湖畔亭事件
江戸川乱歩




 読者諸君は、先年H山中のA湖のほとりに起った、世にも不思議な殺人事件を、御記憶ではないでしょうか。片山里かたやまざとの出来事ながら、それは、都の諸新聞にも報道せられた程、異様な事件でありました。ある新聞は「A湖畔の怪事件」という様な見出しで、又ある新聞は「死体の紛失云々うんぬん」という好奇的な見出しで、相当大きくこの事件を書き立てました。

 注意深い読者諸君は御承知かも知れませんが、そのいわゆる「A湖畔の怪事件」は、五年後の今日こんにちまで、遂に解決せられないのであります。犯人はもちろん、奇怪なことには、被害者さえも、実ははっきりとは分っていないのであります。警察では、最早もはさじを投げています。当の湖畔の村の人々すら、あの様に騒ぎ立てた事件を、いつの間にか忘れてしまった様に見えます。この分では、事件は永久の謎として、いつまでもいつまでも未解決のまま残っていることでありましょう。

 ところがここに、広い世界にたった二人だけ、あの事件の真相を知っている者があるのです。そして、その一人は、かくいう私自身なのであります。では、なぜもっと早く、それを発表しなかったのだと、読者諸君は私をお責めになるかも知れません。が、それには深いわけがあるのです。まず私の打開うちあけ話しを、終りまで御聞き取り下さい。そして、私が今まで、どんなにつらい辛抱しんぼうをして沈黙を守っていたかを御諒察が願いたいのであります。



 さて本題にるに先だって、私は一応、私自身の世の常ならぬ性癖について、又私自身「レンズ狂」と呼んでいる所の、一つの道楽について、お話して置かねばなりません。読者諸君の常としてその不思議な事件というのは一体全体どんなことだ。そして、それが結局どう解決したのだと、話の先を急がれますが、この一篇の物語りはず、今いった私の不思議な道楽から説き起さないと、あまりに突飛とっぴな、信じがたいものになってしまうのですし、それに、私としては、自分の異常な性癖についても、少し詳しく語りたいのです。どうかしばらく、痴人ちじんのくりごとでも聞くおつもりで、私のつまらぬ身の上話をお許しが願いたいのであります。

 私は子供の時分から、どうしたものか、世にも陰気な、引込思案ひっこみじあんな男でありました。学校へ行っても、面白そうに遊びまわっている同級生達を、隅の方から白い眼で、うらやましげに眺めている、家へ帰れば家へ帰ったで、近所の子供と遊ぶでもなく、自分の部屋にあてがわれた、離れ座敷の四畳半へ、たった一人でとじこもって、幼い頃は色々なおもちゃを、少し大きくなっては、先にいったレンズを、仲のよい友達かなんぞの様に、唯一の遊び相手にしているといった調子でした。

 私は何という変な、気味の悪い子供であったのでしょう。それらの無生物の玩具に、まるで生ある物の様に、言葉をかけていることさえありました。時によって、その相手は、人形であったり、犬張子いぬはりこであったり、幻燈の中の様々の人物であったり、一様ではないのですが、恋人に話しかけでもする様に、くどくどと相手の言葉をも代弁しながら、話し会っているのでした。ある時、それを母親に聞かれて、ひどくしかられたことも覚えています。その時、どうした訳か、母親の顔が異様に青ざめて、私を叱りながらも、彼女の眼が物おじした様に見開いていたのを、子供心に不思議に思ったことであります。

 それはさて置き、私の興味は、普通の玩具から幻燈へ、幻燈からレンズその物へと、段々移り変って行きました。宇野浩二うのこうじさんでしたかも何かへ書いていましたが、私がやっぱり、押入おしいれの暗闇の中で幻燈を写す子供でした。あのまっ暗な壁の上へ、悪夢の様に濃厚な色彩の、それでいて、太陽の光などとはまるで違った、別世界の光線で、様々なの現れる気持は、何ともいえず魅力のあるものです。私は、食事も何も忘れて、油煙ゆえん臭い押入れの中で、不思議なせりふをつぶやきながら、終日幻燈の画に見入っていることさえありました。そして、母親に見つけられて、押入れからひきずり出されますと、何かこう、甘美な夢の世界から、いまわしい現実界へ引戻された様な気がして、いうにいわれぬ不愉快を覚えたものであります。

 さすがの幻燈気違いも、でも、尋常じんじょう小学校を卒業する頃には、少し恥しくなったのか、もう押入れへ這入はいることをやめ、秘蔵の幻燈器械も、いつとはなしにこわしてしまいました。が、器械はこわれてもレンズだけは残っています。私の幻燈器械は、普通玩具屋の店先にあるのよりは、ずっと上等の大型のでしたから、従ってレンズも直径二寸程の、厚味のたっぷりある、重いものだったのですが、それが二つ、文鎮ぶんちん代りになったりして、そののちずっと私の勉強机の上に、置かれてありました。

 あれは、中学校の一年生の時でしたか、ある日の事、一体朝寐坊あさねぼうのたちで、そんなことは珍しくもなかったのですが、母親に起されても起されても、ウンウンとそら返事ばかりして、暖かい寝床を出ようともせず、到頭とうとう登校時間を遅らせ、もう学校へ行くのがいやになってしまって、母親にまで仮病を使って、終日寝床の中で暮したことがありました。病気だといってしまったものですから、好きでもないおかゆをたべさせられる、何かやりたくても寝床を出ることは出来ず、私は、いつもの事ながら、今更いまさら学校へ行かなかったことを後悔しはじめました。

 私はわざと雨戸を締切って、自分の気持にふさわしく部屋の中を暗くして置きましたので、その隙間や節穴から、外の景色が障子しょうじの紙に映っています。大きいのや小さいのや、はっきりしたのやぼやけたのや、沢山たくさんの同じ景色が、皆さかさまに映っているのです。私は寝ながらそれを見て、ふと写真器械の発明者の話などを思い出していました。そして、どうかしてあの節穴の映像の様に、写真にも色彩をつけることは出来ないものかなどと、どこの子供も考える様な、夢の様な、しかし自分ではひとかど科学者ぶったことを空想するのでした。

 やがて、見ている内に、障子の影が少しずつ薄くなって行きました。そして、遂にはそれが消えてしまうと、今度は真白く見える日光が、同じ節穴や隙間から、まぶしくさしるのでした。ゆえもなく学校を休んでいるやましさから、私はもぐらもちの様に日光を恐れました。私はいうにいわれぬ、いやあな、いやあな心持で、頭から蒲団ふとんをかぶると、眼をとじて、眼の前にむらがる、無数の黄色や紫の輪を、甘い様な、いまわしい様な変な感じで眺めたことであります。

 読者諸君、私のお話は、余りに殺人事件と縁が遠い様に見えます。しかしそれを叱らないで下さい。こうした話振りは私の癖なのです。そして、この様な幼時の思い出とても、その殺人事件に、まるで関係のない事柄ではないのですから。

 さて、私は又蒲団から首を出しました。見ると、私の顔のすぐ下に、ポッツリと光った個所があります。それは節穴から這入った日光が、障子の破れを通って、たたみの上に丸い影を投げていたのです。無論むろん、部屋全体が暗いせいでしょうが、私はその丸いものが、余りに白々と、まぶしく見えるのを、ちょっと不思議に思いました。そして、何げなく、そこに落ちていた例のレンズを取ると、私はそれを、丸い光の上にあてがって見たことでありますが、そうして、天井に映った、化物のような影を見ると、私はハッとして思わずレンズを取落しました。そこに映ったものは、それ程私を驚かしたのです。なぜといって、薄ぼんやりではありましたが、その天井には、下の畳の目が、一本のの太さが二尺程に拡大されて、小さなごみまでがありありと映っていたからです。私はレンズの不思議な作用に恐怖を感ずると共に、一方では又いい知れぬ魅力を覚えました。それからです、私のレンズいじりの初まったのは。

 私は丁度その部屋にあった手鏡を持出すと、それを使って、レンズの影を屈折させ、畳の代りに、色々な絵だとか写真だとかをかたえの壁に映して見ました。そして、それがうまく成功したのです。あとで、中学の上級になってから、物理の時間にそれと同じ理窟を教わったり、又後年流行した実物幻燈などを知ると、その時の私の発見が別段珍しいことでないのが分りましたけれど、当時は、何か大発明でもした様な気で、それ以来というものは、ただもうレンズと鏡の日々にちにちを送ったことであります。

 私は暇さえあると、ボール紙や黒いクロースなどを買って来て、色々な恰好かっこうの箱をこしらえました。レンズや鏡も段々すうを増して行きました。ある時は長いU字形に屈折した暗箱あんばこを作って、その中へ沢山のレンズや鏡を仕掛しかけ、不透明な物体のこちらから、まるで何の障害物もない様に、その向う側が見える装置を作り「透視術とうしじゅつ」だなどといって家内の者を不思議がらせて見たり、ある時は、庭一杯に凹面鏡おうめんきょうをとりつけて、その焦点で焚火たきびをして見たり、又る時は、うちの中に様々の形の暗箱を装置して、奥座敷にいながら、玄関の来客の姿が見える様にして見たり、その他様々のそれに類したいたずらをやっては喜んでいるのでした。顕微鏡や望遠鏡も自己流に作って、ある程度まで成功しました。小さな鏡の部屋を作って、その中へかえるねずみなどを入れ、彼等が自分の姿に震えおののく有様をきょうがったこともあります。

 さて、この私の不思議な道楽は、中学を出る頃まで続いていましたが、上の学校に這入ってからは、下宿住いになったり、勉強の方が忙しかったりして、いつの間にかレンズいじりも中絶してしまいました。それが、以前に数倍した魅力をもって復活したのは、学校を卒業して、といって別段勤め口を探さねばならぬ境遇でもなく、何がなしブラブラと遊び暮している時代でありました。



 ここで、私があるいまわしい病癖を持っていることを白状しなければなりません。といいますのは、少年時代のいじけた性質から考えても、こうなるのが当然だったかも知れませんが、私は、鼻下びかにはしかつめらしいチビひげまで貯えたこの私が、はしたない女中風情ふぜいでも、あえてしないような、他人の秘密を隙見すきみする事に、もうこの上もない快感をおぼえるのでありました。無論こうした性質は、いくらかは誰にでもあるものですが、私のはそれが極端なのです。そして、もっといけないことは、その隙見をする対象が、お話するのもはずかしいような変てこな、いまわしい物ばかりなのです。

 これはある友達から聞いた話しですが、その友達の伯母おばさんとかに、やっぱり隙見の病気を持った人がいて、丁度裏の板塀の向うに隣家の座敷が見えるのを幸い、暇にまかせてその板塀の節穴から、隣家の様子をのぞくのだそうです。彼女は隠居の身の上で、これという仕事もなく、退屈なまま、まるで小説本でも読む気で、隣家の出来事を観察しているのです。今日は何人来客があって、どの客はどんな風をしていて、どんな話をしたとか、あすこのうちでは、子供が生れたので、たのもしを落して、それで何と何と何とを買ったとか、女中が鼠いらずをあけて、何をつまみ食いしたとか、何から何まで事も細かに、自分自身の家内のことよりももっと詳しく、いや先方の主人達も知らないようなことまでも、れなく観察しては、私の友達などに話して聞かせるのだそうです。丁度お婆さんが孫達に、新聞小説の続きものを読んで聞かせるように。

 私はそれを聞いて、やっぱり世間には、自分と同じ様な病人があるのだなと、馬鹿馬鹿しい話ですが、いくらか心強くなったものです。しかし、私の病気は、その伯母さんのよりも、はなはだしくたちのよくない種類のものでありました。一例を申しますと、これは私が学校をすませて帰って来て、第一にやったいたずらなのですが、私は、自分の居間と私のうちの女中部屋とを、例のレンズと鏡で出来た、様々の形の暗箱を装置して、れた果物の様な肥太こえふとった、二十娘の秘密を、隙見してやろうと考えました。隙見といっても、私のはごく臆病な、間接のやり方なのです。女中部屋の目につかない様な、例えば天井の隅っこなどに、私の発明した鏡とレンズの装置をほどこし、そこから暗箱によって、天井裏などを通路にして、光線を導き、女中部屋で鏡に映った影が、自分の居間の机の上の鏡にも、そのまま映る様な仕かけを拵えた訳なのです。つまり潜航艇の中から海上を見る何とかスコープという、あれと同じ装置なのです。

 さて、それによって何を見たかといいますと、多くはここにいうをはばかる種類の事柄なのですが、例えば、二十歳の女中が、毎晩寝床へ這入る前に、行李こうりの底から幾通いくつうかの手紙と一葉の写真を取出して、写真を眺めては手紙を読み手紙を読んでは写真を眺め、さて寝る時には、その写真を彼女の豊満な乳房におしつけ、それをいだきしめて横になる様子を見て、彼女にもやっぱり恋人があるのだなと悟る。まあそういった事なのです。それから、彼女が見かけによらない泣き虫である事や、想像にたがわずつまみ食いのはげしい事や、寝行儀ねぎょうぎのよくない事や、そして、もっと露骨な様々の光景が私の胸をおどらせるのでありました。

 この試みに味をしめて、私の病癖はいちじるしく昂進こうしんしましたが、女中以外に家人の秘密を探ることなどは、妙に不愉快ですし、といって、まさか、この仕掛をよその家へ延ばす訳にも行きませんので、一時はハタと当惑しましたが、やがて、私は一つの妙案を思いついたのです。それは、のレンズと鏡の装置を、携帯自在の組立てにして、旅館だとか、茶屋だとか、あるいは料理屋などへ持って行って、そこで即座に隙見の道具立てをこしらえるということでした。それには、レンズの焦点を自由に移動し得る様な装置を工夫することだとか、暗箱をなるべく細く小さくして、目立たぬ様に細工することだとか、色々困難がありましたけれど、先にも申しました通り、私は生来せいらいそうした手細工に興味を持っておりますので、数日の間コツコツとそればかりを丹精たんせいして、結局申し分のない携帯覗き眼鏡めがねを作り上げたことでした。

 そして、私はそれを到る所でもちいました。口実を設けて、友人の家へ泊り込み、主人公の居間へこの装置を施して、激情的な光景を隙見したこともあります。

 それらの秘密観察の記録をしるすだけでも、十分一篇の小説が出来上りそうに思われます。それはさて置き、前置きはこの位にして、いよいよ表題の物語りにお話を進めることに致しましょう。

 それは今から五年前の、夏の初めのことでした。私はその頃神経衰弱症にかかっていまして、都の雑沓ざっとう物憂ものうきまま家族の勧めに従い、避暑かたがた、H山中のA湖畔にある、湖畔亭こはんていという妙な名前の旅館へ、ひとりきりで、しばらく滞在していたことがあります。避暑には少し早い時期なので、広い旅館がガランとして人気ひとけもなく、清々すがすがしい山気が、妙にうそ寒く感じられました。湖上の船遊びも、森林の跋渉ばっしょうも、慣れては一向面白くありません。といって都へ帰るのも何となく気が向かず、私は旅館の二階で、つまらない日々を送ったことであります。

 そこで退屈の余りふと思い出したのが、例の覗き眼鏡のことでした。幸い癖になっているものですから、その道具はチャンとトランクの底にあります。さびしいとはいいじょう、旅館には数組の客がいますし、夏の用意にやとれた女中共も十人近くいるのです。

「では一つ、いたずらを初めるかな」

 私はニヤニヤひとり笑いをもらしながら、客が少いので見つけられる心配もなく、例の道具立てに取かかるのでした。そこで私が何を隙見しようとしたか、又その隙見から、はからずも、どんな大事件が持ち上ったか。これからがこの物語りの本題に入るのであります。



 湖畔亭は、H山上の有名な湖水の、南側の高台に建てられてありました。細長い建物の北側がすぐに湖水の絶景に面し、南側は湖畔の小村落をへだてて、はるか重畳ちょうじょうの連山を望みます。私の部屋は、湖水に面した北側の一方の端にありました。部屋の前には、露台のような感じの広い縁側えんがわに、一室に二ヶ位の割合で籐椅子とういすが置かれ、そこから旅館の庭の雑木林ぞうきばやしを越して、湖水の全景を眺めることが出来るのです。緑の山々に取囲まれた、静寂せいじゃくみずうみの景色は、最初の間、どんなに私をたのしませた事でしょう。はれた日には、附近の連峰が、湖面にさかしまの影を投げて、その上を、小さな帆かけ船がすべって行く風情、雨の日には山々の頂を隠して、間近に迫った雲間から、銀色の糸が乱れ、湖面に美しい鳥肌をたてている有様、それらの寂しく、すがすがしい風物が、混濁こんだくし切った脳髄のうずいを洗い清め、一時は、あの様に私を苦しめた神経衰弱も、すっかり忘れてしまう程でありました。

 しかし、神経衰弱が少しずつよくなるにつれて、私はやっぱり雑沓の子でありました。その寂しい山奥の生活に、やがて耐え難くなって来たのです。湖畔亭は、その名の示すごとく、遊覧客の旅館であると同時に、附近の町や村から、日帰りで遊びに来る人々のためには、料亭をもかねているのでした。そして、客の望みによっては、程近きふもとの町から、売女ばいじょの類を招いて、周囲の風物にふさわしからぬ、馬鹿騒ぎを演じることも出来るのです。淋しいままに、私は二三度、そんな遊びもやって見ました。しかし、その様ななまぬるい刺戟しげきが、どうして私を満足させてくれましょう。又しても山、又してもみずうみ、多くの日は、ヒッソリと静まり返った旅館の部屋部屋、そして時たま聞えるものは、田舎芸妓げいぎの調子はずれの三味線しゃみせんの音ばかりです。しかしながら、そうかといって、都の家に帰ったところで、何の面白い事がある訳でなく、それに、予定の滞在日数は、まだまだ先が長いのでした。そこでこうじはてた私は、先にも一寸ちょっと書いた様に、例の覗き眼鏡の遊戯を、ふと思いうかべることになったのです。

 私がそれを考えついた、一つの動機は、私の部屋が好都合な位置にあったことでありました。部屋は二階の隅っこにあって、そこの一方の丸窓をけると、すぐ目の下に、湖畔亭の立派な湯殿ゆどのの屋根が見えるのです。私は、これまで覗き眼鏡の仕掛によって、種々様々の場面を覗いて来ましたが、さすがに浴場だけは、まだ知りませんでした。従って、私の好奇心ははげしく動いたのであります。といって私は何も裸女沐浴もくよくの図が見たかった訳ではありません。そんなものは、少し山奥の温泉場へでも行けば、いや都会の真中でさえも、ある種の場所では、自由に見ることが出来ます。それに、この湖畔亭の湯殿とても、別段男湯女湯の区別など、設けてはなかったのです。

 私の見たいと思ったのは、周囲に誰もいない時の、鏡の前の裸女でありました。あるいは裸男でありました。我々は日常銭湯などで、裸体の人間を見なれておりますが、それはすべて他人のいる前の裸体です。彼らは我々の目の前に、一糸いっしまとわぬ、赤裸々せきららの姿を見せてはいますけれど、まだ羞恥しゅうちの着物までは、脱ぎすてていないのです。それは人目を意識した、不自然な姿に過ぎないのです。私はこれまでの覗き眼鏡の経験によって、人間というものは、周囲に他人のいる時と、たった一人切りの時と、どれほど甚だしく、違って見えるものだかということを、熟知していました。人前では、さも利口そうに緊張している表情が、一人切りになると、まるで弛緩しかんしてしまって、恐しいほど相好そうごうの変るものです。ある人は、生きた人間と死人ほどの、甚だしい相違を現します。表情ばかりではありません。姿勢にしろ、いろいろな仕草しぐさにしろ、すべて変ってしまいます。私はつて、他人の前では非常な楽天家で、むしろ狂的にまで快活な人が、その実は、彼が一人切りでいる時は、正反対の極端に陰気な、厭世家えんせいかであったことを目撃しました。人間には多かれ少かれ、こうした所がある様に思われます。我々が見ている一人の人間は、実は彼の正体の反対のものである場合が屡々しばしばあるものです。この事実からして行きますと、裸体の人間を、鏡の前に、たった一人で置いた時、彼が彼自身の裸体を、いかに取扱うかを見るのは、甚だ興味のある事柄ではないでしょうか。

 そういう理由から、私は覗き眼鏡の一端を、浴場の中へではなく、そのぎのになっている、大きな姿見すがたみのある、脱衣場にとりつけようと、決心したものであります。



 その日、夜のけるのを待って、私は不思議な作業にとりかかりました。先ずトランクの底から覗き眼鏡の道具を取出しますと、れこになったボール紙の筒を、長くつなぎ合せて、例の丸窓から屋根へ忍びいで、人目につかぬ場所を選んで、それを細い針金で結びつけるのでした。さいわい、そこの空地にはの高い杉の木立があって、その辺の壁を一面に覆い隠していましたので、夜が明けても私の装置が発覚するうれいはありません。のみならず、そこは、家の裏側に当たる場所ですから、滅多めったに人の来る様なことはないのです。

 盗賊の様に、木の枝を伝ったり、浴場の窓から忍び込んだり、私は暗闇の中で、夢中になって働きました。そして、三時間余りを費して、やっと思う様な装置を施すことが出来たのです。眼鏡の一端は、丸窓から、床の間の柱の蔭を伝わらせて、そこへ寝転びさえすれば、いつでも覗ける様にして、その柱の所へは、私のあいトンビをかけ、女中などに仕かけを見つけられぬ工風くふうをしたものです。

