寝間へ行って、色々尋ねて見たのですが、何を聞いても知らぬというばかりで、顔さえも上げられないのです。強いて尋ねるとしまいにはしくしく泣き出すのです。あの女は何かしら秘密を持っていることは確です」
明智は山野夫人のどんな微細の表情の動きをも見逃すまいとする様に、彼女の青ざめた顔をのぞき込んだ。そして、ごく平凡な調子で次の話題に進んで行った。
「この事件には、妙な不具者が関係している様に思われます。俗に一寸法師という奴です。もしやそんなものに御心当りはありませんか。多分御聞及びでしょうが、小林君も先夜そんなものを見たということですし、今度の百貨店の事件にもどうやら同じ一寸法師が関係しているらしいのです。昨夜真夜中に問題のお梅さんという人形の側でそいつがうごめいている所を店員が見たというのです」
「マア」山野夫人は真から気味悪そうに身震いした。「小林さんから聞きました時は、あの人が何か見違えたのだろうと思っていましたが、マア、ではやっぱり、そんな不具者がいるのでございましょうか。イイエ、私少しも存じませんわ。小さい時分見世物で見ました外には、一寸法師なんて久しく見たこともございませんわ」
「そうでしょうね」明智は夫人の目を見続けていた。「それについて妙なことがあるのですよ。小林君は一寸法師が養源寺へ入る所を確に見たのですが、お寺でもそんなものはいないといいますし、近所の人も見た事がないというのです。
今度も又それと同じことが起ったのです」明智は話しつづけた。「そうして店員が夜中に一寸法師を見たにも拘らず、その前日も翌日もそんな不具者が出入口を通った様子がないのです。といって窓を破って出入した跡もありません。いつの時も、彼奴は消える様になくなってしまうらしいのです。そこに何か意味がありはしないかと思うのですが」
明智は何かしら知っていた。知りながら態と何食わぬ顔をして、いわば不必要な会話を取交している様な所が見えた。彼は最初から一つの計画を立てて、お芝居をやっているのかも知れなかった。
「それから、今度の事件でもっとも不思議なのは、これは奥様もとっくにお気づきだと思いますが、犯人が彼自身の犯行を公衆の面前にさらけ出そうとしている点です。小林君の見たことといい、例の千住の片足事件といい、(もっともこれは全然別の事件かも知れませんが)今度の百貨店の出来事といい、凡て犯人は恐しい殺人事件のあったことを世間に知らせようとしている形があります。殊に今日のは、ちゃんと指環まではめてあった。これは山野三千子さんの手首だぞと、広告している様なものではありませんか。殺人者が自分の犯行を広告するというのは、到底考えられないことです。馬鹿か気違いでなければ、いや、どんな馬鹿でも気違いでも、まさかそんな乱暴なことはしないでしょう。それに、だれにも姿を見せないで百貨店の飾り人形に、死人の手首をとりつけて来るなんて、馬鹿や気違いで出来る芸当ではありません。とすると、この一見馬鹿馬鹿しく見える出来事には、何か深い魂胆がなければなりません」
明智はそこでポッツリと言葉を切って、山野夫人の青ざめた顔を眺めた。不自然に長い間そうしてじっとしていた。
山野夫人は、明智の鋭い眼光を意識して、さしうつむいたまま震えていた。彼女は余りの恐しさに顛倒して口も利けないらしく見えた。
「で、もしこれが深い計画によって行われた出来事だとしますと、その意味はたった一つしかありません。つまり、犯人は外にあるのです。お嬢さんの死体の一部を公衆の面前にさらけ出している奴は、犯人ではなくて、そういう驚くべき手段によって、別に本当の犯人を脅迫しているのです。何かためにする処があって、非常手段を採っているのです。そんな風には考えられないでしょうか」
山野夫人はその時、ハッと顔を上げて明智を見た。二人は無言のまま、じっとにらみ合った。お互にお互の胸の奥まで突通す様な、恐しい眼光を取交した。が、次の瞬間には、山野夫人はテーブルに顔を伏せて、はげしく泣き出していた。圧えても圧さえても、胸を刺す甲高い声が、袖をもれた。彼女の小さい肩が烈しく波打った。なげ出した白い首筋におくれ毛がもつれて、なまめかしくふるえた。
そこへドアが開いて、書生が入って来た。彼はその場のただならぬ様子を見ると、そのまま引返し相にしたが、思い返してテーブルの方へ近づいて来た。彼も何か非常に興奮している様子だった。
「奥様」彼はおずおずと夫人を呼びかけた。「大変な物が参りました」
夫人はやっと涙を圧えて、顔を上げた。
「ただ今、こんな小包が参りました」
書生は持っていた細長い木箱をテーブルの上に置いて、チラと明智の方を見た。
小包は粗末な木箱で、厳重に釘づけになっていたが、書生が無理にあけたのであろう、蓋が半分に割れて、中から何か油紙に包んだものがはみ出していた。
細長い木箱は午後の第一回の郵便物の中に混っていた。差出人の記名はなかったけれど、いずれどこからかの到来物に相違ないと思って、書生の山木は何気なく蓋を開いた。(ここでは封書の外の小包だとか書籍類などは、書生が荷造りを解いて主人の所へ差出す習慣だった)だが、一目中の品物を見ると、山木は青くなってしまった。彼はそれをどう処分していいか分らなかった。病中の主人を驚かすのは憚られた。といって、黙って置く訳には行かぬ。ふと思いついたのは客間に素人探偵の明智が来ていることだった。彼は兎も角、それを夫人と明智のところへ持って行くことにした。
明智は書生の説明を聞きながら箱の中から油紙に包んだ品物を取出して、丁寧に包みを解いた。中からは渋紙色に変色した人間の片腕が出て来た。肱のところから見事に切断され、切口に黒い血がかたまっていた。たまらない臭気が鼻を打った。
「君、奥さんをあちらへお連れしてくれ給え。これをごらんにならん方がいい」
明智は手早く包みを箱の中へ押し込んで叫んだ。
山野夫人は、併し、凡てを見てしまった。彼女は立上って無表情な顔で一つ所を見つめていた。顔色は透通る様に白かった。
「君、早く」
明智と書生とが同時に夫人をささえた。夫人はもう立っている力がなかった。彼女は無言のまま書生に抱かれる様にして日本間の方へ立去った。
明智は夫人が行ってしまうと、又包みを解いて中の物を取出し、暫く眺めていた。余程注意しないと、皮膚がズルズルとめくれて来そうだった。それは若い女の左の手首だった。これと百貨店にさらされたものとが丁度一対をなしているのではないかと思われた。
彼は棚の上にあった硯箱をおろして墨をすると、手帳の上に、注意深く、腐りかかった五本の指の指紋を取った。そして、それを元通り包み直し箱の中に納めて、目につかぬ部屋の隅へ置いた。いうまでもなく、彼は木箱や包紙や、箱の表面の宛名の文字などは、残る所なく綿密に調べた。
それから、先程のハンカチを解いて、三千子の化粧品の容器類を取出し、それの表面に残っている指紋と、今手帳に写した指紋とを虫眼鏡でのぞき比べた。
「やっぱりそうだ」
彼はため息と一緒に、低い声で独言をいった。箱の中の手首は三千子のものに相違ないことが分ったのだ。それから、何を思ったのか、彼は再び三千子の部屋へ上って、暫く何かしていたが、やがて降りて来るとそこに書生の山木が待受けていた。
「奥様から、御調べがすみましたら失礼ですが御随意に御引取り下さいますように申上げてくれということでした。それから警察の方への届けなんかも、よろしく御計らい下さいます様に」
「アア、そうですか。それは御心配のない様に御伝え下さい。ですが、一寸でいいから御主人に御目にかかれないでしょうか」
「イエ、それも大変失礼ですが、主人はお嬢さんのことで、非常に神経過敏になっておりますので、出来るだけは、色々なことを耳に入れないで置きたいとおっしゃって、凡て秘密にしてありますので、この際なるべくならお会い下さいません様にということでした」
「そうですか。じゃ僕は帰ることにしますが、この箱は君がどこかへ大切に保存して置いて下さい。いずれ警察から人が来るでしょうから、それまでなるべく手をつけない様にね」
明智は化粧品のハンカチ包を大切相に懐中して立上った。書生の山木と小間使のお雪とが玄関まで彼を見送った。その時廊下の小暗い所でお雪が小さな紙切れを明智に手渡したのを、先に立った山木は少しも気づかなかった。
山野大五郎氏は大阪から帰って以来、床についた切りだった。軽度の発熱が続いて、絶えず烈しい頭痛が伴った。医師は流行感冒だといっていたけれど、その発熱の原因が一人娘の三千子の失踪にあることは疑うまでもなかった。大阪行の結果が失望に終った上に、留守中明智小五郎の意外な発見によって、三千子の行方不明が単なる家出なんかでないことが分ってから、彼の懊悩は一層烈しくなった様に見えた。
大五郎氏は家人に顔を合せることを厭った。書生の山木などは、うっかり来客を取次いで、ひどく怒鳴りつけられたりした。店の支配人が店務の打合せにやって来るのさえ、多くは逢わないで返した。その頃主人の部屋へ入る者は、夫人の百合枝と、小間使のお雪が三度の御給仕に出る位のものだった。
山野夫人は、不気味な木箱の贈物を見てから、まるで病人の様になって、居間にとじこもっていた。夕食の時間になっても、茶の間へ顔を出さなかった。小間使のお雪が、心配して度々様子を見に来たけれど、彼女は物もいわないで考え事をしていた。
七時が打って暫くすると、何を思ったのか百合枝は着換えをして、大五郎氏の部屋へ入って行った。大五郎氏は蒲団の上に仰臥して、青い顔をして、ぼんやりと天井を眺めていた。草色の絹をかぶせた電燈が、部屋を一層陰気に見せていた。
夫人は主人に薬を勧めたり、部屋を乾燥させない為に枕頭の火鉢にふたをとったままかけてある、銀瓶に水を差したりしてから、大五郎氏の顔色を読む様にして、
「私一寸片町までまいりたいのでございますが」
とおずおずいった。
「相談にでも行くのか」
大五郎氏は、髭の伸びた顔を夫人の方にねじ向けて尋ねた。二三日の間にめっきりやせが見えて、目ばかり大きく血走っていた。
「ハア、度々ですけれど、お加減がそんなにお悪くない様でしたらほんの一時間かそこいらお暇が頂きたいのですが」
本郷の西片町には、山野夫人の伯父に当る人が住んでいた。両親をなくした彼女には、この人が唯一の身内だった。
「私は差支ないから、行くなら、気をつけて行って来るがいい」
大五郎氏は何か別の考え事をしている様な、空な声でいった。
「では一寸行って参りますから」
山野夫人はそういって立上ろうとして、ふとそこに拡げてある夕刊に気がついた。次から次へと起って来る、様々の出来事に、ついぼんやりしてしまって、彼女は大変なことを忘れていた。今日の夕刊は主人に見せてはならないのだった。
そこには予期した通り、いや予期以上の仰々しさで、百貨店の珍事が報道してあった。二面の大半がその激情的な記事で埋まっていた。一家の私事がいつの間にか一つの大きな社会的事件に拡大された形だった。無論その記事には三千子のことなど一ことだって書いてあるはずはなかったけれど、この仰々しい三面記事がその実自分達の一家に関係していようなどとはまるで嘘の様な気がされた。
大五郎氏がその記事を読んだことは疑うまでもなかった。だが、読んで或ことに気がつきはしなかったかどうか。夫人は大五郎氏の表情からそれを読もうと努めたが、彼の気抜けのした様な顔は、何事をも語っていなかった。恐らくは、彼はこの余りに大きな社会記事が、彼の娘の運命を暗示していようなどとは到底想像も出来なかったであろう。
山野夫人は、お雪に行先を告げて、外出の用意をさせた。お雪は山木さんでもお連れなすってはと勧めたけれど、近所のタクシーを雇うからそれには及ばないといって、彼女はただ一人で門を出た。
門の外は、両側とも長い塀が続いて、所々に安全燈が鈍い光を放っているのが、一層暗さを引立てている様に見えた。人通りなどはまるでなかった。
彼女は暗黒の往来に立止って、暫く何か考えていたが、やがてトボトボと歩き出した。だが、妙なことにはそれはタクシーの帳場とは反対の、一層さびしい方角を指していた。第一の曲り角へ来た時、彼女は一応うしろを振返って、だれも見る人のないことを確めると、それから少し急ぎ足になって、暗い道暗い道と選って歩いて行った。
二三町も行くと、道は隅田川のさびしい堤に出た。対岸の家々の燈火が、丁度芝居の書割りの様に眺められた。真暗な広い河面には、荷足船の薄赤い提灯が、二三つ、動くともなく動いていた。
堤に出て、少し行って、だらだら坂を下ると、三囲神社の境内だった。山野夫人は坂の降り口の所で、又注意深く左右を見廻してから、神社の中へ入って行った。
だが、夫人がそれ程用心深くしていたにも拘らず、彼女は一人の尾行者を悟ることが出来なかった。彼女が邸の門を出るとから、小間使のお雪が、彼女以上の用心深さで、彼女の跡をつけていた。
三囲神社の境内は、墓場の様に静だった。堤の上の安全燈からさす光の外は、隙漏る燈火さえなかった。暗黒の中に大入道の様な句碑がニョキニョキ立並んでいた。
山野夫人は探る様にして自然石の間を縫って行った。そして、一際大きな句碑の前までたどりつくと、何かを待設ける様に立止まった。
「奥さんですか」
すると、句碑のうしろから、白いものが現れて、ささやく様に声をかけた。その男は和服に春の外套を着て、大型の鳥打帽を眼深に冠っていた。やみの中でも、大きな眼鏡が、遠くの光を反射してキラキラ光った。
「エエ」
山野夫人がかすかに答えた。震え出すのを一生懸命に堪えている様な声音だった。
「僕のいったことはうそじゃないでしょう。いっただけのことは、ちゃんとやってのけるのです」
不思議な男は、太いステッキによりかかりながら、夫人の顔をのぞき込む様にしていった。
「僕は命を捨ててかかっているのですよ。どんなことだってやっつけます。これ以上のことだって。サア、返事を聞かせて下さい。僕の願いを承知してくれますか、どうですか」
「もう駄目ですわ。ここまで来てはもう取返しがつきませんわ」夫人は泣き出し相な声でいった。「きっと、すっかり分ってしまいます。それに、明智さんを頼んでしまったのですもの。あの人は恐しい人です。底の底まで見通している様な気がします。あなたは、それならそれで、なぜもっと早くいってくれなかったのです。せめて明智さんなんか頼まない先に」
「明智ですって、フフン」不思議な男は鼻の先で笑った。「あの男がどうしたというのです。何も恐れることなんかありませんよ。こんなことになったのもあなたが悪いのだ。僕を見くびって、たかをくくっていたのが悪いのだ。口ばかりではあなたが驚かないから、実行する外なかったのだ。今になって泣き言をいったって何になるものか。だが、決して絶望することはありませんよ。凡ての秘密は僕が握っているのだ。三千子さんが殺されたことが分った所で、だれが殺したんだか、死骸がどこにあるのだか、警察にしろ、素人探偵にしろ、だれがどんなに探したって分りっこはありません。だから少しも心配することなんかありゃしない」
お雪は出来るだけ二人に接近して、句碑の蔭から彼等の密話を聞こうとした。彼女は怖い事よりも妙な好奇心と一種の正義の感情で一杯になっていた。それに日ごろから彼女とは人種でも違う様に畏敬していた百合枝夫人のこの犯罪じみた奇怪な行動が、彼女を不思議に興奮させた。彼女は腹立たしい様な、一種異様な感じで、ブルブル震えていた。
「だから、安心しているがいいのだ、私さえ怒らさなければ、万事大丈夫なんだ。だが、あなたは今晩どういう口実で内を出たのですか」
男の低い圧えつける様な声が続いた。
「片町まで行って来るといって」
夫人は途切れ途切れに答えた。
「あなたの伯父さん所ですね。じゃ二三時間は大丈夫だ。堤の上にタクシーが待たせてあるから、私と一緒にお出でなさい。二時間もすればきっと返してあげる。何もビクビクすることはない。だが、もしあなたが私の申出を拒絶なさると、飛んでもないことになりますよ。私は一切合切ぶちまけちまう。そうなれば無論私も罪におちるが、あなたは身の破滅だ。生きちゃいられない。だからさ、私のいうことを承知する外はないのだ。飛んだ奴に見込まれたのが不運とあきらめるんだね。サア、時間がないから早くきめて下さい。私はもう待てるだけ待ったのだから」
「あなたが、そんなひどい人だとは思わなかった。悟りすました世捨人の様な顔をしていて、その実恐しい悪党だったのね」夫人は、ため息をついた。「でも、仕様がありませんわ。あのことを秘密にして置いてもらうためには、どんな犠牲だって払わなければ。けれど、あなたは、そんな無理往生なことをして、それで寝ざめがいいのですか。私はどうしたって、あなたを好きにはなれないんだから」
「ウフフフフフフフ」奇怪な男は気味悪く声を殺して笑った。「私は十年の間待っていたのだよ。あなたは知るまいけれど、私はその長い間あなたのことばかり思い続けて来たのだ。私がどんなに苦しんだか、色々な馬鹿馬鹿しい企てをやったか。今にすっかり白状する。ウフフフフフフ、あなたはきっと驚く。あなたを思っていた男の正体が分ったら、あなたは気絶する程驚くに違いない。だが、今度のことは、何という幸運だったろう。こんなことでも起らなければ、私は一生がい私のこの切ない思いを打明ける折がなかったのだ。サア、詳しいことは、あちらへ行ってから話そう。兎も角、あなたは私についてくる外はないのだ」
男は、そういったまま、自信に満ちた様子で、境内を出て堤の方へ歩いて行った。山野夫人は、彼女自身の意思を失って、別の意思の命令によって動いているかの様に、歯がゆい程従順に男のあとに従った。
三囲神社から半町程上手の堤に沿って、ポッツリと一軒の毀れかかった空家があって、その蔭に隠れる様に、一台の自動車が停っていた。ヘッドライトを消しているので、一寸見たのでは空家の一部分としか思えない。奇怪な男はそこまでたどりつくと、山野夫人をさし招いて、押し込む様に車の上に乗せ、何か運転手にささやいて彼も暗い箱の中へ入った。
自動車はただちに、けたたましい音を立てて、人通のない、堤の上を、吾妻橋の方へ、飛ぶ様に消え去った。
お雪は物蔭に立って、くやし相に車のあとを見送った。もうどうすることも出来ない。邸に帰る外はないのだ。だが、彼女は明智に報告すべき事柄を、少くとも二つ丈けは心にとめていた。その一つは怪しい男が夫人を連れ去った自動車の番号──二九三六という数字。もう一つは不思議な男の姿なり声音なり、殊にその特徴のある歩き振りが、彼女のよく知っているある人に酷似していたという事実だった。
余り意外な人物を思い出したので、お雪は変な気がした。頭がどうかしているのではないかと思った。だが、あの一寸びっこを引く歩き方は、どうしてもその人に相違なかった。肩の工合、ステッキのつき方、その他凡ての点が、間違うはずのない著るしい特徴を示していた。彼女はそれらの事柄を明智に電話で報告するために、邸に急いだ。
奇怪な人物と山野夫人とをのせた自動車は広い通り細い町を幾度か曲り曲りして、とある物さびしい町角に停った。出発する時から窓のカーテンがおろしてあったので、山野夫人は彼女がどこに運ばれるのか少しも見当がつかなかった。たびたび行先を尋ねたけれど、男はニヤニヤ笑うばかりで少しも答えなかった。
「サア、来ました」
自動車が停ると、男は夫人をうながして車を降りた。彼は出発以前に比べると、人が違った様に変にむっつりしていた。
