続先生を囲る話
中谷宇吉郎
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先生は書かれるものには、「とも考えられる」とか、「かも知れない」というような表現を始終用いておられるが、話をされる時には、特に少数の集りの場合には少し熱がはいってくると、随分はっきりと物をいわれたものであった。
僕はこの頃になって、科学者は総ての問題に口を入れて、決して恥しくないという自信を得たよ。この頃ネーチュアに、scientist という言葉がいけない、rationalist とした方が良いという意見が出ていたが、その通りだと僕も思う。科学者というものは、宜しく rationalist すなわち合理的に物を考える人にならなければいけない。特に物理をやる者は、物の理を学んでいるという気持を始終失ってはいけない。少し極端なようだが、僕はどんな学問をやるにも物理が必要だと思うね。物の理を知らなくては学問は出来ないからな。ところが専門の物理学者になってしまうと、かえって物の理を忘れてしまうことがあるから、その点はよほど注意していなければいけない。ネーチュアに rationalist の論が出た時、色々の人の意見をきいていたが、その返事の中に、ラサフオードが自分はアマチュアである、決して professional scientist ではないという回答をしていたが、大いに我が意を得たりと思ったね。あれでなくちゃいけない。
実験なんかでも、あまり勉強ばかりしていると、つい目を瞑って研究をするようになるから、よほどその点は注意する必要がある。いつでもアマチュアの気持を失わずに、楽しみながら、始終目を開いて仕事をしなければいけない。それがすなわち rationalist なんだよ。
三陸の津浪の被害地を、地球物理学会の錚々たる先生方一同で見学に行った時、大変な難問にぶつかってしまった。それは何とかいう一番大きい金庫が津浪のために打ちあげられて、小さい家を二軒もとび越して山手の方へ持って行かれたという話が現場で立証されてしまったのである。金庫の旧の位置も津浪で持ってこられた現在の場所も確定したのだから、頭の良いことでは自信のある若い地球物理学者が揃った手前、何とか説明しなくては済まされない。津浪の浪が一局所に集ってきて、ホースから迸り出る水のような作用が生じたとかいう風な名論が続出したが、とても何百貫とある金庫を家二軒とび越させる力は出てこない。散々皆で頭をひねっている中に、誰かがちょっとその金庫の大きさと目方から比重を計算してみたら、〇・四とか〇・五とかいう値が出てしまった。何のことはない、金庫は浮いてきたのである。そこで前から黙ってきいておられた隊長格の某博士が感嘆の声を発せられた。「なるほどそういえば軍艦だって浮いているからなあ」というのである。
その後曙町の応接間に寅彦先生をお訪ねした時、ちょっと茶目気を出してこの話を持ち出したことがあった。少しは驚かれるかと思って、「何にしても何百貫とあるものですから」と言いかけたら、「君、目方じゃ駄目だよ、比重でなくちゃ」といわれたのでギャフンとなってしまった。
僕の論文を中央気象台の岡田さんが評して、湯上りに俳句をよむような気持で論文をかくといっておられるんだ。まさかそれほどでもないんで、少し苛いとも思ったが、よく考えてみると、実際適評だね。正にその通りな点もなきにしも非ずなんだから。どうも岡田さんはなかなか油断が出来ないな。あれで随分人の急所をよく見るんだからね。それでも僕の論文を真面目に読んでくれるので有難いよ。どうも日本じゃ僕の論文なんか誰も本気で読んでくれる人はないんだから。岡田さん位のものかも知れないよ。
先生はこの俳句的論文という評が大分気に入っておられたらしく、「どうも苛いことをいうものだ」とその後も度々人に話されて、上機嫌であった。
先生は大学で気象学を講ぜられ、藤原先生が師事されていた位だから、日本の気象学のある意味での開拓者の一人である。先生は航空船の爆破の研究の一副産物として、電光の生成機構に関する興味深い説を提出されたことがある。その説は、岡田博士の大著気象学の中に詳しく紹介され、電光に関する寺田博士の説として挙げられている。岡田先生はこの説を重視されて、色々説明を加えて幾分展開もしてあったので、それを見られた先生は、「いやどうもこう書かれると少々恐縮だね、もっとも「岡田の説」も大分はいっているようだからまあいいだろう」とニヤニヤしておられた。
