子規と和歌
伊藤左千夫



 正岡君については、僕などあまりに親しかッたものですから、かえって簡単にちょっと批評するということ難かしいのです、そりゃ彼の人の偉いところやまた欠点も認めて居ないこともないのですが、どうも第三者の位置にあるよう、冷静な評論は出来ませんよ。

 僕も初めから正岡君とは手を握って居た訳ではないのです、むしろ反対の側にあったもので時には歌論などもやったものです、それが漸々ようようとその議論を聴き、技倆ぎりょうを認め、ついに崇敬することとなりこちらから降服したという姿です、それであるから始めから友人交際であった人達よりはその偉らさを感じたことが強かったようです、したがって崇敬の度が普通以上でしたろう、であるから僕の子規論などは往々人の意表にでて、世間からは故人にねいしもしくは故人をかついだものかのように受取られたことが多いのです。しかしながらかんおおうて名すなわち定まるで、いわゆる明治文壇における子規子の価値は、吾々の云々をまって知るを要せぬことになりました。

 今日新派といわるる人々と正岡君の和歌との関係ですか、僕の考えでは与謝野一派、竹柏園ちくはくえんの一流、その他尾上おのえ金子かねこなどの一流とすなわち今日のいわゆる新派とはほとんど関係がないと思います、第一趣味の根底が違ってますからね。

 どう違う? それは趣味上の問題ですから一言にして尽しがたいが、今日の新派の人々のなすところを見ると、歌を作くるの前にその作り出づべき題に対してまず注文を建てて居るように見えます、たとえば歌その物の価値ということを主なる目的とせないで、新しくなければいかんとか珍らしくなければつまらんとか、従来の物と是非ぜひ変っていねばいかんとか、また新思想ことに西洋思想などを加味せねばならぬかのように初からかんがえを立てておいて作って居らるるようです、むしろ詩というものの価値を、ただちにその新しい珍らしい従来に変った詩材もしくは新思想のそれに存するかのごとく考えて居らるるように見えます、かの人々の作物その物について観察するとたしかにそう見えます。

 ここがはなはだつかしい誤解しやすいところですから、よく注意を願います、吾々とてその新しい珍らしい変化とか新思想を毫末ごうまつも嫌うのではない、ただ詩その物の価値は思想や材料やのそれに存するのではなく、ある種の思想材料に作者の技能がくわわった作物の成功それに存するものと信じて居るのです、いかに珍らしき新しき詩的材料を捕え得ても、その成功のいかんは必ず作者その人の霊能に待たねばならないのです。

 ただ新しく珍らしく変ってさえ居ればただちに詩として面白いもののごとく思うは、詩というものの価値を根本に誤解して居るところからおこる誤りでしょう、新を好む人はただ新しければよいものと思い、古いを好む人は古ければすぐによく感ずる、これらは両方とも間違って居ます、新しいにもよいのも悪いのもあるごとく古いにもよいのも悪いのもあるでしょう、要するに詩作の価値は、新旧のいかん思想材料のいかん以外に多くの部分があるのである、着想がいくらよくとも図とりが何ほどよくともただそれだけにてはただちに良画とはいえないと同じである。

 今のいわゆる新派の人達と吾々とは以上の意味において根本的に相違して居るのです、今申上げたことはただちに正岡の言ではありませんが、僕の頭にある正岡はたしかにそう考えていたと信ずるのです。でこういうことをなおよく具体的に説明するとなると容易でないですから次にうつりますが、そういう風で正岡君のやり方は、何でもかまわないただ出来た歌が面白ければよい、いくら理屈は進歩的でも新思想でも変化して居っても面白くない歌は仕方がないさ、そんなものは文学でも詩でもないさ、というような調子で、有振ありふれたことであってもなくても西洋趣味など加味しようとせまいと一向頓着とんちゃくせられなかった、『古事記』などの詞が非常に面白いという間にも「ガラス」も「ランプ」も「ブリキ」も平気に歌に詠んで居られた。

 話がれますが、このろ『万葉集』が大変はやされますね、『万葉』は佐々木君も面白いという、鉄幹君も面白いという、しかし両君の面白いというのと吾々の面白いとするのとは、ほとんどその趣きを異にして居ると思うのです、どんなに違うか、さアこれもちょっと説明が六つかしい、『万葉』が好いとして取る点は、詞は蒼古そうこだとか、思想が自然だとか調子が雄渾ゆうこんだとか、中にはただ何となく上代の国ぶりを悦ぶ類であるが、こんなことでは真に『万葉』の趣味を解して居るものとは元とより言われない、吾人の『万葉』のえらいとするところは要するにその歌が生き生きして居る点にあるが、第一に作者の詩的感懐が高い、材料の観取が非常に広い、言語の駆使が自在である、使用の言語が非常に饒多じょうたである、今日の歌人の作物など感興の幼稚なる言語材料の狭隘きょうあいなるとても比較になるものではない、これらの諸点に一々実例を挙げていえば面白いがそれはここには出来ません、『万葉』の歌は死物でなくして活物だ、活物であればこそ今日我々が見ても陳腐と感じない訳ではないでしょうか、この点から見て僕は今日の新派諸子の作歌をはなはだハガユク思う一人です、どうもその歌が真でない、こしらえものの感じがしてならぬ、人工的であッて、天然流露の趣がない。

