俳句上の京と江戸
正岡子規
|
京都から『種ふくべ』という俳諧の雑誌を出すから、私にも何か一つ書けとの事でございました。昨年来俳句の流行につれて各地にその雑誌が出るようになりましたのに、昔からの都であった京都に何もないというは不釣合な事であるから、『種ふくべ』の出るのは誠に適当な事と考えます。しかしながら雑誌の発育はかなり困難なもので、寄合世帯のようでは到底永続せぬ事は明かでありますから、雑誌を己の生命と思うほどの人が一人なくてはなりませぬ。なぐさみに出す雑誌ならば、盛になろうと衰えようと構わぬとはいうものの、とにかく一度生れた子はなるべく無病息災であるのが親の望む所でありましょう。私はどこまでも『種ふくべ』の無病息災を祈っております。
さて私がここに掲げました「俳句上の京と江戸」という題は、俳句上では非常の大問題で、また極めて面白い問題で、従ってこれを論ずると甚だ長くなる問題であります。十分一冊の本になりましょう。しかしここには大体の輪郭を画くに止めて置きます。
徳川時代の俳句界の中心は何処でありましょうか。京でありましょうか。江戸でありましょうか。京か江戸かの二つの内であるという事は誰も異論はありますまいが、どちらであるかは人々によって違いましょう。江戸の人に言わせると、「俳諧と蕎麦は江戸に限る」と芭蕉のいわれた通りで、俳諧はこっちのものだ、というような事を言うて威張る。京の人に言わせると、我々こそ芭蕉の正統を継いだ者であって、江戸の俳諧は外道である、というような事を言うて威張る。もし今の京の人に言わせたら、芭蕉の正統などとは言うまいが、その代りに、蕪村はおれの方じゃ、と言わるるであろう。とにかくにこの相撲は軍配をあげる事の出来ぬ取組であって、東へあげれば西から物いいがつく、西へあげれば東から物いいがつく、というむつかしい勝負であります。しかし公平に考えて見まするに、やはり無勝負の持というが正当でありましょう。けだし徳川時代の俳句界は一個の中心点を持った正円形ではなくて、いわば二個の焼点を持った橢円形のような者であったのであります。しからば俳句界はなぜ円形にならずに橢円形になったかと申しますると、それは徳川時代の政治界が橢円であったためであります。
全体においては無勝負という事にしましても、ある時代々々で取組んで見ると、互に勝負があって面白いから、少しく時代の比較をやって見ましょう。
第一は貞徳時代でありますが、これは貞徳が已に京にいた位であるし、殊にこの頃はまだ江戸草創の際で、東武ではなかなか文学などいう優長な事をやって居る余地がなかったのですから、俳人というは大概京の人がしめておったようです。この取組は無論京が勝です。
第二は談林時代です。この時代は江戸でも文学勃興の機運が向いて来たので、大分盛になっていました。現に『談林十百韻』というのは江戸で出来た位で、談林の本家本元は江戸だか京だか大阪だか分らぬ程の事です。しかしこの時代は長い時代でもなく、かつ三都共に一時は盛であって、いずれがいずれと細しい事は知りませぬから、この勝負は暫く預りとして置きます。
第三は元禄時代です。この時代は両都共に名人が沢山出ましたが、この時代を造った本尊の芭蕉は京ともつかず江戸ともつかずで、真中にふらふらとして居る。去年は江戸でくらしたから今年は京でくらそうというような事で、意地公事なしに愛を分っている。芭蕉がこういう風に立ち働いたために、江戸にも京にも名人が出たというても宜しいが、また一方よりいうと両都共に善い弟子があったから、あちらこちらと幾度も往来したのでありましょう。この時代の俳人といえば、江戸には其角という大たて者があって、句もうまいが、弟子も多く、著書もしたたかあるという訳で、一人で江戸を背負って立つという勢です。次に嵐雪にも相応の弟子があって、その弟子も善く作るので、暗に其角と頡頏している。その外にはいうべきほどの人はない。さて京の方はというと、去来という大たて者がいて、いつも其角と睨みあって居るので、この二人が東西の両大関になって居るです。しかし去来には風国、野明位より外に弟子がない。この点では其角に負けている。その上去来の外に京の俳人というのも、凡兆を除けば外に一人もないです。その代り近江には沢山の俳人が出ました。これは京ではないが、非常に近い処だから、京に準じて論じます。近江には丈草、許六、尚白、智月、乙州、千那、正秀、曲翠、珍碩、李由、毛紈、程已などと申すように夥しく出て、皆腕こきのしたたか者です。それですから京と近江と合併して江戸に当るとすれば、誠に恰好な取組であって、勝負は互角であろうと思います。あるいは、京、近江の方が優勢かも知れないです。
