ラヴォアジエ
石原純
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物質変化に関する学問、すなわち物化学を正しい意味で創めたのがロバート・ボイルであったことは、さきにお話しした通りですが、その後再びそれが幾らか横みちにそれた形になってしまいました。それと云うのも、ボイルが金属を熱してこれに錆がつくようになると、その金属の重さは幾らか重くなるのを見つけ出したのでしたが、その頃にはまだこの事の本当の意味が分らなかったので、ボイルはこの場合に熱する火焔のなかから何かある物質が出て、金属にくっつくのではないかと考えたのでした。これは当時としては無理もない考えかたであったのですが、それから妙に間違った考えが出て来たのです。なぜと云えば、昔から火はふしぎな魔物のように見られていたので、その正体はなかなかわからなかったのですが、併し一般には火を一種の物質だと見るようになっていたからなのです。それでボイルと同じ頃のドイツの学者で、ベッヘルという人がこのボイルの説をとり上げて、すべて物が燃えるときには、一種の「火の精」とでもいうものが火から追出されて他の物にくっつくのだと説明しました。「火の精」と云ってもどんなものか、よくはわからないのですが、その後これがフロジストン(燃素)という名で呼ばれるようになりました。
そしてこのフロジストン説はその後盛んに行われるようになって、十八世紀の終りまで百年ほども続きました。もちろんこの説の間違っていたのは上にも言った通りですが、しかしそのおかげでたくさんの学者が物質の燃焼するときのいろいろの変化をこまかく研究するようになり、そしてその間にだんだんに正しい考えかたが発展して来たのですから、科学の進歩というものは実におもしろいのです。つまりどんな場合にも本当の事実を研究してゆくうちにしぜんにどこからか正しい関係がわかってくるのです。
最初にこのフロジストン説に疑いをもち始めたのは、イギリスの医者であったジョン・メイヨーで、この人が先ず硝石の研究をはじめ、これがアルカリともう一種の成分とから成っているのを明らかにし、この成分を「硝石の精」と名づけましたが、それが今日の硝酸なのです。ところでメイヨーは更にこの硝酸のなかに空気のなかに含まれると同じ物質のあるのを見つけ出し、これを硝気と名づけました。この硝気はつまり今日の酸素なので、メイヨーはこれが呼吸の際に肺のなかで血液を新しくする働きをもっていることをも示しました。この事は生理学の上での非常に大切な発見で、メイヨーが医者であったからこそ、そういう点に気づいたのでありましょう。
ここでもう一つ注目すべきことは、ごく古い時代には気体、すなわちガスの形をしているものは空気だけだと考えられていたのですが、ここでその空気の一つの成分としての硝気、すなわち酸素が見つけ出されたと云うことなのです。これを最初の発見として、その後気体にもいろいろの種類のもののあることがだんだんにわかって来ました。それでもそれらのものがどれもその頃には違った種類の空気のように見られていたので、すべて空気という意味を含んでいる名がつけられました。イギリスのジョセフ・ブラックの見つけ出した「固着空気」というのは、石灰石のなかに固着しているという意味でそう名づけたのですが、それは今では炭酸ガスと云っているものです。スウェーデンのベリーマンはやはりこれを独立に見つけ出し、酸と同様な性質をもっていると云うので「空気酸」と名づけました。またイギリスのキャヴェンディッシュは水素を発見しましたが、これは焔を近づけると爆発するので「爆発空気」と呼びました。それに次いでイギリスのダニエル・ラザフォードは窒素を、プリーストリーは酸素を発見したのでしたが、酸素は水銀を焼いて出来た赤い粉を熱すると出てくるので、焼くときにフロジストンが逃げ出してその残りのものに含まれていると云う意味で、「フロジストン無しの空気」と名づけ、また窒素はこの「フロジストン無しの空気」とまざって普通の空気をつくることがわかったので、「フロジストンをもつ空気」と名づけました。更に水素は自分で燃えるので、これが純粋のフロジストンであるとも考えられました。
