ヘルムホルツ
石原純
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皆さんは物理学の上でエネルギー恒存の原理というもののあることを知って居られるでしょう。これはすべての物質現象に通じて成り立つ根本的な原理で、今ではこの原理に背くような事がらは全くないと考えられているのですが、このような大切な原理がどうして見つけ出されて来たかということは、科学の上で実に意味ぶかいことであると云わなくてはなりません。
もちろんエネルギーの原理が見つけ出されるまでには、いろいろな段階のあったことは確かであります。すべて科学の発達はある順序を踏んで、その一歩々々を進めてゆかなくてはならないのですが、根本的な原理になると一層そうであることがこのエネルギーの原理などにおいても知られるわけであります。エネルギーが恒存するということは、まず物体の運動に関して最初に知られたのでした。地球上の空間で物体が運動する場合を考えて見ますと、普通に物体が高い処から落ちるようなときには、落ちるに従って速さが増し、それに伴なって運動のエネルギーが増すのです。ところが一方では物体は下の方へ動いてゆくのですから、高さに応じてもっている位置のエネルギーがだんだん減るのです。そして実際にこれ等を計算して見ますと、運動のエネルギーの増加しただけ位置のエネルギーは減じているので、両者を合わせたものはいつも同じになっていることがわかります。つまりこの事は運動の現象の範囲でのエネルギーの恒存を意味しているのです。
これだけの事がらは、ニュートンの力学が発達した十八世紀の時代に既にわかっていたのでしたが、運動以外のいろいろな現象を考えに入れると、事がらがなかなか複雑になって来るので、それは容易にわからなかったのでした。殊にむずかしかったのは、熱が何であるかということでした。この前にラヴォアジエの伝記を述べたときに、熱をおこすところの火についてまちがったフロジストン説が長い間行われていたことをお話ししましたが、火と同じように熱もまた何かしらある物質であると考えられていたのでした。そしてそれをカロリック(熱素)と称えていました。ところがこの説に疑いをもって、熱の本体をつきとめようとした学者もだんだんに出て来たので、そのうちでも正しい考えかたをなし始めたのがルンフォード伯という人であります。
ルンフォード伯の本名はペンジャミン・トンプソンというので、アメリカのボストン市に近いノース・オバーンという処で生まれましたが、壮年の頃に独立戦争が起った折に、独立に反対したという嫌疑を受けて捕えられたのを、うまく抜け出してイギリスに逃がれ、その後科学の研究を始めて、王立協会の会員にもなりました。それからドイツへ赴いて、バイエルンの国王に仕え、非常に重く用いられて、陸軍大臣にもなり、そこでルンフォード伯の爵位をも授かったのでした。晩年には再びイギリスに戻り、科学普及のための王立研究所を立てるのに骨折ったりしましたが、その後フランスへ行き、そこで生涯を終えたのでした。
ところで、このルンフオード伯がバイエルンの首都ミュンヘンで軍事に関する仕事をしていた際に、大砲をつくる工場で砲身に孔を開けると非常にたくさんの熱が出るのに注目し、金属がはげしく摩擦されると、そこに熱が現れるのだと考えて、今度は鉄を数時間も水のなかではげしく摩擦させて、それで遂に水を沸騰させることに成功しました。火を少しも使わないのにこんなにたくさんの水が沸騰したのには、見ている人たちがみな驚いたということです。そこで彼は熱が機械的の仕事によって生ずるということを確信し、これまでのカロリツク説を否定したのでした。
ルンフオード伯のこの考えは一七九八年にイギリスで発表されましたが、熱素説を信ずる人々は強くそれに反対しました。しかしだんだんに学者の間にそれが広まり、またハンフリー・デヴィーなども氷を互いに擦り合わせると、融けて水になることを実験で確めてこの説に賛成しました。この実験は空気を抜いたガラスの器のなかで行ったのでしたが、最初には氷点下二度というつめたい氷が、摩擦して融けると氷点よりも二度以上も高い温度になってしまいました。
このようにして摩擦によって熱のおこることが実験で確かめられるようになったのですが、それでもやはり一般の人々は熱に対するカロリック説に執着して、それを捨てきれなかったのですから、一度信じこんだ考えはなかなかとり去ることのできないものだということが、これでもよくわかるでしょう。それでこの考えが全く破られるまでには、それからなお半世紀を経なければならなかったのでした。
