鏡地獄
江戸川乱歩
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「珍らしい話とおっしゃるのですか、それではこんな話はどうでしょう」
ある時、五、六人の者が、怖い話や、珍奇な話を、次々と語り合っていた時、友だちのKは最後にこんなふうにはじめた。ほんとうにあったことか、Kの作り話なのか、その後、尋ねてみたこともないので、私にはわからぬけれど、いろいろ不思議な物語を聞かされたあとだったのと、ちょうどその日の天候が春の終りに近い頃の、いやにドンヨリと曇った日で、空気が、まるで深い水の底のように重おもしく淀んで、話すものも、聞くものも、なんとなく気ちがいめいた気分になっていたからでもあったのか、その話は、異様に私の心をうったのである。話というのは、
私に一人の不幸な友だちがあるのです。名前は仮りに彼と申して置きましょうか。その彼にはいつの頃からか世にも不思議な病気が取りついたのです。ひょっとしたら、先祖に何かそんな病気の人があって、それが遺伝したのかもしれませんね。というのは、まんざら根のない話でもないので、いったい彼のうちには、おじいさんか、曾じいさんかが、切支丹の邪宗に帰依していたことがあって、古めかしい横文字の書物や、マリヤさまの像や、基督さまのはりつけの絵などが、葛籠の底に一杯しまってあるのですが、そんなものと一緒に、伊賀越道中双六に出てくるような、一世紀も前の望遠鏡だとか、妙なかっこうの磁石だとか、当時ギヤマンとかビイドロとかいったのでしょうが、美しいガラスの器物だとかが、同じ葛籠にしまいこんであって、彼はまだ小さい時分から、よくそれを出してもらっては遊んでいたものです。
考えてみますと、彼はそんな時分から、物の姿の映る物、たとえばガラスとか、レンズとか、鏡とかいうものに、不思議な嗜好を持っていたようです。それが証拠には、彼のおもちゃといえば、幻灯器械だとか、遠目がねだとか、虫目がねだとか、そのほかそれに類した、将門目がね、万華鏡、眼に当てると人物や道具などが、細長くなったり、平たくなったりする、プリズムのおもちゃだとか、そんなものばかりでした。
それから、やっぱり彼の少年時代なのですが、こんなことがあったのも覚えております。ある日彼の勉強部屋をおとずれますと、机の上に古い桐の箱が出ていて、多分その中にはいっていたのでしょう、彼は手に昔物の金属の鏡を持って、それを日光に当てて、暗い壁に影を映しているのでした。
「どうだ、面白いだろう。あれを見たまえ、こんな平らな鏡が、あすこへ映ると、妙な字ができるだろう」
彼にそう言われて、壁を見ますと、驚いたことには、白い丸形の中に、多少形がくずれてはいましたけれど「寿」という文字が、白金のような強い光で現われているのです。
「不思議だね、一体どうしたんだろう」
なんだか神業とでもいうような気がして、子供の私には、珍らしくもあり、怖くもあったのです。思わずそんなふうに聞き返しました。
「わかるまい。種明かしをしようか。種明かしをしてしまえば、なんでもないことなんだよ。ホラ、ここを見たまえ、この鏡の裏を、ね、寿という字が浮彫りになっているだろう。これが表へすき通るのだよ」
なるほど見れば彼の言う通り、青銅のような色をした鏡の裏には、立派な浮彫りがあるのです。でも、それが、どうして表面まですき通って、あのような影を作るのでしょう。鏡の表は、どの方角からすかして見ても、滑らかな平面で、顔がでこぼこに写るわけでもないのに、それの反射だけが不思議な影を作るのです。まるで魔法みたいな気がするのです。
「これはね、魔法でもなんでもないのだよ」
彼は私のいぶかしげな顔を見て、説明をはじめるのでした。
「おとうさんに聞いたんだがね、金属の鏡というやつは、ガラスと違って、ときどきみがきをかけないと、曇りがきて見えなくなるんだ。この鏡なんか、ずいぶん古くから僕の家に伝わっている品で、何度となく磨きをかけている。でね、その磨きをかけるたびに、裏の浮彫りの所と、そうでない薄い所とでは、金の減り方が眼に見えぬほどずつ違ってくるのだよ。厚い部分は手ごたえが多く、薄い部分はこれが少ないわけだからね。その眼にも見えぬ減り方の違いが、恐ろしいもので、反射させると、あんなに現われるのだそうだ。わかったかい」
