「細雪」回顧
谷崎潤一郎
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私が「細雪」の稿を起したのは太平洋戦争が勃発した翌年、即ち昭和十七年のことである。
これがはじめて中央公論に出たのは昭和十八年の新年号であつたが、それから四月号に載り、次いで七月号に掲載される筈の所がゲラ刷になつたまゝ遂に日の目を見るに至らなかつた。陸軍省報道部将校の忌諱に触れたためであつて、「時局にそはぬ」といふのが、その理由であつた。当時すでに太平洋の戦局は我に不利なる徴候を見せ、軍当局はその焦慮を露骨に国内の統制に向けはじめてゐたことであるから、全く予期されぬことではなかつたが、折角意気込んではじめた仕事の発表の見込が立たなくなつたことは打撃であつた。いや、ことは単に発表の見込が立たなくなつたと云ふにつきるものではない。文筆家の自由な創作活動が或る権威によつて強制的に封ぜられ、これに対して一言半句の抗議が出来ないばかりか、これを是認はしないまでも、深くあやしみもしないと云ふ一般の風潮が強く私を圧迫した。江戸時代の作者たちが時の要路の役人の忌避に遭つて手錠五十日とか禁錮百日とか云ふやうな刑を加へられたことはかねて聞き及んでゐたが、私は手錠も禁錮も科せられたわけではなかつたけれども、昔の作者たちの鬱屈は人ごとならず察せられたことであつた。但しその時の当局の話では活字にして売り広めなければよいといふことであつたので、滞りがちの稿をついでどうやら上巻に予定した枚数に達したのを機会に、知己朋友に頒つことを目的とした私家版「細雪」を上木したところ、これがまた取締当局を刺戟し、兵庫県庁の刑事と云ふものゝ来訪を受けたことがあつた。その時私は折よく熱海に行つて留守であつたので、家人が応対したところ、今度だけは見逃すが今後の分を出版するやうなことがあつたらどうとかすると云つて脅かしたと云ふ。さうして始末書の提供を要求したので、旅行中不在の由を告げると、それなら熱海へ出張すると云つて帰つて行つたと云ふことであつた。そこで熱海の警察から呼出しが来るかと思つてゐたが、とう〳〵そのやうなこともなくて済んだ。その頃戦勢はます〳〵我に不利で、警察署でも人手の不足に苦しんでゐた時であるから、よほどの大事件でもないかぎり、そのやうな手数をかけることもなかつたのであらう。従つてその方の関係で当局と交渉を持つたのはそれ限りで、自分では一度も厭な応対一つするでなし、始末書一本書くこともなくて済んだのは幸運であつた。
かう云ふ謂はゞ弾圧の中を、兎に角ほそ〴〵と「細雪」一巻を書きつゞけた次第であつたが、さう云つても私は、あの吹き捲くる嵐のやうな時勢に全く超然として自由に自己の天地に遊べたわけではない。そこにそこばくの掣肘や影響を受けることはやはり免かれることが出来なかつた。たとへば、関西の上流中流の人々の生活の実相をそのまゝに写さうと思へば、時として「不倫」や「不道徳」な面にも亙らぬわけに行かなかつたのであるが、それを最初の構想のまゝにすゝめることはさすがに憚られたのであつた。これは今日から顧みればたしかに遺憾のことに違ひない。しかしまた一面から考へれば、戦争といふ嵐に吹きこめられて徒然に日を送ることがなかつたならば、六年もの間一つの作品に打ち込むこともむづかしかつたかも知れなかつたのであるし、今云ふやうに頽廃的な面が十分に書けず、綺麗ごとで済まさねばならぬやうなところがあつたにしても、それは戦争と平和の間に生れたこの小説に避け難い運命であつたとも云へよう。
戦争の影響と云へば、この小説に書かれた事柄それ自身が、日本が戦争の準備期に入り、だん〳〵内部的に変質して行くと云ふか、いろ〳〵の横辷りを生じて行く時代の様相と繋つてゐるのであるから、何年何月にはかういふことがあつたと云ふやうなことを年代記風に覚え書にして、それに対応したあらすぢも終りまで書いておかねばならなかつた。たとへば自動車一つに乗せるにしても、その頃その辺で自動車が拾へたかどうか、拾へても料金はどの位だつたか、といふやうなこと、それから東京へ来させるにしても三等寝台はその頃なくなつてゐた筈ではないかとか、さういふこともいろ〳〵調べておかないと妙なことになつてしまふ。私はこれまでの作品でさういふ日附に関係したことを調べたり覚え書したりしたことはなかつたのであるが、今度はさういふ努力も吝むわけには行かなかつた。尤も先年永井荷風氏にお目にかゝつた時、氏は長年こくめいに日記をつけて来られたことを云はれ、「何年何日に雨が降つてゐないのに雨を降らせたりするやうなことはない」と云つてをられたが、私などは到底そこまでは行けない。