銀鼎
泉鏡太郎




 汽車きしやさびしかつた。

 わがともなる──そのが、みづからわたしはなした──のおはなしをするのに、ねんのため時間表じかんへうつてると、奥州おうしう白河しらかはいたのはよるの十二二十四ぷんで──

 上野うへのつたのが六時半じはんである。

 五ぐわつ上旬じやうじゆん……とはふが、まだ梅雨つゆにははひらない。けれども、ともするとはなくだしととなうる長雨ながあめころを、けて其年そのとし陽気やうき不順ふじゆんで、毎日まいにちじめ〳〵とあめつゞいた。しかは、午前ごぜんうち爪皮つまかは高足駄たかげた外套ぐわいたうしづくしたゝ蛇目傘ぢやのめがさくも濡々ぬれ〳〵としたありさまで、(まだ四十にはがあるのに、わかくしてした)香川かがは或素封家あるそはうか婿むこであつた、これ一人ひとり友人いうじんの、谷中やなか天王寺てんわうじけるとむらひおくつたのである。

 その予定よていのかへられない都合つがふがあつた。で、矢張やつぱ当日たうじつこゝろざした奥州路おうしうぢたびするのに、一たん引返ひきかへして、はきものをへて、洋杖すてつきと、たゞ一つバスケツトをつて出直でなほしたのであるが、くるま途中とちうも、そではしめやかで、上野うへのいたときも、轅棒かぢをトンとろされても、あの東京とうきやう式台しきだいひく下駄げたではられない。泥濘ぬかるみへば、まるでぬまで、構内こうないまで、どろ〳〵と流込ながれこむで、其処等そこらめん群集ぐんしふ薄暗うすぐらみなあめしをれてた。

出口でぐちはうけてませう。」

う、うぞうしておくれ。」

 さてやがて乗込のりこむのに、硝子窓ガラスまど横目よこめながら、れいのぞろ〳〵と押揉おしもむでくのが、平常いつもほどはだれ元気げんきがなさゝうで、したがつてまで混雑こんざつもしない。列車れつしやは、おやとおもふほど何処どこまでも長々なが〳〵つらなつたが、これ後半部こうはんぶ桐生行きりふゆきてられたものであつた。

 しつはがらりといて、それでも七八にん乗組のりこんだらう。女気をんなげなし、たてにもよこにも自由じいうられる。

 とおもふうちに、ちや外套ぐわいたうたまゝ、ごろりと仰向あふむけにつた旅客りよかくがあつた。

 汽車きしやこゝろざひとをのせて、陸奥みちのくをさしてくだく──れかゝる日暮里につぽりのあたり、もり下闇したやみに、遅桜おそざくらるかとたのは、夕靄ゆふもやそらきざまれてちら〳〵とうつるのであつた。

 田端たばた停車ていしやしたときその立上たちあがつて、夕靄ゆうもやにぽつとつゝまれた、あめなかなるまちはうむかつて、一寸ちよつと会釈ゑしやくした。

 あらためてくどくはふまい。其処そこには、今日こんにち告別式こくべつしきました香川かがはいへがある。と同時どうじに一昨年さくねんふゆ衣絵きぬゑさん、婿君むこぎみのために若奥様わかおくさまであつた、うつくしい夫人ふじんがはかなくなつてる……新仏しんぼとけは、夫人ふじんの三年目ねんめに、おなじ肺結核はいけつかく死去しきよしたのであるが……

 そのは、じつひとたちの、まだ結婚けつこんしない以前いぜんから衣絵きぬゑさんをつてた……とふよりもられてたとつてからう。

 その従兄弟いとこに、幸流こうりう小鼓打こつゞみうちがある。役者やくしやつうじてゞある。が、興行こうぎやうをり桟敷さじきまた従兄弟いとこ住居すまゐで、かほはせれば、ものをはす、時々とき〴〵ふほどでもないが、ともに田端たばたいへおとづれたこともあつて、人目ひとめくよりはしたしかつた……

