歌の潤い
伊藤左千夫
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潤いのある歌と、味いのある歌と、そこにどういう差があるかと考えて見た。単に詞の上で見るならば、潤いのあるということは、客観的な云い方で味いのあるということは、主観的な云い方であるとも云える。しかし細微に両者の意味を推考して見ると、両者に幾分の相違があるようにも思われる。
味いのある歌であるが、つまらぬ歌であるというような歌があるであろうか。またそれに反して、味いは少しも無いが、歌は面白いというような歌があるであろうか。そういうことが歌の上に疑問として成立つものかどうか。こうも考えて見た。
それで味いはあるがつまらぬ歌だというような歌は有り得ない事であろうと思うことに多くの疑いは起らぬけれど、味いというような感じはないが、何処か面白いというような歌はあるいはあるだろうと思われる。然らばどんな歌が、味いは無くても面白い歌という例歌があるかと云われると、その例歌を上げることは余程六つかしい。その味いのあると云うこと即歌の味いなるものが、具体的には説明の出来ない事柄であるから、甲は味いを感じて味いがあると云っても、乙は味いを感じないから味いが無いと云うことも出来る。こうなると、甲は味いがあるから佳作だと云い、乙は味いは無いが面白いから佳作だと云える訳である。それをまた一面から云うと、甲の味いを感ずるのは何等かの錯覚に基きやしないかと疑うことも出来る。乙の味を感じ得ないのは、あるいは感覚の鈍い為めにその味いを感ずることが出来ないのであろうとも云える。
これが飲食物であるならば、味いがなくてうまいというものは絶対に無いと云えるが、食味の鑑賞と芸術の鑑賞とを全然同感覚に訴える事は出来ないようにも考えられるから、歌の上には味いは無いが面白いことは面白いというような歌があるであろうとも考えられる。芸術が人に与うる興味は、飲食物のそれよりも、更に数層複雑なものであること勿論である以上、味いは無くても面白い歌という歌は有得べく思われる。
こう押詰めて来て見ると、その面白いということ(味いが無くても面白いという面白さ)は正しき芸術的感能に訴えた面白さであるか否か、と云うことだけが疑問として残る訳である。がそれは到底説明し能うべき問題でないような気がするから、結局面白く感ずるのは、その人が何等かの味いに触れるからという、概念的結論に帰着する外無いかも知れない。
極めて漠然とした概念から差別して考えて見ると、味いをもって勝ってる佳作と、要素をもって勝ってる佳歌との差別は考えられる。ここに云う味いは、芸術組成上の諸種の要素の、調合融合上から起る味いを云い、要素とは芸術組成上に必要なる、思想材料言語句法の各要素を云うのである。勿論その要素それ自身に、各その味いがあるのであるから以上の如き差別は、仮定の上に概括して云うことであるけれども、大別して云うならば、味いをもって勝ってる佳作と、要素をもって勝ってる佳作と、概括した差別は云うことが出来る訳である。
これを食物に譬えて云えば、諸種の材料を混和した調味と、刺身の如き焼肉の如き、材料その物の味いとの如きものである。人為の勝った味い、自然の勝った味いとの差である。
でこれを云い換えて見ると、情調的の歌は味いをもって勝り、思想的材料的の歌は要素をもって勝ると云えるのである。結局味いという詞の解釈上に起れる仮定の差別に過ぎないので、味いは無くても面白い歌という事は、味いということを、ある意味に極限した上から出た批評に過ぎないのであろう。
こう考えてくると味いのあるという事と潤いのあるという事とは、その意味の内容に殆ど相違は無いように思われる。一寸考えると、潤いのあるという事は味があるというよりは稍狭義に思考せられるが、潤いがあっても味いは無いという事は、想像が出来ない。そうして味いのある歌に潤いが無いということも考えられない。ただ味いの無い佳作という事は容易に想定が出来ないに反し潤いの感じは無くても、佳作はあり得ると無雑作に考えられる。味いと潤いとはこれだけの相違はあるように考えられる。
けれども如何なる塲合に於ても、歌に潤いが無いということをもって、創作上の進歩と認め得るような事は断じて有得ないと考えられる。そうして予は最も潤いのある歌を好むのである。潤いのある歌が何となく嘻しくなづかしい。味いを感じない歌に至っては最う嫌いである。少しその意を進めて云うならば、情調的味いの無い歌には殆ど興味を感ずることが出来ない。ここで断っておくがこの情調という語は、勿論人情の意味ではない。しかし予も自ら潤いの乏しい歌と思うような歌を詠んだ経験は少くない。前号『曼珠沙華』などはそれである。鬱情を散ずるに急なる、情調を湛うるの余裕がなくて出来た歌である。自分の慰安の心よりは、余義ない気持の勝った歌である。そういう心的状態で歌の出来ることは、何人にもあることであろうと思う。されば自分の歌としてその存在を欲して居ても、自分の好きな歌ではない。ある意味に於て、予の最も強く主張する叫びの意味の多い歌であるが、予の好みはその叫びの声が今少し潤いを帯びてありたいのである。
表現の具象が余りに鮮明な歌には、必ず潤いを欠くの弊が伴うのを常とする。自分の好まない歌をなぜ作るかと云う者があるかも知れないが、自分の感想は自分の好きなように許り有得ないから、これは余義ないのである。
刺身と焼肉、それを予は決して嫌ではない。けれども刺身と焼肉が何より美味いという人には、到底真の料理を語ることは出来ない如く、芸術の潤いを感取し得ないような人に詩趣を語ることは出来ないと思ってる。
それに就ても、近頃の『アラヽギ』で予の最も嘻しいのは石原純君の歌である。一月号の『思ひ出』の作も極めて平淡な抒情の内に深い味いのある歌であったが、二月号の『独都より』の作はまた一層面白い歌である。