第四は享保時代です。これは享保時代と申しましても、正徳頃から宝暦頃までを含んで居るのです。この時代は俗俳は盛になりましたが、少しも名人の出ない時代で、俳諧史よりいうと、衰微時代の中絶時代の寂寞時代とも申すべき時代であります。しかしそれでも江戸には『五色墨』だの何だのと多少の俳人はありました。談林も振わぬながらに少しはやっていたようですが、京の方にはさっぱり善いも悪いも俳人がないです。あるといえば僅に移竹がある位だ。そういう訳ですから、貞徳時代に京が全勝を占めたと反対に、享保時代は江戸が全勝を占めています。
第五は天明時代です。これも明和から寛政頃までを含んでおるのですが、この時代は元禄時代と共に俳句の最隆盛を極めた時ですから、両都共に、名人も沢山出る、名句も沢山出る、書籍も沢山出る、という訳で、その勢は非常な者でありました。けれども勝はいうまでもなく京にあります。何しろ蕪村という怪物が京に出たのですから、啻に当時の天下を動かしたばかりでなく、古の俳風を一変して、明治の新俳風の種を蒔いて置いた位です。その怪力にかなう者は江戸にも地方にも固よりあるはずがない。その上にまだ太祇という名人も京にいたのですが、この者の力も非常な者であって、蕪村でもうっかりすると土俵から押し出されそうなのですから、江戸にも何処にも、蕪村の外に敵はありはしない。この二人があるさえ京に偏重して居るのに、まだこの外に几董も京にいた、これもやはり蕪村、太祇を除いたら敵はないのです。まだその下に闌更というふんどしかつぎがおります。この男も江戸にいたら大関といって関脇と下らぬのでありますが、それが京ではふんどしかつぎに相当するのですから、その優勢な事は思いやられるです。そうして江戸の方はというと、蓼太、白雄らが門戸を張ってやって居るので、雑兵こそ非常な人数であるけれど、到底京に敵するなどは思いもよらぬ有様である。しかしここに一言して置きたいのは、蕪村も太祇も江戸で修業して京で成就したのである、という事です。
第六は俗俳時代です。これは仮につけた名で、文化以後明治以前をひっくるめていうのです。この時代の初の方には、江戸では白雄、蓼太の門弟があって、その外に成美などもいる。京では蕪村の系統は既に絶えて、僅に月居が残って居る位、その外は蒼虬、梅室などいうくだらぬ奴がいるのだから、これは江戸の方が勝です。
右のような次第で、京と江戸とは時代によりて一勝一敗があるのだから、全体の上で無勝負とした訳です。もっとも俳句界の盛時というべき元禄と天明とで比較すると、元禄は持で、天明は京の勝なのですから、全体の上で京の勝というても宜しいのです。しかしまた一方から見ると、京の俳句界は不規則に断続していて、江戸のはいつも盛に継続している。殊に太祇、蕪村などは京の台木へ江戸の椄穂を椄いだというのであるから、江戸を全く蹈み倒す訳にも行かず、先ず無勝負として置くが善かろうと思います。
今までは京と江戸の俳人の比較をして見たのですが、今度は京と江戸の俳風の比較をして見たいと思うのです。この俳風の比較というは、俳人の比較よりも趣味の多い問題であるから、細しくやって見たいのですが、そうすると余り長くなりますから、少しくやって見ましょう。