 したしかつたうへに、おぢやうさん……のち香川夫人かがはふじんは、そののつくるうた愛人あいじんであつた。その作家さくかなのである。

つてまゐりますよ。」

と、其処そここゝろつた。

 汽車きしやる。

 がた〳〵とれるので、よろけながらこしゑた。

 かくごとく、がらあきのせきであるから、したへもかず、シイトつた──たびれないしるしには、真新まあたらしいのがすぼらしいバスケツトのなかに、──おぢやうさん衣絵きぬゑころの、かれに(おくりもの)がひそめてある。



 いま紀念かたみつた。

 友染いうぜんきれに、白羽二重しろはぶたへうらをかさねて、むらさきひもくちかゞつた、衣絵きぬゑさんが手縫てぬい服紗袋ふくさぶくろつゝんで、そのおくつた、しろかゞや小鍋こなべである。

 かれぎんかなへふ……

 組込くみこみの三きやくすゞくわんに、結晶けつしやうした酒精アルコールまつたのがつて、これ普通ふつう汽車中きしやちうかすうつわである。

 道中だうちう──旅行たび憂慮きづかひは、むかしからみづがはりだとふ。……それを、ひとくと可笑おかしいほどにするのであるから、行先々ゆくさき〴〵停車場ステーシヨンる、おちやいてる、とつても安心あんしんしない。要心えうじん通越とほりこした臆病おくびやうところへ、かわくのは空腹ひもじいにまさるせつなさで、ひとつはそれがためにもつい出億劫でおつくふがるのがくせで。

「……はる〴〵おく細道ほそみちとさへふ。奥州路おうしうぢなどはけてみづわるいにちがひない。ものをくらべるのは恐縮きようしゆくだけれど、むかし西行さいぎやうでも芭蕉ばせをでも、みな彼処あすこでははらいためた──おもふに、小児こどもときから武者絵むしやゑではたれもお馴染なじみの、八まん太郎義家たらうよしいへが、龍頭たつがしらかぶと緋縅ひおどしよろいで、奥州合戦おうしうかつせんとき弓杖ゆんづゑ炎天えんてんいはほいて、たまなす清水しみづをほとばしらせて、かわきあへぐ一ぐんすくつたとふのは、けだ名将めいしやうことだから、いま所謂いはゆる軍事衛生ぐんじゑいせい心得こゝろえて、悪水あくすゐきんじた反対はんたい意味いみ相違さうゐない。」

と、今度こんどたびまへにも……わたしたちに真面目まじめつた。

 なにを、馬鹿ばかな。

 と平生へいぜいからあざけるものはあざけるが、心優こゝろやさしい衣絵きぬゑさんは、それでもどくがつて、存分ぞんぶんかしてむやうにとつた厚情こゝろざしなのであつた。

 機会をりもなくつて、それからひさしぶりのたびに、はじめてバスケツトにをさめたのである。

「さあ、い、かはにごれ、みづよどめ。」

なにか、うつくし魔法まはふで、みづませてしたがへさへ出来できさうに、銀鍋ぎんなべなんとなくバスケツトのうちひかりを、友染いうぜんのつゝみにうけて、そで月影つきかげうつすかとおもふ、それも、おもへばしめやかであつた。

 まどそとあめる、る。

 雪駄せつたからかさ下駄げた足駄あしだ

 幸手さつて栗橋くりばし古河こが間々田まゝだ……のむかし語呂合ごろあはせおもす。

武左ぶざきやくにはげいしやがこまる。

しばうらにも名所めいしよがござる。

ゐなかざむらひ茶店ちやみせにあぐら。

なざやむまい三味線さみせんまくら

うなぎどんぶり売切うりきれです。」

「ぢやあ弁当べんたうだ」

 小山をやまよるくらかつた。

 かつ衣絵きぬゑさんが、婿君むこぎみとこゝをとほつて、うなぎこゝろみたとふのをいてたので、そのは、自分好じぶんずきではないが、御飯ごはんだけもとおもつたのに、それ売切うりきれた……

「そらけ。」

 どんとうしろく、

「がつたん〳〵。」

挨拶あいさつする。こゝで列車れつしや半分はんぶんづゝに胴中どうなかからわかれたのである。

 またづしんとひゞいた。

 つてるものは一人ひとりもなし、りたきやくなかつたが、そのきふまたさびしがした。

 行先ゆきさきくらい。

 ひらくでもなしに、弁当べんたう熟々つく〴〵ると、彼処あすこの、あの上包うはつゝみゑがいた、ばら〳〵あし澪標みをつくし小舟こぶねみよしにかんてらをともして、頬被ほうかむりしたおぢいあささまを、ぼやりと一絵具ゑのぐあはいてゑがいたのが、のまゝまどそと景色けしきえる。

