続銀鼎
泉鏡太郎
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不思議なる光景である。
白河はやがて、鳴きしきる蛙の声、──其の蛙の声もさあと響く──とゝもに、さあと鳴る、流の音に分るゝ如く、汽車は恰も雨の大川をあとにして、又一息、暗い陸奥へ沈む。……真夜中に、色沢のわるい、頬の痩せた詩人が一人、目ばかり輝かして熟と視る。
燈も夢を照らすやうな、朦朧とした、車室の床に、其の赤く立ち、颯と青く伏つて、湯気をふいて、ひら〳〵と燃えるのを凝然と視て居ると、何うも、停車場で銭で買つた饂飩を温め抱くのだとは思はれない。
どう〳〵と降る中を、がうと山に谺して行く。がらんとした、古びた萠黄の車室である。護摩壇に向つて、髯髪も蓬に、針の如く逆立ち、あばら骨白く、吐く息も黒煙の中に、夜叉羅刹を呼んで、逆法を修する呪詛の僧の挙動には似べくもない、が、我ながら銀の鍋で、ものを煮る、仙人の徒弟ぐらゐには感ずる。詩人も此では、鍛冶屋の職人に宛如だ。が、其の煮る、鋳る、錬りつゝあるは何であらう。没薬、丹、朱、香、玉、砂金の類ではない。蝦蟇の膏でもない。
と思ひつゝ、視つゝ、惑ひつゝ、恁くして錬るのは美人である。
衣絵さんだ!
と思ふと、立つ泡が、雪を震はす白い膚の爛れるやうで。……園は、ぎよつとして、突伏すばかりに火尖を嘗めるが如く吹消した。
疲れたやうに、吻と呼吸して、
「あゝ、飛んでもない、……譬にも虚事にも、衣絵さんを地獄へ落さうとした。」
仮に、もし、此を煮る事、鋳る事、錬る事が、其の極度に到着した時の結晶体が、衣絵さんの姿に成るべき魔術であつても、火に掛けて煮爛らかして何とする! ……
鋳像家の技に、仏は銅を煮るであらう。彫刻師の鑿に、神は木を刻むであらう。が、人、女、あの華繊な、衣絵さんを、詩人の煩悩が煮るのである。
「大変な事をしたぞ。」
園は、今更ながら、瞬時と雖も、心の影が、其の熱に堪へないものゝ如く、不意のあやまちで、怪我をさした人に吃驚するやうに、銀の蓋を、ぱつと取つた。
取ると、……むら〳〵と一巻、渦を巻くやうに成つて、湯気が、鍋の中から、朦と立つ。立ちながら、すつと白い裳が真直に立靡いて、中ばでふくらみを持つて、筋が凹むやうに、二条に分れようとして、軟にまた合つて、颯と濃く成るのが、肩に見え、頸脚に見えた。背筋、腰、ふくら脛。……
卯の花の色うつくしく、中肉で、中脊で、なよ〳〵として、ふつと浮くと、黒髪の音がさつと鳴つた。
「やあ、あの、もの恥をする人が、裸身なんぞ、こんな姿を、人に見せるわけはない。」
園は目を瞑つた。
矢張り見える。
「これは、不可ん。」
園は一人で頭を掉つた。
まだ消えない。
「第一、病中は、其の取乱した姿を見せるのを可厭がつて、見舞に行くのを断られた自分ではないか。──此は悪い。こんな処を。あゝ、済まない。」
園はもの狂はしいまで、慌しく外套を脱いだ。トタンに、其の衣絵さんの白い幻影を包むで隠さうとしたのである。が、疼々しい此の硬ばつた、雨と埃と日光をしたゝかに吸つた、功羅生へた鼠色の大な蝙蝠。
一寸でも触ると、其のまゝ、いきなり、白い肩を包むで、頬から衣絵さんの血を吸ひさうである、と思つたばかりでも、あゝ、滴々血が垂れる。……結綿の鹿の子のやうに、喀血する咽喉のやうに。
で、園は引掴んで、席をやゝ遠くまで、其の外套を彼方へ投げた。
投げた時、偶と渠は、鼓打である其の従弟が、業体と言ひ、温雅で上品な優しい男の、酒に酔払ふと、場所を選ばず、着て居る外套を脱いで、威勢よくぱつと投出す、帳場の車夫などは、おいでなすつた、と丁と心得て居るくらゐで……電車の中でも此を遣る。……下が黒羽二重の紋着と云ふ勤柄であるから、余計人目について、乗合は一時に哄と囃す。
