家の話
柳田国男
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士農工商という語を日本で用い初めたのはいつ頃のことであろうか。天保八年にできた『燕居雑話』という書物には、「世俗よく士農工商ということをいえども何に出でたることを知らず云々」の話が載っている。この説によると、支那ではごく古く『淮南子』の斉俗訓にも『漢書』の食貨志にも、いわゆる四民の別が説いてあって、その範囲がほぼ吾々の士農工商と同じであるというが、これをわが国に移したのはおそらくは近世の漢学者の所業で、日本の社会組織について、深い研究を尽した上の分類でないように思われる。
しかるにこの名目は新時代になっても、少なくも吾々の少年の頃までは、いたって盛んに公私の間に用いられたものである。たとえば明治の初年の布告には「四民平等」などという語もあったかと記憶する。あたかも本来四民が平等でなかったかのごとく看做しているのである。西洋人の日本記事の中などにも、これを興味あることとして語り伝えているために、あるいは日本には古くから天竺などのように、四種の階級が截然としておったかのごとく、吾も人も信ずるようになった。しかしこれはだいたいにおいて間違いである。今日でも大ザッパな人の頭では、士農工商の内の昔の武士に差し代えるに今日の文武官をもってして、やはりかくのごとき目安をもって社会が四つに分類し得るかのごとく考えている人がないともいわれぬ。昨年の大修繕にペンキを塗りかえるまでは、衆議院の仮議事堂の傍聴席の手摺に、士農工商を現わした四組の模様があったことは、人のよく記憶するところである。
この類の誤りは、延いては国民の社会的国家説にも悪結果を生ずべきものであるから、軽々に看過してはならぬと思う。多くの場合無益の詮索のごとく考えられている歴史の学問は、かくのごとき場合に吾々を正しきに導くただ一つの頼みの綱である。吾々の観るところをもってすれば、個人個人の生活を得る職業としてはなるほど種々の差があった。しかしこれによって国民を大別することを得るためには、永い間の世襲と職業転換の困難な障碍がなければならぬのであるが、それを立証することは事実はなはだ困難である。
士農工商の中でも工にはある程度までの特別な沿革がある。ことに高尚な技術、古い言葉で諸道と唱えていた医業や音楽の類を、工の中に包含するとすれば、この方面においては他の職業との混同融通は比較的少ないということができる。これらの技術にはしばしば秘密があって、いわゆる一子相伝で純然たる仲間のもののみに伝え伝えて数百年を経過したものもあった。しかしかくのごとき技術的の職業においても、世の中が進むとともにこれに従事するものの数が殖えて、その補充を求むる場合には常にまた士農工商の子弟を連れて来たのである。いわんや普通の職人と称する類に至っては、いずれの時代においても外部から弟子を採って育てていたことは事実である。
商に至ってはこの事実がいよいよ著しい。江戸時代に町人と称して自ら陋うしておった城下の店持ちでも、ほとんと一戸として昔からの商人であったものはないといってよろしい。諸国の城下に常設の肆のできたのははなはだ新しいことである。その以前はいわゆる有無相通ずで、生産者が自ら自家用の余りを、月三度または六度の市に立って交易したのである。たまたま商品が特別の技能を用いるものであった場合に、これを売るところの工人が、やや後世の商人に近いような地位を持ち始めたのである。京鎌倉のごとき昔からの大都会に開かれた常市でもおそらくはこの通りで、商売が独立の職業となったのは、全国を通じて三四百年来の発達といっても言い過ぎでない。
