絶対的人格
正岡先生論
伊藤左千夫
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子規子の世を去るなり、天下の操觚者ほとんど筆を揃てその偉人たることを称す、子規子はいかなる理由によって偉人と称せられたるか、世人が子規子を偉人とするところの理由いかんと見れば、人おのおのその言うところを異にし、毫も帰一するところあるなく、しこうしてただその子規子は偉人なりという点においてのみ、一致せるの事実を見たるは最も味うべき点なりとす。
しかり世人は相当の理由を有して、子規子の偉人たるを断定せるものにあらず、ただ無意識の間にその偉人たることを感じたるなり、子規子は真に偉人なりし、偉人なるがゆえに、世人がその偉人たるを感じたるは、これすなわち理屈にあらずして事実なり、決定の自然これに過ぎたるはなし、何となれば、太陽なるがゆえに太陽たるを感じ、明月なるがゆえに明月たるを感ずると等しければなり、これに理由を云々するがごときは要するに人間の小理屈のみ。
されば単に子規子を偉人なりというに対しては、何らの説明を要せず、しかれども世に子規子を仰ぎ子規子を信ずる人々にありては、単にその偉人たるを知覚せるのみにては、もとより満足しがたきものあるべし、ことに親しく左右に侍してその感化を蒙れる吾々においては、その偉人の実質を考定してこれを吾人に告ぐるの義務あるを感ぜざるを得ず。
世上の多くは、子規子の事業を云々し、子規子の議論を云々し、子規子の製作を云々す、しかれども予をもって見れば、これらの事実をもって子規子を偉人なりというは当らず、何となれば、俳句は元禄に興り天明に進歩し、明治に中興せり、子規子の事業と言わばその俳句中興の主動者たるにあり、その成功も決して小ならずといえども、それをもって子規子を偉人なりといわば偉人なるものはあまりに小なり、その議論においてももちろん偉とするに足るものあることなし、その製作は俳句を主とし写生文、歌、雑筆等なりといえども、主なる俳句についていうも、芭蕉もしくは蕪村に対して、容易にその優劣を定めがたきものあるべし、もちろん芭蕉、蕪村に有せざるものも子規子に多からんが、子規子に有せざるものの芭蕉、蕪村に多きもまた明なり、写生文、歌、雑筆等においては、これを偉人の事業としては、むしろ論ずるに足らずというを適当なりとせん。
しからば子規子は、何をもって偉人なるか、予の考うるところをもってせば、一、天稟之脳力、二、絶対的態度すなわちこれなり。
子規子一度文壇に現われて、その発程の途に上るや、精透なる研究猛烈なる活動、一刻の停滞なく寸時の休止なし、日をもって覚醒し月をもって進歩し、議論と製作と年をもって変化す、昨年の標準は決して今年の標準にあらず、今年の標準もとより明年の標準なるあたわず、議論に実行し製作に経験し、覚醒となり進歩となり、年を経るに従っていよいよ勢力を加えつつ、最終に至るまでいささかの滞溜を見ざりしは、実に子規子の生涯なりし。
見よ子規子の議論はしばしば矛盾を来し、標準しばしば動揺を招けり、始め大に蓼太をあげ後たちまち蓼太を痛罵し、前年は、歌は俳句の長きもの、俳句は歌の短きものとして毫も差支なしと論じ、翌年には、ただちに俳調俳語厭うべしとの歌評をなせるごときすなわちその一例なり、研究的態度をもって活動せば、それ以上のごとき変化を見ること、もとより当然なるべしといえども、子規子の子規子たる所以は全くここに存せることを知らざるべからず。
製作者と学者とはその性格を異にするもちろんなりといえども、かの近世国学界の大家なりと称せらるる、本居宣長のごときは、三十四、五歳時代の著述なる「石上私淑言」の議論は彼が一生の議論にして、彼が論理は六十を越て、毫も変化を見ざりしがごとく、脳力の固定思想の膠着、いかに活動性に乏しきかを見るべし、これを子規子の流動少しも静止なきに比せば、天稟の脳力に非常なる相違あるを知らん。
予輩らがしばしば子規子の門を叩て教を乞えるや、月に幾回なるを知らずといえども、会談の日ごとに必ず新問題を聞かざることなかりき、旧を改め新を悟り追求いよいよ高く、しかも先生の進むは早くして吾が追歩のはなはだ寛なりし恨みを感ぜざりしは稀なり、思うに先生の門に入りしもの、何人も如叙の感を抱けるや必せり、ゆえにしばらく先生と談話の機を失したる時に、いつしか趣味の離隔を発見する珍しからず、先生が最も晩年において、有力なる俳人諸氏と、趣味標準の相違を発見し云々と「病牀六尺」に述べられたるごとき、明かに這般の消息を認む、日に「モルヒネ」を服してわずかに痛苦を忘れんとしつつある際においても、なおかくのごとく趣味標準の進昇に停溜の趣きなきを見る、いずくんぞ脳力の偉と言わざるを得んや。