 あめ小留をやみもない。

 た渺々べう〳〵としてはてもない暗夜やみなかに、雨水あめみづ薄白うすじろいのが、うなぎはらのやうにうねつて、よどんだしづかなみが、どろ〳〵と線路せんろひたしてさうにさへおもはれる。

 ほたり〳〵とちて、ずるりと硝子窓がらすまどながるゝしづくは、どぜうのぞ気勢けはひである。



 バスケツトを引揚ひきあげて、そこ一寸ちよつとてゝた。雨気あまけ浸通しみとほつて、友染いうぜんれもしさうだつたからである。

 そんなことけつしてない。

 が、小人数こにんずとはへ、ひとがなかつたら、友染いうぜんそでをのせて、たゞ二人ふたり真暗まつくらみづたゞよおもひがしたらう。

 宇都宮うつのみやいてさへ、ふねつた心地こゝちがした。

 改札口かいさつぐちには、あめ灰色はひいろしたうすぼやけた旅客りよかくかたちが、もや〳〵と押重おしかさなつたかとおもふと、宿引やどひき提灯ちやうちんくろつて、停車場前ステーシヨンまへ広場ひろばみだれて、すぢながなかへ、しよぼ〳〵とみなえてく。……なかで、山高やまかた突立つきたち、背広せびろかたつたのは、みな同室どうしつきやく。で、こゝでその一人ひとり──上野うへのるときりたまゝのちや外套氏ぐわいたうしばかりをのこして、こと〴〵下車げしやしたのである。

 まことにさびし汽車きしやであつた。

 やがて大那須野おほなすのはらくらがりを、沈々ちん〳〵としてふかおほきあなしづむがごとぎてく。

 野川のがはどぜうくのであらう。何処どこかで、かんてらのひとつ、ぽつとちひさくあかかつた。みづかげかさねたが、八重撫子やへなでしこ風情ふぜいはない。……一つをにとほるらしい。

 黒磯くろいそ──

 左斜ひだりはすちや外套氏ぐわいたうしいびきにも黒気こつきつた。

 くらい。

 やまも、はてしなき雨夜あめよなかへ、ふとまどけて、ぎんなべかざしたら、きらりと半輪はんりんつきつて二三じやくらすであらう。……実際じつさい、ふと那様そんがしたのであつた。が、それ衣絵きぬゑさんがきてて、かざすのに、袖口そでぐちがほんのりえて、しろつやはねば不可いけない……

 自分じぶんるときつね尻尾しつぽだ。

 とひとり苦笑くせうする。のうちに、何故なぜか、バスケツトをけて、なべして、まどらしてたくてならない。ゆびさきがむづがゆい。

 こんなときそゝのかして、狂人きちがひじみたわざをさせて、これうばはうとするのかもれぬ。

 その悚然ぞつとして、道祖神だうそじんこゝろねんじた。

 真個まつたく、この暫時しばらくあひだ稀有けぶであつた。

 郡山こほりやままでくと……よひがへりがして、汽車きしやもパツとあかるつた。思見おもひみる、磐梯山ばんだいさんけむりは、くもめて、やみ蓬々おどろ〳〵しけれど、だいなる猪苗代ゐなはしろみづうみうつつて、とほ若松わかまつみやこうかゞはれて、そこに、東山温泉ひがしやまおんせんなまめいた窓々まど〳〵ともしべにながすのが遥々はろ〴〵のぞかれる。

 その曾遊そういうであつた。

 バスケツトのなかなんとなくにぎやかである。

 と次第しだいとほさとへ、祭礼さいれいさそはれるやうながして、すこしうと〳〵として、二本松にほんまついては、其処そこ並木なみきを、飛脚ひきやくかよつてさうな夢心地ゆめごゝちつた。

