銀鼎
泉鏡太郎
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汽車は寂しかつた。
わが友なる──園が、自から私に話した──其のお話をするのに、念のため時間表を繰つて見ると、奥州白河に着いたのは夜の十二時二十四分で──
上野を立つたのが六時半である。
五月の上旬……とは言ふが、まだ梅雨には入らない。けれども、ともすると卯の花くだしと称うる長雨の降る頃を、分けて其年は陽気が不順で、毎日じめ〳〵と雨が続いた。然も其の日は、午前の中、爪皮の高足駄、外套、雫の垂る蛇目傘、聞くも濡々としたありさまで、(まだ四十には間があるのに、壮くして世を辞した)香川と云ふ或素封家の婿であつた、此も一人の友人の、谷中天王寺に於ける其の葬を送つたのである。
園は予定のかへられない都合があつた。で、矢張り当日、志した奥州路に旅するのに、一旦引返して、はきものを替へて、洋杖と、唯一つバスケツトを持つて出直したのであるが、俥で行く途中も、袖はしめやかで、上野へ着いた時も、轅棒をトンと下ろされても、あの東京の式台へ低い下駄では出られない。泥濘と言へば、まるで沼で、構内まで、どろ〳〵と流込むで、其処等一面の群集も薄暗く皆雨に悄れて居た。
「出口の方へ着けて見ませう。」
「然う、何うぞ然うしておくれ。」
さてやがて乗込むのに、硝子窓を横目で見ながら、例のぞろ〳〵と押揉むで行くのが、平常ほどは誰も元気がなさゝうで、従つて然まで混雑もしない。列車は、おやと思ふほど何処までも長々と列なつたが、此は後半部が桐生行に当てられたものであつた。
室はがらりと透いて、それでも七八人は乗組んだらう。女気なし、縦にも横にも自由に居られる。
と思ふうちに、最う茶の外套を着たまゝ、ごろりと仰向けに成つた旅客があつた。
汽車は志す人をのせて、陸奥をさして下り行く──早や暮れかゝる日暮里のあたり、森の下闇に、遅桜の散るかと見たのは、夕靄の空が葉に刻まれてちら〳〵と映るのであつた。
田端で停車した時、園は立上つて、其の夕靄にぽつと包まれた、雨の中なる町の方に向つて、一寸会釈した。
更めてくどくは言ふまい。其処には、今日告別式を済ました香川の家がある。と同時に一昨年の冬、衣絵さん、婿君のために若奥様であつた、美しい夫人がはかなくなつて居る……新仏は、夫人の三年目に、おなじ肺結核で死去したのであるが……
園は、実は其の人たちの、まだ結婚しない以前から衣絵さんを知つて居た……と言ふよりも知られて居たと言つて可からう。
園は従兄弟に、幸流の小鼓打がある。其の役者を通じてゞある。が、興行の折の桟敷、又は従兄弟の住居で、顔も合はせれば、ものを言ひ交はす、時々と言ふほどでもないが、ともに田端の家を訪れた事もあつて、人目に着くよりは親しかつた……
親しかつたうへに、お嬢さん……後の香川夫人は、園のつくる歌の愛人であつた。園は其の作家なのである。
「行つて参りますよ。」
と、其処で心で言つた。
汽車が出る。
がた〳〵と揺れるので、よろけながら腰を据ゑた。
恁の如く、がらあきの席であるから、下へも置かず、席に取つた──旅に馴れないしるしには、真新いのが見すぼらしいバスケツトの中に、──お嬢さん衣絵の頃の、彼に(おくりもの)が秘めてある。
今は紀念と成つた。
友染の切に、白羽二重の裏をかさねて、紫の紐で口を縷つた、衣絵さんが手縫の服紗袋に包んで、園に贈つた、白く輝く小鍋である。
彼は銀の鼎と言ふ……
