英国の物理学界と物理学者
中谷宇吉郎
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英国の物理学は、少くも過去半世紀の発展について見ると、剣橋のキャベンディシュ研究所から生れたものといえよう。あるいは少し大仰にいえば、現代の世界の物理学はキャベンディシュ研究所から生れたともいわれる位華々しい業績をあげてきたのである。それで英国の物理学界を語るとすると、剣橋について詳しく述べればそれで事が足りるのである。ところが私は英国留学中主として倫敦にいたので、剣橋はその中に二回訪問しただけである。従って私の知っている英国の物理学界というのは、ほんの側面観に過ぎないのである。
キャベンディシュ研究所は前世紀の後期にJ・J・トムソン卿を所長に迎えてから、電子論方面の実験的研究を進めて、現代のいわゆる原子物理学の広い分野を開拓したのであった。そしてこの秋急逝したラサフォード卿がその後を継いで、原子構造からさらに一歩を進めて原子核の構造の研究に入り、引続いて現代の世界の物理学界を嚮導してきたのである。練金術の時代から最近までの物理学と化学とは、結局物質の性質を原子の性質にまで持ってこようとする試みであったともいえる。そして原子こそは物質窮極の姿であって、各々の元素はそれぞれの原子から成り、それらの原子の結合で色々の化合物が出来てこの物質世界を形成していると考えていた。ところが原子構造論では、さらにこの原子を原子核と電子とから成っているものとしてその構造の研究を始めたのであった。そして違った元素の原子の性質の差を原子核の差に帰することに成功したのである。すなわち金と水銀との差を、金の原子の原子核と水銀の原子の原子核との差までおしつめて行ったのである。それがさらに一歩進められて、最近の原子核の研究においては、原子核内部の構造および構成要素が問題になってきたのであって、原子核の人工崩壊の実験の成功から、遂に一つの元素を人工的に他の元素に転換させるに及んだ。こういう道筋をとって現代の原子物理学が発展してきた間、始終キャベンディシュ研究所がその先頭に立って嚮導の任を果してきたことは驚くべきことであろう。
一九二九年の二月七日の午後のことであった。倫敦の王立学会で今日はラサフォードが原子核構造の討論会を主宰するというので、私も実験を途中で止めて教室の連中について行った。いつもと違って流石に満員である。控室で例の如く立ちながら紅茶を飲んで居る先生方の顔も珍しく緊張しているようであった。やがてラサフォード卿が立って開口、劈頭の文句が次のようなものであった。
一九一四年の五月十九日、此の王立学会に於て、原子構造論の討論会を催したのはちょうど今から十五年前のことである。私はその時の会にも最初に口を切る光栄を担ったのであるが、その時私は有核原子構造論を提出し、その論拠を示した、ついでモーズレー君がそのX線研究の結果から原子番号などの考えを述べ、またソディ教授は放射性元素中に存在する同位元素の重要性を説き、特にJ・J・トムソン卿とアストン博士との発見にかかるところのネオンの正イオンが二種存在する例をひいて、総ての元素はそれぞれ数種の同位元素の混合よりなるものであろうと述べたのであった。今になってみると、諸兄も十五年前のあの時の論が今日までもなお生命のあることを認められるであろう。……
如何にもその通りなのである。この十五年の間、キャベンディシュ研究所はその時の議論の筋道に沿って研究を進め、世界の物理学界も本質的には同じ方向に向って歩いてきたのである。その間にアストンは同位元素に関するソディの予見を確め、さらに偉大な仕事としては、同位元素の質量偏差を発見して原子核の安定度という考えを確立したのである。そしてラサフォード自身はα粒子を元素に衝突させて、原子核の存在を確め、かつその人工崩壊の緒を作ったのである。またエリスはγ線の波長の研究から原子核内部の構造に関して新しい発見をしたのであった。ラサフォード卿はこれらの研究について述べた後、「我々は今や研究の歩をさらに進めて、原子核の構造について討論をすべき時期に達したのである」と論旨を進め、原子核がα粒子と水素核とから成るという仮説の説明をしたのである。そのあとを受けてアストン博士は木訥な口調で同位元素の質量偏差を説明し、チャドイック博士がα粒子による原子の人工崩壊を述べたのであった。最後に若いガモフが立って小さい声で、原子核が粒子の集合からなるとすると、水滴のように考えることが出来るという説を出し、量子力学的にこの「水滴」状の核の問題を解く方法を示唆したのであるが、この考えも今になってみるとなかなか面白いのである。