ところで、このようにしてだんだんにいろいろの知識が増して来たのに拘わらず、やはりフロジストン説から抜け出すことは、なかなかむずかしかったのでした。なぜそうであったかと云えば、この頃にはいろいろな種類の物質の変化する有様をしらべることは進んだにしても、まだこれを数量的に精密に観測する方法が発達しなかったからです。例えばそのような物質の変化に際してそれぞれの重さがどう変るかということを見ることが大切なのですが、それには僅かの重さの相違をも見分けることのできる精密な天秤が必要なのであって、これを実際につくって数量的な研究を進めてゆかなければ、学問の正しい進歩は実現しないのです。そしてこのような数量的な方法のぜひとも必要であることを悟って、そしてそれを実際に行い始めたのが、ここでお話ししようとするラヴォアジエなのであって、そのおかげで近代の物化学がすばらしく発展するようになったことを考えますと、ラヴォアジエの功績は科学の歴史の上に燦然と輝いていると云わなければなりません。
アントアヌ・ローラン・ラヴォアジエは一七四三年の八月二十六日にフランスのパリで生まれました。家柄は貴族に属していましたし、その上に父は商業を営んで莫大な財産をもっていたので、何の不自由もなく裕かに育ったのでした。長じてマザラン大学に学び、数学と博物学とを修めましたが、殊に数学の才能にすぐれていたということです。父親もそれを見ながら大いに満足に感じ、元来が自然科学に多大の興味を寄せていた人でもあっただけに、その頃の著名な学者に依頼して特別な教育をも施したので、一層にその進歩を速めたのでありました。それで漸く二十歳になったときに、フランス政府から提出されていた技術上の問題を解いて賞金を得ました。ところが彼はその賞金の全部を幾らか手伝ってもらった友人たちに頒け与えてしまって、自分ではただその賞を記してある記念牌だけを保存しておいたという話です。これは勿論、彼が富裕の家に育ったからでもありますが、同時に友人たちに対する親愛の心の深かったのによるのでした。
それにしても父親は実用上の問題を重く見ていたので、息子に物化学の研究をやらせて、それを実際に役立たせようとしました。そしてそのために自分の家に実験室までもつくったので、アントアヌはそこで楽しんで研究に専心することができました。そのうちに学者としての名声が高くなったので一七六八年には僅かに二十五歳で既に学者の大きな名誉とされていた科学アカデミーの会員に選ばれました。それに次いで王室の収税管理人にもなり、また後には硝石製造会社の支配人をも兼ね、さかんに活躍しました。その間に彼の研究したたくさんの学問上の仕事は、次にお話しする通りですが、ともかくそれによって当時の物化学に貢献したところは他に比類がないと云ってよいのでしょう。
ところが不幸にして一七九四年になって歴史に名だかいフランス革命の騒乱が起り、フランス国内がひどく乱れてしまったばかりでなく、その挙句には王室に関係していたものはすべて処刑されることになり、ラヴォアジエもまた王室の収税管理人であったと云うので、他の二十七名の収税管理人と共に断頭台に上されてしまったのでした。それはその年の五月八日のことであります。
フランスにはそのとき、ラプラースという名だかい学者があって、この人は政治の上にも大いに権力をもっていたので、ラヴォアジエをどうにかして助けようと思い、「ラヴォアジエのようなすぐれた頭脳は、百年も待たなければ、フランスには出て来ないだろう」と言って、大いに説得につとめましたが、その力も遂に及ばなかったというのですから、世のなかはまことに不思議なものでもあるのです。それにしてもこのような偉い学者を無遠慮に殺してしまうというのは、実に惜しい極みではありますまいか。でも彼は死んでも、その仕事は今日まで生きて残っていて、その輝かしさを示しているのですから、そこに科学の研究の尊さがあるのです。
ラヴォアジエの研究のすぐれていたのは、精密な天秤をつかって、物質の変化を数量的に測ったことにあるということを、すでにお話ししましたが、この点をよく心にとめて彼の仕事を見てゆかなくてはなりません。さて、その頃酸素をとり出すのに成功したのは前にも記したように、イギリスのプリーストリーで、これは一七七四年のことでありました。そのときプリーストリーは水銀を焼いて赤い粉となし、それを熱して酸素を得たのだということも前に記しましたが、ラヴォアジエはこの変化に対して重さの変り方を研究しました。そして水銀を焼いて出来た粉はもとの水銀よりもいくらか重くなっていることを見つけ出したのです。また密閉した容器のなかで水銀を焼くと、容器のなかにあった空気の重さがちょうど水銀が赤い粉になって増した重さだけ減っていることもわかりました。これで見ると、つまり空気のある成分が水銀に結びついて、それで赤い粉になったことが知られるのです。その次に赤い粉を熱して酸素を発生させると、その酸素の重さが、ちょうど以前に水銀に結びついたと考えられる空気の成分の重さに等しいこともわかりました。ですからこの空気の成分が酸素であるということが、これではっきりと示されたのです。