理研のある建物の入口の脇に、小さいホールがあって、そこでちょっとした応接位は出来るようになっている。その壁間に墨絵の額がかかっているが、その図柄は大きい鉢が一つ描いてあって、その中に鮎のような形の魚が三匹ばかり泳いでいるのである。
ある日先生はとても上機嫌で実験室へやってこられて、「今ね、そこで所長さんを一つ凹ましてきたところなんだ」と皆の顔を見廻しながら大得意になっておられた。「丁度あのホールの所で大河内君にばったり会ったものでね、あの魚の絵をさして、あれは理研のつもりなんだろうといったら、大河内君が慌ててね、とんでもないといって逃げて行ってしまったよ。ちょっと愉快だったね」といって大笑いをされていた。その意味は、理研の中に沢山偉い先生方を集めてあの魚のように飼って楽しんでいるのだろうとやじられたのである。それでは所長さんが慌てて逃げ出されたのも無理はない。先生にはこういう茶目な一面もあったのである。
いつだったか忘れたが、「一つ理研を動物園に見立てて、先生方に名前をつけようかな」などといって喜んでおられたこともあった。「まずN先生のライオン、T君の鶴は動かないところだな。僕はまあ木菟ということになろうかな。外の先生方は、まあ止めておこう。叱られるといけないから」時には実験室の中でこんな話が出るのだから、随分暢気なものであった。
この話は先生のセロの勉強ぶりの話である。
先生がセロを始められたのは、大正十二、三年頃だったかと思うが、初めからなかなか熱心で、「この方はヴァイオリンとちがって、最初からあまり家の連中を悩さなくて済むので大変工合が良い」と上機嫌で毎日猛練習をしておられた。その話が悪太郎連中の耳にはいって、年に一度、東大の物理学教室でニュートン祭というのをやって、先生方の逸話などを漫画の幻灯にして、諸先生の御目にかけるという厄介な催しがあるのであるが、早速その時の好材料とされてしまったことがあった。構図は何でも先生が首を曲げながらセロをひいておられて、その背景にピアノがあり、ピアノの上にカンフルチンキの瓶がのっているという凝ったものであった。そして説明係の学生が、「此のカンフルチンキは、御練習の後、方々の節々に塗られるための御用意であります」という説明をしたので、先生は顔一杯皺だらけにして苦笑しておられた。満場の喝采はおして知るべしである。先生は、「どうもひどいことをいうものだが、満更根も葉もないことでもなくてね」とニヤニヤしておられた。
そんな事件があって次の夏か、一年おいて次の夏かに、しばらく先生が理研へ顔を出されないことがあった。その後御宅へ伺ってみたら、応接間に新しいセロがきていて、今までのセロと二挺並べてたてかけてあった。先生はその二挺のセロを頤で示しながら、「どうもこの頃色々家に病人があったり、不幸なことがあったりして、この調子じゃとても僕の方が続かないと思ったから、少し贅沢なようだったが、セロを二挺にしたよ。今度のは少し上等なんだ。そして毎週先生がきてくれて、只今大いにセロの勉強をしているところなんだ」という話であった。
セロの先生はSさんで、初めの中は確か水曜の晩がセロだったと思う。時々はわざとその晩に出かけて行って、先生のセロの勉強ぶりを拝見するという不心得なことをしたこともあった。その光景というのがまた実に変っていて面白かったからである。
まずSさんがみえて、初めはしばらく雑談がある。その中によく先生は「どうも色々用事ばかり多くて今夜もあまり準備が出来ていないのだが」と苦笑しながら、御稽古が始まるのであった。真中の卓を少し横へ押しやって、先生とSさんとは向い合って合奏が始まる。Sさんはなかなか厳格な先生で、ちょっとも胡麻化しがきかないのである。ちょっとでもちがうと一々やり直しである。そしてしまいには、「どうも首の曲げ方が悪いんですな」というような妙な注文が出る。そして先生の後へ廻って、頭をつかまえて、「さあ弾いて御覧なさい」という調子なのである。先生は人が見ていることなどにはちっともおかまいなく、真面目くさった顔をして、「うん、こうか、こうか」といいながら、首を窮屈そうにあちらこちらひねって、一所懸命に弾かれる。そういう猛練習が三、四十分続くと、「まあ今夜はこれ位にしておこう」と先生が兜を脱がれる。すると後は御茶になって、今度は先生と生徒とが急に入れかわりになるのである。