その説明を聞きますと、一応は理由がわかったものの、今度は、顔を映してもでこぼこに見えない滑らかな表面が、反射させると明きらかに凹凸が現われるという、このえたいの知れぬ事実が、たとえば顕微鏡で何かを覗いた時に味わう、微細なるものの無気味さ、あれに似た感じで、私をゾッとさせるのでした。
この鏡のことは、あまり不思議だったので、特別によく覚えているのですが、これはただの一例にすぎないので、彼の少年時代の遊戯というものは、ほとんどそのような事柄ばかりで充たされていたわけです。妙なもので、私までが彼の感化を受けて、今でも、レンズというようなものに、人一倍の好奇心を持っているのですよ。
でも少年時代はまだ、さほどでもなかったのですが、それが中学の上級生に進んで、物理学を教わるようになりますと、御承知の通り物理学にはレンズや鏡の理論がありますね、彼はもうあれに夢中になってしまって、その時分から、病気と言ってもいいほどの、いわばレンズ狂に変わってきたのです。それにつけて思い出すのは、教室で凹面鏡のことを教わる時間でしたが、小さな凹面鏡の見本を、生徒のあいだに廻して、次々に皆の者が、自分の顔を映して見ていたのです。私はその時分ひどいニキビづらで、それがなんだか性欲的な事柄に関係しているような気がして、恥かしくてしようがなかったのですが、なにげなく凹面鏡を覗いて見ますと、思わずアッと声を立てるほど驚いたことには、私の顔のひとつひとつのニキビが、まるで望遠鏡で見た月の表面のように、恐ろしい大きさに拡大されて映っていたのです。
小山とも見えるニキビの先端が、石榴のようにはぜて、そこからドス黒い血のりが、芝居の殺し場の絵看板の感じで物凄くにじみ出しているのです。ニキビというひけ目があったせいでもありましょうが、凹面鏡に映った私の顔がどんなに恐ろしく、無気味なものであったか、それからのちというものは、凹面鏡を見ると、それがまた、博覧会だとか、盛り場の見世物などには、よく並んでいるのですが、私はもう、おぞけを振るって、逃げ出すようになったほどです。
ですが、彼の方では、その時やっぱり凹面鏡を覗いて、これはまた私とあべこべで、恐ろしく思うよりは、非常な魅力を感じたものとみえ、教室全体に響き渡るような声で、「ホウ」と感嘆の叫びを上げたものなんです。それがあまり頓狂に聞こえたものですから、その時は大笑いになりましたが、さてそれからというものは、彼はもう凹面鏡で夢中なんです。大小さまざまの凹面鏡を買いこんで、針金だとかボール紙などを使い、複雑なからくり仕掛けをこしらえては、独りほくそ笑んでいる始末でした。さすが好きな道だけあって、彼は人の思いもつかぬような、変てこな装置を考案する才能を持っていて、もっとも手品の本などをわざわざ外国から取り寄せたりしたのですけれど、今でも不思議に堪えないのは、これも或るとき彼の部屋をおとずれて、驚かされたのですが、魔法の紙幣というからくり仕掛けでありました。
それは、二尺四方ほどの、四角なボール箱で、前の方に建物の入口のような穴があいていて、そこのところに一円札が五、六枚、ちょうど状差しの中のハガキのように、差してあるのです。
「このおさつを取ってごらん」
その箱を私の前に持ち出して、彼は何食わぬ顔で紙幣を取れというのです。そこで、私はいわれるままに手を出して、ヒョイとその紙幣を取ろうとしたのですが、なんとまあ不思議なことには、ありありと眼に見えているその紙幣が、手を持って行ってみますと、煙のように手ごたえがないではありませんか。あんな驚いたことはありませんね。
「オヤ」
とたまげている私の顔を見て、彼はさも面白そうに笑いながら、さて説明してくれたところによりますと、それは英国でしたかの物理学者が考案した一種の手品で、種はやっぱり凹面鏡なのです。詳しい理窟はよく覚えていませんけれど、本ものの紙幣は箱の下へ横に置いて、その上に斜めに凹面鏡を装置し、電灯を箱の内部に引き込み、光線が紙幣に当たるようにすると、凹面鏡の焦点からどれだけの距離にある物体は、どういう角度で、どの辺にその像を結ぶという理論によって、うまく箱の穴へ紙幣が現われるのだそうです。普通の鏡ですと、決して本ものがそこにあるようには見えませんけれど、凹面鏡では不思議にもそんな実像を結ぶというのですね。ほんとうにもう、ありありとそこにあるのですからね。