組込の三脚に乗る錫の鑵に、結晶した酒精の詰まつたのが添つて、此は普通汽車中で湯を沸かす器である。
道中──旅行の憂慮は、むかしから水がはりだと言ふ。……それを、人が聞くと可笑いほど気にするのであるから、行先々の停車場で売る、お茶は沸いて居る、と言つても安心しない。要心を通越した臆病な処へ、渇くのは空腹にまさる切なさで、一つは其がためにもつい出億劫がるのが癖で。
「……はる〴〵奥の細道とさへ言ふ。奥州路などは分けて水が悪いに違ひない。ものを較べるのは恐縮だけれど、むかし西行でも芭蕉でも、皆彼処では腹を疼めた──惟ふに、小児の時から武者絵では誰もお馴染の、八幡太郎義家が、龍頭の兜、緋縅の鎧で、奥州合戦の時、弓杖で炎天の火を吐く巌を裂いて、玉なす清水をほとばしらせて、渇に喘ぐ一軍を救つたと言ふのは、蓋し名将の事だから、今の所謂軍事衛生を心得て、悪水を禁じた反対の意味に相違ない。」
と、今度の旅の前にも……私たちに真面目で言つた。
何を、馬鹿な。
と平生から嘲るものは嘲るが、心優しい衣絵さんは、それでも気の毒がつて、存分に沸かして飲むやうにと言つた厚情なのであつた。
機会もなくつて、それから久しぶりの旅に、はじめてバスケツトに納めたのである。
「さあ、来い、川も濁れ、水も淀め。」
と何か、美い魔法で、水を澄ませて従へさへ出来さうに、銀鍋の何となくバスケツトの裡に透く光を、友染のつゝみにうけて、袖に月影を映すかと思ふ、それも、思へばしめやかであつた。
窓の外は雨が降る、降る。
雪駄、傘、下駄、足駄。
幸手、栗橋、古河、間々田……の昔の語呂合を思ひ出す。
武左な客には芸しやがこまる。
芝の浦にも名所がござる。
ゐなか侍茶店にあぐら。
死なざやむまい三味線枕。
「鰻の丼は売切です。」
「ぢやあ弁当だ」
小山は夜で暗かつた。
嘗て衣絵さんが、婿君とこゝを通つて、鰻を試みたと言ふのを聞いて居たので、園は、自分好きではないが、御飯だけもと思つたのに、最う其は売切れた……
「そら行け。」
どんと後で突く、
「がつたん〳〵。」
と挨拶する。こゝで列車が半分づゝに胴中から分れたのである。
又づしんと響いた。
乗つて来るものは一人もなし、下りた客も居なかつたが、園は急に又寂い気がした。
行先は尚ほ暗い。
開くでもなしに、弁当を熟々視ると、彼処の、あの上包に描いた、ばら〳〵蘆に澪標、小舟の舳にかんてらを灯して、頬被したお爺の漁る状を、ぼやりと一絵具淡く刷いて描いたのが、其のまゝ窓の外の景色に見える。
雨は小留もない。
た〻゛渺々として果もない暗夜の裡に、雨水の薄白いのが、鰻の腹のやうに畝つて、淀んだ静な波が、どろ〳〵と来て線路を浸して居さうにさへ思はれる。
ほたり〳〵と落ちて、ずるりと硝子窓に流るゝ雫は、鰌の覗く気勢である。
バスケツトを引揚げて、底へ一寸手を当てゝ見た。雨気が浸通つて、友染が濡れもしさうだつたからである。
そんな事は決してない。
が、小人数とは言へ、他に人がなかつたら、此の友染の袖をのせて、唯二人で真暗の水に漾ふ思がしたらう。
宇都宮へ着いてさへ、船に乗つた心地がした。
改札口には、雨に灰色した薄ぼやけた旅客の形が、もや〳〵と押重つたかと思ふと、宿引の手ン手の提灯に黒く成つて、停車場前の広場に乱れて、筋を流す灯の中へ、しよぼ〳〵と皆消えて行く。……其の中で、山高が突立ち、背広が肩を張つたのは、皆同室の客。で、こゝで園と最う一人──上野を出ると其れ切寝たまゝの茶の外套氏ばかりを残して、尽く下車したのである。
まことに寂い汽車であつた。
やがて大那須野の原の暗を、沈々として深く且つ大な穴へ沈むが如く過ぎて行く。