夫人は車を降りた時、町に見覚えはないかと思って、さびしい往来を見廻したけれど、まるで知らない所だった。余り長く走った様にも思わなかったのに、その辺の様子はどっか非常に遠い田舎町の感じを与えた。
男はステッキを力に、足を引きずる様にして、存外早く歩いた。彼は物もいわず、うしろを振りむきさえしなかったけれど、夫人はそのあとについて行く外はなかった。それから又細い通りを幾度も曲って、三町ばかりも歩くと、おそろいの小さな門のついた、官吏の住宅とでもいった感じの借家が、ずっと軒を並べている町へ出た。不思議な男は、その内の一軒の門をくぐって、門からすぐの所にあるガラス張りの格子戸を開けた。山野夫人は、もう度胸をきめてしまったという風で、青ざめてはいたが、案外平気で男のあとに従った。
男は自動車の運転手にさえ、彼の隠れ家を知らせまいとして、態と三町も手前で車を降りた。小間使のお雪がその車の番号を覚えて居た所で、こんなに用心深い相手には何の役にも立たなかった。だが、幸いなことには、山野夫人の身辺には、明智やお雪の外に、もう一人の人物が絶えずつきまとっていた。彼は正義だとか好奇心だとかよりも、もっと熱烈なある動機から、寸時も夫人の監視を怠らなかった。
不思議な男と山野夫人とが自動車を降りて、暗い町に姿が消えたころ、運転手と並んで運転台に腰かけていた助手が、借り物の派手なオーバを脱いで、一枚の紙幣と一緒に運転手に渡しながらいった。
「ヤ、有難う。じゃこれは少しだけれど、お礼の印だから。助手の人にもよろしくいって下さい」
助手にばけて運転台に腰かけていたのは、外ならぬ小林紋三だった。彼は本物の助手から借りていたオーバを脱ぐと、その下に例の一張羅の空色の春外套を着ていた。
彼は自動車を降りて、半町ばかり先を歩いて行く男女のあとを、用心深く尾行した。そして、彼等が小さな門のある家に入る所まで見届けた。
紋三はそれから執念深くその家の前に見張りを続けていた。仮令彼に家の中へ踏み込む勇気があったとしても、山野夫人の秘密が何であるか、夫人に対して妙な男がどの様な関係を持っているのか、それらの点が少しも分っていないために、無謀なことは出来なかった。
幸い家の傍に細い路地があって、それが家の裏口の所で行詰りになっていたので、その路地の入口に見張っていれば、仮令彼等が裏口から抜け出しても、見逃すことはなかった。
紋三は、暗い路地の中に身をひそめて、根気よく立番をしていた。こんな風に自動車の助手に化けたり、暗の中で不思議な人物の見張りをしたりすることが、彼をいくらか得意な気持にさえした。
格子戸を開けて入ると、一坪程の土間があって、三畳の玄関、そこからすぐに二階への階段がついていた。男は黙ってその階段を上って行った。山野夫人はなぜか跫音を盗む様にして、そのあとに従った。足の不自由な男は、子供の様に両手を使って、階段を一段ずつ、のろのろとはい上った。夫人は下に待合せながら、まるで蟹が石垣をはい上る様だと思った。
二階は六畳と四畳半の二間切りだった。男はその六畳の座敷に入って、ふすまをピッタリとたて切った。
「立っていたって仕方がないでしょう。そこに座蒲団があるから、御自由にお敷きなさい。だが、百合枝さん、とうとう来ましたね」
男は気味悪く笑いながらいった。そして、自分も一枚の座蒲団を取って、外套のままその上に腰をおろした。彼は足を曲げるのが非常に困難らしく、長い間かかって、やっと横坐りに坐った。
「いやに堅くなってますね。もっとくつろいじゃどうです」
彼は眼鏡の奥から蛇の様な目を光らせて、夫人を見た。
「ここにはだれもいないのですか」
百合枝は隅の方に小さく坐って、干いた脣でいった。
「まあいない様なものです。耳の遠い婆さんが雇ってあるのだけれど、あなたがいやだろうと思って顔を出さない様にいいつけてあるのです。つんぼも同様の婆さんだから、大丈夫ですよ。少々大きな声をしたって聞える気遣はない」
男はその時まで冠っていた大きな鳥打帽を脱いだ。その下にはモジャモジャした短い毛が汚らしく生えていた。不思議なことには、そうして帽子を脱ぐと、彼の相好がガラリと変って見えた。
「マア」
それを見ると、百合枝はびっくりして息を引いた。
「ハハハハハハハ、これかね」男は頭をかき廻す様にして「これはかずらですよ。顔が違って見えるかね。これ位のことで驚いちゃいけない。もっとひどいことがあるんだ。だがどんなことがあったって、あなたはもう私のものだ。逃げようたって逃げられるものじゃない。逃げればあなたの身の破滅なんだからね」
男は鼻の上に醜い皺をよせて、奇怪な笑い方をした。彼は少しずつ仮面をぬいで、残忍な正体を現し始めていた。
「ワハハハハハハ」彼は突然歯をむき出して気違いの様に笑った。「百合枝さん。アア、今こそ己はこうしてあなたに呼びかけることが出来るんだ。恋人の様に呼びかけることが出来るんだ。十年の間己は、胸のうちでこの名を呼び続けていた。どうしたって出来るはずがないと分っていても、その望みを捨てることが出来なんだ。だが、今それがかなったのだ。まるで夢の様な仕合せだ。百合枝さん、私を愛してくれなんて、そんな無理なことは頼まない。この不幸な生れつきの男を、憐んで下さい。私の悪企みをにくまないで、そうまでしなければならなかった、私の切ない心持を察して下さい」
男は威圧的な態度を一変して、身もだえをしながら哀願した。いつのまにか、外套姿の長い身体が、横倒しになって、奇怪な長虫の様に、身をくねらせながら、百合枝の方に近づいて来た。
「あなたは一体だれです。私の知っているあなたではないのですか。だれです、だれです」
百合枝は一層隅の方へ身をすくめながら、上ずった声で叫んだ。
「あなたはそれが知りたいのですか。じゃ、今教えて上げる」
横たわっていた男が、飛び上る様にはね起きて、つと電燈の方へ手を伸したかと思うと、パチッという音がして、突然部屋が真暗になった。
二階の雨戸がすっかり閉っている上に、外の往来にも薄暗い門燈の外には何の光もないので、電燈が消えると部屋の中は真の暗であった。
百合枝夫人はその中で、ある身構えをしてじっと男のいた方角を見つめて居た。彼女は何よりも今度の事件の真相が暴露することを恐れた。その秘密を保つ為にはどんな犠牲も忍ばねばならぬと覚悟を極めていた。それに、生娘でもない彼女は、はしたなく悲鳴を上げる様なことはなかったけれど、でもやっぱり、いい知れぬ恐怖に胸の辺がビクビク震え出すのをどうすることも出来なかった。
今にも飛びかかって来るかと思ったのに、男は不思議と鳴りをひそめていた。暫くの間は部屋の向うの隅から、何かカタカタいう物音に混って、彼の荒い息づかいが聞えて来るばかりだった。
「不意に電気を消したりしてびっくりするじゃありませんか。早くつけて下さい。でないと、私帰りますよ」
百合枝は強いて何気ない声で、併しかなり力強くいい放った。
「帰れるものなら、帰ってごらんなさい。そんな強がりをいったって駄目だ。あなたはどうしたって帰ることは出来ないんだ。電気を消したのはね、あなたが怖がるといけないからだよ」
そして、ゾッとする様な含み笑いが、暗黒の中から響いて来た。
「あなたは忘れているだろうが、始めて山野の内で逢ったのはもう十年も昔のことだ。その時分あなたはまだ肩上げをした無邪気な娘さんだった。あなたはよく先の奥さんの所へ遊びに来た。山野の邸が西片町にあった時代だ。ね、思い出すだろう。私はその頃からちょくちょく山野の邸へ出入りする様になった。というのは一つはあなたの顔が見たかったからだ。だが、そんなことは気振りにも見せなんだ。己は人並の恋なぞ出来る身体ではなかったのだ。この世のことは何もかもあきらめ果てていた。それが、何の因果か百合枝さん、あなたのことだけはあきらめてもあきらめても、あきらめ切れなんだ。一層あなたを刺殺して自分も死のうと思ったことが幾度あるか知れない。山野のところへ嫁入した時などは、本当に短刀を懐中に入れて、あなたに逢いに行ったことさえある。己はそれ程思いつめていたのだ。少しは不便に思ってくれてもいいだろう」
途切れ途切れの切ない声だった。それが一こという度に、闇の中を、はう様に百合枝の方へ近寄って来た。事実声の主は少しずつ、少しずつ、彼女の方へにじり寄って来るらしく、黒いもののうごめく気勢が、段々身近に感じられた。
百合枝は変な気持だった。ただ怖いのではなくて、何かこう不気味な獣に襲われている様な、妙なすごさだった。それに不思議なことには、相手の告白を聞いている内に、その蛇の様な執念に、ある魅力を感じ出していた。それは憐みの情というよりも、もっと肉体的な一種の懐しさであった。
突然柔かいものが彼女の膝をはい廻って、逃げる暇も与えず、つと彼女の手を握った。冷く汗ばんだ男の掌が感じられた。
「アラ」
百合枝は、思わず低い叫びを上げて、それを振り離そうとした。だが、思い込んだ男の手は、黐の様にねばり強くて、容易に離れなかった。離れないばかりか、段々強い力で彼女のきゃしゃな指を締めつけて行った。
それと同時に妙な音が聞え始めた。百合枝は最初、男が咳をしているのかと思った。コホン、コホンと烈しく喉が鳴った。だが、間もなくそれが鼻をすする音に変り、そして、不意にククククククククククと、むせ返る様な声が起った。男が泣き出していたのだ。彼は百合枝の手先を締めつけ締めつけ、彼女の腕にポタポタと涙を落して、気でも狂った様に泣き続けた。
百合枝は男の激情に引入れられて、彼女もいつの間にか、不思議な興奮を覚えながら、片手を男のなすがままに任せて、黙って彼の泣き声を聞いていた。手の上に雨の様に降りかかる涙の感触が、彼女の恐怖を少しずつやわらげて行った。
「百合枝さん、百合枝さん」
男は泣きじゃくりの間々に、幾度となく彼女の名を呼んだ。そして、彼の一方の手は、大きな昆虫の様に、五本の足で百合枝の全身をはい歩いた。膝から帯を越し、むずがゆく乳の上をはって、なだらかな肩をすべり、背筋のくぼみを、あやす様になで廻した。百合枝は薄い着物を通して、ジトジト汗ばんだ柔かい掌を、直接肌に触れられでもした様に、不気味に感じた。だが、それは甚だしく不気味であったにも拘らず、同時に怪しくも彼女の道念を麻痺させる力を持っているかと見えた。
彼女はいつの間にか抵抗力を失っていた。それ故、男のほてった顔が彼女の頬に触れ、熱い涙が彼女の脣をぬらし、焔の様な吐息が、彼女の呼吸と混り合っても、彼女はそれを払いのけ様ともしなかった。
だが、暫くすると、突然彼女は恐怖の叫び声を立てて、男の腕から身を逃れ様とあせった。そうしている間に、彼女は相手の身体に起ったある恐しい変化に気づいたのだった。
さい前から彼女の手が無意識に男の身体を探っていた。そして、ふと足の方に触れた時、今まで彼が坐っているとばかり思っていたのが、その実畸形的に短い足を一杯に伸して、立っていることを発見した。彼の顔は彼女の顔と同じ高さにあった。それでいて彼女は坐っているのに、相手は明かに起上っているのだった。つまり、男はいつの間にか、異常に脊の低い畸形児に変ってしまったのだった。彼女は一瞬間にすべての事情を悟った。男はかずらや眼鏡や外套によって、こよい変装していたと同じ様に、平常の彼自身が一つの変装姿に過ぎなかったのだ。もう一つ奥にはこの様ないまわしい彼の正体が隠されていたのだ。小林紋三に尾行され、百貨店の番頭に発見された、あの一寸法師こそこの男であったに相違ない。彼女を脅迫している男と、三千子の死体を切断して罪深い悪戯をやった男とが、全く同一人物であることを、今まで気づかなんだのは、むしろ迂濶千万であった。彼が十年という長い年月、切ない恋を打開けないでいたのも、この様な犯罪事件のかげに隠れて、彼女の弱身につけ込んで、その思いをとげようとしたことも、彼が見るも恐しい畸形児であったとすれば、誠に無理でない訳だ。
相手が一寸法師と分ると、いかに覚悟を定めているとはいえ、彼女はもう我慢が出来なかった。こんな怪物に、少しの間でも妙な魅力を感じていたかと思うと、彼女はゾーッと背筋が寒くなった。彼女はしゃ二無二怪物の腕をふりもぎろうともがいた。
だが、相手は彼女が悟ったと見ると、一しお力を加えて犠牲者を抱きすくめた。畸形児とはいえ死にもの狂いの腕力に、か弱い女の百合枝がどう抵抗出来るものではなかった。
「今更逃げようたって逃すもんか」彼は力み声をふりしぼった。
「声を立てるなら立てて見るがいい。ソラ、まさか忘れはしまい。そんなことをすればお前の身の破滅だぞ。いいか。山野一家の滅亡だぞ」
一寸法師は、起上った百合枝の腰のあたりにからみついて、おどし文句を並べながら、相手のひるむすきを見て、短い足を彼女の足にからみ、恐ろしい力で彼女を倒そうとした。
百合枝は叫ぼうにも叫ぶ自由を奪われ、逃げ出そうにも、逃げ出す力を失い、まるで悪夢にうなされている気持だった。畸形児は不気味な軟体動物の様に、ぺったりと彼女の半身に密着して、腰のあたりを締めつけた両腕は、刻一刻その力を増して行くのだった。
小林紋三はうそ寒いのを我慢して、執念深く路地の入口に立ちつくしていた。まだ夜更けというでもないのに、その町はいやに暗くて静だった。どの家もどの家も、まるで空家の様に、黙りこくっていた。
蝙蝠みたいに路地の板塀に身体をくっつけて、薄暗い往来を見ていると、時たま灰色の影の様なものがスーッと通り過ぎた。それが人間に違いないのだけれど、少しも音を立てないので、何か物の怪という感じがした。
彼は山野夫人が二階に上った気勢を感じたので、もしや話し声でも漏れて来ないかと、その方を見上げて耳をすましたが、密閉された雨戸の中はひっそりとして、燈火の影さえささなかった。
ふと何か聞えた様に思って、耳をそばだてると、遠くの方から力ない赤ん坊の泣き声が聞えて来たりした。
紋三はこの数日、長い間の倦怠をのがれて、可なり緊張した気持を味うことが出来た。彼はやっとこの世に生がいを見出した様に思った。奇怪な犯罪事件の渦中にまき込まれて、素人探偵を気取ることも、子供らしい彼には随分面白かったが、それよりも、今までは、何か段違いの相手の様な気がして、口を利くことさえ憚られた山野夫人が、思いもかけず、くだけた調子で彼に接近して来たことが、何よりもうれしかった。彼は三千子のことをかこつけに、機会さえあれば山野家を訪れ、夫人の身辺につきまとった。
そして、遂には夫人の秘密を握ることが出来た。恋という曲者が、彼を異常に敏感にしたのだ。夫人の一挙一動、どんな些細な事柄も彼の監視を免れることは出来なかった。彼は小間使のお雪と同様に今宵の密会を悟った。そして、お雪には真似の出来ない芸当をやった。彼は機敏にも怪人物の自動車の助手を買収して、とうとうこの隠れ家をつきとめることが出来たのだ。専門家の明智小五郎をだし抜いて、彼の夢にも知らない手がかりを握ったかと思うと、紋三はひどく得意だった。
だが、相手の奇怪な人物が何者だかは、まるで見当がつかなんだ。ふと、どこかで一度逢った人の様な気がしないでもなかったが、それ以上のことは少しも分らないのだ。分っているのは、彼奴が夫人の弱味につけ込んで彼女を脅迫していることと、夫人が何か恐しい秘密を持っていて、甘んじて男の意のままに動いていることだった。
だが、夫人にどんな秘密があろうと、紋三は彼女をにくむ気にはなれなかった。にくいのは相手の男だった。彼は男に対して烈しい嫉妬を感じた。か弱い夫人が、今ごろあいつのためにどんな目に会っているかと思うと、気が狂い相だった。
様々の醜い場面が、まざまざと目の先にちらついた。そこには獣の様な男がいた。なまめかしく取乱した夫人の姿があった。それを思うと彼は肉体的な痛みを感じた。幾度家の中へ飛びこもうとしたか知れなかった。だが、夫人の迷惑を察して僅に踏み止まった。
待っても待っても彼等は出て来る様子がなかった。さい前からほとんど一時間も闇の中に立っていた。妄想は募るばかりだった。もう辛抱がし切れなかった。それに、丁度その時、彼は二階の方から女の悲鳴らしいものを聞いた。聞いた様に思った。
彼は半狂乱の体で、門を入ると手荒く格子戸を開けた。
「ご免なさい」
家の中はシーンとしずまり返っていた。
「だれもいないのですか」
彼は二度も三度も大声に怒鳴ったが、何の返事もなかった。彼は思い切って玄関の障子を開けた。それでもまだだれも出て来ないので次の間との境の襖を開いて中をのぞいて見た。そこには人の影もなかった。
紋三は、万一とがめられた所で、何とでもいい逃れの道はつくと高を括った。彼は臆病者の癖に、どうかすると非常に向う見ずな大胆な所があった。
彼はいきなり靴を脱いで玄関に上ったが、流石にあわてていたので、そこの土間に山野夫人の履物が見えないことを気づかなかった。ふすまを一杯に開くと、次の茶の間らしい部屋へ踏込んで、奥の間との境のふすまを開けて見た。そこに一人の汚ならしい老婆が、ハッと居眠りからさめた様なとぼけた顔をして坐っていた。
「アラマア、ちっとも存じませんで、どなた様でございます」
老婆はなじり顔に、大声でいった。
「どうも失礼、いくら呼んでも返事がないものだから、こちらに山野の奥さんが見えているでしょう。実は急な用事が出来てお迎いに来たのですよ」
「どなた様で、今旦那はお留守でございますが」
老婆は耳が遠いらしく、とんちんかんな返事をした。
紋三は二言三言問答をしている内に、もどかしくなって、老婆など相手にしないで、勝手にその辺の障子やふすまを開いて、山野夫人のありかを探した。だが、階下には外に狭い台所がある切りでどこにも人影は見えなかった。
彼は老婆が止めるのも聞かないで、二階へ上って行った。今にもだれかに怒鳴りつけられるかと、身構えさえして階段を上ったが、不思議なことには、そこにも人の気勢はなかった。二間切りの二階で、その六畳の方に、暗い電燈がついて、調度類もきちんとかたづいていた。妙にガランとして、今まで人のいた様子はどこにも見えなかった。
「この人はまあ、何という無茶なことをなさる。旦那はお留守だといっているじゃありませんか。私のほかにはねこの子一匹いやしないのですよ」
老婆はノコノコ二階までついてきて、紋三を監視しながら、ぶつぶつつぶやいた。
「だが、確にこの家へ入るところを見たんだが。変だな。君はうそをいっているね」
しかし何をいっても、ほとんど老婆には通じなかった。彼女は段々声を大きくして、しまいには隣近所に聞える様な悲鳴を上げた。
紋三は押入なども一々開けて見て、隈なく家中を探したけれど、老婆のいった通りねこの子一匹いなかった。あの様に表口裏口を監視していたのだから、夫人達が若し家を出たとすれば彼の目につかぬはずはないのだし、彼が表から入った物音を聞きつけて、その隙に彼等が裏口から逃げるという様なことは、不可能だった。そんな余裕のあろう訳がない。つまり、彼等はこの家の中で消えうせてしまったとしか考えられなかった。
紋三は又しても狐につままれた気持だった。考えて見ると今度の事件には、妙に幾度も同じ様なことが起った。三千子も部屋の中で消失した。例の気味の悪い一寸法師は、養源寺の庫裏へはいったまま消えてなくなった。そして今夜は山野夫人の番だ。紋三はうんざりした。
彼は老婆に叱られながら、すごすごと家を出た。
「このごろ己の頭はどうかしているのか。それとも、悪人が神変不思議の妖術でも心得ているのか。一体どっちが本当なんだ」