「何でえ、持つてけ。」と、舞袴にぴたりと肱を張つて、とろりと一睨み睨むのがお定り……
と其を思出して、……独りで笑つた。
そんな、妙な間があつた。それだのに、媚めかしい湯気の形は、卯の花のやうに、微に揺れつゝ其のまゝであつた。
銀の鍋一つ包む、大くはないが、衣絵さんの手縫である、其の友染を、密と掛けた。頸から肩と思ふあたり、ビクツと手応がある、ふつと、柔く軽く、つゝんで抱込む胸へ、嫋さと気の重量が掛るのに、アツと思つて、腰をつく。席へ、薄い真綿が羽二重へ辷つたやうに、さゝ……と唯衣の音がして、膝を組むだ足のやうに、友染の端が、席をなぞへに、たらりと片褄に成つて落ちた。──気を失つた女が、我とゝもに倒れかゝつたやうである。
吃驚して、取つて、すつと上へ引くと、引かれた友染は、其のまゝ、仰向けに、襟の白さを蔽ひ余るやうに、がつくりと席に寝た。
ふわ〳〵と其処へ靡く、湯気の細い角の、横に漾ふ消際が、こんもりと優い鼻を残して、ぽつと浮いて、衣絵さんの眉、口、唇、白歯。……あゝあの時の、死顔が、まざ〳〵と、いま我が膝へ……
白衣幽に、撫子と小菊の、藤紫地の裾模様の小袖を、亡体に掛けた、其のまゝの、……此の友染よ。唯其の時は、爪一つ指の尖も、人目には漏れないで、水底に眠つたやうに、面影ばかり澄切つて居たのに、──こゝでは、散乱れた、三ひら、五ひらの卯の花が、凄く動く汽車の底に、ちら〳〵ちらと揺れて、指の、震へるやうにさへ見らるゝ。世には、清らかな白歯を玉と云ふ、真珠と云ふ、貝と言ふ。……いま、ちらりと微笑むやうな、口元を漏るゝ歯は、白き卯の花の花片であつた。
「──膝枕をなさい。──衣絵さん。」
園は居坐を直した。が、沈んだ顔に、涙を流した。
あゝ、思出す。……
「いくら私、堪へましてもね、冷い汗が流れるやうに、ひとりでに涙が出るんですもの。御病人の前で、此ぢやあ悪いと思ひますとね、尚ほ堪らなくなるんですよ。それだもんですからね。枕許の小さな黒棚に、一輪挿があつて、撫子が活かつて居ました。その花へ、顔を押つけるやうにして、ほろ〳〵溢れる目をごまかしましてね、「西洋のでございますか、いゝ匂ですこと。」なんのつて、然う言つて──あの、優い花ですから、葉にも、枝にも、此方の顔が隠れないで弱りましたよ──義兄さん。」
と衣絵さんのもう亡くなる前だつた──たしか、三度めであつたと思ふ……従弟の細君が見舞に行つた時の音信であつた。
予て、病気とは聴いて居た。──其の病気のために、衣絵さんが、若手、売出しの洋画家であつた、婿君と一所に、鎌倉へ出養生をして居たのは……あとで思へば、それも寂しい……行く春の頃から知つて居た。が、紫の藤より、菖蒲杜若より、鎌倉の町は、水は、其の人の出入、起居にも、ゆかりの色が添ふであらう、と床しがるのみで、まるで以て、然したる容体とは思ひもつかないで居たのに。秋の野分しば〳〵して、睡られぬ長き夜の、且つ朝寒く──インキの香の、じつと身に沁む新聞に──名門のお嬢さん、洋画家の夫人なれば──衣絵さんの(もう其の時は帰京して居た)重態が、玉の簾を吹ちぎり、金屏風を倒すばかり、嵐の如く世に響いた。
同じ日の夜に入つて、婿君から、先むじて親書が来て、──病床に臥してより、衣絵はどなたにもお目に掛る事を恥かしがり申候、女気を、あはれ、御諒察あつて、お見舞の儀はお見合はせ下されたく、差繰つて申すやうながら、唯今にもお出で下さる事を当人よく存じ、特に貴兄に対しては……と此の趣であつた。
髪一条、身躾を忘れない人の、此は至極した事である。