この事実は、今日の大都会の旧家の歴史を尋ぬれば、容易く証明せらるるのである。京でも大阪でも堺でも、江戸時代の初期に名をなした大商人は、いずれも浪人の転業であった。士族の商法であった。たしか貝原益軒翁の全集中に、福岡の大町人の由緒の集めたものがあった。近頃できた『名古屋市史』には、あの町の旧家の若干が列記してあったが、いずれもともに領主からの特別の保護を受け、与えられたる特権によって経済上の地位を作り上げた者が多く、もちろん本人の技倆才覚が根本の条件にはなっているけれども、要するに方面こそ違え、皆諸侯の従属として新たにかくのごとき有利なる地位を賦与せられた点は、武士と異るところなく、しかも彼等はいずれも由緒ある旧家、すなわち中世の武家の流れを汲んでおったものであって、決して、先祖代々の商人ではなかったのである。
江戸時代初期の商業人口増加率は、おそらくは明治初代のそれに超過するものがあったことであろう。ことにその品質においては確かに昔の方が立派なものが多かった。他の同胞より智力においても、はたまた世界観においても、数段傑出しているものでなければ、地方割拠の経済組織を突き破って、全国交通の大系統を打ち立てることは難かったはずである。従ってこの方面においても、一種の戦死者すなわち失敗者は非常に多かった。その内若干の生き残ったものが、今でも折々大都市に残っているいわゆる旧家門閥である。彼等は在所における屋形、被官の関係もしくは預り職代官の旧制度を、必要なる若干の変更をして商業社会へ移植した。年期奉公を務め上げた者が暖簾を分けてもらうといい、出入りと称して親代々保護の関係を結ぶがごときは、今の社会においてもなお吾々が見出し得るところの一種の組織、一種の被保護の慣習である。人によってはこれをもって日本の社会の一特色としているけれども、自分の観るところではかくのごとくして三百年前に初めて現われ出たのである。
この類の商人は世が進むに従って、おいおいと多数の摸倣者を誘起したが、その摸倣者の多くの者は、武人からの直接の転業者にはあらずして、後にはまたいったん農を営んでおったものが出て行くようになった。この風習も近年まで残っておったが、大阪のごとき大都市でも、商家で丁稚・手代を採用するに、比較的生活の相似たる市民の子弟を採らずして、なるべく粗樸の田舎者に目を付けた。江戸初期には田舎でも人の手は決して豊富ではなく、次男三男の家に用のないものは、どこへでも出て新田を開発することができた上に、領主の方でもできるだけ領民を外へ出さぬように努めておったから、後世と異なって傭主たる商人の方から、よほど進んで求めぬとそういう少年が得にくかったに相違ないが、それにもかかわらずかくのごとくして田舎者を求めたのである。ことに面白いのは江戸でも大阪でも商家に養子の制度が盛んに行われた事で、この風延いては今日にまで伝わり、田舎者の事務に熟練して腹のしっかりした者は、年々引き上げられて大家の相続人になった。つまり以前の商業が特別の伎倆、尋常以上の人格を要求したので、自然と男子を捨てて女婿に相続をさせる必要が生じたのである。
それから久しからずして田舎の人口がいっぱいになって溢れる時代が来た。もはや附近には開くべき新田もなく、天下泰平にして子孫繁殖し、弟や次男三男の家に用のないものが、求めて今のごとく商家の奉公を希望するようになって、今度は外部からまさに沈滞せんとする商業界を刺戟するようになった。そうしてかくのごとき丁稚生活からたたき上げる地位が満員になってから後、さらに中年者の都会出稼ぎということが旺んになった。ちょうど大岡裁判の越後伝吉の話などがその一例で、おそらくはあの頃から北陸地方の、冬分田畑に雪があって農作に従事することのできぬ地方から何か仕事があるだろうと、都会へやって来て極度の忍耐勤勉をもって家を興す風習が、初まったものと考えられる。
これも数においては非常なもので、もちろん失敗者も多くあるいはまた短期の出稼ぎを終って、依然たる百姓に立ち戻った者も多かったことであろうが、それにもかかわらず到る処の都会に、越後屋・上州屋・伊勢屋・近江屋というような暖簾を掛けた商人が非常に多くなったのである。関東の都会のごときは、いったん江戸に出たものが帰りの途中で、好い場所を見つけて落ち着いたというような、一種変った来歴の移住民を非常に多く包含している。中でも近江屋と伊勢屋は、今日なお特別の商店経営を持続しているのみならず、当初出稼ぎの折から、すでに他の国々と違った態度もしくは工夫を持っていたらしい。全国の移住商人の中で数においても最も多く、地域においても最も広く分布しているのは近江と伊勢の商人である。伊勢はことによると神宮の下級神人の全国巡廻と、因縁を持っているのでないかと思うが、近江のごときはどうしてその大移動が始まったかいまだ解らぬ。南部・津軽の田舎を歩いてみると、上方から来たと称する半商半農の資産家が今でも多いが、これが半ばは近江の者であることは、今なお自分の説明に苦しんでいるところである。
