民族的記憶の名残
中谷宇吉郎



 もう四年前のことになるが、考えて見れば、寺田先生の亡くなられた年の夏のことである。

 先生の最後の随筆集『蛍光板』を貰って、ひとわたりずっと読んで行ったところが、「冬夜の田園詩」という短い文章のところで、私は妙に底知れぬしみじみとした感じにうたれたことがあった。

 それは三頁にも足らぬ短いものではあったが、その中に先生の幼かった頃の土佐の民族詩的情景が、いかにもありありと描き出されていた。

 冬の夜長に孫たちの集っている灯下で夜なべ仕事をしながら、山中の狸どもの舞踏会の話をする老婆の姿や、夕闇迫る田圃道で子供たちが原始民謡風な歌を唄いながら、その唄におびえて一せいに駆け出すという話など、とりとめもないような事柄の叙述の中に、美しくもまた物怖しい童話詩的な雰囲気がよく語られていた。

 そして先生は、その幼い頃に郷里の「田園の闇に漲って」いたところの「滑稽なようで物凄いような、何とも形容の出来ない夢幻的な気持」を、民族的記憶とでもいうようなものではなかろうかといっておられた。

 こういうものを読んで、その感情がひたひたと身に迫って感ぜられたのも、私どものように、田舎に育ったものの特権であろう。

 私どもの育った北陸の片田舎には、ついこの二十年くらい前でも、こういう民族的記憶による特殊の情緒が、人々の日常の生活の中に深く浸み込んで残っていた。

 そこには、現在の自分らの物の考え方のような思考の形式は、まだはいってきていなかったような気がする。あるいはもっと極端にいえば、喜怒哀楽の情までも現代の若い都人士の喜怒哀楽とは異っていたといえるかもしれない。

 文藻豊かな私の友人の一人が、いつか西洋のスポーツと日本の競技との底に流れる感情を比較して、その間に根本的なちがいがあるという面白い意見をきかせてくれたことがある。

 西洋のスポーツに伴う声は、たとえばオリンピックの放送で聞いた歓声のように、胸一杯に吸った空気が期を得て爆発する声である。こういう声は日本古来の競技にはない。日本の競技に伴う声の代表的なものは、剣道の気合のように、腹の底から絞り出す裂帛の声であるという話なのである。

 その話をよく味わってみると、なるほど日本の競技には、剣道の掛け声のような極端な場合でなくとも、いずれの場合にも必ずどこかにこの裂帛の調べがあるような気がする。

 そういえば、私たちの子供の頃の北陸の農村の生活を思って見ると、そこには、現在吾々が知っているような歓声が聞かれる機会はなかったようである。一番それに近いものを拾い出してみるとすれば、花相撲で村一番の名力士が、堂々と相手を押し切った場面などを想像してみることが出来よう。しかしその時に揚がる声にも、何処かに勝鬨めいたものが雑っていて、今日吾々が、テニスコートの側できく、あの輪廓の円いそして大きいながらに軽いところの現代の声ではなかった。

 私はこの話を、昔の日本人と今の日本人との間には、喜怒哀楽の感じ方にまで差があるということの一つの例として面白く聞いた。それにもっと重大なことは、この裂帛の気合というものが、ひょっとすると、今日やかましく論ぜられている「日本精神」の一つの大切な要素をなしているのではないかという点である。

 勿論すべてのその種の議論がそうであるというわけではないが、ある人々の訓詞などをラジオを通じて聞いてみると、その語調には勿論のこと、論旨の基調にも、この裂帛の気合が脈々と流れているように私には感ぜられることが多い。

 ところで、こういう裂帛の気合というようなものが、日本人の生活の奥に初めからあったものか、あるいは案外近頃になってはいってきたものか、例えば徳川時代の武士の病的な精神生活などから醸し出されたものではなかろうかという点になると、私には全く分らない。しかしそういうことも、一つの面白い問題になるのではなかろうかという気はする。

 おぼろな記憶の中から、ピアノは勿論のこと、電灯もなかった頃の北陸の農村の生活を探し出して見ても、その中から、今日やかましくいわれている「日本精神」のようなものが一つも拾い出せないことも、私にとっては非常に不思議なことである。

 なるほど、あの頃の農村の生活の中では、今日吾々が都会の生活で知っているような現代の声はきかれなかったことは確かである。しかしその田園の闇にとけこんでいた吾々の祖先の歌は、寺田先生の言葉を借りれば「それは万葉集などよりはもっと古い昔の詩人の夢をおとずれた東方原始民の詩であり歌であった」ものの燃え残った弱い炎であった。そして、その中には今日のいわゆる日本精神といわれるものは、少くとも直接の姿でははいっていなかったように思われてしようがない。

 こういう意味で本当に日本的なものは、今日一部の少数の土俗学的な学問の研究者たちの手にゆだねられて、要路の人々の注意などはあまり惹いていないように思われる。そしてその方面の研究者たちは、比較的不遇な立場にある人が多いにもかかわらず、随分熱心に研究をつづけて、沢山の資料が集っているようである。

 その方面の研究は勿論、その消え去りつつある吾々の祖先の生活の姿をよびとどめるために、有力なたすけを与えるものであろう。しかしこの仕事は、いわば、流れの上に書いた文字を捕えようとするような性質の仕事である。そういう性質の仕事であるとすると、それは単に、土俗学や民俗学の方面の科学的研究だけで出来るものではなくて、文学や音楽などのいわゆる芸術の力をも多分に借りる必要があるであろう。「グリムやアンデルゼンは北欧民族の「民族的記憶」の名残を惜しんで、それを消えない前に喚び返してそれに新しい生命を吹込んだ人ではないかと想像される」からなのである。