婿君のふみながら、衣絵さんの心を伝へた巻紙を、繰戻すさへ、さら〳〵と、緑なす黒髪の枕に乱るゝ音を感じて、取る手の冷いまで血を寒くしながらも、園は、謹で其の意を体したのである。
折から、従弟は当流の一派とゝもに、九州地を巡業中で留守だつた。細君が、園と双方を兼ねて見舞つた。其の三度めの時の事なので。──勿論、田端から帰りがけに、直ぐに園の家に立寄つたのであるが。
「ね──義兄さん、……お可哀相は、最う疾くのむかし通越して、あんな綺麗な方が最うおなくなんなさるかと思ふと、真個に可惜ものでならないんですもの。──日当は好んですけれど、六畳のね、水晶のやうなお部屋に、羽二重の小掻巻を掛けて、消えさうにお寝つてゝ、お色なんぞ、雪とも、玉とも、そりや透通るやうですよ。東枕の白い切に、ほぐしたお髪の真黒なのが濡れたやうにこぼれて居て、向ふの西向の壁に、衣桁が立てゝあります。それに、目の覚めるやうな友染縮緬が、端ものを解いたなりで、一種掛つて居たんです。──義兄さんの歌の本をお読みなさるのと、うつくしい友染を掛物のやうに取換へて、衣桁に掛けて、寝ながら御覧なさるのが何より楽なんですつて。──あの方の魂の行らつしやる処も、それで知れます。……紫の雲の靉靆く空ぢやあなくつて、友染の霞が来て、白いお身体を包むのでせうね──あゝ、それにね。……義兄さんがお心づくしの丸薬ですわね。……私が最初お見舞に行つた時、ことづかつて参りました……あの薬を、お婿さんの手から、葡萄酒の小さな硝子盃で飲るんだつて、──えゝ、先刻……
枕許の、矢張り其の棚にのつた、六角形の、蒔絵の手筐をお開けなすつたんですよ。然うすると、……あのお薬包と、かあいらしい爪取剪が一具と、……」
従弟の妻は、話しながら、こみあげ〳〵我慢したのを、此の時ないじやくりして言つた。
「……他に何にもなしに、撫子と小菊の模様の友染の袋に入つた、小さい円い姿見と、其だけ入つて居たんです。……お心が思ひ遣られますこと。
お婿さんが、硝子盃に、葡萄酒をお計んなさる間──えゝ然うよ。……お寝室には私と三人きり。……誰も可厭だつて、看護婦さんさへお頼みなさらないんだそうです。第一、お医師様も、七ツ八ツのお小さい時からおかゝりつけの方をお一人だけ……尤も有名な博士の方ださうですけれど──
それでね、義兄さん。お婿さんが葡萄酒をお計んなさる間に、細りした手を、恁うね、頬へつけて、うつくしい目で撓めて爪を見なすつたんでせう、のびてるか何うだかつて──凝と御覧なすつたんですがね、白い指さきへ瞳が映るやうで、そして、指のさきから、すつとお月様の影がさすやうに見えました。それが、恁う、お招きなさるやうに見えるんですもの。私、ぶる〳〵としたんです……」
聞いて居る園が震へた。
「ですけれど、あの、お手で招かれたら、懐中へなら尚の事だし、冥土へでも、何処へでも行きかねやしますまい……と真個に思ひました。
其の手を、密と伸ばして、お薬の包を持つて、片手で円い姿見を半分、凝と視て、お色が颯と蒼ざめた時は、私はまた泣かされました。……私は自分ながら頓狂な声で言つたんですよ……
──「まあ、御覧なさいまし、撫子が、こんなに露をあげて居りますよ」──」
「私としては、出来るだけの事はしました。──申してはお恥かしいやうですが、実際、此の一月ばかりは、押通し夜も寝ませんくらゐ看病はしましたが。」
一室の、其処に五人居た。著名なる新聞記者、審査員──画家、文学者、某子爵の令夫人が一人。──園が居た。弔礼のために、香川家を訪れたものが、うけつけの机も、四つばかり、応接に山をなす中から、其処へ通された親類縁者、それ〴〵、又他方面の客は、大方別室であらう。
