日本婦道記
墨丸
山本周五郎
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お石が鈴木家へひきとられたのは正保三年の霜月のことであった。江戸から父の手紙を持って、二人の家士が伴って来た、平之丞は十一歳だったが、初めて見たときはずいぶん色の黒いみっともない子だなと思った。
「お石どのは父上の古いご友人のお子です」
そのとき母はこう云って彼にひきあわせた、
「ご両親ともお亡くなりになって、よるべのないお気のどくな身の上です、これからは妹がひとりできたと思って劬ってあげて下さい」
母がそう云うとお石はそのあとにつけて、きちんと両手をそろえ、
「どうぞおたのみ申します」
と云いながらこちらを見あげた。まなざしも挨拶の仕ぶりも、五歳という年には似あわないませた感じだった。平之丞はひとりっ子なので、時どき弟か妹がひとり欲しいと考えることがあった、けれども並みよりはからだも小さく、痩せていて色が黒くて、おまけに髪の赭いお石の姿は、少年の眼にさえいかにもみすぼらしくて、可愛げがなかった。──妹ができたといってもこれでは自慢にもならない、そう思ってちょっと頷いたきり黙っていた。
お石ははきはきした子だった、縹緻こそよくないが明るい澄みとおるような眼をもっていて、なにか話すとき聞くときにはこちらをじっと見あげる、それは相手に自分のいうことを正しく伝えよう、相手の言葉をしっかり聞きとろうとするためのようだが、汚れのない澄みとおった眸子を大きく瞠ってまたたきもせずに見つめられると、なにやらおもはゆくなって、こちらのほうが先に眼をそらさずにはいられない。起ち居もきちんとしていた、みなしごという陰影など少しもないし、云いたいこと為たいことは臆せずにやる、爽やかなほど明るいまっすぐな性質に恵まれていた。もちろん平之丞の年齢ではそういうことに眼も届かず、元もと関心もなかったが、みっともない子だという感じだけはいつかしらうすれてゆき、一年ほど経つうちにはかすかながら愛情に似たものさえうまれてきた。鈴木家は上み馬場仲の小路というところにあり、五段ほどもある庭は丘や樹立や泉池など、作らぬままの変化に富んでいるため、同じ年ごろの友達が集まってはよく暴れまわった。彼らもはじめはお石には眼もくれなかったが、その性質がわかるにしたがってしぜんと好感をもつようになり、なにかあるとよくなかまにして遊びたがった。そのなかに誰よりもお石と親しくする松井六弥という少年がいた、松井は同じ老職のいえがらで、屋敷も近く、平之丞とはもっとも仲のよいひとりだった、彼にはお石と一つちがいの妹があるので、あしらい方も慣れているし、なにを好むかも知っているらしく、ときおり美しい貼交ぜの香筺とか、人形道具とか、貝合せとか、小さい白粉壺などを持って来て呉れたが、このように好意をもっている六弥でさえ、時どき嘆息するように「それにしても色が黒いな」と云い云いした。したがってほかの少年たちは、その年ごろのならいで「お黒どの」とか「烏丸」とか蔭で色いろ綽名を呼んだ、はじめはそんなことも気にならなかったが、或るときふと哀れになり、どうせ云われるならこちらで幾らかましな呼び方をしてやろうと思い、「黒いから墨丸がいい」と主張した。すみまるという音は耳ざわりもよいし、なにごころなく聞けば古雅なひびきさえある。それで少年たちはみなそう呼ぶようになった。
江戸詰めの年寄役だった父の惣兵衛が、それから六年めの慶安四年に岡崎へ帰って来た。国老格で吟味役を兼ねることになったのである。ながいあいだ留守だった父が帰ったので、家の明け昏れも変らずにはいなかったが、そのなかでもお石の存在のはっきりし始めたことが眼だってきた。それはなにかにつけて惣兵衛がお石に用を達させるからで、それまではたいてい母のそばにじっとしていたのが、屋敷うちのどこにでも、まめまめと立ちはたらく姿が見られるようになったのだ。平之丞の部屋へもよく来た。「父上さまがお呼びなされます」とか「ご膳でございます」とか、そのほかこまごました取次は殆んどお石の役になった。……いっしょに暮すようになって以来、しだいに近しい気持もうまれ、実の妹をみるような一種の愛情さえ感じだしたが、それとてかくべつ深いものではなかったので、そのとし元服してから、平之丞は再びお石に対して無関心になっていった。
お石が十三になった年のことである。春さきのことだったが、ふと平之丞の部屋へはいって来て坐った。なにか用事かと訊くと、珍らしくもじもじしながら「文鎮を貸して頂けませんでしょうか」といった。
「お石は持っていないのか」