まるで悪夢にうなされている様な感じだった。彼は電車道を探して暗い町を歩きながら、ふと子供の時分に聞いた、狐や狸が人を化かす話を思い出していた。あの荒唐無稽な恐怖が、彼の背筋を冷くした。
その翌朝、小林紋三は妙にぼんやりした顔をして、山野家の玄関に現れた。彼は一晩中悪夢にうなされ、その夢と昨夜の出来事とが混り合って、どこまでが現実でどこまでが夢だか、よく分らない気持だった。すっかり嘘の様な気もした。
気のせいか、山野の邸は以前とはどこかしら違った感じを与えた。門内の砂利道にゴミが落ちていたり、玄関の敷台に埃がたまっていたり、二階の雨戸が半分しか開いていなかったり、凡ての様子が物さびしく、すさんで見えた。
取次に出た書生の山木も変に蒼ざめた顔をしていた。紋三は山野夫人があのまま又行方不明になっているのではないかと、そればかり気がかりだった。
「奥さんは?」
彼は奥の方をのぞき込む様にして、小さな声で尋ねた。
「いらっしゃいません」
紋三はそれを聞くとギョッとした。
「いつから?」
「エ?」
山木は変な顔をして、紋三を見た。
「昨夜から御帰りがないのだろう」
「いいえ、今し方明智さんの所へお出でなすったばかりです」
「アア、明智さんとこへ」紋三はてれ隠しに口早やにいった。彼は恥しさで真赤になっていた。「じゃ、昨夜は、どっかへお出ましじゃなかったの」
「昨夜は片町の御親戚へいらっしゃいました」
書生は平然として答えた。
「で、何時頃お帰りになった?」
「九時ごろでしたよ」
書生が又変な顔をした。九時といえばまだ紋三があの暗い路地にうろうろしていた時分だった。彼は益々分らなくなった。山野夫人があの厳重な見張りをどうして抜け出すことが出来たか。そんなことは到底不可能だ。とすると、昨夜のはやっぱり一場の悪夢に過ぎなかったのか。彼は兎も角一度夫人に会って見たいと思った。
「じゃ、まだ明智さんとこにいらっしゃるだろうね」
「エエ、つい今し方お出かけだったのですから」
「その後別に変ったこともない?」紋三は帰り支度をしながら、ふと気がついて尋ねた。「大将の病気はどうだね」
「どうもよくない様です。熱が高くって、今朝から看護婦が二人来る様になったのですが、何だかどうも、内の中が滅茶苦茶ですよ。そこへ、小間使の小松が、昨夜医者へ行くといって出た切り帰らないのです」
「小松といえば、頭痛がするとかいって寝ていたあれだね」
「エエ、心当りへ電話をかけたり、使をやったりしたのですが、今の所行方不明です。それに又、今朝は早くから警察の人達がやって来る始末でしょう。奥さん一人で大変なんです」
「警察では、何か手がかりでもついたのかい」
紋三は一々出し抜かれた様で、いい気持はしなかった。
「駄目ですよ、何も分ってやしないのです」書生ははき出す様にいった。「例の片腕の小包のことを、明智さんから通知したのでしょう。で、それを調べに来たのですよ。あのやかましい百貨店の片腕事件が、うちのお嬢さんの事件と関係があることが分ったものだから、警察でもやっと本気に騒ぎ始めたのですよ。そんな訳で、お嬢さんのなくなったことは、主人には今まで内密にしていたのが、すっかり分ってしまって、一層病気がひどくなったのです。実際滅茶滅茶です。我々にしたって夜もろくろく寐られやしない」
書生はニキビ面をしかめて、大袈裟にこぼして見せた。
紋三はそれだけ聞いてしまうと山野家を辞して、夫人の跡を追い赤坂の明智の宿に向った。彼の頭には様々の事柄がモヤモヤと渦を巻いていた。疑問の人物が一日一日ふえて行く様にも見えた。第一が例の奇怪な一寸法師、暇を取った運転手の蕗屋、昨夜の不思議な眼鏡の男、今また小間使小松の失踪、それに彼の敬愛する百合枝夫人もまた、渦中の人に相違ないのだった。
昨夜のことはまさか夢ではないのだから、いくら好意に解釈しても、夫人がこの事件でかなり重要な役割を演じていることは確だし、悪く考えれば、夫人が彼女にとっては継子である三千子を、何かの手段でなきものにしたとも疑うことが出来た。紋三は昨夜から度々この恐しい疑問にぶつかった。ぶつかる毎に思わずギョッとして、強いて外の事を考え考えして来た。
だが、万一その疑いが事実だったとしても彼は決して夫人を憎まないばかりか、寧ろ彼女と共にその罪の発覚を恐れ秘密を保つ為に努力したに相違ない。そして、この様な夫人の弱味を握ったことを彼女との間の永久の絆として、私に喜んだかも知れないのだ。彼の夫人に対する一種のあこがれは、この数日の間に、それ程までに育てられていた。随って、彼は明智の才能を恐れないではいられなかった。もし彼が首尾よく三千子殺害の犯人を発見し得たならば、そして、その犯人が外ならぬ百合枝夫人だったら、と思うと気が気でなかった。そんな意味からも彼は一度明智に逢って様子を探って置きたかった。
「併し、まさかそんなことはあるまい。もし夫人にやましいところがあれば、最初から明智なんか頼まないだろうし、昨夜の今日、彼女の方から明智を訪ねるというのも辻褄が合わない」
それを考えると少し安心が出来た。
そうした物思いに耽っている間に、電車はいつか目的の停留場に着いていた。車掌が大きな声を出さなかったら、彼はうっかり乗越しをするところだった。菊水旅館を訪ねると、直ぐに明智の部屋へ通されたが、そこには明智一人きりで目的の山野夫人の姿はなかった。
「山野の奥さんはみえていないのですか」
紋三は座りながら、まずそれを聞いた。
「今、帰られたところだ。もう一足早ければ逢えた」
明智は相変らずニコニコして紋三を迎えた。
「そうですか、急いで来たんだけど、……それはそうと、その後何か手がかりでも見つかりましたか」
年齢や社会的地位は違っても、昔の下宿友達の心易さが、つい口を軽くした。それに紋三は昨夜の冒険でいくらか思い上っていた。彼の様な素人があの重大な秘密をかぎつけているのに、名探偵といわれる明智がまだ何事も知らないらしい様が、もどかしくもあり、少からず愉快でもあった。
「イヤ、発見というほどのこともないよ」
明智は落ちついていた。
「この事件はかなり難かしそうですね。あなたにも似合わない進行が遅いじゃありませんか」
紋三はついそんな口が利いて見たくなった。いってしまってからハッとして明智の顔色を読んだ。
「随分変な事件だからね」だが明智は別に怒る様子もなくて、やっぱりニコニコしていった。「それはそうと、君は昨夜は大いに活動したそうだね。僕の方の手がかりなんかより、一つそれを聞こうじゃないか。君も中々隅に置けないね」
紋三はいきなり赤くなってしまった。明智がどうして昨夜の出来事を知っているのか、不思議で仕様がなかった。彼のニコニコ顔がにわかに薄気味の悪いものに思われて来た。
「君は、今山野夫人から何か聞いたと思うかも知れないが、その心配はない。奥さんは決して君の変装を感づきはしなかった」明智は紋三の表情を巧に読んでいった。「奥さんはこのごろ何もいわなくなった。一寸した事でも隠そう隠そうとしている。僕に探偵を依頼したのを後悔している様子さえ見える。だから、今日来たのも、早く犯人が見つけたい為ではなくて、僕がどこまで真相を探っているか、ビクビクもので、それを聞き出しにやって来たのだ」
「じゃ、あなたは奥さんが今度の犯罪に何か関係があると思うのですか」
紋三は明智の底意が知りたかった。
「関係のあることは明白だ。併しなぜ夫人が自ら進んで僕なんかに探偵を依頼したか、そして今になってそれを後悔し始めたか、この点がよく分らない。大体あの女自身が一つの疑問だよ。非常に貞淑の様でもあり、どうかすると馬鹿にコケットな所も見える。一寸とらえ所がない。だから、ひょっとしたら彼女は、態と僕の前にこの事件をなげ出して見せて、大胆なお芝居を打とうとしたのかも知れない。秘密がバレるおそれはないと信じ切って、たかを括っていたのかも知れない。女の犯罪者には、そういう突飛なのがあるものだ」
「もしそうだとすると、最近にその自信を失う様な事件が起った訳ですね」
「僕だって、これで中々働いているんだよ。彼女にもしうしろ暗い点があれば、心配し出すのは無理ではない。君なんか、僕が手をつかねて遊んでいた様に思っているだろうが、どうして、そんなものじゃないよ。現に君の昨夜の行動だって、すっかり分っているのだからね」
「昨夜の行動っていいますと?」
「ハハハハハ、しらばくれても駄目だ。自動車の番号まで調べがついているんだから。君が昨夜助手に変装して夫人ともう一人の男をのせて行った車は、君だって知るまいけれど、二九三六という番号なんだ」
「じゃ昨夜、あなたもどっかに隠れていたんですか」
「ソラごらん。とうとう白状してしまった。想像なんだよ。多分君だと思ったものだから、鎌をかけて見たんだよ。種をあかすとね。山野の内のお雪という小間使が僕の腹心なんだ。二度目にあすこへ行って雇人達を一人一人調べた時、適当なのを選り出したのだ。無論報酬も約束したけれど、あのお雪というのは雇人の内でも一番忠義者で、お邸の為だというと、進んで僕の頼みを聞いてくれた。中々役に立つ女だよ。それが昨夜夫人のあとを尾行して、自動車の番号を覚えていてくれたのだ。それから先はお雪からの電話で、僕自身が出動して取調べた。車の番号が分っているのだから、その帳場を探し出すのは訳はない。帳場が分って運転手が分れば、今度は五円札一枚ですっかり調べがつく。君らしい男に頼まれて運転台にのせたことも、その男が二人の乗客のあとを追ったことも明白になった。だが夫人をつれ出した男は随分用心深くやったね。悪事には慣れた奴だ。目的の家の前まで車にのる様なことはしなかった。だから僕には君達の行った内までは分らないけれど、自動車を止めたのが本所中之郷T町だから、僕の想像では、同じ中之郷O町の小さな門のある無商家じゃないかと思うのだが、どうだね」
「その通りです。どうして分りました」
紋三は明智の名察にめんくらって、夫人のためにその内を秘密にして置くつもりのを、つい忘れてしまって叫んだ。
「やっぱりそうだったか。じゃ序だからすっかり話しをするがね。その前に、見せるものがあるんだ」
明智は手文庫の中から、細長く破れた幾つかの紙切れを取だし、丁寧に皺をのばして、卓上に並べ、順序をそろえて継ぎ合せた。
明智は妙な紙切を継ぎ合せてしまうと、それを卓の隅におしやって置いて、手文庫の中から次々と色々な品物を取出した。例のピアノのスプリングに引懸っていた黒い金属の束髪針、三千子の鏡台から持って来た沢山の化粧品類、三千子の机の上にあった指紋つきの吸取紙、えたいの知れない石膏のかけら、網の様な春のショール、小型の婦人持手提、一枚の写真、三通の封書、それだけの品々をまるで夜店の骨董屋の様に、ズラリと卓上に置き並べた。外にまだ、手文庫の底には穿きふるしたフェルトぞうりが一足残っていた。
小林紋三はこの驚くべき光景を見て、あっけにとられてしまった。その品々は凡て今度の事件の証拠品に相違ないのだが、いつの間に明智がこれだけのものを集めたか、一々説明を聞かないでも、その物々しい様子を見ただけで、ついさっきまで明智に対して抱いていた、多少の軽蔑の念が、あとかたもなくなってしまった。
「どうだい小林君、僕が怠けていなかったしるしだよ。この品々は間もなく僕の手を離れる。僕の友人の田村検事が今度の事件の受持に極ったということだから、みんなあの男に渡してやる積りだ。これだけあれば随分調の足しになる。いや足しになるどころではない、これを十分吟味すれば、何もジタバタしなくたって、坐っていて事件の真相をつかむことが出来るかも知れない。で、僕の手を離れる前に、丁度いい機会だから君に一応見て置いてもらおう。君は今度の事件の紹介者でもあるし、君自身中々熱心な素人探偵でもある様だから、僕にしてはいわば職業上の秘密なんだけれど、特にお目にかける訳だ。その代りこの品々に対する僕の判断は一切いわない。いえないのじゃない。いうことを差控えて置くのだ。君も知っている通り、僕は事件がすっかり解決するまでは、中途半端な想像なんかしゃべらない癖なんだ」
明智はそれらの品物を愛撫する様にひねくり廻しながら、一寸奥底の知れない薄笑いを浮べていった。骨董屋の親父が古道具の値ぶみでもしている恰好だった。
「どれから始めるかな」彼はさも楽しげに見えた。「そうそうO町の家のことを話し始めていたね。君は驚いた様だが、実はこんな種があるんだよ。この破れた紙切だ。一寸読んで見給え」
それは半紙の半分程の分量の紙が、細かく切り裂かれた上に、所々焼けこげがあって、多分手紙の切れはしなのであろうが、とても完全に読むことは出来なかった。
……御依頼により埋葬仕……と小生とかの蕗屋の三人のみに有之……右につき篤と御談合申上度……郷表(一二字分不明)六三中村……御一読の上は必ず火中……
どう見直してもこれ以上は分らなかった。
「昨夕の君の行先を当たのは、この郷表うんぬんの文句からだ。六三とあるのは番地としか考えられないから、上の郷表に相当する町名は、東京中に中之郷O町の外にない。僕は早速あすこへ行って見た。そして、訳なく中村寓と表札の出た小さな門のある家を発見した。中へ入って聾の婆さんにも逢った。主人は勤め人らしいことをいっていたけれど本当かどうか分らない。中村という人物はまるで姿を見せなかったが、僕はあの家そのものについて研究した。そして色々悟る所もあった。若し僕の想像が確だとすると、この事件には実に恐しい人物が介在している。そいつの呪が事件全体を非常に複雑なものにしている。だがそいつは恐く殺人犯人ではない、犯人はもっと別の所にいるのだ。だから、真犯人が見つかるまでは、残念だけれど、その悪魔の正体をあばく訳には行かない。僕は本当の犯人を逃してしまうことを恐れているのだ」
紋三は明智の廻りくどい話し方をもどかしく思った。明智のいっているのは昨夕山野夫人をつれ出した人物に相違ない。あの怪しげな男が夫人を脅迫していることは明白だ。だが、あの男が犯人でないとすれば、脅迫されている方の、三千子にとっては継母の百合枝夫人こそ、恐しい殺人者なのではあるまいか。彼はその外に考え様がない様に思った。明智も山野夫人を疑っているには相違ないのだが、果して彼女を犯人だと思っているかどうかは不明だった。
「ですが、この紙切れはどこから見つけ出したのです」
紋三はその点を明かにすれば、何か分り相な気がしたのだ。
「僕の腹心のお雪が拾ってくれたのだ。手紙の受取主は山野の奥さんだ。奥さんがここの文句にある通り、読んでしまってから細かく切り裂いて、丸めて、台所の七輪の中へくべたのを、お雪がそっと拾ったのだ。幸い七輪の火が少かったので、奥さんは焼けてしまったと思ったのが、中の方がこれだけ残っていた。封筒がすっかり灰になったのは残念だけれど、併しこれだけでも随分手がかりにはなる」
紋三はそれだけ聞くと、いよいよ彼の疑いを確めることが出来た様に思った。
「では、手紙の受取人が奥さんだとすると、この(御依頼により)というのは、奥さんの御依頼によりですね。(埋葬)というのは三千子さんの死体をどっかへ埋たことかも知れませんね。それから、この(と小生と蕗屋の三人のみ)の前には奥さんの名前がある訳ですね」
彼は矢つぎ早に想像を進めて行った。そして、実はビクビクしながら明智の表情をうかがった。
「そういう風にも考えられる、併し断定は出来ない。断定すれば犯人は山野夫人と極ってしまって、世話はないのだけれど」
明智はニヤニヤ奥底の知れない笑い方をした。
「でも外に考え様がないじゃありませんか」
と紋三は明智に本音は吐かせないでは置かぬ意気込みだった。
「奥さんを疑おうとすれば、まだほかにも材料があるよ」明智は落つき払っていた。「このショールと手提と、それからこの手文庫の中の草履だ。これはみんな三千子さんが家出の時、身につけていたといわれている品だが、僕のお雪はこの三品を山野夫人の部屋の押入れの隅から見つけ出してくれたのだよ」
「つまり山野夫人が三千子さんを家出と見せかけるために、その品々を隠して置いた訳ですね。そうだとすれば、なおさら夫人が疑わしいじゃありませんか」
紋三はこの新しい証拠品にギックリしながら、しかし一層烈しく突っ込んで行った。
「疑わしいだけで、まだ夫人が犯人だなんて極める訳には行かないよ」明智は軽く受流した。「君がそんなに夫人を疑うなら、試みにその反対の見方をして見ようか。まず第一は夫人が進んで僕に事件を依頼したこと、これは前にもいった通り犯罪者の高を括った大胆なお芝居だとしても、手紙が十分焼けてしまうまで見極めずに立去ったことだとか、大切な証拠品を自分の部屋の押入れの隅などへ、一寸探せばすぐ分る所などへ入れて置いたことだとかは、ピアノの指紋を消したり、死体をゴミ箱へ隠したりした手際とは雲泥の相違だ。犯罪者は往々下らない過失をやるものだけれど、これは少し馬鹿馬鹿し過ぎるかも知れない。とも考えられるじゃないか」
明智は態とらしく曖昧ないい方をして、暫く紋三の顔を眺めていたが、やがて、又しても意外なことをいい出した。
「だが夫人には、不利な証拠が次から次へと出て来るのだ。これなどもその一つだがね」
彼は卓上の妙な石膏のかけらを、指紋をつけない様に注意してつまみ上げた。
「これがやっぱり、夫人の部屋の押入れの奥から出て来たのだ。ショールなんかにくるんで小箪笥のうしろに隠してあったのだ。もっともこれは破片を一つだけ持って来たので、高さ一尺ばかりの石膏像のこわれたものが、すっくりそこにあったのだがね」
紋三は困った様な顔をして、明智を見た。
「イヤこういったばかりでは分るまいが、それについては先ずこのヘヤーピンを研究して置く必要がある」明智は曾てピアノの中から発見した、束髪針を取上げた。「探偵小説のソーンダイク博士ではないが、こいつには顕微鏡的検査が必要だった。僕はそういうことは一向不得手なので、友人の医者に頼んで見てもらったのだが、このピンの頭がひどくゆがんでいる。何か角のあるものでたたきつけた跡だ。で、僕は家へ持帰って明るい所でよく検べて見たところが、折れ曲った部分に白い粉がついている。なおよく見ると、生地が黒いのでよく分らないけれど、何だか血痕らしいものも附着している。それは今でもよく見れば残っているがね。その粉と血痕を削り取って顕微鏡で見てもらった結果は、粉の方は石膏と何か染料が混っているらしい。どうもブロンズに塗った石膏細工の粉だろうというのだ。血痕の方は人間の血に相違ないことが分った。そこで、山野の邸にブロンズの石膏像があったかどうかを調べる必要が生じた。だがこれはやっぱりお雪の証言によって苦もなく分った。三千子さんの書斎の棚の上に、首だけの青い像がのっていたというのだ。それには厚い台座がついていたので、投げつければ、当り所が悪ければ、人を気絶させることも、場合によっては殺すことも出来るだろう。山野夫人の部屋の押入れから出た石膏のかけらには、恐しく血痕がついていたのだから、台座の角が頭に当って、被害者は脳震盪を起したものに相違ない。そういう訳で、夫人の部屋で発見されたこの石膏のかけらは、いわば今度の殺人事件の兇器に相当するのだよ」
「それだけ証拠がそろっていても夫人が下手人でないというのですか」