園が、人を分けて廊下を茶室らしい其処へ通された時、すぐ其の子爵夫人の、束髪に輝く金剛石とゝもに、白き牡丹の如き半帕の、目を蔽ふて俯向いて居るのを視た。
皆、暗然として、半ば瞳を閉ぢて居たのである。
「御当家でも──実に……」
「全くでございます。」
唯、いひかはされるのは、其のくらゐな事を繰返す。時に、鶺鴒の声がして、火桶の炭は赤けれど、山茶花の影が寂しかつた。
其処へ婿君が、紋着、袴ながら、憔悴した其の寝不足の目が血走り、ばう〳〵髪で窶れたのが、弔扎をうけに見えたのである。
「やあ……何うも。」
と、がつくり俯向いた顔を上げたのを、園に向けると、
「お礼を申上げます、──あのお薬のためだらうと思ひます。五日以上……滋養灌腸なぞは、絶対に嫌ひますから、湯水も通らないくらゐですのに、意識は明瞭で、今朝午前三時に息を引取りました一寸前にも、種々、細々と、私の膝に顔をのせて話をしまして。……園さんに、おなごりのおことづけまで申しました。判然して、元気です。医師も驚いて居ました。まるで絶食で居て、よく、こんなにと、両三日前から、然う言はれましてな。……しかし、気の毒でした。
江戸児は……食ものには乱暴です。九死一生の時でも、鮨だ、天麩羅だつて言ふんですから。蝦が欲い……しんじよとでも言ふかと思ふと、飛でもない。……鬼殻焼が可いと言ふんです。──痛快だ! ……宜しい、鬼を食つ了ひなさい、と景気をつけて、肥つた奴を、こんがりと南京の中皿へ装込むだのを、私が気をつけて、大事に毮つて、箸で哺めたんですが、みでは豈夫と思ふんです。馴れない料理人が、むしるのに、幾くらか鎧皮が附着いて居たでせうか。一口触つたと思ふと、舌が切れたんです。鬼殻焼を退治ようと言ふ、意気が壮なだけ実に悲惨です。すぐに唇から口紅が溶けたやうに、真赤な血が溢れるんですものね。」
爾時は、瞼を離して、はらりと口元を半帕で蔽うて居た、某子爵夫人が頷くやうに聞き〳〵、清らかな半帕を扱くにつれて、真白な絹の、それにも血の影が映すやうに見えた。
夫人は堪へやらぬ状して、衝と肩を反らして、横を向いて又目を圧へたのである。
「……えゝ、尤も、結核は、喉頭から、もう其の時には舌までも侵して居たんださうですが。鬼殻焼……意気が壮なだけ何うも悲惨です。は、はア。」
と、力のない、笑の影を浮かべて、言つて、悵然として仰いで、額に逆立つ頭髪を払つた。
「あちらの御都合で、お線香を。」
「一寸、御挨拶を。」
園と審査員が殆ど同時に言つた。
「それでは、何うぞ……」
廊下を二曲り、又半ばにして、椽続きの広間に、線香の煙の中に、白い壇が高く築かれて居た。袖と袖と重ねたのは、二側に居余る、いづれも声なき紳士淑女であつた。
順を譲つて、子爵夫人をさきに、次々に、──園は其の中でいつちあとに線香を手向けたが、手向けながら殆ど雪の室かと思ふ、然も香の高き、花輪の、白薔薇、白百合の大輪の花弁の透間に、薄紅の撫子と、藤紫の小菊が微に彩めく、其の友染を密と辿ると、掻上げた黒髪の毛筋を透いて、ちらりと耳朶と、而して白々とある頸脚が、すつと寝て、其の薄化粧した、きめの細かなのさへ、ほんのりと目に映つた。
まだ納棺の前である。
「香川さん。」
袴で坐を開きながら、園は、堅く障子を背にした婿君を呼んで言つた。
「……一寸お顔を見たいんです。」
声の調子の掠れるまで、園は胸が轟いたのである。が、婿君は潔く、
「えゝ、何うぞ──此方へ。」
とづいと立つと、逆屏風──たしか葛の葉の風に乱れた絵の、──端を引いて、壇の位牌の背後を、次の室の襖との狭い間を、枕の方へ導きながら、
「困りました。」
「…………」
「なくなられては困りましたなあ。」