 さて、その翌日から私は、不思議な鏡の世界に、耽溺たんできし初めました。壁の隅にとりつけた、鼠色の暗箱の中には、ほう二寸ほどの小さな鏡が、斜めに装置せられ、上のレンズから来る脱衣場の景色を、まざまざと映し出しています。光線がたびたび屈折しているので、それは甚だ薄暗い映像ではありましたが、そのためにかえって、一種夢幻的な感じを添え、もうこの上もなく、私の病的な嗜好しこうを喜ばせるのでした。

 私の部屋は二階ですから、湯殿へ行く人の跫音あしおとは、無論聞えず、又、丸窓から覗いたとて、そこには湯殿の屋根が見えるばかりで、内部の様子をうかがうことは出来ません。それゆえ、いつその脱衣場へ人が来るか、鏡の面を注意しているほかには、知るべきよすがもないのです。そこで、私は、丁度魚を釣る人が、浮きの動くのを待ち兼ねて、その方ばかり見つめている様に、朝起きるとから、部屋の隅に寝ころんで、小さな鏡を凝視するのでありました。

 やがて、待ちに待った人影が、チラリと鏡の上にひらめいた時、私はどんなに胸を躍らせたことでしょう。そして、その人が着物を脱ぐ間、湯を出てから身体からだをふいている間、今にも変ったことが起るか、今にも変ったことが起るかと、どんなに待ち兼ねたことでありましょう。

 ところが、私の予想は、多くの場合裏切られて、そこに現れた男女は、ただそれが、不思議な、薄暗い鏡の表面に、うごめいているという興味の外には、何の変った様子も見せてはくれないのでした。それに、先にもいった通り、初夏とはいえ、山の上では、まだ朝夕は寒いほどの時分なので、泊り客も二三組に過ぎず、酒を飲んで騒ぐために来る客とても、三日に一度位の割合にしかないのです。従って、入浴者も少く、私の鏡の世界は、湖水の景色と同じ様に、なんともさびしいものでありました。

 その中で、わずかに私を慰めてくれたのは、十人に近い宿の女中達の入浴姿でした。

 彼等のある者は、二人三人と連立って、脱衣場に現れました。………………………………

 そして、何をいうのか声は聞えませんが、多分みだらなうわさでもしているのでしょう、笑ったりふざけたりしながら着物を脱ぎ、お互の肌を比べ合い、相手のえ太った腹を叩きなどする様が、手に取る様に眺められるのです。それらが、鏡の表面に、豆写真の様に、可愛い姿で動いているのです。

 それから、入浴をすませると、彼女らは長い時間かかって、姿見の前でお化粧を初めます。私は以前から、女のお化粧というものには一種の興味を感じていたのですが、斯様かように、裸体の女が、あからさまな態度で、大胆なお化粧をする有様は見たことがありません。

 そこには、男の知らぬ、ある不可思議な世界がくり拡げられるのでありました。…………

 又あるものは、たった一人で、脱衣場に現れます。……………………………………………

 この場合には、一層好奇的な景色に接することが出来ます。今のさき、無邪気そうな顔をして、私のお給仕をしていた女が、たった一人で鏡の前にたつと、こんなにも様子が変るものかしら、なるほど女は魔物だなあ。私はしばしばこんな嘆声たんせいをもらすのでありました。



 ところが、間もなく、私の鏡の世界には、平凡な景色に退屈し切っていた私を、驚喜せしめる様な人物が現れました。(そして、その次ぎには、もっともっと、そんなものよりは幾層倍も驚くべき事件が、鏡の中に起ったのですが)それは、最近宿についた、東京の富裕階級に属するらしい、女づれの一家族の一人で、十八位に見える、非常にけばけばしい身なりをした娘でした。彼女がはじめて私の鏡に現れた時、私は何かこう、その薄暗いガラスの中に、真赤なけしの花でも咲いた様な気がしたものです。彼女は身なりにふさわしく、世にも美しい容貌の持主でした。そして、その容貌にもいやまして、彼女の身体は美事みごとでした。西洋人の様に豊かな肉体、桜の花瓣かべんの様に微妙な肌の色、それだけでも十分私を驚かせたのですが、その上彼女には、鏡の前の不思議な癖さえあったのです。………………………………

 廊下などであった時の、つつましやかな、とりすました様子に引かえ、たった一人で姿見の前に立つ時には、彼女はまるで別人の様に大胆になりました。………………………………

 私は初めて、若い女が、自分自身の肉体に見とれる有様を、隙見することが出来ました。そして、その余りにも大胆な身のこなしに、一驚いっきょうきっしないではいられませんでした。

 それらの一々を説明することは、この物語りの本筋と関係のないことですから、ここには省略しますけれども、かく、私は彼女の出現によって、やっと退屈から救われることが出来ました。やがて私は、覗き眼鏡の効果を一層強めるために、又もや夜中浴場に忍び込んで、高い通風用の、窓の隙間からのぞかせた、レンズの先に、もう一つ望遠鏡様のレンズ装置を施し、そこの姿見の中央の部分だけが、間近く映る様に作り変えました。その結果、私の部屋の方二寸の鏡の中には、脱衣場の姿見に映る人影が、うまく行けば全身、時によっては身体の一部分だけ活動写真の大写しの様にうごめくのです。

 それがどんなに異様な感じであるか、そのたった二寸の鏡に映る人間の身体の一部分が、どんなに大きく思われるか、実際私と同様の遊戯をやって見た人でなければ、恐らく想像もつかないでしょう。そこには、薄暗い水族館の、ガラス張りの水槽のおもてに、白々と、思いがけぬ魚の腹が現れる感じで、丁度あの感じで、突然ヌッと、人間の肌が現れるのです。それが、どんなに、気味悪く、同時に蠱惑的こわくてきなものであったでしょう。…………私はそうして、毎日毎日、飽きもせず眺め暮したことであります。



 そして、ある日のことでありました。

 毎日欠かさず湯殿に来る娘が、どうしたことか、その日は夜になっても姿を見せないので、見たくもない他の人達の身体を、眺め暮している内に、いつしか夜がけて、もう浴客も尽き、いつもの例によると、あとは、十二時頃に女中達の入浴するまで、一二時間の間、鏡の表に人影の現れることはないのです。

 私はもうあきらめて、最前さいぜんから敷いてあったとこの中にもぐり込みました。すると、今まで気にもとめなかった、一間置いて向うの部屋の、馬鹿騒ぎが、うるさく耳について、とても眠ることが出来ません。田舎芸妓のボロ三味線に、野卑やひな俗曲を、女の甲声かんごえと、男の胴間声どうまごえとが合唱して、そこへ太鼓たいこまで入っているのです。珍しくおお一座と見えて廊下を走る女中の足も忙しそうに響いて来ます。

 寝られぬままに、私は又もや床を這い出して、鏡の所へ行きました。そして、ひょっとして、あの娘の姿が見られはしないかと、そんなことを願いながら、ふと鏡の表を見ますと、いつの間に来たのか、そこには一人の女の後姿うしろすがたが映っているのです。それが例の娘でないことは一目で分りましたが、しかし、その外の何人なんぴとであるかは、少しも分りません。そこには女のくびから下が、鏡の隅によって、ボンヤリと映っているに過ぎないのです。からだの肉つきから判断すると、どちらかといえば若い女の様に見えます。今湯から上って、顔でもふいているらしい恰好です。

 と、突然、女の背中で何かがキラリと光りました。ハッとしてよく見ると、実に驚くべきものが、そこにうごめいているではありませんか。鏡の隅の方から、一本の男のらしい手が延びて、それが短刀を握っているのです。女の丸々とした身体と、その手前に、距離の関係で非常に大きく見える、男の片腕とが鏡面一ぱいにちて、それが水族館の水槽の様に、黒ずんで見えるのです。一刹那いっせつな、私はまぼろしを見ているのではないかと疑いました。事実私の神経は、それ程病的に興奮していたのですから。

 ところが、暫く見ていても、一向幻は消えないのです。それどころか、ギラギラと異様に光る短刀が、少しずつ少しずつ、女の方へ近づいて行くのです。男の手は、多分興奮のためにでしょう、気味悪く震えています。女はそれを知らないのでしょう、じッとおちついて、やッぱり顔を拭いている様です。

 もはや夢でも幻でもありません。疑いもなく、今浴場で殺人罪が犯され様としているのです。私は早くそれを止めなければなりません。しかし、鏡の中の影をどうすることが出来ましょう。早く、早く、早く、私の心臓はれる様に鼓動します。そして、何事かを叫ぼうとしますが、舌がこわばってしまって、声さえ出ないのです。

 ギラリ、一瞬間鏡の表がいなずまの様に光ったかと思うと、真っ赤なものが、まるで鏡の表面を伝う様に、タラタラと流れました。

 私は今でも、あの時の不思議な感じを忘れることが出来ません。一方の部屋では、景気づいた俗曲の合唱が、太鼓や手拍子てびょうし足拍子で、部屋もれよと響いています。それと、私の目の前の、闇の中の、ほの白い鏡の表の出来事とが、何とまあ異様な対照をなしていたことでしょう。そこでは、白い女の体が、背中から真っ赤なドロドロしたものを流しながら、スーッとあるき去る様に鏡の表から消えました。いうまでもなく、そこへ倒れたのでしょうけれど、鏡には音がないのです。あとに残った男の手と短刀とは、暫くじっとしていましたが、やがて、これも又、あとじさりをする様に、鏡から影を消してしまいました。その男の手の甲に、はすかけに、傷痕きずあとらしい黒いすじのあったのが、いつまでも、いつまでも、私の目に残っていました。



 暫くは、私は、鏡の中の血腥ちなまぐさい影絵を現実の出来事と思わず、私の病的な錯覚か、それとも、覗きからくり空事そらごとをでも見た様に、ボンヤリとそのまま寝ころんでいたことです。しかし考えて見れば、いかに衰えた私の頭でも、まさかああまでハッキリと幻を見よう道理がありません。これはきっと、人殺しではなくても、何かそれに似通にかよった、恐しい事件が起ったものに相違ないのです。

 私は耳をすまして、今にも下の廊下に、ただならぬ跫音あしおとや、騒がしい人声が、聞え初めはしないかと待ち構えました。その間、私は何の気もなく腕の時計を見ていたのですが、その針は丁度十時三十五分近くをさしていました。

 ところが、待っても待っても、何の変った物音も聞えては来ません。隣室の馬鹿騒ぎも、何故なぜかふと鳴りをひそめていましたので、一刹那、家中がシーンとしずまり返って、私の腕時計のチクタクばかりが、いやに大きく響くのでした。私は幻を追いでもする様に、もう一度鏡の中を見つめました。無論そこには、脱衣場の冷い大姿見が、附近の壁や棚などを写して、白々と鈍い光を放っているばかりです。あれほどの勢いで短刀をつき立てあれほどの血潮ちしおが流れたのですから、被害者は、死なぬまでも、必ず非常な重傷を負ったことでしょう。鏡の像に声はなくとも、彼女は恐しい悲鳴を発したことでありましょう。私は甲斐かいなくも、堅い鏡の表から、その悲鳴の余韻よいんをでも聞き出そうとする様に、じっとそこを見つめていました。

 それにしても、宿の人達は、どうしてこうも鎮まり返っているのでしょう。もしかしたら、彼らはあの悲鳴を聞かなかったのかも知れません。浴場の入口の厚いドアと、そこから女中達のいる料理場までの距離が、それをさえぎったのかも知れません。そうだとすると、この恐しい出来事を知っているものは、広い湖畔亭の中で、私ただ一人のはずです。当然私は、この事を彼らに知らせなければなりません。でも、何といって知らせればいいのでしょう。それには覗き眼鏡の秘密をあかすほかはないのです。どうしてそんな恥かしいことが出来ましょう。恥かしいばかりではありません。この常人では判断も出来ない様な、変てこな仕掛が、どうしたことで殺人事件と関聯かんれんして考えられないものでもありません。生来臆病で不決断な私には、とてもそんなことは出来ないのです。

 といって、このままじっとしている訳には行きません。私はほとんど五分間の間経験のない焦燥しょうそうに攻められながら、もじもじしていましたが、やがてたまらなくなって、いきなり立上ると、どうするというあてもなく、兎も角も部屋を出て、すぐそばの広い階段をかけおりるのでした。階段の下は廊下がT字形になっていて、一方は湯殿の方へ、一方は玄関の方へ、そして、もう一つは奥の座敷へと続いていましたが、今私が大急ぎで階段をおりたのと、殆ど出あいがしらに、奥の座敷へ通じる廊下から、ヒョッコリと人の姿が現れました。

 見るとそれは相当の実業家らしい洋服姿で、落ちついた色合いろあいの、豊かな春外套はるがいとうを波うたせ、開いた胸からは、太い金鎖がチラついていました。そして右手めてには重そうなおお一番のトランク、左手ゆんでには金のにぎぶとのステッキです。しかし夜の十一時近い時分、宿を立つらしいその様子といい、重いトランクを自身手にさげているのも、考えて見れば妙ですが、それよりも一層おかしいのは、出あい頭で、私の方でも少からずびッくりしましたけれど、先方の驚き方といったらないのです。彼はハッとした様に、いきなりうしろへ引返そうとしましたが、やっと思い返して、いかにも不自然なすまし方で、私の前を通り抜け、玄関の方へいそぐのです。そして、そのあとからもう一人、彼の従者とも見える、少し風采ふうさいの劣った男が、これもやっぱり洋服姿で、手には同じ様なトランクをさげてついて行きました。

 私が世にも内気者であることは、これまでも屡々しばしば申述べた通りです。従って、宿屋にいても、滅多に部屋の外へ出ることはなく、同宿者達のことも、まるで無智でありました。例の華美な都会の少女と、もう一人の青年(彼がどんなに驚嘆すべき男であるかは、お話が進むに従って読者に明かになるでしょう)の外には、私は殆ど無関心だったのです。無論覗き眼鏡を通して、すべての泊り客を、見てはいたはずですけれど、どの人がどの部屋にいてどんな顔つき、風体ふうていをしているのやら、とんと記憶してはいませんでした。で、今出あい頭に私を驚かせた紳士とても、一度は見た様にも思うのですけれど別段深い印象もなく、従って彼の変てこな挙動にも、大して興味を感じなかったのです。

 その時の私には、時ならぬ出立しゅったつ客など怪しんでいる余裕はなく、ただもうワクワクとして、その廊下をどちらへ行っていいのかさえ、分らない始末でした。が、いくら勇気をふるい起して見ても、あの出来事を宿の人に告げる気にはなれません。覗き眼鏡のことがあるものですから、まるで自分自身がとがにんででもある様に、うしろめたい気持なのです。



 しかし、そうしていても際限がないので、私は兎も角、浴場をしらべて見ることに心をきめました。

 薄暗い廊下をたどって、そこへ行って見ますと、入口の厚い西洋扉はピッシャリととじられてありました。気の弱い私には、それをあけるのが、どんなに薄気味悪かったことでしょう。でも大分時間もたっていることですし、やっと元気を出して、一二分と、少しずつ少しずつ扉を開き、そこに目を当てて覗いて見ましたところ、私は何をまあビクビクしていたのでしょう。当然、そこにはもう、曲者くせものなどいなかったばかりか、もしやと思っていた女の死骸さえ、ないのです。ガランとした脱衣場は、白々とした電燈に照し出されて、墓場の様にしずかなのです。

 やっと安心した私は、すっかりドアを開けて脱衣場に入りました。あれほどの刃傷沙汰にんじょうざたがあったのですから、そこの床にはおびただしい血潮が流れていなければなりません。ところが、見ると、綺麗きれいつやの出た板張りの床には、それらしい跡もないではありませんか。ではもう、浴場との境のすりガラスの戸を開けて見るまでもありません。

 あっけに取られた私は、ただボンヤリとそこに立尽たちつくしていました。まるできつねにでもつままれた様な話しなのです。

「アア、おれの頭はいよいよどうかしてしまったのだ。あんな気味悪いまぼろしを見て、しかもそれを真実の事かなんぞの様に騒ぎ廻るなんて。なぜ変な覗き眼鏡なんか作ったのだろう。もしかすると、あれを考案した時から、もう俺は気違いだったのかも知れない」

 さっきのとは違った、もっと根本的な恐れが、私を戦慄させました。私は夢中で自分の部屋へ帰ると、敷いてあった床の中へもぐり込んで、これらの事が一切夢であってくれればいいと、それを祈りながら目をとじました。

 一時やんでいた近くの部屋の馬鹿騒ぎが、私の愚かさをあざ笑う様に、又してもドンチャンドンチャンとやかましく響いて来ます。蒲団をかぶってもどうしても、その響きがうるさく耳について、寐られたものではないのです。

 すると、いつの間にか又、私は先ほどの幻について考えふけっていました。あれが幻であったとめてしまうのは、とりも直さず、私の頭が狂っていることを承認する様なもので、余りに恐しいことです。それに、段々冷静に考えれば考えるほど、私の頭が、或は眼が、それほど狂っていようとは思われません。「ひょっとしたら誰かのいたずらではないかしら」おろかにも、私はそんなことまで想像して見るのでした。

 しかしあの様な馬鹿馬鹿しいいたずらを、誰が何のためにやるのでしょう。私を驚かすためにか、そんな懇意こんいな知りあいは、この湖畔亭にはいないのです。のみならず、私の覗き眼鏡の秘密をすら、まだ何人なにびともさとり得ないではありませんか。あの短刀、あの血潮、あれがどうしていたずらなどでありましょう。

 では、やっぱりまぼろしなのか。しかし私には、何となくそうも思われないのです。脱衣場に血潮が流れていなかったのは、丁度被害者の足の下に着物か何かがあって、それにしたたったのだとも、又は床に流れる程多量の出血がなかったのだとも、考えられぬことはありません。でもそれにしては、切られた人が、あの深手ふかでで、どこへ立去ることが出来たのでしょう。叫声は、それは二階の騒ぎに消されて、宿の人も気づかなかったかも知れませんが、あの手負いが誰にも見つからずに、ここを出られよう道理はないのです。第一彼女は、すぐにも医者の必要があったのです。

 そんなことを、とつおいつ考え続けて、その夜はついにまんじりともしませんでした。ナニ、宿の者に告げさえすれば気がすむのですけれど、覗き眼鏡の弱味があるものですから、それもならず、つまらぬ苦労をしたことです。



 翌朝、夜があけて、階下が騒がしくなると、私はやっと少しばかり元気づいて、顔でも洗ったら気が変るかも知れないと、タオルを持って階段をり、洗面所へ行きました。それが丁度例の浴場のそばにあるので、もう一度朝の光で脱衣場を検べて見ましたが、やっぱり何の変ったこともありません。

 洗面を済せて部屋に帰ると、私は湖水に面した障子をあけて、腹一ぱいに朝の空気を吸い込みました。何という晴々とした景色でしょう。見渡す限りの湖面には、縮緬ちりめんの様な小波さざなみが立って、山のを上った日光が、チカチカと白く反射しています。背景には、日蔭の山肌が、壮大な陰影をたたんで、その黒と、湖面の銀と、そして山と湖との境に流れる、一抹いちまつ朝霞あさがすみ。長い滞在の間にも、朝寝坊の私は、珍しくそんな景色を見たのでした。その景色に比べては、私の夜来の恐怖が何とむさくろしく見えたことでありましょう。

「お早いのでございますね」

 うしろに、ひやかす様な女の声がして、そこへ朝のおぜんが運ばれました。一向食慾などありませんでしたが、兎も角私はお膳につきました。そして、はしを取りながら、ふと、もう一度昨夜のことを確めて見る気になったのです。朝のはれやかな空気が、私の口をいくらか快活にしました。

「君は知らなかったかい。昨夜ゆうべ湯殿の方で、変な叫声がした様に思ったが、何かあったのじゃないかい」

 私はさも剽軽ひょうきんな調子で、こんな風に初めました。そして様々に問い試みたのですが、女中は何事も知らないのです。客の内には無論怪我人けがにんなどなく、附近の村人にも、そんな噂を聞かないというのです。あの手負いが、今まで人に気づかれぬはずはありませんから、その噂が耳ざとい女中達につたわっていないとすると、昨夜の事は、いよいよ一場いちじょうの悪夢に過ぎなかったのかも知れません。私は更に自分自身の神経を心配しなければなりませんでした。

 それから暫くして今更寝る訳にも行かず、部屋に坐ったままうつうつと物思いに耽っていた私の前に、一人の訪問者が現れました。それは先程一寸記した、面識の青年で、やはり同じ宿に泊っている河野こうのという男でしたが、これがこの物語の主人公ともいうべき人物なのですから、ここに少しく彼のことを説明して置かねばなりません。

 私は彼とは、浴場の中だとか、湖のほとりだとかで、二三度あったのに過ぎませんが、彼も又私の様に、どちらかといえば憂鬱な方らしく、いつの時もボンヤリと一つ所を見つめているのを見かけました。ふとしたことから話し合って見たのですが、お互の性格にはどっか似通った所がありました。人に混っておしゃべりするよりは、一人で物思いに沈んでいる、或いは書物などを読み耽っている。私は彼のそんな所に、何となく好意を感じました。しかし、彼は私の様ないわばニヒリストではなく、人間相互の関係について、何かの理想を抱いている様に見えました。そしてそれは決してひとりよがりなユートピアを夢みているのではなくて、もっと着実な、(従って社会的には危険な)実行的なものの様に思われました。兎も角変り者に相違ないのです。

