大雨の前日
伊藤左千夫
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此頃は実に不快な天候が続く。重苦しく蒸熱くいやに湿り気をおんだ、強い南風だ。そうして又、俄の出来事に無数の悪魔が駈出して来た様な、にくにくしい土色した雲が、空低く散らかり飛び駈けって、引切りなしに北の方へ走り行く。時々空が暗くなって雲が濃くなると一頻りずつ必ず雨を降らせる。
こんな天気が今日で三日目だ。意地悪く息の長い風だ。人間は嘆息する、呼吸が為に息苦しいこと夥しい。此夜明けには止むだろう、此日の入りには止むだろうも皆空だのみであった。予は今朝になって、著しく神経の疲労を覚えた。深刻に出水の苦痛を恐れて居る予は、八月という月の此天候に恐怖を感ぜずには居られなかったのである。
早く新聞を手にした児供達はいずれも天気予報を気にして見たらしく、十四と十二と七つとの三人が揃って新聞を持って来た。三人は予の左右に屈み加減に両手を突いて等しく父の前に顔を出すのであった。予も新聞を取るや否、自然に気象台員の談話という項目に眼は走った。直ちに眼に入るのは、低気圧、颶風等の文字である。予は寧ろこれを読むのが厭わしかった。児供等は父がそれを読んで、何とか云うのを待つものらしく三人共未だ何とも云わずに居る。予は殊に児供等の前で其気象台員の談話を読むのが何となく苦痛でならない。それで予は眼を転じて別項を読み始めた。十四の児はもどかしくなってか、
「お父さん『あらし』になるの……」
いうと等しく、
「あらしになりゃしないねいお父さん」
と、十二のが口出した。
「お父さん水が出るかい……」
こういうのは七つの児であった。
「大丈夫ねえお父さん」
十二のが二人の詞を打消す様にそういった。
「うん大丈夫だよ、新聞にあることは当てになりゃしないよ」
父はこう云わない訳に行かなかった。
「ほんとに大丈夫お父さん……」
十四のは不安そうに父の顔を見上げる。
「うん雨は少し降るだろうけれどね大風は吹きゃしないだろうよ。そっだから大丈夫だよ」
「新聞にそう書いてあるの……」
「うん」
「そらえいこった」
七つのはさすがに安心してこう叫んだ。
「わたい大水が出れば大島へ逃げていくだ……」
初めから大丈夫だねい大丈夫だねと云ってた、十二のが、矢張安心し切れないと見え、そう云うのであった。予はしょうことなしに、新聞の記事をよい加減に読み聞かして、これだからそんなに心配しなくともえい、と賺した。併し予の不安は児供等を安心させるのに寧ろ苦痛を感ずるのである。
「水が出るにしたって、直ぐではないねいお父さん」
十四のは、どうしても安心し切れないで、そういうのであった。予は少しく叱る様に押えつけて、
「今夜にも此風さえ止めば大丈夫だから、そんなに心配することはないよ」
予はこう云って、児供等には次へ出て遊べと命じた。児供に安心させようとする許りではない、自分も内心には、気象台の報告とて必ずしも信ずるに足らない、よし大雨が一日一夜降ったにせよ、逃出さねばならぬ様な事は有るまいと、強いて自分の不安をなだめる、自然的心理の働きが動いたのである。乍併自分が心から安心の出来ないのにどうして児供等を安心させることが出来よう。次へ起った三児の後影は如何にも寂しかった。予は坐して居られない程胸に苦痛を覚えた。予は起って庭から空模様を眺めた。風は昨日に増すとも静まる様子は更に無い。土色雲の悪魔は益数を加えて飛び駈って居る。どう見ても一荒れ荒れねば天気は直りそうもなく思われる。予は又其空模様を永く見て居るに堪えないで家に入った。妻も入って来た。三人の児の姉等二人も入って来た。又々互に不安心な事を云い合って、我れと我が不安の思いを増す様な話を暫く喃々した。果ては予はどういう事があろうと仕方がない、益の無いくよくよ話はよせと一喝した。
風の音許り外に騒々しくて、家の内には元気よく騒ぐものもない。
平生は鉄工所でどんがんする鎚の音、紡績会社の器械のうなり、汽笛の響、有らゆる諸工場の雑多な物鳴り等、大都会の騒々しさも、今日は一切に耳に入らない。只ごうっと吹く風の音、ばらばらっと板屋を打つ雨の音に許り神経は昂進るのである。新聞も読掛けてよした。雑誌も読掛けた儘投げてやった。
予はつくづくと、こんな土地に住まねばならぬ我が運命を悲しまない訳にゆかなかった。同時に我れながらさもしい卑屈な感想の湧き起るのを禁じ得なかった。
平生財を作るにも最も拙な癖に、財力の威徳を尊敬することを知らなかった報いだ。貧はこれほど苦しくないにせよ、災害から受くる損傷は苦痛でなければならぬ。現に苦しみつつある我が愚を憐まない訳に行かない。我に千四五百円の余財があらば、こんな所に一日も居やしないが、千四五百の金は予の今日では望外の事である。予は財なきが故に、時々云うに云われない苦悶をせねばならぬ、厭うべき此土地に囚れて居ねばならないのである。
今少し貨殖の道に心掛ければよかった。思えば自分はどう考えても迂愚であった。
予はこんな風に、今更考えても何の役にも立たない愚な事を考えずに居られなかった。
つまらない。実につまらない。何だ馬鹿馬鹿しい。実にくだらないなァ。
俄に気づいてうんと自分を嘲り叱って見ても、不安は依然として不安で、今の苦悶の中から、心を不安境外へ抜け出ることはどうしても出来ない。
今茲へ来て何を考えたって役には立たない。未だ雨も降らないのに、出水を心配するなどは猶更無駄な話だ。こう思いつつ何も考えない事にして、仰向に踏んぞりかえった。そうして両足を伸し腹部も十分に張って見たけれど、心のくもって居る様な胸の苦みは少しも減じなかった。予はほとほと自分の体と自分の心との取扱に窮して終った。そういう内に、何と云っても児供は児供でどんな面白い事があったか、苦の無い笑声を立てて騒ぎ出した。予も亦不思議と其声に揺られて、心の凝りが聊か柔かになった。
大雨は其夕から降出した。雨の音はさながら悪魔の叫喚だ。目に見た悪魔が今は我家の周囲に肉迫し来って、耳に近く其の叫喚の声を聞く心持がした。
底本:「日本掌編小説秀作選 上 雪・月篇」光文社文庫、光文社
1987(昭和62)年12月20日初版1刷発行
初出:「ホトヽギス 第十四卷第一號」
1910(明治43)年10月1日
※表題は底本では、「大雨の前日」となっています。
入力:高瀬竜一
校正:noriko saito
2016年7月9日作成
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