と振向き状に、ぶつきら棒に立つて、握拳で、額を擦つたのが、悩乱した頭の髪を、掻毮りでもしたさうに見えて、煙の靡く天井を仰いだ。
「唯々、お察し申上げます。」
「は。」
と云つて、膝をついて、
「衣絵ちやん、──園さんです。」
と、白いものを衝と取つた。
眉毛を長く、睫毛を濃く、彼方を頸に、満坐の客を背にして、其の背の方は、花輪が隔てゝ、誰にも見えない。──此方に斜くらゐな横顔で、鼻筋がスツとして、微笑むだやうな白歯が見えた。──妹が二人ある。其の人たちの優しさに、髪を櫛巻のやうにして、薄化粧に紅をさした。
「衣絵さん。」
と心で言つて、思はず、直と寄つた膝が、うつかり、袖と思ふ掻巻の友染に触れると、白羽二重の小浪が、青く水のやうに其の襟にかゝつた。
屈みかゝつて、上から差覗く、目に涙の婿君と、微に仰いだ衣絵さんの顔と、世に唯、此の時三人であつた。
「……お静かに、お静かに、然やうなら……」
ハツと息して、立つて、引返す時、……今度は園が云つた。
「私も困ります。」
「…………」
「寂くつて、世間が暗いやうです。──衣絵さんはおなくなりなさいました。」
「…………」
「香川さん。──しかし、今では、衣絵さんを、衣絵さんを、」
「…………」
「私が、思、思つても! ……」
愛も、恋も、憧憬も、ふつゝかに、唯、思とのみ、血を絞つて言つた。
「……思つても、──貴方は許して下さいますか。」
仰いで言ふのを、香川は、しばらく熟と視たが、膝をついて、ひたと居寄つて、
「衣絵ちやんが喜びませう……私も、……嬉しい。」
恋の仇は、双方で手を取つた。
「あ、お顔を。」
振向いて、も一度視た。
其の、面影を、──夜汽車の席の、いまこゝに──
「さ、膝を、膝枕をなさい、誰も居ません。」
園は、もの狂はしく、面影の白い、髪の黒い、裳の、胸の、乳のふくらみのある友染を、端坐した膝に寝かして、うちつけに、明白に、且つ夢に遠慮のないやうに恋を語つた。
「岩沼──岩沼──」
弁当、もの売の声が響くと、人音近く、夜が明けたと思ふのに、目には、何も、ものが見えない。
吃驚した。
園は掻毮るやうに窓を開けた、が、真暗である。
「もし、もし、もし……駅員の方、駅の方──駅夫さん……」
とけたゝましく呼んだ。
「何ですか。」
「失礼ですが、私の目は何うかなつては居ないでせうか。」
「貴方──何うかして居ますね。……確乎なさらなくつちやあ不可いぢやあゝりませんか。」
独言して、
「何を言つてるんだ。」
はつとすると、構内を、東雲の一天に、雪の──あとで知つた──苅田嶽の聳えたのが見えて、目は明に成つた。
はじめて一人乗込んだ客がある。
袖でかくすやうにした時、鍋の饂飩は、しかし、線香の落ちてたまつた、灰のやうであつた。
水源を、岩井の大沼に発すと言ふ、浦川に架けた橋を渡つた頃である。
松島から帰途に、停車場までの間を、旅館から雇つた車夫は、昨日、日暮方に其の旅館まで、同じ停車場から送つた男と知れて、園は心易く車上で話した。
「さあ、何と言はうかな。……景色は何うだ、と聞かれて悪いと言ふものもなからうし……唯よかつたよ、とだけぢや、君たちの方も納るまいけれども、何しろ、私には、松島は見ても松島を論ずる資格はないのだよ。昨日も君に世話に成つたと言ふから、知つてるだらうが、薄暮合、あの時間に旅館へ着いたのだから、あとは最う湯に入つて寝るばかりさ。」
園は昨日の其までは、聊か達す用があつて仙台に居たのであつた。
「夜があけたわ、顔を洗つたわ、旅館の縁側から、築山に松の生へたのが幾つも霞の中に浮いて居る、大な池を視めて、いゝなあと言つたつて、それまでだ。──海岸へ出たからつて、波が一つ寄るぢやなし、桜貝一つあるんぢやあない。