 彼は又、職業や物質の方面でも、私とは大分違っていました。彼の専門は洋画家で、風采などから考えても決して富裕な階級に属する人ではなく、彼の口ぶりでは、画をうりながら、こうして旅行をしているらしい様子です。宿の部屋なども、彼のは廊下の隅っこの一番不便な場所があてがわれてありました。何が引つけるのか、彼はこれまで屡々このH山中へやって来たらしく、その辺の事情にはよく通じていました。今度も麓のY町に暫くいて、私の少し前に湖畔亭に来たということでした。そうして旅をしながら、彼は諸国の人情風俗を調べている様子で、様々の珍しい事柄を知っていました。旅の暇には、彼はたずさえている書物に読み耽るらしく、手垢てあかで黒くなった四五冊のむずかしい書物が、いつも彼の座右ざうにあるのでした。

 いや、これでは少しお話が堅くなり過ぎた様です。河野の紹介はこれ位にとどめて、さて彼がその朝私の部屋を訪ねた所へ立ち帰ることに致しましょう。

 彼は私の部屋へ入って来ると、私の顔をジロジロ眺めて、

「どうかしましたか、大変顔色が悪い様ですが」

 と聞くのです。

「昨夜眠れなかったものですから」

 私はりげなく答えました。

「不眠症ですか、いけませんね」

 そして、私達は暫く、いつもの様な議論とも、世間話ともつかぬものを取交とりかわすのでした。が、やがて、私はそんな暢気のんきな会話に耐え切れなくなりました。ともすれば、昨夜の事で頭が一ぱいになって、河野の物しり顔な議論など一向耳に這入らぬのです。そうしていらいらしている内に、私はふと「この男に話して彼の判断を聞いて見たら」と考えました。彼なれば相当私を理解もしていてくれるのですから、何となく話し易い気がするのです。そこで、私は昨夜の一伍一什いちぶしじゅうを、すっかり彼に打開けてしまいました。覗き眼鏡の秘密をあかす時には、それでも随分ずいぶん恥かしい思いをしたことですが、相手の聞き上手が、いつの間にか、臆病者の私を多弁にしてしまったのでした。


十一


 河野は私の話しに、非常な興味を覚えた様に見えました。ことに覗き眼鏡の仕掛は、彼を有頂天うちょうてんにさせました。

「その鏡というのはどれです」

 彼は何よりも先に、それを聞くのでした。私が夏外套を取って、例の仕掛を見せてやりますと、

「ホウ、なるほど、なるほど、うまいことを考えたものですね」

 彼はしきりに感心しながら、みずからそれを覗いて見るのです。

「たしかに、ここへそんな影が映ったのですね。今もおっしゃる通り、幻にしては変ですね。しかし、その女は(多分女でしょうね)少くとも大怪我をしているはずですから、それが今まで知れないというのもおかしいけれど」

 そして、暫くの間、彼は何か考えに耽っている様子でしたが、やがて、

「いや、必ずしも不可能ではありませんよ。もし被害者が怪我をしただけだとするとおかしいけれど、その女が死んでしまったとすれば、死骸を隠して、あとの血潮などは拭きとることも出来ますからね」

「でも、私がそれを見たのが、十時三十五分で、それから湯殿へ行くまでに、五六分しかたっていないのですよ。そのわずかの間に死体を隠したり掃除をしたり出来るものでしょうか」

「場合によっては出来ないこともありませんね」河野は意味ありげにいいました。「例えば……いや想像なんかあと廻しにして、もう一度湯殿をしらべて見ようじゃありませんか」

「しかし」私はなおも主張しました。「誰もいなくなった人はないのでしょう。だとすると、女が死んだというのも変ですよ」

「それは分りません。昨夜なんか泊らない客が沢山あって、随分混雑していた様ですから、誰か行方不明になっていないとも限りませんよ。そして、そこの家では昨夜の今朝のことですから、まだ気がつかないでいるかも知れません」

 そこで、私達は兎も角浴場へ行って見ることにしました。私としては行って見るまでもないと思うのですけれど、河野の好奇心が、もう一度彼自身の目で検べて見なければ承知しなかったのです。

 脱衣場に入ると、私達はあとのドアをしめ切って、旅館の浴場にしては贅沢ぜいたくなほど広い、そこの板間いたのまを見廻しました。河野は鋭いまなざしで、(彼の目は時として非常に鋭く光るのでした)その辺をジロジロ眺めていましたが、

「ここは朝早く、掃除することになっていますから、血の跡があるにしても、ちょっと見た位では分らぬ様に、拭きとってあるかも知れません」そして、ふと気がついた様に「オヤ、これは変ですね。このマットはいつもこんな鏡の前にはなかったはずだが。これの正しい位置は、この浴場の入口にあるべきですね」

 彼はそういいながら、足の先で、その棕櫚しゅろで作った幅の広いマットを、あるべき位置へおしやるのでした。

「ヤ、これは」

 彼が妙な声を出したので、驚いてそこを見ますと、今までマットで隠れていた床板には、殆ど二尺四方程の広さで、ベットリと、ドス黒いしみがついているのです。それが血潮を拭きとった跡であることは、一目見ただけで十分察しられました。


十二


 河野はたもとからハンカチを出して、その血の跡らしきものを、ゴシゴシとこすって見ましたが、余程よほどよく拭き取ってあると見え、ハンカチの先がほんのうっすりと赤くなるばかりでした。

「どうも血の様ですね。インキや絵の具の色とは違いますね」

 そして、彼はなおもその辺を調べ廻っていましたが、

「これを御覧なさい」

 といって指さす所を見ると、マットで隠れていた個所のほかにも、諸所に点々として血の跡らしきものを認めることが出来ました。あるものは柱や壁の下部に、あるものは板張りの上に、よく拭き取ってあるために、殆ど見分けられぬほどになっていましたけれど、そう思って見れば、成程なるほど非常に沢山の血痕らしいものがあるのです。そしてその点々たる血痕をつけて行きますと、負傷者あるいは死者は、明かに浴場の中へ入った形跡があります。しかし、それから先は、どこへ行ったものか、どこへ運ばれたものか、絶えず湯の流れているたたきになっているのですから、無論少しも分りません。

「兎も角帳場ちょうばへ知らせてやろうじゃありませんか」

 河野は意気込んでいうのです。

「エエ」私は非常に困って答えました。「しかし、例の覗き眼鏡のことだけは、お願いですからいわない様にして下さい」

「だって、あれは重大な手掛りですよ。例えば、被害者が女だったことだとか、短刀の形だとか」

「でも、どうかそれだけはいわないで下さい。恥しいばかりじゃありません。あんな犯罪じみた仕掛けをしていたとなると、何だか僕自身が疑われそうで、それも心配なのですよ。手掛りはこの血痕だけで十分じゃありませんか。それから先は僕の証言なんかなくっても警察の人がうまくやってくれるでしょう。どうかそれだけは勘弁かんべんして下さい」

「そうですか、そんなにおっしゃるのなら、まあいわないで置きましょう。では、兎も角知らせて来ますから」

 河野はいい捨てて、帳場の方へ走って行くのです。取残された私は、ただもう当惑し切って、ボンヤリとそこにたたずんでおりました。考えて見れば大変なことになったものです。私の見たものは、夢でもまぼろしでもなくて、本当の人殺しだったのです。この血痕の分量から考えると、さっき河野が想像した通り、恐らく被害者は死んでいるのでしょうが、犯人はその死体をどこへ持って行ったというのでしょう。いやそんなことよりも、殺された女は、そして殺した男は(多分男なのです)一体全体何者でありましょう。今頃になっても、宿の人達が少しも不審をおこさぬ所を見ると、止宿人ししゅくにんの内に、行方不明の者もないと見えます。しかし、誰がわざわざ外部から、こんな所へ相手をつれ込んで、人殺しなどやりましょう。考えれば考えるほど、不可解なことばかりではありませんか。

 やがて、廊下の方に数人のあわただしい跫音がして、河野を先頭に、宿の主人、番頭、女中などが浴場へ入って来ました。

「どうか騒がない様にして下さい。人気稼業ですからね。そうでもないことが、世間の噂になったりしますと、商売にさわりますからね」

 デブデブ太った湖畔亭の主人は、そこへ入るなり、ささやき声でいいました。そして、血痕を見ると、

「ナアニ、これは何かの汁をこぼしたのですよ。人殺しなんて、そんな馬鹿な、第一叫び声を聞いたものもなければ、内のお客様に見えなくなった人もありませんからね」

 彼はいて打消す様にいいながら、しかし、内心では十分おじけづいているらしく、

「けさ、ここを掃除したのは誰だ」

 と女中の方を振かえって聞きただすのでした。

三造さんぞうさんでございます」

「じゃ、三造をここへ呼んでおいで、静にするんだよ」

 三造というのは、そこの風呂きをしている男でした。女中に伴われて来た様子を見ますと、日頃お人好しの、少々抜けているという噂の彼は、まるで彼自身が人殺しの犯人ででもある様に、青くなって、おずおずしているのです。

「お前は、これを気がつかなかったのか」

 主人は怒鳴どなる様にいいました。

「ヘエ、一向に」

「掃除はお前がしたんだろう」

「ヘエ」

「じゃ、気がつかぬはずはないじゃないか。きっとなんだろう。ここにあった敷物をのけて見なかったのだろう。そんな掃除のしようがあるか。どうしてそう骨惜ほねおしみをするのだ。……まあそれはいいが、お前は昨夜ゆうべ、ここで何か変な物音でも聞かなかったかね。ずっとそのき場にいたんだろう。叫び声でもすれば聞えたはずだ」

「ヘエ、別にこれといって……」

「聞かないというのか」

「ヘエ」

 といった調子なのです。私共には眼尻にしわをよせて、猫撫声ねこなでごえでものをいう主人が、召使いに対すると、こうも横柄おうへいになるものかと、私は少からず悪感あくかんもよおしました。それにしても、三造というのは何という煮え切らない男でありましょう。


十三


 それから、「血痕だ」「いや血痕でない」と、主人はあくまで稼業かぎょうの触りを恐れて事を荒立てまいとするし、河野も自説を取ってくだらず、はしなくも、変てこな論争が初まったものです。

「あなたも妙な方ですね。こんな何がこぼれたのだか分りもしないものを見て、まるで人殺しがあったと極めてしまう様なもののいい方をなさるじゃありませんか。あなたは私の内へけちがつけたいのですか」

 主人はもう喧嘩腰けんかごしなのです。こうなって来ますと、私は、もしや河野が覗き眼鏡の一件を持出しはしないかと、もう気が気ではありません。いかな主人でも、それを打開うちあけさえすれば、納得するに相違ないのですから。

 が、丁度その時、一人の女中があわただしく入って来ました。彼女達は皆もう血痕のことを知っているのです。従って誰も彼も、立居振舞たちいふるまい常規じょうきいっしています。

「旦那様、中村家なかむらやさんから電話がかかりましてね」彼女は息を切らせていうのです。「あのう、長吉ちょうきちさんがまだ帰らないんでございますって」

 この突然の報告が、局面を一転させました。さすがの主人も、もはや落ついている訳には行きません。長吉というのは、程近き麓の町の芸妓なのです。それが昨夜湖畔亭に呼ばれて、来たことはたしかに来ていたのだそうですが、そのまま行方ゆくえが分らなくなったのです。中村家ではゆうべは湖畔亭に泊り込んでしまったものと思って(田舎のことで、そういう点はごくルーズなのです)別に心配もせず、やっと今頃になって電話をかけて来た訳でした。

「エエ、それは、大一座のお客様を送って、ほかうちの芸妓衆と一しょに、あの子も確に自動車に乗ったと思うのですが」

 主人の詰問きつもんにあって、番頭がへどもどしながら答えました。しかし、彼自身もどうやら、確な記憶はないらしい様子なのです。

 そこへ、騒ぎを聞いて主婦もやって来ますし、女中達も大勢集まって来ました。そして、長吉を見たとか見ないとか、口々に喋るのです。それを聞いていますと、しまいには、長吉という芸妓が、果してゆうべ来たのかどうか、それさえ怪しくなって来ます。

「いいえ、そりゃ来ていたことは確ですわ」すると、一人の女中が何か思い出した様にいいました。「あれは十時半頃でした、お銚子ちょうしを持って二階の廊下をあるいていますと、いきなり十一番のふすまがガラッといて、長吉さんが飛び出したのですよ。あの子が呼ばれていたのは、広間の方でしょう。私変に思って後姿を見てましたの、すると、長吉さんたら、まるで何かに追駈おっかけられでもしている様に、バタバタと向うの方へ走って行きましたわ」

「そうそう、それで思い出した」もう一人の女中がその尾についていうのです。「丁度その時分だわ。私が下のお手水ちょうずの前を通っていると、十一番さんの、あのおひげさんね、あの人がやって来て、今ここを長吉が通らなかったかって、ひどい剣幕けんまくで聞くのよ。知りませんっていうと、わざわざお手水の中へ入って、戸を開いて探しているじゃないか。あんまり変だったので、よく覚えているわ」

 それを聞きますと、私もまた、ある事柄に思い当りました。そして、思わず口を挟まないではいられませんでした。

「その十一番さんというのは、もしや洋服を着た二人づれで、大きなトランクを持っている人ではないかい。そしてゆうべおそくここを立った」

「エエ、そうですの。大きなトランクを一つずつ持っていらっしゃいましたわ」

 そこで、暫くの間、十一番の客について、あわただしい会話が取り交されました。番頭のいう所によりますと、彼らは何の前ぶれもなしに、突然出立しゅったつの用意をして下りて来て、帳場で宿泊料の支払いを済せると、あわてて、自動車も呼ばずに出て行ったというのです。もっとも湖畔の村には、乗合自動車の発着所があって、特別の料金さえ出せば、時間に構わず出させることが出来るのですから、彼等はその発着所まで歩いて行ったのかも知れませんが、それにしても出立の際の慌て方が、決して尋常ではなかったというのです。私の見た彼等の妙なそぶりといい、今の番頭の言葉といい、そして、長吉の行方不明、浴場の血痕、のみならず、鏡の影と彼等の出立との不思議な時間の一致。どうやらその間に聯絡がありそうな気がするではありませんか。


十四


 善後の処置は、このうちの主人である私が、どうともするから、あなた方は一応部屋に引取ってくれ、そして、余り騒がない様にしてくれと、主人はあくまで隠蔽いんぺい主義でありました。河野と私とは、邪魔者扱いにされてまで、この事件に容喙ようかいすることもありませんので、兎も角も私の部屋まで引上げました。

 私としては、何よりも先ず、例の覗き眼鏡の装置が心配でした。といって昼日中ひるひなか、それを取りはずすことは出来ません。

「ナニ、ここからでも、彼等が何をしているか、よく見えますよ」

 私の気も知らないで、河野はかぶせてあった外套を取って、又しても鏡を覗いているのです。

「何というすばらしい仕掛けでしょう、ホラ、御覧なさい。主人の仏頂面ぶっちょうづらが大きく写っていますよ」

 仕方がないので、私もそこを覗いて見ますと、成程、鏡の中では、太っちょの主人の半顔が、厚い唇を動かして、今何かいっている所でした。それが殆ど鏡の三分の一程の大きさに拡大されて写っているのです。

 先にもいった通り、覗き眼鏡で見る景色は、丁度水中に潜って目を開いた世界の様に、異様によどんで、いうにいわれぬ凄味すごみを添えているのです。時が時でもあり、ゆうべの恐しい記憶がまだ去らぬ私には、そこに写っているかったいの様な主人の顔から、いきなりタラタラと血が流れそうな気さえして、殆ど見るに耐えないのでありました。

「あなたはどう思います」暫くすると、河野は鏡から顔を上げていいました。「もし本当に長吉という芸者が行方不明だとすると、どうやら十一番の客というのが怪しくはないでしょうか。僕は知っていますが、その二人の男は四五日ぜんから泊っていたのですよ。余り外へも出ないで、時々芸者などを呼んでも、大きい声を出すでなく、大抵たいていはひっそりとして、何をしているか分らないのです。ちっとも遊覧客らしくないのです」

「しかし、彼等が怪しいとしても、この土地の芸者を殺すというのも変ですし、それに、たとえ殺したところで、その死体をどこへ隠すことが出来たのでしょう」

 私は、もやもやと湧き上って来る、ある恐しい考えを打消し打消し、心にもなくそんなことをいいました。

「それは、湖水へ投げ込んだのかも知れません。それとも又……彼等の持っていたトランクというのはどの位の大きさだったでしょう」

 私はギョッとしながら、しかし答えない訳には行きませんでした。

「普通のトランクでは、一番大型の奴でした」

 河野はそれを確めると、何か合図でもする様に、私の目を覗きました。いうまでもなく彼もまた、私と同じ考えを抱いているのです。二人は黙って睨み合っていました。それは口に出すには余りに恐しい想像だったのです。

「しかし、普通のトランクでは、とても人間一人は入りませんね」

 やがて、河野は青ざめた目の下をピクピクさせながらいうのでした。

「もうその話は、止そうじゃありませんか。まだ誰が殺したとも、いや殺人があったということさえきまっていないのですから」

「そうはいっても、あなたもやっぱり私と同じことを考えているのでしょう」

 そして私達は、又黙り込んでしまいました。

 一番恐しいのは、一人の人間を、二つのトランクに分けて入れたという想像でした。それは誰にも気づかれぬ様に、浴場の流し場で、死体を処理することは出来たかも知れません。そこではどんなにおびただしい血潮が流れても、皆湖水の中へ注ぎ込んでしまうのです。しかし、そこで彼等は、長吉の死体をまっ二つに切断したのでしょうか。私はそれに思い及んだ時、ヒヤリと自分の背骨におのがささった様な痛みを感じました。彼等は一体何をもってそれを切断したのでありましょう。あらかじめ兇器を用意していたか、それとも庭の隅から斧でも盗み出して来たのか。

 一人は入口のドアの所で見張り番を勤めたかも知れません。そして、一人は流し場で、なまめかしい女の死体を前に、斧をふり上げていたかも知れません。

 読者諸君、私の余りにも神経過敏な想像を笑わないで下さい。あとになって考えて見れば、おかしい様なことですけれど、その時の私達は、その血腥ちなまぐさい光景をまざまざと目の前に描いていた訳なのです。

 さて、その日の午後になりますと、事件はようやく現実味を帯びて来ました。長吉の行方は、中村家でも手を尽して探したらしいのですが、依然いぜんとして不明です。湖畔亭の帳場には、村の駐在所の巡査を初めとして、麓の町の警察署長や刑事などが、続々とつめかけて来ました。噂はもう村中にひろがり、宿の表は一ぱいの人だかりです。主人の心遣こころづかいにもかかわらず、湖畔亭殺人事件は、既に表沙汰おもてざたになってしまいました。

 いうまでもなく、河野と私とは、事件の発見者として、きびしい訊問じんもんを受けなければなりませんでした。先ず河野が、血痕を発見した当時の模様を詳しく陳述して引き下ると、次に私が署長の面前に呼び出されましたが、私はそこで河野の喋ったことを、更に又繰返すのでありました。

 訊問が一通り済んでしまってから、署長はふと気がついた様に、こんなことをいいました。

「だが、君達は、どうして湯殿へ行って見たのだね。まだ湯も沸いていなかったそうだが、そこへ何をしに入ったのだね」

 私はハッと答えにつまりました。


十五


 もしこの際本当のことを白状しなかったら、あとになって取返しのつかぬことになりはしないか。私までも、この殺人事件に何かの関係を持っている様に、疑われはしないか。そんな風に考えますと、覗き眼鏡の秘密をあかしてしまった方がいい様でもあります。しかし又、私が脱衣場の隙見をしていたということが、湖畔亭の人達に知れ渡った時の恥かしさを想像しますと、これも一層たまらないことであります。咄嗟とっさの場合、私は二つの内のどれを選ぶかに、非常に迷いましたけれど、内気者の私は、結局恥しさの方が先に立ち、十分危険は感じながらも、つい嘘をついてしまったのであります。

「脱衣場に自分の石鹸せっけんを置き忘れたかと思ったのです。実際はそうではなかったのですけれど、朝、顔を洗おうと思って、石鹸がなかったものですから、ふとそんな風に思って、脱衣場へ入って見たのです。そして、偶然あの血痕を発見したのです」

 私はそういいながら、そばにいた河野にそれとなく目くばせをしました。もし彼があとで本当のことをいってしまっては大変ですから、それをとめるためです。敏感な彼は、いうまでもなく、私の微妙な目の働きを悟った様でありました。

 それから、湖畔亭の主人を始めとして、番頭、女中、下男、さては泊り客に至るまで、ことごとく一応の取調べを受けました。検事などもまだ来着せず、それはほんの仮調べといった風のもので、別段人ばらいなどしないで、一室にゴチャゴチャとかたまっている人々を、次々と訊問して行くのでしたから、私はほとんすべての陳述を、側にいて聞くことが出来ました。

 河野は、私の無言の歎願たんがんれて、私の嘘と口を合せてくれました。それを聞いて私はやっと胸のつかえがおりた様に思ったことです。主人をはじめ宿の人達の陳述にも、別段新しい事実はなく、皆私達が前以まえもって聞いていた所と同じことでありました。そして、それらを綜合しますと、警察の人々もやはりトランクの紳士を疑うほかはない様に見えました。

