垣内の話
柳田國男




 垣内(カイト)は思いのほかこみ入った問題であった。最初からもしこれがわかっていたら、あるいはまだしばらくは手を着けずにいたかもしれない。私たちが興味を持ち始めた動機は、

(一)垣内が日本のかなり弘い区域にわたって、分布している事実または少なくともその痕跡こんせきであるにもかかわらず、これに気づいている人はまだ少なく、今までに発表せられた二三の研究、たとえば小川、中山、野村氏等のそれは、ただある一方だけの現象を説明しようとしたに過ぎぬゆえに、推定がやや不安なるを免れなかった。今幸いに民間伝承の会の、各地の同志の協力が得られたならば、新たなる資料がおいおいに出現して、比較が可能になり、よほど確実に近い事が言えるようになるであろうということが一つである。

(二)次には中世以前の垣内については、やや豊富に過ぐというほどの古文書の資料が伝わっていて、現在はまだ整理と綜合が進んではおらぬらしい。それを民俗学の手で成し遂げるまでは望みがたいが、少なくとも当代にもなお跡を引いている不審であることを明らかにしたならば、自然に文書史学の興味を刺戟することにもなって、双方から歩み寄って、この一つの未墾地を開拓することになろうと思った。

 それから今一つは政策とからみ合った問題であるが、

(三)新時代の農地制度においては、農場の単位ということが、全然と言ってもよいほど省みられていない。こうして放任しておいても農業は進歩し、国の生産計画は立つものかどうか。そういう疑問に答えるがためにも、一通りは今までどうしていたかを明らかにしなければならぬのだが、これには何よりも先に垣内というものの成立と、これが次第に農村生活の表相から、消え隠れて来た経過とを、明らかにしておく必要があるかと私は思った。最近山口弥一郎君等の手によって調査せられた北上川右岸の農村地帯、あるいはそれよりも大分以前に、自分等が一瞥いちべつしている関東東部の近世初期の開発地などには、以前の垣内制をおもわしめるような屋敷地取りの方式がなお折々は見出される。これがただ単なる因習の持続ではなかったとすれば、この問題は実はまだ活きているのである。もちろん時世に相応した幾つかの補充訂正をもって、さらに未来の可能性を討究すべき現実の案件であったのかもしれない。単なる史上の閑題目として、空しく閑人かんじんの手にゆだね去るべきものではないのかもしれない。



 垣内の問題は少なくとも現代にも入用がある。かりに将来の村構成に、これを利用し得るというまでは望まれぬとしても、何ゆえにこれが幾つかの改造を経つつも、今までなお残っているのかということは眼前の不審であり、その疑問は今からでもこれをくことができる。そうしてその方法は民俗学のものであった。今までまったく知らなかった多くの事実が、わずか一年足らずの間にももう大分心づかれ、それを我々は実地にいて、何度でも確かめる事ができるだけでなく、その比較によってなお隠れたものを、見つけ出すことが許されるのである。たとえば自分等が当初予想していたのは、垣内は中世の荘園解体期を世盛りとして、いったんは国土の広い面積に行き渡った制度であって、後ようやく存立の意義を失うに至ったけれども、別に根こげに変更しなければならぬほどの必要もなかったために、あるものは名を存し、または外形の一部ばかりを、今に伝えているだけであろうということであった。ところがほんの一部の比較によって、この想像はほぼ覆ってしまったのである。もしも現在二三の土地において、垣内の特徴のごとく見られている事実が、ともに中世の垣内の残形に過ぎぬとすると、これらを綜合していたもとの姿というものは、よほど茫漠ぼうばくとして把捉しがたいものになってしまうのである。つまりはある一つの時代を経てから後も、土地の事情によってさらに次々の成長をしていると見るのでなければ、証明のできない変化がいろいろと起っているのである。『上毛の民俗』の最近の活字号に、列挙せられた記事などは好い例であった。群馬県は各郡にカイトという地域名が多く、ことに赤城あかぎ山の周囲にあるものは注意せられているが、甲の村では畠地の間に挟まった水田の一区がカイトであり、乙の村ではそれと反対に、まわりが水田ばかりの中にやや小高い一かたまりの桑畠、すなわち久しく付属草地として開かれずにいたらしい土地だけがカイトである。そうかと思うと、また一つの村には田畠と農家の二三戸を合せたカイトがあるのみか別にまた山間未開の家も田畠もないカイトも一方にはあって、単に土地の一区劃の名と、いうより以上には定義し得られない現在の状態である。竹田君が近頃討査した、甲州西山の奈良田などでは、ただ常畠じょうばたの所在だけがカイトで、それは民居の外であり、田はその中に含まれず、新たに切り添えられた切替畑もまたカイトとは区別せられている。しかも隣の下湯島の方には、家の屋号の何垣内も一つあると言う。垣内の中心地のごとく見られている奈良、和歌山の二県なども、村の小部落を意味するカイトの名が、一方には普及しておりながら、同時に個々の民家の多くのものが、今も通称何カイトと呼ばれているのは、考えてみるとよほど不可思議なことである。中部以東の方々の田舎において、家から往還に出るまでの少しの通路を、カイドと言っている例が多いのも、今では垣内とは別にしか考えられていないが、これをわざわざカイドグチという者があり、佐渡の北部などでも家の前の広場を、カイロ(カイド)といっているのを見ると、これも元来は屋敷のことだったらしい。東北の各県にはカクチという語があって、通例は家の背後をいうように聴えるが、これも土地利用の上から、この部分が多く問題になっただけで、くわしくいえばこれはソデカクチ、すなわち背戸のカクチであり、カクチはやはり垣内で、屋敷全体のことであったかと思われる。文字や言葉によって考えると、こう解するのがむしろ自然であった。それがどういう路筋を通って、ついに今見るごときさまざまの内容をもつに至ったか。問題の中心は、おそらくここにあるのではなかろうかと思う。