年月が経って一八四〇年頃になりました。そのときドイツにロバート・マイヤーという医者がありました。この人は医学を修めてから、東洋通いの船の船医に就職したので、諸処を航海してジヤヴァに赴きましたところが、それは熱帯の暑い地方なので、船員の病気にかかるものが多く、その診察に忙しく立ちはたらいているうちに、ふと奇妙な事がらを観察したのでした。それはつまり静脈の血液が普通よりもよほど赤みを帯びていて、まるで動脈のように見えるということでした。そういうことは温帯から熱帯に旅行をする人々にはよく見受けられるので、それまでは医者にしても別に怪しみもせずに見のがしていたのでした。がマイヤーはなぜそういうことが起るのかを不審に思って、それを立入って考えてみたのでした。つまり動脈の血の赤いのが、酸素をたくさんに含んでいて、酸化作用のはげしいのに依るのだとするなら、これが熱帯地方の温度の高い処でさかんに起るので、静脈までも赤い色を帯びるようになるのだと思われるのでした。それで酸化作用と熱との間にある関係がなくてはならないということになりますが、酸化作用でなくとも、手足を擦ると暖まるということから見れば、摩擦もやはり酸化作用と同じように熱をおこすことができるのであり、また摩擦でなくとも、何かしら機械的な仕事でも同じになる筈だと推論して、そこで今度はそれとは反対に、ある器に入れてある気体を、圧力にさからって膨脹させてみると、気体が機械的な仕事をしただけ、熱を失って温度が下るにちがいないと考えました。
マイヤーのこのような考え方は、いずれも正しいのでありましたが、ともかくこれは熱と仕事とが外見上はちがっていても、実は同じものが形を変えて現れたのであるということを示した最初のものであります。後にそれが一般にエネルギーという名であらわされるようになったので、ここにエネルギーの原理の最初の言いあらわしが成り立ったのでした。ところがマイヤーがこれ等の考えを記した論文をドイツに帰ってからその頃の有名な学術雑誌に発表しようとしましたら、この雑誌では掲載を断ってしまったので、止むを得ず他の雑誌に載せてもらいました。それでも一向に注意されずに過ぎてしまったというのですから、学問上の仕事にしても、やはり時勢を待つより外はないと云わなくてはなりません。しかしマイヤーはどこまでも自分の説を確信し、その考えを熱ばかりでなく電気やその他の自然のはたらきにまでもひろげようとしたのでした。
マイヤーがこのような研究を行っていたのと同じ頃に、イギリスにはジュールという学者があって、やはり熱と仕事との関係を実験的に測ろうとしました。ジュールはマイヤーの研究についてはまるで知らなかったのですが、ルンフォード伯やデーヴィーの実験を知っていたので、それを数量的に確かめようとしたのでした。最初に実験を行ったのは同じく一八四〇年のことで、電気を通した針金のなかに起る熱を測って、今日普通にジュールの法則と呼ばれている関係を見つけ出し、その後水を機械的にかきまわして、機械のする仕事と、それによって水の温度を高める熱の量との関係を精密に測りました。そしてこの結果から、いつも一定の仕事によって一定の熱の量が起されることを確かめました。
これだけの準備がととのった上で、その次にドイツのヘルムホルツによってエネルギー恒存の原理が立てられることとなったので、それについては次にお話ししますが、科学の上の根本的な原理が見つかるまでには、いろいろな段階を踏み上らなくてはならないことが、これでよくわかるでしょう。
ヘルマン・フォン・ヘルムホルツは一八二一年にドイツのポッツダムに生まれました。父はギムナジウムという中等学校の教師でありましたが、母方にはイギリスやフランスの血統を受け継いでいたということです。幼い頃は病身で弱かったので、自分の部屋に起居する日が多く、ひとりで積み木遊びなどをしているうちに、幾何学の知識を自然に覚えこんでしまったということです。ところが彼は子どもながらにも、幾何学だけでは満足しなかったので、眼を自然のいろいろな事がらに向けて、そこに大きな興味をもちました。そして父の書斎から物理学の書物を見つけ出して来ては、それを熱心に読んだのでした。しかし父は哲学や言語学に興味をもっていたので、息子をもその方に向わせようとしましたが、これはうまくゆかなかったのでした。その頃のドイツではまだ自然科学はさほど重んぜられてもいなかったので、この父の考えも当然のようでもあったのですが、息子が科学を好むとなれば無理に他に向わせるわけにもゆかないのでした。それにしても科学を勉強するには十分な学資を必要としたので、他に四人も子供をもっていた父親にはそれだけの余裕もなく困っていました。ところが陸軍の軍医を志願すると学資を給してもらうことができるので、それならばと云うので軍医になることに方針を定めました。医学も科学の一部にはちがいないのですから、それを通じて他の科学の勉強もできるであろうと思ったのです。幸いにその頃の医学には物理学を利用して新しい研究を進めようという気運が向いていたので、これが元来好きな物理学にも携わる契機ともなったのでした。
