かろきねたみ
岡本かの子



女なればか


力など望まで弱く美しく生れしまゝの男にてあれ


甲斐かひなしや強げにものを言ふ眼より涙落つるも女なればか


血の色のつめに浮くまで押へたる我が三味線の意地強き音


前髪も帯の結びも低くしてゆふべの街をしのび来にけり


天地あめつちを鳴らせど風のおほいなる空洞うつろなる声淋しからずや


朝寒の机のまへに開きたる新聞紙の香高き朝かな


我が髪の元結ひもやゝゆるむらむあたたかき湯に身をひたす時


かろきねたみ


捨てむなどよこしまおもふ時に君いそ〳〵と来ぬなど捨て得むや


ともすればかろきねたみのきざし来る日かなかなしくものなど縫はむ


三度ほど酒をふくみてあたゝかくほどよくうるむさかづきの肌


さびしさに鏡にむかひ前髪にくしをあつればあふるゝ涙


生へ際のすこし薄きもこのひとの優しさ見えてうれしかりけり


悲しさをじつとこらえてかたはらの灯をばみつめてもだせるふたり


をとなしく病後のわれのもつれがみときし男のしのばるゝ秋


袷の襟


あかすこし付きてへたる絹物のあはせの襟こそなまめかしけれ


君なにか思ひ出でけむ杯を手にしたるまゝふと眼を伏せぬ


むづがゆく薄らつめたくやゝ痛きあてこすりをば聞く快さ


ちら〳〵と君が面に酔ひの色見えそむる頃かはほりのとぶ


唇を打ちふるはしてもだしたるかはゆき人をかき抱かまし


たかぶりし心抑へて黒襦子くろじゆすの薄きそでそろへても見つ


いつしかに歔欷すすりてありぬうたひつゝ柳並木を別れ来にしが


暗の手ざはり


美しくたのまれがたくゆれやすき君をみつめてあるおもしろさ


たま〳〵にかろき心となれるとき明るき空に鳥高く飛ぶ


春の夜のやみの手ざはりぼと〳〵と黒びろふどのごとき手ざはり


君のみをとがめ暮せしこの日頃かへりみてふとさびしくなりぬ


唇をかめばすこしく何物かとらえ得しごと心やはらぐ


めずらしく弱き姿と君なりて病みたまふこそうれしかりけれ


いとしさと憎さとなかば相寄りしおかしき恋にうむ時もなし


旧作のうちより


橋なかば傘めぐらせば川下に同じ橋あり人と馬行く


ひとつふたつ二人のなかに杯を置くへだたりの程こそよけれ


ゆるされてやや寂しきはしのびふ深きあはれを失ひしこと


愛らしき男よけふもいそ〳〵と妻待つ門へよくぞかへれる


折々は君を離れてたそがれの静けさなども味ひて見む


うなだれて佐久の平の草床にものおもふ身を君憎まざれ


山に来て二十日経ぬれどあたたかく我をば抱く一樹だになし(以上二首一人旅して)


いばらの芽


あざやかに庭の面の土の色よみがへれるが朝の眼に泌む


我が門のいばらの芽などしめやかにむしりて過ぐる人あるゆふべ


くれなゐのいちごの実もてうるほしぬひねもすかたく結びし唇


行き暮れて灯影ほかげへ急ぐ旅人のかなしく静けき心となりたや


君がふと見せし情に甲斐かひなくもまた一時ひとときはいそ〳〵としぬ


一度は我がため泣きし男なりこの我がまゝもゆるし置かまし


この人のかばかり折れてしほらしくかりにも見ゆることのうれしさ


むなおしろい


なめらかにおしろいびてあまりにもとりすましたる顔のさびしさ


眼の下にすこしのこれる寝おしろい朝の鏡にうつるわびしさ


泣くことの楽しくなりぬみづからにあまゆるくせのいつかつきけむ


ひとり居て泣ききころのたそかれをあやにく君のしのび来しかな


そのなかにまれにありつる空言そらごとも憎ふはあらじ思ひ出つれば


なまめかしむなおしろいを濃く見せて子に乳をやる若き人妻


はたと怒りの声をめしときはら〳〵と来ぬ夜のさつき雨


淡黄の糸


菊の花冷たくふれぬめづらしく素顔すがほとなりし朝の我頬に


あけがたの薄き光を宿したる大鏡こそ淋しかりけり


静なる朝の障子しやうじの破れ目より菊の花などのぞくもかはゆ


おとなしき心となりて眼を閉ぢぬかゝる夜な〳〵続けとぞ願ふ


三味線の淡黄の糸の切はしの一すじ散れるたそがれの部屋


春の風広きひたひにやはらかき髪なびかせし人をしぞ思ふ


捨てられし人のごとくに独り居て髪などとかす夜の淋しさ


ひるの湯の底


やふやくに橋のあたりの水黒み静に河はたそがれて行く


ほろ〳〵と涙あふれぬあふれ来る若き力のおさへかねつも


菊などをむしるがごとく素直なる君を故なくまたも泣かせぬ


君よりか我よりめしいさかひかくだちて夜の静なるかな


貝などのこぼれしごとく我が足の爪の光れる昼の湯の底


彼の折に無理強むりしいされし酒の香をふとなつかしく思ひ出しかな


おしろい気なき襟元へしみ〳〵とみ渡るかな夜の冷たさ


みづのこころ


多摩川の清く冷くやはらかき水のこころを誰に語らむ


一杯の水をふくめば天地あめつちの自由を得たる心地こそすれ


美しさ何か及はむなみ〳〵と玻璃はりうつはにたゝえたる水


水はみな紺青色に描かれし広重ひろしげの絵のかたくなをめづ


東京の街の憂ひの流るゝや隅田の川は灰色に行く


人妻をうばはむほどの強さをば持てる男のあらばられむ


おほいなる力のごとく避けがたき美しさもて君せまり来ぬ

底本:「岡本かの子全集9」ちくま文庫、筑摩書房

   1994(平成6)年324日第1刷発行

底本の親本:「歌双紙第壱編 かろきねたみ」青鞜社

   1912(大正元)年1220日発行

※底本の親本刊行時の署名は「岡本かの」です。

入力:光森裕樹

校正:大森静佳

2015年1213日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。