「いいえ持っておりますけれど……」
そう云いかけて眩しそうに眼を伏せた。
「持っているのに欲しいのか」
そう訊くと、お石は思いきったという風にはいと頷き、
「いつも文箱の上に載っているあの文鎮を貸して頂きたいのです」
と云った。
平之丞は文箱の上を見た。それは彼が亡くなった祖父から貰ったものである、幅七分に長さ五寸あまりの翡翠で、表には牡丹の葉と花が肉高な浮彫りになっている、翡翠といっても玉にするほどの品ではないが、琅玕がかった緑の深い色が流れたように条を描いているのも美しいし、なめらかな冷たい手触りや、しっとりとしたちょうど頃合の重さなども好きで、彼の持物の中では大切にしている品の一つだった。お石はそれを知っているのだろう、危ぶむような眼でじっとこちらを見あげている、それがひどく思い詰めたようすなので平之丞は苦笑した、そして、
「なくしてはいけないぞ」
と云って取ってやった。
父が帰ると間もなくから、お石は榁尚伯という和学者のもとへ稽古にかよいはじめて、その頃ではもう歌なども作るようになっていた。むろんまだ真似ごとの、ほんの字数がそろうくらいのものだったし、時どき母から「なかなかよく詠んでありますよ」と見せられるものも、平之丞にさえそれほど感心した記憶はなかった。そして、たぶんあの文鎮を置いて、しさいらしく歌集など読んでいるのだろうと思って苦笑した。そうしてたびたび歌を見せられるうち、或るとき萩を詠んだ一首があって、それに墨丸という名が記してあるのをみつけた。訊いてみると母は、
「それがあの子の雅号だそうですよ」
と云って笑った、
「色が黒いからそう付けたのですと、男のようでおかしいと云ったのだけれど、お師匠さまもおもしろいと仰しゃったそうで、それにきめたのだそうです」
「…………」
平之丞はふと心にかすかな痛みを感じた。字をみてすぐ思いだしたのだが、それはかつて彼がお石のために選んだ綽名である。そんなことがわかると叱られるので、友達なかまのほかには決してもらしたことのないものだったが、お石は聞いて覚えていたのに違いない、──どんな気持だったろう。すでに十九歳になっていた彼には、そのときのお石の心が哀れにおもいやられた。おんなが容貌を貶られるほど辛いものはないという、お石はまだ幼なかったけれど、みなしごでもありよく気のまわる性質だったから、おそらくそんな蔭口を聞いては平気でいられなかったろう──わるいことをしたものだ。平之丞はそう思って自分を恥じた、そしてそのときから、お石に対する彼の態度がずっとやさしくなったのである。
鈴木家にはしばしば旅の絵師とか書家などが来て滞在した、惣兵衛がそういうことを好むので、これらの者のために部屋が設けてあり、食膳なども別に揃えてあって、滞在ちゅうはかなり鄭重にもてなされる。旅をまわるほどなので、絵師、書家といってもたいていさしたるものではない、然しそういう中からごくたまにではあるが、とびぬけた作を遺してゆく者がある、惣兵衛にとってはそれがこのうえもない楽しみだった。……こういう人びとのなかに、或るときなにがし検校とかいう琴の名手がいた。すでに六十を過ぎたらしく、鶴のようにという譬えの相わしい痩躯で盲いた双眼を蔽い隠すように雪白の厚い眉毛が垂れ、それがぜんたいの風貌にきわだった品格を与えていた。どういう身の上でいかなる仔細があったものだろう、惣兵衛のほかに家人はなにもしらなかった。検校はあしかけ四年あまりも滞在し、そのあいだお石に琴を教えた。それも初めは気のりのしないようすだったが、やがてこれはと思ったらしい、だんだん熱心になってゆき、教え方も厳しく、時にはずいぶんはげしい叱り声を聞くこともあった。平之丞には琴など興味もないので、また稽古をしているなと聞きすごすだけだったが、いつだったか父と検校との三人で食事をとったとき、検校がしきりにお石の素質を褒めるのでおどろいた、
「音楽をまなんで音を聞きわけることはやさしいが、音の前、音の後にあるものをつかむことはなかなかむつかしいのです、お石どのはすらすらとそれをつかみなさる、お石どのの弾く一音一音の前と後につながる韻の味はかくべつなもので、よほど恵まれた素質と申上げてよろしいでしょう」
「ではその道で身を立てることもできましょうか」
父がそう訊いた。
「いやそれは恐らく困難なことでしょう」
検校はしずかに頭を振った、
「人を教えるにはもっと平易がよろしいのです、お石どのの琴は格調が高すぎるとでも申しましょうか、ひと口に云うとなかなかな耳ではついてゆけないのです」そしてこういう特殊な感覚をもっている者は、よほど注意しないとゆくすえが不幸になりやすいというようなことを云った。