この原子核の討論会があってからもう八年になるが、その間に物理学は恐ろしい発展を遂げ、陽電子や中性子の発見、人工放射能の発見、電気的に原子核を崩壊する実験の成功など、何世紀分もの物理学が一度に発達したような騒ぎになってしまった。いつまでもラサフォードの助手のように思われていたチャドイックも中性子の研究でノーベル賞を貰った。これらの百花撩乱たる現代物理学の業績も、少し離れた立場から見たならば、結局は八年前にラサフォードが夢みたところのものであった。もっともあの時提出した原子核がα粒子と水素核とからなっているという仮説は、その後の陽電子や中性子の発見によって変更を受けたのであるが、そんなことはどうでも良いことなのである。歴史の方向をきめるというようなことが実際にもあるものだという良い例を見たような気がするのも自分ばかりでもあるまい。一月程前にラサフォードの急逝をきいた時に、次の王立学会の討論会を待たずに死んだことを気の毒にも思ったが、考えてみれば実に幸福な生涯であったという気もする。それというのは原子物理学の研究もここまで行けば一段落と見て良いのである。原子の電気的崩壊のような仕事になると、大仕掛けにやるには大変な設備と金とがいる。そしてその方面の研究は米国で盛に実を結びつつある。学問の発達という点からいえば、ラサフォードは、近頃の米国の華々しい原子物理学の発展振りを見ながら安心して死ぬことが出来ただろうと思われる。
こういう大きい仕事になると、それはラサフォード一人の力ではなく、キャベンディシュ研究所という大きい組織と伝統との力にまつところも非常に多いことは勿論である。キャベンディシュにはいつも大抵五十人ばかりの若い有能な学者が働いている。研究所はあまり広くないのでかなり窮窟に見える所もあり、それにそれだけの人に十分な装置を与えることは勿論経済的にも許されないので、随分粗末な器械も使っているようであった。もっともいつも世界の学界の先頭に立っているのであるから、新しい装置を作って実験をすることが多く、既に出来上った完備した器械をあまり必要としないのだともいわれている。実際手製の器械が非常に多いのである。J・J・トムソンなどの電子に関する歴史的の研究でも、硝子管の中に金属板や針金を封蝋で封入したようなものが多く使われている。「キャベンディシュ研究所は、マッチの棒と封蝋とで世界の物理学界を嚮導してきた」といわれる位である。もっとも必要があれば十分の設備もするのであって、どこまでもマッチの棒と封蝋ばかりを使うわけでもない。百万ボルトの電源が原子核の人工崩壊に必要となると、ちゃんとその設備をすることは勿論である。現在世界各国で作られているコックロフト・ワルトンの高圧装置も初めてキャベンディシュで作られたものである。もっともその装置を作るにしても、どことなく手製の匂いがあるのであって、ちょうど私が初めて剣橋を訪れた時に、この装置に着手していたのであるが、どこかから蓄電器を沢山貰ってきたとかいって、その連結をかなり不細工にしていたようであった。少くもある電機会社に注文するとちゃんと完備して納入するという風ではなかった。
器械も設備もそれほど優れていないとすると、この研究所の業績は結局人によるものであることは疑う余地がない。しかし人といっても、ここに働く人の全部があらゆる意味で優れた人とばかりは限らない。私の邪推かも知れないがキャベンディシュ研究所は昔からあまり東洋人を歓迎はしないようにみえる。私が訪ねた頃も数十人の研究生の中に東洋人や印度人は一人もいなかった。今までに日本人でこの研究所で勉強した人は算える位しかない。その中で一番有名なのは清水武雄博士であるが、同博士はここでいわゆる清水式霧函を完成され、原子核の人工崩壊の研究の初期において劃期的な装置を作られたのである。しかし同博士の話によると、その研究所での生活は必ずしも楽しかったとはいえない由である。ラサフォード卿がこういう大切な問題を清水博士に託したことに不満を持ったらしい英国人の若い研究者達の中には、清水博士も列席されているある会の席上で公然と、「ミルクは外国人に与えても良いが、クリームは我々のために保有されたい」という演説をした男もいた位であった。もっとも清水博士にはこの英語は分るまいと思ったかも知れないが、実はちゃんと分ったのである。