「ないとはいわない。断言するのは少し早計だと思うのだ。この事件は見かけは簡単の様だけれど、その実かなりこみ入っている。先にいった怪物が関係しているだけでも、かなり特異な事件だ。一寸法師が生々しい片腕を持歩いたり、百貨店の飾り人形に死人の腕が生えたり、妙に常軌を逸した、人間らしくない所がある。それは兎も角、今もいう様に兇器が石膏像であったこと、死体をピアノの中へ隠したことなどから考えると、この殺人は決して準備されたものではない。恐らく犯人にとっても思いがけない出来事なんだ。まさか殺すつもりではなかったのが、ついこんな大事件になってしまった形だ。だが、それだから一層探偵の方は面倒なんだ。準備された犯罪は、どこかに計画の跡がある。その跡をたどって行けば、何かをつかむことが出来る。今度のはそれがまるでないのだからね」
「でも証拠という証拠が皆山野夫人を指さしているじゃありませんか」
「まあ待ち給え、まだ少し残っている。議論はあとにして兎も角一応説明してしまおう。僕もまだ忙しい身体なんだ。次はこの三通の手紙だ。これが又色々なことを教えてくれるのだよ。封筒が二つ、葉書が一つ、差出人は表にはどれもKとあるばかりだが、こちらの封筒の中味には北島春雄という本名が記してある。気味の悪い前科者が又一人事件に加わって来た訳だ。この北島というのはつい十日ばかり前に刑務所を出たばかりの前科者なんだよ。君は三千子さんをよく知っているのだろうが、随分だらしのない娘だね。親父は一人娘で甘いのだし、お母さんは継しい仲で、十分しつけが出来ないのだから、無理もないけれど、三千子さんという人は、恐らく生れつきの淫婦ではないかと思うね。
これは山野夫人からもらって来た、三千子さんの最近の写真なんだが、この写真を見ても、三千子さんの性質が想像出来る」
明智は卓上の大型の写真を取って、つくづく眺めながらいった。それは山野の家族一同がそろって撮したもので、大五郎氏を中心にして召使などもすっかり顔を並べていた。
「僕は三千子さんばかりでなく、運転手の蕗屋の顔が知りたくて態とこの大勢で撮ったのをもらって来たのだよ。そこにある破れた手紙によると、蕗屋がこの事件に何かのかかわりを持っていることは確だからね」明智は一寸説明を加えた。「僕は人間の顔を見ることが好きだ。じっと相手の顔を見つめていると、そこから何かしらわいて来るものがある。その人物の過去のあらゆる物語が小さな顔面に結晶している様な気がする。それを一つ一つほぐして行くのは非常に面白い。この三千子さんの表情なんかも色々なことを語っている。第一に来るのは人工という感じだ。作りものという感じだ。髪の結い方、化粧の仕方、洋服の着こなし、これだけを見ても、どんなに技巧のうまい女だか分る。それにこの巧な表情を見るがいい、これは決して生地のままの三千子さんじゃない。舞台に上った役者の顔だ。丁度隣に小間使の小松が竝んでいるが、面白い対照だね。この方は正反対に無技巧だ。着物から頭から、無表情な顔つきまで、すっかり昔流の日本娘だ。だが、こういうおとなし相な女は、思い込むと随分突飛なことをやり兼ねない。近眼と見えて眼鏡をかけている。それに眉が見えない。眉をそっているのは妙だね。生れつき薄い眉を隠すためなんだそうだが、何だか嫁入をした女の様な感じだね。薄い眉、アア僕は薄い眉を持った女を知っているよ。そいつは思い出しても恐しい奴だった」
明智は段々雄弁になって行った。何か非常にうれしいことでもある様子だった。併し、聞者の紋三は相手の饒舌が何を意味するものか、一寸見当がつかないのだ。彼は北島春雄という男から三千子に当てた三通の手紙をおもちゃにしながら、ふと小松の不思議な失踪について考えた。そして、話の様子では、もしや明智は小松を疑っているのではあるまいかと思った。
「小松がいなくなったことは知っているのですか」
「山野の奥さんから聞いた。僕は今それについて一つの考えが浮んで来たのだ。ひょっとしたら、この事件の中心人物はあの女かも知れないのだ」
明智は頭の毛を指でかき回しながらいった。彼は妙に興奮していた。紋三はやっぱり小松を疑っているなと思った。三千子に取っては恋敵の小松なのだから、若しあんなおとなしやかな娘でなかったら、彼女こそまっ先に疑わるべき人物だった。だが、紋三のこの推察は、少しばかり見当違いであったことが、後に到って分った。
「その手紙の話をしていたんだね」明智はふと気がついた様に話を元に戻した。「僕はそれを三千子さんの書斎のイスのクッションの中から見つけ出した。最初三千子さんの机なんかを調べた時に、手紙の束を見たけれど、妙に当り前のものばかりで、興味をひかなんだ。若い女の所にはもっとはなやかな手紙があってもいいと思った。で、次に行った時には、どこか秘密の隠し場所でもないかと綿密に探して見た。本棚なんかも調べた。すると、この令嬢が案外にも探偵小説の愛読者だったことを発見した。内外の探偵本がそこにずらりと並んでいたのだ。くすぐったい気持だ。三千子さんが探偵趣味家だとすると、いささか捜査方針を替えなければいけないと思った。そこで今度は探偵好きの隠し相な場所を探した。そして、最初に気づいたのがイスのクッションだった」
明智はおかし相に笑った。
「ところが、驚いたのは、クッションの中に隠されていた艶書の分量だ。父親の監督不行届と、母親の遠慮勝ちだったことが一つはいけないのだが、娘自身生れつきの淫婦でなくては、あれだけのふしだらが出来るものでない。しかも両親は少しも知らないでいるのだ。日付にして二年ばかりの間に、七人の男と艶書のやりとりをしている。それが皆相当深い関係まで進んでいたらしい文面なんだ。その七人目が運転手の蕗屋だ。これは寧ろ三千子さんの方から打込んでいたらしい。写真で見ても女に好かれ相な男だ。蕗屋の方もかなり真剣な手紙を書いている。だが一方に小松との関係があるので、それを三千子さんが責める。併し蕗屋としてはそうむごいことも出来ないといった立場らしかった。蕗屋の前にもう一人男があって、この北島春雄とはその前の関係だ。手紙を読めば分るが、自業自得とはいえ、この男は可哀相なんだ。三千子さんのために牢にまで入っている。それを両親に少しも気づかれない様に秘しかくしていたのだから、三千子さんも恐しい女だ。まずその封筒の方のを読んで見給え」
手紙の日付は両方とも──年二月となっていた。つまり約一ヶ年以前に書かれたものだ。
……己は貴様をのろう。貴様の歓心を買うために己がどんな苦労をしたか。とうとう己は泥坊とまでなり下った。貴様とつき合って行くためには、貴様に軽蔑されないためには己はその外に方法がなかったのだ。詐欺で訴えられて、己は今ひかれて行くのだ。いつか貴様に金策を頼んだことを覚えているか。あの時に何とかしてくれたらこんなことにならないで済んだのだ。併し貴様は、とっくに変心していた。もう一人の男の所へ行くのを急いで、己のいうことなんか聞きもしなかった。あの時の己の心持が想像出来るか。恋の恨みと罪の恐れだ。己はもう半分気違いだった。己は幾度も短刀を懐にして貴様の邸のまわりをうろついた。だがどうしても機会がなかった。己はこの怨みをはらすまでは、警察の手を逃れたいと、下宿に帰らないで木賃宿に泊っていた。貴様のすべっこい頬っぺたに、短刀を突込んで、グリグリかき回してやることばかり考えていた。だがもう駄目だ。己はとうとうつかまってしまった。刑事に泣きついてやっとこの手紙を書く暇をもらった。いいたいことは山程もあるが、もう時間がない。ただ一つ約束して置くことがある。己は何年食い込むか知らぬが、牢を出たら誓って復讐してやる。己は今からその日を楽しみにしている。貴様も首を洗って待っているがいい。……
もう一つの封書は、その十日程前に書かれたもので、それにはたった一度でいいから逢ってくれという、哀訴歎願の言葉が綿々と書きつらねてあった。
葉書には三月二十七日の日付があった。三千子変死の一両日前に届いたものだ。恐らく彼は刑務所を放免されると、その足で郵便局に立寄ったのであろう。鉛筆の走り書きで、当事者にしか分らない簡単な、併し恐るべき文句が認めてあった。
お喜び下さい。やっとお目にかかれる様になりました。近日中に是非お目にかかってお約束を果すつもりです。例のお約束を。K
「こんな葉書を受取って黙っていたのですね。怖くなかったのでしょうか」
紋三は読み終って不審をはさんだ。
「僕もそれを考えたのだが、ひょっとしたら山野さんには打開けてあったかも知れない。僕は実はまだ一度も山野さんに逢っていないのだよ、熱がひどいらしいので。だが警察の保護なんか願っていないことは確だ。それをやるのは随分恥さらしだからね。三千子さんも蕗屋を憚って打開け兼ねていたのかも知れない。恋人にそういう前科を知られるのはつらいことだから」
「それだと、今度の事件は、この執念深い失恋者の復讐だったかも知れない訳ですね」
紋三は次々と現れて来た証拠品に面食った形だった。彼は今日この菊水旅館に来るまでは、幾分事件の真相をつかんだ気持でいたのが、明智の話を聞いている内に段々自信を失って行った。これらの証拠品が一体何を指し示しているのだか、明智がどんな判断を下しているのだか少しも分らない。不思議なことには証拠が一つ現れる度毎に、事件の真相が明かにはならないで、反対に益々ややこしく不明瞭なものになって行く様に思われるのだ。
「サア、その点も今のところ確なことはいえないが、もしこの男が下手人だとすると、色々つじつまの合わぬところが出来て来る。第一あの晩には外部から人の入った形跡が少しもないのだからね。といって丁度この男が出獄した時に、三千子さんが殺されたというのは、偶然にしては一致し過ぎている様にも思われる。北島は一年の間牢の中で復讐のことばかり考えていたに相違ないのだから、どんな巧妙な手段を考え出していたか分らない。その上失恋と前科の為に半気違いになった捨て身の仕事だし、彼が下手人でないとは容易に断言出来ないよ」
紋三は、明智が態と曖昧ないい方をして彼をじらしているのではないかと思った。同時にふと例の一寸法師の醜い姿が浮んだ。彼はこの頃何か不可解な事実にぶっつかると、すぐあの畸形児を思い出す様になっていた。
「この北島の行方は分っているのですか」
「今のところ分っていない。だがこれが警察の手に渡れば、前科者でもあるし、そう骨折らないで探し出せるだろう。それは兎も角、ここにまだ少しばかり証拠品が残っていた」明智は卓上の化粧品類と吸取紙を目で示して、「君はもう夫人から聞いて知っているだろうが、例の百貨店の片腕と、それから昨日山野氏にあてて郵送して来たもう一つの片腕の指紋を取って、三千子さんの指紋がそれに一致するかどうかを調べて見たのだ。そして、不幸にして僕の推察が当ったのだが、その証拠がこれだ」
明智は大切相に麻のハンカチを解いて、色々な形の瓶だとか、ニッケル製の容器だとかを、そこに並べた。それらの滑かな表面には沢山の黒い斑紋が現れていた。指紋をはっきりさせるために黒い粉をふりかけてあったのだ。
「三千子さんは随分おしゃれだったと見えて、化粧品の種類は驚く程あった。手の化粧品や爪磨き粉、やすり、バッファーなんかも一通りそろっていた。だがその中で、指紋のよく出ているのはこれだけで、あとは容器の表面がザラザラしていたり、紙製だったり、滑かなものでも、大部分は指紋がちっとも残っていないので役に立たない。鏡の表面だとか抽斗の金具も調べたけれど、掃除してしまったあとだった。だがこれだけあれば証拠品としては十分過ぎる位だ」
明智は容器を一つ一つ、つまみ上げて、大切相に並べ替えて行った。
「過酸化水素キュカンバー、緑の水白粉、練白粉、花椿香油、過酸化水素クリーム……みんな平凡だな、和製の余りお高くない品ばかりだ。それに三千子さんはどうも無定見に手当り次第の化粧品を集めている。上品な趣味じゃないね。だが、こいつはポンピアンの舶来だ。といって大して高級品でもないけれど、脂肪の強いクリームだな」
明智はその最後の品を、何か楽しげにいつまでも玩んでいた。
「それだけは指紋がついてない様ですね」
紋三はふと気がついて尋ねた。
「外側はふいた様に綺麗になっているがね、ソラ御覧、中のクリームに、こんな完全な指の跡がついているから」
明智はそういって、いたずら小僧みたいなズル相な表情をした。
最後の一品は桃色の吸取紙であったが、それには三千子の指紋がある外には、別に注意すべき点もなかった。沢山の文字を吸取った跡が、重なり合ってついていたけれど、皆不明瞭で、とても読みとることは出来なんだ。
「サア、これで僕の発見しただけのものは、すっかり御目にかけた。今度は君の方の話を聞こうじゃないか、昨夜の話を」
明智は卓上の品々を手文庫の中へしまいながら紋三を促した。
「イヤ駄目ですよ」紋三は頭をかいた。「あなたが知っている以上のことは何もないのです」
彼は昨夜山野夫人達がいつの間にか内の中から消えてしまったことを手短に話した。
明智はその不思議な事実を、一向驚きもしないで、興味のない顔で聞き流した。そして、ふと何か思いついた様に、突然まるで違ったことを尋ねた。
「三千子さんは血色のいい方だったかい。写真ではよく分らないが、どっちかといえば赤味がかったつやつやした顔じゃなかったの?」
「イヤ、その正反対ですよ。別に身体が弱かった様にも聞きませんが、どっか病的なすさんだ感じで、顔なんかも青白い方でした。それをお化粧と表情の技巧で巧に隠していました。僕は以前から、何だか処女という感じがしなかったのですよ」
紋三は変な顔をして明智を見た。明智はしきりと例の頭の毛をかき回す癖を始めていた。
やがて明智はしゃべるだけしゃべってしまうと、相手がまだ何か聞きたそうにしているのも構わず、もう用事が済んだという調子で、女中を呼んでお茶を命じた。
間もなく紋三は暇を告げて菊水旅館を出た。彼は歩きながらも、電車に乗ってからも、明智に見せてもらった証拠品と、次々に現れて来た疑わしい人物のことで頭が一杯だった。
「あの中で、化粧品と吸取紙は三千子さんの指紋を確めるだけのものだから別として、椅子のクッションから出た手紙によって北島春雄を疑えば疑い得る外には、ヘヤーピンにしろ、石膏像にしろ、ショールにしろ、手提にしろ、フェルト草履にしろ、ことごとく山野夫人に不利な証拠ばかりだ。その上夫人は怪しい手紙を七輪にくべたり、不思議な男と密会したりしている。たれが考えたって、夫人こそ第一の嫌疑者に相違ない」
紋三は明智の弁護があったにも拘らず、どうしてもこの考えを捨てることは出来なかった。彼は又、今までに現れた疑わしい人物と、想像し得べき殺人の動機について考えて見た。
「何等かの意味で疑うべき人物が六人ある。その内一寸法師と昨夜山野夫人を連れ出した男とは、まるでえたいが知れない。運転手の蕗屋は、丁度事件のすぐあとで国に帰ったこと、先程の焼残った手紙の中に彼の名前が記されていたことなど、十分疑うべき所はある。だが、この三人は、どうも直接の加害者でなさそうだ。今の所何等疑うべき動機がないし、前後の事情を考えても、そんな風に思われる。それに反して山野夫人、北島春雄、小松の三人にはそれぞれ三千子を殺し兼ねない動機がある。夫人は三千子の継母で、あの我まま娘と仲のよくなかったことは確だし、北島は失恋の恨みで気違いの様になっていたのだし、小松は蕗屋との恋を奪われた深い恨みがあったのだ。ところで、この三人の内、もし北島が加害者だとすると、当夜外から人の入った形跡のなかったこと、予め兇器を用意しないで三千子の部屋の石膏像なんかを使用したこと、三千子の死体を一度隠してあとになって持出したことなどが、一寸つじつまが合わぬ様に思われる。小松は元来おとなしい女で、あんな恐しいことは出来相もないし、もし彼女が犯人だったとすれば、なぜ昨夜まで逃亡を躊躇していたかが疑問だ。結局最も疑わしいのは山野夫人ではあるまいか」
紋三の考えはどうしてもそこへ落ちて行った。彼はまだ生々しい昨夜の奇怪な経験を忘れることが出来ないのだ。
もう夜の一時を過ぎていた。浅草公園もその時刻になると、流石に人足が途絶え、よいの内雑沓する場所だけに、余計さびしさが身にしみた。殊に仁王門を這入って右手の、五重の塔、経堂、ぬれ仏、弁天山にかけての一区劃は、宵の内からほとんど人通りがなかった。広い公園の中でもここだけがまるで取残された様に、異様に薄暗くさびしかった。
その五重の塔の裏手の、さびしいうちでも、もっともさびしい箇所に、何の樹だか、神木とでもいい相な大樹が枝を張っていた。遠くの安全燈の光は、五重の塔の表側の方にさえほとんど届かないのだから、その裏の木の下暗には無論影さえもない。公園中での魔所といってもよかった。不思議なことには、その辺では巡回のサーベルの音も、一晩に二三回位しか聞えないのだ。
その夜は空に星の光もなく、大樹の下は常よりも一層暗く、すさまじく見えた。時々ホウ、ホウと怪しげな鳥の鳴声が聞えて来た。
「オオ、兄貴、オオ、兄貴、寝たのかえ」
大樹の根許から、低い含み声が湧いた。そして、そこに敷き捨ててあった、腐ったこもがムクムクと動いた。一見してはただ一枚のこもが捨ててある様に見えるのだが、実はその下に一人の宿無しが出来るだけ身体を平べったくして寝ていたのだ。
「起きてる」
どこからか、もう一つの声が答えた。同じ様に圧し殺した囁き声だった。
「遅いじゃねえか。餓鬼共がよ。どじを踏みやしめえな」
「大丈夫、慣れてらあな。まあ寝ているがいい」
それ切り声はしなくなった。こもは元の様に、一枚の捨て菰に過ぎなかった。
暫く沈黙が続いた。雨雲が低くたれて、死んだように風がなかった。薄気味の悪い静けさだった。
やがて、かすかにかすかに物のきしる音が聞え始めた。それがほとんど十分間も絶えては続き、絶えては続きしていたが、五重の塔の大きな扉がそろそろと開いて、その真黒な口の中から、二人の青年が忍び出た。二人共荒い飛白の着物を着て、学生帽を冠っていた。
「誰だい。アア、お前達か、またうめえ仕事をやったな」
菰が動いて、最前の声が囁いた。
「うまくないよ。今日はぽっちりだよ」
青年達は縁を降りて、こもの方へ歩み寄った。
「俺はいいが、ここにいる定公に割前を忘れちゃいけないぜ」
もう一つの声がいった。よく見ると、大樹の黒い幹の根許に、一際黒く大きなうつろが口を開いていた。そのうつろの中に何者かが巣を食っている様子だった。
「分っているよ。ソラ、こんなのが三枚だ。くたびれちゃったから、少し息をつきに出て来たんだ。もう今夜はこれでおしまいだ」
青年達はこの塔の内部の、貴重な金具を取外して、それを売って生活していたのだった。賑やかな浅草観音の境内の、五重の塔の中に、こんな泥坊が忍び込んでいようとは、そこから一町とは距たぬ交番のお巡りさんでも、気がつかなんだ。
「ホウ、ホウ、ホウ」
突然少し甲高な鳥の声がした。
「オオ、合図だ。危ねえ危ねえ」
こもはそうつぶやいて動かなくなった。青年達も大急ぎで元のとびらの中へ隠れた。サーベルの音が塔の向うに聞え始めたころには、最早何の気勢も残っていなかった。
だが、彼等はそうしてお巡りさんの目を逃れることが出来たけれど、もう一つの目には少しも気がつかなんだ。塔の縁の下に紺の背広を着た一人の男が、最前からじっと彼等の様子をうかがっていた。
「オオ、兄貴、このごろ暫く顔を見せなかったが又どっか荒し廻ってたんじゃねえのか」
巡査の跫音が遠ざかるのを待って、こもが話しかけた。
「ウンニャ、ちっとばかり忙しいことがあってね。ここんところ、いたずらの方は手控えてるんだ。今日は久しぶりで、又赤いものが見たくなったもんだからね」
うつろの中の声が答えた。
「因果な病さね。……それはそうと、例の片腕の一件はおさまりがついたのかね」