士農工商の内、工の半分以上商の九分通りまでが、もとは農から出たものであって、農工商をそれぞれ別異なる階級のごとく見るのは誤りであることは、前に申す通りである。さらに進んで士という階級もまた、農から別れたものだということを少しく話してみたい。
江戸期の学者が、古は兵農一致と論じたのは有名なことであるが、人によってはこれを平時に武士が下人を指揮して、農業を営んでいたというだけに解して、武家も農家も古くは同一の団体の一分子であったというまでには思っておらぬものがあるかも知れぬ。しかしこれはそのような、中途半端なものではなくして、徹底的に武家すなわち農家であったことは疑いなき事実で、これがまた日本の社会のすこぶる誇るべき特色で、あるいは世の中が末になったごとく憤る人もある時勢に際して、吾々が将来の発展に対して、なおすくなからざる希望を持つ根拠である。
この顕著なる事実は、どの方面からでも説明する事が困難でないが、最も容易に普通人をして納得せしめ得る方法は、箇々の家についてその起原を辿って行くことである。昔諸国の大藩において、家老なり物頭なりの重職を務め、百姓町人をゲスのごとくに呼びすてにした家では、あるいは心得違いとして、神武天皇以来素性が違っているように思っていたか知らぬが、一般彼等が家号すなわち苗字を調べてみると、ただちにその推測の誤りであることが判る。苗字の中でも伊藤・小林・渡辺・中村というようなあまりに普通的なる少数のものを除いて、その他の大多数はいずれも地名である。官府の文書には維新の際まで、これを在名と称えていた。在名とは所在の地名ということで、すなわち中世以前人が普通居住地の地名をもって、家号としておった習慣が、痕跡となって伝わっていたのである。
しかるに今日の吾々の苗字は、百中の九十九まで、実際の在名ではない。すなわち居住地の地名とは違っている。その中でも京都の華族のごときは、狭い地域の内で家を移していたから、一条・二条・三条等の市街に住まずとも、元の居住地を想像することができる。旧鹿児島藩のごときも、郷に住む武士を政策上互いに置き換えていたけれども、これとても薩隅日の三国の外に出でぬから、島津家の旧臣の苗字は、島津家の旧領の地名であることがよく分る。
ところがその以前の武家になると、移転によって本居の不明になったものが段々ある。前田家の旧臣の姓に注意してみると、加賀に住んだ後、領内のそこここから抱えたかと思わるる多くの苗字に混って、越前の北の庄時代に取り立てられた越前の地名を持つ家があり、さらにごく少数の尾州荒子時代の由緒ある旧家がある。これらは国持大名の転封のなかった場合であるが、中以下の諸侯の江戸三百年間に、何回となく引き越しをした家においては、藩士自らがすでに家の根元を忘却したものも少なくないことであろう。もし注意して転封の経過を調べてみたらば、以前どこかの旧領内の地名であることを、発見するものが必ず多いであろうと思う。
近世の歴史家は、兵農一致の思想の壊れた原因を、主として武士の給与方法の変更に置こうとしているようであるがこれは正しくない。なるほど知行の制度が扶持の制度に改まり、あるいは名は知行と称しながらその実管理権を政府に取って廩米をもって相当額を給するようになっては、武士と土地との因縁は一段と疎遠になるが、しかしそれよりも以前に、事実上の名字の地におらぬようになっては、自身農業を営み得る道理がない。だからむしろ武士の家と旧所領地との分離をもって、兵農一致の終りと見なければならぬ。