かようにして、彼のレンズや鏡に対する異常なる嗜好は、だんだんと嵩じて行くばかりでしたが、やがて中学を卒業しますと、彼は上の学校にはいろうともしないで、ひとつは親たちも甘過ぎたのですね、息子の言うことならば、たいていは無理を通してくれるものですから、学校を出ると、もうひとかどおとなになった気で、庭の空き地にちょっとした実験室を新築して、その中で、例の不思議な道楽をはじめたものです。
これまでは、学校というものがあって、いくらか時間を束縛されていたので、それほどでもなかったのが、さて、そうして朝から晩まで実験室にとじこもることになりますと、彼の病勢は俄かに恐るべき加速度をもって昂進しはじめました。元来友だちの少なかった彼ですが、卒業以来というものは、彼の世界は、狭い実験室の中に限られてしまって、どこへ遊びに出るというでもなくしたがって来訪者もだんだん減って行き、僅かに彼の部屋をおとずれるのは、彼の家の人を除くと、私ただ一人になってしまったのでした。
それもごく時たまのことですが、私は彼を訪問するごとに、彼の病気がだんだん募って行って、今ではむしろ狂気に近い状態になっているのを目撃して、ひそかに戦慄を禁じ得ないのでした。彼のこの病癖にもってきて、更らにいけなかったことは、ある年の流行感冒のために、不幸にも彼の両親が、揃ってなくなってしまったものですから、彼は今は誰に遠慮の必要もなく、その上莫大な財産を受けついで、思うがままに、彼の妙な実験を行なうことができるようになったのと、それに今ひとつは、彼も二十歳を越して、女というものに興味をいだきはじめ、そんな変てこな嗜好を持つほどの彼ですから、情欲の方もひどく変態的で、それが持ち前のレンズ狂と結びついて、双方がいっそう勢いを増す形になってきたことでした。そしてお話というのは、その結果、ついに恐ろしい破局を招くことになった或る出来事なのですが、それを申し上げる前に、彼の病勢が、どのようにひどくなっていたかということを、二つ三つ、実例によってお話ししておきたいと思うのです。
彼の家は山の手の或る高台にあって、今いう実験室は、そこの広々とした庭園の片隅の、街々の甍を眼下に見下す位置に建てられたのですが、そこで彼が最初はじめたのは、実験室の屋根を天文台のような形にこしらえて、そこに可なりの天体観測鏡を据えつけ、星の世界に耽溺することでした。その時分には、彼は独学で、一と通り天文学の知識を備えていたわけなのです。が、そのようなありふれた道楽で満足する彼ではありません。その一方では、度の強い望遠鏡を窓際に置いて、それをさまざまの角度にしては、目の下に見える人家の、あけはなった室内を盗み見るという、罪の深い、秘密な楽しみを味わっているのでありました。
それがたとえ板塀の中であったり、他の家の裏側に向かい合っていたりして、当人たちはどこからも見えぬつもりで、まさかそんな遠くの山の上から望遠鏡で覗かれていようとは気づくはずもなく、あらゆる秘密な行ないを、したい三昧にふるまっている、それが彼には、まるで目の前の出来事のように、あからさまに眺められるのです。
「こればかりは、止せないよ」
彼はそう言い言いしては、その窓際の望遠鏡を覗くことを、こよなき楽しみにしていましたが、考えてみれば、ずいぶん面白いいたずらに違いありません。私も時には覗かしてもらうこともありましたけれど、偶然妙なものを、すぐ目の前に発見したりして、いっそ顔の赤らむようなこともないではありませんでした。
そのほか、たとえば、サブマリン・テレスコープといいますか、潜航艇の中から海上を眺める、あの装置をこしらえて、彼の部屋に居ながら、雇人たちの、殊に若い小間使いなどの私室を、少しも相手に悟られることなく覗いてみたり、そうかと思うと、虫目がねや、顕微鏡によって、微生物の生活を観察したり、それについて奇抜なのは、彼が蚤の類を飼育していたことで、それを虫目がねや度の弱い顕微鏡の下で、這わせてみたり、自分の血を吸うところだとか、虫同士をひとつにして同性であれば喧嘩をしたり、異性であれば仲良くしたりする有様を眺めたり、中にも気味のわるいのは、私は一度それを覗かされてからというものは、今までなんとも思っていなかったあの虫が、妙に恐ろしくなったほどなのですが、蚤を半殺しにしておいて、そのもがき苦しむ有様を、非常に大きく拡大して見ることでした。