そのとき父の顔にあらわれた憂愁の色は忘れがたいものだった。理由はわからないが、検校の言葉が父の心にある危惧のおもいを裏づけたというように、……父は眉をひそめ眼をつむって、いっときじっとものおもいに沈んだ。なにがそのように父の心を哀しませたか、平之丞にはまるで想像もつかなかった、そしてそれを知るためには更にさらにながい年月が必要だったのである。
平之丞が二十三歳になった春のこと、松井六弥の催しで観桜の宴がひらかれ、ごく親しい者ばかり五人ほど集まった。松井は曲輪内にある屋敷のほか大平川の畔に控え家を持っていた。招かれたのはその控え家のほうで、川の汀まで続く広い庭に若木の桜が三四十本あまりあり、まだ四分咲きぐらいだったが、満枝に綻びかかった花の色は、盛りよりもあざやかに美しかった。……かれらは汀に近い樹蔭に毛氈を敷いて、花枝を盃にうつしながら小酒宴をたのしんだ。むかし暴れまわった頃とは違って、それぞれ役にも就き、中にはもう結婚している者さえあるので、話題もとかく政治に関するものが多く、その年ごろの癖でずいぶん機微に触れることも少なからず出た。そのうちに樋口藤九郎という者がふと声をひそめながら、
「うえもんのすけさまが水戸の御胤だということを聞いたが、おのおのは知らないか」
と思いもかけぬことを云いだした。右衛門佐とは藩主水野家の世子忠春のことをいう。けんもつ忠善の次子であり、長子の造酒之助が早世したため世継ぎとなった、二年まえ十五歳のときこの岡崎へも来て、かれらはみなめみえの杯を賜わった組である。
「そんなばかなことが」
と、松井六弥が笑った、
「おれもそう思うけれど」
藤九郎はなお声をひそめて云った、
「その噂はなかなか真実らしいのだ、お上が水戸中将(光圀)さまに心酔していらっしゃることは知らぬ者はないだろう、御心酔のあまり中将さまに懇願あそばして、御誕生まえから御子を頂戴するお約束をなすった、そして御出生あそばすと産着のまま屋敷へお迎え申したのだという、俗に親知らず子といって産屋からすぐに頂いて来た、その証拠にはうえもんのすけさまの御守り刀は葵の御紋ちらしだというぞ」
藤九郎の父はかつて忠善の側近に侍していたことがあるし、話の首尾がととのっているので、六弥もこんどは笑わなかった。
「そのことに就いて別にもう一つ秘事があるんだ」
と、藤九郎は黙っているみんなの顔を見まわしながら続けた、
「今から十余年まえに、江戸屋敷で小出小十郎という者が切腹して死んだ、あれは岡崎でもかなり評判になったから知っているだろう」
そのことはみな覚えていた。小出小十郎というのは島原の陣でめざましくはたらいた浪人で、忠善にみいだされて篤く用いられた。ひじょうに一徹な奉公ぶりで知られ、重代の者にも云えないような諌言をずばずば云うし、家中とのつきあいなども廉直無比で名高かった。それがちょうど十二年まえの正保二年、忠善の忿りにふれて生涯蟄居という例の少ない咎めをうけたが、彼はその命のあった日に切腹をして死んだのである。
「あのとき重科にかかわらずその理由は不明だったが」
と、藤九郎は言葉を継いだ、
「実はうえもんのすけさまの事に就いて直諌したのだそうだ、あのころはまだ造酒之助さま御在世ちゅうだった、小十郎は御家の血統のために右衛門佐さまを廃し、造酒之助さまを世子にお直しあるよう、繰返しお諫め申したという、殿には『あらぬことを申す』とひじょうなお忿りで、とうとうあのような重科を仰せだされたのだそうだ」
「もうよさないか……」
平之丞がそう云って話をさえぎった、
「殿があらぬことを申すと仰せられたのならそれが正しいに違いない、そういう噂は聞いた者が聞き止めにしないと、尾鰭がついて思わぬ禍を遺すものだ、ほかの話をしよう」
「そう云おうとしていたところだよ」
と六弥が手をあげた、
「みんな向うを見て呉れ、実はあれがきょうの馳走なんだ」
そう云われてみんな救われたように、彼の指さすほうへふり返った。
広庭のかなたに小袖幕をかけまわした席が設けてあり、そこへいま色とりどりの花を撒きちらしたように、美しく着飾った娘たちが十人ばかり出て来た。やはり花見の宴に集まったのだろう、よく見ると桃山風の華麗な屏風の前に琴が二面すえてある、娘たちは初めしきりにゆずり合っていたが、座がきまるとやがて代る代る琴をひきはじめた。桜の花蔭に、掛けつらねた小袖幕と、極彩色の屏風と、そして眼もあやな娘たちと衣装と、これらの絢爛たる丹青のなみの中からわきおこる琴曲の音いろと、すべてがあまり美しくて、見る者はむしろ哀愁をおぼえるくらいだった。いつも口の悪い三寺市之助という若者も、さすがに槍のつけどころがないとみえ、うんと唸ったきり言葉が出なかった。そして暫くすると立ちあがって、「おれはあの中から嫁を選んでくる」そう云いながら、樹蔭づたいにそっと近づいていった。平之丞はこのあいだずっと、娘たちの中にいる一人の姿を熱心に見まもっていた。それはお石だった、はじめ出て来たときはどこかで見おぼえがあるくらいに思った、そして間もなくそれがお石だとわかると、彼はわれ知らず眼をみはった。あんなにも成長していたのかと心から驚かされた。
