入江のほとり
正宗白鳥




 長兄の榮一が奈良から出した繪葉書は三人の弟と二人の妹の手から手へ渡つた。が、勝代の外には誰れも興を寄せて見る者はなかつた。

「何處へ行つても枯野で寂しい。二三日大阪で遊んで、十日ごろに歸省するつもりだ。」と鉛筆で存在ぞんざいに書いてある文字を、鐵縁の近眼鏡を掛けた勝代は、目を凝らして判じ讀みしながら、

「十日と云へば明後日あさつてだ。りやうさんはもう一日二日延して、えいさんに會ふてから學校へ行くとえゝのに。」

「會つたつて何にもならんさ。」良吉は卒氣なく云つて、「今時分は奈良も京都も寒くつて駄目だらうな。わしが行つた時は暑くつて弱つたが、今度は花盛りに一度大和巡りをしたいな。初瀬はせの方から多武たふみねへ廻つて、それから山越しで吉野へ出て、高野山へも登つて見たいよ。足の丈夫なうちは歩けるだけ方々歩いとかなきや損だ。」

かつは何處も見物なぞしたうない。東京へ行つても寄宿舍の内にぢつとしてゐて、休日にも外へは出まいと思ふとるの。」勝代はわざと哀れを籠めた聲音でかう云つて、つきから一言も口を利かないで、炬燵こたつに頬杖突いてゐる辰男に向つて、「辰さんは今年の暑中休暇にでも遠方へ旅行して來なさいな。家の者は男は皆んな東京や大阪や、名所見物をしとるし、温泉へも行つたりしとるのに、辰さんばかりはちつとも旅行しとらんのぢやから、氣の毒に思はれる。自分では東京へ行つて見たいとも思はんのかな。」

けりや行つてもいゝけど……。」辰男は低いびた聲で不明瞭な返事をして、口端をめづつた。

「わしが東京に居る間に來りやよかつたのに。下宿屋に泊つてゝ電車で見物すりや幾らも金はらないんだから。」

「勝と辰さんは電車を見たこともないのぢやから、兄弟中で一番時代遲れの田舍者だ。勝は岡山まで汽車に乘つてさへ頭痛がするのに、東京まで何百里も乘つたら卒倒するかも知れんから、心配でならんがな。その代り東京へ行つたら、三年でも四年でも家へは戻らんつもりだ。」

「わしの春休みの間に行くやうにすりや、連れてゝやらあ。さうしたら歸りに大和巡りも出來るし丁度都合がいゝんだよ。」

「いや〳〵、勝は一人で行かう。それくらゐの甲斐性がなければ、自分の目的は遂げられやせんもの。」

「口でこそ元氣のいゝことを云つてゐても、途中で腹が痛んだり、汽車に醉つたりしたらどうするんだい。自分の村でさへ出歩けない者が、方角も分らない東京へ行つてマゴマゴすると思ふと心細くなるだらう。東京のいゝ家では、つい近所へでも若い女一人外へ出しやしないよ。榮さんが歸つて來たらよく聞いて見るといゝ。」

「死んだつて關はん覺悟をしとるんだもの……。」

 勝代は負けぬ氣でさう云つて口をつぐんだが、ふと不安の思ひが萌して顏が曇つて來た。良吉も話を外らして、小さい弟をあやしなどした。

 そこへ晩餐ばんめし報知しらせ階下したから聞えたので、皆んなドヤドヤと下りて行つたが、勝代は一人後へ殘つて、二三度母の呼び立てる聲を聞いてから、やう〳〵炬燵を離れた。机の上の繪端書帖に兄の繪端書を插んだ。そして、目をしかめて、夕月の寒さうに冴えてゐる空を仰ぎながら、雨戸をとざして階下へ下りた。釣ランプを取り圍んで、老幼取りまぜて十人もの家族が、騷々しく食事をしてゐた。勝代は空いた席へ割り込んで、獨り生冷たい煑返しに柔かい菜浸しを添へて、不味まづい思ひをしてはしを執つた。

 外の者の膳には酸味噌の飯蛸いひだこ海鼠なまこなどが付けられてゐて、大きな飯櫃めしびつの飯の山が見る〳〵崩されてゐた。

 隣村まで來てゐる電燈が、いよ〳〵月末にはこの村へも引かれることに極つたといふ噂が誰れかの口から出て、一村の使用數や石油との經費の相違などが話の種になつてゐた。電燈を見たことのない子供達は、いろ〳〵に想像しては喜んでゐた。良吉はメートルとかスヰツチとかタングステンとか洋語を持ち出して電燈の講釋をし出した。