五十倍の顕微鏡でしたが、覗いた感じでは、一匹の蚤が眼界一杯にひろがって、口から、足の爪、からだにはえている小さな一本の毛までがハッキリとわかって、妙な比喩ですが、まるで猪のように恐ろしい大きさに見えるのです。それがドス黒い血の海の中で(僅か一滴の血潮がそんなに見えるのです)背中半分をぺちゃんこにつぶされて、手足で空をつかんで、くちばしをできるだけ伸ばし、断末魔の物凄い形相をしています。何かその口から恐ろしい悲鳴が聞こえているようにすら感じられるのであります。
そうしたこまごましたことを一々申し上げていては際限がありませんから、たいていは省くことにしますが、実験室建築当初の、かような道楽は月日と共に深まって行って、ある時はまた、こんなこともあったのです。ある日のこと、彼を訪ねて、なにげなく実験室の扉をひらきますと、なぜかブラインドをおろして部屋の中が薄暗くなっていましたが、その正面の壁一杯に、そうですね一間四方もあったでしょうか、何かモヤモヤとうごめいているものがあるのです。気のせいかと思って、眼をこすってみるのですが、やっぱりなんだか動いている。私は戸口にたたずんだまま、息を呑んでその怪物を見つめたものです。すると、見ているに従って、霧みたいなものがだんだんハッキリしてきて、針を植えたような黒い草むら、その下にギョロギョロ光っている盥ほどの眼、茶色がかった虹彩から、白目の中の血管の川までも、ちょうどソフトフォーカスの写真のように、ぼんやりしていながら、妙にハッキリと見えるのです。それから棕櫚のような鼻毛の光る、ほら穴みたいな鼻の穴、そのままの大きさで座蒲団を二枚かさねたかと見える、いやにまっ赤な唇、そのあいだからギラギラと白い瓦のような白歯が覗いている。つまり部屋一杯の人の顔、それが生きてうごめいているのです。映画なぞでないことは、その動きの静かなのと、生物そのままの色艶とで明瞭です。無気味さよりも、恐ろしさよりも、私は自分が気でも違ったのではあるまいかと、思わず驚きの叫び声を上げたほどです。すると、
「驚いたかい、僕だよ、僕だよ」
と別の方角から彼の声がして、ハッと私を飛び上がらせたことには、その声の通りに、壁の怪物の唇と舌が動いて、盥のような眼が、ニヤリと笑ったのです。
「ハハハハハ……どうだいこの趣向は」
突然部屋が明かるくなって、一方の暗室から彼の姿が現われました。それと同時に壁の怪物が消え去ったのは申すまでもありません。皆さんは大かた想像なすったでしょうが、これはつまり実物幻灯……鏡とレンズと強烈な光の作用によって、実物そのままを幻灯に写す、子供のおもちゃにもありますね、あれを彼独得の工夫によって、異常に大きくする装置を作ったのです。そして、そこへ彼自身の顔を映したのです。聞いてみればなんでもないことですが、可なり驚かせるものですよ。まあ、こういったことが彼の趣味なんですね。
似たようなので、いっそう不思議に思われたのは、今度は別段部屋が薄暗いわけでもなく、彼の顔も見えていて、そこへ変てこな、ゴチャゴチャとした鏡を立て並べた器械を置きますと、彼の眼なら眼だけが、これもまた盥ほどの大きさで、ポッカリと、私の目の前の空間に浮き出す仕掛けなのです。突然そいつをやられた時には、悪夢でも見ているようで身がすくんで、殆んど生きた空もありませんでした。ですが、種を割ってみれば、これがやっぱり、先ほどお話しした魔法の紙幣と同じことで、ただたくさん凹面鏡を使って、像を拡大したものにすぎないのでした。でも、理窟の上ではできるものとわかっていても、ずいぶん費用と時間のかかることでもあり、そんなにばかばかしいまねをやってみた人もありませんので、いわば彼の発明といってもよく、つづけざまにそのようなものを見せられると、なにかこう、彼が恐ろしい魔物のようにさえ思われてくるのでありました。