そうしてこの分離がまた徳川幕府の大方針であったのである。先祖代々養い来たった分家の百姓及び下作人は、事あれば主人の馬前に立ち塞って身命を擲って戦い、平時には主人保護の下にわずかの田畑を作って、五穀成就を楽しんで、徹頭徹尾利害を共同にしていたから、たとい微々たる小名であっても、成り上りの新領主にとりてはまことに厄介な人民である。多くの地方においては、右の兵農一致の旧習慣を打破するにあらざれば、領主の安全を期することができなかったのである。士族が別階級のごとくなり初めたのは、まったくこれが原因と見て差支えない。
名字が事実上の在名と合致しなくなり初めたのはずいぶんと古いことである。自分等はその起原を平家の滅亡、承久の乱等に伴なう多くの大名の没落が、鎌倉方の武家に多分の新恩を加給した時代に初まっていると思う。たとえば九州では宇都宮、千葉、伊東などの東国の名門が入部するに当って、家の名声を輝かすがために、特に昔からの家号を襲用して、新在所の地名を用いなかったものが多かった。奥羽では葛西や小野寺、南部、千葉などはこの例である。地方的にもこの種類の小移動があったために、旧来の領主とても、必ずしもその所在地の苗字を保持しているとは限らぬが、それにしても四百年五百年の間一定の土地に住み、未開の原野があれば部下を送ってこれを拓きこれを耕し、一通りならぬ深い因縁を結んでいたのであるから、これを元のままの農家兼武家の型で遺しておくことは、常に他所から入り込んだ領主にとっては、危険であったに違いない。
これにはまた戦術の変化ということも、従たる一原因になっている。今日の戦争に較べると話にはならぬが、飛び道具の突然の輸入から、戦争の危険の急に増加した時代がある。中世以前の武家は、防禦工作物と住宅とは別であって、寄手を野外で追い返すことのできぬ場合には、きまってわが屋敷に火をかけて、後の山に駈け上って防戦をしたのに、だんだんと財貨が城下に集り経済組織が緻密になるにつれて、平日の生活を重んじた結果、城下の民を合せて防衛する必要が起った。そこでなるべく多数の武士を膝元に呼び寄せておくことになったのである。
この大小二つの理由から、どうしても武家は農家から別れねばならぬようになったのである。この変化はこれまでの学者がさほど注意を払っておらぬが、日本の社会にとっては、後にも先にも比類を見ないほどの悲惨なる大革命であった。昔の古い書物には、村に住んでいた武家を郷士もしくは郷侍といった。近世のいわゆる郷士とは大分性質の違ったものである。あるいはまたこれを国侍とも地侍ともいった。地侍はいわゆる地卵や地酒の「地」であって、大名が他国から入り込んで後の名前である。織田・豊臣の時代から、江戸の初期へかけて、右の地侍の大規模の殺戮というものが、各地において行われた。その紛乱の動機がある点において、明治初年の断髪廃刀令の施行の際に似ているのは面白いことであると思う。
戦国時代の軍記類を読むと、いわゆる郷士なるものはたびたび二三勢力ある大名の間に向背して、いかにも内股膏薬の定節がなかったように見えるが、しかもだいたいからいうと彼等を拘束しておった法則は、義理と恩顧の観念であった。今まで名を聞いたこともない新しい家が、力ずくで来て支配をするとなれば、動揺をせざるを得なかったのである。その上祖先の地を去って城下へ出て奉公せよと命ぜられ、もし郷里に止まらんとするならば、普通の百姓と同率の賦課を受けねばならぬとあっては、彼等の間に最も貴重としている土地と家との因縁を無視せられ、しかも領主こそ代ったれ、近郡の小領主間には血族交友の親しい関係がある上に、保守の思想においてもまた一致しているのであるから、彼等が共謀して新制度に反抗しようとしたのは当然のことである。