平之丞の印象にあるお石は、色の黒い、赭毛の、からだの痩せて小さな、みっともない子であった。けれどもいまそこに見るお石は「みっともない」どころではなく、十人あまりいる娘たちの中でも際だって美しい、その美しさは髪化粧や衣装のためでもなく顔かたちでもなかった、いってみればお石のぜんたいから滲みでるもの、外側の美しさではなくて、内にあるものがあふれ出る美しさのようだ。──そうか、もう十七になるんだな、平之丞はふと春秋を思いかえすような気持で、眼を細めながらその姿を瞶めつづけていた。琴はおのおの得手の曲を弾くのであろう、そしてみな相当にたしなみのある娘たちとみえて、なんの知識もない平之丞の耳にさえ神妙に聞えるものが少なくなかった。こうして人数の半ばまで入れ代ったとき、たいへん手のこんだ曲をみごとに弾きこなす娘があった、それまでのものとは際だって鳴り高であり、音いろの美しさと転調のあざやかさは、酔わされるようだった。
「あれが妹のそでだ」
六弥が平之丞に向かってそう囁いた、
「きょうはお石どのの琴を聴くつもりであんなにしたくをしたのだが、自分もいっぱし聴いて貰うつもりだろう、ことによると弾き負かす気でいるかも知れない」
「おれはまるで耳なしだからわからないが、そでどのの琴は抜群のようじゃないか、お石などは問題ではないだろう」
「いやそれが違うんだ」
六弥は盃をとりながら云った、
「そこもとの家にいた検校がいつか家へ来たことがある、そでがちょっと手なおしをして貰ったのだが、そのとき検校がお石どのの評をしていった、おれは聞かなかったが絶賞だったそうだ、それいらい家ではいつかいちどお石どのの手ぶりを聴き、そでにも弾きくらべさせたいと話していたようだ、あの小袖幕の向うにはきっと母も聴きに来ている筈だよ」
そんなにお石の琴が評判になっていたのか、平之丞もさすがに無関心ではいられなくなり、あれだけ弾きこなすそでのあとで、はたしてどれほどの腕をみせるかと、ちょっと坐り直すような気持でお石の出るのを待っていた。
そでが弾き終ると、こちらまで聞えるほどの嘆賞の声がおこった。ひとしきり賑やかなざわめきが続き、やがてお石の番になったらしい、だがお石は立とうとはしなかった、まわりの者がしきりに促しているし、六弥の妹がそばへいって懇願するようすだった。けれどもお石はおっとりと頬笑み、こうべを振るばかりでどうしても立たなかった。そこへ三寺市之助が戻って来た。
「お石どのは出ないぞ」
彼は自分の席に坐りながらそう云った、
「それほどのたしなみがない、あんまり恥ずかしくて、ただそう云うばかりだ、ほんとうかね」
「そうだろうな」
と六弥が微笑しながら頷いた、
「検校の評がたしかならこんな席で弾く筈はない、そでは余りたやすく考えすぎたんだ」
「そんなこともないだろう」
平之丞はとりなすように云った。
「たしなみがないと云うのも自分としては偽りのない気持だろうし、ふだんこういうつきあいが無いから恥ずかしくもあるのだろう、なにしろ墨丸だからな」
「ああ墨丸か」
脇からそう云う者があり、みんなあの頃のことを思いだしてなごやかに笑った。
平之丞がお石を見なおすようになったのはそれからのことだ。見る眼をちがえると、それまで知らずに見すごしてきた事の端はしに、お石の心ざまの顕われをみつけてはおどろく例が少なくなかった。人の気づかないところ、眼につかぬところで、すべて表面よりは蔭に隠れたところで、緻密な丹念な心がよく生かされていた。下女に代って風呂場の掃除をしたり、釜戸の火を焚いたり、下男といっしょに薪を作ったりすることは、母でさえながいこと知らずにいた。料理には特に巧みで、粗末な材料からどんな高価なものかと思わせるような物をよく拵えた、或るとき茶菓子に団子を作った、さっくりと歯あたりの軽い、鄙びた珍らしい味で、平之丞なども皿を代えて喰べた。あとで聞くと稗団子だという、然もその稗は田のほうへいったとき百姓が抜き捨てたものを拾い集めて来て、自分で干し自分で搗き、粉に碾いて作ったということだった。
