メンデレーエフ
石原純



元素の週期律


 物質の元素には、たくさんの異なった種類がありますが、今ではその原子量の最も小さい水素から、それの最も大きいウランに至るまでの間に、全体で九十二の元素のあることが知られています。ところが、それらの元素を大体において原子量の順に並べてゆきますと、おもしろいことには、ある間隔をおいて互いに性質の似ている元素が繰返してあらわれて来るのです。

 もっともそのなかには、二、三の例外の元素があって、そこでは原子量の大いさの順をとりかえなくてはなりませんが、そのほかはすべて原子量の順にそうなってゆくので、つまりそれはある週期をもって同様の性質の元素が現れて来るということになりますから、この事を元素の週期律と名づけるのです。

 そこで、このようにして同様の性質をもつ元素を原子量の小さい方を上にして縦に並べてゆきますと、横向きには大体において原子量の増してゆく順に並ぶことになります。かような元素の表を、普通に週期表と呼んでいますが、ともかくこの事実は非常におもしろい、またいかにも目立った事がらなのであります。

 ところで、かような事実のあるということを始めて見つけ出したのは、ロシヤの物化学者ドミトリ・イヴァノヴィッチ・メンデレーエフという人でありまして、それは一八六九年のことでありますから、今からは七十余年以前に当るのです。しかも、このような週期律が見つけ出されたおかげで、その後に新しい元素を発見するのに大層都合がよくなったばかりでなく、ずっと近頃になっては、めいめいの元素の原子がどのような構造をもっているかということに対する理論を形づくってゆくのにも大いに役立ったことなどを考え合わせてゆきますと、これはまことに重要な発見であったとわなければなりません。つまりこの意味で、物化学を学び、また元素についてのいろいろな知識を得ようとするすべての人々にとって、メンデレーエフの名は忘れることのできないものなので、そこでここにも彼の一生について少しくお話しして見たいと思うのです。


メンデレーエフの生涯


 メンデレーエフは一八三四年の二月九日に、シベリアのトボルスクという町で生まれました。祖父が始めてこの町に来て、印刷工場を設け、新聞を発行していたのでしたが、父の代になってはそれも止めて、中等学校であるギムナジウムの校長を勤めました。ところがその子どもがたくさんあって、このドミトリ・イヴァノヴィッチは十四人の兄弟の一番の末子であったのですが、ごく幼ない頃からすぐれた才能をもっていたので、その将来に大いに望みをかけて育てられたのでした。しかしそれから間もなく父は眼をわずらって、両眼とも見えなくなってしまいましたので、校長の役をも退かなくてはならなくなり、その後は僅かの恩給ぐらいでは一家の生活を支えることも困難になりました。これには母親も大いになやみましたが、元来が大いに勝気で、またなかなか賢明でもありましたので、近村にあったガラス工場を譲り受け、その経営を自分の手でうまくやって、大いに成功したということです。そしてこの工場の近くに粗末ながらも木造の教会堂を建てて、職工たちに宗教の有難さを説き聞かせ、平素はそれを村の子どもたちのための学校としました。このおかげで一家を支えることができたばかりでなく、村人たちからも大いに慕われるほどになりました。