 ちや外套氏ぐわいたうし大欠伸おほあくびをしてきた。口髯くちひげ茶色ちやいろをした、けた人物じんぶつで、ズボンをはだけて、どつかと居直ゐなほつて、

「あゝゝ、たぞ。」

また欠伸あくびをして、

へんまでたかなあ。」

 ほとん独言ひとりごとだつたが、しかし言掛いひかけられたやうでもあるから、

失礼しつれい──いましがた二本松ほんまつしたやうです。」

そのつた。

「や、それはまた馬鹿ばかはやいですな。」

おどろいたかほをして、ちよつきをがつくりと前屈まへかゞみに、ひぢかに鯱子張しやちこばらせて、金時計きんどけいめながら、

「……十一十五ふん。」

鼻筋はなすぢをしかめて、その真正面ましやうめんみゝてた。

とまつてはらんなあ。はてなあ、汽車きしやは十二二十四ふんに、やうや白河しらかはきをるですがな。」

硝子ガラス吸着すひついたやうにまどのぞく。

 そのも、一きやうきつして時計とけいた。はり相違さうゐなく十一其処そこをさして、汽車きしやせつゝあるまゝにセコンドをきざむでる。

 バスケツトをおさへて、ほついきして、

うもみません、すこし、うと〳〵しましたつけ。うつかりゆめでもたやうで、──郡山こほりやままでは一つたことがあるものですから……」

 そのまどのぞきながら、

「しかし、うもみません、だいこともありませんのに、奥州おうしう本松ほんまつふのは、昔話むかしばなしなにかでみゝについてたものですから、夢現ゆめうつゝ其処そことほつたやうにおもつたんです。」

 あかししろく、ちら〳〵とまどながれた。

白坂しらさかだ、白坂しらさかだ。」

ちや外套氏ぐわいたうしつた。……向直むきなほつてくちけたが、わらひもしないで落着おちついたかほして、

汽車きしやは、豊原とよはら此処こゝくですで……今度こんどやうや白河しらかはです。」

うもおはづかしい……きつねつままれましたやうです。」

「いや、汽車きしやなか大丈夫だいぢやうぶ──所謂いはゆる白河夜船しらかはよふねですな。」

その俯向うつむいたが、

「──何方どちらまで。」

「はあ、北海道ほくかいだうへは始終しじう往復わうふくをするですが、今度こんど樺太からふとまでくですて。」

「それは、うも御遠方ごゑんぱう……」

 かれもちふるしたかばんよ。手摺てずれもやが一めんに、しみかた樺太からふとうかぶ。汽車きしや白河しらかはいたのであつた。



牛乳ぎうにう牛乳ぎうにう──牛乳ぎうにうはないのか。──夜中よなかると無精ぶしやうをしをるな。」

 ちや外套氏ぐわいたうしは、ぽく〳〵とつて、ガタンとどあひらいてた。

 まどけると、こほりそゝぐばかり、さつあめつめたい。あだかすみいたやうなプラツトホームは、ざあ〳〵と、さながらみづながれるやうで、がく〳〵こう〳〵とかはづこゑが、まちも、やまも、も一斉に波打なみうごとく、ふけの暗中やみ鳴拡なきひろがる。こゑくもまでくやうであつた。

 ト、すぐうらえて、雨脚あまあし其処そこへ、どう〳〵とつよちて、にごつたみづがほのしろい。停車場ステーシヨンの一ぱうはしつて、構内こうないはづれのところに、番小屋ばんごやをからくりでせるやうな硝子窓がらすまど小店こみせがあつて、ふう〳〵しろ湯気ゆげまど吹出ふきだしては、ともしびうすく、ぼた〳〵とのきあめしづくたれてはまたえる。と湯気ゆげなかに、ビール、正宗まさむねびんの、たなひたならんだのが、むら〳〵とえたり、えたりする。……横手よこて油障子あぶらしやうじに、御酒おんさけ蕎麦そば饂飩うどんまれた……

 わか駅員えきゐん二人ふたり真黒まつくろかたちで、店前みせさきつたのが、かくれする湯気ゆげなぶるやうに、湯気ゆげがまた調戯からかふやうに、二人ふたり互違たがひちがひに、覗込のぞきこむだり、むねひらいたり、かほそむけたり、あご突出つきだしたりすると、それ、湯気ゆげつたりふさつたり、ぼたんかゝつたり、みゝいたり、はないたりする。……たびに、銀杏返いてふがへしくろあたまが、縦横たてよこはげしくれて、まんまるかほのふら〳〵とせはしくまはるのが、おほき影法師かげばうしつて、障子しやうじうつる……