「あの子のすることには時どきびっくりさせられますよ」
そういう母の言葉には、いつも感嘆の調子が温かくこもっていた。
黒いと思った肌色がきめのこまかな小麦色になり、艶つやと健康なまるみを帯びてきた。髪もいつか赭みがとれたし、背丈も並みよりはむしろ高いくらいに伸びた。注意して見るにしたがって、こういうことの一つ一つが平之丞の眼を瞠らせ、云いようもなく心を惹きつけられた。彼は幾たびも考えてみたのち、それがもっとも自然であり望ましくもあると信じたから、母にうちあけて相談してみた、
「あれなら鈴木の嫁として恥ずかしくないと思いますが、どうでしょうか」
「そうですね……」
母はまるで想像もしていなかったのであろう、初めはかなりためらうようすだった。然しそう云われて考え直すと、こんどは平之丞よりも乗り気になりだした。
「とにかく父上に願ってみて下さい」
そう云って、彼は安心してすべてを母に任せた。
父も初めは難色をみせたそうである。
「今ひとつ縁談があるのだが……」
そういうことで暫く保留になった。そしてその父もよかろうと承知し、はじめて母からお石に話をした。するとお石は考えてみようともせず、きつくかぶりを振って断わった。
「わたくし琴で身を立てたいと存じます、生涯どこへも嫁にはまいらないつもりでございますから」
理由を訊くとこう答えた。
「でもあなたのお琴はひとに教えるには不向きだと、いつぞや検校も仰しゃっておいでだったでしょう」
母は意外の思いでそう云った、
「たとえそうでなくとも、おんなが独り身で暮すということはむつかしいものです、若いうちはよいけれど、年をとってからの寂しさは堪えられないと云いますからね」
それから色いろ条理をつくして説き、よく考えてみるようにと云ったが、お石はいつものおとなしい性質には似あわない頑なさでかぶりを振りつづけた。
「どうぞこのお話はごめん下さいまし、それにわたくし近ぢかにおゆるしを願って、京の検校さまの許へまいりたいと存じていたのですから」
ますます思いがけない言葉なので、母は暫くあっけにとられていた。
「それは検校となにかお約束でもあってのことですか」
「はい、ここをお立ちなさるおり、わたくしから達ておたのみ申したのでございます」
「検校は来いと仰しゃったのですね」
「はい……」
お石はきつく唇を噛みながら俯向いてしまった。
「まさかと思いました」
母はその始終を語りながら、まるで裏切られた人のように眼をいからせた。
「きょうまでせわをしたことは云いません、初めからそんな積りはなかったのですからね、でも人情があればあんな断わりようはない筈です、そればかりならよいけれど、わたしたちには内密で検校とそんな約束をしていたなどとはあんまりではないか」
「そうお怒りになってもしようがありません、まあ少し待ってようすをみることにしましょう」
平之丞は母をなだめながら、いちど自分からじかに話してみようと考えた。然しそのおりも来ないうちに、とつぜん父が倒れた、城中で発病し、釣台で家へはこばれて来たが、意識不明のまま三日病んで死去した。
悲嘆のなかにも平之丞はとり返しのつかぬことをしたのに気づいた。それはお石の素性が知れずじまいになったことだ。初めひきとるときに「旧知の遺児である」といったきり、どこのなに者の子なのか母にも話してはなかった。二度ばかりそれとなく平之丞が訊いてみたけれど、「そのうちに話そう」と云うだけでとうとうその機会がなかったのである。だが父の遺品のなかになにかみつかるかも知れない。僅かにそれをたのみにしたが、葬礼の忙しさに追われたし、家督とか、父の役目を継ぐ事務などでそのいとまがなかった、そのうえ忌が明けると間もなく、お石はついに鈴木家を出て京へのぼることになった。……お石がたのんだのだろう和学の師である榁尚伯がきて、母を説き平之丞を説いた、
「琴のほかに学問も続けたいと云っておられるし、さいわい京には北村季吟と申す学者がおり、以前から親しく書状の往来があるので、私から頼めばせわをして呉れることでしょう、お石どのは国学にも才分がおありだから、場合に依ればこのほうでも身を立てることができると思います」どうか望みをかなえてお遣りなさるように、老学者らしい朴訥な口ぶりでそう云うのだった。平之丞はもういけないと思った。母も諦めるよりほかはなかった。然しどんなにくやしかったことだろう、
「わたしはもうあの子のことは考えるのも厭です、好きにするがいいでしょう」
きびしい言葉でそう云い云いしたが、その顔には悲しい落胆の色がありありとみえた。
おそらくは実のむすめに反かれたよりも、悲しく、辛く、くちおしかったに違いない。それでもいよいよ京へ去る日が近づくと、