「ウフフ、覚えていやあがる。お前だから何もかも話すがね。今世間じゃ大騒ぎさ。今日の新聞なんか、おれのまいた種で、三面記事が埋まってるんだ。今度こそ、いくらか溜飲が下ったてえものだ。だが、断るまでもねえ、人になんかこれから先もいうんじゃねえぜ。おらあな、一本の足を千住の溝の中へ、一本の足を公園の瓢箪池の中へ、一本の手を──呉服店の陳列場へ、一本の手をある家へ小包にして送ってやったあ。ウフフフフフ、そいつが今世間じゃ大評判なんだぜ。こんな心持のいいこたあねえ」
うつろの中の悪魔は、この驚くべき事実をこともなげに打明けて、さもさも愉快でたまらぬという様に、奇怪な笑い声を漏した。笑い声の間には、無気味な歯ぎしりの音が混っていた。彼は歯ぎしりをかんで狂喜しているのだ。
こもは余りのことに返事も出来ないのか、暫く何の声も聞えなかった。
「てめえ、いいやしめえな。もしいおうもんなら、こんだ、てめえがあの通りの目に逢うんだぞ、いいか」
うつろの中から又しても気味の悪い笑い声だった。
「とんでもねえ、お前とおれの仲じゃあねえか。口が腐ってもいうもんじゃあねえ。それに、いつも兄貴にゃあ、厄介をかけてるんだからな」
「だろうな。そうなくちゃならねえ。おらあな、定公、自分でも分ってる。因果な身体に生れついたひがみで気狂いになっているんだ。こう、世間の満足な奴らがにくくてたまらねえんだ。奴らあ、おれに取っちゃ敵も同然なんだ。お前だからいうんだぜ。たれも聞いてるものはねえ。おれはこれからまだまだ悪事を働くつもりだ。運が悪くてふんづかまるまでは、おれの力で出来るだけのことはやっつけるんだ」
押し殺した声が、歯ぎしりと共に高まって、うつろの中に物すごく響いた。
そして又暫く沈黙が続いた。
「オオ、兄貴、半鐘だぜ。やっつけたな」
耳を澄せば遙に鐘の声が聞えた。
「定公、だれもいめえな」
「大丈夫だ」
それを聞くと悪魔は始めて、うつろの中からのっそりと姿を現した。醜い一寸法師だった。彼は注意深くあたりを見廻してから不具者にも似合わぬす早さで、大木の幹をよじ登り、枝から枝を伝わって、生茂った葉の中に見えなくなった。彼の手は、短い足の不足を補って、軽業師の様に自由自在に動いた。丁度猿の木登りといった恰好だった。
「燃える燃える。風がねえけれど、この分じゃあ十軒は確だ」
梢から悪魔の呪い声が、でも辺を憚かって、殆ど聞きとれぬ程に響いて来た。
火は公園から西に当って、十町程の手近に見えた。半鐘の音、蒸汽ポンプのサイレンの響が、活動街の上を越して伝わって来た。それに混って時々樹上の畸形児の狂喜のうなりが聞えた。
やがてハタハタと忍びやかな、然しあわただしい跫音がして、二人の汚ない少年が塔のうしろへ駈込んで来た。
「あれは、お前達がやっつけたのか」
「そうよ」こもの問に応じて一人の少年が気競って答えた。「うまく行きやあがった。風はねえけれど十軒は大丈夫だぜ」
その声を聞きつけたのか、大樹の葉がガサガサ鳴って、サルの様な畸形児が地上に飛び降りた。
「うまくやったな。定公、己あ又一寸見物と出かけるからな。ソラこれを餓鬼共に分けてやってくんな」
彼は大急ぎで懐中から一枚の紙幣を取出すと、それをこもの中から出ている手に握らせながら、口早にささやいた。そして、彼の小さな身体は飛びはねる恰好で、暗の中に消えて行った。塔の縁の下に隠れていた背広の男は、後に残った浮浪人共に見つからぬ様に反対の側からはいだして、一寸法師の跡を追った。
六区を抜けて広い通りに出ると、深夜ながら威勢のいい野次馬が、チラホラかけだしていた。軒にたたずんで赤い空を眺めている人々もあった。一寸法師とその尾行者は、それらの野次馬に混って走った。そんな際に、だれも畸形児に注意する者もなかった。又尾行者も相手に気づかれる心配なく、相当接近して走ることが出来た。
火事は合羽橋の停留所を過ぎて二三町行った清島町の裏通りにあった。まだ警官の出張も手薄で、野次馬共は自由に火事場に近づくことが出来た。燃えているのは長屋建のかなりの住宅だった。もう五六軒は火が廻っていた。
蒸汽ポンプの水を吸う音と、消防達の必死のかけ声の外には、妙に物音がしなかった。多勢の見物共は押し黙って、あちこちにかたまり合っていた。火は黙々として燃えた。風のない為に焔が殆ど垂直に立昇り、火の粉は見物共の頭上に落ちて来た。真赤な渦巻の中を縞の様にポンプの水が昇った。
ホースを漏れる水の為に、雨降り挙句の様な泥道を、右往左往する消防夫達に混って、狂喜の一寸法師がチョコチョコと走り廻った。彼の奇怪な顔は火焔の為に真赤に彩られ、大きな口が顔一杯にいとも不気味な嘲笑を浮べていた。彼こそはこの世に火の禍を持って来た小悪魔ではないかと思われた。
背広の男は一方の群集に混って、凝っとその様子を眺めていた。彼の顔も焔の色に染って、異常な緊張を示していた。
だが、やがて蒸汽ポンプの威力は、さしもの火勢を徐々に鎮めてゆき、見物達も安心したのか、一人去り二人去り、段々人数が減って行った。
一寸法師は先程からの狂乱にグッタリと疲れて、しかし同時にすっかり堪能した恰好で群集の列にまぎれて元来た道を引返した。いうまでもなく背広の男は尾行を続けて行った。
一寸法師は暗い町の軒下から軒下を縫って、鼬の様にす早く走った。足の極端に短い彼にしては驚くべき早さだった。その上、子供の様に脊が低いのと、着物の色合が保護色めいて黒っぽい為に、チラチラと隠顕自在のとらえ所のない物の怪の様で、ともすれば見失い相になるのだ。背広の男はやっとの思いで尾行を続けた。
畸形児は暗い所暗い所と選って、公園をつき切ると、やっぱり吾妻橋を渡って、本所区の複雑な町々を、幾つも曲った末、一軒の不思議な構えの家の格子戸の中へ消えた。
一寸小広い町で、世に忘れられた様な古めかしい商家などが軒を並べている中に、その家は殊更風変りだった。普通の不商屋の張出になった格子窓の一部を小さなショーウインドウに改造して、そのガラス張りの中に、三つ四つ大きな人形の首が並べてある。目を金色に塗った赤鬼の首だとか、生きている様にこちらを向いて笑いかけている大黒様の顔だとか、すごい様な美人の青ざめた首だとか、それが薄ぼんやりした五燭程の電燈に照されて、塵だらけのガラスの中に、骨董品の様に並んでいるのだ。外の商家ではすっかり戸を締切って、軒燈の外には何の光も漏れていないのに、このみすぼらしいショーウインドウだけが、戸もないのか、路上に夢の様な光の縞を投ているのが、一層物凄い感じを与えた。
背広の男は、青ざめた顔で、その不思議な家を眺め廻した。彼は一寸法師がこんなところへ入ったことを意外に思っている様子だった。標札をすかして見ると、「人形師安川国松」とやっと読めた。
一寸法師は、中に入って格子戸に締りをすると、ほっと息をついた。だが、彼は尾行者のあることなぞは少しも気づいていなかった。気違いめいた興奮の為にほとんど我を忘れた体に見えた。
入った所には縦に長い土間が続いて、その横に、旧式な商家に見える様な障子のない広い店の間があった。片隅には人形細工に使用する箱だとか道具などがゴタゴタと積み重なり、正面の八角時計の下には、びっくりする様な大きな土製のキューピー人形が、電燈に照らされて、番兵然と目をむいていた。ちらと見た瞬間には、生きた人間がこちらを睨みつけているのかと疑われる程だ。畳なども赤茶けて凡てが古めかしい中に、この人形だけが際立って新しく、桃色の肌がつやつやと輝いていた。
畸形児は、土間の突当りの開き戸をあけて、裏の方まで通り抜けになっている細い庭を、奥の方へ入って行った。
「だれだえ」
すぐ横手の障子の中から寐ぼけた声が尋ねた。
「おれだよ」
一寸法師は簡単に答えて、さっさと歩いて行った。障子の中の人は、別段それを咎めようともしない。そのまま怪物の姿は庭の奥の暗の中へ消えてしまった。
表に取り残された背広の男は、戸の隙間から家の内部を覗いたり、ぐるっと町を廻ってその家の裏手を調べて見たり、方々の標札を覗き廻って町名番地を確め手帳に控えたり、殆ど二時間許りの間、執念深くその辺をうろついていたが、やがて東が白む頃、やっと断念したものか、疲れた足を引ずって元来た道を引返した。
吾妻橋を渡ると、彼はふと気がついた様にそこの自働電話に入り、一寸手帳を見て赤坂の菊水旅館の番号を呼んだ。相手が電話口に出るまでに十分程もかかった。
「菊水さんですね」彼は意気込でいった。「早くから起して済みません。明智さんいらっしゃるでしょう。大至急御知らせしたいことがあるのです。まだ御寝みでしょうけれど、一寸起してくれませんか。僕? 斎藤ですよ」
彼は明智の出て来るのを、足踏みしながら待つのだった。
小林紋三が明智を訪ねて様々の証拠品に驚いた日、小間使小松の失踪が発見された日、そして三千子の殺害事件がいよいよ警察沙汰になった日からもう三日目であった。
その間には色々重大な出来事が起っていた。陰の事件としては斎藤という男が一寸法師の残虐極まる行動を見たのもその一つであったが、表だったものでは、明智の提供した証拠品がもととなって、実行的な警察は、先ず第一の嫌疑者として三千子に復讐を誓った北島春雄の行方を捜索して、ある木賃宿に潜伏中の彼を苦もなくとり押えた。北島は猶取調中で罪は確定しないけれど、三千子変死当夜のアリバイ(現場に居なかった証拠)を立て得ないこと、変名で木賃宿に宿泊していたこと、その他申立ての曖昧な点が多々あって、若し外に有力な嫌疑者の現れない時は、前科者の彼こそ、さしずめ最も疑うべき人物に相違なかった。北島をあげると同時に、警察は第二の嫌疑者として小間使の小松の行方を捜索した。情人の蕗屋が大阪の実家に帰っているのだから、外に身寄りとてもない小松は、きっと彼をたよって行ったに相違ないという見込みで、その地の警察に取調べを依頼した上、こちらからも態々一人の刑事が急行した。だがその結果、蕗屋の実家には数日来蕗屋もいなければ、小松の訪ねた様子もないことが確められたばかりで、それ以上のことはまだ分っていない。
押入から発見された数々の証拠品によって、山野夫人が取調べを受けたことはいうまでもない。だが、彼女はその品々について全く覚えがなく、だれかが彼女を陥いれるために用意して置いた偽証に相違ないと主張した。第一彼女を犯人とすれば、何故自ら進んで警察に捜索を依頼したり、素人探偵を頼んだりしたかが分らなくなる。それのみか、意外なことには、彼女にとっては実に有力な証人が現れた。というのは病中の山野大五郎氏が、当夜彼女が一度も寝室を出なかったことを明言したのだ。それによって山野夫人に対する嫌疑は一先ず解かれた形であった。
だが、少くとも小林紋三だけは、その位のことで夫人の無罪を信ずることは出来なかった。中之郷O町の怪しげな家については、紋三がそれを口外しなかったのは無論だが、何故か明智までも沈黙を守っているらしく、警察は山野夫人とかの不思議な跛の男との密会事件を少しも知らない様子だった。紋三はそれを夫人のために私に喜んでいたのだが、併し彼女に好意を寄せれば寄せる程、夫人に対するあの恐しい疑いは却て益々深まって行くのだった。
日々の新聞紙が、山野家の珍事について書き立てたことはいうまでもない。百貨店の片腕事件が未曾有の珍事であった上に、被害者が若い娘であること、加害者が非常に曖昧なこと、その上一寸法師の怪談までそろっているのだから、あのセンセーションを巻起したのは誠に当然だった。事件が評判になるにつれて、山野家関係の人々が胸を痛めたのは勿論だが、中にも主人公の大五郎氏は、一人娘を失った悲しみに加えてこの打撃に、にわかに病勢が募り、それが又一家の者の心配の種となった。
ところが、意外なことは、その最中に、山野夫人が又しても例の異様な男の誘いに応じ、二度目の密会をとげるために、今度は大胆にも昼日中家を外にしたことであった。例によって彼女は片町へ行くといって出たのだが、それを聞いた紋三がもしやと思って、そっと片町の彼女の伯父のところへ電話をかけて問合せた結果、それが分ったのだ。紋三以外にはだれも知る者はなかった。
ところが、丁度その折を選んだ様に、夫人にとって実に危険なことが起った。夫人の秘密は遂に暴露する時が来たかと思われた。
紋三は山野夫人が片町へ行っていないことを電話で確めたけれど、この前の様にすぐ後を追う元気はなかった。一方では夫人の安否が気遣われたが、又一方では、この間の晩の出し抜かれた気持を思い出すと、そうして心配しているのが馬鹿馬鹿しい様でもあった。妙な嫉妬みたいなものが、彼をひどく憂鬱にした。
夫人の行先は中之郷O町の例の家に相違ないのだが、そこへ行って、もしいやなものを見る様だとたまらないと思った。といって夫人の帰るのを書生部屋で山木とにらみ合って待っているのは尚つらい。彼は兎も角山野家を出て、電車道の方へ歩いて行った。
「これは一層明智でも訪問して気を紛らした方がいいかも知れない。三日ばかり会わないのだから、探偵の方も余程進捗しているだろうし、それにこの間はなぜか隠す様にしていたが、どうやらO町の家の秘密を握っている様子だから、一つ詳しく聞出してやろう」
紋三はふとそんな風に考えた。それというのが、彼はこの事件で夫人の勤めた役割を明智の口から早く聞きたかったのだ。
明智は今日も宿にいた。いつの間に働くのだか分らない様な男だった。
「ヤア、丁度いい所だった」
紋三が女中のあとについて部屋にはいると、例によって明智のニコニコ顔があった。
「実はね、三千子さんの事件が大体形がついたのだよ。君にも知らせようと思っていた所なんだ」
「じゃ、犯人が分ったのですか」
紋三はびっくりして尋ねた。
「それはとっくに分っていたさ。ただね、今日まで発表出来ない訳があったのだよ。それについて、実はこれから捕物に出かけるのだ、今に警視庁の連中が僕を迎えにくることになっている。僕が指揮官という訳でね。それに今日は珍しく刑事部長御自身出馬なんだ。心易いものだからね。僕が引っぱりだしたんだよ。だが、この捕物は十分それだけの値打がある。相手が前例のない悪党だからね。実際世の中には想像も出来ない恐しい奴がいるものだね」
「例の一寸法師じゃありませんか」
「そうだよ。だが、あいつはただの不具者じゃない。畸形児なんてものは、多くは白痴か低能児だが、あいつに限って、低能児どころか、実に恐しい智慧者なんだ。希代の悪党なんだ。君はスチブンソンのジーキル博士とハイド氏という小説を読んだことがあるかい。丁度あれだね。昼間は行いすました善人を装っていて、夜になると、悪魔の形相すさまじく、町から町をうろつきまわって悪事という悪事をし尽していたんだ。執念深い不具者の呪いだ。人殺し、泥坊、火つけ、その他ありとあらゆる害毒を暗の世界にふりまいていた。驚くべきことは、それが彼奴の唯一の道楽だったのだ」
「ではやっぱり、あの不具者が三千子さんの下手人だったのですか」
「いや、下手人じゃない。この間もいった様に下手人は別の所にいる。だが、あいつは下手人よりも幾層倍の悪党だ。我々はまず何をおいてもあいつを亡ぼさなければならない。それを今まで待っていたのは、もう一人の直接の下手人を逃さないためだったが、その方ももう逃亡の心配がなくなったのだ」
「それは一体だれです」
紋三は息をつめて尋ねた。山野夫人の美しい笑顔が目先にちらついた。
丁度その時宿の女中がはいって来て、明智に一枚の名刺を渡した。
「アア、刑事部長の一行がやって来たんだ。すぐ出かけなきゃならない。君も一緒に行って見るか。話の残りは自動車の中でも出来るんだが」
明智はもう立上って着換えを始めていた。
旅館の門前に警視庁の大型自動車が止っていた。一行は刑事部長の外に私服の刑事二名、そこへ明智と紋三とが同乗した。
「君の注意があったから、原庭署の方へも手配を頼んで置いたよ。だが、危険なこともあるまいね」
部長は彼程の地位にも拘らず、まだ肥らないで、狐の様な感じのやせた男だった。一見何か軽々しい様でもあったが、暫く見ていると妙なすご味が出た。普通こんな場合出て来る人でないだけに多少そぐわぬ感じがあった。
「何ともいえないね。不具者ではあるが、地獄から這い出して来た様な悪党だからね。実際人間じゃないよ。小人の癖に恐しく素早くて、猿の様に木昇りが上手だ。それに彼奴一人ならいいんだが、仲間もいるし」
明智は車の席につきながらいった。
「だが、感づいて逃げ出しゃしまいね。見張りは大丈夫かね」
「大丈夫、僕の部下が三人で三方からかためている。皆信用の出来る男だ」
自動車が走り出すと、前の座席とうしろの座席では話が通じ難くなった。自然明智は隣の小林紋三と話し合った。
「例の中之郷O町の家だね。君はその後あの家を調べて見たかね。あすこは以前長い間一種の淫売窟だったんだよ。非常に秘密な素人の娘や奥さんなんかを世話する家だった。その方の通人達にはかなり有名なんだけれども、近所の人達はまるで知らない。そのあとをあの怪物が借りたんだ。だから、よくそんな家にある様に、あの家には二階から秘密の抜道が出来ている。万一警察の手入のあった時の逃場だね。それが、押入の中から隣家との壁と壁の間を通って、飛んでもない所へ抜けているんだ。君があんなに見張っていて逃げられたのも無理ではないのだよ」
「そうとは知らなかった。馬鹿馬鹿しい訳ですね。一体どこへ抜けているんです」
紋三は変にあっけない気がした。
「養源寺の裏手へ抜けているんだ。君は気づいていたかどうか。養源寺は中之郷A町にある。そのA町とO町とは背中合せじゃないか。つまりA町の養源寺から入ってO町へ抜けることも出来れば、O町の例の家から養源寺の寺内を通ってA町へ抜けることも出来るんだ。表通りを廻れば二三町もあるけれど、抜道からでは隣同志だ。ところが、養源寺といえば、いつか君が一寸法師の入るのを見た寺だ。ね、大体見当がつくだろう。これが彼奴の手品の種なんだよ」
「なる程背中合せに当りますね。ちっとも気がつかなんだ」
「だが彼奴の逃道はもう一つあるんだ。同じA町の養源寺の墓場の裏手に、これも背中合せだが、妙な人形師の店がある。あの不具者はここの家からも出入りしていたことが分った。つまり彼奴の住家は、三つの違った町に出入口を持っている訳だ。彼奴があれだけの悪事を働いて、今日まで秘密を保つことが出来たのは、全くこの出没自在な出入口のお蔭といってもいい」
「すると、あの寺の和尚や、その人形師なんかも仲間なんですね」
「無論そうだね。仲間以上かも知れない」明智は例の人をじらす様ないい方をした。「そこで、今日はその三方の入口から包囲攻撃をやる訳なんだ」
「では先だって山野の奥さんと一緒にO町の家へ入った男はだれです」紋三が尋ねた。「やっぱり仲間の一人でしょうか」
「その男は跛だったね」
「エエ、跛でした」
「じゃ、それがあの一寸法師なんだよ。顔に見覚えはなかったかい」
「鳥打帽子と大きな眼鏡で隠していて、それに暗かったのでよく分りませんが、だって、一寸法師がどうしてあんな大男になれるのです」
「そこだよ。その点が又、奴の悪事の露顕しなかった理由だよ。奴は暗の世界でだけ一寸法師で、昼間は普通の人間なんだ。恐しい手品だ」
「でも、どうしてそんなことが出来たのです」
「奴は子供の時分怪我をして両足に大手術をやったというのだ。つまり義足をはめている体なのだ。小人というものは首や胴体は普通の人間と変りはない。ただ足だけが不自然に短いものだということを考えて見給え」