しかし、無理だよ。……予て聞いても居るし、むかしの書物にも書いてある。──松島を観るのは船に限る。八百八島と言ふ島の間を、自由に青畳の上のやうに漕ぐんだと言ふから、島一つ一つ趣のかはるのも、どんなにいゝか知れやしない。魚もすら〳〵泳ぐだらうし、松には藤も咲いてるさうだし、つゝじ、山吹、とり〴〵だと言ふ、其の間を、船の影に驚いて、パツと群れて水鳥が立つたり、鴎が泳いで居たり……」
「然うで、然うで、其の通りで……旦那。」
と、車夫は楫棒に張つた肩を聳やかした。
「船でなけりや、富山と言ふのへ上るだね。はい、其処だと、松島が残らず一目に見えますだ。」
「ださうだね。何しろ、船で巡るか、富山へ上らないぢやあ、松島の景色は論ずべからずと、ちやんと戒められて居るんだよ。」
「何うでがすね、此から、富山へおのぼりに成つては、はい、一里たらずだ、一息だで。」
「いや、それよりも、早く帰つて、墓参がしたくなつた。」
「へい。」
と言つたが、乗つた客も、挽く男も、妙に黙つた。
園は我ながら、余りつきもない言をうつかり言つたのに、はつと気が着いたほどである。
車夫は唐突に、目かくしでもされたやうに思つたらう。
陽が白く、雲が白く、空も白い。のんどりとして静寂な田畠には、土の湧出て、装上るやうな蛙の声。かた〳〵かた〳〵ころツ、ころツ、くわら〳〵くわら、くつ〳〵くつ。中でも大きさうなのが、土の気の蒸れる処に、高く構へた腹を、恁う人の目に浮かせて、があ〳〵があ〳〵と太く鳴く。……
俥は踏切を、其の蛙の声の上を越した。一昨日の夜を通した雨のなごりも、薄い皮一枚張つたやうに道が乾いた。
一方が小高い土手に成ると、いまゝで吹いて居た風が留むだ。靄も霞もないのに、田畑は一面にぼうとして、日中も春の夜の朧である。薄日は弱く雲を越さず、畔に咲いた黄蒲公英、咲交る豆の花の、緋、紫にも、ぽつりとも黒い影が見えぬ。朱の木瓜はちら〳〵と灯をともし、樹の根を包むだ石楠花は、入日の淡い色を染めつゝ、然も日は正に午なのである。道にさし出た、松の梢には、紫の藤かゝつて、どんよりした遠山のみどりを分けた遅桜は、薄墨色に濃く咲いて、然も散敷いた花弁は、散かさなつて根をこんもりと包むで、薄紅い。
其の傍に、二ツ三ツ境のない墓が見える。
見つゝ、俥は、段々の田を隔てゝ、土手添ひの径を遥に行くのである。
雲も、空も、皆白い。
其処へ、影のさすやうなのは、一つ一つ、百千と数へ切れない蛙の声である。
鳴く、鳴く。……
松杉、田芹、すつと伸びた酸模草の穂の、そよとも動かないのに、溝川を蔽ふ、たんぽゝの花、豆のつるの、忽ち一所に、さら〳〵と動くのは、鮒、鰌には揺過ぎる、──昼の水鶏が通るのであらう。
夢を見て居るやうである。
趣は違ふけれども、園は、名所にも、古跡にも、あんな景色はまたあるまいと思ふ処を、前刻も一度通つて来た。
──水源を岩井沼に発すと言ふ、浦川の流の末が、広く成つて海へ灌ぐ処に近かつた。旅館を出てまだいく程もない処に──路の傍に、切立てた、削つた、大な巌の、矗々と立つのを視た。或は、仏の御龕の如く、或は人の髑髏に似て、或は禅定の穴にも似つゝ、或は山寨の石門に似た、其の岩の根には、一ツづゝ皆水を湛へて、中には蒼く凝つて淵かと思はるゝのもあつた。岩角、松、松には藤が咲き、巌膚には、つゝじ、山吹を鏤めて、御仏の紫摩黄金、鬼の舌、また僧の袈裟、また将軍の緋縅の如く、ちら〳〵と水に映つた。
「此処も海ではなかつたか──いまの松島の。……此の巌は、一つ一つ、あの島のやうに──」
一方は、ひしや〳〵とした、何処までも蘆原で、きよつ〳〵、きよつ〳〵、と蘆一むらづゝ、順に、ばら〳〵と、又飛々に、行々子が鳴きしきつた。