 できるだけ単純なまたわかりやすい側面から、近よって行く習慣を我々の間では付けることにしたい。むつかしく考えないと学問ではないというような、おろかな迷信から脱出する手始めに、まずこの面倒くさい問題を、できるだけ素朴に処理してみよう。

 全国各時代の垣内現象を一貫して、最も著しい共通点は何かと言うと、私は個々の垣内の呼び名ではないかと思う。古い文書にそれは数多く、また近頃の地名採集にもおいおいと出て来るが、それには争うべからざる古今の類似がある。だいたいにこれを三通りの命名法に、分けてみることはそう無理ではない。その第一は方角と所在、地図の上に現わさずともおおよそは配置がわかり、つまりは全土をことごとく、垣内に分けたのではないことを認めさせる。第二には人名を冠するもの、この人名は多分持主であって、折々は改称もあったかしらぬが、たいていは始めてその垣内を設定した日を記念している。単なる人名も土地にとっては歴史だろうが、外からうかがうことはやや困難である。眼に留るのは大小の地役人、社寺の従属者の他に、鍛冶かじ垣内・紺屋こうや垣内という類の諸職の名が多い。村に彼等を定住せしめるには、何か収益の保障が必要だったろうことを考えると、垣内が一つの特権であったことも少しわかるのだが、これはもう少し事実を集めた上でないと、はっきりとしたことはまだ言えない。

 終りに第三の種類はやや見のがされやすいものだが、垣内の名前には植物の名を付けたれいが多く、それも自然に生い茂ったものよりも、遠くからの目標になるような樹木の、わざわざえるかり残さなければ、ないようなものがよく用いられている。これがあるいは前の二つとともに、垣内を理解する手掛りになろうかと思う。垣内は文字通り、垣で囲った土地の区劃ということだったにしても、それが今日の生籬いけがき建仁寺垣けんにんじがきのごとき、労費のかかったものであった気づかいはない。一つの垣内の中には畠もあれば田も含まれ、またしばしば未開・未測量の荒野というものが附属していた。それを標識して占有を明らかにするには、むしろ朽ちたり倒れたりせぬような、立木を見通しに残す方が便利だったはずである。最初は事によると居住を主とし、それを防衛するための垣だったのかも知れぬが、垣津田かきつたというものはすでに『万葉集』の頃からあり、それを養うべき池の堤までが用意せられていた。そうして稲作は特に日蔭を忌み、また周囲にやや広い草地を存することが古い時代の農法でもあったことは、この問題を考えてみるために、ぜひとも用意してかかるべき予備知識である。