「義足ですって、そんな馬鹿げたことで、うまく分らないでいたのですか」
「馬鹿馬鹿しいだけに、却て安全なのだ。ただ義足といったのでは、本当に思えないだろうが、僕はその実物を見たのだ。詳しいことは今に分るがね。それに、一寸法師を見たのは君一人で、山野家の人達にしろ一寸法師なんて特殊な人間は頭にない。最初から一人の義足をはめた不具者で通っていたのだよ」
「じゃ、その義足をはめた男というのは一体だれです」
「養源寺の和尚さ」
話の通じ悪い自動車の上では、これだけの会話を取交すのもやっとだった。紋三にはまだ明智のいうことがよくのみ込めなかった。余り変な話なので、馬鹿馬鹿しい様な、からかわれている様な気さえした。だがその疑いを確めない内に、車はいつの間にか本所原庭警察署の建物の前に止っていた。
署では署長を始め彼等の来着を待構えていた。一同車を降りて二三の打合せを済ませると、そこの刑事なども同勢に加わって、徒歩で程近いO町に向った。刑事部長は署長室に止まって吉報を待つことにした。
刑事達は刑事部長の手前、素人探偵の指図に従わねばならなかった。彼等は養源寺、O町の家、人形師の住居と三手に分れて、それぞれ入口に張番をした。そこには明智の部下の者がさっきから彼等の来るのを待っていたのだ。
「私が合図をするまでは、どんな奴でも逃さない様にして下さい。女であろうが子供であろうが、家から出る者は一応止めて置いて下さい」
明智は何度もくり返して頼んだ。そして彼自身は紋三と一人の刑事を従えて養源寺の門内に入って行った。
庫裏の障子を開けると、汚ない爺さんが竈の前で何かしていた。
「君は向うの菓子屋のお爺さんだったね」明智が声をかけた。「お住持はお留守かね」
「ヘエ、おいでになりますよ。どなた様で」
「忘れたのかい。二三日前に君の店で買物をしたんだが。実は今日は警察の御用で来たんだが、一寸お住持をここへ呼んでくれ給え」
爺さんはかしこまって、奥の方へ住持を探しに行ったが、暫くすると変な顔をして戻って来た。
「どうも見えないんですよ。ちっとも気がつきませなんだが、いつの間にお出ましなすったのか」
「そうかい。兎も角一度上らせてもらうよ。警察の御用なんだからね」
明智はそういったまま、手早く靴を脱いで上に上った。爺さんは呆気にとられて、止めようともしなかった。紋三と刑事も明智に習って靴を脱いだが、その時紋三は今まで忘れるともなく忘れていた事柄を、ハッと思い出した。和尚が見えないのは裏からO町の例の家に行ったのに相違ない。そこには山野夫人が来ているのだ。もし和尚が見つかれば、夫人も一緒に恥をさらす羽目になるのは知れている。恥どころか退引ならぬ証拠を握られるのだ。
紋三はそれと同時に、ある驚くべき事実に気がついた。今までは夫人を脅迫している男が何者とも知れなかったので、一種の嫉妬を感じていたに過ぎないのだが、明智の明言する所によれば、その男こそ彼の不気味な一寸法師に外ならぬのだ。夫人はどんな弱味があって、あの様ないまわしい者と密会を続けているのかと思うと、夫人までがえたいの知れないものに見えて来た。
紋三がそんなことを考えている内に、明智はずんずん本堂の方へ踏み込んで行った。ガランとした本堂にはもう夕暗が迫って、赤茶けた畳の目も見えない程になっていた。妙な彫刻のある太い柱、一方の隅に安置された塗りのはげた木像、大きな位牌の行列、奇怪な絵のかけ物、香のにおい、それらの道具だてが、底の知れない不気味さを醸し出していた。無論人の気勢はなかった。
明智は注意深く堂の隅々、物の陰などをのぞき廻って、二三の広い部屋を通り過ぎ、最後に庭に降りると、石燈籠や植木の間もくまなく調べた上、板塀の開き戸を開けて、墓地の方に出て行った。紋三達は縁側の下にあった庭草履を穿いてそのあとに続いた。
墓地ももう大方暗くなっていた。往来に面した方の生垣の破れ目から、そこに明智の部下の者が見張っているのが、ちらついて見えた。紋三はいつかの晩、その破れ目から墓地の中へ忍び込んだことを思い出さずにはいられなかった。
「ホラ御覧なさい。あすこの黒板塀が細く破れているでしょう。丁度あの向側が人形師の安川の仕事場になっているのですよ。あなたすみませんが、暫くあすこを見張っていて下さいませんか。僕達はこちら側のO町に面した家を一応調べて見ますから」
明智は刑事の方をふり向いて、丁寧にいった。刑事はいなむ訳にも行かぬので、指図に従って板塀の方へ歩いて行った。O町の例の家の側はまばらな竹垣になっていて、少し無理をすれば、どこからでも出入りが出来る様に見えた。
「君、一寸ここを見給え」
明智はふと立止って、墓地の一方の隅の銀杏の木の根許を指さした。そこには木の幹の陰に大きな穴があって、その中にゴミがうずたかく積っていた。
「これはお寺のゴミ捨場になっているらしいのだが、僕は二三日前の晩ここへ忍び込んで、このゴミの中をかき探したり、新しい墓地をあばいて見たりしたのだよ。三千子さんの死骸がこの辺に隠されているかと思ったのだ」明智は何でもない事の様にいった。「それはね、ホラ山野の邸から三千子さんを運び出すのに、だれかが衛生夫に化けてゴミ車を利用した形跡のあったことは君も知っているだろう。ゴミ車は吾妻橋の所で行方が分らなくなったのだが、君から一寸法師のことを聞いたものだから、あのゴミはひょっとしたらここへ運ばれたのではないかと疑ったのだよ。そして早速この寺の附近で聞合せて見ると、丁度その朝早く、一台のゴミ車が寺の門をくぐったことが分ったのだ。死骸を隠すのに墓地程屈竟な場所はない。うまいことを考えたものだと思った。併し僕が探した時には、もうどっかへ移されて死骸はなかったのだが」
「すると衛生夫に化けたのもやっぱり彼奴だったのですか」
「いやあの不具者には重い車なんかひけない。それは彼奴じゃないよ」
彼等は低い声で話しながら竹垣の方へ歩いて行った。竹垣をくぐるとすぐの所にずっと石垣が続いて、そこから地面が一段高くなっていた。明智はその石垣を攀昇って、板塀と土蔵との庇間の薄暗い中へ入って行った。五六間行くと突当りになってそこに別の塀が行手をふさいでいる。明智はポケットから細い針金を取り出し、正面の塀のある個所にさし込んでゴトゴトやっていたが、間もなくくるるの外れる様な音がして、塀の一部分がギイと開いた。隠し戸になっていたのだ。
隠し戸の内部は、壁と壁の間の、人一人やっと通れる程の狭い通路になっていた。彼等は手探りでその中へ入って行った。紋三はふと子供の時分の隠れん坊の遊びを思い出していた。そんな風に恐しいというよりは、何か可憐な感じがしたのだ。
少し行くと先に立った明智が「梯子だよ」と注意した。彼等は危い梯子を音のしない様に気をつけながら上っていった。上った所に一間位の細長い板敷があって、そこで行止まりになっていた。左右とも板ばりで、幅は身体を横にしなければならない程狭かった。
「ここが丁度押入の裏側に当るのだよ」明智がささやき声でいった。「静にしていたまえ」
彼等は暫くの間、その真暗な窮屈な場所でお互いの呼吸を聞き合った。紋三は押入の向側に山野夫人を想像すると、身体がしびれる程気がかりだった。どうか帰ったあとであってくれればいいと祈る一方では、あの醜い一寸法師と並べて、夫人の取乱した様子を見てやりたいという、うずく様な気持もあった。
部屋の方からは暫くは何の物音も聞えて来なかったが、やがてピッシャリと障子をしめる音がして「百合枝さん、だれかに感づかれる様なことはしまいね」男の太い皺嗄声が聞えた。「エ、だって、今窓からのぞいてみると、表に変な奴がウロウロしているぜ。うるせい奴等だ。この間も妙な若造が家の中へ上り込んだって話だし、危ねえ、危ねえ。もうここの家も見切り時だ。だが、奴さん達まさか抜道まで知りゃあしまいな」
薄い板張と襖があるきりなので、向うの話声は手に取る様に聞えた。
「早く逃して下さい。もし見つかる様なことがあったら、ほんとうに取返しがつかないんだから」
平常と違ってひどくぞんざいな調子だけれど果して山野夫人の声だった。
「それは己にしたって同じことだ。だが、まだまだ心配することはない。己の力はお前も知っているだろう」
その圧えつける様な太い声が、あの畸形児かと思うと変な気がした。声だけは人並以上に堂々としているのが、滑稽でもあり、物すごくも感じられた。
「それじゃ引上げようか。持物を忘れない様に気をつけるんだ」
その声が段々こちらへ近づき、畳を踏む音と一緒に、そっと襖を開ける気勢がした。
明智は暗の中で紋三の腕を握って合図をすると、板ばりの一部に手をかけて音のしない様に引外した。ポッカリと四角な穴が開いて、薄い光が差して来た。紋三はいきなり顔を合せるのかと思い、ハッと身構えをしたが、穴の向うには幾つも行李が積んであって、まだ相手の姿は見えなかった。
やがて一番上の行李がソーッと取のけられ、そのあとへ一本の腕がニョイと出て、二番目の行李の紐をつかむとズルズルと向うへ引っぱって行った。紋三の腕を握っている明智の手がピクピク動いた。
行李がのけられた。その向うから和尚の坊主頭がバアと覗いた。二三尺の距離で八つの目がぶっつかった。
「ワッ」
という様な音だった。四人が同時に何事かを叫んだのだ。
和尚はいきなり奥の四畳半の方へ逃げた。明智が行李を蹴散らして追いすがった。四畳半の窓を開けると物干場がある。階下に見張りがあるため逃げ場は屋根の外にないのだ。畸形児は素早く窓の外に出ると、物干場の手すりを足つぎにして、二階の屋根に攀上った。一足おくれた明智は、屋根からぶら下っている相手の足をつかんだ。だが、その足は暫くもみ合っている内にすっぽりと抜けて明智の手に残った。白い靴下で覆われた人形の足の様なものだった。
猿の様に木登りのうまい畸形児にとっては、屋根の上こそ屈竟の逃げ場所だ。彼は僧形の白衣の裾を飜して急勾配の屋根をはった。
「小林君、そこの窓から刑事を呼んでくれ給え」
いい残して明智も屋上に這上った。長い棟の上を、夕暗の空を背景にして、畸形児の白衣と明智の黒い支那服とがもつれ合って走った。
屋根が尽きると、畸形児は電柱や塀を足場にして次の屋根へと移った。ある時は一間ばかりの所を、両手で電線につかまって渡りさえした。一寸法師の軽業だ。
そうなると明智はとても敵わない。僅の所を、一寸法師の真似が出来ないばかりに、大廻りしなければならないのだ。見る見る二人の距離は遠ざかって行った。
正体をあばかれた畸形児は、もう死にもの狂いだった。逃げたとて、逃げおおせる見込はないのだけれど、そんな事を考える余裕はない。彼はせめて人形師安川の家までたどりつこうとあせるのだ。
やがて、畸形児の行手に一軒の湯屋の大きな屋根が立ちふさがった。うしろを見れば、追手はいつの間にか二人になっている。ぐずぐずしている内にはまだ人数がふえるかも知れないのだ。彼は思い切って湯屋の小屋根に飛び降りると、軒伝いに小さくなって走り出した。だが、やっとの思いで曲り角まで達した時、騒ぎを聞きつけて先廻りをした一人の刑事が、向うの屋根からピョイピョイと飛んで来るのが見えた。そして、彼の姿を見つけると、いきなり大きな声で怒鳴り出した。絶体絶命だ。
一寸法師は最後の力を絞って、樋伝いに湯屋の大屋根に登った。だが、その一際高い棟の上でホッと息をつく間もなく、追手達は同じ屋根の両方の端にとりついていた。最早や逃げる場所がなかった。そこから飛び降りて頭をぶち破るか、おとなしく繩を受けるかだ。
追手達は身構えをしながら、瓦を一枚一枚這寄って来た。畸形児ののぼせ上った目には、それが三匹の大トカゲの様に見えた。彼はあてもなくキョロキョロと四方を見廻した。すると、ふと目についたのは、湯屋の煙突だった。黒く塗った太い鉄の筒が、すぐ側の瓦の中から、空ざまに生えていた。彼はいきなりその煙突にとりつくと、得意の木登りでスルスルと登って行った。
追手は同じ様に煙突を登る愚をしなかった。彼等はその下に集って、瓦のかけらを木の上の猿に投げつけた。そして気長に相手の疲れるのを待つ積りだ。
だが畸形児には別の考えがあった。煙突には船の帆柱の様に、頂上から太い針金が三方に出て、その一本が狭い空地を越して、向う側のゴミゴミした長屋の屋根に届いていた。彼はケーブルカーの様にその針金をすべって、向う側に渡る積りなのだ。もしそれがうまく行けば、そこは複雑な迷路みたいな町だし、夕暗のことだから、うまく逃げおおせることも、満更不可能ではなかった。
命がけの軽業が始まった。白衣の怪物が空に浮いた。針金を握って足を離すと、ハッと思う間にツルツルと五六間滑った。針金がピュウンとうなって、煙突が弓の様に曲った。
針金が手の平に食い入って、鑢の様に骨をこすった。畸形児は半も滑らぬ内に、痛さに耐え難くなった。もう針金を握る力がなかった。ふと下を見ると、そこの空地にはいつの間にか五六人の人が空を見あげて立騒いでいた。たとい向うまで滑りついたところでもう逃亡の見込はないのだ。「駄目だ」と思うと指が伸びた。一瞬間、畸形児の目の前で世界が独楽の様に廻った。
墜落した一寸法師は、そのまま気を失った。空地にいた人達が声を上げてそのまわりに馳せ寄った。
小林紋三は明智の指図に従い、表の方の窓を開いて、大声に怒鳴った。そしてそこに見張りをしていた刑事が駈出すのを見送ると、一瞬間、ぼんやりと突っ立っていた。明智の跡を追って屋根に上ったものか、ここに止まって山野夫人の介抱をしたものかと迷ったのだ。夫人は彼の足許にうつ伏して死んだ様に身動きもしない。よく見れば細かく肩をふるわせて泣き入っていた。襟が乱れて乳色の首筋が背中の方までむき出しになり、その上を夥しいおくれ毛が這廻っている。
屋根の上の騒ぎも段々遠ざかり、階下の老婆はどうしたのか姿を見せず、そのさ中に、異様な静寂が来た。世界が切離された感じだった。
「奥さん」
紋三は夫人の肩に手をかけて低い声で呼んだ。すると突然夫人が、起き上って叫び出した。
「私です。三千子を殺したのは私です。お巡りさんにそういって下さい。小林さん、お巡りさんの所へ連れて行って下さい」
青ざめた顔が涙にぬれて、脣が醜く痙攣した。
「イエ、その前に、家へ連れて行って下さい。私は家へ帰らなければならないんです。サア、早く早く、小林さん」
彼女は紋三の腕にすがる様にしてわめいた。充血した目が人の来るのを恐れて、キョトキョトあたりを見廻した。
紋三も興奮のために青ざめていた。不思議な戦慄が背中をはった。なめてもなめても脣が干いた。
「奥さん逃げましょう」
彼の声はかすれ震えていた。
「早く、家へつれて行って」
「僕と、僕と一緒に、逃げましょう」
百合枝は激情の為に立上る力もなかった。紋三の肩に縋りついては、くずおれた。彼は夫人の狭い胸を抱く様にして、やっと階段を降りることが出来た。降りたところに耳の遠い老婆がポカンと立っていた。彼女は何かしら騒動が起ったことを感じて、やっとそこまで出て来たところだった。
紋三は老婆をつきのけて入口へ走った。そこにあり合せた下駄を突かけて門の外へ出た。見張りの刑事は一寸法師の方へ行って誰もいない。彼等はもう暗くなり始めた町を、人通の少い方へ少い方へと、よろめきもつれて走った。幸い誰も見咎める者はなかった。
電車通りも無難に越して、彼等はいつか隅田川の堤へ出ていた。その外に逃げ道はなかったのだ。夫人は息切れがしてしばしば倒れ相になった。紋三の肩に縋った夫人の手が、キュッキュッと彼の首をしめた。冷たい乱れ髪が彼の耳をなぶった。やがて彼等は山野邸への曲り道までたどりついた。
「そちらへ行くんじゃありません、今家へ行ったらつかまるばかりです。サア、もっと走るんです」
「イイエ、私はどうしても、一度家へ帰らなければならない。離して、離して」
夫人はか弱い力をふり絞って、邸の方へ曲ろうとしたが、紋三がしっかり抱き込んで、そうはさせなかった。
「心配しないだっていいです。僕はどこまでもあなたと一緒に行きます。サア、愚図愚図している時じゃありません。逃げましょう。逃げられる所まで逃げましょう」
紋三は夫人を引ずりながら、上ずった声でいった。それでも彼女は暫くの間、紋三の腕の中でもがいていたが、やがて力がつきた。紋三は夫人の身体が突然しっとりと柔かく、重くなったのを感じた。彼女は身も心も疲れ果てて、あらがう気力も失せたのだ。
紋三は殆ど夫人を抱き上げる様にして、堤を北へ北へと走った。行くに従って人家がまばらになり、夕暗は一層色濃く迫って来た。幾町走ったであろうか、ふと見れば、堤の右手に当って真暗に茂った深い森があった。
紋三の足は二人分の重味の為にもういうことを聞かなくなっていた。息切れがして胸がはじけ相だった。丁度その時休み場所には屈強の森が見つかった。彼は倒れ込む様にその中へ入って行った。殆ど気を失った夫人の身体を大樹の蔭の草の上に寝かせて置いて、堤に引返すと、彼は川の所まで這おりて、汚い水をすくって飲んだ。そうして少しばかり咽喉が楽になると、今度はハンカチに水を含ませてそれを持って森の中へ入って行った。
百合枝は元のままの姿勢でそこに仰臥していた。顔だけがクッキリと浮び、淫がわしくとりみだした風情は、薄暗の中に溶け込んで、夢の様な美しさを醸し出した。
紋三は濡れたハンカチを片手にボンヤリとその美しい姿を眺めた。昨日までは愛すればこそ、一種の恐れをさえ抱いていたこの人と、今駈落をしているのだと思うと、悲壮な様な、甘い様な、名状出来ない感じで胸が痛くなった。
彼はそこに膝をついて、百合枝の首を抱き上げると、彼女の脣へ、濡れたハンカチの代りに、いきなり自分の脣を持って行った。そして、彼がまだ小さい子供だった時分、隣に眠っていた従妹にした様に、彼女の接吻を盗むのだった。
「アラ、私どうしたのでしょう」
やがて、接吻の雨の下から、百合枝の脣がいった。
彼の余りの激情が彼女の眠りをさましたのか、それとも彼女は凡てを知っていて、態と今気のついた体を装っているのか、紋三は疑わないではいられなかった。それ程百合枝のさめ方は不自然で、それにさめたあとでも、彼女の首をまいた紋三の腕を拒もうともしないのが変だった。満更気のせいばかりでないと思うと、紋三は目の中が熱くなった。
「どうです、歩けますか」彼はさっきのハンカチを百合枝の口に当てがって「もう少しの我慢です。この辺を右に折れて行けば、曳舟の停車場があるはずです。そこから汽車にのりましょう。そしてどっか遠いところへ行きましょう」
「イエ、もう駄目ですわ。逃げたって駄目ですわ。あいつがもうすっかり白状してしまったに違いないのですもの」
「何をいうのです。だから逃げるんじゃありませんか。それともあなたが、とても逃げおおせないと思うのだったら」彼は殉情に目を光らせて、芝居のせりふめいた声を出した。「僕は命なんかちっとも惜くないのです。あなたと一緒に死ぬんだったら、命なんかちっとも惜かないのです。僕を一緒に死なせて下さいますか」
「マア、あなたは……どうして死ぬことなんかおっしゃるのです」
「だって、あなたは絞首台が怖くないのですか。無論僕だって逃げられるだけは逃げた方がいいと思うのだけれど、でもいよいよ逃げられなくなった時は、死ぬ外ないじゃありませんか」
「それはそうですけど。……」
百合枝はそういったまま、暗の中に坐って、長い間黙っていた。紋三も彼女の一方の手を握り締て物をいわなかった。
「あなた、どこまでも私の味方になって下さるわね」
「どうしてそんなこと聞くのです。分りませんか」
