學校の今昔
正宗白鳥
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私には子供がないから、學校の撰擇、入學の困難について心を惱ましたことがない。そして、私自身は、教育制度の混沌曚昧たりし時代に成長したお蔭で、入學にも卒業にも、試驗の苦しみなんかは、寸毫も經驗しなかつた。たゞ小學校時代に、小さな弱い身體で體操をやらされた時だけ學校苦を感ぜさゝれた。そして早くから官立を窮屈な所と厭はしく思つてゐた。當時修學慾に燃える青少年の憧憬の的となり、絶大の權威をもつてゐた帝國大學を目指して、修業の道を進まうとは毛頭考へてゐなかつた。小學を出ると、漢學を主とした私塾へ入つた。それからキリスト教の私塾へ入つた。それ等の私塾で、右の耳で老儒の論語、孟子を聽き、左の耳で米國宣教師の外國語を聽きながら、私は、前途の修業方針を考へてゐたが、同志社と慶應義塾と早稻田との三つのどれかを撰ぶべきかをいつも考へてゐたのだ。同志社が東京にあつたら、迷ふ所もなくそれを撰んだのであつた。「同志社文學」といふのを愛讀してゐたが、それなどを通じて、この學校に清新な異國情趣があるらしく空想したりして、年少の私の心は魅惑されたのであつた。
それから四十年を經過した今日この同志社に激烈なる學校騷動があつたことを、私は何處かでちらと耳に入れて、その存否をすら忘れてゐたこの學校の名を思ひ出し何故の騷動かと訝かつたが、「日本評論」八月號所載の山川均氏の非常時論文のなかに、それに連關した記事があつたのを讀んで、はじめて騷動の内容が分つた。昔を顧みて私にも感慨が深いのである。昔、同志社は米國人の寄付金を基礎として、新島襄氏によつて創設されたので、多分米國の爺さんや婆さんが、後生願ひに、世界の端のやう遠い土地へも神の教へを傳へるために、獻金したものなんかが、その中に入つてゐたのであらう。「キリスト教をもつて徳育の基本となす。」といふのが、創立當時の綱領であつたさうだが、さうでなければ、米國人が金を出す氣づかひもなく、新島氏もそれを請け負うて來たのであらう。あの頃は、政府がキリスト教を政治的に利用しようとした時代であつたから、新島氏にも同志社にも權威があつた。
併し、日本の世相は目まぐるしく變化したのだから、同志社だけが舊態依然でゐられる筈もない。聖書にいはゆる「鹽その味を失はば」と、最初の獻金者は歎ずるかも知れないが、キリスト教は日本の地質には適しないものらしく、深く根が張れなかつたのであらう。私が年少時代に譯も分らずに敬慕してゐた新島精神も案外薄弱なものであつたのか。
だが、早稻田の標語であつた「學問の獨立」も、慶應の「獨立自尊」も、今なほ毅然として光を放つてゐるであらうか。
底本:「正宗白鳥全集第二十七卷」福武書店
1985(昭和60)年6月29日発行
底本の親本:「読売新聞 夕刊」読売新聞社
1937(昭和12)年7月31日発行
初出:「読売新聞 夕刊」読売新聞社
1937(昭和12)年7月31日発行
入力:フクポー
校正:山村信一郎
2016年9月9日作成
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