 で、えきたゞみづなかのやうである。あめつめたながれてりしきる。

 駅員えきゐん一人ひとりは、帽子ばうしとゝもに、くろ頸窪ぼんのくぼばかりだが、むかふにて、此方こつち横顔よこがほせたはうは、衣兜かくし両手りやうてれたなり、ほそめ、くちけた、こゑはしないで、あゝ、わらつてるとおもふのが、ものしづかで、沁々しみ〴〵さびしい。

 一人ひとりが、高足たかあしつて、んで、すましてプラツトホームを横状よこざま歩行出あるきだすと、いまわらつたのが掻込かいこむやうにむねどんぶりつた。湯気ゆげがふつとわかれて、饂飩うどんがする〳〵とはしびる。

 肩越かたごしに、のへりを、ゆき装上もりあがるやうに、しづくさへしと〳〵と……とき判然はつきりえたのは、きむらがつた真白まつしろはなである。

 あめさそはれてかげしろし、かはづ饂鈍うどん駅員えきゐんくつしたにもく。

 こゑが、こゑ

「かあ、かあ、

しらあ。

かあ、かあ、

へ、かへ、

うどんへ、へ。

しらあ、あ。」とく。

 あゝ風情ふぜいとも、甘味おいしさうとも──その乗出のりだして、銀杏返ゐてふがへし影法師かげばふし一寸ちよつとしづまつたのをばうとした。

 順礼じゆんれいがとぼ〳〵と一人ひとりた。

 うすの、かじかんだお盥結たらひむすびで、えり手拭てぬぐひいてる、……きたな笈摺おひずりばかりをにして、白木綿しろもめん脚絆きやはん褄端折つまばしよりして、草鞋穿わらぢばきなのが、ずつと退いて、トあとびしやりをした駅員えきゐんのあとへ、しよんぼりとつて、饂飩うどんかほ突込つきこむだ。──青膨あをぶくれの、ひたひ抜上ぬきあがつたのをると、南無なむぱう眉毛まゆげがない、……はまだ仔細しさいない。が、小鼻こばな両傍りやうわきからあごへかけて、くちのまはりを、ぐしやりと輪取わどつて、かさだか、火傷やけどだか、赤爛あかたゞれにべつたりとたゞれてた。

 くちへ、──たちまちがつちりとおとのするまで、どんぶりてると、したなめずりをした前歯まへばが、あなけて、上下うへしたおはぐろのはげまだら。……

 湯気ゆげゆすつて、かたもぶる〳〵とふるへて掻食かつくふ。

「あ。」

 あゝ、あのどんぶり可恐おそろしい。

 無論むろんこんなことは、めつたにあるまい。それに、げつそりするまではらく。

 白河しらかはあめふけに、鳴立なきたつてかはづる、はなかげへた、うまさうな饂飩うどんうもやめられない。

あらつてさへくれゝばいのだが、さしあたり……うだ、此方こちら容器うつはつてはう。」

 其処そこで、バスケツトをけた。

 なかいたやうな……藤紫ふじむらさきに、浅黄あさぎ群青ぐんじやうで、小菊こぎく撫子なでしこやさしくめた友染いうぜんふくろいて、ぎんなべを、そのはきら〳〵とつてた。

 ると、よこざまにさつかぜつた。

 るたけ順礼じゆんれいとほくよけて、──人気配ひとけはひうしろ振向ふりむけた、銀杏返ゐてふがへし影法師かげばふしについて、横障子よこしやうじうらまはつた。みせうら行抜ゆきぬけである。

 外套ぐわいたういでた──背中せなかへ、あめも、はなも、はら〳〵とかゝつた。

 たゝきへしろつてる。

饂飩うどんひとつ。」

しながら、ふと猶予ためらつたのは、ひとつ、自分じぶんほかに、やはらかく持添もちそへてるやうだつたからである。──いやひとそでのしのばるゝ友染いうぜんふくろさへ、汽車きしやなかあづけてたのに──