「分ってますわ。でも、私が今まで通り山野の貞淑な妻であっても」
「エエ」
「どんなことがあっても?」
「誓います」
「じゃいいますが、三千子を殺したのは私ではないのです。外に下手人がいるのです」
「エ、それは一体だれです」
紋三はびっくりして尋ねた。
「山野です。私の夫の山野です。ですから、私は一刻も早く家に帰って、あの人を逃さなければなりません」
「だって、山野さんは三千子さんの実の親じゃありませんか。そんな馬鹿なことがあるもんですか。よし又そうとした所で、逃すなんて、あの大病人をどうしようというのです。それに、お邸には今頃はもう警察の手が廻っているに相違ないのですよ」
「アア、やっぱり駄目ですわね。でもひょっとしてあの不具者がうまく逃げてくれたら、そうすれば秘密がばれないで済むかも知れないのです」
「あいつですか。あいつが秘密の鍵を握っているのですか。それで、あなたはあんな奴の命令に従っていたのですね。御主人の罪を隠したいばかりに」
「その外に私に出来ることはなかったのです」百合枝は涙声になった。「そのことが分った時から、私は山野の家名と主人の安全のために、命を捨てても尽さなければならないと決心したのです。それが私のなくなったお母さまの教えなのです」
「…………」紋三はボンヤリして相手の激情を眺めていた。
「あなたは主人と私との関係をよく御存じないでしょうが、私の家にとっては山野家は大切な恩人なのです。私がひどく年の違う主人にとついだのも、主人のために犠牲になる決心をしたのも、皆私のなくなった両親の志をついだのです。私の気性としてそうしないではいられなかったのです」
「ですが、それにしても僕には分らないことがあります」紋三はやっと気を取り直していった。「あなたは焼き捨てたと思っているでしょうが、あなたの受取った変な手紙が明智さんの手に入ったのです。例の不具者があなたをO町の家へ呼び出す為に書いた手紙です。それには確か、御依頼の三千子さんの死体を埋めた、このことはだれそれと私と蕗屋の三人しか知らないという意味が書いてありました。一人の名前だけ焼けていて分らないのですが、それが手紙の受取人のあなたでなくて誰でしょう。その外色々な証拠があるのです。例えばあの日に三千子さんが持って出たというショールだとか手提だとかがあなたの部屋の押入に隠してあったじゃありませんか。それだけじゃない。三千子さんの頭を破ったと想像される石膏像まであなたの部屋にあったのだ。僕があなたを疑ったのは無理じゃないでしょう」
紋三は照れ隠しに、様々の証拠を並べ立てた。
「マア、そんなものが私の部屋にあったなんて、ちっとも知りません。明智さんが見つけなすったのですか」
「イイエ、小間使のお雪です。あれが明智さんに買収されていたのですよ」
美しい夢を台なしにされた紋三は、自棄気味になっていた。
「マア、そうですの。でもそれはちっとも知りませんわ。さっきおっしゃった手紙なら覚えがありますけれど、あれまで明智さんの手に這入っているのですか。……あの手紙なんです。私が初めて本当の下手人を知ったのは。不具者が山野の頼みで死骸の始末をしたことを打明けて、私を脅迫して来たのです。私と主人の関係や私の気性をよく知っているものだから、その弱味につけ込んで、私を思う様にしようと企らんだのです。あの手紙は一番最初明智さんがいらしったあのあとで受取ったのですよ。あの時まで三千子が死んだことさえ半信半疑でした。でなければ、私が三千子をどうかしたのだったら、何で明智さんなんかお願いするものですか」
紋三は余りにことが意外なのと、飛んだ思い違いをして、夫人と一緒に死のうとまでいい出した恥かしさ、この納まりをどうつけていいのだか、見当がつかなくなってしまった。
すっかり秘密を打開けてしまった百合枝は、もう何も彼もおしまいだという態で、がっかりうなだれていたし、美しい夢の国から現実界へつき落された紋三は馬鹿馬鹿しさと恥かしさに、咄嗟にいうべき言葉もなくぼんやりそこに坐っていた。長い間気まずい沈黙が続いた。
「では、あの手紙に書いてあった三人の内の不明な一人は」やっとしてから、紋三はいやに事務的な調子に変って尋ねた。「山野さんだったのですか。つまりあの不具者が山野さんの頼みを引受けて死体を埋めた訳ですね」
「そうですの」夫人は答えは答えたけれど、もうどうでもいいという様な、なげやりな調子だった。
「それがうそでないことは、丁度三千子がいなくなってから、主人は店のお金を随分持ちだしているのです。支配人が心配して私に話してくれたのですが、主人にそんな大金の入用があったとは思えないのです。私はあの手紙を見ると、すぐそこへ気がつきましたの。そしてそのお金はもしかしたら、半分は運転手にやったのかも知れません。主人があの男を態々大阪まで追っかけて行ったのは、三千子を誘拐したのを、取戻すためだといってましたけれど、あとでは秘密を口外させないために、お金をやりにいったのだと分りました。でも私は主人を疑う様な素振は、これっぽっちも見せないでいました。ああして病気までしているのを見ると、気の毒で仕様がなかったのです」
「蕗屋がどうかして秘密を知ったのですね」
「エエ、はっきりしたことはいえないんだけれど、あのゴミ車を挽いたのが蕗屋じゃなかったかと思うのです。だって、まさか山野自身がそんな真似はしまいし、養源寺さんは、あの不具者でしょう。外に三千子の死骸を搬ぶ様な人がありませんもの。しかし、そんなことを今更詮索して見たって始まらないわ。小林さん、あたしどうすればいいんでしょうね」
「兎も角御邸へ帰って見ようじゃありませんか。まさかさっきの様に僕と駈落して下さいとはいえませんからね」紋三は赫くなってぎこちなく冗談みたいなことをいった。「うまく彼奴が逃げてくれるか、一層屋根から落ちて死にでもしたら、又善後策のほどこし様もありましょうが、しかしこうなったらどっちみち覚悟しなきゃなりますまい。この先とも僕はあなたの味方になって出来るだけのことはやって見ますよ。それはお許し下さるでしょう」
「私こそお願いしますわ」
夫人が他意なく縋ってくるのを見ると、愚なる紋三は、又少しうれしくなった。
やがて二人は森を出て堤の上を山野家の方へ歩いていた。
「ですが、分らないのは山野さんの心持です。全体どうして、実の娘さんを殺す気になったのでしょう」
「山野は商売人にも似合わない堅苦しい男ですの、そしてカッとなると、随分思い切ったことをやるたちですから、多分三千子のふしだらを感づいて折檻でもするつもりだったのがつい激した余り、あんなことになったのではないかと思いますわ。それにはね、また色々な事情がありますの、召使たちにも隠してあったのですが、あの逃げて行った小間使の小松というのは、本当は主人の隠し子なんですの。堅い人ですけれど若い時分にはやっぱりしくじりがあったのですわ。それを普通なら娘として家へ入れる所を、主人が今いう頑固者だものですから、娘のしつけや、親戚の手前不都合だといって、それは蔭になって目はかけていましたけれど、表面は小間使ということにしていましたの」
「それじゃ、三千子さんと小松とは姉妹なんですね」
紋三は非常に意外な気がした。
「そうですのよ。姉妹でいて、二人はまるで気質が違うのです。三千子さんは大のおてんば、小松の方は商売人の腹に出来た子に似合わない、それはそれはよく出来た、おとなしい娘です」
もうすっかり暗くなった堤の上を、二人はとぼとぼと歩いた。一つは身も心も疲れていたせいもあるが、一つは早く帰って真実に直面するのが恐しく、自然歩みが鈍くなったのだ。そして、何か喋べらなくては淋しくてたまらなかった。
「その実の娘同志が」夫人は語り続けた。「一人の男を、相手もあろうに運転手なんかを、争っているのを知れば、ああした山野のことですから、カッとせずにはいられなかったのでしょう。その心持はよく察しられますわ。地獄の様な気がしたに違いありません。そのふしだらな娘の一人が、やっぱり御自分のふしだらが生んだ罪の子だと思うと、たまらなかったのですわ。考えて見ると山野は本当に気の毒なんです」
「なぜ自首して了われなかったのでしょうね。そんな過失だったら、大した罪にもならないでしょうに」
「だって、人一人殺したんですもの、仮令罪は軽くても、世間に顔向けが出来ませんわ。人一倍世間を気にする主人が、何とかして隠してしまおうとしたのは、ちっとも無理ではないのです。山野自身の安全だけでなくて、家名という様なものを心配したのですわ。なぜといって、もしこのことがパッとすれば、山野のふしだらから、娘達の醜い争いがすっかり知れ渡ってしまうのですから」
「三千子さんだけを折檻なすったのは、どういう訳でしょうか」
「それは公然の娘ですもの、主人はそんなことまで、几帳面に考える様なたちですの。それに、主人の愛が、どっちかといえば、不幸な小松の方へ傾いていたことも考えて見なければなりません。おてんば娘は主人の気風に合わないのですわ」
「奥さん、一寸黙ってごらんなさい」突然紋三が夫人を制した。「うしろからだれかついてくる奴があります」
話をやめて、耳をすますと、確に人の気勢がした。それが尾行者に相違ないことは、こちらが足を止めると、向うもピッタリと立止まってしまうのだ。暗をすかして見ると、すぐ側の木立の蔭に何者かが忍んでいた。
「誰です。私達に御用でもおありなんですか」
紋三が虚勢を張って大きな声を出した。
「小林さん、私ですよ」
すると、その男はノコノコ物蔭から出て、心安い調子でいうのだ。
「とうとう見つかっちゃった。O町から尾けていたんだけれども、あなた方すっかり興奮して了って、ちょっとも気がつきませんでしたね。私ですか、明智さんの御手伝いをしている平田ってものです。一二度菊水館でお見かけしたんだけれど、御存じありますまいね」
それを聞くと紋三は重ね重ねの醜態にカッとなった。さっきの森の中のことまで、この男の口から明智に伝わるのかと思うと、いい様のない浅間しさに、いきなり相手に掴みかかりたい気持だった。
「何だってあとを尾けたんです」
「ごめん下さい。明智さんのいいつけなんです。私はあのO町の家の前に、あなた方の出ていらっしゃるのを、待っている役目だったのです」
「すると、僕等が逃げ出すことが、ちゃんと分っていたのですか」
「そうの様です。あなた方のあとを尾けて、もしお邸へお入りになればいいけれど、そうでなかったら、どこまでも尾行して、お二人の話なんかも詳しく聴取れということでした。そして、もしお二人の身に危い様なことが起ったら、お救い申せと……」
「じゃなんだね。明智さんはあの家に奥さんのいることを知っていて、態と僕をつれ込んだ訳だね。そして、二人が逃げ出して、色々なことを話し合うのを立聞きさせようという手はずだったのだね」
「万一の場合なんですよ、万一そんなことが起ったら、こうしろという命令だったのですよ。何でも奥さんが飛んだ誤解をしていらっしゃるから、もしものことがあってはいけないということでした」
その夜人形師安川国松の家に、不思議な会合が催された。広い仕事場の板敷に、あり合せの腰かけが並べられ、そこに田村検事、刑事部長を始め警察の人々が腰をかけ、その間にうちしおれた小林紋三や、キョトキョトと落ちつかぬ安川人形師の姿も混っていた。山野夫人は心身過労の為に半病人になって邸に残っていたし、大怪我をした一寸法師は、近所の病院に担ぎ込まれて、生死の境にあったので、この会合には加わっていない。
仕事場の一方には出来上った様々の人形が不思議な群像をなし、その傍に未完成の頭、腕、足などが、まるで人食鬼の住家の様にゴロゴロと転がっていた。そして、人形共と見さかいのつかぬ明智の支那服姿がその前に立って、何かしきりに説明していた。彼の傍には、小さな台があり、台の上にはいつか彼が紋三に見せた証拠の品々が並んでいるのだ。
彼はいよいよ本当の犯人を引渡すからというので、友達の間柄の田村検事や、刑事部長などを、そこへ呼び集めたのであった。丁度畸形児捕物から引続いてのことだったし、外にも重大な理由があって、人形師の仕事場が説明の場所に選ばれた。明智にしては、これが当日のもっとも重要なプログラムなのだ。
彼はこれまでの経過を一応説明してしまうと、いよいよ本題に入って行った。
「つまり三千子殺しの犯人として疑うべき人物が五人あった。第一は養源寺の和尚即ち例の不具者ですが、これはもっとも兇悪無慙の気違いには相違ないけれど、彼が三千子の手足を公衆の前にさらしたこととか、山野夫人を脅迫したことなどから考えて、直接の犯人でないことは明白です。第二は山野夫人です。この人は三千子の継母である上に、ここにあるショールその他の三千子の持物が、彼女の部屋の押入に隠されていたり、不具者の脅迫に応じたりして、もっとも深い疑いをかけられていましたけれど、私はあとでお話する別の人物を疑っていたために、小林君の様に性急に断定することをしなかった訳です。それに唯今では、既に夫人があることを告白してしまいましたので、彼女の無実は明白になりました。第三は三千子に取っては恋敵の小間使小松です。この女は事件のあった日から病気と称して一間にとじこもり、数日後には家出をして、今もって行方が分らないという様なことで、警察でも深くお疑いになっている様ですが、私にはある理由から彼女の所在が分っております。そして、決して犯人ではないということも。第四は今未決監に放り込まれている、可哀相な北島春雄ですが、この男が犯人でないことは最初から分っております。それは当日外部から忍び込んだ形跡の絶無だったことの外に、彼が犯人とすれば、兇行に石膏像なんかを使用するはずもなく、ピアノやゴミ箱の様な手数のかかる方法によって死体を隠匿する理由もない訳ですから。第五は運転手の蕗屋が、事件の翌日国へ帰ったためにやや疑われておりますが、彼は三千子の恋人で、彼の方で三千子を嫌っていた様子もなく、一寸殺人の動機がありません。のみならず、私はこの男の所在をも突止め、彼が犯人でないことを確めることが出来たのです。つまり五人の嫌疑者の内には一人も真犯人のいないことが分ったのであります」
明智は例によって、思わせぶりな物のいい方をした。これが彼の探偵生活での、いわば唯一の楽しみなのだ。併しそれが聴手の好奇心を刺戟した効果は大きかった。彼等は煙草を吸うことさえ忘れて、小学生の様に明智の滑らかに動く脣ばかり見つめていた。
「ところが、ここにもう一人、第六の嫌疑者が現れました。それはたった今、私の部下が山野夫人と小林君のあとをつけて、夫人の告白を聞いて確めることが出来たのです」明智は隅田堤での一部始終をかいつまんで話した、「これは山野夫人の不思議な行動から、私も早く気づいてはいたのです。しかし貞淑な夫人の数々の人知れぬ心遣いは、夫人には誠にお気の毒な訳ですが、全く無駄であったのです。山野氏は決して実子殺しの罪人ではありません」
驚くべきは、明智はそうして悉くの嫌疑者を、片っぱしから否定してしまった。
「併し、夫人が山野氏が過って実子を殺したものと信じたのは、決して無理ではなかったのです」明智が続けた。「夫と妻の間にそんな誤解が生じるというのは、一寸考えると変な様ですが、山野氏が人一倍厳格な性質であること、夫人との間柄が一種特別の、例えば昔流の主従の様な関係にあったこと、それから、今度の事件に対する山野氏の不思議な立場が、二人の間に妙な疎隔を生じたことなども、この誤解の原因であったに相違ありません。凡ての事情が偶然にも山野氏を指さしている様に見えたのです。第一事件の当夜山野氏は洋館の方で夜更しをしました。運転手の蕗屋を追かけて行って多額の金円を与えました。そこから帰ると神経性の発熱に襲われ、事件が発展するにつれて彼の病気は重くなって行きました。家人を遠ざけて口も利かない日が続きました。それから、不具者が夫人に送った脅迫状の中には、山野氏の名前が記されていたのです」
彼は台の上の例の焼残りの手紙を取って、それを手に入れた径路、文面等を説明した。
聞手は凡て意外な顔色であった。たった一人、安川国松だけが、明智の話も耳に入らずブルブルふるえていた。
紋三も最初は意外な感じがした。いよいよ間違いないと思っていた山野氏まで犯人でないとすると、最早疑うべき何人も残っていないのだ。一体全体明智は何を考えているのか。彼は今夜真犯人を引渡すと公言している。ではその曲者はこの安川の家にいるのであろうか。まさかあの人形師がその犯人ではあるまいな。だが、そんな風に色々と考えている内、ふとある驚くべき考えが、彼の頭をかすめた。彼は驚愕と喜悦の為に、顔が真赤になった。
「あの写真だ。明智があの写真を見て、つまらないおしゃべりをした。あれだ。あれをもっとよく考えて見ればよかったのだ」
それは曾て明智の机の上にあり、今はそこの台にのせてある、山野の家族一同の写真だった。明智がなぜあの写真を意味ありげに取扱ったか、その訳が今こそ分ったのだ。それにしても、これはまあ、何という驚くべき事実であろう。
「そこで、嫌疑者が一人もなくなった訳ですが、殺人行為があった以上、犯人のないはずはありません」明智の説明は続いた。「犯人は確にあったのです。ただそれが余りに意想外な犯人であるために、何人も、山野夫人すらも、気がつかなかったのです。私は御約束通り、今夜その犯人を御引渡し致します。ですが、その前に、私が真犯人を発見するに至った径路をかいつまんで御話して置き度いと思うのです。警察の方々には多少御参考にもなろうかと思いますので」
又しても明智の思わせぶりであった。田村検事はもどかしさに、ガタリと足を組み直した。
「明智君、いやに気を持たせるじゃないか。まずその犯人を明かしてからにし給え」
「さては」明智は愉快相にニコニコして、「君にもまだ見当がつかないと見えるね。併し、まあ順序よく話させてくれ給え」
「どうも、君の話は小説的でいけない。なるべく簡単に」
磊落な田村氏は笑いながら友人の揶揄に報いた。
「私が最初、この事件にある不調和を見出したのは、この化粧品のクリームの瓶からです」明智は台の上の白いポンピアン・クリームの壺を取り上げた。「音楽家が不協和音に敏感な様に探偵は事実の不調和に敏感であることが必要かも知れません。往々にして些細な不調和の発見が、推理の出発点になるものです。これは三千子の化粧台から持って来たのですが、御覧の通り外の瓶には皆指紋があるのに、このクリームだけはふき取った様に、何の跡も見えません。一番油じみ易いクリームの瓶にです。ところが、外側は注意深くふき取ったにも拘らず、千慮の一失でしょうか、中のクリームの表面に、実にハッキリと指紋が残っている。そして、その指紋は外の瓶のや、例の切断された腕の指紋とは、全く別のものなのです。
これは右の人さし指の指紋です。こちらの水白粉の同じ指のと比較しますと、不思議によく似てはいますけれど、ですから肉眼で見たのでは区別がつかぬ程ですが、レンズで見ればまるで別人の指紋であることが分ります。三千子という人は非常なおしゃれで、化粧台には、この外にまだ沢山の化粧品があったのですが、妙なのは、それには少しも指紋がついていない。一度でも使用した化粧品の瓶に指紋がついていないというのは、一寸考えられないことです。使用するたびに瓶をふく訳でもありますまい。これは何か為にする所があって、態と指紋をふきとったのではないでしょうか。すると、ここにある分だけ拭取ってなかったのはなぜでありましょう。それはこの分に限ってそうしてはならなかったからです。つまりこれだけは三千子の持物ではないのです。巧に用意された偽証なのです」