野川で鰌を突くのであらう。何処かで、かんてらの火が一つ、ぽつと小さく赤かつた。火は水に影を重ねたが、八重撫子の風情はない。……一つ家の鬼が通るらしい。
黒磯──
左斜の其の茶の外套氏の鼾にも黒気が立つた。
燈も暗い。
野も山も、此の果しなき雨夜の中へ、ふと窓を開けて、此の銀の鍋を翳したら、きらりと半輪の月と成つて二三尺照らすであらう。……実際、ふと那様な気がしたのであつた。が、其は衣絵さんが生きて居て、翳すのに、其の袖口がほんのり燃えて、白い手の艶が添はねば不可い……
自分が遣ると狐の尻尾だ。
と独で苦笑する。其のうちに、何故か、バスケツトを開けて、鍋を出して、窓へ衝と照らして見たくてならない。指さきがむづ痒い。
こんな時は魔が唆かして、狂人じみた業をさせて、此を奪はうとするのかも知れぬ。
園は悚然として、道祖神を心に念じた。
真個、この暫時の間は稀有であつた。
郡山まで行くと……宵がへりがして、汽車もパツと明く成つた。思見る、磐梯山の煙は、雲を染めて、暗は尚ほ蓬々しけれど、大なる猪苗代の湖に映つて、遠く若松の都が窺はれて、其の底に、東山温泉の媚いた窓々の燈の紅を流すのが遥々と覗かれる。
園が曾遊の地であつた。
バスケツトの中も何となく賑かである。
と次第に遠い里へ、祭礼に誘はれるやうな気がして、少しうと〳〵として、二本松と聞いては、其処の並木を、飛脚が通つて居さうな夢心地に成つた。
茶の外套氏が大欠伸をして起きた。口髯も茶色をした、日に焼けた人物で、ズボンを踏み開けて、どつかと居直つて、
「あゝゝ、寝たぞ。」
と又欠伸をして、
「何の辺まで来たかなあ。」
殆ど独言だつたが、しかし言掛けられたやうでもあるから、
「失礼──今しがた二本松を越したやうです。」
と園が言つた。
「や、それは又馬鹿に早いですな。」
と驚いた顔をして、ちよつきをがつくりと前屈みに、肱を蟹の手に鯱子張らせて、金時計を撓めながら、
「……十一時十五分。」
と鼻筋をしかめて、園を真正面に見て耳に当てた。
「留つては居らんなあ。はてなあ、此の汽車は十二時二十四分に、漸く白河へ着きをるですがな。」
と硝子に吸着いたやうに窓を覗く。
園も、一驚を吃して時計を見た。針は相違なく十一時の其処をさして、汽車の馳せつゝあるまゝにセコンドを刻むで居る。
バスケツトを圧へて、吻と息して、
「何うも済みません、少し、うと〳〵しましたつけ。うつかり夢でも視たやうで、──郡山までは一度行つた事があるものですから……」
園も窓を覗きながら、
「しかし、何うも済みません、第一見た事もありませんのに、奥州二本松と云ふのは、昔話や何かで耳について居たものですから、夢現に最う其処を通つたやうに思つたんです。」
燈が白く、ちら〳〵と窓を流れた。
「白坂だ、白坂だ。」
と茶の外套氏が言つた。……向直つて口を開けたが、笑ひもしないで落着いた顔して、
「此の汽車は、豊原と此処を抜くですで……今度が漸く白河です。」
「何うもお恥かしい……狐に魅まれましたやうです。」
「いや、汽車の中は大丈夫──所謂白河夜船ですな。」
園は俯向いたが、
「──何方まで。」
「はあ、北海道へは始終往復をするですが、今度は樺太まで行くですて。」
「それは、何うも御遠方……」
彼の持ふるした鞄を見よ。手摺の靄が一面に、浸の形が樺太の図に浮ぶ。汽車は白河へ着いたのであつた。
「牛乳、牛乳──牛乳はないのか。──夜中に成ると無精をしをるな。」
茶の外套氏は、ぽく〳〵と立つて、ガタンと扉を開いて出た。