これへおくれ。」

 銀杏返ゐてうがへしあかがほで、白粉おしろいくしてた。

 駅員えきゐんえなかつた。順礼じゆんれいのお盥髪たらひがみさへ、此方こつちそむき、やうしろをせて、びしや〳〵とところを──(なくともいのに)にすると、あだかあぶらさしがうつせにくろがねそこのぞく、かんてらのうへへ、ぼやりとかげしづめて、おほきねずみのやうにつてえた。

 駅員えきゐんくろく、すら〳〵と、あめしづく彼方此方あつちこつち



 にはかぞうるほどの乗客じようかくもなさゝうな、あまさびしさに、──なつ我家わがや戸外おもてからのぞくやうに──上下あとさき見渡みわたすと、なりの寄席よせほどにむら〳〵とへやも、さあ、ふたつぐらゐはあつたらう。……

 そのとなりなるくるまは、づゝとながとほつたあをへやで、人数にんず其処そこすくない。が、しかし二十にんぐらゐはつてた。……たゞそれも、廻燈籠まはりどうろえて、あめやぶれて、寂然しんしづまつたかげぎない。

 左右さいう見定みさだめて、なべ片手かたてらうとすると、青森行あをもりゆき──二等室とうしつと、れいあをしろいたふだほかに、踏壇ふみだん附着くつゝいたわきに、一まい思懸おもひがけない真新まあたらし木札きふだかゝつてる……

臨時運転特別車りんじうんてんとくべつしや

たゞ試用しようくわいかぎり。

「おや〳〵……」

 その一寸ちよつと猶予ためらつた。

 成程なるほどきにいたうへにも、寝起ねおきにこんな自由じいうなのはめづらしいとおもつた。せき片側かたがはへ十五ぐらゐ一杯いつぱいしきつた、たゞ両側りやうがはつてて、ながらだと楽々らく〳〵ひぢけられる。脇息けふそくさまがある。シイトの薄萠黄うすもえぎの──もつとふるぼけてはたが──天鵝絨びらうどしきりを、コチンとまどげると、紳士しんし作法さはふにありなしは別問題べつもんだいだが、いゝ頃合ころあひまくらる。

「まてよ……」

 衣絵きぬゑさんが此辺このあたり旅行たびしたときくるまふのを、はなし次手つひでいたのが──寸分すんぶんちがはぬ的切てつきりこれだ……

てよ。」

 無論むろん婿むこがねと一所いつしよで、それは一等室とうしつはあつたかもれない。が、乗心のりごゝろ模様もやうも、色合いろあひも、いまおもふのとまつたおなじである。

「──臨時運転特別車りんじうんてんとくべつしやたゞ試用しよう──一くわいかぎり……」

と二ぎやうもうみながら、つひ、ぎんなべ片袖かたそでおほふてはいつた。

 饂飩うどんかばつたのではない。

 せきくと、そでからつたか、あのえだからこぼれたか、なべふたに、さつはなかゝつてて、華奢きやしやほそしべが、したのぬくもりに、う、ゆきけるやうなうすいきそよがせる。

 ゆきよりしろく、透通すきとほむねに、すや〳〵といきいた、はいなやむだ美女たをやめ臨終いまはさまが、歴々あり〳〵と、あはれ、くるしいむなさきの、ゑりみだれたのさへしのばるゝではないか。

 はつとしたくと、はづみでしろ花片はなびらは、ぱらりと、藤色ふぢいろ友染いうぜんにこぼれたが、こぼれたうへへ、そのてゝふたかたむけた。

 ふたのほのあゝたかいのに、ひやりとした。

 けてようとするなべうへへ、すくなくとも花片はなびらけなかつたからである。

 くと、ちや外套氏ぐわいたうしかたちもない。ドキリとした。

 が、れい大鞄おほかばんが、のまゝ網棚あみだなにふん反返ぞりがへつて、したしなびた空気枕くうきまくら仰向あふむいたのに、牛乳ぎうにうびんしろくび寄添よりそつて、なんと……、添寝そひねをしようかとするかたちる。