芝居などで何年何月どこの小屋では菊五郎が何をやつた、といふやうなことまでは朝日や毎日の年鑑を繰つても調べることが出来たが、映画となると、まだ輸入されてゐない映画を見せると云ふやうなことはなかつたつもりであるが、多少怪しいところがあることは致し方ない。関西の風水害の時の叙述でも、水の出た時間などは正確ではない。それからあの出水の箇処に書いたことを私の実際の経験であるやうに誤信してゐる人もあるやうに聞くが、私のゐたところは絶対安全なところで、実は私は少しも恐い思ひはしてゐないのだ。水が出た二三時間後に近所を歩いてみた見聞と、あの辺で実際に水害に遭つた学校の生徒の作文をあとで沢山見せてもらつたので、それが参考になつてゐる程度である。
「細雪」には源氏物語の影響があるのではないかと云ふことをよく人に聞かれるが、それは作者には判らぬことで第三者の判定に待つより仕方がない。しかし源氏は好きで若いときから読んだものではあるし、特に長年かゝつて現代語訳をやつた後でもあるから、この小説を書きながらも私の頭の中にあつたことだけはたしかである。だから作者として特に源氏を模したと云ふことはなくても、いろ〳〵の点で影響を受けたと云へないことはないであらう。たゞ作者と云ふものはいつも一つところに止まつてゐるものではないから、私にしても僅かながらの移り変りはあるであらう。「細雪」を書いた時は「春琴抄」の時とは可なり違つた気持だつたし、「細雪」を書き終つた今日では、この次には何を書くかまだよく極めてはゐないが、もう「細雪」と同じやうなものを書かうとは思つてゐない。文章などももつと短く、簡略に書きたい、と思ふやうになつてゐる。
変ると云へば大正末年私が関西の地に移り住むやうになつてからの私の作品は明らかにそれ以前のものとは区別されるもので、極端に云へばそれ以前のものは自分の作品として認めたくないものが多い。戯曲はさうでもないが、小説の方は自分で全集を編むとなれば、これに組み込むことに大いに躊躇せざるを得ないものが少くない。「卍」以後は制作の態度に時々の違ひはあつても、さう根本的に違ふと云ふやうなことはないし、出来不出来はあつても全然認めたくないと云ふものはない。世評は知らぬが、この時期以後の作品で自分に愛着が深いのは「蓼喰ふ虫」と「吉野葛」であらう。「蓼喰ふ虫」は当時私の生活上に起つた一つの事件に着想を得て書き出したものだが、どういふものになると云ふことは考へず、ただ何となくその時の気分に任せて書いて行つた。終りにはちやんと結末がつくといふ自信が何とはなしにあつたので少しも心配はしなかつたが、見取図は全然なくて書いた。それにこの時は毎日新聞の夕刊に出たのだが、故小出楢重君の挿絵が非常によく、これが随分はげみになつた。小出君の家は電車で私のところから一と停留所で、毎日私が書いたあと、新聞社の人がそれを持つて小出君のところへ行つてゐたが、翌日の新聞を見るのが楽しみであつた。「細雪」は好きになれるかどうか、もう少したつてみないと分らない。何を書いた時でもその時はよく書けたやうな気がするものだから、暫くたつてみないと本当によく書けたかどうか、自分では納得が行かない。たゞ「細雪」の場合は、「蓼喰ふ虫」などの場合と違つて、かう云ふふうに書きはじめてかう云ふふうな終りにしようと計画を立て、大体予定どほりに行つたと云つてよいであらう。
昭和十七、十八、十九、の三年は熱海で書き、二十年になつて熱海も不安になり逃げ歩くやうになつてからは岡山県の勝山でやうやく五十枚くらゐ、平和になつてからは京都と熱海で書いた。興がのつてものらなくても大抵毎日六七時間きめて書いた。そして書きはじめると二十日ぐらゐはつゞけて書いた。長かつたから何と云つても肉体的には疲れた。最後の方になつて殊に疲れを感じたやうに思ふ。
底本:「谷崎潤一郎全集 第二十巻」中央公論新社
2015(平成27)年7月10日初版発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第二十二巻」中央公論社
1983(昭和58)年6月25日
初出:「作品 第二號」創藝社
1948(昭和23)年11月15日発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※初出時の表題は「「細雪」その他」です。
入力:砂場清隆
校正:きゅうり
2018年6月27日作成
2018年8月5日修正
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