しかしこういうことはどこの国にもあることで、そうひどく取り立てていうほどのことでもなかろう。私にはむしろ英国の学者は一般には人柄が良いように思われる。私の知っている少数の人々について考えてみるに、誰もが学問を楽しむという一番大切な点においてはそれぞれ優れているように思われた。キャベンディシュのこの半世紀の歴史の中に咲き出た花が二輪あって、一つはC・T・R・ウィルソンの霧函であり、今一つはアストンの同位元素の発見であるということは、キャベンディシュ研究所のある紀念祭に歌にまで唄われたほど有名な話である。私は非常に幸運にもこの二人の学者を比較的よく知る機会に恵まれた。ウィルソンの霧函というのはα粒子や電子などの通った跡を目に見えるようにする装置であって、即ち原子や電子の一つ一つの行動を初めて人間の眼に見せてくれたのがウィルソンの仕事である。これらの粒子が空気中を通ると、空気の分子と衝突して沢山のイオンを作る。ところがイオンが存在すると水蒸気はそのイオンを核として小水滴に凝縮する性質があるので、結局電子などの通った道に沿ってイオンが残留している状態を、小水滴の分布という形で写真に撮るのである。この方法は原子物理学のすべての方面に利用されて、今まで頭の中で作られていた原子や電子の消息を一つ一つ現実に眼に見せてくれたのである。そしてこの頃になって宇宙線の一つ一つもまたこの装置の中で見られるようになり、陽電子の発見もこの霧函の中でなされたのである。
ウィルソン先生はこの仕事でノーベル賞を貰い、その金でかどうかは知らないが、剣橋の郊外約二マイル位の所にコッテージ風の良い家を作って住んでおられた。剣橋の郊外といえば麗しい英国の田園風景の中でも一際優れて綺麗な所で、滑らかなあるかなきかの起伏の丘陵地帯が一面に緑で蔽われ、大きい立木が沢山並んで、砥のような道がその中を縦横に走っている所である。家の中は豪奢な感じが全然なくて、ハイランド出身の先生の好みが、火炉の山家風な姿や、戸のハンドルや閂に金属を使わず全部木で作ったような所によく出ていた。先生はその頃剣橋の太陽物理学研究所長をつとめ、キャベンディシュへは一週一回行くだけだとのことであった。そして雷の研究に没頭しておられた頃であった。大抵はこの家の書斎で暮して、雷雨がやって来ると近くの広い野原の中に立っている観測小屋へ出かけるのだという話であった。
書斎は案外狭い質素な作りで、壁には霧函で撮ったα粒子や電子の写真が沢山はりつけてあって、それからノーベル賞の授賞式の紀念写真と、色々の学会から貰った賞牌とが飾ってあった。そして室へはいるとすぐにそれらの栄誉についていかにも嬉しそうに説明してくれたのである。
英国ではそういう栄誉については、「全く僥倖でありまして」などといって謙遜して見せる礼儀はあまり流行らないように思われる。私は英国へ行く前に寺田先生の助手として働いていた間にした実験が、ウィルソン先生の仕事と関連があったので、その話をききに行ったのである。ウィルソン先生も大変喜んで色々細かい点まで実験の注意などを教えられたのであるが、その間先生は終始仔猫の頭を撫でながら話されたのであった。書斎の机の下に丸い籠があってその中に小さい蒲団を敷いて、肥った猫が丸くなってねていた。そして生れたばかりの仔猫が一匹乳をのんでいたのである。先生は「どうもミセス・ウィルソンが汚いというので僕はここへ連れてきているのだ」と弁解しながら、仔猫の頭を撫でておられた。ウィルソン先生はあまり沢山論文は書かれない。三つ四つ新しいしかも非常に重要な論文が続いて出ると、あと十年位途絶えていてまたぽつぽつと出るという風である。ああいう非常に優れた仕事は、剣橋の郊外で仔猫の頭を撫でながら、ゆっくり時間をかけて本当に学問を楽しみながらやるのでなくては出てこないのではないかと思われたのである。あの書斎はわずか二回訪れただけであるが、妙に心に残っている。そしてわずかそれだけの機縁に過ぎないのに、その後日本へ帰ってした仕事を先生の所へ送ると、ちゃんと王立学会へ紹介して自分で校正まで全部して下さるので恐縮してしまうのであるが、これも単に親切というばかりではなくて、本当に学問を楽しむという気持の現われであろうと思っている。先生は一昨年引退して只今は郷里のスコットランドへ隠棲されている。功成り名遂げた晩年をあのハイランドで静かに送られるのもいかにも先生にふさわしいことのように思われる。