 尾上、金子、佐々木等の諸君の作物には今日のところ接近の見込みがありません、与謝野君ですか……与謝野君の玉と珍重する材料を僕はつまらぬ土塊つちくれをひねくって居るように見えてならないです、要するに新詩社一派は根本の一個所に誤解があるように僕には見えるです、晶子君などもッと考えればすぐ解りそうな間違を平気で、ッて居られるようだ、もしこの根本の誤解を反省せらるるの機会あらば、この派の人々とは吾々もある点まで歩調を一にする日があろうと思われます、これは例の鴎外宅歌会の折直接に与謝野君ほか出席の前で直言したことがあるです。

 これからまた正岡君に返ります、世間では歌における正岡君は未だ成功しないようにいうようですが、実際そうもいえるでしょう、何にしろ正岡君の歌をり出したのは、明治三十二年で、もっともその以前にもちょいちょい手を出したこともありますが、竹の里人と名乗なのりを揚げ正式に歌壇の城門に馬を進めたのは三十二年の春であります、三十五年にはもう故人となったのですから、その研究も自から足れりと許すの域に入ってなかったのは明らかです。しかしながら歌の正岡君を未だ成功せぬと見る眼をもって他の歌人を見たらどうでしょう、『万葉集』以後恐らく一人の成功した歌人はないでしょう。

 その頃ろ正岡君が歌に関する議論の変化ははげしいもので走馬灯のようでした、昨と今とは全然違うという調子で、議論主張は変るのが当然である、終始一貫などと詰らぬことだというて居られた。「歌よみに与ふる書」を発表した時代には俳句も短歌も要するに形式上の差であって内容にたっては同一のものと論じて居る、それでその頃の歌には、俳句趣味を和歌にも宿そうとした、な宿したのもあるようです、それがすぐ形式の差は内容の差を伴うべきものだとさけび俳調俳歌いとうべしと罵倒ばとうして仕舞われたのです、吾々もそう思うですなあ、同じく詩であっても、俳句は概括的に遣って退ける、和歌は局部局部を唄おうとする、それで俳句では一句で足るのが和歌では五首も費さなければならぬこともある、だが五首を一句に尽すから俳句が豪いでもなければ、一句を五首にしたから和歌が劣ってるのでもない、詩の価値なるものは全然かかる数学的関係を絶して居るのは元よりです。

 こんな風に正岡君は常に批評的立脚地を離れないで、どの方面に向っても必ず議論と終始して、その態度はいつも研究的に周到な用意をもって歩一歩と進んだ人 歌を遣るにも、始めはなるらん、けるらん、とかの領分から発足して、次第に一家の風調を成したようです、俳句方面にもこういう話があります、正岡君が虚子君や碧梧桐君に向って、

「お前方は月並月並というて大変恐怖こわがって居るがれなどは月並からやって来たのだから、もう月並になろうとしてもなれんので恐怖くも何んともない、月並を恐れるのは要するに月並がほんとうに解らんからだ」と一喝を与えたという話も聴いて居ります。

 正岡君などは全く天降あまくだりした神の子のような詩人ではなく、立派に地上から生れた詩人です。もちろん世には天才というものがあって生れながらにして知るというのもありましょうが、それはそれとして正岡君のごときは孔子のいわゆる下聞かぶんを恥じず下学かがくして上達すてきの人でごく低い程度から始めて、徐々に高処にじ、ついにその絶頂に達し、ひとみを四顧に放ち、一旦豁然かつぜんとして万象の帰趣を悟るというごとき、真に力ある大天才でなければ出来ぬ仕事と自分は信じて居ます、あアそうですか、まアようございましょう、これではだ僕の子規子評は序幕ですよ、……じゃはなはだ要領を得ませんがこれで。

〔『中央公論』「正岡子規論」明治四十年九月一日〕

底本:「子規選集 第十二巻 子規の思い出」増進会出版社

   2002(平成14)年115日初版第1刷発行

初出:「中央公論 第二十二卷第九號」

   1907(明治40)年91日発行

入力:高瀬竜一

校正:きりんの手紙

2018年930日作成

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