一八四二年に学校を卒業して、翌年軍医となり、生理学の研究をも同時に行っていたのでしたが、その際に生物体内の熱に関していろいろ考えをめぐらすうちに、遂に数年経ってエネルギー恒存の原理に達したのです。そしてこれを一八四七年の七月にベルリンの物理学会で発表しましたが、その際にはさほどの注意を惹かずにすんでしまい、これを学術雑誌に載せようとしたら、以前にマイヤーの論文の掲載を許さなかったのと同じように、やはり断られてしまいました。そこで別に冊子としてこれを出版したところが、ある人たちからはマイヤーの論文の焼きなおしだと云って攻撃されました。しかし実際にヘルムホルツはマイヤーの研究をまるで知らなかったので、それで始めてマイヤーの仕事を知って、自分よりも一歩先んじていたのを認めたということです。それにしてもヘルムホルツは一層完全にエネルギーの原理を確立したので、その点ではヘルムホルツの大きな功績を認めなくてはならないのでしょう。
ヘルムホルツがこの原理を考え出したのには、おもしろい挿話があるのです。これは彼が自分で物語っていることなのですが、その頃の医学などもまだ本当に科学的ではなかったので、ある人たちなどは昔から言い伝えられた霊魂説を信じてもいたのでした。ところが霊魂が人間に宿って生命を得るという考え方ははなはだ非科学的だとヘルムホルツは感じたのでした。なぜと云えば、これは一種の永久機関であるからだと言うのです。永久機関と云うのは自分だけの働きでいつまでも動くものを云うので、例えば時計の針が動くときに、その動きをうまく利用してゼンマイを巻くようにすれば、時計はいつまでも動いていることができるというわけになりますが、そういう事は不可能であるとされているのです。霊魂にしても、それと同じで、これが人間に宿れば、それが生きて働き、また他の人間に移れば、それが生命を得るというのは、つまり一種の永久機関で、これは科学の原理に反すると云うのです。生命のことはまず措くとしても、ともかく永久機関が実現し得ないと云うことから、理路をたどって、エネルギー恒存の原理に到達したので、これははなはだおもしろい考えかたであったのにちがいありません。しかもそれが今では物理学上の最も根本的な原理として認められているのですから、すばらしいではありませんか。
エネルギー原理がだんだんに一般に認められるようになると共に、ヘルムホルツの名声は非常に高まりました。その研究も漸次に進んで来て、その科学上の仕事はまことにすばらしいものになりました。元来が医学を修めた人でありますから、医学や生理学の上の研究もたくさんにあり、次には眼や耳のはたらきを明らかにするには光や音の性質を究めなくてはならないと云うので、そういう物理的の研究に進み、今度はその理論をつくるのに数学が必要であるというので、数学の上でもたくさんの研究を果しました。ですから、その研究の範囲の広いことは、恐らく科学者として他に比べられるものはない程でありますし、その上に生理学者としても、物理学者としても、また数学者としても、当時の第一流として見做されるようになったのですから、なんと驚くべきではありますまいか。これほどの天才はまずその例を他に見ないと云ってよいでしょう。ここではその研究の内容に立入ってお話しするわけにゆきませんが、誰しも科学を学ぶにつけて彼の仕事の大きいことを、ひたすら感じないわけにはゆきません。
ヘルムホルツの経歴を簡略に述べますと、一八四八年にベルリン美術学校の解剖学の教授になり、翌年ケーニッヒスベルグ大学の生理学員外教授に任ぜられ、一八五二年にそこの正教授となり、次いで一八五五年にボン大学、一八五八年にハイデルベルグ大学に転じましたが、一八七一年にはベルリン大学の物理学教授となりました。その後一八八八年にベルリンに新設せられた物理工業研究所長に任ぜられ、更に貴族に列せられて、フォン・ヘルムホルツと敬称されることとなりました。一八九一年にはその七十歳の祝賀の式が盛大にベルリンで行われ、ドイツ皇帝を始め、各国の帝王や学会などから祝辞が寄せられたのは、彼の一代における最大の光栄でもあったのでしょう。この時に彼は自分のそれまでの追憶を話しましたが、これは科学者としての彼の生涯を知るために非常に興味のある、またはなはだ有益な談話であります。かくて一八九四年にその輝かしい一生を静かに終ったのでありました。
底本:「偉い科學者」實業之日本社
1942(昭和17)年10月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
「或る」を「ある」に、「先づ」を「まず」に、「迄」を「まで」に、「於て」「於ける」を「おいて」「おける」に、「併し」を「しかし」に、「甚だ」を「はなはだ」に、置き換えました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には振り仮名が付されていません。
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「ルンフォード伯」と「ルンフオード伯」、「カロリック」と「カロリツク」、「デヴィー」と「デーヴィー」の混在は、底本通りです。
入力:高瀬竜一
校正:sogo
2018年7月27日作成
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