そんなことがあってから、二、三カ月もたった時分でしたが、彼は今度は何を思ったのか、実験室を小さく区ぎって、上下左右を鏡の一枚板で張りつめた、俗にいう鏡の部屋を作りました。ドアも何もすっかり鏡なのです。彼はその中へ一本のロウソクを持って、たった一人で長いあいだはいっているというのです。一体なんのためにそんなまねをするのか誰にもわかりません。が、その中で彼が見るであろう光景は大体想像することができます。六方を鏡で張りつめた部屋のまん中に立てば、そこには彼のからだのあらゆる部分が、鏡と鏡が反射し合うために、無限の像となって映るものに違いありません。彼の上下左右に、彼と同じ数限りもない人間が、ウジャウジャと殺到する感じに違いありません。考えただけでもゾッとします。私は子供の時分に八幡の藪知らずの見世物で、型ばかりの代物ではありましたが、鏡の部屋を経験したことがあるのです。その不完全極まるものでさえ、私にはどのように恐ろしく感じられたことでしょう。それを知っているものですから、一度彼から鏡の部屋へはいれと勧められた時にも、私は固く拒んで、はいろうとはしませんでした。
そのうちに、鏡の部屋へはいるのは、彼一人だけではないことがわかってきました。その彼のほかの人間というのは、彼のお気に入りの小間使いでもあり、同時に彼の恋人でもあったところの、当時十八歳の美しい娘でした。彼は口癖のように、
「あの子のたったひとつの取柄は、からだじゅうに数限りもなく、非常に深い濃やかな陰影があることだ。色艶も悪くはないし、肌も濃やかだし、肉付きも海獣のように弾力に富んではいるが、そのどれにもまして、あの女の美しさは、陰影の深さにある」
といっていた。その娘と一緒に、彼の鏡の国に遊ぶのです。しめきった実験室の中の、それをまた区ぎった鏡の部屋の中ですから、外部からうかがうべくもありませんが、時としては一時間以上も、彼らはそこにとじこもっているという噂を聞きました。むろん彼が一人きりの場合もたびたびあるのですが、ある時などは、鏡の部屋へはいったまま、あまりにも長いあいだ物音ひとつしないので、召使いが心配のあまりドアを叩いたといいます。すると、いきなりドアがひらいて、すっぱだかの彼一人が出てきて、ひとことも物をいわないで、そのままプイと母屋の方へ行ってしまったというような、妙な話もあるのでした。
その頃から、もともとあまりよくなかった彼の健康が、日一日とそこなわれて行くように見えました。が、肉体が衰えるのと反比例に、彼の異様な病癖はますます募るばかりでした。彼は莫大な費用を投じて、さまざまの形をした鏡を集めはじめました。平面、凸面、凹面、波形、筒型と、よくもあんなに変わった形のものが集まったものです。広い実験室の中は、毎日かつぎ込まれる変形鏡で埋まってしまうほどでした。ところが、そればかりではありません。驚いたことには、彼は広い庭の中央にガラス工場を建てはじめたのです。それは、彼独特の設計のもので、特殊の製品については、日本では類のないほど立派なものでありました。技師や職工なども、選びに選んで、そのためには、彼は残りの財産を全部投げ出しても惜しくない意気込みでした。
不幸にも、彼には意見を加えてくれるような親戚が一軒もなかったのです。召使いたちの中には、見るに見かねて意見めいたことを言う者もありましたが、そんなことがあれば、すぐさまお払い箱で、残っている者共は、ただもう法外に高い給金目当ての、さもしい連中ばかりでした。この場合、彼に取っては天にも地にも、たった一人の友人である私としては、なんとか彼をなだめて、この暴挙をとめなければならなかったのですが、むろん幾度となくそれは試みたのですが、いっかな狂気の彼の耳には入らず、それに事柄が別段悪事というのではなく、彼自身の財産を、彼が勝手に使うのであってみれば、ほかにどう分別のつけようもないのでした。私はただもう、ハラハラしながら、日に日に消え行く彼の財産と、彼の命とを、眺めているほかはないのでした。
そんなわけで、私はその頃から、かなり足繁く彼の家に出入りするようになりました。せめては彼の行動を、監視なりともしていようという心持だったのです。従って、彼の実験室の中で、目まぐるしく変化する彼の魔術を、見まいとしても見ないわけには行きませんでした。それは実に驚くべき怪奇と幻想の世界でありました。彼の病癖が頂上に達すると共に、彼の不思議な天才もまた、残るところなく発揮されたのでありましょう。走馬灯のように移り変わる、それがことごとくこの世のものではないところの、怪しくも美しい光景、私はその当時の見聞を、どのような言葉で形容すればよいのでしょう。