こういう場合には、その以前から領主等が用いた策は、常に騙し討であった。東部下野は自分の家に関係があるからしばしばその旧記に目を触れているが、那須郡の七騎とか、某郡の十何名などという総括した名称を持っている旧家は、どこの国でもことに目を付けられて、多くは根こそげに絶滅させられた、中にはおそらくは無実な刑罰もいくらもあったことと思う。山内侯爵家の祖先が、土佐で実行せられたという対地侍策のごときは、なかんずくこの経過を委しく語っている。最初には最も強硬な少数をおびき出して来て殺した。その次には彼等が引き籠って命を奉じないのを、攻め寄せて討ちとった。それでもいかぬのでその次には懐柔策を採った。たとえに引くのは不倫であるかも知らぬが、今日台湾の総督府が東部の蕃人に対して採っている策も、ほぼこの範囲を出ないのである。
土佐の郷士はその勇猛にして偏屈なる気質を、今なお保存しているが、昔この山国の小天地に、比較的自由な生活を続けていたものが、一朝にして新領主の新制度に拘束せられんとしたのであるからして、その反抗の激しかったことも想いやられるのである。ことに彼等はいまだ充分に長曾我部家の恩顧を受けきらぬ内に、その家と別れたのである。その今一つ前に遡ると、国中の諸領主は大小勢力の相違はあっても、要するに対等の交際で、地形上完全なる統一というものを得ていなかった。香長二家の曾我部氏といえども、いわば覇王のごときもので、一条家が国主として君臨したというのも、実は名ばかりで、これらの地侍から奉戴せられたのにほかならぬ。こういう特色ある辺鄙に入国して、とにかく五百年来の島津家などと、ほぼ相似たる社会組織を作り上げるまでの、骨折りというものは一通りでなかろうと思う。
しかし要するに時の力というものは争われないもので、これほど不自然な破壊的の革命も、二代三代と立つ内に、あたりまえのようになってしまった。平和な時代の武士という者は、実際退屈なものであった。ひとり重要なのは家の存続であり、祖先をして永く血食せしむることである。初めて自分はもはや武士でないと宣言せねばならなかった地侍の主人の心持は、いかにも寂寞無聊を極めたものであったろうが、結局はこれが万全の策であることを知ったのである。今日地方において多く書を読み、名望をもって一郷一郡を統御している人々は、多くはこの類の槍と馬とを断念した旧家の末である。
しかし彼等とても、そう無造作には断念はしなかった。大和十津川は維新の際まで皇室の御料地で、南朝以来の由緒あるによって、今でも全村の農民ことごとく士族である。分家をすれば平民となるのが辛さに、縁もゆかりもない絶家を続ぐ風習がはなはだ旺んである。明治二十二年の大洪水に屋敷耕地の過半がなくなって、どうしても住み続ける事ができなくなった、そこで北海道の新十津川村を拓いたのである。新十津川村は一望無限の平野で、いかなる小民でも五町歩の土地を所有することができた。それならば我も彼もこの新しい境涯に赴くかと思いのほか、やはり一軒の家から兄は行き弟は止まり、父と子と別れて、結局大和の本村も、大なる戸数の減少は見なかった。地侍が事実上の帰農をした時分にも、同じ現象が行われた。多くある兄弟の中ならば、必ず一人や二人は家を出て、城下の武士になっている。これは二男三男の処分方法としても、いたって便宜なことで、昔ならば叡山か高野へでも送るか、しからざれば永年武者修業でもした挙句に、どこかで槍先の功名を現わすというところであるが、新領主の方から、在所におりたくば純然たる農になれ、刀を挿したくば出でて仕えよという命令を受けたのであるから、ここに一門相談の上、温厚なる総領は家に残り、活気のある二三男は奉公をして、禄を稼いだということになったのである。それでいわゆる三百諸侯の大多数が、あのように頻繁に国換え断絶、削封を受けなかったならば、一門の間に兵農一致の事実は、分業的に永く存していて、今一段と愉快なる社会組織、すなわち士農工商などという階級がましい差別を作って、一方が威張り一方が卑屈になるというようなことはなかったであろうと思う。