京と江戸の俳風を比較するには、先ず初に、大体の上に京風、江戸風というおのおのの特色があるかないかを仮定して、その後に各句を比較して、仮定の当否を吟味するが分りやすかろうと思うから、ちょっと総論をして置きます。私の考では京には京風、江戸には江戸風という特色があって、京の俳句は、何時の時代でも誰の派でも誰の作でも、多少の変化ある内に一種の京の分子が這入って居る、それだから甲の人と乙の人とは大変に違うて居るようであるが、それを江戸の人のに比べると、江戸の句とは大変に違うて、かえって甲と乙とに何処か似よりを感ずる、その似よりが即ち京風なのです。江戸風の江戸におけるも同じ訳であります。しからばその京風と江戸風はどういう工合に違うかといいますると、京風はやわらかで、江戸風は強いです。京の句はうつくしくて、江戸の句は渋いです。京のは濃厚で、江戸のは淡泊です。京がおとなしくて、江戸は気が利いています。京はすらりとして居るが、江戸は曲りくねって居るです。これほど並べていうたならば、読者は、直に、そうか、と合点せらるるでありましょう。俳句上における京風と江戸風との比較は、風俗習慣性質における京風、江戸風の比較と少しも変った事はないのです。京言葉、江戸言葉の比較とも変りません。京の山水、江戸の山水の比較とも変りません。「阿呆言いなはれ」というは京の俳調であって、「何だ此畜生」というは江戸の俳調です。三十六峰が庭先や檐端にうねくっていて、嵐山が松と桜と楓と絵のように並んで居るのは京の俳想でありますが、武蔵野がただひろびろと広がっていて、ところどころに凹凸があって、富士と筑波が左右に見えるというのは江戸の俳想であります。公卿が衣冠をつけて牛車で参内するというのは、京の俳趣を現して居るが、大名が鳥毛の槍をふらせて駕籠で登城するというのは、江戸の俳趣を現して居るのです。京の俳句と江戸の俳句とは、たしかにその周囲の情況のために支配せられて、この差別を来したのに違いありますまい。
そこで右の私の考を俳句の実例について吟味して見ましょう。
先ず元禄から始めますと、京の去来、江戸の其角というはいずれも極端に京と江戸を代表して居るようです。
とおとなしく上品に出る処は去来の本領であって、即ち京風の骨髄です、すると一方は
とどこまでも軽口にひょうきんに出掛けます。これは其角の本領で江戸風の骨髄であります。
京は静かに
江戸は騒々しいです。
京の人はよけて通りますが、
江戸子は無遠慮に出しゃばってけんつくをくいます。
一は平凡で、一は奇抜です。
嵐雪も其角に似ております。
一つは捨郭と大きくいいはなして置きますが、一つは棟の草と草を見つけます。
品格からいうと京の方が上品です。
その代り気が利く方からいうと、江戸の方が気が利いて居るでしょう。
こんなに一句や二句を並べたとて十分に分りませんが、沢山見れば見るほど、京と江戸との区別は善く分って来ます。勿論去来集中に江戸風の句もあり、其角集中に京風の句もありますけれど、全体の上でどうしても京は京、江戸は江戸と区別が立っていますから、到底争う事は出来ません。その証拠には、去来自身が既に其角の句を好まなかったので、其角に向って悪口の手紙をやった事があります。その時其角は返事しなかったが、許六が其角の弁護をしたので、かえって去来と許六との間に大議論が持ちあがったような次第です。前に挙げた例は同じ題を択びましたが、実際この二人の句集を見ると、自ら択んで作っている題目が既に大に違うておりますので、去来には花とか月とか時雨とか尋常な題が多いが、其角には人事的の種々の変な題まで網羅せられて居るです。
それから蕪村はどうかというと、これは少し変則です。蕪村の句の磊落な処は、たしかに江戸風が侵入していまして、純粋の京風とはいえません。そのわけは前にも言いましたように、蕪村は江戸でしこんで江戸の代物を京に持って往たのですから、いわば蕪村は京と江戸と両方の長所を取って大成したのであります。芭蕉は京と江戸と両方にぶらついていました位で、芭蕉の句には種々の変化がありますが、大ねが上方そだちだけに、どうしても上方の分子が多いのです。しかし蕪村は長く江戸にいたために、巧に両元素を調和しております。もっとも蕪村にも京風が半分まじって居るのはいうまでもないので、
雛祭る都はづれや桃の月 蕪村
しのゝめに小雨降り出す焼野かな 同
狩衣の袖の裏這ふ蛍かな 同
春や穂麦が中の水車 同
欠け〳〵て月もなくなる夜寒かな 同
鶯の鳴くや師走の羅生門 同
たんぽゝの忘れ花あり路の霜 同