アストン博士は昨年の日食観測に北海道へこられたので、私はまる一週間上斜里のような僻陬の地で不自由な生活を共にしたという思わぬ機会に会ったのである。そしてあのいつも多少不機嫌そうな顔をしているむつかしい爺さんが、原子におけるダルトンと同格に、同位元素の名において科学史に不朽の名を残した所以を幾分窺い得たような気がした。アストン博士は独身で気楽な境涯にあるので、同位元素とはおよそ縁は遠いのであるが、日食観測には度々参加してコロナの偏光の観測などをしたことが今までにもあったのである。まず見物がてら暢気に遠征隊に参加したという形であった。それでもいよいよ観測という点になると実に真面目な真剣な態度であった。そして隊長ストラットン博士の命令をよく遵守するという態度には敬服した。
日食の観測の場合には、肝心の瞬間にちょっとした故障が起きたり、手順が狂ったりすると半年がかり位の遠征がふいになってしまうので、その前に慎重な注意を払って度々練習をするのである。ところが大抵の人の分は色々複雑な器械を使ってそれを一秒程度の精確さで次々と手順をつくして操作するので、練習といっても大汗ものである。それで放って置いても真剣にならざるを得ないのである。ところがアストン博士の仕事はサバプリズムという小さい眼鏡を覗いて、偏光のある場合には縞が見えるので、その方向を眼で見て手帖に書き込むだけの役目なのである。それでもいよいよ練習となると、アストン博士は真面目くさった顔をして、何も見えない眼鏡を覗く真似をして、そして手帖を片手に書き込む手順をして見せるのであった。それを毎日々々繰り返して行っている中に、暗い所の練習も必要だというので、夜の練習ということになった。ところがアストン博士と私達とは、宿屋の関係上三つ四つ先の駅から汽車で上斜里へ通っていたのであるが、その練習をやると夕方七時の終列車に間に合わぬことになる。それでもストラットン博士は澄してその練習の「命令」を出すのであった。結局五里の山道を自動車で揺られて宿に帰りつくことは出来たのであるが、その時は流石にアストン博士も「君は何時に我々を解放してくれるのかね」とストラットン博士にきいていたが、それでも真妙に真暗な中で眼鏡を覗く真似をすることには決していやな顔を見せなかった。むしろいかにも当然なことのように思っているかの如く見えた。
英国の日食班の人々の心掛けに感心した私はいつかその印象を『科学』に書いたことがあった。そしたらある天文学者から、我々だって皆十分な注意を払い、また訓練をしている、そして統制を厳重にしている、英国班のことだといって無闇に感心するのは可笑しいという御叱りを受けた。しかし私の感心したことの当否を決定するには実験が必要である。まず日本のある学者にノーベル賞をとってもらい、その人を日食につれ出して、何も見えない眼鏡を覗いて手帖にかき込む真似を毎日して貰う。その時その先生がニヤリともせずにそれを実行してくれたら実験は美事に成功したので、私は心から喜んで御叱りを受けるであろう。しかしこの実験をするには大分時がかかることだろうと思われる。
アストン博士の日常の態度としては、こういう観測の際よりも、むしろ平生の方が私には興味が感ぜられた。ちょっと見るといかにも頑固な気むずかしい爺さんである。当時の北海道の汽車の二等は色々な御客様や新聞記者で一杯である。アストン博士は誰か少し話しかけても、一言二言答える切りで不愛想な顔をしている。そして時々ぷいと立って三等車の方へ行ってしまう。弁当の時間などになってよびに行くと、片隅でじっとどこを見るともなく見入っている。そしてちょっと手まねきをすると黙ってやってきて弁当を喰うのであった。ビールだけは大変好きで、車中の弁当の時にもビールを二、三杯のむと急に機嫌がよくなって、足拍子をとりながら何か分らぬ歌を口ずさむこともあった。要するに放ってさえおけばそれで御機嫌がよかったのである。ある先生にアストンの接待では大変だっただろうといわれたことがあったが、放っておきさえすれば良いのだから楽な御客様であった。私にはいつも放っておかれることの好きなあの性格と、不朽の同位元素の研究とが密接な関係があるような気がしてならない。