「身よりのない子だから」
と云って、夏冬のしたくを作ったり、細ごました道具を買いととのえたりし、出立のときには自分で髪を結ってやったりした。
「いどころが定ったら便りを下さいよ」
別れには母はこう云って泣いた、
「あなたが考えるより世間はきびしいものです、いつどのようなかなしいことにゆき遭うかもわかりません。あなたは鈴木のむすめも同様なのですから、そんなときは意地を張らずに帰って来るのですよ、わたしはいつでもよろこんでお待ちしているのですからね」
お石は泣かなかった、少し蒼ざめた顔を俯向け、僅かに、はい、はいと答えるだけだった。平之丞にはそれがもう心もここにない者のようにみえた、そして母のために忿りを感じ、言葉を交わす気にもなれなかった。……お石はこうして京へ去った、信じられないほどあっさりと、まるで旅人が一夜の宿から立ってゆくかのように、さばさばとお石は鈴木家から去っていった。
平之丞がお石を忘れるまでにはかなりながい時日を要した。お石がいなくなってはじめて、彼女がどれほど無くてはならない存在だったか、自分にとってどんなに必要な者だったかということがわかった。結婚を申込むくらいだから、むろん単純に好きだというていどの気持ではなかった。然しそれほど根づよく、それほどはげしい感情を遺されようとは思わなかった。みっともない子の時代から、歌など詠みはじめた前後、松井の庭の宴で初めて眼を惹かれてのち、明け昏れに見馴れた姿、人の気づかないところに心のこもった家常茶飯の数かずのこと、稗だんごの味までが、在ったときよりは鮮やかになまなまと思いだされた。こんなに深く人の心にくいいりながら、あのようにみれんもなく去ってゆけるものだろうか。事に触れ物につけて記憶をかきたてられるやりきれなさに、平之丞はそのようなめめしい嘆息をもらすことさえあった。──そういえば素性もわかっていなかった、或るときそう気づいて、父の遺品を精しく調べてみた。然し手掛りになるような物はなにも無かった。ごく若いときからの日記があるので、眼の痛くなるような細字を拾い拾い読んでみたが、やっぱりお石に就いてはなにも記してはなかった。彼は惘然として、飛び去った鳥のあとを追想するような、つかみどころのないはかない気持で日を送っていった。
彼は二十七歳の春に結婚した。母が寂しがってすすめるし、かくべつ拒む理由もないので、父の在世ちゅうはなしがあったという松井六弥の妹を娶った。祝言が済んで暫く経ってからのことだが、六弥が訪ねて来ていっしょに酒を呑んだとき、
「いつかの花見の催しを覚えているか」
と笑いながら云った、
「あれは実を申すとそでを見てもらうためだったのさ、わからなかったのかね」
「うん……」
平之丞はそのときの絢爛たるさまを思いかえした、そしてそのなかにふとお石のおもかげをみいだしたが、もう心の痛むようなこともなく、そのおもかげもすでにおぼろなはかない印象になっていた。彼はふかい溜息をつき、六弥の盃に酌をした。
平凡ではあるが温かいしずかな結婚生活が始まった。明くる年に長男が生れ、一年おいて長女ができた。そでは明るいまっすぐな性質で、どっちかというと賑やかなことの好きなほうだった。からだつきも肥えているし、いつも眼の笑っている顔だちで、常に身のまわりに活き活きした空気を漲らせていた。けれど三人めの子を身ごもってから健康がすぐれなくなり、嫁して来て六年めの秋、七月の子を身にもったまま嘘のようにあっけなく世を去ってしまった。……それは平之丞にとって小さからぬいたでだった、彼はうちのめされ、こころ昏んだ、「私には妻の縁が薄いとみえます」母に向かってそう云ったが、それはお石のことをも含めての述懐に違いない、母親はそのとき彼はもう恐らく再婚しないであろうと推察した。
時はあらゆるものを掠め去るものだ、どんなに大きな悲しみも苦痛も、過ぎてゆく時間に癒されないものはない。お石のばあいとは別の意味で、妻の死はひじょうに打撃だったけれど、さいわい母が丈夫で二児の養育をひきうけて呉れたし、いとまのない勤めがやがて平之丞を立ち直らせた。……それからは余り語ることもない、母親の察したとおり彼は再婚しなかった。すすめる者はずいぶんあったが、いつも笑ってうけつけなかった。たびたび食禄を加増されたこと、胃を病んで半年ばかり寝たことなど、記すとすればそのくらいのものである。いやいちどだけ思いがけない災難に遭った、それは彼が三十二歳で藩主世子うえもんのすけ忠春の側がしらに任じられたとき、その出頭を嫉む者から讒訴されて、老臣列座の鞠問をうけた、私行のうえの根も葉もない事だったので、すぐに解決したが、かなり巧みに仕組まれた讒訴で、覚えのない彼みずから一時はどきっとした程であった、だがそれからは却って重く用いられるようになり、右衛門佐の侍臣ちゅうでは無くてならぬ人物に数えられた。
