私も講演をした
正宗白鳥
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圓本續出の時代にはこの宣傳に利用されたためか、文學者の講演が盛んであつたが、このごろはあまり流行しなくなつた。文筆業者のうちでも、新聞記者とか政治、經濟の評論家とかいふ種類の人々は、演説にも馴れてゐて、自然上手になつてゐる譯だが、小説家や詩人のやうな純文學者は概して演壇向きでないやうである。だから聽衆の方でも知名の文人の顏を見るだけの興味で會場へ行くので、演説そのものに感心することは甚だ稀なのではないかと思はれる。文學者講演會の次第に流行しなくなつたのも、そのせゐではあるまいか。
改つた演説は不得手であつても、テーブルスピーチは、文壇の諸氏もなか〳〵上手になつた。これは文壇人の會合に限つたことではないが、日本人は、この點でも西洋の流風に習つて宴會の卓上演説が巧みになつて來た。日本人の素質からいつても、講壇上の本式の演説よりも簡單なテーブルスピーチを、小器用にやつてのけるのは、さもあるべきことのやうに思はれる。しかし、この卓上演説の進歩發達も、時としては害毒を流す傾向がないでもない。私などたまに會合に出席してこつてりした西洋料理で食もたれをしてゐる後で、次から次へと、五分十分の演説が續くので苦惱を覺えることがあるのである。スピーチする人は、みんな巧い。氣の利いたことをいひたがり、諧謔を弄して人を笑はせようと企てられてゐる。二つ三つはいゝとして、續々と、それをやられるのは私には甚しく閉口なのである。
ところで、私は、幸か不幸か、テーブルスピーチや壇上演説が甚だ下手なのである。一生さういふ者はやるまいと決心してゐた。だが、人間は、生きてゐるうちは、「斷じて」何々しないなんてことは公言出來ないもので、私も、今年は珍しく、二度も續けて講演らしいものをやつた。帝大の或る會と、早大の五十年記念の文學講演會とにおいてであつた。輕井澤で二月の間しよんぼり暮した後であつたためか、帝大の一學生が幹事役として依頼に來た時に、小人數で座談的に何か話すのなら出席してもいゝと答へておいた。東京に滯在中であつたし、不斷私用も公用ももつてゐない私のことだから豫定の日に、時刻を見計らつて、散歩でもするやうな氣で出掛けた。正門を入つて見ると、或る教室の入口に、大きな立看板が出て、私の名と演題とが書いてあつた。こんな大袈裟にされるはずではなかつたがと變に思ひながら、そこへ入つて、幹事の居所を訊ねるとこの先の何處とかへ行けと教へられたので、そちらへ行つたが、目差したところがよく分らないので薄暗い建物の中をまご〳〵した。事務員見たいな人に訊ねても、叮嚀には教へてくれなかつた。昔からさう思ひ込んでゐるせゐか、官立大學は官僚的だなあと感ぜられた。全體私の風體からしてこんな堂々たる學堂へ入り込むのは相應しくないので、田舍爺が東京見物に來た次手に日本一の學校を覗きに來たといふ有樣であつた。そこで思ひ出したのは、スイスのジユネーブに數日滯在した間のことで、その時泊つてゐたホテルが、大學の近所であつたので、私は或る日散歩の次手にその大學の構内へ入つた。叱られたらその時に退却すればいゝと思つて、玄關から廊下を通つて教室を覗いて歩いた。咎める者もなかつた。それで、私はスイスは自由の國であると極めて歸つた。
私は質素なジユネーブの大學を追懷しながら、庭園に出てベンチに腰をおろして煙草を吸つて、帝大の建築や學生を見廻してゐた。若い時代に新聞記者として、山上の御殿で御馳走になつたことや、某々教授を訪問したことなどが、自ら思ひ出された。「三十人くらゐを相手の茶話會」といふ約束であつたのだし、幹事の居所も分らないのだから、それを口實に、このまゝ歸らうかと、ふと考へついたのだが、それも敢へてなし得なかつた。私は何事についても敢爲の氣象に乏しい。愚圖々々とまた幹事の居所を訊ね訊ねして、或る教室へ入つた。
直ぐに導かれて演壇に立つたのだが、可成りの教室が聽衆で一杯であつた。「おれも人氣があるな。」と思つたり「何だつておれの演説なんか聞きに來るのだらう。」と思つたりした。一時間ぐらゐなら何かしやべれんことはあるまいと高を括つて口を開いたが、行き詰まつて何もいへなくなつたり、同じことをくど〳〵繰り返したりした。原稿なら筆を擱いてゆつくり考へてゐられるが、演説ではそれは出來ない。面白可笑しいことをいつて聽衆を笑はせる技量はないし、そんなことは私の最も好まざるところであつた。でも、聽衆はをり〳〵笑つてゐた。何故に笑ふのか分らなかつた。二三人は欠伸をしてゐた。途中で出て行く者もあつた。
それでも三十分くらゐの間感想を吐露して演壇から引き下つたが、その後で、別室で、豫定の通りの茶話會が開かれて、數十人の學生を相手に漫談をやつたが、これは愉快であつた。久し振りに青年に接して、彼等の感想を聞き彼等の質問振りを觀察するのは、私としては興味もあり得るところもあつたと思ふ。
この時の講演に對して、金一封のお禮を貰つたのだが、私としては、生れてはじめての演説稼ぎで、はじめて月給を取つた時、はじめて原稿料を貰つた時のことが思ひ出された。原稿稼ぎの方では、私などもすれつからしになつてゐて、碌でもない原稿で報酬を得ても感謝する氣なんか無くなつてゐるが、今度講演料を手にすると、あんな下らないおしやべりで報酬を貰つていゝものであらうかと、子供らしく感ぜられたのである。
底本:「正宗白鳥全集第二十七卷」福武書店
1985(昭和60)年6月29日発行
底本の親本:「週刊朝日 第二十二巻第二十六号」朝日新聞社
1932(昭和7)年12月4日発行
初出:「週刊朝日 第二十二巻第二十六号」朝日新聞社
1932(昭和7)年12月4日発行
入力:フクポー
校正:山村信一郎
2016年9月9日作成
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