紋三は何だかうれしい様な気持だった。彼の想像の当っていたことが、段々明かになって行くのだ。
「その証拠には、この指紋の残っている化粧品は、贅沢屋の三千子の持物としては、少し地味な好みですし、この過酸化水素キュカンバーだとか、過酸化水素クリームなどは、どちらかといえば油性の人に適当なものですが、三千子は反対に青白いすさんだ皮膚だったということですから、全く使用しなかったとは断言出来ませんけれど、少しふさわしくない感じです。それから色白粉ですが、青白い人は薔薇色のを用いるのが普通であるにも拘らず、ここにある水白粉は赤ら顔に適当な緑色のものです。又花つばき香油なんていうものは、洋髪には余り使いません。つまり、どちらから観察しても、これらの化粧品は三千子さんの常用したものではない。どこか外の所から持って来て三千子さんの部屋へ置いたものに相違ないのです」
明智の説明は段々細い点に入って行く。
「化粧品が準備された偽証であることは、この吸取紙によっても分ります。これもやっぱり偽証の一つなのです」彼は桃色の吸取紙を示した。それの表面には拇指のインキの指紋がハッキリと現れていた。「これが三千子の書きもの机の真中にのせてあった。態と目につく場所へ置いたことは一見して分るのです。それから、ここに文字を吸取った跡がかすかに残っている。一寸見たのでは、ポツポツと点線になっていて読めませんが、鉛筆で跡をつけて見るとハッキリした文字が現れて来る。だが、文句に注意すべき点はない。ただ女らしい文章の一部分が現れているに過ぎません。ところで、ここに別に三千子の筆蹟があります。これと吸取紙の筆蹟と比べて見ますと、両方とも若い女らしい手で、よく似ていますが、ただこうして見たのでは本当のことが分らない。吸取紙の方のは左文字ですからね」
明智はそこに用意してあった懐中鏡を取ると、吸取紙の上にかざして、聞手の方に見える様にした。田村検事などは、すぐそばまで顔を持って行って、感心した様に二つの筆蹟を見比べるのであった。
「こうして右文字に直して見ると全く別人の筆蹟です。つまり、この吸取紙は三千子のものではないのです」
「すると何だね」田村検事が驚いていった。「エート、一寸法師が持歩いた腕なんかは、三千子のものでないことになるね。それらの指紋がうそだとすると」
「そうだよ。三千子のものではなかったのだよ」
「そんなことをいえば、この事件は根本からくつがえって来る訳だが」
「くつがえって来る。出発点から間違っている」
明智は平気で答えた。田村氏の顔色は漸く真剣味を帯びて来た。刑事部長も一膝前にのり出した。
「では、明智君、三千子は死んでいないというのか」
「そうだ。三千子は死んではいないのだ」
「じゃあ、君は……」
田村検事は、ある感情の交錯のために顔を青くして、明智をにらみつけた。
「そうだ」明智は検事の表情を読む様にして「その通り。君の考えは当っている。三千子は被害者ではないのだ」
「被害者ではなくて……」
「加害者なのだ。三千子こそ犯人なのだ」
「すると、被害者はどこにいる。三千子は一体だれを殺したのだ」
「待ち給え、大体見当はついているのだが」明智は検事を制して置いて、隅の方に小さくなっている人形師をさし招いた。「安川さん。つかぬことを聞く様だが、ここに並んでいる人形は皆註文の品だろうね」
「ヘイ、左様で」人形師は脣をなめなめ答えた。「皆花屋敷へ入れますんで、生人形でございます」
「この奥の方に並んでいるキューピー人形は、随分大きなものだが、やっぱり花屋敷へ飾るのかね」
「ヘイ、左様で」人形師はもう目に見える程震え出していた。
「だが、このキューピー人形は、昨日まで店の間に飾ってあった様だが、どうして外の人形と混ぜてしまったのだ」
「…………」人形師の挙動が凡てを語っていた。
明智はやにわに、邪魔になる生人形共を引き倒して、その奥のキューピー人形に近づいた。そして、その辺に落ちていたハンマーを拾うと、人形のおどけた顔面を目がけて、烈しい一撃を加えた。人形の顔がくずれ、鉋屑と土の塊がパッと散った。
「これが気の毒な被害者です」
明智が指で土をかきのけて行くと、その奥から、黒髪を乱した藍色の死人の顔が現れ、プンと異臭が鼻をついた。
「申すまでもなく、これは小間使の小松です。可哀相に両手両足を半分に切られて、丁度……そうです、丁度一寸法師そのままの姿で、この、ニコニコした福の神の体内に、ぬりつぶされていたのです。恐しい不具者の呪いです。だが……」
明智はふと口を噤んだ。その時丁度死人の咽喉が現れ、そこの皮膚に不思議な黒痣が見えた。明かに指でつかんだ痕なのだ。
「これはきっと、頭の傷だけでは死に切らなかったので、指で縊り殺したのです」
異様な沈黙が来た。物慣れた警察の人々も、この前代未聞の残虐を正視するに堪えなかった。皆息をのんだ体で、部屋全体が一場の陰惨な活人画だった。赤茶けた電燈の光が、人々の半面を照らして、床や壁に、物の怪の様な影を投げていた。生きた人間共は、死んだ様に動かず、却て生なき人形共が、顔見合せてクスクスと笑っている様に見えた。
「すると、三千子が恋敵の小松をこんな目に逢せた訳だね」やっとしてから、田村氏が溜息と共にいった。
「そうだよ」流石の明智もいくらか青ざめていた。「犯罪の裏には恋だ。三千子と小松との蕗屋に対する恋、一寸法師の山野夫人に対する恋、この事件は凡て恋から出発している」
「だが、この人形の中へ塗りこめたのは」
「それは三千子じゃない。やっぱり一寸法師だ。そして、この安川という男も共犯者だ。僕が人形師を怪しいとにらんだのは、一寸法師が昨夜ここへ入るのを見届けたからでもあるが、もう一つは、一寸法師が普通の人間に化けていた、その継足があたり前の義足ではなくて、木でこしらえた人形の足だった。特別の考案をこらして、折れ曲りの所なんか実に具合よく出来ている。彼奴が、しょっちゅう靴をはいていたのはそのためなのだよ。そんな物を作るのは先ず人形師より外にないからね。つまり、この安川と一寸法師とは十年来の腐れ縁に相違ないのだ」
「だが、明智君、どうも変だね」田村氏はふと何事かに気づいて、明智の説明を遮った。「僕の頭がどうかしているのかな。そんなことは不可能に思われるのだが。小松が被害者とするとだね、例の一寸法師の持ち歩いた腕なんかは誰のものだろう。小松が家出をしたのはつい二三日前で、百貨店事件の時分にはまだ山野家にいたではないか。そこに時間的な不合理がある様に思うのだが」
「だが、事件のあった翌日から、小松は病気になった。そして人に顔を見られることを恐れる様な所があった。僕が彼女の病床を見舞った時にも、枕に顔をうずめて、僕の方を正視出来なかった。そればかりではない。彼女の不用意に投出された指には、マニキュアが施してあったのだよ。まるで令嬢の指の様に」
「では若しや、アアそんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。……」
「僕も最初はまさかと思っていた。だがこれを見給え。この写真に気づいた時から僕の意見は確定したのだ」
明智はそういって、台の上から山野家一同の撮した写真を取って、田村氏や刑事部長の方へさし出した。それには、三千子の顔に妙ないたずらがしてあった。彼女の眉を、すっかり胡粉で塗りつぶし、その下に眼鏡の枠が書いてあった。
それを見ると田村氏と刑事部長は顔を見合せて感嘆した様に「似ている」と呟やいた。
「似ているでしょう。三千子の眉をとって、眼鏡をかけさせ、技巧たっぷりの表情を、もっと静にすれば、小松と見分けがつきません。それも道理です。小松というのは実は山野氏の隠し子で、三千子とは姉妹なのだから。ただ、一方はおとなしやかな無表情、一方は技巧たっぷりのおてんば娘なのと、それに髪の形だとか眼鏡や眉の相違があるので、一寸気がつかないだけです。分りますか。つまり三千子はあの晩、恋敵の異母妹といい争った末、激情のあまり、ついあんなことをしてしまった。石膏像をなげつけて過って相手を殺してしまったのです。そして、咄嗟の場合、小松に化けるという妙案を思いついた訳です」
「それはどういう意味だね。小間使に化けて見たところで、罪が消える訳でもあるまいが」
「さっきもお話した北島春雄という命知らずがいたのだ。丁度その前日彼は牢を出て三千子に不気味な予告の葉書を出している。失恋に目のくらんだ狂人だ。殺されるかも知れない。三千子はその日も、この命知らずのことで頭が一杯になっていた。丁度その時あの変事が起ったものだから、一つは北島の復讐をのがれるために、一つは小松殺しの嫌疑を避けるために、又一つには、山野夫人に、継子殺しの嫌疑をかけるために、どちらから考えても、都合のよい変装という妙案を思いついたのだ。三千子が探偵小説の愛読者だったことを考え合せると、彼女の心持なり遣り口なりがよく分るのだよ。さっきもいった様に三千子の書棚は、内外の探偵小説で殆ど埋まっていたのだからね。死体をピアノに隠したのもゴミ箱のトリックも夫人の部屋へ偽証を作ったのも、皆彼女の智恵なんだ。例のゴミ車をひいた衛生夫は、情夫の蕗屋が化けたのだ」
「それを家内中が知らなかったというのは、おかしいね」
「いや、たった一人知っていた人がある。それは三千子の父親の山野氏だ。丁度事件の起った時分に洋館にいたのだからね。山野氏は家名を重んずる厳格な人だけに、却て三千子の計画に同意した。そして、三千子と一緒になって凡てを秘密の内に葬り去ろうとした。小松に化けた三千子に金を与えて家出させたのも、養源寺の和尚や蕗屋を買収したのも山野氏だった。山野氏のそんなやり方が、夫人の疑いを招くことになり、結局事件を面倒にしてしまった形なんだ」
「すると、例の不具者は、小松の死体を埋ることを引受けて、その立場を利用して山野氏からは金をしぼり、一方夫人を脅迫していた訳だね」
「そうだ。山野氏にしては、あの坊主がまさかあんな悪党だとは知らないからね。なぜか非常に心易い仲だった。不具者奴うまく取入っていたのだろう。それにこれまでずっと援助を与えていた関係があるので、事情をあかして頼めば、万々裏切る様なことはあるまいと思ったのだ」
「実に複雑な事件だね。だが、君の説明で大体の筋道は分った。それでは、約束通り犯人を引渡してくれるだろうね。一体三千子はどこに隠れているのだ」
刑事部長は始めて彼の大切な役目に気づいた様に、厳格な調子でいった。
「引渡すことは引渡すがね」明智は沈んだ調子で答えた。「三千子さんも気の毒なんだ。ふしだらな点は確に彼女が悪いのだけれど、それも複雑な家庭に育った一人娘であることを考えると、こんなことになったのも彼女ばかりの罪ではないのだ。それに、彼女は今非常に前非を悔いている。人を殺したといっても過失に過ぎないのだし、田村君、この辺の事情をよく含んで置いてくれるだろうね」
「分った分った。なるべく君の希望に添うことにしよう。兎も角早く犯人の在家を教えてくれ給え」
「なに、三千子さんはここの家にいるのだよ」
明智が合図をすると、住居の方の障子が開いて、そこから明智の部下と小間使姿の三千子と、そして、意外なことには運転手の蕗屋までが一緒に立現れた。三千子はいたましく泣きぬれて、目を上げる力もなかった。
「蕗屋君も最初からこの家にいたのです」人々の不審顔を見て取って明智が説明した。「これもやっぱり山野氏が養源寺の和尚を過信した結果なんですが、死体運搬をした蕗屋君は、やっぱり連類に相違ないので、和尚が勧めるままに、かくまい方を託したのです。一寸法師にすれば何か又悪だくみでもあったのでしょう。この家の裏手の納舎を急ごしらえの隠れ家にして、三度の食事もそこへ運ばせることにしていました。そして、蕗屋はそこで、三千子の小松が家出して来るのを待ったのです。殺されたのは三千子だったということがハッキリ分れば、それで三千子の化けた小松の用事は済むのですから。山野氏は適当な時機を見はからって、三千子の小松を家出させ、ここで蕗屋と落ち合うことにしました。三千子が山野氏の令嬢でなくて、小間使ということにして置けば、運転手と一緒になった所で、さして不体裁ではないのです。山野氏は、そんなことまで先から先へと考えていたのかも知れませんね」
そうして明智の説明が一段落つくと、三千子、蕗屋、安川国松の三人は、兎も角近所の原庭署へ連行されることになった。しおらしくすすり泣く三千子、青ざめた蕗屋、ブルブル震えている安川、一瞬間部屋の空気はうち湿って見えた。三人の刑事が、彼等をひっ立てる様にして、あとに随った。そして、彼等が今仕事場の入口を出ようとした時だった。
「三千子さん、一寸」
じっとキューピー人形を眺めていた明智が、ふと何かに気づいた調子で、三千子を呼び止めた。
「あなたは、この死人の首の指のあとに覚えがありますか。あなたは小松の首を絞めたのですか」
三千子は一寸の間躊躇していたが、やがて不審相な様子で答えた。
「いいえ。私、そんなこと致しません」
「本当に?」
「エエ」
明智はそれを聞くとにわかに快活になった。彼は例によって、ニコニコしながら、盛んに長い頭髪をかき廻した。
「田村君、一寸待ち給え。ひょっとしたら、真犯人は三千子さんではないかも知れんよ」
「なんだって?」検事はあきれて明智の顔を眺めた。「君はたった今、三千子さんが犯人だと断言したじゃないか」
「いや、それが少々間違っていたかも知れないのだ」
「間違っていたって?」
「この被害者の首の指の痕だね。三千子さんの指にしては、黯痣が大き過ぎる様な気がするのだ。今そこへ気がついたのだ。それに三千子さんは首を絞めた覚えがないといっている」
「すると?」
「若しや、これは……」
丁度その時、明智の部下の斎藤が、表の方から慌だしく駈け込んで来た。
「明智さん、一寸」
明智は彼を隅の方へつれて行って、ひそひそと何かささやき交した。
「僕の想像は間違っていなかった」明智は欣々として人々の方をふり向いた。「やっぱり真犯人は外にあったのです。三千子さんは小松を殺した訳ではないのです」
「それは一体何者だ」
田村氏と刑事部長が殆ど同時に叫んだ。
「一寸法師です。今この斎藤君がもたらした新事実を報告しましょう。一寸法師は病院のベッドで息を引取りました。彼はその今わの際にあらゆる彼の罪を告白した相です。その数々の罪がどんなに残虐を極めていたかは、いずれ御話する機会もあるでしょう。今はこの事件に関係した部分だけを申上げます。彼はあの朝ゴミにまみれた小松の死体を蕗屋君から受取ったのですが、その日の夜になって死体を人目につかぬ場所へ隠そうとして、ゴミの中から抱き上げた時、偶然にも小松が息をふき返したのです。彼女は全く死に切ってはいなかったのでしょう。不具者は一時は驚きましたけれど、次の瞬間には彼の持前の残虐性が頭をもたげました。彼は凡ての満足な人間を呪っていたのです。それに、小松が今蘇っては、山野氏から金を引出すことも出来ず、夫人を脅迫する手段もない。そこで彼は折角生返った娘を再び絞め殺したというのです。そして腕や足丈けを方々へさらしものにして、山野氏と夫人とを別々の意味で怖がらせた。それは一つは畸形児の戦慄すべき犯罪露出慾をも満足させました。だが顔丈けはさらしものに出来ない。それをすれば夫人が真相を悟ってしまう。そこで顔と胴体の隠し場所を探して、キューピイ人形といううまいものを見つけたのです。死に際の告白ですから、まさか嘘ではありますまい」
紋三はその時の異常な光景を、長い間忘れることが出来なかった。明智は髪の毛をつかみながら仕事場の板敷をふみならして、あちらへ行ったりこちらへ行ったり、歩き廻る。三千子、蕗屋の両人は今までの泣き顔に、恥しげなほほ笑みを見せる。山野邸に人が走る。吉報を聞いて喜ばしさの余り、重病の山野氏が夫人を同伴してかけつける。
「なに、殺人罪ではないのですからね。それに若い娘さんのことだし、多分無罪になるかも知れませんよ」
田村検事も、肩の荷をおろしたという風で、ニコニコしながら、実業家山野氏を慰める。
それから、三千子、蕗屋、安川国松の三人は一先ず原庭署へつれて行かれたが、田村氏の言葉もあるので、誰も彼等の身の上を気づかうものはなかった。ただ安川人形師だけが周囲の喜びをよそに、うちしおれているのが余計あわれに見えた。
小林紋三は明智と連立って、人形師の家を出た。彼等は事件が円満に解決した満足で、自然多弁になっていた。タクシーの帳場までを歩きながら、色々と事件について語り合った。
「めでたし、めでたしですね。あなたのこれまで関係された事件でも、これ程都合よく運んだものは少いでしょうね」
紋三がお世辞めかしていった。
「都合よくね」明智は意味ありげな調子だった。「何も悔悟しているものに罪をきせることはないのだからね。死ぬ者貧乏だよ。それにあいつは希代の悪党なんだから」
「それはどういう意味でしょうか」
紋三は変な顔をして尋ねた。
「例えばだね、小松の絞め殺されていることが、キューピー人形を毀すまでもなく、前もって僕に分っていたのかも知れない。そして、悔悟した三千子さんを救う為に、死にかかっている一寸法師をくどき落して、うその告白をさせる……巧に仕組まれた一場のお芝居。という様なことは全く考えられないだろうか。分るかい。……罪の転嫁。……場合によっちゃ悪いことではない。殊に三千子さんの様な美しい存在をこの世からなくしない為にはね。あの人は君、全く悔悟しているのだよ」
素人探偵明智小五郎は、春のよい暗を大またに歩きながら、すがすがしい声でいった。
「一寸法師」は新聞連載の折、新聞社に活字がない為、漢字を仮名にしたり、当て字を使った個所が非常に多いのですが、それを一々元の漢字に直す程、文字から来る感じを重んずる種類の小説でありませんので、態とそのままにして置きました。一日分ずつ書いたのを纏めた為に、続き具合のおかしい所もありますが、それも直さないで置きました。(作者)
底本:「江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚」光文社文庫、光文社
2004(平成16)年8月20日初版1刷発行
底本の親本:「創作探偵小説集第七巻」春陽堂
1927(昭和2)年3月20日発行
初出:「東京朝日新聞」朝日新聞社
1926(大正15)年12月8日~1927(昭和2)年2月20日
「大阪朝日新聞」朝日新聞社
1926(大正15)年12月8日~1927(昭和2)年2月21日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「キューピー人形」と「キューピイ人形」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
※底本巻末の編者による註釈は省略しましたが、「安来節」「御園館」「吾妻橋」「中の郷」「千住町中組」「精養軒」「上海」「伯龍」「小梅町」「厩橋」「片町」「三囲」「仁王門」「瓢箪池」「合羽橋」「原庭署」「曳舟」「花屋敷」「浅草」「生人形」のルビは註釈より入力者が追加しました。
入力:nami
校正:まつもこ
2017年9月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。