こうして平之丞は五十歳になった。けんもつ忠善はすでに逝去し、忠春が従五位の右衛門太夫に任じていた。彼はそれより五年まえに国老となり、藩政の中軸といわれる存在だったが、その年の秋、公務を帯びて京へのぼった帰りに、まったく思いがけない処で思いがけない人とめぐり会った。……岡崎までもう三里という池鯉鮒の駅へ着いたとき、彼はその近くに名高い「八橋の古蹟」という名所があるのを思いだした。かねていちど尋ねたいと思っていたし、さいわい用務が早く済んで帰城にもゆとりがあった、それで供の者をそこから先に帰らせ、独りになってそちらへ見にまわった。
海道を東のほうへはいり、むかし鎌倉道だったと伝えられる草がくれの細径を辿ってゆくと、牛田村という処の松原はずれに苔むした標しの石が立っていた。その道しるべに従って左へ折れ、穂立ちはじめた芒の丘を越えると、熟れた稲田のかなたに遇妻川の流れがみえた。……そこを八はしといひけるは、水ゆく川のくもでなれば、はしを八つわたせるによりてなんやつはしといひける、そのさはのほとりの木かげにおりゐてかれいくひけり云ぬんという伊勢物語の一節なども思いだされ、平之丞の心は懐古のおもいに満たされるようだった。むかし杜若のあった跡だという、丘ふところの小さな池をめぐり、業平塚なども見てやや疲れた彼は、すぐ近くにひと棟の侘びた住居のあるのをみつけ、暫く休ませてもらおうと思ってその門をおとずれた。柴垣の内に老松がみごとに枝を張り、さして広からぬ庭はいちめんに萩すすきが生い茂っていた。そのさはのほとりの木かげにおりゐて、かれいくひけりという文章を今の自分にひきくらべながら、折戸を明けて庭へはいると、縁先に人がいてこちらへふり返った、切下げ髪にした中年の婦人であった。
「八橋の跡を見にまいった者だが、卒爾ながら暫く休ませて頂けまいか」
そうたのむと、婦人はしとやかに立って、
「どうぞお掛けあそばせ」とすぐにそこへ座を設けた、
「とりちらして失礼ではございますがどうぞご遠慮なく……」
平之丞ははいってゆきながら、婦人の姿にどこやら見おぼえがあるように思い、縁さきまで来るとはっとして立ちどまった。そしてわれ知らず昂ぶったこえで、
「お石どのではないか」と叫んだ。婦人は眼をみはってこちらを見たが、
「ああ」
とおののくような声をあげ、まるで崩れるようにそこへ膝をついた。
昏れかかる日の残照が、明り障子にものかなしげな光を投げている。別れてからもう二十五年あまりの月日が、いま平之丞とお石とのあいだに繰りひろげられ、初老にはいった者の淡々とした話しごえがもう一刻ほども続いていた。
「ここへ来て二十年とすると、京にはながくいなかったのですね」
「はい……」
「ここへはどういうゆかりで住みついたのですか」
「榁先生のおせわでございました」
「そしてそれ以来ずっと独り身で、琴の師匠をして来たのですね」
「いいえ琴はいちども」
そう云ってお石は頬笑んだ、
「このあたりの子供たちに読み書きを教えたりしてまいりました」
「それが家を出るときの望みだったのですか」
そう云われてお石は眼を伏せた。平之丞は彼女の眉のあたりをじっとみつめていた。それからふとあらたまった調子でお石どのと呼びかけた。
「……私は五十歳、あなたも四十を越した、お互いにもう真実を告げ合ってもよい年ごろだと思う、お石どの、あなたはどうしてあのとき出ていったのか」
「…………」
「私があれほど欲し、母もねがったことを拒んだのは、ただこんなところに隠れて寺子屋の師となるためだったのか、お石どの、真実のことが聞きたい、聞かせて下さるだろうな」
夕風が立つのだろう、庭の老松に折おり蕭々の音がわたる。お石はその音を聞きすましでもするように、ながいあいだ黙って俯向いていたが、やがて内へひくような声つきでこう云った。
「……お石はあなたさまの妻にはなれない娘でした、どうしても、妻になってはいけなかったのです」
「それはどういうわけです」
「わたくしは鉄性院さま(忠善)のおいかりにふれ、重科を仰せつけられて死んだ者の子でございます」
「そんなことが」
「ありのままを申上げるのです、お石は小出小十郎のむすめでございました」
小出というその名は平之丞を強くおどろかし、かつて松井家の庭で語られた藩家の秘事や、そのとき聞いた小十郎の死の原因なとがまざまざと思いだされた。