 始めてカキツまたはカキウチという言葉が入用になった時と、これが一つの土地制度として、頻々と文書の上にその姿を現わした時と、同じだったという証拠はどこにもない。むしろ荘園の例でも見られるように、新たな要求は古くからあったものを変形させ、またはその変形を可能ならしめた事情が、次々と加わって来たろうと、思わるる根拠は幾つかある。たとえば畠作農業の生産力の加わって来たなどは近世の現象であった。今ある作物には輸入の歴史の新しいものが多く、山野はなお広々として自然の採取にゆだねられていた。麦の普及を勧誘したあの有名な勅令が出たのは、平安京の初め頃であったけれども、それから以後の数百年、あるいは千年を越えるまで、人は自在に原や林の奥に入って、乱暴なる焼作りを続け、あわひえの種をき散らして、五年三年の食料を確保していたのである。土地の占有は、この方面においては甚だしく意義が薄く、ただ田圃たんぼばかりをありがたがるような気風は、今だってまだ残っている。垣内の重要性が世とともにようやく加わり、一方にはまた少しずつ、その構造が複雑になって来たろうことは、これから我々の集めて行こうとする資料によらなくとも、この一つの点からでも一通りは想像し得られるかと思う。



 しかし民俗学の仕事としては、これはただ一つの見当というべきもので、むだな労力を省くために、なるたけこういう直覚を粗末にせぬようにするが、証拠としては必ずもっと精確な一つ一つの事実を求める。それがまだ現在は出揃ったとは言えぬのである。カイト・カイチという類の言葉が、今でも行われている地域は思ったより広いけれども、それでも国の端々には分布が少なく、九州の南半にはまだ明白な実例を見出さず、四国にもあるというだけは判っていて、それがどういう風に働いているかが知られていない。東北には前にも言ったように、カクチという語だけはたしかにあるが、それはただ屋敷地のことであって、それ以上の内容をもっていたらしい形跡はない。そうしてこの他の土地でも、あるという点のみは一致していて、地方ごとの異同がかなり著しいのである。日本の国内移住は中古において相応に活溌だったから、いったんは国土の大部分にこの制度は普遍していたのが、年経て思い思いの変化退縮のみち辿たどったのであろうか。はたまた最初からまだ劃一の状態にまでは達し得ず、依然として、今も各自の段階に止まっているわけであろうか。古代史の闡明せんめいには必ずしも勇敢ならず、たいていの史学者の断定にいつも警戒している私たちではあるが、もし幸いにしてこの第二の推定が成り立つとすれば、ここでは偶然にも中央文化の、もう一つ以前の状態が窺い得られることになるのである。上手に問題を説明することが、できるかどうかははなはだ心もとないが、少なくともこれには興味あり、また記述しておくはりあいがある。そうして関敬吾君などのいう地誌的方法(メトード・カルトグラフィック)が、大いに活躍し得る余地もまたあるのである。



 薩隅地方の中世文書を見ていると、あの地方には垣内という名目はほとんと見当らなくて、これに代るとおぼしき薗(ソノまたはソン)という言葉が盛んに出て来る。そうしてまた現在の地名にも多く残っている。居薗(イソノ)という語がしばしば用いられるのを見ると、居薗にあらざるものすなわち人の居住に供せられない園がもうできていたことは、中世近畿の垣内と同じかったらしいが、この点は少なくとも一つの進化である。人も知るごとく、初期の公地法では園と宅とは不可分であり、また二つのものは同じ待遇を受けていた。家屋の周辺に附属した苑地えんちは用途も少なく、従ってまた面積もわずかなものだった。『延喜式』に出ている貴人の菜園でも、ここで栽培すべき作物はいくらもない。多分は家用の麻をき、また時として数株の桑を栽えておくくらいのもので、家との関係は飲水の井戸や、庭の飛石などと近いものだったかと思われる。それが畠作需要の増進につれて、まず新たに設けられる大家族の屋敷地が拡大し、それを制限する法令が必要となり、一方にはまたこれを一つの特権として、生産増加の政策に利用するようにもなったのかと思われる。