 又、犯罪現場が、いとも綿密に調査せられたことは、申すまでもありません。私達は事件発見者としてそれにも立合うことが出来ましたが、老巧な刑事の一人は、板の間のしみを見ますと立所たちどころに血痕に相違ないと鑑定しました。これはあとになって分ったことですが、係の検事の意見などもあって、念のためというので、その血痕を拭き取った上、地方の医科大学に送って検査してもらった結果、この刑事の鑑定は少しも誤っていないことが分りました。それはほかの動物などのものではなく、まさしく人間の血液に相違ないことが判明したのです。

 引続き刑事が推定した所によりますと、血痕の分量からして、被害者は恐らく死んでいること、犯人はその死体を浴場のタタキで処理したに相違ないことなど、すべて素人しろうとの私達の想像した所と大差はないのでありました。

 もしや兇器その他の遺失物がないか、と浴場の周囲、嫌疑者である紳士の泊っていた十一番の部屋なども落ちなく調べられましたが、何一つ手がかりになる様な品物は残っていませんでした。

 推定被害者長吉の身許みもとについては、丁度抱主かかえぬし中村家の主婦が湖畔亭へかけつけていましたので、彼女から詳しく知ることが出来ました。その時彼女は、恐しく多弁に色々な事柄を述べ立てました。けれど、要するに、私共が考えてもこれはと思う様な疑わしい事実は何もないのでした。長吉は一年ばかり以前同じ地方のNという町から中村家に住換すみかえて来たもので、以前のことは兎も角、中村家へ来てからの彼女には何の変った所もなく、浮いた稼業の女にしては、少し陰気過ぎる気性きしょうであったのが、特徴といえばいいる位でありました。又情事関係も、普通の馴染客なじみきゃく以上のものはない様に思われるということでした。

「昨晩は、こちらの大一座の御座敷へ呼ばれまして、丁度ここにおります蔦家つたや〆治しめじさんも一緒でございましたが、八時頃に町を出ましたので、出る時も別に変った様子はなかった様でございますし、お座敷でも、ふだんの通りにしていたということでございます」

 主婦の申立ては、結局こんな風な取止めもないものに過ぎませんでした。その時、署長は長吉とトランクの紳士(宿帳の名前は松永某まつながぼうとなっておりました。従者と見える方の男はたしか木村きむらとかいいました。しかし、二人共それ以来ようとして行方が知れないのですから、名前をハッキリ申上げて置くほどのこともないのです)との関係について、彼女に何か思い当ることはないかとただしました。ところがこれに対しても、彼女は、長吉が両三度松永某の座敷へ呼ばれたという、すでに分っている事実の外に、何のつけ加える所もないのでした。そして、宿の番頭や〆治という芸者の証言によりますと、松永と長吉の関係は、ほんの酒の相手に呼ばれた程度をでないものであることも分りました。


十六


 結局その訊問によって判明したことは、私達があらかじめ知っていた以上のものではありませんでした。のみならず、例の覗き眼鏡のことを打開けないものですから、彼等は或意味ではこの事件について、私達よりも一層無智であるといわねばなりません。例えば兇行の時間でも、私達には十時三十五分頃と、なり正確に分っているに反して、彼等は、女中が長吉や松永の不審な挙動を見た時間から、兇行も多分その頃行われたものであろうと推定しているに過ぎないのです。

 そこで、兎も角も嫌疑者松永の行方捜索が行われることになりました。正確にいえば、この時はまだ、果して殺人罪が行われたかどうかさえ確められていた訳ではありません。脱衣場の血痕と、長吉の所在不明、松永の怪しむべき出立などの符合から、僅にそれを想像せしめる程度に過ぎませんでした。しかし、この場合、誰が考えても松永の行方捜索が先決問題であるのはいうまでもないことです。

 さいわい、河野が村の巡査とあいになっていたものですから、私達はのちに至って、その筋の意見や、捜索の実際をある程度までれなく聞くことが出来ましたが、一応湖畔亭の取調べが済むと、時を移さず行われた松永の行方捜索は、結局何の得る所もないのでした。それは主として、私と宿の番頭とが申立てた、彼等の出立当時の風体に基づいて、街道筋の町々村々をたずね廻った訳ですが、不思議なことには「洋服姿で、トランクを手にした者」という条件に当てはまる人物は、絶えて姿を見せないのでした。といって、その外の目印は、松永が肥え太った男で、鼻下びかひげを貯えているという位のものですから、もし彼等が、トランクをどこかへ隠して、たくみに変装をしてしまえば、人目にかからず逃げおおせることは、あながち不可能でもありません。

 彼等の逃走の最大の邪魔物は、いうまでもなくあの目立ち易いトランクです。彼等は必ず、それを途中で人知れず処分したのに相違ありません。警察でもその点に気づいて、これもまた出来る限りは探索したのですが、やっぱり思わしい結果は得られませんでした。

 それから数日の間というもの、村人を雇って、附近の山々は、申すに及ばず、湖水の底までも、殆ど遺憾いかんなきまでに捜索されましたが(湖水の岸に近い部分は割合に水深も浅く、それに水が綺麗ですから、船を浮べて覗き廻りさえすれば、その底にあるものは手に取る様に見えるのです)依然として何の得る所もありません。かくして、事件は遂に未解決のまま終るのではないかとさえ思われました。

 しかし、以上は表面上の事実に過ぎないので、その裏面には更に一層不可解な事柄が起っていたのでした。

 お話は元に戻って、事件の翌日、湖畔亭の取調べのあった、その夜のことになりますが、たとえ一時発覚をまぬがれたとはいえ、私はどうにも覗き眼鏡のことが気になって仕様がないものですから、夜の内にその装置を取りこわしてしまうつもりで、いらいらしながら人々の寝鎮まるのを待っていました。

 警察の人々が浴場の周囲を取調べた時、私はどんなにヒヤヒヤさせられた事でありましょう。樹木のためにおおわれていても、屋根の下へ入って見上げさえすれば、その鼠色の筒は、必ず疑いをいたに相違ないのです。ところが私にとって幸であったことには、刑事達は何かが落ちていないか、足跡でもついてはいないかと、地面ばかり見廻って、上の方には一向注意を払わなかったものですから、この不思議な装置は、あやうく発覚を免れることが出来た訳でした。

 しかし、明日にもなれば、又一層綿密な調査が行われることでしょうし、いついつまでも、このままに済むはずはありません。どうしても今夜のうちに取外さなければ、安心することは出来ないのです。

 その夜は事件のために、家の中が何となく騒がしく、常の日よりも余程おそくまで、話し声が絶えませんでしたが、でも、十二時を過ぎた時分には、やっと人々も寝鎮まった様子でありました。私はそれでも、用心にくはないと思い、殆ど一時近くまで、じっと待っていました。その間にも、私はたびたび覗き眼鏡の鏡を見て、脱衣場の人影を気にしていたのですが、さて、いよいよこれから窓の外へ忍び出て、秘密の仕事に取りかかるという時に、何気なく、もう一度そこを覗きますと、一刹那ではありましたけれど、ふと恐ろしいものが鏡の底にうごめいているのを発見しました。

 それは昨夜さくや見たのと寸分違わない、男の手先の大映しになったものでした。手の甲にはやっぱり同じ様な傷痕らしいものが見え、太くたくましき指の恰好から、全体の調子が、昨夜の印象と少しも違わないのです。

 それがチラリと見えたかと見ると、ハッと思う間に消え去ってしまいました。決して夢でも幻でもありません。私は事の意外さ、かつは恐しさに、最早もはや何の影もない鏡の表を見つめたまま、暫くはその場を動くことも出来ませんでした。


十七


 一時の放心を取戻すと、私はすぐさま浴場へかけつけました。しかし、そこには、前晩と同じ様に、何の気はいもないのです。殊に事件のために湯も立たず、人々は気味悪がって、そこへ近寄りもしませんので、脱衣場は一層物淋しく白々として見えました。そして、一寸見たのでは黒い板の間と区別がつかぬほどの、例の血痕ばかりがそれゆえに一層物凄く私の目を惹きつけるのでした。

 暫く耳をすましていても、無論何の物音も聞えては来ません。家中がシーンとしずまり返って、あの恐しい手首の持主の外には、恐らくは誰一人起きている者もないのです。そして、その男は、鏡の影を見てから大して時間もたっていないのですから、ひょっとしたら、まだその辺の隅に隠れていないとも限りません。それを考えると、私は無上むしょうに怖くなって、いきなり浴場を逃げ出したものであります。

 しかし、部屋へ帰って見ても、どうしてじっとしていることが出来ましょう。といって、宿の人を起してこの事実を知らせるには、やっぱり覗き眼鏡の秘密を打ちあける外はなく、私は今更、何ゆえ取調べのあった時それをいってしまわなかったかと、少からず後悔しなければなりませんでした。

 でも、そうしていても際限がありませんので、レンズの装置を取外とりはずすことなぞはあと廻しにして、私は慌ただしく唯一の相談相手である河野の部屋を訪れました。そして、よく寐入ねいっている彼を無遠慮に叩き起し、しかしあたりをはばかる囁き声で、事の仔細しさいを語るのでした。

「それは妙ですね」すると河野も変な顔をして「犯人がわざわざ帰って来るはずはありませんよ。それに、手首を見ただけで昨日の加害者だということがどうして分りました」

 この質問にあって、私は初めてそのことに気がつきました。私は迂闊うかつにも、まだ一度も手首の傷痕のことを彼に話していないのでした。それと同時に、松永と自称する男あるいはその同伴者の手首に、果して同じ傷痕があったかという点に思い及んで、その重大な事柄を一度も考えて見なかった私の愚さが、今更恥かしくなるのでした。

「そうですか。そんな目印があったのですか」

 河野は非常に驚いた様に見えました。

「エエ、あれは多分右手なんでしょうが、こうはすかけに、一文字いちもんじの太い線が、ドス黒く見えていたのです」

「しかし、それがあなたの見違いでないとすると、なおさら変ですね」河野はやや疑わし気に「私は宿の人達はいうに及ばず、泊り客なども注意して観察していましたが、手の甲に傷のある者は一人も見かけませんでしたよ。問題のトランクの男にも、そんなものはなかった様です。手の甲の陰影が、傷痕の様に見えたのではありませんか」

「いや影にしては色が濃いのです。傷痕ではなくても、何かそれに似たものでしょう。決して見違いではありません」

「そうだとすると、これは非常に重大な手がかりですね。その代りに、事件はますます分らなくなって来る」

「こんなことがありますと、僕は例の秘密の仕掛が心配でなりません。今の内に取りはずしてしまいたいのですが、何だかまだ、その辺に人殺しが潜伏している様な気がして、気味が悪いのですよ」

「やっぱり秘密にして置くのですか。非常にいい手掛りですがね。しかしまあ、僕だけにでも教えて下すってよかったですよ。実はね、僕はこの事件を自分で探偵して見ようと思っているのです。突然こんなことをいうと変に聞えるかも知れませんが、僕は以前から犯罪というものに、一種の興味を持っているのですよ」

 そして、これは私の邪推じゃすいかも知れませんけれど、河野はむしろ、覗き眼鏡の秘密をそのすじに知らせないで、彼の独占にして置くことを望んでいる様に見えました。その証拠には「そんなにおっしゃるのなら、僕も手伝って上げましょう」といって彼は私のレンズ装置取外しの作業を助けてくれたほどでありました。

 それは非常に危険な仕事でした。真夜中の事ですし、附近に人のいる部屋とてもありませんので、その点は安心ですけれど、先程の手首の男が、庭の暗闇に潜伏していて、危害を加えないとも限らず、又その筋の刑事などが、張込んでいまいものでもありません。私達は猿の様に木の枝を伝いながら、絶えず庭の方を注意して、ビクビクもので仕事を続けました。

 ボール紙の筒が、所々簡単に取りつけてあるに過ぎないのですから、取り外すのに面倒はありません。やがて私達はスッカリ仕事を終って、部屋の方へ引返そうと、屋根伝いに這っている時でした。

「誰だッ」

 私のうしろで、突然、低いけれど力の籠った叫声がしました。河野が何かを見つけて怒鳴ったのです。

 見ると、庭の向うの隅の所に湖水の薄明りを背景にして、一つの黒影こくえいうずくまっていました。

「誰です」

 河野がもう一度怒鳴りました。

 すると影の男は、物をもいわず立上り、つと建物の蔭にかくれると、一散いっさんににげ出した様に思われます。別段厳重な塀などがある訳ではなく、湖水の岸を伝って行けば、どこまでも逃げることが出来るのです。それを見ると、河野は矢庭に屋根から飛おりて、男のあとを追い駈ました。

 ほんの一瞬間の出来事です。アッと思う間に、逃げる者も追う者も、姿が見えなくなってしまいました。

 私は驚きの余り、屋根の上に腹這いになったまま、無様ぶざまな恰好で、永い間じっとしておりましたが、考えて見ますと、さっき河野の飛おりた地響きが、宿の人達に聞えたかも知れません。もしそうだとすると、私は一刻も早く自分の部屋へ帰らなければなりません。この変なボール紙の筒が人の目にかかっては、折角せっかくの苦心が水の泡です。いや、それよりも、真夜中に屋根を這っていたことを、何と弁明が出来ましょう。

 私は大急ぎで部屋に入ると、抱えていた品物を、トランクの底深く押し隠し、いきなりそこにしいてあった蒲団の中へもぐり込みました。そして、今にも宿の人達が騒ぎ出しはしないかと、ビクビクもので聞き耳を立てておりました。

 しかし、しばらくそうしていても、別段物音も聞えません。仕合しあわせにも、誰も気がついたものはない様です。私はやっと安心して、その代りに、にわかに気がかりになり出した河野の身の上を、又しても案じわずらうのでありました。

「駄目でしたよ」

 間もなく、木の枝をガサガサいわせて、窓の所に、河野の無事な姿が現れました。彼は部屋へ入ると、私の枕許まくらもとに坐って、追跡の結果を報告するのでした。

「馬鹿に逃げ足の早い奴で、とうとう見失ってしまった。しかし、その代りにいいものを拾いましたよ。又一つ証拠品が手に入ったというものです」


十八


 河野はそういいながら、さも大切そうに、ふところの中から一個の品物を取り出しました。

「これですよ。この財布ですよ」

 見ると、きん金具のついた、可也かなり上等の二つ折り紙入れです。それがかさ高くふくらんでいるのです。

「これが、あいつの逃げたあとに落ちていたのですよ。まっ暗で、曲者の風体なぞはよく見極められませんでしたが、この財布は丁度運よく、浴場の裏口から明りのさしている地面に、落ちていたものですから、気がついたのです。無論あいつが落したものに相違ありません」

 そこで、私達は非常な好奇心を以て財布をあらためました。そして何気なくその中味を取り出して見た時、私達は更に一驚をきっしないではいられませんでした。そこには、予期した様な、名刺その他の所有主を示す様なものは何一つなく、紙幣ばかりが、それも手の切れそうな十円札で約五百円入っていたのです。

「これで見ると今の男は、ひょっとしたら例のトランクの紳士かも知れませんね。あの男ならこの財布の持主として相当していますからね」

 何だかえたいの知れぬものが、私の頭の中でモヤモヤしていましたが、咄嗟とっさの場合まずそんな想像が浮ぶのでした。

「しかし、妙ですよ。あれが人殺しの本人だったとすると、今頃何のためにこの辺をうろついているのでしょう。逃げ出した所を見れば、刑事なんかでなくて、犯罪に関係のある者には違いないのですけれど、それにしても妙ですよ」

 河野は、考え考えいいました。

「曲者の姿形は少しも分りませんでしたか」

「エエ、アッと思う間に逃げ出したのですからね。暗闇の中を蝙蝠こうもりかなんかが飛んで行った感じでした。そんな感じを受けたというのが、つまり和服を着ていたからではないかと思います。帽子はかぶっていなかった様です。脊恰好せかっこうは、馬鹿に大男の様でもあり、そうかと思うと、非常に小さな男の様でもあり、不思議に覚えていません。湖水の岸を伝って庭の外へ出ると、向うの森の中へ逃げ込んだ様でした。あの深い森ですからね。追駈おっかけて見た所で、とても分るものではありませんよ」

「トランクの男は(松永とかいいましたね)肥え太った男でしたが、そんな感じはしませんでしたか」

「はっきりは分りませんが、どうも違うらしいのです。これは僕の直覚ですが、この事件には我々の知らない第三者がいるのではないかと思いますよ」

 河野は何事かを、薄々感づいている様な口調でした。それを聞くと、妙な悪寒おかんを覚えながら、私もまた彼と同じ感じを抱かないではいられませんでした。この事件には、何人なんぴともまだ知らない様な恐しい秘密が伏在しているのではないでしょうか。

「足跡が残っているかも知れませんね」

「駄目ですよ。この二三日天気続きで土が乾いてますし、それに庭から外の方は一杯草が生えてますから、とても見分けられませんよ」

「それでは、今の所、この財布が唯一の手掛りですね。これの所有者さえつきとめればいい訳ですね」

「そうです。夜があけたら、早速みんなに聞いて見ましょう。誰か見覚えているかも知れません」

 そうして、私達は、殆ど夜を徹して、この激情的な事件について語り合いました。私のはただ、子供が怪談を好むような、恐いもの見たさの好奇心にすぎませんでしたが、河野の方は犯罪事件の探偵に、深い興味を持っているらしく、言葉の端々はしばしにも、彼の判断力の異常なる鋭さがほの見えるのでした。

 考えて見れば、私達は事件の発見者であるばかりでなく、覗き眼鏡の影といい、今夜の出来事といい、又財布という確実な物的証拠まで手に入れて、警察の知らない色々な手がかりを握っている訳でした。そのことが一層私達を興奮させたものです。

「愉快でしょうね。もしわれわれの手で犯人をつきとめることが出来たら」

 私は、覗き眼鏡という心配の種がなくなったので、いくらか調子づいた気味で、河野のお株を奪って、こんなこともいって見るのでした。


十九


「じゃ、この財布は僕が預って置きましょう。そして、朝になったら早速番頭や女中に持主の心当たりを尋ねて見ましょう」

 そういい残して、河野が彼の部屋へ引取ったのは、もう殆ど夜あけに近い頃でした。私としては、無論一切の探索を河野に任せて、ただその結果を聞けばいいのですから、彼が新しい報告をもたらすまで、僅の時間でも寐て置こうと、話に夢中になって、寝衣ねまきのままふとんの上に坐っていたのを、元の様に枕について見ましたが、どうして一旦いったん興奮してしまった頭は、ねむろうとすればするほど、冴え返って、その内にあたりは段々明るくなる、階下では女中共の掃除の音が聞え出す、とても寐られたものではありません。

 私はソワソワと起き上って、第一に、例の仕掛の取りつけてあった、窓の所へ行き、そこをあけて、何か人目につく様なレンズ装置の痕跡でも残っていはしないかと、朝の光でもう一度調べて見ました。頭が疲れていたせいか、大丈夫だとは思いながら、ふと飛んでもない粗漏そろうがある様な気がして、心配でたまらなかったのです。しかしそれは私の取越し苦労に過ぎないことが分りました。ボール紙の筒を結びつけた針金さえ、一本残らず取去って、そこには何の痕跡も残ってはいないのです。

 それで、すっかり安心した私は、今度は昨夜異様なる人物のたたずんでいた場所へ目を移しました。二階の窓からでは、遠くてよくは分りませんけれど、河野のいった通り足跡などは残っていない様に見えます。

「だが、ひょっとして、地面の柔かい部分があるかも知れない。そこに曲者の足跡がついていないとは限らない」

 妙なもので、相手の河野が犯人の探偵に熱中しているのを見ると、私も彼にまけない気で、ふとその足跡を調べて見たくなったものです。それに一つは、夜来やらいの心遣いと睡眠不足のためにズキズキ痛む頭を、屋外のすがすがしい空気にさらしたくもあって、私はそのまま、顔も洗わないで、階下の縁側から、裏庭へと立出で、散歩のていを装いながら、浴場の裏口の方へとあるいて行きました。

 しかし失望したことには、成る程、地面はすっかり堅くなっていて、たまに柔かな所があるかと思えば草が生えていたりして、明瞭な足跡などは一つも発見することは出来ないのでした。でも、私はあきらめないで、なおも湖水の岸を伝いながら、庭のはずれを目ざして進んで行きました。

 すると、塀代りに庭を囲んでいる杉木立の中に、人影が見え、ハッと思うに、それがこちらへ近づいて来ました。早朝のことではあり、こんなようもない場所に人がいようとは、思いもかけなかったものですから、私はそこへ立すくみ、何かその男が昨夜の曲者ででもある様に、おずおずと相手の挙動を眺めたものです。

 併しよく見れば、それは怪しい者ではなくて、湖畔亭の風呂焚男ふろたきおとこ三造であることが分りました。

「お早うございます。エヘヘヘヘ」

 彼は私の顔を見ると、愚な笑顔で挨拶あいさつをしました。

「ヤア、お早う」

 私は言葉を返しながら、ふと「この男が何か知っているかも知れない」という気がしたものですから、そのまま立去ろうとする三造を呼び止めて、何気なく話しかけました。

「湯が立たないので、ひまだろう。しかし大変なことになったものだね」

「ヘエ、困ったことで」

「君はちっとも気がつかなかったのかい、人殺しを」

「ヘエ、一向に」

一昨日おとといの晩、湯殿の中で何か物音でもしなかったのかい。焚場とは壁一重だし、中を覗ける様な隙間も拵えてある位だから、何か気がつきそうなものだね」

「ヘエ、ついうっかりしておりましたので」

 三造はかかり合いになることを恐れるものの様に、きのうから何を問われても、一つとしてハッキリした返事をしないのです。思いなしか、私には彼が何事かをかくしている様にも見えます。