それから、しばらくは、まばらにも蘆のある処には、皆行々子が鳴いて居た──
こゝに、蛙の鳴くやうに……
まだ、其の頃は、海ある方に雲の切れた、薄青い空があつた。それさへいまは夢のやうである。
園は、行々子の鳴く音におくられつゝ、蛙の声に迎へられたやうな気がした。
……水鶏が走るか、さら〳〵と、ソレまた小溝が動く。……動きながら其の静寂さ。
唯、遠くに、行々子が鳴きしきつて、こゝに蛙がすだく──其の間を、わあーとつないで、屋根も門も見えないで、あの、遅桜の山のうらあたり、学校の生徒の、一斉に読本の音読を合はす声。
園は心も気も懵と成つた。
ピイ、キリ〳〵と雲雀が鳴くと、ぐらりと激しく俥が揺れた。
「あゝ、車夫。」
酷い道だ。
「降りやう、──降りやう。」
「何、旦那、大丈夫で、昨日も此処を通つたゞね、馴れてるだよ。」
「いや、昨日も、はら〳〵したつけが、まだ濡れて居たから、輪をくつて、お前さんが挽きにくいまでも、まだ可かつた。泥濘が薬研のやうに乾いたんぢやあ、大変だ。転んだ処で怪我もしまいが、……此の咲いてる花に極が悪い。」
道のゆく手には、藁屋が小さく、ゆる〳〵畝る路に顕はれた背戸に、牡丹を植ゑたのが、あの時の、子爵夫人のやうに遥に覗いて見えた。
「はゝゝ、旦那、御風流だ。」
それから、歩行きながら、
「東京から来らつしやる方は、誰方も花がお好きだアなあ。」
「いろんな可愛いのが、路傍に咲いて居るんだ。誰だつて悪くはあるまい。」
「此人方等は、実の成る奴か、食へるんでなくつては、黄色いのも、青いのも、小こいものを、何にすべいよ。」
と笑つた。が、ふと、汗ばんだ赤ら顔の、元気らしい、若いのが、唇をしめて……真顔に成つて、
「然うだ、然うだ、思ひつけた。旦那、あなた様、とこなつと言ふ草は知つてるだかね。」
「常夏。」
「それよ。」
「撫子の事ぢやあないか。」
「それよ──矢張り……然うだ──忘れもしねえ。……矢張り同じやうな事を言はしつけが、私等にや其の撫子が早や分んねえだ。──何ね、今から、二三年、然うだねえ、彼れこれ四年には成るづらか。東京から来なさつたな、そりや、何うも容子たら、容色たら、そりや何うも美い若い奥様がな。」
「一人かい。」
「へゝい、お二人づれで。──旦那様は、洋服で、それ、絵を描く方が、こゝへぶら下げておいでなさる、あの器械を持つて居らしつけえ。──忘れもしねえだ、若奥様は、綺麗な縫の肩掛を手に持つてよ。紫がゝつた黒い処へ、一面に、はい、桜の花びらのちら〳〵かゝつた、コートをめしてな。」
園はゾツとした。
「丁ど今頃だで──それ〳〵、それよ矢張り此の道だ。……私と忠蔵がお供でやしたが、若奥様がね、瑞巌寺の欄間に舞つてる、迦陵頻伽と云ふ声でや、
──あの夏になると、此の辺に常夏が沢山咲きませうね──
へい、其の常夏を知らねえだ。
──まあ、撫子の事なんだよ──
其のさ、撫子を知らねえだ。私は汗を流したでなあ。……
折があつたら、誰方ぞ、聞かう聞かう思つて、因果と因縁で三年経つたゞ。旦那、花がお好きだで、な、どんな草葉だかこゝ等にあつたら、一寸つまんで教へてくらせえ。」
「淡紅色の、優い花だが、此の辺には屹とあるね。あるに違ひない。葉だけでも私にも分るだらう。」
と、のつかゝつた勢で、溝を越さうとして、
「お待ち。」
園は、つと俥に寄つた。
バスケツトを開けて、其の花が、色のまゝ染まつた、衣絵さんの友染を、と思つた……其時である。車夫が、
「あつ。」
と口を開けて、にやりとして、
「へ、へ、転ぶと、そこらの花に恥かしい。……うつ、へ、へ。御尢もだで。旦那は目が早いだやあ。」
「何だ。」
「へ、へ、私あまた。真個の草葉の花かと思つたゞ、」
「何だよ……」