 これは荘園の場合も同じことであるが、園に田地を包容するようになったのは、また新たなる一段の変化でなければならぬ。家を構えんがための附属の園地ではなしに、畠を作るがために便宜の居住地を求めるとなると、そこには少しずつの稲作適地が見出される。そうして水田の増加はさらにより多く望ましいものであったゆえに、垣内はおいおいにその方面にも伸びたのであろう。ともかくも垣内には畠が最も多かったけれども、垣内の田というものも決してまれではない。それがわずかな面積だけ引き離されて、売買寄進せられる実例が数を増して、後には垣内が田の所在を示す地区名であるかのごとき、観を呈するに至ったものかと見られる。つまりはこういった中頃の変化があったゆえに、現在の各地の垣内は、一段と説明しがたいものとなっているのである。



 垣内の創設者は個人であったはずだが、それを一括して処分したという文書は我々の捜してみた限りにおいてはいたって数が少ない。多分は堺が漠としていたのでだんだんと大きくなり、またその中にはいろいろの権利が挟まり入り組んで、始末がしにくくなっていたためだろうと思う。そうした中においても我々に気づかれることは、紀州や大和の垣内には家地田畑以外に、必ず荒野というものが含まれているのみか、一部の田畠を沽却こきゃくする場合にも、慣習として野地を取り添えた場合があったらしく、時としてその対価の非常に高いものがある。もちろんこういうのは垣内本来の性質でなく、つまりは墾田奨励の仮装的な政策によって、これが一種の開発権の別名となって来たので、この点はやや大小前後の差こそあれ、荘園その物の発達とよく似ている。否あるいは荘園というものの日本名が、もとはカキツまたは垣内であったのかもしれない。荘も田舎にある持家のことでありその中には、かむなびの清き御田屋の垣津田の………といったように、神の田を作るために設けられたものもあろうが、他の多くは臨時の滞留の用意に過ぎなかった。それを計画的に利用するようになって、荘家はただ管理者の占拠する所となった。その御田屋(オタヤ)の遺風は南部領などに久しく存し、飛騨ひだの高山の周囲にも、その名称だけはこのごろまであった。それがさまでの政治的煩累にもならずに、小さく保存せられていたのが垣内だったと見てよかろう。弊害と由来とを混同して、まず名称を毛ぎらいするようなあわて者たちとは、この問題を話し合うことはできない。

 今では過ぎ去った必要になってしまったが、垣内はもと一つの農村の成長力であった。古く開けた村には垣内がなく、新らしい土地でも全部が垣内には分割せられていない。垣内のある所はたいていは片端に偏して、古くからのイナカを取り囲んでいる。これを設けたために人は働く場処を得、食料の補給を外に仰ぎ、または行方もなく外に散ってしまわずにすんだ。もちろんここにも細小農の分裂は行われたが、垣内山の存在はなお一つの余裕であって、他に比べると共住者の相助がやや容易に行われ、大地主の圧迫は垣内以外の地よりも少なかったかと思われる。現在もなお続いている部落組織は、多くは近世になってからの発明らしく、それも将来を支配するまでの力はないかもしれぬが、少し手を掛けたら日本再建の、足場ぐらいは得られよう。ともかくも今はまちがいはない知識を、ちっとでも多く積み貯えておきたい。そうして民間伝承の会ならばそれはできることだと思う。

○どういう点に注意をすればよいかという質問が方々から来る。その答えにはまだ十分ではないが、さしあたり自分の興味を引かれることを、少しずつ書き並べてみる。結局は垣内またはカイト・カイチという言葉があるという以上に、それがこういうものだということが、片端でもわかればよいのだが、おいおいと集めて比べてみないと、力の入れどころがきめられないであろう。この次には今までにわかって来た各地の事実を、少しずつ整理して行く計画がある。疑問はそれに基づいてまた新たに生れ出ることだろう。屋敷または家地やちというのと、垣内との関係をまず考えてみるのが順序ではないかと思う。

(「民間伝承」昭和二十三年九月)

底本:「柳田國男全集20」ちくま文庫、筑摩書房

   1990(平成2)年731日第1刷発行

底本の親本:「定本柳田國男集 第二十九巻」筑摩書房

   1962(昭和37)年825日発行

初出:「民間伝承十二卷八・九號」

   1948(昭和23)年9

入力:フクポー

校正:みきた

2017年625日作成

青空文庫作成ファイル:

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