昔の人は今よりもはるかに物堅かったから、家の歴史には非常に注意を払っている。数回の国換えがあってから後でも、元の在所の本家と、音信を絶たぬものが多かった。交通の障碍等のために、一時疎遠になっていても、久しくして尋ねて来て、名乗りあったという話はいくらもある。ただいかんせん、本家の方では浮世の栄枯盛衰が多かった上に、縁故の少ない新領主及びその藩士たちから、冷淡なる待遇を受けるために、身も心もいわゆる土民になり切って、たまたま代換りの老人の絶えた家などでは、そういう武家の親類が、遠くにあることも忘れられてしまうようなことも多かったのである。しかも今日のいわゆる士族なる者の内に、分家も本家もなくて、源平時代から武士であった家というものがあろうはずはないのであるからして、少しくその頃の領主との関係を辿って考えてみたら、たとい本家の所在が不明でも、わが家も元は百姓であった事が容易く想像し得らるるので、もし彼等が士族であるがゆえに自負するとすれば、それは単に二百年か三百年の履歴によって威張るだけである。維新の少し前、洋式調練が各藩に入った時、従来の徒士足軽では、人数が足らぬので、農兵と称して新たに村落の内から下級の卒を抱えた処があった。その時の彼等の悦びは非常に大きいもので、ある藩においては、家を出て行く際に女房に向って「吾々侍でも悲しいからお前の泣くのはもっともだ」といったという一つの笑話すら遺っている。そうしてつい四五年前までこの連中は、士族の称号を得るために旺んな運動をしていた。今日のいわゆる士族が、その偶然の境遇のために自負をするならば、要するにこれらの農兵どもと五十歩百歩である。
最近百年ほどの間、偽系図を作って生活していた学者らしからぬ学者が、指を折って数えるほど諸国にあった。金ができると家の格式を作りたがるのは普通の人情で、二代三代と主人が代って、かつてはしがない水呑百姓であったことを、近郷の者の忘れた頃に、そろそろと自分の家が源平時代からでも、その土地に住んでおったというような顔をするのは、普通の社会状態であったが、もともと系図の有無によって家の古さ新しさ、すなわちいわゆる門閥の大小を決せんとしたのが、近世に始まった誤謬である。
史料編纂官の報告を見ても分るごとく、本来厳格なる意味における系図というものは少ないものであった。中世の各家に貴重せられておった系図に至っては、要するに、その家の領地が慣習法上、適当に相続せられておった事を証明する、一種いわゆる手継文書の附属書類に過ぎなかったので、家の領地がなくなれば、すなわち地租がただの農民より特に軽いという状態がなくなれば、もはや不用のものであった。
江戸時代の初期から、盛んに行われた由緒書というものも、もとはこれと目的を同じゅうするものであった。すなわち大小の藩において、何ゆえに甲乙少数の領民にのみ、ある特典を与えているかという説明を、時々その本人から表明させたのがこの由緒書である。士分の者にあっては、これによく似た先祖書というものを、代替りごとに差し出さしむる例規であった。自他ともに昔のことを忘れしめぬ美風の一つであったが、要するにその動機は、ただ経済上の優遇の一条件に過ぎなかったのである。
しかるにおいおいと世の中が逼迫して、貴族は財政に弱って税を免じてやることができず、実を去って虚名のみを付与するようになったのは、近世の一変遷で、いわば泰平の兆候といってよろしい。民間の由緒書、ないしはこれを修飾して新たに作った系図の数は、ついに領主以外の世間の人々に向って、家の名門を語るべき、一種の飾りもののごとく変化して行ったのである。
たとえば御用金を仰せ付けられる。または自力をもって公共のために道路を拓き橋を架ける。これらの行為は次第に名誉の称号をもって報いられるようになった。地方によっては普通の農民に、瓦葺きや破風作り等の家を許さず、たまたま領主に対して功労のあったものにのみ、特典としてこれを認めた。あるいは手傘を用いるあるいは杖をつかせるという類のつまらぬことも、同じ目的に利用せられた。ことに最も広く行われたのはいわゆる苗字帯刀御免の制である。