そういうては失敬であるが、今度の歌は従来の石原君の歌とは頗る趣を異にして居る。従来石原君の歌の多くは、意味の複雑な具象の鮮明な歌であった。従て潤いがあるというような歌は少なかった。
それが今度の歌は、全く面目を異にして居るのである。予の最も好きな淡雅な味いと情調の潤いとが、無雑作な自然な語句の上に現われて居るのである。『思ひ出』の十首は殊に単純で平淡である。何等の巧みもなく、少しも六つかしい意味もなく、ただすらすらと旅情の追懐を歌って居る。こういう歌を大抵の人は、平凡である、稀薄である、素湯を飲むようであると云うのであるが、その淡然たる声調の上に何処ともなく、情緒のにじみが潤い出て居る。少しもこねかえしがないから一読純粋な清浄な感情が味われる。
あらっぽい刺撃の強い趣味の歌とは全くその味いを異にしてるのであるから、読者の方でもこういう歌を味おうとするには、気を静め心を平かにして、最も微細な感能の働きに待たねばならない。
十首の内取立ててどの歌が良いとも云えない。十首の連作を通しての上に、物になずむ親しみの情の淡い気持が、油然として湛うてる。思うに作者も想の動くままに詠み去って、その表現にそういう自覚があった訳ではなかろう。そこが最も尊い処で、その味いも潤いも極めて自然な所以である。
しかしこういう歌は、こういうのが面白いから作って見ようと云って作り得らるる歌ではない。歌の生死の境が真に一分一厘の処にあるのであるから、ほんの一厘の差で乾燥無味に陥って終うのである。
その語句に於て着想に於て、その題目に於て、何等の巧みも新しみもあるのではない。唯能く統一した一首の声調に、物に親しみなつかしむ気持が現われて居るのである。
この歌は題目が殊に新しく、着想も面白いが、その題目や着想が淡い情調に融合されて、少しも目立たないで能く単純化が行われて居る。それから『独都より』の「リンデン」の作は、作者も云うてる如く、前の歌の淋しい内にも嬉しい親しみのある情調とは異なり、旅情の淋しさと自然のさびれた淋しみとを独りしみじみと味わってる情調が、一句一句の端にも湛うてる。
静かな声、物うげな調子、それを味うて見るべきである。例の如く題目も思想も取立てていう程の事ではなくていて、しかも無限の味いを持ってるのは、一首の声調に作者の淋しい内的情態が、さながらに表現されて居るからである。結句の『枯葉落つる日』この一句これを取離して見れば、ただそれだけのことで、何等作者の独創があるのでなく、唯一句の記号に過ぎない詞であるが、この歌の結句にこの一句を置いて見ると、この平凡な一句が一首全体の上に、非常に淋しい影響と共鳴とを起すのである。この平凡な一句がここに置かれて生きて来るのみでなく、一首全体に統一を促し生命を起すの働きが出て来たのである。作歌に従うものは、この不可説なる、融合統一力の依て起る神意を考うべきである。こういう歌を見て「なんだただそれだけの事じゃないか」などと軽く読過して終うような人には、到底共に詩の生命を語ることは出来ない。
初句『葉の落ちて』の極めて自然な詞つきに、はや淋しい声を感ぜられる。第四句第五句なども「あまた立ちたり見るにさびしも」と明晰に云って終えば口調は強くなるけれども、淋しい沈んだ気持は現われない。僅かの相違であるが『あまた立ちならぶ様のさびしも』と詞に淀みのある云い方が自然に作者の心持を現わして居る。是等の歌から受ける興味の程量は読者の嗜好に依て相違のあるべきは勿論であるが、兎に角生命の脈々たる歌であるのだ。
これは前の歌のような感じを得られない歌である。結句『曇りてあるなり』の口調はこの塲合聊か軽快に過ぎると思う。
以下一連の歌は悉く金玉である。平淡な叙述の内に一道の寂しい情調が漲って居る。
結句「二時にしありけり」と云わないで『ありき』と留めた処に深い感じがある。この一連の歌は、題目も新しく感じ方も新しい。そうして言外に寂しい情調が、しみ出て居る。そうして作者の心理状態が寂しい内にも漸く落ちついた処に僅かな余裕も窺れる。その自然の動きの現われてるのが、溜らなく嘻しい。
以上四連の歌を通読して見ると、作者の心理状態が時処に従って動揺し変化した自然の跡が歴々として読者の胸に響いてくる。一首一首を詠んでそれぞれ生きた感情に触れ、更に全体を読去って、また全体から受ける共鳴の響きが、暫くの間読者の胸に揺らぐを禁じ得ないのである。
予は是等の歌を、潤いのある歌、味いをもって勝った歌として推奨したい。そうしてまた理想的に成功した連作の歌として称揚したい。
十年以前より連作論を唱えた予は、近日更に連作に就て一論を試みたく思うて居る際に、以上の四連作を得たことは、予に取って非常に嬉しいのである。
底本:「左千夫全集 第七卷」岩波書店
1977(昭和52)年6月13日発行
底本の親本:「アララギ 第六卷第三號」アララギ発行所
1913(大正2)年3月1日発行
初出:「アララギ 第六卷第三號」アララギ発行所
1913(大正2)年3月1日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
「其」は「その」に、「只」は「ただ」に、「併し」は「しかし」に、「以て」を「もって」に、「茲」を「ここ」に、「此」を「この」に、「之」を「これ」に、「又」を「また」に、「或は」を「あるいは」に、「或」を「ある」に、置き換えました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には「指針」以外の振り仮名は付されていません。
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
2019年6月28日作成
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