 徳利とつくりけた遊女おいらん容子ようすだが、まどへ、べにいたら、おそらく露西亜ろしや辻占つぢうらであらう。

 では、汽車きしやなか一人ひとりつくばつて、真夜中まよなかあめしたに、なべ饂飩うどんかたちなんだ? ……

 説明せつめい形容けいようなにもない──燐寸まつちるといなや、アルコールにをつけるのであるから、言句ごんくもない。……ぱつしゆそこみなぎると、ぎんおほふて、三きやくなゝつにわかれて、あをく、たちまち、薄紫うすむらさきに、あゐげてかるあふつた。

 ドカリ──洗面所せんめんじよかたなる、どあつた、茶色ちやいろかほが、ひよいと立留たちどまつてぐいと見込みこむと、ちや外套ぐわいたうう、かたはすつたとおもふと、……くだん牛乳ぎうにうびん引攫ひつさらふがはやいか──こゑけるなにもなかつた──茶革ちやがはくつで、どか〳〵とりてく。

 跫音きようおんみだれて、スツ〳〵とれつゝ、ひゞきつゝ、駅員えきゐん驚破すわことありげなかほふたつ、帽子ぼうしかたひさしめて、そのまどをむづかしく覗込のぞきこむだ。

 二人ふたり苦笑くせうした。

 かほ両方りやうはうへ、背中合せなかあはせにわかれたとおもふと、ふゑつた。

 その惘然まうぜんとした。

「あゝ、わかつた。」

 きつねうまにもらないで、那須野なすのはらを二本松ほんまつ飛抜とびぬけたあやしいのが、車内しやない焼酎火せうちうびもやすのである。

 これが、すくなからずちや外套氏ぐわいたうしおどろかして、かれをして駅員えきゐんきふげしめたものに相違さうゐない。

 とおもひながら、四辺あたりた。

 みまはしたがたれない。

「あゝ……心細こゝろぼそいなあ──」

 が、そのうちはまだよかつた、……汽車きしやとともにけてき、汽車きしやとゝもにしづむのに、少時しばらくすると、また洗面所せんめんじよどあから、ひよいとかほしてのぞいた列車れつしやボーイが、やがて、すた〳〵とはひつてると、たなながめ、せきうかゞひ、大鞄おほかばんと、空気枕くうきまくらを、手際てぎはよくつてかついで、アルコールのあをを、くつ半輪はんわまはつて、くとて──

御病気ごびやうきですか。」

 その大真面目おほまじめで、

「いゝえ。」

「はあ。」

くびをねぢつて、こしをふりつゝつた。

 これでまた、汽車きしや半分はんぶんいなしつ一つわればかりをのこして、樺太からふとまで引攫ひつさらはれるやうながしたのである。

狂人きちがひだとおもふんだ。」

 げそりと、むねをけづられたやうにおもつた。

勝手かつてにしろ。」

 自棄やけげるあしも、しかし、すぼまつて、そのさむいよりも悚気ぞつとした。

 しかしながら……これればくるはう。んだやうな夜気やきのなかに、つて、ひとりきて、はなをかけた友染いうぜんは、被衣かつぎをもるゝそでて、ひら〳〵とあをく、むらさきに、芍薬しやくやくか、牡丹ぼたんか、つゝまれたしろがねなべも、チチとくのがこほりけるやうにひゞいて、ふきこぼるゝあははなみだした。

底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店

   2004(平成16)年423日第1刷発行

底本の親本:「新柳集」春陽堂

   1922(大正11)年11

初出:「国本 第一巻第七号」国本社

   1921(大正10)年71

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※表題は底本では、「銀鼎ぎんかなえ」となっています。

※初出時の署名は「泉鏡花」です。

※「銀杏返」に対するルビの「いてふがへし」と「ゐてふがへし」と「ゐてうがへし」の混在は、底本通りです。

※「硝子窓」に対するルビの「ガラスまど」と「がらすまど」の混在は、底本通りです。

※「襟」に対するルビの「えり」と「ゑり」の混在は、底本通りです。

※「入」に対するルビの「はひ」と「はい」の混在は、底本通りです。

※「帽子」に対するルビの「ぼうし」と「ばうし」の混在は、底本通りです。

※「」と「」の混在は、底本通りです。

入力:日根敏晶

校正:門田裕志

2016年92日作成

青空文庫作成ファイル:

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