窓を開けると、氷を目に注ぐばかり、颯と雨が冷い。恰も墨を敷いたやうなプラツトホームは、ざあ〳〵と、さながら水が流れるやうで、がく〳〵こう〳〵と鳴く蛙の声が、町も、山も、田も一斉に波打つ如く、夜ふけの暗中に鳴拡がる。声は雲まで敷くやうであつた。
ト、すぐ裏に田が見えて、雨脚も其処へ、どう〳〵と強く落ちて、濁つた水がほの白い。停車場の一方の端を取つて、構内の出はづれの処に、火の番小屋をからくりで見せるやうな硝子窓の小店があつて、ふう〳〵白い湯気が其の窓へ吹出しては、燈に淡く濃く、ぼた〳〵と軒を打つ雨の雫に打たれては又消える。と湯気の中に、ビール、正宗の瓶の、棚に直と並んだのが、むら〳〵と見えたり、消えたりする。……横手の油障子に、御酒、蕎麦、饂飩と読まれた……
若い駅員が二人、真黒な形で、店前に立つたのが、見え隠れする湯気を嬲るやうに、湯気がまた調戯ふやうに、二人互違ひに、覗込むだり、胸を衝と開いたり、顔を背けたり、頤を突出したりすると、それ、湯気は立つたり伏つたり、釦に掛つたり、耳を巻いたり、鼻を吹いたりする。……其の毎に、銀杏返の黒い頭が、縦横に激しく振れて、まん円い顔のふら〳〵と忙しく廻るのが、大な影法師に成つて、障子に映る……
で、駅は唯水の中のやうである。雨は冷く流れて降りしきる。
駅員の一人は、帽子とゝもに、黒い頸窪ばかりだが、向ふに居て、此方に横顔を見せた方は、衣兜に両手を入れたなり、目を細め、口を開けた、声はしないで、あゝ、笑つてると思ふのが、もの静かで、且つ沁々寂しい。
其の一人が、高足を打つて、踏んで、澄してプラツトホームを横状に歩行出すと、いま笑つたのが掻込むやうに胸へ丼を取つた。湯気がふつと分れて、饂飩がする〳〵と箸で伸びる。
其の肩越に、田のへりを、雪が装上るやうに、且つ雫さへしと〳〵と……此の時判然と見えたのは、咲きむらがつた真白な卯の花である。
雨に誘はれて影も白し、蛙は其の饂鈍食ふ駅員の靴の下にも鳴く。
声が、声が
「かあ、かあ、
白あ河あ。
かあ、かあ、
買へ、かへ、
うどん買へ、買へ。
しらあ、河あ。」と鳴く。
あゝ風情とも、甘味さうとも──園は乗出して、銀杏返の影法師の一寸静つたのを呼ばうとした。
順礼がとぼ〳〵と一人出た。
薄い髪の、かじかんだお盥結びで、襟へ手拭を巻いて居る、……汚い笈摺ばかりを背にして、白木綿の脚絆、褄端折して、草鞋穿なのが、ずつと身を退いて、トあとびしやりをした駅員のあとへ、しよんぼりと立つて、饂飩へ顔を突込むだ。──青膨れの、額の抜上つたのを視ると、南無三宝、眉毛がない、……はまだ仔細ない。が、小鼻の両傍から頤へかけて、口のまはりを、ぐしやりと輪取つて、瘡だか、火傷だか、赤爛れにべつたりと爛れて居た。
其の口へ、──忽ちがつちりと音のするまで、丼を当てると、舌なめずりをした前歯が、穴に抜けて、上下おはぐろの兀まだら。……
湯気を揺つて、肩も手もぶる〳〵と震へて掻食ふ。
「あ。」
あゝ、あの丼は可恐しい。
無論こんな事は、めつたにあるまい。それに、げつそりするまで腹も空く。
白河の雨の夜ふけに、鳴立つて蛙が売る、卯の花の影を添へた、うまさうな饂飩は何うもやめられない。
「洗つてさへくれゝば可いのだが、さし当り……然うだ、此方の容器を持つて買はう。」
其処で、バスケツトを開けた。
中に咲いたやうな……藤紫に、浅黄と群青で、小菊、撫子を優しく染めた友染の袋を解いて、銀の鍋を、園はきら〳〵と取つて出た。
出ると、横ざまに颯と風が添つた。