「君、ヴァイオリンの弓が長くて、セロの弓が短いのはどういう理由か知っていますか」という風な話になる。Sさんは急に恭謙な学生になって、「存じませんな」という。「それはね、セロの糸は太くて長いから」弦の振動の勢力は振幅と糸の質量との函数で、結局セロの場合は大分強い力が要ることになるので、弓の支点の関係上、ヴァイオリンのように長くては不便になるのだという物理学の講義が一くさり出るのである。Sさんは一々「なるほど、なるほど」といいながら聞いておられる。
それにしても、ヴァイオリンでもセロでも、昔からあの形と決っていて、ちょっと変えてもいけないというのだから実に不思議だ。僕は誰か耳の良い助手の人が見つかったら、ヴァイオリンの研究をやりたいと前から思っているのだが。
精密なコンデンサーカップリングか何か使って、箱の面の各点の振動の様子を見て、ノーダルラインでも決めてみたら、きっと何か面白いことが見つかると思う。昔の名器とこの頃の廉物のヴァイオリンとをそういう風にして較べて見たら、どこがちがうかなどということが一遍に分りやしないかな。もっともヴァイオリンの製造家の方では大分研究しているらしいが、まだまだ物理学者の手でやるべきことが沢山残されている。まあ未だほとんど手がついていないといっても良いだろうな。
糸の振動にしたって、本当のところはちっとも分っていないんだ。弓の当て方でずいぶん高周波が違うのだし、第一松脂の効能というものが、あれがまたなかなか面白いものなのだ。もっともあれはレーレーが大分やっているがね。そういえばパガニニなんか全部放弦で、左の手を全然使わずに、弓だけで曲を弾いて見せたというが、あれなんかも弓を適当に駒にかけて弾くと、理論上は勝手な音が出ても良いことにはなるのだが。もっとも実際はあんな鬼才でなくては、そんな芸当は出来ないんだ。あんな不具みたいな手でなくちゃ、あの曲はちょっと弾けないのかも知れないな。君、パガニニの指を知っていますか。
Sさんは勿論「存じませんな」という。先生はついと立って隣の書斎から部厚な洋書を持って来られて、無雑作に開いて差し出される。なるほどパガニニの指の写真版がのっていたが、それは鷲の爪のような形をした手であった。
この話の中で、先生のヴァイオリンの物理的研究方法の話は、この意味のことを話されたのは事実であるが、何分もう大分昔のことではあり、大体のメモはその当時直ぐ作ってあったのであるが、詳しい点は思い出しながら書いたものである。もし音楽や音響学の専門家が見られて可笑しい点があっても、それは筆者の誤解に基くものであることを御断りする。先生が亡くなられてからか、あるいは病床におられた頃、外国でヴァイオリンの名器と廉物との木質の差をX線を用いて研究して、その差を指摘した論文が出た。その研究と全く同じアイディアも前に先生が話されたことがあった。その時先生はニスの影響についても色々御考えがあったようであるが、そういう研究もその中外国でやられるかも知れない。
先生の尺八の研究は有名であり、米国でその紹介が出た時、「日本人は欧米人の真似ばかりしている国民かと思ったら、こういうオリヂナルな研究をする人もある」と附け加えてあった位である。先生は僕はこれでも大分国威を発揚しているんだぜとこっそり得意になっておられたことがあった。その後三味線の研究も思い立たれて大分心支度は出来ていたようであった。私の一年前のクラスのG君とY君とが、大学の卒業実験を寺田先生についてやろうといった時、先生は二、三の研究題目を示されて、その中のどれでも好きなものを選び給えといわれたことがあった。その中には三味線の研究というのも入っていた。G君とY君とは相談の結果、耳に自信がありませんからといって、三味線の方は敬遠して、外の題目を選んでしまったが、その後遂にこの三味線の研究は実現の機会がなかったようである。ちょっと惜しいような気もする。それよりも大学の物理の卒業実験に、三味線の研究というような題目が選ばれたような時代はもうとっくに過ぎ去ったように思われ、当時の大学の雰囲気が今更の如くなつかしまれるのである。
底本:「中谷宇吉郎集 第一巻」岩波書店
2000(平成12)年10月5日第1刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
1938(昭和13)年9月10日
入力:kompass
校正:岡村和彦
2019年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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