思うに偉人は自覚的成功なし、活動に起り活動に終るは偉人の常なるがごとく、古今東西の偉人多くはしかるを見る、豊公の如き奈翁の如き、彼らは活動を知って満足を知らざるに似たり、偉人の成功は活動にして偉人の満足又活動に存するか。
子規子の俳壇における事業は天下の讚するところなりといえども、子規子は毫もその成功を自覚せざりしもののごとく、世を去る数月前において、『獺祭書屋俳句帖抄』に叙して、「わが俳句はわが思いしよりも下等なりし」といえるにあらずや、その本領たる俳句においてなおしかり、いわんやその他においてをや、子規子が自個の事業と製作とに満足せざりしは争うべからず、察するに子規子幸に天寿を得たりとするも、ついに自個の満足を得るあたわざるに終わりたるべし、何となれば子規子は偉人なればなり、偉人はただ活動に満足す、子規子一代の事業、一言をもってこれを讃せば、曰く、
偉的脳力の活動。
天質において偉人たりし子規子は人格においても偉人なり、そは子規子生涯を通じて一貫せる態度の絶対的なりしにあり。
子規子の態度は絶対的傍観の見地に立てり、歴史を傍観し、階級を傍観し、天子を傍観し乞食を傍観し、大宗教家、大美術家いかなる種類といえどもことごとく傍観す、かつて仰視したることなく、かつて俯視したることなし、思うにこれ真詩人の態度正しき感覚を得んと欲す、必ず正しき観取に待たざるべからず、正しき観取は必ず正しき傍観においてせざるべからず。
詩人は一切社会の外に立って、社会の一点たる自個をも傍観す、詩人は社会を離れずしてただ社会を観る、詩人は社会を楽んで毫も社会に混ぜず、詩人は神に近きを尊び己に近きを佳なりとす、一切社会の批判者にして一切社会の讃美者なり、絶対的傍観の見地に立ちて始めて、真詩人の職を完うし得べし、しからばすなわち子規子の態度は真詩人の態度なり。
西欧の詩人吾これを詳にせず、東洋の古今ただ詩作家の少なからざるを見るのみ、真詩人の態度を得たるものあるを知らず、屈原、陶潜、杜甫、李白、皆社会外に立てる人にあらずして要するに詩作家たるのみ、人丸、赤人、憶良、家持また人格の察すべきなく、今日においてはただその詩作家たるを感ずるのみ、以上の諸大家、詩作家としてはもとよりその大を感ずといえども、人格としては予未だその人を思うことあたわず、要するに真詩人たる態度において欠くるところあるによれり。
子規子の詩作は、もとよりその大を称するに足らざるものあらん、しかもその態度と人格とは、これを大宗教家、大政事家に比するに値す、もしそれ文字上言語上の製作のみをもって、詩なりと言わばもとより昧者の言のみ、趣味的に他が感覚を動すべき人格と態度とを有するものあらば、その態度すなわち詩、人格すなわち詩と称すべきなり、されば偉人はそのすべてがすなわち詩なりというを得べし、何となれば偉人はすべてが趣味をもって満され居ればなり、子規子はいかなる点において、絶対的傍観の見地に立てりというか、これ当然に来るべき疑問なれども、そを具体的に解釈せんこと容易ならず、何となればこれ理論にあらずして、趣味的実際問題なればなり、予はただ子規子が、常に一切の事物を自個の標準によって判断し、自個以外に偉人を認めざりし態度を持したるをもって、絶対的傍観の見地に立てりと断ぜんと欲す。
唯我独尊を称したる釈迦如来は、絶対に自らを尊べり、絶対他力を唱えたる親鸞は絶対に他を尊で自個を空せり、孔子と耶蘇とは他を尊んでまた自個を尊べり、ついに釈迦と親鸞に対していささか譲るところあるがごとくの感あるは、その態度の絶対的ならざるに存す、子規子の態度は、別に諸聖人の外に立ち、心を一切社会の外界に置けり、一切他を尊まず一切他を卑まず、もちろん自個を尊まず自個を卑まず、自個の精神は、なお自個の一切をもよそにせり、すなわち絶対的傍観の態度これなり。
ゆえに社会的自個の行動は、毫も戒飭するところなく検束する趣なく、極めて随意に、心の動くままに振舞いたり、親鸞のいわゆる自然法爾なるものと、すこぶる相似たるの跡ありといえども、しかも子規子の態度は、釈迦如来の知らざるところ、親鸞上人の知らざるところなり、嗚呼あに偉ならずや、予はなお終に臨で一言せん。
子規子を知らんと欲せば、子規子の議論と子規子の製作とを、突き抜けてじかに子規子その人を見よ、子規子の議論と子規子の製作とは、決して子規子の満足したるものにあらざるなりと。明治三十八年十二月六日夜十二時記
底本:「子規選集 第十二巻 子規の思い出」増進会出版社
2002(平成14)年11月5日初版第1刷発行
底本の親本:「子規全集 別卷二 回想の子規 一」講談社
1975(昭和50)年9月18日第1刷発行
初出:「馬醉木 第三卷第一號」馬醉木発行所
1906(明治39)年1月1日
※「讚」と「讃」の混在は、底本通りです。
入力:高瀬竜一
校正:hitsuji
2019年8月30日作成
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