というように、おとなしくすらすらとして、いつも平和の気象がある。この平和の気象が江戸の句には極めて少いです。けれども蕪村が純粋の京風でない事は、蕪村の句が京にはやらなかったのでも分ります。蕪村の後に出てきた闌更が純粋の京風をやって大分はやりましたが、それでもいくらか蕪村などの余波を受けていましただけに、多少骨のある句がありました。ところが蒼虬が出まして、全く骨なしの句をこしらえて、それが大そうはやった者でありますが、これは京の厭味な部分だけを取ったので、誠に下らぬ者です。
鳥鳴くや梅津桂の薄霞 闌更
山霞み海紅の夕かな 同
春風やぬぎかけ袖を吹き渡る 同
春風や顔薄赤き頭痛病 同
春風や君紫の袖かづく 同
春雨や鼓はるかに家中町 同
紫にあけゆく方や春の水 同
闌更の句は総て赤だの紫だのと、友禅見たように綺麗にやろうとしたものです。これに対して江戸の方では白雄を挙げても善いのですが、蓼太、白雄などいうと江戸でもいくらか京がまじって来ていますから、ここには特に挙ぐる事を見合せましょう。成美は純粋の江戸児でありながら去来を尊んだので、その句も全く京風になっています。どうしても後世になるほど流派が混じて来るのは、何の上にも免れない事であります。
しかし京の蒼虬と江戸の道彦との比較は、両方とも極端に走っていて面白いから、少し並べて見ましょう。
紫の戸を左右へあけて花の春 蒼虬
朝雉の歩行いて下りる小坂かな 同
山水や桜やしなふ夜の音 同
ちよつぽりと菫影持つ西日かな 同
とやわらかにやさしく出るのが京です。
地に油誰がころびて春の暮 道彦
春風にわが名かへばや京太郎 同
山人や薪にすとて木の実植うる 同
田螺鳴き亀鳴く頃は草若み 同
江戸の方は趣向もひねくっていますが、言葉もひねくっています。
広沢や一輪見ゆる燕子花 蒼虬
涼しさや牛も根笹に繋がれて 同
若竹の葉につく月の光かな 同
五月雨や忘れて居りし淡路嶋 同
持って来る者が京は尋常です。
浮蓮に魚乗らんとぞ守りける 道彦
楠散るや七つ下りの書物よみ 同
時鳥啼いて江上数峰青し 同
濡色や袷著る日の青によろり 同
持って来る者が異様なか、いい方が異様なか、考が異様なか、どこか変った処を見せようというのが江戸気性なんでしょう。
野の末の雲に音ある霰かな 蒼虬
山茶花の日和や山のおしかゝる 同
暮れいそぎして暮れ残る芒かな 同
人一人田中に立つてけさの秋 同
いくつ並べても同じことですが、
霰ふる篶のまがきや子はほしき 道彦
山茶花も二本は植ゑぬ宗佐かな 同
泣きたくは尾花がくれに空見えし 同
鴛鴦の子の思ひ羽生えん秋の立つ 同
とにかくこういうように違うて居るのです。
この外月並的の俗句にでも多少東西の相違があるかどうか、研究した事がないから知りませぬが、先ずないと見て善いだろうと思います。しかしてこの同じような俗調は江戸風か京風かというと、どうしても京風といわなければならぬようですが、もっとも月並調が京から来て江戸に広がったというではないでしょう。江戸の人も太平が続いたために元気が失せて、京のようなやさしい気分になったのでありましょう。江戸児が堕落したのも甚だ不名誉でありますが、京人が蕪村を忘れて蒼虬、梅室をありがたがったのも、甚だ不見識の事と思われます。
先ず俳風の比較もこれ位にて止めて置きますが、その次に京風と江戸風とはどちらが勝れて居るかという問題が必ず起りましょう。しかしこれは一言で答えられます。京風も江戸風も優劣はないという事です。それよりも京風の中に優劣があり、江戸風の中に優劣があるという事を忘れてはなりません。
余り長くなるからこれだけにして置きますが、これはよほど面白い問題でありますから、諸君がなお細しく御研究になったら善かろうと思います。
底本:「俳諧大要」岩波文庫、岩波書店
1955(昭和30)年5月5日第1刷発行
1983(昭和58)年9月16日第2刷改版発行
1989(平成元)年11月5日第8刷発行
初出:「種ふくべ」
1900(明治33)年4月
入力:酒井和郎
校正:岡村和彦
2016年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。