外部から買入れた鏡と、それで足らぬところや、ほかでは仕入れることのできない形のものは、彼自身の工場で製造した鏡によって補い、彼の夢想は次から次へと実現されて行くのでした。ある時は彼の首ばかりが、胴ばかりが、或いは足ばかりが、実験室の空中を漂っている光景です。それは言うまでもなく、巨大な平面鏡を室一杯に斜めに張りつめて、その一部に穴をあけ、そこから首や手足を出している、あの手品師の常套手段にすぎないのですけれど、それを行なう本人が手品師ではなくて、病的なきまじめな私の友だちなのですから、異常の感にうたれないではいられません。ある時は部屋全体が、凹面鏡、凸面鏡、波型鏡、筒型鏡の洪水です。その中央で踊り狂う彼の姿は、或いは巨大に、或いは微小に、或いは細長く、或いは平べったく、或いは曲がりくねり、或いは胴ばかりが、或いは首の下に首がつながり、或いはひとつの顔に眼が四つでき、或いは唇が上下に無限に延び、或いは縮み、その影がまた互に反復し、交錯して、紛然雑然、まるで狂人の幻想です。
ある時は部屋全体が巨大なる万華鏡です。からくり仕掛けで、カタリカタリと廻る、数十尺の鏡の三角筒の中に、花屋の店をからにして集めてきた、千紫万紅が、阿片の夢のように、花弁一枚の大きさが畳一畳にも映ってそれが何千何万となく、五色の虹となり、極地のオーロラとなって、見る者の世界を覆いつくす。その中で、大入道の彼の裸体が月の表面のような、巨大な毛穴を見せて躍り狂うのです。
そのほか種々雑多の、それ以上であっても、決してそれ以下ではないところの、恐るべき魔術、それを見た刹那、人間は気絶し、盲目となったであろうほどの、魔界の美、私にはそれをお伝えする力もありませんし、またたとえ今お話ししてみたところで、どうまあ信じていただけましょう。
そして、そんな狂乱状態がつづいたあとで、ついに悲しむべき破滅がやってきたのです。私の最も親しい友だちであった彼は、とうとう本ものの気ちがいになってしまったのです。これまでとても、彼の所業は決して正気の沙汰とは思われませんでした。しかし、そんな狂態を演じながらも、彼は一日の多くの時間を常人のごとく過ごしました。読書もすれば、痩せさらぼうた肉体を駆使して、ガラス工場の監督指揮にも当たり、私と会えば、昔ながらの彼の不可思議なる唯美思想を語るのに、なんのさしさわりもないのでした。それが、あのような無慙な終末をとげようとは、どうして予想することができましょう。おそらく、これは彼の身うちに巣食っていた悪魔の所業か、そうでなければ、あまりにも魔界の美に耽溺した彼に対する、神の怒りででもあったのでしょうか。
ある朝、私は彼の所からの使いのものに、あわただしく叩き起こされたのです。
「大へんです。奥様が、すぐにおいでくださいますようにとおっしゃいました」
「大へん? どうしたのだ」
「私どもにはわかりませんのです。ともかく、大急ぎでいらしっていただけませんでしょうか」
使いの者と私とは、双方とも、もう青ざめてしまって、早口にそんな問答をくり返すと、私は取るものも取りあえず、彼の屋敷へと駈けつけました。場所はやっぱり実験室です。飛び込むように中へはいると、そこには、今では奥様と呼ばれている彼の愛人の小間使いをはじめ、数人の召使いたちが、あっけに取られた形で、立ちすくんだまま、ひとつの妙な物体を見つめているのでした。
その物体というのは、玉乗りの玉をもう一とまわり大きくしたようなもので、外部には一面に布が張りつめられ、それが広々と取り片づけられた実験室の中を、生あるもののように、右に左にころがり廻っているのです。そして、もっと気味わるいのは、多分その内部からでしょう、動物のとも人間のともつかぬ笑い声のような唸りが、シューシューと響いているのでした。
「一体どうしたというのです」
私はかの小間使いをとらえて、先ずこう尋ねるほかはありませんでした。
「さっぱりわかりませんの。なんだか中にいるのは旦那様ではないかと思うのですけれど、こんな大きな玉がいつの間にできたのか、思いもかけぬことですし、それに手をつけようにも、気味がわるくて……さっきから何度も呼んでみたのですけれど、中から妙な笑い声しか戻ってこないのですもの」
