滝見の旅
伊藤左千夫
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七月十五日は根岸庵の会日なり。十七日にいでたたんと長塚に約す。十六日夕より雨ふりいでて廿日に至りて猶やまず。
根岸庵よりされ歌来る。
かえし
此夕長塚来りて、雨ふるとも明日は行かん、という。古袴など取り出でて十年昔の書生にいでたたんと支度ととのえなどす。廿一日朝まだきに起き出でて見るに有明の月東の空に残りて雨はなごりなく晴れたり。心地よき事いわん方なし。七時上野停車塲に行けば長塚既にありて吾を待つ。汽車の窓に青田のながめ心ゆくさまなり。利根の鉄橋を越えて行くに夏蕎麦をつくる畑干瓢をつくる畑などあれば
埼玉や古河のあたりの夏蕎麥のなつみこめやもおほに思はゞ
麥わらをしける廣畑瓜の畑葉かげに瓜のこゝたく見ゆる
など口ずさむ。十二時日光に著く。町を過ぎて含満の淵に行き石仏を見る。大日堂の裏手より裏見の滝へとこころざす。道のほとりに咲く草花、あからむ覆盆子などさすがになつかしくて根岸庵のあるじがり端書をやる。
少女等がかざしの玉の赤玉に似たるいちごを採りつゝありく
奧山の道のへに咲く草花をうらめづらしみ見せまくもとな
おぼつかなき歌なり。裏見の滝に著く。茶店に人無し。外国の婦人のまだうら若きと見ゆるが靴の上に草鞋をはき、一人は橋の上に立ち、一人は岩に腰うちかけて絵など写すめり。斯る深山に入りてみやびたるわざに心をこらす少女の心のうちを思うにいとなつかしく今迄は只いとわしき者にのみ思いし外国人の中にかかるやさしきもありけるよと心にくき事限りなし。屏風巌をめぐりて般若方等二つの滝の見ゆる処に出ず。谷を隔てて稍遠く見たるなかなかに趣深く覚ゆ。ここより五十ばかりの人道づれとなりて行く。草履をはき下駄を手に提げたり。広島の人という。三人声かけあいて登るに道けわしければ汗は滝なして降る。薄暗きに華厳の滝をのぞきつ七時過中禅寺湖畔の旅籠屋に入る。
翌朝つとめて起き出ず。快晴。山深き暁のながめ、しんしんとして物一つ動かぬ静かさは膚にしみわたりて単衣に寒さを覚えたり。日、湖の面を照す頃舟を雇うて出ず。二荒の裾山樹々の梢に鶯の今をさかりと鳴く声いとめずらし。風はそよとも吹かず、日熱からず、四方のけしきのどかに見わたさるるに
舟、菖蒲が浜に着く。湯本道なり。舟を上れば竜頭の滝あり。しばらく遊びて後戦塲が原に出ず。いろいろの草花うつくしくおのがしし色に誇るが中に菖蒲の花なん殊に多かりける。
二荒の山の裾野にあかねさす紫匂ふ花あやめかも
櫻草の花によく似る紫の花めでつゝも名を知らずけり
花あやめしみ咲きにほふ紫の花野を來れば物思もなし
紫の雲ゐる野べに朝遊び夕遊びます二荒の神
湯の滝を見、湯本に遊びて帰る。中禅寺の湖をながめて
天雲のいはひもとほる湖の上に眞白片帆の舟歸る見ゆ
歌袋歌滿ちあふるなめ革のかはり袋のありこせぬかも
歌袋の歌は文して格堂にからかいやりしなり。此夜も山田屋に宿る。明日は華厳の滝壺に下りんとて長塚も我もいさみきおう。先ず歌幸を祈らばやとて詠む。
翌日朝早く案内者一人召し具し二人きおいにきおいて滝壺に下る。岩崩れ足辷る。手に草をつかみてうしろ向きになりて少しずつ下り行く。危き橋をようように這いわたりて終に下り着くに滝のしぶき一面に雨の如く足もとより逆に吹きあぐるさますさまじく恐ろしく暫くも彳みかねつ。僅にかえり見れば小き円きうつくしき虹の我身をめぐりて目の下に低く輝けるあり。我動くところに虹も亦従いて動く。我は神となりたらん心地にてくすしくとうとくも覚ゆれど余りのすさまじさに得も留まらで復もと来し岩を攀じて登り来る。衣は雨に濡れたらんが如し。茶店にて裸なりて乾す。ここに得たる長歌短歌若干別にあり。
昼過日光町へ下り霧降の滝見に行く。途中
ゆくゆく一人の少女のいと艶なるに逢う。長塚しきりに恋いかなしむ。我長塚に代りて
滝を見て日光町の旅舎に帰る。宿の女又のうねもごろにもてなすに我も心なきにしもあらず。
廿三日小山の停車塲にて長塚と袂を分つ。長塚は郷里岡田へ帰るなり。
上野停車塲に着く。直に根岸庵を訪いて華厳の滝壺にて採りたる葉広草、戦塲が原の菖蒲の花など贈る。夜深けて家に帰る。
底本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
底本の親本:「日本」日本新聞社
1900(明治33)年10月26日、27日
初出:「日本」日本新聞社
1900(明治33)年10月26日、27日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉には、振り仮名を付しました。底本は振り仮名が付されていません。
※初出時の表題は「瀧見の旅(上)(下)」です。
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2018年8月28日作成
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