「なんだよつて、へ、へ、へ。そこな、酸模、蚊帳釣草の彼方に、きれいな花が、へ、へ、花が、うつむいて、草を摘んで居なさるだ。」
「え。」
「や──旦那、──旦那でがせう。其方を見ながら。招かつしやるは。」
「これ。」
「や、私で、──へい、私で。」
と、きよろりとしながら、
「へい、へい。」
俥を横に、つか〳〵と、田の畔へ、挽いて乗掛けると、白い陽に、影もなく、ぽんと立つて、ぺこ〳〵と叩頭をした。
「へい、其が、へい、成程、其が、常夏で、へい。」
とまた叩頭をした。が、ゑみわれるやうに、得もいはれぬ、成仏しさうな笑顔を向けて、
「旦那、旦那、旦那……」
「何。」
「あなた様にも、御覧なせえと……若奥様が。」
園は、魂も心も宙を踏んで衝と寄つた。
空に一輪、蕾を添へて、咲いたやうに、其の常夏の花を手にした、細りと白い手と、桜ぢらしの紫紺のコート。
「衣絵さん……」
品のいゝ、藤紫の鹿子切の、円髷つやゝかな顔を見た時。
「ぎやツ。」
と喚くと、楫棒をたゝき投げて、車夫は雲雀と十文字に飛んで遁げた。
寂寞と成る。蛙の声の小やむだ間を、何と、園は、はづみでころがり出した服紗の銀の鍋に、霊と知りつゝ、其の霊の常夏の花をうけようとした。
然り、銀の鼎を捧げた時、園は聖僧の如く、身も心も清しかつた。
襟をあとへ、常夏を指で少し引いて、きやしやな撫肩をやゝ斜に成つたと思ふと、衣絵さんの顔は、睫を濃く、凝然と視ながら片手を頬に打招く。……撓ふ、白き指先から、月のやうな影が流れた。
寄らうとすると、其の手も映る、褄も映る、裳に真蒼な水がある。
また招くのを、ためらうと、薄雲のさすやうに、面に颯と気色ばんで、常夏をハツと銀の鍋に投げて寄越した。
其の花の影も映つた。が、いまは、水も火もと思つた。
「御免なされや。」
背中に、むつとして、いきれたやうな可厭な声。此は、と視ると、すれ違つて、通り状に振向いたのは、真夜中の雨に饂飩を食つた、髪の毛の一筋ならびの、唇の爛れたあの順礼である。
見る端に、前歯の抜けた、汚い口でニヤリとした。
車夫が、其の道を、小さく成つて、遁げる、遁げる。
はや、幻影は消えつゝ、園は目の前に、一坐、藤つゝじを鏤めた、大巌の根に、藍の如き水に臨むで、足は、めぐらした柵を越えたのを見出した。
杵(キネ。)が池と言ふ、人を取る水よ、と後に聞く。
衣絵さんに、其の称の似通ふそれより、尚ほ、なつかしく、涙ぐまるゝは、銀の鍋を見れば、いつも、常夏の影がさながら植ゑたやうに咲くのである。
底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店
2004(平成16)年4月23日第1刷発行
底本の親本:「新柳集」春陽堂
1922(大正11)年1月1日
初出:「国本 第一巻第八号」国本社
1921(大正10)年8月1日
※表題は底本では、「続銀鼎」となっています。
※初出時の署名は「泉鏡花」です。
※「灯」と「燈」の混在は、底本通りです。
※「触」に対するルビの「さわ」と「さは」の混在は、底本通りです。
※「藤」に対するルビの「ふじ」と「ふぢ」の混在は、底本通りです。
※「藤紫」に対するルビの「ふじむらさき」と「ふぢむらさき」の混在は、底本通りです。
※「入」に対するルビの「はひ」と「はい」の混在は、底本通りです。
※「香」に対するルビの「かほり」と「かをり」の混在は、底本通りです。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年9月2日作成
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