「君はいつもどこで寝ているの」

 私はふとある事を思いついて、こんな風に問いかけて見ました。

「へえ、そこの焚き場のそばの、三畳の部屋なんで」

 彼が指さすのを見ますと、浴場の建物の裏側に、焚き場の石炭などを積み上げた薄暗い土間があって、その隣に障子も何もない、まるで乞食小屋の様な畳敷きの所が見えます。

昨夜ゆうべもあすこで寝たんだね」

「ヘエ」

「じゃ、なかの二時頃に何か変ったことはなかったかい。僕は妙な音がした様に思うのだが」

「ヘエ、別に」

「眼を覚さなかったの」

「ヘエ」

 彼のいう所が本当だとすると、あの曲者追跡の騒ぎも、この愚者おろかものの夢を破らなかったと見えます。

 最早や尋ねて見ることもなくなったのですけれど、私は何となくその場を去り難い気持で、三造の姿をジロジロと眺めていました。不思議なことには、相手の三造の方でも、何かモジモジしながら、そこに突立っているのです。

 彼は、えりに「湖畔亭」と染抜いた、古ぼけた半纒はんてんを着て、ひざの所のダブダブになったメリヤスの股引ももひきをはいているのですが、そのみすぼらしい風体に似げなく、顔を綺麗にっているのが、妙に私の注意をひきました。この男でも髭を剃ることがあるのだな。私はふとそんなことを考えていました。彼は愚者にも拘らず、そうしておめかしをすれば、のっぺりとした好い男でした。狭い富士額ふじびたいが、一寸気にはなりましたけれど。


二十


 どういう訳か、それから私は、彼の手首に目をやりました。しかし、そこには別に傷痕などはありません。私は事件以来、妙に人の手首に注意する様になっていたのです。その癖が出たのでしょう。無論このおろかものの三造を疑う気持があった訳ではありません。

 ところが、そうして相手を眺めている内に、私はふとこんなことを考えました。

「昨日からたびたび聞かれても、この男は何も知らないといっているけれど、それは尋ね方が悪いのではなかろうか、尋ねる人は誰も時間をいわない。殺人の行われた時間をいわないで、ただ何か物音がしなかったかと聞いている。それでは答えの仕様もない訳だ。もし時間さえハッキリ示し得たならば、この男は、もっと別な答えをすることが出来るのではないだろうか」

 そこで、私は思い切って、三造にだけ時間の秘密を打ちあけて見ることにしました。

「人殺しがあったのは、一昨日の夜の十時半頃ではないかと思うのだよ」私は声を低めていいました。「というのはね、丁度その頃、僕は湯殿の方で変な叫声の様なものを聞いたのだよ。君は気がつかなかったかい」

「ヘエ、十時半頃」すると三造は何か思い当った様に、いくらか、表情をハッキリさせて、「十時半といえば、ああそうかも知れない。旦那、丁度その時分、私は湯殿にいなかったでございますよ。台所の方で夜食を頂いておりましたですよ」

 聞けば、彼は仕事の性質上、就寝時間が遅くなるので、従って食事も他の雇人やといにん達よりは、ずっとおくれて、泊り客の入浴が一順すんだ頃を見はからって、とることになっているのだそうです。

「しかし、食事といったって、大した時間でもあるまいが、その僅の間に、あれだけの兇行を演じることが出来るだろうかね。もし君が注意していたなら、食事の前かあとかに、何か物音を聞いているはずだよ」

「ヘエ、それが一向に」

「じゃね、君が台所へ行くすぐ前か、台所から帰ったあとかに、湯の中に人のいる様なはいはなかったかい」

「ヘエ、そういえば、台所から帰った時に、誰か入っている様でございましたよ」

「覗いて見なかったのだね」

「ヘエ」

「で、それはいつ頃だったろう、十時半頃ではないかね」

「よくは分りませんですが、十時半よりはおそくだと思います」

「どんな音がしていたの、湯を流す様な音だったの」

「ヘエ、馬鹿に湯を使っている様でございました。あんなにふんだんに湯を流すのは、うちの旦那の外にはありませんです」

「じゃその時のはここの旦那だったのかい」

「ヘエ、どうも、そうでもない様で」

「そうでもないって、それがどうして分ったの」

咳払せきばらいの音が、どうも旦那らしくなかったので」

「じゃ、その声は君の知らない人のだったの」

「ヘエ、いいえ、何だか河野の旦那の声の様に思いましたですが」

「エ、河野って、あの二十六番の部屋の河野さんかい」

「ヘエ」

「それは君、本当かい。大事な事だよ。たしかに河野さんの声だったのかい」

「ヘエ、そりゃもう、確でございます」

 三造は、昂然こうぜんとして答えました。しかし、私はこの愚ものの言葉を、俄に信用していいかどうか、判断に苦しまないではいられませんでした。初めの曖昧あいまいな調子に比べて、今の断定は少しく唐突とうとつの様に見えないでしょうか。そこで、私は更に質問をくり返して、三造のあやうげな記憶を確めようと試みましたが、どういう訳か、彼はその時の入浴者が河野であったことを、むやみに主張するばかりで、それについて何の確証もなく、結局私を満足させることは出来ないのでした。


二十一


 私はこの事件について、最初から一つの疑問を抱いておりました。それが、今三造の告白を聞くに及んで一層深くなったのです。仮令たとい相手が愚ものの三造であるとはいえ、そこには風呂番専用の小さな出入口もあれば、客に湯加減を聞く覗き穴もあるのですから、もし彼が焚き場にいたとすれば必ず兇行を悟られたに相違なく、それを知りながらあの大がかりな殺人を(或は死体切断を)やるというのは、余りに無謀なことではないでしょうか。

 或は犯人は、あらかじめ三造の不在を確めて置いて兇行を演じたのかも知れません。しかしそれにしても、夜食をとっていたという僅の時間に、どうしてあれだけの大仕事が出来たのでしょう。その点が何となく変ではありませんか。それとも、三造が聞いた湯を使う音というのは、犯人が風呂番の帰っているのも知らずに、浴場のタタキの血潮を流していた音なのでしょうか。そんな途方もない、悪夢の様な出来事が本当にあったのでしょうか。しかも一層不思議なのは、三造によれば、その湯を流していた男が、河野らしいというのです。では、非常に馬鹿馬鹿しい想像ですけれど、犯人は外ならぬ河野であって、彼は彼自身を探偵しようとしているのでしょうか。考えれば考える程、この事件は、ますます不思議なものに見えて来ます。

 私はそこに佇んだまま、長い間、奇怪な物思いにふけっていました。

「ここでしたか、さっきから捜していたのですよ」

 その声に驚いて顔を上げますと、そこには、いつの間に立去ったのか、三造の姿はなくて、その代りに河野が立っていました。

「こんな所で、何をしていらしたのです」

 彼はジロジロと私の顔を眺めながら尋ねました。

「エエ、ゆうべの奴の足跡をさがしに来たのですよ。しかし何も残っていません。それで、丁度ここに風呂焚の三造がいたものですから、あれに色々と聞いていた所なのです」

「そうですか、何かいいましたか、あの男」

 河野は、三造と聞くと非常に興味を覚えたらしく、熱心に聞き返しました。

「どうも曖昧でよく分らないのですが」

 そこで私は、わざと河野に関する部分だけはぶいて、三造との問答のあらましを繰返しました。

「あいつおかしいですね。飛んだ食わせ者かも知れない。うっかり信用出来ませんよ」河野がいうのです。「ところで、例の財布ですがね。持主が分りました。ここの家の主人のでした。四五日前に紛失して、探していた所だということです。どこでなくなったのか、残念なことには、それをまるで覚えないそうですが、兎も角、女中や番頭などに聞いて見ても、主人の物には相違ない様です」

「じゃ、それをゆうべの奴が盗んでいた訳ですね」

「まあそうでしょうね」

「そうして、それがあのトランクの男と同一人物なのでしょうか」

「サア、もしそうだとすると、一度逃げ出したあの男が、なぜゆうべここへ立戻ったか、……どうしてそんな必要があったのか、まるで分らなくなりますね」

 そうして、私達は又、暫く議論を戦わしたことですが、事件は、一つの発見がある毎に、かえってますます複雑に、不可解になって行くばかりで、少しも解決の曙光しょこうは見えないのでありました。


二十二


 私はとうとう殺人事件の渦中かちゅうに巻き込まれた形でした。眼鏡の装置を取はずすまでは、予定の滞在期間など構わずに早くこのいまわしい場所を逃げ出したいと思っていたのですが、さて、その装置もなくなり、我身の心配が取のぞかれてしまうと、今度は持前もちまえの好奇心が勃然ぼつぜんとして湧き上り、河野と共に、私達だけの材料によって、犯人の捜索をやって見ようという、大それた願いをすら起すのでした。

 その頃には、近くの裁判所からかかりの役人達も出張し、浴場のしみが人間の血液に相違ないことも分り、Y町の警察署ではもう大騒ぎを演じていたのですが、捜索の仕事は、その大がかりな割には、一向に進捗しんちょくせず、河野の知り合いの村の巡査の話を聞いて見ても、素人の私達でさえ歯痒はがゆくなるほどでありました。その警察の無力ということが、一つは私をおだてたのです。そして、もう一つは、河野の熱心な探偵ぶりが少からず私の好奇心を刺戟したのは申すまでもありません。

 私は部屋へ帰って、今風呂番三造から聞き込んだ事実について色々と考えて見ました。三造が食事から帰った時、浴場の中に何者かがいたことは間違いないらしく思われます。そして、その男が犯罪に関係のあることは、時間の点から考えて、殆ど確実であります。ところが、三造によれば、それが私と一しょに素人探偵を気取っている、あの河野であったらしいというのです。

「では、河野が人殺しの本人なのだろうか」

 ふと、私はいうにいわれぬ恐怖を感じました。もし浴場にあの様に多量の血潮が流れていず、或は流れていても、それが絵の具だとか他の動物の血液だとかであったならば、河野の風変りな性質と考え合せて、彼のいたずらだとも想像出来るのでしょうが、不幸にして血痕は明かに人間の血液に相違ないことが判明し、その分量も、拭き取った痕跡から推して、被害者の生命を奪うに十分なものだということが分っているのですから、その時浴場にいたのが河野に間違いないとすると、彼こそ恐るべき犯罪者なのであります。

 でも、河野は何ゆえに長吉を殺したのでしょう。又、その死体をいかに処分することが出来たのでしょう。それらの点を考えると、まさか彼が犯人だとは想像出来ません。第一先夜の怪しい人影だけでも、彼の無罪を証拠立てるに十分ではないでしょうか。それに、普通の人間だったら、殺人罪を犯した上、のめのめと現場にとどまって、探偵の真似なんか出来るはずがないのです。

 三造はただ咳払いの音を聞いて、それが河野であったと主張するのですが、人間の耳には随分聞き違いということもあり、まして、聞いた人が愚ものの三造ですから、これは無論何かの間違いでありましょう。しかし、その時浴場に何者かがいたことだけは、事実らしく思われます。三造は「あんなに湯を使う人はここの檀那だんなの外にありません」といっています。では、それは河野ではなくて湖畔亭の主人だったのではありますまいか。

 考えて見れば、あの影の男が落して行った財布も、その主人の持物でありました。尤も召使達が、主人の財布の紛失したことを知っていた位ですから、影の男と主人とが同一人物だと想像するのは無理でしょうけれど、三造の言葉といい、彼の一くせありげな人柄といい、そこに、何とやら疑わしい影がないでもありません。

 しかし、何といっても最も怪しいのは例のトランクの紳士です。死体の処分……二つの大トランク、……そこに恐しい疑いが伏在します。では、三造の聞いた人のけはいは、河野でも、宿の主人でもなくて、やっぱりトランクの男だったのでありましょうか。

 そのトランクの紳士については、警察の方でも唯一の嫌疑者として、手を尽くして調べたのですけれど、深夜湖畔亭の玄関を出てから、彼等がどの様な変装をして、どこをどう逃げたものやら、少しも分らないのです。トランクを下げた洋服男を見たものは、一人としてないのです。彼等はすでに遠くへ逃げのびたのでしょうか。それとも、まだこの山中のどこかに潜伏しているのでしょうか。先夜の怪しい人影などから想像しますと、或は潜伏している方が本当かも知れません。何かこう、えたいの知れぬ怖さです。どこかの隅に(ごく間近な所かも知れません)人殺しの極悪人がモゾモゾしているのです。


二十三


 その夕方のことでした。私はふと思いついて、ふもとの町から蔦屋の〆治という芸者を呼びました。別段三味線のが聞きたかった訳でも、〆治という女に興味を持った訳でもありませんが、女中などの話によると、彼女が死んだ長吉と一番の仲よしであったという所から、少し長吉の身状みじょうについて尋ねて見ようと考えたのです。

「暫くでしたわね」

 一度以前に呼んだことのあるのを覚えていて、年増としま芸者の〆治は、したしげな笑顔で、無造作な口を利きました。私の目的にとっては、それが何よりの幸でした。

「三味線なんかそちらへかたづけて置いて、くつろいで、今日は御飯でもたべながら話そうじゃないか」

 私は早速そんな風に切り出しました。それを聞くと〆治は一寸笑顔を引込ませて、不審らしい表情を浮かべましたが、やがて、およそ私の目的を察したらしく、今度は別種の笑顔になって、遠慮なくちゃぶ台の向う側に坐るのでした。

「長吉さん、ほんとうに可哀相なことしましたわ。あたしとはそりゃ仲よしでしたの。あの湯殿の血の痕は、こちらと河野さんとで、見つけなすったのですってね。あたし、気味が悪くて、とても見られませんでしたわ」

 彼女自身も私と同じ様に、殺人事件について話したい様子でした。彼女は被害者の朋輩ほうばいであり、私は事件の発見者なのです。私はそうして彼女とさかずきのやり取りをしている間に、何の不自然もなく、当初の目的を達することが出来ました。

「君は嫌疑者の、トランクを持っていた二人づれの男を知っているだろう。あの客と長吉とはどんな関係だったかしら」

 頃を見て私はそんな風に要点に入って行きました。

「あの十一番さんは、長吉さんに極ってましたわ。しょっちゅう呼ばれてた様ですの」

「泊って行ったことなんかは」

「それは一度もないんですって。私は長吉さんの口から、よくあの人達の噂を聞きましたが、殺される様な深い関係なんて、ちっともありはしないのです。第一あの人達はここへは始めての客で、それに来てから一週間になるかならないでしょう。そんな関係の出来よう道理がありませんわ」

「僕は一寸顔を見た切りだが、どんな風な男だろうね、あの二人は。何か長吉から聞いたことはないの」

「別にこれといって、まああたりまえのお客さまですわね。でも大変なお金持らしいということでした。きっと財布でも見たのでしょう。お金がザクザクあるって、長吉さんびっくりしてましたわ」

「ホウ、そんな金持だったのか。それにしては、大して贅沢な遊びもしていなかった様だが」

「そうですわね。いつも長吉さん一人切りで、それに、三味線も弾かせないで、陰気らしく、お話ばかりしていたのですって。毎日部屋にとじこもっていて、散歩一つしない変なお客だって、番頭さんがいってましたわ」

 トランクの紳士については、それ以上別段の話もありませんでした。そこで私は今度は、長吉自身の身の上に、話頭わとうを転じて行きました。

「どうせ、長吉には、いい人というのがあったのだろうね」

「エエ、それですわ」〆治は目で笑って「長吉さんという人は、至って黙り屋さんで、それにこちらへ来てから日が浅いので、あたしにしたって、あの人の心の中なんて、まるで分りゃしません。どっかこう、うちとけない所があるんですの。損なたちね。ですから深いことは分らないけれど、あたしの見た所じゃ、そんないい人なんてなかった様ですわ。こんな商売にも似合わない、まるで堅気かたぎの娘さんの様な子でしたわ」

「極った旦那という様なものは」

「まるでこの間の刑事さん見たいね」〆治は大業おおぎょうに笑いながら「それはありましたわ。松村まつむらさんていうの。この近くの山持の息子さんで、それや大変なのぼせ様でした。いいえ、その息子さんの方がよ。でね、この頃長吉さんをひかしてやるなんて話しまで持上っていたのですが。それを長吉さんの方では、又ひどく嫌って、どうしてもウンとはいわなかったのですよ」

「そんなことがあったのかい」

「エエ、あの晩にも、長吉さんの殺された晩ね。二階の大一座のお客様の中に、その松村さんがいて、平常はおとなしい人なんですが、お酒が悪くって、皆の前で長吉さんをひどい目に合せたりしたのです」

「ひどい目って」

「そりゃもう、田舎の人は乱暴ですからね。ぶったり叩いたりしましたの」

「まさかその人が」私は常談じょうだんの様にいいました。「長吉を殺したんではあるまいね」

「まあ、びっくりするじゃありませんか」私のいいようが悪かったのか、〆治はひどくおじた様で、「それは大丈夫ですわ、あたし刑事さんにもいいましたの、松村さんは宴会のおしまいまで、一度も席をはずしたことはなかったのです。それから、帰りには、あたしと同じ車に乗っていたのですから、疑う所はありませんわ」

 私が〆治から聞き得た所は、大体以上に尽きております。かくして、私は又もや、一人の疑わしき人物を発見したのです。松村という男は〆治の証言によれば、宴会の間に一度も座をはずさなかったというのですが、酒に乱れた大一座で、彼女とても多分酔っていたのでしょうから、〆治の言葉はそのまま信用していいかどうか、疑い出せば際限がないのです。

 食事をすまして、〆治を帰してしまうと、私は荒されたちゃぶ台を前に、ボンヤリと坐っていました。脳裏には、トランクの男を初めとして、河野に追われた影の男、湖畔亭の主人、今聞いた松村青年、はてはあの河野の姿までが、走馬燈そうまとうの様に浮かんでは消えるのです。それらの人には、無論これという証拠がある訳ではないのですが、それぞれ何となく疑わしく、妙に不気味に感じられるのでありました。


二十四


 さて、その夜のことでした。一時出入を禁じられていた問題の浴場は、客商売にさわるからという湖畔亭の主人の歎願が容れられて、丁度その日から湯が立つことになったのですが、〆治を帰してから、しばらく物思いに耽っていた私は、もう九時頃でもあったでしょうか、久しぶりでその浴場へ入って見る気になりました。

 脱衣場の板の間の血痕は、綺麗に削りとられていましたが、その削り跡の白々と木肌の現れた様は、かえって妙に気味悪く、先夜の血なまぐさい出来事を、まざまざと思い起させるのでした。

 客といっても、多くは殺人騒ぎにきもをつぶして、宿を立ってしまい、あとに残っているのは、河野と私の外に三人づれの男客だけです。例の覗き眼鏡の花であった都の娘さんの一家などは、事件の翌日、匆々そうそう出立してしまいました。そんなに客が少い上、多人数の傭人やといにん達はまだ入浴していないのですから、浴槽は綺麗に澄んで、その中に体を投げ出していますと、足の爪までも、一つ一つ見分けられるのです。

 男女の区別こそありませんが、都会の銭湯にしてもよいほど、広々とした浴槽、ガランとした洗い場、高い天井、その中央に白々と下った電燈、全体の様子が、夏ながら異様にうそ寒げで、ふとそこのたたきに、人体切断の光景など見える様な気もするのでした。

 私はさびしきまま、先日来顔馴染かおなじみの三造が、壁一重向うの焚き場にいることを思い出して、例の小さな覗き穴のふたをあけて彼の姿をさがしました。

「三造さん」

 声をかけると、

「ヘイ」

 と答えて、大きな焚き口の一角から、彼のボンヤリした顔が現れました。それが、石炭の強い火気に照し出されて、赤黒く光っているのが、これもまた異様な感じのものでありました。

「いい湯だね」

「エヘヘヘヘヘヘ」

 三造は暗い所で、愚ものらしく笑いました。

 私は変な気持になって、穴のふたをとじ、そこそこに浴槽を出ると、洗い場に立って体を拭き初めました。ふと気づくと、目の前の窓の擦りガラスが少しばかり開いて、先夜曲者の逃げ込んだという深い森の一端が見え、その真暗な所に、ただ一点白く光ったものがチラチラと動いていました。

 何かの見違いではないかと、暫く拭く手を休めて、じっと見ている内に、今度は少し位置をかえて、又チラチラと光るのです。その様子がどうやら、何者かが森の中を、さまよっている様に思われるのでした。

 そうした際のことですから、私はただちに先夜の曲者を聯想れんそうしました。もしあの男の正体を明かにすることが出来たなら、すべての疑問は氷解する訳です。私は湧き上る好奇心を押えかねて、大急ぎで着物を着ると、迂回うかいして庭から森の方へと進みました。途中河野のところへ寄って見ましたけれどどこへ行ったのか、彼の部屋はからっぽでした。

 星もない暗夜です。その中を、かすかに明滅する光るものをたよりに、探り足に進むのです。臆病者の私に、よくあの様な大胆な真似が出来たと、あとになっては不思議に思う程でしたが、その時は、私は一種の功名心で殆ど夢中だったのです。といって、曲者を捉えようなどと、考えた訳ではありません。ただ危険のない程度で、彼に近づいて、その正体を見極める積りでした。