このような結論を得たことも、つまりは重さの関係を精密にしらべたからだと云うことが、この一つの例で明らかになるでしょう。そればかりではなく、この実験からして水銀の焼かれるのは、水銀が空気中の酸素と結びつくのだと云うことが確かになったので、若しその際にフロジストンが逃げてゆくのなら、却って重さが減らなければならないのに、実際はそれとちがうことも示されたのでした。これですべて燃焼というのは、燃える物が酸素と結びつくこと、すなわち今日の言葉でいえば、酸化するのだと云うことも明らかになったのでした。
燃焼のはたらきがこれでわかったのと同時に、もう一つの大切なことは、燃焼のような物化学的変化に際してそれに与かる物質の重さは全体としてはその前後に於て少しも変らないと云うことが確かめられた点です。これは今では質量不変の法則として呼ばれていますが、それもラヴォアジエの数量的な研究方法のおかげでわかったのでした。
ラヴォアジエはまた、炭を燃すと、炭酸ガスの生ずるのを実験で示し、従って炭酸ガスは炭素と酸素との化合物であることを確かにしました。それから人間の呼吸は、空気中から酸素をとって血液にまぜて身体のなかに送り、そこで酸化作用を行わせ、それによって生じた炭酸ガスを再び肺から吐き出すのだと云うことを、はっきりと示しました。また水素と酸素とを化合させると水になることを実験で示したのも、彼の大きな仕事の一つです。水が水素と酸素とから出来ているということは、それ以前にキャヴェンディッシュの研究で大体はわかっていたのですが、ラヴォアジエは一層これを確かにしたばかりでなく、水を分析してこの二つの成分の割合をも測ったのでした。
このほかにも、ラヴォアジエの行った研究はたくさんにあるので、ここでは一々それを説明しているわけにゆきませんが、何れにしても物化学の研究に数量的な方法を導き入れたことによって近代のそれのすばらしい発展の基礎を据えたという点が最も重要視されなくてはならないのでしょう。
最後に、ラヴォアジエが革命の大騒動で捕われて牢屋に入れられたときの話ですが、実はこの数年前にフランス議会ではメートル法を設定するという仕事がはじめられて、政府も学者もこれに協力することとなり、メートル法によって長さや重さの単位を確立するのは学問のために最も重要な事がらであるだけに、それを仕遂げるのはフランス国の大きな誇りであると云うので、大いに骨折っていたのでした。そこへ革命騒ぎでこの仕事がひどく妨げられてしまったのですが、それでもこれだけはぜひとも仕遂げたいと云うので、学者たちにこれを続けさせていたのです。ラヴォアジエもそのなかで重さの単位をきめる仕事に従っていたのでしたが、それが捕われて牢屋へ入れられてしまったのですから、その仕事がゆきづまりになってしまいました。それでこれでは困るというので、毎日兵隊が附添って、ラヴォアジエを牢屋から出して実験室へ通わせてその仕事を続けさせたという話さえ伝わっています。それで見ても彼がその頃学者として他にかけがえの無い人であり、どれほど重きを置かれていたかがわかるわけです。
一人の偉い学者が出ると、それに続いてまた次にその仕事を進める人々が現れて来るもので、このラヴォアジエに次いでは、フランスにベルトレー、ゲイ・リュサック、イギリスにドルトン、イタリヤにアヴォガドロなどというすぐれた学者が出て来て、そのおかげで十九世紀の初頭には物化学の目ざましい進歩が実現するようになったのでした。それらについては、ここでは略しますが、ともかく十八世紀の末にラヴォアジエによって物化学の新しい道が踏み出されたのだと云うことを、よく知っておいて下さい。
底本:「偉い科學者」實業之日本社
1942(昭和17)年10月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
「即ち」は「すなわち」に、「或る」は「ある」に、置き換えました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には振り仮名が付されていません。
※「云う」と「言う」の混在は、底本通りです。
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
入力:高瀬竜一
校正:sogo
2018年7月27日作成
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