キャベンディシュ研究所で原子物理学がこのように華々しい発展をしているのをよそに見て、倫敦や牛津の大学では平気で五十年前位に流行った問題をとりあげている先生方が沢山あるのも私には面白かった。今英国で一番権威を認められて居る王立学会記事(Proceedings of the Royal Society)を見ても原子核の破壊の論文と並んで孔雀の羽の光についてという風な題の論文が載っているのは、外の国には珍しい現象である。英国には非常に良い言葉がある。それは interesting という言葉であって、英国では interesting な論文といえばそれで立派に通るのである。日本のように、「結局面白いというだけじゃないか」というようなことはいわれないようである。そういえばこの言葉を英語に翻訳したらどうなるか一度きいて見たいものである。私にはこの interesting という言葉のあることが、英国の学問というものを特徴づけているように思われるのである。
今一つこの interesting という言葉とよく融合した特徴が英国の物理学に見られる。それは practical という特徴である。もっとも物理学と限らず、英国の学問と社会との全部がこの実際的という特徴に色づけられているのであろう。原子物理学を例にとって見ると、その全部がキャベンディシュで出来たものではなく、理論的の方面は実は独逸やデンマークなどで主として発達して現今の量子力学が出来上ったのである。この量子力学というのは原子の世界に適用し得る力学のことであって、普通に物体と称せられるものに適用されてきた従来の力学とは異った法則が、原子の世界には適用されるというのである。それで原子物理学の本当の発展のためには、この量子力学は非常に大切なものであるが、独逸ではこの学問の帰結として、不確定原理や因果律が問題となっているのに対し、英国では同位元素を発見したり原子核の崩壊に全力をつくしたりしているのである。科学における国民性というような問題は、随分言い古されたことであるが、いつまでも新しい問題である。
明日の英国の物理学がどうなるかという問題も興味ある問題である。特にラサフォード卿の後任に誰がなるかという点には誰もが興味と期待とを持っていることと思う。今のところ卿の後任として次の時代の物理学の嚮導者となれるような人はちょっと見当がつかないので、一層興味があるのである。もっともJ・J・トムソン卿がキャベンディシュの所長として迎えられた時は非常に若かったので、あんな青年にあの地位が保てるかと一般から不安がられたという逸話があるので、そういう歴史的な逸話がまた生れるかも知れないという期待もある。別の見方からすると、現代の電磁気学の基礎を完成したマクスウェルから、トムソン、ラサフォードと一世紀にわたってキャベンディシュが世界の学界を嚮導した時代は英国の最盛期と一致するのであって、今日老衰の兆を見せて居るといわれる大英帝国の物理学界の次の時代に対しては、もはや昔日の面影が期待されまいともいわれるかも知れない。今日の米国の物理学界における大仕掛けな設備や華々しい業績からみると、そんな気がしないでもない。しかしそういうことは欧洲大戦直後に既に盛んに云われたことなのであって、あれから十年余りの歴史はすっかりその期待を裏切っているのである。そういう意味で明日の英国の物理学界というものに対しては、全く予測が出来ないだけにそれに対する興味と期待とは非常に大きいのである。
底本:「中谷宇吉郎集 第二巻」岩波書店
2000(平成12)年11月6日第1刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
1938(昭和13)年9月5日刊
初出:「思想 第一八八号」岩波書店
1938(昭和13)年1月1日発行
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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