 先にもいった通り、湖畔亭の庭を出ると、すぐに森の入口でした。私は大木の幹から幹へと身を隠しながら、恐る恐る、光りの方へ近づいて行きました。

 暫く行くと、案の定おぼろに人の姿が見えて来ました。彼は懐中電燈を照しながら、熱心に地上を見廻っているらしく思われます。何かこう、探し物でもしている形です。しかしそれが何者であるか、まだ遠くてよくは分りません。

 私は更に勇気をふるって、男の方へ近づいて行きました。幸、樹の幹が重なり合っている為、音さえ立てねば気づかれる心配はないのです。

 やがて私は相手の着物の縞柄しまがらから、顔形まで、ボンヤリと見える程に、間近く忍びよりました。


二十五


 怪しげな男は、老人の様に背をかがめて小さな懐中電燈をたよりに、何を探すのかくさむらを歩き廻っていました。電燈の位置によって、彼は真っ黒な影法師になったり、白っぽい幽霊に見えたりします。そして、ふと電燈を持ち換る時などには、あたりの木の枝が、不気味な生きものの様に、ゆらめき、時としては、私自身が燈光の直射にあって、思わず樹幹じゅかんに身を隠すこともありました。

 しかし、何をいうにも、豆の様な懐中電燈の光で、しかも彼自身それをふりかざしているのですから、その姿を見極めることは、非常に困難でありました。私は絶対安全の地位を選んで、丁度敵に近づいた兵士達が、地物ちぶつから地物へと、身を隠して行く様に、木の幹を縫って、少しずつ少しずつ進みました。

 この夜ふけに、森の中で探し物というのも変ですし、それが一向この辺で見かけた事のない都会風な男であるのも合点がってんが行きません。私は当然、先夜のあやしい男、河野が追跡して見失った男を思い浮べました。あれとこれとが同一人物ではないかと考えたのです。

 しかし、どうしてもその顔形を見極めることが出来ません。殆ど一間ばかりの所まで近づいていながら、やみの中のことですから、もどかしくも、それがかなわないのです。その晩は、ひどい風で、森全体がざわめいていましたので、少し位物音を立てても聞える気づかいはなく、そのためか相手は少しも私を悟らず、探し物に夢中になっています。

 永い時間でした。右往左往うおうさおうする懐中電燈の光をたよりに、私は根気よく男の行動を見守っていました。すると、いくら探しても目的の品物が見つからぬらしく、男はついにあきらめて、背を伸すと、いきなり懐中電燈を消して、ガサガサとどこかへ立去る気勢けはいです。見失ってはならぬと、私はすぐさま彼のあとをつけ始めました。つけるといっても、暗闇のことで、わずかに草を踏む跫音あしおとによって相手の処在を察するほかはなく、それが今いうひどい風の音だものですから、なかなかうまく聞き取れず、怖さは怖し、物慣れぬ私にはどうしていいか分らないのです。そして、まごまごしている内に、幽な跫音も聞えぬ様になり、私は遂に、その闇の中へ、たった一人でとり残されてしまいました。

 ここまでぎつけて、相手をとり逃しては、折角の苦心が水の泡です。まさか森の奥へと、逃げ込んだ訳ではないでしょう。彼奴かれは私に見られたことなど少しも気づいていないのですから、きっと街道筋へ出るに相違ありません。そこへ気がつくと、私はやにわに、湖畔亭の前を通っている村道に駈つけました。

 山里のことですから、宿のほかには燈火の洩れる家とてもなく、まっくらな街道には、人影もありません。遠くの方から、村の青年が吹き鳴しているのでしょう、下手な追分節おいわけぶし尺八しゃくはちが、それでも何とやら物悲しく、風の音にまじって聞えて来ます。

 私はその往還に佇んで、暫く森の方を眺めていましたが、そうして離れて見れば、怪物の様な巨木達が、風のために波打っている有様は、一層物凄く、ますます私に里心を起させるばかりで、さっきの異様の人物は、いつまで待っても出て来る様子がありません。

 十分もそうしていたでしょうか、もういよいよ駄目だとあきらめて、あきらめながら、でも何となく残りおしく、この間にもう一度河野の部屋を尋ねて、もし彼がいたら一緒に森の中を探して見ようと、大急ぎで、息せき切って宿の玄関へ駈込み、下駄を脱ぐのももどかしく、廊下をすべり彼の部屋に達するといきなりガラリと襖を開きました。


二十六


「ヤア、お入りなさい」

 仕合せと河野は帰っていて、私の顔を見ると、いつもの様に笑顔で迎えました。

「君、今森の中にね、又変な奴がいるのですよ。一寸出て見ませんか」

 私はあわただしく、しかし囁き声でいいました。

「この間の男でしょう」

「そうかも知れません。森の中で懐中電燈をつけて、何だか探していたのです」

「顔を見ましたか」

「どうしても分らないのです。まだその辺にうろうろしているかも知れません。一寸出て見ませんか」

「君は前の街道の方へ出たのですか」

「そうです。ほかに逃げ道はありませんからね」

「じゃ、今から行って見ても無駄でしょうよ。曲者は街道の方へ逃げる筈はありませんから」

 河野は意味あり気にいうのです。

「どうして分ります。君は何か知っているのですね」

 私は思わず不審を打ちました。

「エエ、実はある点まで範囲をせばめることが出来たのです。もう少しです。もう少しですっかり分ります」

 河野はいかにも自信のある様な口調でいいます。

「範囲をせばめたというのは」

「今度の事件の犯人は、決してそとから来たものでないということです」

「というと、宿の人の中に犯人がいるとでも……」

「まあそうですね。宿の者だとすると、森から裏口へ廻ることが出来ますから、街道の方なんかへは逃げないと思うのです」

「どうしてそんなことが分りました。それは一体誰です。主人ですか、傭人ですか」

「もう少しですから待って下さい。僕は今朝からそのことで夢中になっていたのです。そして、大体目星をつけることが出来ました。だが、軽率けいそつに指名することは控えましょう。もう少し待って下さい」

 河野はいつになく思わせぶりな、妙な態度に出ました。私は少からず不快を覚えましたけれど、それよりも好奇心が先に立ってなおも質問を続けるのでありました。

「宿の者というのは変ですね。僕も実はある人を、それが多分君の考えている人だろうと思いますが、一応疑って見たのですよ。しかしどうも分らない点があります。第一死体をどう処分したかが不明なのです」

「それです」河野もうなずきながら「僕もその点だけがまだ分らないでいるのです」

 言葉の調子では、彼もまた問題の財布の持主である所の、湖畔亭の主人を疑っている様子です。定めし彼は、私の知っている以上の確な証拠でも、握ったのでしょう。

「それに、例の手の甲の傷痕です。僕は注意して見ているのですが、宿の人達にも、泊り客にも、誰の手にもそれがないのです」

「傷痕のことは、僕はある解釈をつけています。多分あたっていると思うのですが、でもまだハッキリしたことは分りません」

「それから、トランクの男についてはどう考えます。今の所誰よりもあの二人が疑わしくはないでしょうか。長吉が彼等の部屋から逃げ出したことといい、トランクの男が長吉の所在を探し廻っていたことといい、彼等の不意の出立といい、そして二つの大型トランクというものがあります」

「いや、あれはどうも偶然の一致じゃないかと思いますよ。僕は今朝その事に気づいたのですが、君が殺人の光景を見たのが十時三十五分頃でしたね。それから、階段の下で彼等にあった時まで、どの位時間が経過していたでしょう。君の話しでは五分か十分の様ですが」

「そうです。長くて十分位でしょう」

「ソレ、そこが間違いの元ですよ。僕は念のために、彼等の出立した時間を番頭に聞いて見ましたが、番頭の答えもやはり同じことで、その間には五六分しかたっていないのです。その僅の時間で、死体を処分して、トランクにつめるなんて芸当が出来るでしょうか。たとえトランクにつめないでも、人殺しをして、血のりを拭き取り、死体を隠し、出立の用意をする、それだけのことが五分や十分で出来る筈がありません。トランクの男を疑うなんて実に馬鹿馬鹿しいことですよ」

 聞いて見れば、成程河野のいう通りです。私はまあ、何という馬鹿馬鹿しい妄想を描いていたのでしょう。警察の方では、私の錯覚なんか気がつきませんから、女中達の証言に照し合せて、てもなくトランクの男を疑ってしまった訳です。

「長吉を追っかけたことなんか、芸者と酔客との間にはあり勝ちの出来事です。妙な目で見るから事が間違うのです。不時の出立にしたって、彼等にどんな急用が出来たのか分りませんし、君とでッくわして驚いたというのも、誰だってそういう不意の場合にはびっくりしようじゃありませんか」

 河野は事もなげにいうのでした。

 それから暫くの間、私達はその飛んでもない間違いについて語り合いました。私は余りの失策に、河野に対しても面目めんぼくなく、馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しいとくり返すばかりで、それから先は真犯人のせんさくをする余裕もなく、うやむやの内に自分の部屋へ引下りました。

 その時、私は河野の口吻こうふんから、彼の疑っているのは宿の主人に相違ないと極めてしまい、私もその積りで応対していたことですが、あとになって、実はそうでないことが分りました。私という男は、この物語において、初めから終りまで、道化役を勤めていた訳です。探偵気取りもないものです。


二十七


 さてお話しは少し飛んで、それから三四日後の夜のことに移ります。そのあいだ別段お話しする程の出来事もありません。河野は毎日どこかへ出かけているらしく、いつ訪ねても部屋にいないので、その私を除外した態度に反感を持ったのと、一つは例の失策がおもはゆくて、私はこれまでの様に、素人探偵を気どる気にもなれませんでした。が、そうかといって、この好奇的な事件を見捨て、宿を出発するのも残念だものですから、もう少し待てという河野の言葉を当てにして、やっぱり逗留を続けていました。

 一方警察の方では、先にもいった、大仕掛けなトランク捜索の仕事を初め、森の中、湖水の岸と洩れなく探し廻ったのですが、結局何の得る所もない様子でした。そんな無駄な手数をかけさせるまでもなく、ただ一こと、例の時間の錯誤さくごについて申出ればよかったのかも知れませんが、河野が「死体の捜索にもなることだから、めるにも及ぶまい」というので、私もその気になって、警察に対してはあくまで秘密を保っていた訳です。

 私は機会がある毎に宿の主人の様子に注意するのと、河野の部屋を訪ねるのを日課の様にしていました。しかし主人の挙動にはこれといって疑うべき所もなく、河野は多くの場合留守なのです。何とも待ち遠しく、退屈な数日でした。

 その晩も、どうせ又いないのだろうとたかくくって、河野の部屋の襖を開いたのですが、案外にも、そこには主人公の河野ばかりでなく、村の駐在所の巡査の顔も見え、何か熱心に話し込んでいる様子でした。

「アア、丁度いい所です。お入りなさい」

 私がモジモジしているのを見ると、河野は如才じょさいなく声をかけました。私は普通なら遠慮すべき所を、どうやら事件に関する話しらしいので、好奇心を圧え難く、いわれるままに部屋の中へ入りました。

「僕の親しくしている人です。大丈夫な人ですから、どうかお話しを続けて下さい」

 河野は私を紹介しながらいいました。

「今もいう様に、この湖水の向うの村から来た男の話なのですよ」巡査は語りつづけました。「私はここへ来る途中、偶然そこを通り合せて、村の人達と話しているのを聞いたのですがね。何でもこの二日ばかり前の真夜中時分だということです。妙なにおいがしたのだそうです。気がついたのは、その男ばかりでなく、同じ村に沢山あったといいます。何の匂といって、それが火葬場の匂なんです。この辺には火葬場なんてないのですからね。どうもおかしいのですよ」

「人間の焼ける匂なんですね」

 河野は非常に興味を起したらしく、目をかがやかして問い返しました。

「そうです。人間の焼ける匂です。あの変な何ともいえない臭い匂ですね。それを聞きますと、私はふと今度の殺人事件のことを思い浮べたのです。丁度死体が紛失して困っている際ですからね。人間の焼ける匂というと、何か聯絡があり相な気がするものですから」

「この二三日ひどい風が吹いてますね」河野は何か思い当るふしでもあるのか、勢込んで「南風ですね。そうだ南風が吹き続いていたという点が問題なのだ」

「どうしてです」

「その匂のした村というのは、丁度この村の南に当りはしませんか」

「丁度南です」

「では、この村で人を焼けば、それは烈しい南風のために、湖水を渡って、向うの村まで匂って行く筈ですね」

「でも、それなら、向うの村よりは、ここでひどい匂がしそうなものですね」

「いや、必ずしもそうではありませんよ。たとえば湖水の岸で焼いたとすれば、風が激しいのですから、匂はみな湖水の方へ吹き飛ばされてしまって、この村では却て気がつかないかも知れません、風上ですからね」

「それにしても、誰にも気づかれない様に人を焼くなんて、そんなことが出来るとは考えられませんが」

「ある条件によっては出来ますよ。例えば湯殿のかまどの中などでやれば……」

「エ、湯殿ですって」

「エエ、湯殿の竈ですよ。……僕は今日まであなた方とは別に、僕だけでこの事件を探偵していたのです。そして殆ど犯人をつき止めたのですが、ただ一つ死体の仕末しまつが分らないために、その筋に申出もうしいでることを控えていた訳でした。それが今のお話しですっかり分った様な気がします」

 河野は私達の驚くさまを満足げに眺めながら、うしろを向いてかばんを引寄せると、その中から一挺の短刀を取り出しました。さやはなくて、真っ黒によごれた五寸程の白木のつかのものです。それを見ると、私はハッとある事に気がつきました。鏡の表に殺人の影を見た時、男の手に握られていたのが、矢張やはりその様な短刀であったのです。

「これに見覚えはありませんか」

 河野は私の方を見ていいました。

「エエ、そんな風な短刀でした」

 私は思わず口をすべらせ、そこに巡査のいることに気づいて、しまったと思いました。覗き眼鏡の秘密がバレるかも知れないからです。

「どうです、もう打開けてしまっては」河野は私の失言を機会に「いずれは分ることですし、それに、覗き眼鏡の一件から初めないと、私の話しが嘘になってしまうのですから」

 考えて見れば、彼のいう所はもっともでした。この短刀に見覚えのあることを明かにするためにも、手の甲の傷痕きずにしても、トランクの男の無罪を証する時間のことにしても、或は覗き眼鏡を取りはずしている時に発見した怪しい人影についても、その他種々いろいろな点で、あれを打開けてしまわないと工合が悪そうに思われます。

「実はつまらないいたずらをしていたのです」

 私はせっぱ詰ってこんな風に初めました。打開ける位なら河野の口からでなく、私自身で、せめて婉曲えんきょくに話したく思ったのです。

「この宿の湯殿の脱衣場に妙な仕掛を作ったのです。鏡とレンズの作用で、私の部屋からそこが覗ける様にしたのです。別に悪意があった訳ではありません。余りひまだものですから、学校で習ったレンズの理窟を一寸応用して見たまでなのです」

 そんな風に、なるべく私の変態的な嗜好などには触れないで、あっさりと説明したのです。巡査は余り突飛とっぴな事柄なので、一寸におちぬ様子でしたが、繰返して説明する内に、話の筋だけは悟ることが出来ました。

「そういう訳で、大切な時間のことなどを、今までかくしていたのは、誠に申訳ありませんが、最初のお調べの時、ついいいそびれてしまったものですから、それに一つは、そんな変てこな仕掛けをしていたために、ひょっとして私が犯罪に関係のある様に誤解でもされては困ると思ったのです。しかし、今の河野君のお話では、もう犯人も分ったというのですから、その心配はありません。何でしたらあとで実物をお目にかけてもいいのです」

「そこで、今度は私の犯人捜索の顛末てんまつですが」河野が代って説明を初めました。「先ず第一にこの短刀です。御覧なさい。刃先に妙なしみがついて居ります。よく見れば血痕だということが分るのです」

 全体が汚れて黒ずんでいるため、よく見ないと分らぬ程でしたが、その刃先には黒く血痕らしいものが附着しています。

「鏡に映ったのと同じ型の短刀で、その先に血がついているのですから、これが殺人の兇器だことは明白です。ところで、私はこの短刀をどこから発見したと思います」

 河野は幾分勿体もったいぶって、言葉を切ると、私達の顔をジロジロと見比べるのでした。


二十八


 河野がよごれた短刀を片手に、私達の顔を眺め廻した時、咄嗟の場合、私の頭には、その短刀の持主であるべき、嫌疑者の容貌が次々と現れては消えました。トランクの男、宿の主人、松村という長吉の檀那、懐中電燈の男……そして、最後まで残ったのはやっぱりの強慾なる湖畔亭のあるじでした。今河野の口を洩れる名は、必ず彼に相違ないと信じていました。ところが、河野は意外にも、私を初めかつて疑いをかけなかった飛んでもない一人の人物を名指したではありませんか。

「この短刀は、湯殿の焚き場の隅の、薄暗い棚の上で見つけたのです。あすこの棚には、三造の持物が、ほこりまみれになって、つみ上げてある。そこに汚いブリキの箱が隠してありました。最も人目につきにくい場所です。箱の中には、妙なものが這入っていました。まだそのままにしてありますが、綺麗な女持の財布だとか、金の指環ゆびわだとか、沢山の銀貨だとか、そして、この血なまぐさい短刀もです。……いうまでもなくこの短刀の持主は風呂焚きの三造です」

 村の巡査も私も、黙って河野の話の続きを待っていました。その位の事実では、あのおろか者の三造が犯人だなどとは、とても信じられなかったのです。

「そして、犯人もその三造なのです」河野は落ちつきはらって続けました。「この事件には疑うべき人物が沢山あります。第一はトランクの男、第二は松村という若者、第三はこの宿の主人。第一の嫌疑者については警察でも全力を尽くして捜索を行われた様ですが、今の所全く行方不明です。が、あの二人を疑うことは根本的に間違っています」

 そこで河野はかつて私に解きあかした時間的不合理について説明しました。

「第二の松村青年は、これも警察で一応取調べた様ですが、何等なんら疑うべき点のないことが分りました。芸者〆治と一つ自動車で帰宅して、それ以来疑わしい行動がないのですから、彼に死体を処理する余裕がなく、従って犯人でなかったことは明かです。第一惚れ抜いている女を殺す様なそれ程の動機もないのでした。それから例の怪しい人物が落して行った財布は、なる程、このの主人の所持品でしたが、ただそれだけのことで、その後取調べて見ますと、彼は事件発生の時刻には、自分の部屋でていたことが明かになりました。妻君さいくんを初め傭人の口うらがチャンと一致していたばかりでなく、子供までがそれを裏書きしてくれました。子供は嘘をいいません」

 ここで又、河野は先夜の怪人物について、一応の説明を加えました。

「つまり、われわれの疑った嫌疑者達は、皆本当の犯人ではないことが分ったのです。われわれは往々にして余り間近まぢかなものを、間近かであるがゆえに見落すことがあります。たとえ白痴に近いおろか者であるとはいえ、警察の人達はなぜ風呂焚き三造を疑って見なかったのでしょう。三助さんすけだって湯殿に附属した道具ではありません、やっぱり人間です。浴場の出入口は両方にあるのです。焚場からでも自由に脱衣場へ来ることが出来るのです。そして、あの短時間に、十時三十分から五分か十分の間に、死体を処理することの出来る立場にあるものは、三造をいて他にないのです。彼は一応、焚場の石炭の山のうしろへ死体を隠して置いて、深夜を待って、ゆっくり人肉料理を行うことが出来たかも知れません」

 河野は段々演説口調になって、得意らしく喋るのでした。

「しかし、あのおろか者です。その上、正直で通った三造です。私もまさかと思っていました。彼を疑い初めたのはごく最近のことなのです。昨日浴場の裏で三造に行逢ゆきあった時、ふと気がつくと、彼の手の甲に黒い筋がついている、当然私は例の犯人の手の傷痕を思い出さない訳には行きませんでした。ハッキリと、太く一文字にひかれた筋が、君のお話しのものとよく似ているのです。私はハッとあることに思い当って、しかし何気なく『どうしたのだ』と聞きますと、『ヘエ』と例の間の抜けた返事をして、三造はしきりに手の甲をこすりましたが、なかなかその筋が消えない。どうも焚場のすすのついた品物に強く触った跡らしいのです」

 河野はここでも又、巡査のために覗き眼鏡の像について、詳しい説明をつけ加える必要がありました。

「その鏡に見えた傷痕というのは、実はこれと同様の煤の汚れに過ぎなかったのではないか。私はそこへ気がついたのです。そんなぼんやりした像ですから、煤の一本筋がどうかして傷痕に見えなかったとはいえません。ね、君はどう思います?」

 河野に意見を聞かれて私は少し考えました。

「一刹那の出来事だったから、或は見違えたかも知れませんが」

 私の頭からは、まだ例の傷痕の印象が消えていない。従って、どうも煤の汚れだなどとは思えぬのです。

「鏡に映ったのは、こんな手ではなかったですか」

 すると、河野はいきなり彼の右手の甲を私の目の前に差し出しました。見るとそこには、手の甲一杯に、はすかけの黒い線が引かれています。それが余りに鏡で見たものと似ているため、私は思わず叫ばないではいられませんでした。