 寅彦先生の「冬夜の田園詩」を読んでからもう数年になる。

 その間に私はこの方面の本を気にかけながらも、何分専門の仕事とは縁遠い話なので、つい探してみるほどのこともなくて過ぎた。ところが今度何気なく柳田国男氏の『木綿以前の事』を読んで見て、この本が、ある意味ではやはり吾らの祖先の民族的記憶を探ろうとする試みの一つであることを知って、大変なつかしい気がした。

 柳田氏の民俗学的研究のことを、今更事新しく述べるのも妙な話であるが、この本の一つの新しい試みは、何でもないただの昔の日本女性の姿という非常にむつかしいものを、俳諧の中から探し出そうとした点にあるのである。

 俳諧といっても、詳しくいえば蕉風の連句なのである。この連句というそれこそ純粋に日本独特の文芸であり、かつ高度に発達した本当の意味での日本精神の産物を資材として、その中から昔の普通な女の姿、すなわちただ何事もなかった吾らの祖先の家庭生活の相を喚び返そうとする試みは、いかにも卓見ということが出来るであろう。

 もっとも卓見とはいうものの、この仕事は生易しいことではない。「一流の佳人と才子、又は少なくとも選抜せられた或男女の仲らいを叙べた」文学からは多くを期待することをせずに、今まで多くの人々が比較的見逃してきたこの連句をとりあげて、その恋愛とドラマとを禁じた表六句のわびた暖簾の蔭に、「紅紫とりどりの女の歴史が画かれて」いる姿を見、「この無数無名の二千年間の母や姉妹が、黙って参与していた」歴史に一点の光を与えようというのだから、なかなかの大事業なのである。

 柳田氏の力とでもいうべきものは、こういう仕事の遂行に、いかにもその処を得て発揮されているようである。

ぷんにならるるよめ仕合しあはせ      利牛

はんなりと細工に染る紅うこん   桃鄰

鑓持ちばかり戻る夕月       野坡

という劈頭に引用されている『炭俵』の一節からは、新しい木綿着物のそれも紅をぼかしたうこん染の袷か何かを着ている初々しい花嫁の姿を描きとってある。そしてそういう着物が、勝手な染めを許さなかったそれ以前の麻の不断着の生活にどういう変化をもたらしてきたかという重大な問題に触れてある。

「はんなりと細工に染る」木綿着物からは、まるまると着ぶくれて、健康そうな頬を輝かしている当時の農村の娘たちの生活と、さらに進んでは、その感情までが読みとられるような気がするであろう。

 この本は、日本の昔の衣食住に関する色々な題目の随筆の集成という形で出来上っている。木綿の話につづいては、瀬戸物のことが出てくる。「小家の侘しい物の香」の源をなす木の御器の生活に、白くて静かな光のある瀬戸物がはいってきて、「前には宗教の領分に属して居た真実の円相を、茶碗というものによって朝夕手の裡に取って見ることが出来る」ようになった時の人々の幸福が、それには清潔という要素が庶民の生活の中へもはいってきたことを含めているのであるが、その影響がよく述べられている。

 暗いすすけた台所と茶の間との兼用の部屋、というよりも家の片隅といった方がよいようなところに、老媼が火吹竹をもった姿が、ちょうど家の造作の一つのような形にうす暗く浮び上っている。その側に、唯一のはっきりとした輪廓を示すものとして、四、五枚の瀬戸物が白く光っている。そういう最もありふれた情景、それが本当の農村の生活の姿であるが、それを文筆の題材としてとりあげたものが、考えて見ると意外に少いようである。

『卯辰集』にあるという加賀の山中温泉の三吟歌仙のうちからも、次の一連が抜き出してある。

霰ふる左の山は菅の寺     北枝

遊女四五人田舎わたらひ    曾良

落書に恋しき君が名もありて  翁

 こういう従来比較的問題にされていなかったものの中から、柳田氏は、「田舎わたらひ」をする遊女という取るに足らない一群の人々の生活をとりあげている。

 田舎わたらいという語は、源氏の夕顔の巻にもあるそうであるが、京のこの種の人々は、「もうあの頃から、秋の収穫の豊かな頃を窺って、農村を稼ぎまわって儲けて還る色々の道を知って居た」のである。

 こういう瑣細な社会現象も地方文化に及ぼしたその刺戟という観点から見る時は、かなりの重要な意味が出てくるであろう。その上「国の全貌を昔のままで無く、好くも悪くも新しいものにした外部の力、空に吹き散る花粉や胞子の如きものの中に、かつてはこの極めて温柔なる女性の一群も参加して」いた事実は、単なる文化の媒介物としての問題ばかりでなく、その花粉のもたらした匂いを嗅ぐことによって、かつては当時の田園の生活に時折差した色彩の光をも感ずることが出来るのである。

『木綿以前の事』をぼつぼつと読みながら、とりとめもなく、昔の夢に浸ることによって、私は数日の日を思わず楽しく送ることが出来た。

 こういう学問が、現在のように主として官学畑以外の人々の手によって開拓されて行くようでは、まだまだ日本の文化もそう威張れたものではないという気がする。

(昭和十四年九月)

底本:「中谷宇吉郎集 第二巻」岩波書店

   2000(平成12)年116日第1刷発行

底本の親本:「続冬の華」甲鳥書林

   1940(昭和15)年71日刊

初出:「文藝春秋 第十七巻第十九号」

   1939(昭和14)年101日発行

入力:kompass

校正:岡村和彦

2017年924日作成

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