 ドミトリはこのような環境のなかで育ってゆきましたが、やがてトボルスクに追放されて来た一人の青年にいろいろと科学のことを教えられ、元来が数学や科学を好んでいた彼の才能は、そのおかげでずんずんと進んでゆきました。そしてそれを見て母親も大いに喜び、末たのもしく思っていたということです。ドミトリはやがてギムナジウムに入学し、数年の後にそこを卒業しましたが、この間に母の経営していたガラス工場がうまく立ちゆかなくなったばかりでなく、父も眼疾の外に肺をわずらって亡くなってしまい、母はひとりでさまざまの苦労を重ねました。その年齢ももはや五十七歳にもなっていたので、健康も衰えていたのですが、そのうちに工場が火事で焼けてしまいました。それでも母はくじけることなく、ドミトリを大学に入学させたいと思って、トボルスクから遥々はるばるとモスクワを目指して旅に出ました。そしてモスクワに到着して、大学の入学試験を受けさせました。ところが、ドミトリはこれには失敗したので、更にセント・ペテルスブルグ(現在のレニングラード)までも赴いて、そこで漸く大学へ入学することができました。母はそれに満足して大いに安心しましたが、間もなく病いにかかって亡くなったということです。これは一八五〇年のことでしたが、そのときの母の遺言が深くドミトリの感銘に値いし、彼が後に大きな仕事に成功するようになったのも、実にそのおかげであったとわれています。まことに彼を偉大な科学者に育て上げた母のけなげな努力はこの上もなく尊いものであったとわなければなりますまい。

 ドミトリはこの後、実に一生懸命に勉強しました。そして一八五六年に大学をすぐれた成績で卒業し、クリミヤ地方の学校に教師として赴任しましたが、やがて再びセント・ペテルスブルグに戻り、次いでフランスのパリやドイツのハイデルベルグに留学し、当時の名だかい学者であったレノー、ブンゼン、キルヒホッフなどの下で大いに研究を行ったので、これが彼の知識をすばらしく高めることになりました。そして一八六一年に故国に帰り、高等工業学校の教授に任ぜられましたが、一八六六年にはペテルスブルグ大学の教授となりました。

 かくしてメンデレーエフは学者として大いに尊敬を受け、後にはヨーロッパの諸国の学会から名誉会員に推されたり、賞牌しょうはいを贈られたりして、その輝かしい名声をますます高めましたが、ただその頃のロシヤにおける政治が徒らに民衆を圧迫する傾きのあったことに対しては、大いに不満を感じ、正しい道義の上からこれを難ずることなどもあったので、その国内では却って厚遇せられなかったとも伝えられています。大学教授としては、一八九〇年まで在職しましたが、その後度量衡局長となり、また枢密顧問官ともなりました。そして一九〇七年の二月二日に遂にこの世を去りましたが、遺骸はウォルコフスキー墓地の彼の母マリヤ・ドミトリエフナの墓処ぼしょに相並んで葬られたということです。


週期律の発見


 メンデレーエフの遺した研究はいろいろありますが、そのなかで最も重要なものが元素の週期律の発見であることは、既に述べた通りであります。元素にこのような週期性があるということは、それより少し以前の一八六四年にイギリスのニューランヅが見出し、大体において八番目毎に性質の類似した元素が現れるというので、これをオクターヴの法則と名づけましたが、この事はまだ一般に認められなかったのでした。ところが、一八六八年になってドイツのユリウス・ローター・マイヤーという学者が同様な週期性を見出だし、これを学会で発表しました。このマイヤーの研究においては、もっぱら元素の原子容というものだけを考えて、それについて週期的な関係のあることを示したのでしたが、メンデレーエフはそれ以前から更に広く元素のいろいろな性質に注目し、そこに週期性のあることを見つけ出して、その結果を一八六九年の初めにロシヤの物化学会の席上で発表したのでした。題目は「元素の性質とその原子量との関係」というので、その見方もごく一般的であったことから、これがその頃の学界の注目を集めることになったのでした。

 最初に記したように、今では九十二の元素のあることが知られているのですが、メンデレーエフの研究していた頃には大体六十三の元素だけしか知られていなかったのでした。そこで彼はそれをいろいろ考えた末に八行十二列に並べてみました。すると、元素のなかでアルカリ元素とか、ハロゲン元素とかわれて、性質の互いに似通っているものが縦に並ぶことになり、それらが、原子価を等しくすることなどもこれで明らかに示されるのでした。こうしてメンデレーエフのつくった元素の表を掲げて見ますと、次ページの図の通りであります。