「それです、それです。君はどうして、そんな傷痕があるのです」

「傷じゃない。やっぱり煤ですよ。妙に似ていますね」河野は感心した様に自分の手を眺めながら「そういう訳で、三造を疑わしく思ったものですから、私はさっきいった焚場の棚を調べて見ました。無論三造のいない時にですよ。すると例のブリキ箱です。短刀を初め三造に似合わしくない品々です。で、その棚を捜す時にですね、あすこには二段に棚があって、その間隔が狭いものだから、下の棚の奥へ手を入れると、上の棚の裏側のさんで手の甲を擦る様になる、それが桟のかどだったりすると、そこに溜った煤のために、こんな跡がつく訳なんです」

 河野は手真似をまぜて話し続けます。

「これで愈々いよいよ三造が疑わしくなるでしょう。それからもう一つ、私は三造の性癖について誰も知らないことを知っていました。もう大部だいぶ以前です。私がここへ来て間もなくのことです。偶然三造が見かけによらない悪人であることを発見しました。奴はあれで手癖てくせが悪いのです。脱衣場に忘れ物などをして置くと、こっそり取ってしまうのです。私はその現場を見たことがある。でも、その時は大した品物でもなかったので、あばきもしないでそのまま見すごしたことですが、ブリキ箱を見て驚きました。これじゃ大泥坊です。馬鹿正直者なんて油断していると、往々こんな奴があります。その油断が彼を邪道に導く一つの動機にもなったのでしょう。それに白痴などにはよく盗癖の伴うことがありますからね」


二十九


「それならそれで、早く三造をとらえなければ」私は、浴場の方へ気が走って、河野の長々しい説明をもどかしく思いました。田舎の巡査なんて暢気のんきなもので、一向平気で腰を据えています。河野も河野です。説明はあとでもよさそうなものを、まだ長々と喋りつづけるつもりです。

「死体の処理に最も便利な地位に居ること、手の甲の煤跡、血のついた短刀、数々の贓品ぞうひん、つまり彼が見かけによらぬ悪人であること、これだけ証拠が揃えば、もう彼を犯人と見る外はないでしょう。あの朝脱衣場を掃除しながら、マットの位置のちがっているのを直さなかった点なども、数えることが出来ます。ただ殺人の原因は、私にもよく分りませんが、ああした白痴に近い男のことですから、我々の想像も及ばない様な動機がなかったとは限りません。酒にみだれた女を見て、咄嗟の衝動を圧え兼ねたかも知れない。それとも例の悪事を長吉に知られて、彼女の口から発覚することを恐れた余りの無分別かも知れない。それは想像の限りではありませんが、動機の如何いかんに拘らず、彼が犯人であることは、疑う余地がない様に見えます」

「それで、彼は長吉の死体を、浴場の竈で焼いてしまったとおっしゃるのですか」

 巡査が信ぜられないという顔で、口をはさみました。

「そうとより外には考えられません。普通の人には想像も及ばぬ残酷ですが、ああした男にはわれわれの祖先の残忍性が多量に残っていないとはいえません。その上発覚をあやぶむ理智において欠けています。存外やりかねないことです。彼は風呂焚きですからね。死体を隠す必要に迫られた場合、考えがそこへ行くのはごく自然ですよ。それに犯人が死体隠蔽の手段として、それを焼却した例は乏しくないのです。有名なウエブスター教授が友人を殺して実験室のストーヴで焼いた話、青髭あおひげのランドルーが多数の被害者をガラス工場のや田舎の別荘のストーヴで焼いた話などは、あなた方も多分御聞き及びでしょう。ここの浴場の竈は本式のボイラーですから、十分の火力があります。一度に焼くことは出来なくても、三日も四日もかかって、手は手、足は足、頭は頭と少しずつ焼いて行けば不可能なことではありません。幸いに強い南風が吹いていました。(白痴の彼はそんなことさえ考えなかったかも知れません)時は皆の寐静まった真夜中です。彼は滅多に人の来ない彼自身の部屋にとじ籠って、少しの不自然もなくそれをやってのけることが出来たのです。この考えは余りに突飛過ぎるでしょうか。では、あの対岸の村人が感じた火葬場の匂を何と解釈したらいいのでしょう」

「だが、ここで少しも匂のしなかったのが変ですね」

 巡査は半信半疑で更に問いかけました。私とても、何となくこの説には服し兼ねました。

「焼いたのは人の寐ている真夜中に相違ありません。少々匂が残っていても、朝までには強い風に吹き飛ばされてしまいます。竈の灰はいつも湖水の中へ捨てるのですから骨も何も残りません」

 実に途方もない想像でした。なる程火葬場の匂がしたという動かし難い事実はありましたけれど、それだけの根拠で、河野のように断じて了うのは余りに突飛ではないでしょうか。私は後に至るまでこの疑問を捨てることが出来ませんでした。それは兎も角、死体の処分如何いかんに拘らず、三造が犯人だということは、河野の検べ上げた事実だけで十分判明しました。

「早速三造を捉えて尋問して見ましょう」

 河野の演説が一段落つくと、村の巡査はやおら腰を上げたのです。

 われわれ三人は、庭づたいに浴場の焚場をめがけて近づきました。もう十時頃でした。やっぱり風の強いやみです。私はいうにいわれぬ、恐怖とも憐憫れんびんともつかぬ感情のために、胸の躍るのを禁ずることが出来ませんでした。

 焚場の戸口に来ると、田舎巡査にしろ、やっぱり御用を頂くお役人です、彼は専門家らしい一種の身構えと共に、手早くパッと戸を開き、いきなり内へ躍り込みました。

「三造ッ」

 低いけれども力の籠った声が響きました。ところが、折角の気構えが何の甲斐もなかったことには、そこには三造の影もなくて、見知り越しの使走つかいはしりのじいさんが、赤々と燃える竈の前に、ツクネンと腰かけているばかりです。

「三造けエ、三造なら夕方から姿が見えねえです。どけ行っただか、さっぱり行方が知れねえです。わしが代りにここの番をいいつかっちまってね」

 爺さんは頓狂とんきょうな顔をして巡査の問いに答えました。

 それから大騒ぎになりました。巡査が麓の警察署へ電話をかける。捜索隊が組織される。そして、それが街道の上下に飛ぶ。これでもう三造の有罪は愈々動かすことの出来ないものになった訳です。

 本式の捜索は翌朝を待って行われました。街道筋からそれて、森の中、たにの間、くまもなく探し廻ったのです。河野も私も、ゆきがかり上じっとしている訳には行きません。手を分って捜索隊に加わりました。その騒ぎがお昼頃までも続いたでしょうか。やっと三造の所在が分りました。

 湖畔亭から街道を五六町行った所に、山路やまじに向ってそれる細い杣道そまみちがあります。それを幾曲いくまがりして半里もたどると、何川の上流であるか、深い谷に出ます。谷に沿って危げな桟道さんどうが続きます。その最も危険な個所に少しばかり土崩れが出来ているのを、巡査の一人が発見したのです。

 幾丈の断崖の下に、問題の三造があけに染って倒れていました。下は一面の岩です。恐らくは夕やみの桟道に足をすべらせて落ちたのでしょう。岩にはドス黒い血が気味悪く流れていました。肝心の犯人は、何の告白もせぬ内に、これが天罰でありましょうか、惨死をとげてしまったのです。

 死体の懐中からは、河野がブリキ箱の中で見たという様々の贓品が発見されました。三造が逃亡の途中、不慮の死にあったことは明白です。

 死体の運搬、検事達の臨検、村一杯の噂話し、一日は騒ぎの内に暮れました。三造の部屋であった、焚場も十分取調べた様です。しかし、死体焼却の痕跡については遂に何物をも発見する事が出来ませんでした。

 事件は急転直下に落着したかと見えました。被害者の消失について、殺人の動機について、幾分いくぶん曖昧な点があったにせよ、三造の犯行は何人なんぴとも否定することは出来ません。大がかりなトランク捜索が何の甲斐もなくて、多少この事件をもて余していた裁判所は、三造の死によって、救われた様な気がしたかも知れません。検事達は間もなく麓の町を引上げました。警察は捜索をいつとなく中止した形となりました。そして、湖畔の村は、又元の静寂に帰りました。

 最も馬鹿を見たのは湖畔亭です。その当座は物好きな客達が、問題の浴場を見物かたがたやって来るのもありましたが、その内に、長吉の幽霊が出たとか、三造の呟き声が聞えたとか、噂は噂を生んで、附近の人でさえ湖畔亭を避ける様になり、遂には一人の客さえない日が続きました。そして、今では別の旅館が建ち、さしも有名であった湖畔亭は見るかげもなくさびれはてているという事です。

 読者諸君、以上が湖畔亭事件の表面上の物語りです。A湖畔の村人の噂話や、Y町の警察署の記録に残っている事実は、恐らくこれ以上のものではありません。それにも拘らず、私のお話の肝要な部分は、実はこれからのちにあるのです。といっても、うんざりなさるには及びません。その肝要な部分というのは、ほんの僅の、原稿紙でいえば二三十枚でかたづく事柄なのですから。

 事件が落着すると、私達は早速この気味悪い場所を引上げることにしました。事件以来一層親くなった河野とは、方向が同じだというので、一緒の汽車に乗りました。私はいうまでもなくT市まで、河野はそのずっと手前のIという駅で降りる予定でした。

 二人は銘々相当大型のかばんを下げていました。私のは例の覗き眼鏡を秘めた角鞄、河野のは古ぼけた横に長い奴、服装は両人共和服でしたけれど、そうして湖畔亭を出発する光景が、何とやらのトランクの二人づれに似ている様に思われました。

「トランクの男はどうしたのでしょうね」

 私はその聯想から思わず河野に話しかけました。

「さあ、どうしましたかね。偶然人目にかからないで、この村を出たという様なことではないでしょうか。いずれにしても、あの連中の詮議立せんぎだてはもう必要がありませんね。今度の犯罪にはちっとも関係がない筈ですから」

 そして、私達の上り列車は、思出多き湖畔の町を離れるのでした。


三十


「アア、やっと清々せいせいした。美しい景色じゃありませんか。あんな事件にかかわっている間、僕達はすっかりこういうものを忘れていましたね」

 窓外を過ぎ行く初夏の景色を眺めながら、河野はさも伸々のびのびといいました。

「ほんとうですね。まるきり違った世界ですね」

 私は調子を合せて答えました。しかし、私には、この事件の余りにもあっけない終局に、何となく腑に落ち兼ねる所がありました。例えば、死体焼却という様な世の常ならぬ想像に、それを裏書する火葬場の匂いがちゃんと用意されていたり、犯人が見つかったかと思うと、その時には彼はすでに死骸になっていたり、トランクの男の(少くともトランクそのものの)行方が絶対に分らなくなったり、考えれば考えるほど、異様な感じがします。もっと手近な事柄をいえば、今私の前に腰かけている河野自身の古ぼけた手提てさげ鞄で、その中には恐らく数冊の古本と、絵の道具と、幾枚かの着類きるいが入れてあるに過ぎないその鞄を、彼はなぜなればあんなに大切相にしているのでしょう。一寸開くたび毎に、一々錠前をおろして、その鍵をポケットの中へ忍ばせるのでしょう。私は妙に河野の古鞄が気になりました。それに連れては、河野自身の態度までも、何とやら気掛りです。

 従って、私の様子に幾らか変な所が見えたのでしょう。河野の方でも、何となく警戒的なそぶりを見せ初めました。そして、一層おかしいのは、非常にたくみにさりげない風を装ってはいますけれど、私には彼の目が(というよりも彼の心そのものが)頭の上の網棚にのせた古鞄に、恐しい力で惹きつけられていることが分ります。

 それは実際奇妙な変化でした。湖畔亭での十数日、当の犯罪事件に関係している間には、かつてその様な疑いの片鱗へんりんさえも感じなかった私が、今事件が兎も角も解決して、帰京しようという汽車の中で、ふと変な気持になったのです。しかし、考えて見れば、世に疑いというものは、多くはそうした唐突なきっかけから湧き出すのかも知れません。

 でも、もしあの時、河野の古鞄が棚の上から落ちるという偶然の出来事がなかったなら、私のそのあるかなきかの疑念は、時と共に消え去ってしまったかも知れません。それは多分急なカーヴを曲った折でしょう。あのひどい車体の動揺は、河野に取って全く呪うべき偶然でした。それにしても、その古鞄の転落した時、折悪おりあしく卸したと思った錠前が、どうかしたはずみでうまくかかっていなかったというのは、よくよくの不運といわねばなりません。

 鞄は丁度私の足下へ転がり落ちました。そして驚くべき在中品が、目の前に開いた鞄の口からあやうくこぼれ出す所でした。いやある品物は、コロコロと私の足の下へころがり出しさえしました。

 読者諸君、それがまあ何であったと思います。こまかく切り離した長吉の死骸(?)いやいやまさかそんなものではありません。実は何万円とも知れぬ莫大なお札の束だったのです。それから足の下へころがった品は、これが又妙なもので、医者の使うガラス製の注射器でありました。

 その時の、河野の慌て様といったらありませんでした。ハッと赤くなり、次ぎの瞬間には真青まっさおになって、大急ぎで落ちたものを拾い込み、鞄の蓋を閉じると、腰かけの下へ押込んでしまいました。私は今まで、河野という男は、理智ばかりで出来上った、鉄の様な人間かと思っていましたのに、このうろたえ様はどうでしょう。彼はきわどい所で弱点を暴露ばくろしてしまいました。

 河野がどの様な手早さで鞄のふたをとじたとて、その中のものを私が見逃そうはずはありません。河野も無論それを知っているのです。知りながら、彼はやがて顔色を取り直すと、さも平気な様子で、前の会話の続きを話し出すのでした。

 莫大な紙幣と注射器。これが一体何を意味するのか、余りの意外さに、私は暫く物もいわないで思いまどっておりました。


三十一


 しかし河野がどんなに沢山の金を所持していようと、又は商売違いの医療器械を携帯していようと、それはただ意外だというにとどまり、別段とがむべき筋のものではありません。といって、このまま謎を謎として別れてしまうのも、非常に心残りです。私は、どんな風にしてこの困難な質問を切り出したものかと、とつおいつ思案にくれました。

 河野は非常な努力を以て、何気ない体を装い続けていました。少くとも私にはそんな風に見えたのです。

「君、覗き眼鏡は忘れずに持って来たでしょうね」

 彼はそんな突拍子とっぴょうしもないことを尋ねたりしました。これは無論彼自身の狼狽ろうばいを隠すための無意味な言葉に過ぎなかったのでしょうが、取り様によっては「君だってそんな秘密を持っているんだぞ」というおどし文句の様にも考えられないことはありませんでした。

 私達の無言の葛藤かっとうを乗せて、汽車はいつの間にか数十里の山河を走っていました。そして、間もなく河野の下車すべき駅に到着したのです。ところが、私はその駅をうっかり忘れていて、発車の笛が鳴ってから、やっと気がつくと、どうしたものか、河野は泰然として下車する模様も見えません。

「君、ここで降りるのじゃありませんか」

 私としても、そこで降りてしまわれては困るのですが、咄嗟の場合思わずこう声をかけますと、河野はなぜか一寸赤くなって、

「ああそうだった。なにいいです。この次まで乗り越しましょう。もう、とても降りられないから」

 と弁解がましくいいました。いうまでもなく彼はわざと降りそくなったのです。それを思うと、私は幾らか無気味に感じないではいられませんでした。

 二マイル何十チェンの次の駅は、またたくひまにやって来ました、その駅の信号標が見え初めた頃、河野はもじもじしながら妙なことをいい出したものです。

「君、折入ってお願いしたいことがあるんですが、一汽車遅らせて下さる訳に行きませんか。この駅で下車して、つぎの上りが来るまでの間、三時間程ありますね、そのあいだ僕のお願いを聞いて下さることは出来ないでしょうか」

 私は河野の不意の申出に、面くらいもし、気味悪くも思いましたが、彼が余り熱心に頼むので、まさか危険なこともあるまいと考え、それに好奇心を押え兼ねた点もあって、兎も角彼の提案をれることにしました。

 私達は汽車をおりると、駅前のとある旅籠屋はたごやに入り、少し休ませて貰いたいといって、奥まった一室を借り受けました。隣室に客のいる様子もなく、密談にはおあつらえ向きの部屋です。

 註文の酒肴しゅこうを運んで、女中が立去ると、河野は非常にいいにく相に、もじもじして、てれ隠しに私に酒をすすめなどしていましたが、やがて、青ざめた頬の筋肉を、ピリピリと痙攣けいれんさせながら、思い切ったていで初めました。

「君は僕の鞄の中のものを見ましたか」

 そういって彼にじっと見つめられますと、何の恐れる所もない筈の私までが、多分まっ青になっていたことでしょう、動悸どうきが早くなって、わきの下からタラタラと冷いものの流れるのを感じました。

「見ました」

 私は相手を興奮させない様に、出来るだけ低声ていせいで、しかし本当のことを答えるほかはありませんでした。

「不審に思いましたか」

「不審に思いました」

 そして暫く沈黙が続くのです。

「君は恋というもののねうちを御存じですか」

「多分知っていると思います」

 それはまるで学校の口頭試験か、法廷の訊問でありました。普通の際なれば、すぐにも吹き出してしまう所でしょうが、その滑稽こっけいな問答を、私達はまるで果し合いの様な真剣さで続けたものです。

「それでは、恋のためのある過失、それはひょっとしたら犯罪であるかも知れません、少しも悪意のない男のそういう過失を、君は許すことが出来るでしょうか」

「多分出来ます」

 私は十分相手に安心を与える様な口調で答えました。私はその際も、河野に好意を感じこそすれ、決して反感は抱いていなかったのですから。

「君はあの事件に関係があったのですか。もしや君こそ最も重要な役割を勤めたのではありませんか」

 私は思い切って尋ねました。十中八九私の想像のあやまっていないことを信じながら。

「そうかも知れません」河野の血走った目がまたたきもせず私を睨みつけていました。「もしそうだとしたら君は警察に訴えますか」

「恐らくそんなことはしません」私は言下げんかに答えました。「もうあの事件は落着してしまったのです。今更新しい犠牲者を出す必要がないではありませんか」

「それでは」河野はいくらか安心したらしく「僕がある種の罪を犯したとしても、君はそれを君の胸だけに納めて置いて下さるでしょうか。そして、僕の鞄の中にあった妙な品物についても忘れてしまって下さるでしょうか」

「友達の間柄じゃありませんか。誰だって自分の好きな友達を罪人にしたいものはありますまい」

 私は強いて軽い調子でいい放ちました。事実それが私の本当の心持でもあったのです。

 それを聞くと河野は永い間黙っていましたが、段々渋面じゅうめんを作りながら、果ては泣かぬばかりの表情になって、こんな風に始めるのでした。

「僕は飛んでもないことをしてしまった。人を殺したのです。ほんの出来心からやりはじめた事が意外に大きくなってしまったのです。僕はそれをどうすることも出来なかったのです。それ位のことが分らないなんて、僕は何という愚者おろかものだったのでしょう。恋に目がくらんだのです。実際魔がさしたのです」

 河野にこうした弱々しい反面があろうとは、実に意外でした。湖畔亭での河野と、今の彼と、何という相違でしょう。妙なことですが、この河野の弱点を知ると、私は以前よりも一層、彼に好意を感じないではいられませんでした。

「では君が殺したのですね」

 私は茶話ちゃばなしでもしている調子で、なるべく相手の心を痛めない様に問いかけました。

「エエ、僕が殺したも同然です」

「同然というと」私は思わず不審を打ちました。

「僕が直接手をかけて殺した訳ではないのです」

 少し話が分らなくなって来ました。彼の手で殺したのでないとすると、あの鏡に映った男の手は、一体全体誰のものであったのでしょう。

「じゃ直接の下手人は」

「下手人なんてありません。あいつは自分自身の過失で死んだのですから」

「過失といって……」ふと私は飛んでもない間違いに気づきました。「ああ、君は三造のことをいっているのですか」

「無論そうです」

 その明瞭な返事を聞くと、私の頭はかえって混乱して来ました。


三十二


「じゃ、君が殺した殺したといっているのは、あの三造のことだったのですか」

「そうですよ。誰だと思っていたのです」

「いうまでもない、芸妓の長吉です。この事件には長吉の外に殺されたものはないじゃありませんか」

「ああ、そうそう、そうでしたね」

 私はあっけにとられて、河野の頓狂な顔を見つめました。一体どうしたというのでしょう。この事件には、何か根本的な大錯誤があったのではないでしょうか。

「長吉は死んでやしないのですよ。かすり傷一つ負っていません。ただ姿を隠した切りなんです。僕は自分のことばかり考えていたものだから、つい大切のことをお話しするのを忘れてしまったのですよ。死んだのは三造一人です」

 この事は、覗き眼鏡の影に驚かされた時、私も一応は考えぬではなかったのです。あれはただ狂言に過ぎぬのではないかと。しかしその節も説明して置いた通り、様々の事情が到底そんな想像を許さなかったではありませんか。それ故、今河野の事もなげな言葉を聞いたばかりでは、却て馬鹿にされた様な気がして、俄に信じる気にもなれません。

「本当ですか」私は半信半疑で聞き返しました。「そんな死にもしないものの為に、警察があの様な大騒ぎをやったのですか。僕には何が何だかさっぱり訳が分りません」

御尤ごもっともです」河野は恐縮し切っていいました。「僕がつまらない策略をろうしたために、何でもない事が、飛んだ大問題になってしまったのです。そして人間一人の生命を奪うようなことが起ったのです」