成るたけ順礼を遠くよけて、──最う人気配に後へ振向けた、銀杏返の影法師について、横障子を裏へ廻つた。店は裏へ行抜けである。
外套は脱いで居た──背中へ、雨も、卯の花も、はら〳〵とかゝつた。
たゝきへ白く散つて居る。
「饂飩を一つ。」
と出しながら、ふと猶予つたのは、手が一つ、自分の他に、柔かく持添へて居るやうだつたからである。──否、其の人の袖のしのばるゝ友染の袋さへ、汽車の中に預けて来たのに──
「此へおくれ。」
銀杏返は赤ら顔で、白粉を濃くして居た。
駅員は最う見えなかつた。其の順礼のお盥髪さへ、此方に背き、早やうしろを見せて、びしや〳〵と行く処を──(見なくとも可いのに)気にすると、恰も油さしがうつ伏せに鉄の底を覗く、かんてらの火の上へ、ぼやりと影を沈めて、大な鼠のやうに乗つて消えた。
駅員が黒く、すら〳〵と、雨の雫の彼方此方。
他には数うるほどの乗客もなさゝうな、余り寂しさに、──夏の夜の我家を戸外から覗くやうに──恁う上下を見渡すと、可なりの寄席ほどにむら〳〵と込む室も、さあ、二つぐらゐはあつたらう。……
園の隣なる車は、づゝと長く通つた青い室で、人数は其処も少ない。が、しかし二十人ぐらゐは乗つて居た。……但し其も、廻燈籠の燈が消えて、雨に破れて、寂然と静まつた影に過ぎない。
左右を見定めて、鍋を片手に乗らうとすると、青森行──二等室と、例の青に白く抜いた札の他に、踏壇に附着いたわきに、一枚思懸けない真新い木札が掛つて居る……
臨時運転特別車
但し試用一回限り。
「おや〳〵……」
園は一寸猶予つた。
成程、空きに空いた上にも、寝起にこんな自由なのは珍らしいと思つた。席を片側へ十五ぐらゐ一杯に劃つた、たゞ両側に成つて居て、居ながらだと楽々と肘が掛けられる。脇息と言ふ態がある。シイトの薄萠黄の──最も古ぼけては居たが──天鵝絨の劃を、コチンと窓へ上げると、紳士の作法にありなしは別問題だが、いゝ頃合の枕に成る。
「まてよ……」
衣絵さんが此辺を旅行した時の車と言ふのを、話の次手に聞いたのが──寸分違はぬ的切此だ……
「待てよ。」
無論、婿がねと一所で、其は一等室はあつたかも知れない。が、乗心の模様も、色合も、いま見て思ふのと全く同じである。
「──臨時運転特別車。但し試用──一回限り……」
と二行に最一度読みながら、つひ、銀の鍋を片袖で覆ふて入つた。
饂飩を庇つたのではない。
唯、席に着くと、袖から散つたか、あの枝からこぼれたか、鍋の蓋に、颯と卯の花が掛つて居て、華奢な細い蕋が、下のぬくもりに、恁う、雪が溶けるやうな薄い息を戦がせる。
其の雪より白く、透通る胸に、すや〳〵と息を引いた、肺を病むだ美女の臨終の状が、歴々と、あはれ、苦しいむなさきの、襟の乱れたのさへ偲ばるゝではないか。
はつと下に置くと、はづみで白い花片は、ぱらりと、藤色の地の友染にこぼれたが、こぼれた上へ、園は尚ほ密と手を当てゝ蓋を傾けた。
蓋のほの暖いのに、ひやりとした。
火に掛けて煮ようとする鍋の上へ、少くとも其の花片は置けなかつたからである。
気が着くと、茶の外套氏は形もない。ドキリとした。
が、例の大鞄が、其のまゝ網棚にふん反返つて、下に皺びた空気枕が仰向いたのに、牛乳の壜が白い首で寄添つて、何と……、添寝をしようかとする形で居る。
徳利が化けた遊女と云ふ容子だが、其の窓へ、紅を刷いたら、恐らく露西亜の辻占であらう。
では、汽車の中に一人踞つて、真夜中の雨の下に、鍋で饂飩を煮る形は何だ? ……