その答えを聞くと、私はいきなり玉に近づいて、声の洩れてくる箇所を調べました。そして、ころがる玉の表面に、二つ三つの小さな空気抜きとも見える穴を見つけるのは、わけのないことでした。で、その穴のひとつに眼を当てて怖わごわ玉の内部を覗いて見たのですが、中には何か妙に眼をさすような光が、ギラギラしているばかりで、人のうごめくけはいと、無気味な、狂気めいた笑い声が聞こえてくるほかには、少しも、様子がわかりません。そこから二、三度彼の名を呼んでもみましたけれど、相手は人間なのか、それとも人間でないほかの者なのか、いっこうに手ごたえがないのです。
ところが、そうしてしばらくのあいだ、ころがる玉を眺めているうちに、ふとその表面の一カ所に、妙な四角の切りくわせができているのを発見しました。それがどうやら、玉の中へはいる扉らしく、押せばガタガタ音はするのですけれど、取手も何もないために、ひらくことができません。なおよく見れば、取手の跡らしく、金物の穴が残っています。これは、ひょっとしたら、人間が中へはいったあとで、どうかして取手が抜け落ちて、そとからも、中からも、扉がひらかぬようになったのではあるまいか。とすると、この男はひと晩じゅう玉の中にとじこめられていたことになるのでした。では、その辺に取手が落ちていまいかと、あたりを見廻しますと、もう私の予想通りに違いなかったことには、部屋の一方の隅に丸い金具が落ちていて、それを今の金物の穴にあててみれば、寸法はきっちりと合うのです。しかし困ったことには、柄が折れてしまっていて、今さら穴に差し込んでみたところで、扉がひらくはずもないのでした。
でも、それにしてもおかしいのは、中にとじこめられた人が、助けを呼びもしないで、ただゲラゲラ笑っていることでした。
「もしや」
私はある事に気づいて、思わず青くなりました。もう何を考える余裕もありません。ただこの玉をぶちこわす一方です。そして、ともかくも中の人間を助け出すほかはないのです。
私はいきなり工場に駈けつけて、大ハンマーを拾うと、元の部屋に引き返し、玉を目がけて勢いこめてたたきつけました。と、驚いたことには、内部は厚いガラスでできていたと見え、ガチャンと、恐ろしい音と共に、おびただしい破片に、割れくずれてしまいました。
そして、その中から這いだしてきたのは、まぎれもない私の友だちの彼だったのです。もしやと思っていたのが、やっぱりそうだったのです。それにしても、人間の相好が、僅か一日のあいだに、あのようにも変わるものでしょうか。きのうまでは、衰えてこそいましたけれど、どちらかといえば、神経質に引き締まった顔で、ちょっと見ると怖いほどでしたのが、今はまるで死人の相好のように、顔面のすべての筋がたるんでしまい、引っかき廻したように乱れた髪の毛、血走っていながら、異様に空ろな眼、そして口をだらしなくひらいて、ゲラゲラと笑っている姿は、二た目と見られたものではないのです。それは、あのように彼の寵愛を受けていた、かの小間使いさえもが、恐れをなして、飛びのいたほどでありました。
いうまでもなく、彼は発狂していたのです。しかし、何が彼を発狂させたのでありましょう、玉の中にとじこめられたくらいで、気の狂う男とも見えません。それに第一、あの変てこな玉は、一体全体なんの道具なのか、どうして彼がその中へはいっていたのか。玉のことは、そこにいた誰もが知らぬというのですから、おそらく彼が工場に命じて秘密にこしらえさせたものでありましょうが、彼はまあ、この玉乗りのガラス玉を、一体どうするつもりだったのでしょうか。
部屋の中をうろうろしながら、笑いつづける彼、やっと気を取り直して、涙ながらに、その袖を捉える女、その異様な興奮の中へ、ヒョッコリ出勤してきたのは、ガラス工場の技師でした。私はその技師をとらえて彼の面喰らうのも構わずに、矢つぎ早やの質問をあびせました。そして、ヘドモドしながら彼の答えたところを要約しますと、つまりこういう次第だったのです。