「初めから話してくれませんか」

 私はどこから問いかけていいのか、見当さえつき兼ねるままに、彼にこう頼むより外はありませんでした。

「無論それをお話ししようと思っているのです。先ず僕と長吉との深い関係についてお話ししなければなりません。あの女と僕とは実は幼馴染おさななじみなんです。これだけいえば君には十分想像がつきましょう。幼馴染を忘れ兼ねた僕は彼女がほかの町で勤めに出てからもしばしばおう瀬を重ねていました。尤も貧乏な僕には(ここで私は彼の鞄の中の莫大な紙幣を思い出さない訳には行きませんでした)そうそう彼女の所へ通う自由がありません。のみならず私はこうして旅から旅を歩いている身ですから、時には半年も一年も顔を見ないで過す時もありました。今度がやはりそれで、一年ばかり前にこの地方へ住み換えて来たという噂は耳にしていたのですが、(それが僕をこの山の中へ導いた一つの動機に相違ありません)どの町に何という名で出ているか、少しも知りませんでした。長吉が外ならぬ私の恋人であることを知ったのは、事件のたった一日前のことでした。それまでもあの女は度々湖畔亭へ来ていた筈ですが、どうした訳か一度も出あわなかったのです。それがあの日の前日、ふと廊下ですれ違って、お互に気がつくと、御免下さい、私はそっとあの女を自分の部屋に連れ込んで、まあ積る話をした訳なんです。詳しいことは時間がありませんから省きますが、その時あの女はいきなり泣き出して「死にたい死にたい」といい、遂には私に一しょに死ぬことを迫るのです。一体に内気な女で多少ヒステリーも手伝っていたのでしょうが、最初から芸者稼業がいやであった所へY町へ住みかえて以来、友達らしい友達はなく、朋輩にもいじめられる様なことが多かったらしいのです。そこへ抱主かかえぬし因業いんごうで、最近持上った例の松村という物持の身受話が段々うるさくなり、うんというか、借金を倍にしてほかへ住みかえでもするか、二つに一つののっぴきならぬ場合にさし迫っているのでした。死にたいというのも、あの女の気質にしては、まあ尤もなのです。そんな事情も事情ですが、何よりも私を夢中にしたのはあの女がいまだに私を思い続けていてくれる誠意でした。私は出来ることなら、女の手をとって、この世の果てまでも落ちのびたく思ったことでした。

 ところが丁度そこへ、幸か不幸か妙な出来事が突発したのです。たとえ、その突発事件が起ったところで、もう一つの条件がなかったらあんな騒動にもならないで済んだのでしょうが、どうも不運な(といっては虫のいい話ですけれど)事情が揃っていたのですね。もう一つの事情というのは、実は君の覗き眼鏡です。あの仕掛を僕は前以まえもって知っていたのです。これが僕の悪い癖なんですが、他人の秘密を探る、探偵へきとでもいうのでしょうか、その性質が多分にあって、あの装置なども殆ど最初から知っていたばかりか、君の留守中に部屋へ忍び込んであの鏡を覗いて見さえしたのです」

「一寸待って下さい」

 私は河野の言葉の切れ目を待ち構えて、口をはさみました。彼の告白がいつまでたっても、私の疑問の要点に触れぬもどかしさに絶えかねたのです。

「長吉が死んでいないというのは、どうも不合理な気がして仕様がありません。あの脱衣場の夥しい血潮は誰のものなんです。人間の血液だということは医科大学の博士が証明しているじゃありませんか。あれ程の血潮を一体全体どこから持って来たというのです」

「まあそうあせらないで下さい、順序を追ってお話ししないと、僕の方がこんぐらかってしまうのです。その血のこともすぐに御話しますから」

 河野は私の中言ちゅうげんを制して置いて、更に彼の長々しき告白を続けるのでありました。


三十三


「そういう訳で、僕は、脱衣場の大姿見のどの辺の所へ立てば、身体のどの部分が覗き眼鏡に映るかということを知っていたのです。丁度あの当時、覗き眼鏡が望遠鏡の様な装置になっていて、姿見の中央の部分だけが、大きく映るのでしたね。僕は君の留守中に入浴者の裸体姿の大映おおうつしを、盗み見たことがあります。そして、恐らく君もそうだったのでしょうが、僕はあの夢の様な無気味な影像えいぞうに、一種異様の魅力を感じたのです。そればかりか、もしあの水底の様によどんだ鏡の面に、何かこう血腥い光景が、例えば豊満な裸女の肩先へ、ドキドキ光る短刀がつきささって、そこから真赤な血のりが流れ出す光景などが、映ったならば、どんなに美しいだろう、という様な空想さえ描いたのでした。いうまでもなく、それはほんの気まぐれな思いつきに過ぎないもので、さっきいったもう一つの突発事件がなかったなら、それを僕自から実演しようなどとは思いも寄らぬことでした。

 あの晩、十時過ぎでもあったでしょうか、兎も角殺人事件のすぐ前なんですが、もう床についていた僕の部屋へ、突然長吉が駈込んで来ました。そして隅っこの方へ小さくなって『かくまって下さい。かくまって下さい』と上ずった声で頼むのです。見れば顔面は青ざめ、激しい呼吸のために肩が波打っています。余り唐突のことで、僕はあっけに取られてぼんやりしていましたが、間もなく廊下にあわただしい跫音がして『長吉はどこへ行った』などと聞いている声も聞えます。声の主はどうやらトランクの二人連の一人らしいのです。

 それから随分方々ほうぼう探し廻っていた様ですが、まさか長吉と僕とが馴染の間柄で、僕の部屋に逃げ込んだとは、女中にしたって想像もしなかったでしょう。トランクの男はとうとう空しく引返した様子でした。僕は何が何だかさっぱり訳が分らず、やっと安心したのか部屋の真中へ出て来た長吉を捉えて、兎も角も事の仔細を問いただしました。すると、長吉がいいますには、丁度その晩も例の旦那の松村なにがしが宴席に来ていて、酔ったまぎれに余りひどい事をいったりしたりするので、長吉は座にいたたまらず、その場をはずして、あてもなく廊下を歩き廻っていたのだそうですが、通りすがりに、トランクの男の部屋のふすまがあいていて、中に誰もいないのを見ると、長吉はふとある事を思いついたのです。それは、御承知でしょう、長吉は度々トランクの男に呼ばれていたのですが、何かの機会にあのトランクの中に大金の隠されているのを知ったのです。手の切れ相なお札の束が幾万円とも知れず入っているのを見たのです。マア待って下さい。おっしゃる通りこの鞄の中にあるのがその金ですが、どうして私の手に入ったかはこれから追々おいおいお話しますよ。

 長吉はその金のことを思い出し、あたりに人のいないのを見て、悪心を起したのです。その内のほんの一束か二束で、明日からでも自由の身になり、いやな松村の毒手をのがれることが出来る。そう思うと、松村の乱暴でいくらか取りのぼせていたのでしょうね。彼女はいきなり部屋へ入って、トランクを開こうとしました。しかし、無論錠前が卸してあるのだから、女の細腕で開くはずがない。それを、彼女はもう夢中で、蓋の隅の方を無理に持上げて、そのすき間から指を入れ、やっとの思いで数十枚のお札を抜き出すことが出来ました。が、そうした事に不慣れの彼女はわずか一束の紙幣を抜きとるのに可成の時間を費したらしく、ふと気がついた時には、いつの間にか、うしろにトランクの主が恐しい剣幕けんまくで立ちはだかっていたのです。

 長吉が僕の部屋へ逃げ込んで来たのは、まあそういう訳だったのです。が、ここに不思議なのは、トランクの持主の態度でした。普通だったら、長吉の行方が分らぬとなれば、早速その事を宿の帳場に通じて、詮議させるべきですが、一向その様子がない。長吉が余り心配するものですから、僕はそっとトランクの男の部屋へ忍んで行って様子を見ましたが、妙なことに彼等は大あわてで出発の用意をしているじゃありませんか。こんな辻褄つじつまの合わぬ話はありません。これは何か彼等の方にも秘密があるに相違ない。長吉に金を盗まれたことを怒るよりも、彼女にトランクの中味を知られたことの方を恐れているのかも知れない。長吉が見たという莫大な紙幣の束、しかもそれをトランクの中へ入れて持ち歩いている。考えて見れば変なことばかりです。彼等はひょっとしたら大泥坊か、さもなくば紙幣贋造者がんぞうしゃではないだろうか。当然僕はこんな風に考えました。

 部屋へ帰って見ると、長吉はもう身も世もあらず泣きふしています。そして持前のヒステリー発作を起して、例の『一緒に死んでくれ』を初めるのです。それが、僕までも、どうにも取返しのつかない、いやにせっぱつまった、狂気めいた気分にして了いました。そして、この悪夢の様な気分から、僕はふと途方もないことを考えついたのです。『そんなにいうなら、殺して上げよう』僕はそういって長吉を湯殿へつれ込みました。焚場を覗いて見ると、幸三造はいない。そこの棚の上には彼の短刀がのっかっている。(これは前から見て置いて知っていました)で御承知の兇行が演じられた訳なんです」


三十四


「そういう際ながら、僕にはあの激情的な美しい光景を、君に見せて上げたい気持があったのです。ひょっとしたら、長吉を逃すことよりも、その方がおもな動機だったかも知れませんよ。しかし丁度その時、君が眼鏡を覗いていてくれたかどうか、もし覗いていなかったとすると、折角のお芝居が何の甲斐もないことになります。そこで、僕はもっと現実的な証拠として、前以って脱衣場の板の間に血を流して置くことを考えつきました。でも、これとても本当に気まぐれな、お芝居気たっぷりな咄嗟の思いつきに過ぎなかったのです。

 僕はある旅先で、友達から注射器を貰っていました。僕の癖としてそういう医療器械などにいうにいわれぬ愛着を感じるのですね。おもちゃの様に、しょっちゅう持ちあるいていたのですよ。で、その注射器によって、長吉の腕からと、私の腕からと、両方合せて茶碗に一杯程の血潮を取り、それを海綿で以て板の間へぬりつけた訳なのです。恋人の血を取って自分の血に混ぜ合せる、その劇的な考えが僕を有頂天にしてしまったのです」

「でもたった茶碗に一杯の血が、どうしてあんなに沢山に見えたのでしょう。人一人が死ぬほどの量に見えたのでしょう」私は思わず口をはさみました。

「そこですよ」河野はいくらか得意らしく答えました。「それはただ、拭き取るのと、塗りひろげるのとの相違です。誰にしても、まさか、血潮を塗りひろげた者があろうとは考えませんからね、拭きとったとすれば、あれだけの痕跡は、確に人一人殺すに足る分量ですよ、ところが本当は、さも拭きとった跡らしく見せかけて、その実出来るだけ広く塗り廻したのです。商売の絵心で以て、柱や壁のとばっちりまで、ごく念入りに拵え上げ、余ったのを短刀の先に塗りつけて、例のブリキ箱に入れて置いたのです。無論長吉はその場から逃がしてやりました。彼女にしては、泥坊の汚名を着るか、自由の身になるかの瀬戸際せとぎわですから、怖がっている場合ではありません。山伝いに闇にまぎれて、Y町とは反対の方へ走りました。無論落ちつく先きはちゃんと申し合せてあったのです」

 私はあまりあっけない事実に、いくらかがっかりしないではいられませんでした。しかし、疑問はこれですっかり解けたのでしょうか。いやいやあれが単なるお芝居であったとすると、益々不可解な点が出来て来ます。

「それじゃ例の人間を焼く匂いはどこから来たのでしょう」私は性急に問いかけました。「又、三造はどうして変死をとげたのでしょう。そして、それがなぜ君の責任なのか、どうもよく分りませんね」

「今お話ししますよ」河野は沈んだ調子で続けました。「それからあとは、君も大概たいがい御承知の通りです。幸トランクの男が、想像にたがわず何かの犯罪者であったと見え、夜の内に姿をくらまし、あれほど探しても行方が分らないものですから、僕のお芝居が一層本当らしく見え、被害者長吉、加害者トランクの男と極めてしまって、警察を初め少しも疑う者がないのです。しかし、事件の発頭人はっとうにんである僕にしては、騒ぎが大きくなればなるほど、もう心配でしようがありません。今更あれはいたずらだったと申出る訳にも行かず、そうかといって黙っていれば、いつトランクの男が捉えられて真相が暴露しないとも限りません。一時の出来心に任せて、とんでもないことを仕出しでかしてしまったと、僕はどれ程後悔したことでしょう。そんな訳で、長吉が約束の場所で首を長くして待っているにも拘わらず、そこへ行くことが出来ません。事件がどちらかにかたづいてしまうまでは、どうしても湖畔亭を立去る気になれません。この十日ばかりというもの、表面に苦しい平気を装いながら、僕がどんな地獄を味わっていたか、とても局外者には想像出来ないだろうと思います。

 僕は探偵を気取って、君と一緒に色々なことをやりましたが、実はどこから僕のお芝居がばれてくるか、ビクビクものでそれを待っていた訳なんです。ところが、例の覗き眼鏡をとり外していた時、突如として新しい登場者が現れました。あの晩の怪しい人影は僕はわざと隠していましたけれど、風呂番の三造だったのです。彼が宿の主人の財布を落して行ったのは、前にもいった彼の盗癖から考えてさして驚くにも当らぬことですが、おかしいのは中にあった五百円です。主人は自分の金だといいます。けれど、どうもそぶりが変です。彼は評判の慾ばりじじいですから、当てになったものではありません。そこで、僕は三造がこの事件に関聯して何か秘密を持っているに相違ないと目星をつけ、彼の身辺につき纒って探偵を始めました。そして、その結果驚くべき事実を発見したのです」


三十五


「三造は例の大トランクを二つ共、どこから拾って来たのか、焚場の石炭の中に隠していたのです。トランクの男達は、多分目印しにされることを恐れて、トランクを山の中に隠し、身をもって逃げ去ったのでしょうが、三造はそれを見ていたのかも知れません。或は後になって、森の中へ枯枝を集めに行った時に偶然発見したのかも知れません。兎も角、中味の莫大な紙幣もろとも、彼はトランクを盗んでいたのです。これであの財布の中の五百円も解釈がつく訳ですね。しかし、トランクの持主が、たとえ危急の際であったとはいえ、あの大金をおしげもなく捨てて行ったというのは、少々変です。やっぱり贋造がんぞう紙幣だったのでしょうか。それとも後日取りに来る積りで、人目につかぬ所へうずめてでも置いたのでしょうか。あの大風の晩に懐中電燈で森の中を探し廻っていた男は、ひょっとしたら、彼等のめいを受けてトランクを探しに来た一味の者だったかも知れませんね。

 事件は段々複雑になって来ました。どうなることか少しも見当がつきません。僕の向う見ずないたずらが、この様な大事件になろうとは、全く予想外で、随って心配は益々強くなるばかりです。ところが、四五日以前、警察の大がかりなトランク捜索がはじまる頃には三造も自分の所業しわざに恐れを抱きはじめました。そして、その唯一の証拠品であるトランクを、風呂かまどで焼くことを思いつきました。人の寐静まった頃を見はからい、トランクをこわしては、少しずつ焼き捨てて行くのです。僕は現にそれを隙見していたのですが、まさか対岸の村まで獣皮の匂いが漂って行こうとは思いませんでした。いうまでもなく、これが死体を焼く匂いと間違えられた訳です。僕はかつて、外国にもこれと似た事件のあったことを聞いています。何でも田舎の一軒家の煙突から盛んに黒煙が出て、火葬場の匂いがするものですから、村人が騒ぎ出し、てっきり死体を焼いているものと思って調べて見ると、あにはからんや、古靴かなんかをストーヴに投げ込んだものと分りました。その家の主人がある殺人事件の嫌疑者だったために飛んだ騒ぎになったのです。

 しかし、僕はその当時そこまで考えた訳ではありません。ただもう途方に暮れてしまったのです。もしこの愚者の軽挙から事の真相がばれる様なことがあってはと、それが先ず心配でした。で、少しでも発覚を遅らせる意味で、僕は三造を逃亡させようと計りました。警察で彼を疑い出したことを、それとなくほのめかし、彼を怖わがらせたのです。悪人にしろ、そこは愚ものの事です。僕の計画を見破るどころか、トランクを盗んだということから、ただちに殺人の嫌疑までかけられるものと思い込み、丁度村の巡査が僕を訪ねて来た日です、彼は例の紙幣の束だけを風呂敷ふろしき包みにして、彼の故郷である山の奥へと逃げ出したのです。僕は計画がまんまと成功したのを喜び、寧ろ彼を護衛する様な心持で、そのあとを尾行しました。

 ところが、その途中、あの桟道の所で、思いがけぬ出来事が起ったのです。余りに道を急いだために、三造は崖から辷り落ちて変死をとげてしまったのです。僕は大急ぎで下におりて、介抱かいほうして見ましたが、最早や蘇生そせいの見込みはありません。考えて見れば可哀相な男です。悪人といっても、それは彼の白痴と同様、彼自身にはどうすることも出来ない生れつきだったのでしょう。それを僕の利己的な気持から逃亡を勧めたばかりに、彼はもっときられた命を、果敢はかなくおとしてしまったのです。僕は非常な罪を犯した様な気がして、無慙むざんな死骸を正視するに耐えず、兎も角、紙幣の風呂敷包みだけを拾って、急を知らせるために宿へ引返しました。

 ところが、その途中、僕はふとある妙案を思いついたのです。三造は可哀相だとはいえ、もう死んでしまった者だ。もしすべての罪を彼に着せることが出来たなら、長吉はいつまでも死んだものとして、全く自由な一生を送ることが出来、従って自分も最初夢想した様な幸福を味わい得るではないか、それにはさいわい、短刀といい、手の甲の筋といい、三造の日頃の盗癖といい、都合のよいことが揃っている。そこで僕は、俄に三造の変死を知らせることを中止して、彼に罪をなすりつける理窟を考えはじめたものです。丁度そこへ、村の巡査が例の匂いのことを知らせてくれました。すっかり陣立てが出来上ったのです。僕は巡査と君の前で、考えて置いた理窟を陳述すればいいのでした。

 紙幣は一寸見たのでは、贋造かどうか分りません。もし本物であったら、僕は一躍大金持ちになることが出来ます。そんな慾心から、お恥かしいことですが、つい焼きすてるのが惜くなり、兎も角も鞄の底に納めて置いたものです。それを君に見られてしまい、このまま分れてはどうしたことで君の口から真相がばれないものでもなく、いっそ本当のことを白状してしまった方が安全だと思ったものですから、こうしてお引留ひきとめした訳です。つまりこの事件には犯罪というほどのものは一つもなく、長吉のヒステリーと僕の気まぐれから出発して、幾つもの偶然が重なり合い、非常な血腥い大犯罪らしいものが出来上ってしまったのです」

 河野はため息と共に長物語を終りました。私は裏面の事実の意外さに、暫くは物をいうことも出来ませんでした。

「そういう訳ですから、どうかこのことは君の腹だけに納めて、誰にも話さないで下さい。もしこれがばれて、元の雇い主に呼び戻される様なことがあれば、長吉はきっと生きてはいないでしょう。僕も世間に顔むけの出来ないことになります。どうかこの僕の願いを聞き入れて下さい。誰にも話さないと誓って下さい」

「承知しました」私は河野の態度に引入れられ、さも沈痛な調子で答えました。「決して他言しません。どうか御安心下さい。そして一刻も早く長吉のいる所へ行って、あの人をも安心させて上げて下さい。僕は蔭ながらお二人の幸福を祈っています」

 そして、私は一種の感激を以て河野と別れを告げたのです。河野は私の汽車の出るのを。感謝をこめたまなざしで、永い間見送ってくれました。

 それ以来私は彼等を見ません。河野とは二三度文通はしましたけれど、彼等の恋がどの様な実を結んでいたかは知る由もないのです。ところが最近河野から珍しく長文の手紙を受け取りました。彼は長々と私の往年の好意を謝した上、愛人長吉の死を告げ、彼自身も友人の事業に関係して南洋のある島へ旅立つことを知らせて来たのです。その文面によれば、彼は恐らく再び日本の土を踏むことはありますまい。もはや事件の真相を発表しても差支さしつかえない時が来たのです。

 読者諸君。以上で私の退窟なお話は終りをつげました。例の莫大な紙幣が本物であったかどうかは、つい聞く機会がありませんでしたが、恐らく贋造紙幣ではなかったかと思います。

 ただ一つ、ここにある重大な疑問が残されています。私は河野に別れて以来、日をふるにつれて色濃くなって来るその疑問に、形容の出来ない悩ましさを感じ初めました。もし私の想像が当たっているとすれば、私はにくむべき殺人者を、ゆえなく見逃がしたことになるのです。でも、今はまだその疑いをあからさまにいうべき時機ではありません。河野は生きているのです。しかも、彼はお国のために海外に出稼ぎをしているのです。数年前に死んでしまったおろか者の三造の故に、何を好んで、今更犠牲者を出す必要がありましょう。

底本:「江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚」光文社文庫、光文社

   2004(平成16)年820日初版1刷発行

底本の親本:「創作探偵小説集第四巻『湖畔亭事件』」春陽堂

   1926(大正15)年9

初出:「サンデー毎日」大阪毎日新聞社

   1926(大正15)年13日~52

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「旦那」と「檀那」の混在は、底本通りです。

入力:nami

校正:北川松生

2017年514日作成

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