説明も形容も何もない──燐寸を摺ると否や、アルコールに火をつけるのであるから、言句もない。……発と朱が底へ漲ると、銀を蔽ふて、三脚の火が七つに分れて、青く、忽ち、薄紫に、藍を投げて軽く煽つた。
ドカリ──洗面所の方なる、扉へ立つた、茶色な顔が、ひよいと立留つてぐいと見込むと、茶の外套で恁う、肩を斜に寄つたと思ふと、……件の牛乳の壜を引攫ふが早いか──声を掛ける間も何もなかつた──茶革の靴で、どか〳〵と降りて行く。
跫音乱れて、スツ〳〵と擦れつゝ、響きつゝ、駅員の驚破事ありげな顔が二つ、帽子の堅い廂を籠めて、園の居る窓をむづかしく覗込むだ。
其の二人が苦笑した。
顔が両方へ、背中合せに分れたと思ふと、笛が鳴つた。
園は惘然とした。
「あゝ、分つた。」
狐が馬にも乗らないで、那須野ヶ原を二本松へ飛抜けた怪しいのが、車内で焼酎火を燃すのである。
此が、少なからず茶の外套氏を驚かして、渠をして駅員に急を告げしめたものに相違ない。
と思ひながら、四辺を見た。
眴したが誰も居ない。
「あゝ……心細いなあ──」
が、その中はまだよかつた、……汽車は夜とともに更けて行き、夜は汽車とゝもに沈むのに、少時すると、また洗面所の扉から、ひよいと顔を出して覗いた列車ボーイが、やがて、すた〳〵と入つて来ると、棚を視め、席を窺ひ、大鞄と、空気枕を、手際よく取つて担いで、アルコールの青い火を、靴で半輪に廻つて、出て行くとて──
「御病気ですか。」
園は大真面目で、
「いゝえ。」
「はあ。」
と首をねぢつて、腰をふりつゝ去つた。
此でまた、汽車半分、否、室一つ我ばかりを残して、樺太まで引攫はれるやうな気がしたのである。
「狂人だと思ふんだ。」
げそりと、胸をけづられたやうに思つた。
「勝手にしろ。」
自棄に投げる足も、しかし、すぼまつて、園は寒いよりも悚気とした。
しかしながら……此を見れば気も狂はう。死んだやうな夜気のなかに、凝つて、ひとり活きて、卯の花をかけた友染は、被衣をもるゝ袖に似て、ひら〳〵と青く、其の紫に、芍薬か、牡丹か、包まれた銀の鍋も、チチと沸くのが氷の裂けるやうに響いて、ふきこぼるゝ泡は卯の花を乱した。
底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店
2004(平成16)年4月23日第1刷発行
底本の親本:「新柳集」春陽堂
1922(大正11)年1月1日
初出:「国本 第一巻第七号」国本社
1921(大正10)年7月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「銀鼎」となっています。
※初出時の署名は「泉鏡花」です。
※「銀杏返」に対するルビの「いてふがへし」と「ゐてふがへし」と「ゐてうがへし」の混在は、底本通りです。
※「硝子窓」に対するルビの「ガラスまど」と「がらすまど」の混在は、底本通りです。
※「襟」に対するルビの「えり」と「ゑり」の混在は、底本通りです。
※「入」に対するルビの「はひ」と「はい」の混在は、底本通りです。
※「帽子」に対するルビの「ぼうし」と「ばうし」の混在は、底本通りです。
※「灯」と「燈」の混在は、底本通りです。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年9月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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