 この表のなかで、元素の名の下にある数字はその頃認められていた原子量でありますが、今ではそれらも更に精密に測られるようになったので、ここに記してあるのとは幾らか違っているのもあります。また、その外に、元素の週期性は、実はこのような原子量によるのではなく、原子の構造の上から定められる原子番号という数に依るのであることも今ではわかって来たのですが、メンデレーエフの時代にはそれらは全く知られていなかったのですから、彼が原子量に基づいてこの週期性を見つけ出したのは、確かにすぐれた卓見であったのですし、また最初にも述べましたように、それが新しい元素の発見や原子構造の理論をつくってゆく上にも、大いに役立ったのでした。現在の書物に載せられている元素週期表は、その後のいろいろな研究によって訂正されて来ているので、これとはいくらか違っていますが、メンデレーエフの最初につくったこの表がその基礎になっているのですから、その意味でこの表は歴史的に重要な価値をもっているとわなければならないのでしょう。

 週期表はこのように大切なものでありますが、それにも拘わらずメンデレーエフが初めてこれを発表した頃には、学界のなかでもまだそれ程にこの表の重要な意味が認められなかったので、ある人たちなどは、それを徒らな冥想めいそうにたよっている空論に過ぎないとまで非難したとも伝えられています。ところが、その後になって新しく発見された元素が正しくこの週期表で示される位置を占め、その性質もメンデレーエフの予言した通りのものであることなどが、だんだんに認められて来ましたので、そうなると、もはやこれを疑うわけにゆかなくなって、ますますその重要な意味が認められるようになったのでした。これで見ても、科学の上の真理というものは、事実を正しく言いあらわすことによって、そこに実に偉大な意味を含んでいるということが、十分にわかるのでありましょう。

 週期律の発見はまことにメンデレーエフの最も顕著な仕事というべきでありますが、このほかにも彼の物化学の上での研究はいろいろあるのです。しかしここではそれらについてお話しすることは、あまりこまかい問題に立ち入ることにもなりますから、省くことにします。

 もっともそのなかで石油についての研究は、同じくメンデレーエフの重要な仕事として記憶されなくてはならないのでしょう。それは一八七六年にロシヤの政府から派遣されて、アメリカのペンシルヴァニヤの油田を視察したことから始まったのですが、それ以前にも南部ロシヤの油田について研究したことはあったのでした。

 このほかにメンデレーエフは物化学に関する有益な書物をたくさんに著述しているのですが、これらはその当時はもちろんのこと、それから今に至るまで多くの人々のためにどれだけ役に立ったか知れません。

 ロシヤの国にも昔から多くの名だかい科学者が出ていますが、しかしこのドミトリ・イヴァノヴィッチ・メンデレーエフは、そのなかでも最も輝かしい一人であったとってよいのでしょう。それは、もちろん彼の生まれつきのすぐれた性質によるのですが、それと共に、上にもちょっと記したように彼の母からの感化も大いにあずかって力があったことは確かであります。メンデレーエフもこの事を深く感じていたと見えて、後に自分で著した書物の序のなかに、母の遺言をしるしているのですが、それには次の言句が見られるのです。

「幻想に囚われてはいけない。

 頼るべきものは実行である。

 ひたすらに求むべきは

 神と真理の知慧ちえであり、

 いつもそれを望むがよい。」

 彼がこの言葉をいつも座右の銘として、その大きな仕事をなし遂げたことは、また私たちの見のがしてはならないところであると思われます。

底本:「偉い科學者」實業之日本社

   1942(昭和17)年1010日発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

「於て」「於ける」は「おいて」「おける」に、「尤も」は「もっとも」に、「或る」は「ある」に、「之」は「これ」に、「益〻」は「ますます」に、置き換えました。

※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には振り仮名が付されていません。

※「しかし」と「しかし」の混在は、底本通りです。

※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。

入力:高瀬竜一

校正:sogo

2019年129日作成

青空文庫作成ファイル:

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