中世の社会組織においては、いわゆる在名の使用は、ある領地を持っていることの徴であった。従って単純なる土民は、苗字というものはなかったはずである。地侍をただの百姓にした結果はすなわち在名の禁止であった。在名の禁止は原則としては明治の初年まで続いておった。明白に土地草分の旧家であっても、特許なしにはこれを傘・提灯にも書き込むことはできなかった。その使用を許さるるとなれば、多くの富豪は、甘んじて巨額の御用金に応じたのである。帯刀もまた同じことで、もはや抜いて犬を切ることもできぬような農家の主人が、やはり公然と刀を帯ぶることを、この上もなき面目と考えたのである。
そこで人気の悪い地方では、何の素性も知れぬ馬の骨が、吝嗇・貪慾ないしは幸運によって、一門の旧家であるがごとく反りかえって歩くと、後ろ指をさす者などもあったか知らぬが、実は今日のごとく経済上の異動の激烈でない時代においては、やはり従来苗字を用い大小を帯びる身分であったものの子孫が、多数この特権にありついて新たに大いに喜んだということになるのである。言葉を換えていえば、昔の地侍に近い生活に戻るということを、最も熱心に希望したものは、かつてこれを失って悲しんだ者の曾孫玄孫で、彼等の血の中には、依然中世の武家の熱情が、久しく眠っていてついに覚めたのである。
稀にはさようでない成り上りものの例もあるにしても、少なくも近世農民の社会における一般の好尚の、家名すなわち地侍に近い生活を保つことに、その中心を置いたことは事実である。今もって地方を歩けば、旦那大家というものの地位が、諸人の羨望の的であって、一代に身上を作ったものの器量と才覚では、とうていこれと競争もできず、本人たちもまたたとい隆々たる家運を誇ることはできぬまでも、依然としてわが格式に相応した一段と高尚なる道徳律を守って、常に郷党の精神的生活を代表せんとする概のあるのは、なるほど前代の遺風といえば遺風であるが、まだまだ日本の他の諸国の摸倣を許さざる、一つの特色となっているのである。
この場合において、苦労をして偽系図を注文し、ないしはある時代の洪水・大火に紛失したなどという言い分けをするのは、無用千万な話である。時勢が進めば次男三男の分家の殖えるのは当然のことで、本家でなければ昔からの系図はありようがない。かりに昔はあっても、幼小なる戸主または学問の嫌いな人が一代出れば、昔の固有名詞などは忘れてしまうのが当然で、先祖の固有名詞の有無によって、家の年齢を証明せんとしたのが、最初から誤りであったと思う。ことに八幡太郎とか頼政とかいうような、最も熟知せられたる前代人と系図で繋ごうとするのは、その動機のいかんを問わず、常に子供らしい空想であったといわねばならぬ。
それよりも何よりも、吾々が深く考えてみねばならぬことは、吾々の中には、一戸として先祖なしに初まった家のないことであって、その先祖の中には不幸にして記録に書き残されず、または幸いにして戦場において華々しい最後を遂げなかったにもかかわらず、人間として最も正しく、日本人として最も立派な武家兼農家の主が、古今千年の間に何千人何万人あったか分らぬということである。外国人等がしばしば日本の人は農民までが勇敢である、忠誠であると批評するのは、吾々の目から観れば滑稽千万なることである。ひとり殺伐なる戦闘事業においてのみならず、さらにまた平和の技術において、学問において、容易く志を立て、教えれば必ずある発達を観るのは、たとい系図の証明がなくとも、また一人の昔知られたる先祖が存在せずとも、必ず由って来たるところのあることは、田舎の歴史を観るものの確信せずにはおられぬことであって、吾々がいたずらに国の古いのを誇るのではなく、世界の中いずれの部分の人間にも、真似る事のできぬ隠れたる遺伝のあることを信ずるがために、初めてこの国の永続ということが、何よりも大事な問題となるのである。
底本:「柳田國男全集20」ちくま文庫、筑摩書房
1990(平成2)年7月31日第1刷発行
底本の親本:「定本柳田國男集 第二十巻」筑摩書房
1962(昭和37)年8月25日
初出:「奉公」奉公会
1918(大正7)年1月~4月
入力:フクポー
校正:みきた
2017年6月20日作成
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