「……父は右衛門太夫さまがさる貴い方の御胤だということをもれ聞きました、一徹の気性から繰返し殿さまに御諌言を申上げました、事実は根もない噂だったのでございましょう、血すじに就いてあらぬことを申すと厳しいお忿りを蒙り、生涯蟄居の重い咎めを仰せつけられました、そのとき、父はよろこんでおりました、御血統の正しいことが明らかになれば自分の一身など問題ではない、これで浪人から召し立てられた御恩の万分の一はお返し申せる、そう云いまして、不敬の罪をお詫びするために切腹致しました」
「…………」
「さむらいとして、決して恥ずかしい死ではないと存じますが、重科はどこまでも重科でございます、こなたさまの妻になって、もしもその素性が知れましたばあいには、ご家名にかかわる大事にもなり兼ねません、どんなことがあっても嫁にはなれぬ、そう思いきめまして」
お石はそこで言葉を切り、片手の指でそっと眼がしらを押えた。この告白は平之丞の心をはげしく打った。彼は眼を瞠ってお石の顔をみつめたが、やがて頭を振りながら非難するようにこう云った、
「あなたが誰の子であるか、どういう身の上かということは私も知らず、母でさえ聞いてはいなかった、父はなにも云わず、なんの証拠も遺さずに死んだ、あなたの素性は誰にもわかる惧れはなかったのですよ」
「そうかも知れません」
お石はそっと頷いた、
「仰しゃるとおりわからずに済むかも知れません、けれど万一ということが考えられました、知れずに済めばようございますけれど、万一にも知れたとしたらどう致しましょう、たとえ人は知らずとも、わたくし自身はよく知っていたのですから」
そうだ、それを否定することはできない。平之丞は三十二歳のときの災難を思いだした。人の讒訴に依って老臣の鞠問をうけたときのことを、──あのときもしお石を妻にしていたら。そしてもしお石の素性がわかったとしたら、そう考えるともううち消す言葉もなく、しずかに頭を垂れ、眼をつむった。
「それではもし、そういう事情さえなかったら、あなたは私の妻になって呉れたろうか」
「自分の身の上を知ったのは十三歳のときでございました、そのときはじめて父の遺書を読んだのでございます、そして、平之丞さまをお好き申してはいけないのだと、幼ないあたまで自分を繰返し戒めました、いま考えますとまことに子供らしいことでございますが」
そこまで云いかけてお石は立ち、部屋の奥から紫色の袱紗に包んだ物を持って来た、
「これを覚えていらっしゃいますか」
そう云いながら披いたのを見ると、いつかせがまれて貸与えた翡翠の文鎮であった。お石は平之丞の熱い眸子を頬笑みながら受けた、
「お好き申さない代りに、あなたさまの大事にしていらっしゃる品を、生涯の守りに頂いて置きたかったのです」
「では……」
と平之丞は乾いたような声で云った。
「お石はずいぶん辛かったのだな」
「はい、ずいぶん苦しゅうございました」
なんというひとすじな心だろう、愛する者の将来に万一のことがあってはならぬ、その惧れひとつでお石は自分の幸福を捨てた、今は年も長けたし情熱もむかしのようではない、すなおに苦しゅうございましたと云うことができる、然しまだ世の波かぜにも触れず、ひたむきな愛情が生きのいのちであった頃、どのようなおもいで自分の幸福を諦めたことだろう。──自分では気づかないが、男はつねにこういう女性の心に支えられているのだ。平之丞は低頭するようなおもいで心のうちにそう呟いた。
「どうやら昏れてしまいました」
やがてお石は窓のほうへふり返った、
「もしおよろしかったら、お泊りあそばしませぬか、久方ぶりで下手なお料理をさしあげましょう、そして墨丸と呼ばれた頃のことを語り明かしとうございますけれど」
「ああ、そんなこともあった、たしかに」
平之丞は胸ぐるしそうなこえでこう云った。
「ずいぶん遠い日のことだ」
縁側の障子も窓のほうも、すでに蒼茫と黄昏の色が濃くなって、庭の老松にはしきりに風がわたっていた。
底本:「山本周五郎全集第二巻 日本婦道記・柳橋物語」新潮社
1981(昭和56)年9月15日発行
1981(昭和56)年10月25日2刷
初出:「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社
1945(昭和20)年9月
※初出時の表題は「文鎮」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井和郎
2019年10月28日作成
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