技師は大分以前から、三分ほどの厚みを持った、直径四尺ほどの、中空のガラス玉を作ることを命じられ、秘密のうちに作業を急いで、それがゆうべ遅くやっとできあがったのでした。技師たちはもちろんその用途を知るべくもありませんが、玉の外側に水銀を塗って、その内側を一面の鏡にすること、内部には数カ所に強い光の小電灯を装置し、玉の一カ所に人の出入りできるほどの扉を設けること、というような不思議な命令に従って、その通りのものを作ったのです。できあがると、夜中にそれを実験室に運び、小電灯のコードには室内灯の線を連結して、それを主人に引き渡したまま帰宅したのだと申します。それ以上のことは、技師にはまるでわからないのでした。
私は技師を帰し、狂人は召使いたちに看護を頼んでおいて、その辺に散乱した不思議なガラス玉の破片を眺めながら、どうかして、この異様な出来事の謎を解こうと悶えました。長いあいだ、ガラス玉との睨めっこでした。が、やがて、ふと気づいたのは、彼は、彼の智力の及ぶ限りの鏡装置を試みつくし、楽しみつくして、最後に、このガラス玉を考案したのではあるまいか。そして、自からその中にはいって、そこに映るであろう不思議な影像を、眺めようと試みたのではあるまいかということでした。
が、彼が何故発狂しなければならなかったか。いや、それよりも、彼はガラス玉の内部で何を見たか。一体全体、何を見たのか。そこまで考えた私は、その刹那、脊髄の中心を、氷の棒で貫かれた感じで、その、世の常ならぬ恐怖のために、心の臓まで冷たくなるのを覚えました。彼はガラス玉の中にはいって、ギラギラした小電灯の光で、彼自身の影像をひと目見るなり、発狂したのか、それともまた、玉の中を逃げ出そうとして、誤まって扉の取手を折り、出るに出られず、狭い球体の中で死の苦しみをもがきながら、ついに発狂したのか、そのいずれかではなかったでしょうか。では、何物がそれほどまでに彼を恐怖せしめたのか。
それは、到底人間の想像を許さぬところです。球体の鏡の中心にはいった人が、かつて一人だってこの世にあったでしょうか。その球壁に、どのような影が映るものか、物理学者とて、これを算出することは不可能でありましょう。それは、ひょっとしたら、われわれには、夢想することも許されぬ、恐怖と戦慄の人外境ではなかったのでしょうか。世にも恐るべき悪魔の世界ではなかったのでしょうか。そこには彼の姿が彼としては映らないで、もっと別のもの、それがどんな形相を示したかは想像のほかですけれども、ともかく、人間を発狂させないではおかぬほどの、あるものが、彼の限界、彼の宇宙を覆いつくして映し出されたのではありますまいか。
ただ、われわれにかろうじてできることは、球体の一部であるところの、凹面鏡の恐怖を、球体にまで延長してみるほかにはありません。あなた方は定めし、凹面鏡の恐怖なれば、御存じでありましょう。あの自分自身を顕微鏡にかけて覗いて見るような、悪夢の世界、球体の鏡はその凹面鏡が果てしもなく連なって、われわれの全身を包むのと同じわけなのです。それだけでも、単なる凹面鏡の恐怖の幾層倍、幾十層倍に当たります。そのように想像したばかりで、われわれはもう身の毛もよだつではありませんか。それは凹面鏡によって囲まれた小宇宙なのです。われわれのこの世界ではありません。もっと別の、おそらく狂人の国に違いないのです。
私の不幸な友だちは、そうして、彼のレンズ狂、鏡気ちがいの最端をきわめようとして、きわめてはならぬところを極めようとして、神の怒りにふれたのか、悪魔の誘いに敗れたのか、遂に彼自身を亡ぼさねばならなかったのでありましょう。
彼はその後、狂ったままこの世を去ってしまいましたので、事の真相を確かむべきよすがとてもありませんが、でも、少なくとも私だけは、彼は鏡の玉の内部を冒したばっかりに、ついにその身を亡ぼしたのだという想像を、今に至るまでも捨て兼ねているのであります。
底本:「江戸川乱歩傑作選」新潮文庫、新潮社
1960(昭和35)年12月24日発行
1989(平成元)年10月15日48刷改版
2013(平成25)年6月10日99刷
初出:「大衆文芸」
1926(大正15)年10月
※「みがき」と「磨き」、「ところ」と「所」、「もって」と「持って」、「きわめよう」と「極めよう」の混在は、底本通りです。
入力:isizuka
校正:岡村和彦
2016年9月9日作成
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