「僕は東京の下宿にゐた時には、五燭の球をはづして、二十五燭のを使つてたよ。さうすると晝のやうに明るかつた。此方こつちでもさうするといゝ。一つで家中明るくならあ。そして長い紐で八方へ引張るさ。」

「そんなことが出來るんかい。電燈も村へ來りや丸で斷る譯にや行くまいから、まあ義理に一つだけは付けることにしようが、畢竟ひつきやう無用の事ぢや。」と、老父としよりは云つた。

「しかし、皆んな電燈にすると、手數が掛らんし、火事の危險も少なうなつてよう御座いますぜ。」と次男の才次はさう云つて、少なくも二つは引かなきやなるまいと言ひ張つた。そして、博覽會見物に行つた際に見た東京のイルミネーシヨンの美しさを語つた。良吉もそれに相槌打つた。

「夜も晝のやうだ。」

 平凡で簡單なこの言葉ほど、都會みやこを知らぬ者の心に都會の美しい光景ありさまを活々と描かす言葉はなかつた。

 が、辰男はこんな話にすこしも心をそそられないで、例の通り默々としてゐたが、只ひそかにイルミネーシヨンといふ洋語の綴りや譯語を考へ込んだ。そして、食事が終ると、直ぐに二階へ上つて、自分のテーブルに寄つて、しきりに英和辭書の頁をめくつた。かの字をさぐり當てるまでには餘程の時間を費した。

「あゝこれか。」と獨り言を云つて、搜し當てた英字の綴りを記憶に深く刻んだ。次手ついでにスヰツチとかタングステンとかいふ文字をも搜したが、それはつひに見付からなかつた。

 廣い机の上には、小學校の教師用の教科書が二三册あつて、その他には「英語世界」や英文の世界歴史や、英文典など、英語研究の書籍が亂雜に置かれてゐる。洋紙のノートブツクも手元に備へられてゐる。彼れは夕方學校から歸ると、夜の更けるまで、滅多に机の側を離れないで、英語の獨學に耽るか、考へ事に沈んで、四年五年の月日を送つて來た。手足が冷えると、二階か階下かの炬燵の空いた座を見付けて、そつと温まりに行くが、かつて家族に向つて話を仕掛けたことがなかつた。直ぐ下の弟の良吉とは、一時隣國の山間の小學で一緒に教鞭を執つたことがあつたので、多少打ち融けた話もしてゐたのだつたが、それさへ年をると共に、隔りが増して、この冬の休暇には親身な話は只の一度もしないで過した。

 でも、良吉がはたで洗濯物や乾魚を小さい行李に收めて明日の出立の用意をしかけると、辰男も書物をいて屡々しばしばその方を顧みた。

 七八年前の冬休みに、うさぎを一匹もとめて、弟と交互かたみに擔いで、勤め先から歸省したことが、ふと彼れの心に浮んだ。



 階下したでは、老父母としよりも才次夫婦も子供達も、彼方此方あちらこちらの部屋に早くから眠りに就いて、階子段はしごだんの下の行燈あんどんが、深い闇の中に微かな光を放つてゐた。二階では良吉と勝代とが炬燵に當つて、一しきり東京話を聞いたり訊かれたりしてゐたが、やがて別々の部屋に別れて寢支度をした。

「良さんには當分會へんかも知れんな。來年高等學校を卒業したら、成るべくなら東京の大學に入れるやうな方法を取りなさいよ。」と、勝代は兄の寢床を延べながら云つた。そして、自分は寒さに傷まぬやうにと、懷爐くわいろを腹に當てゝ眠つた。

 弟と妹の安らかな寢息を耳に留めながら、辰男はまだ椅子に腰を掛けて、雜誌に出てゐる和文英譯の宿題をいろいろに工夫してゐた。アルハベツトの讀み方から、滿足に教師によつて手ほどきされたのではないので、全くの獨り稽古を積んで來たのだから、發音も意味の取り方も自己流で世間には通用しさうでない、二年間東京の英語學校で正則に仕上げて來た良吉に屡々「田舍で語學を勉強したつて骨折り損だ、それよりや早く正教員の試驗を受けた方がいゝぜ。」と忠告されて、父や兄からもそれを最も賢い方法として説き勸められたが、彼れは馬の耳に風で聞き流して、否か應かの返事をさへしなかつた。で、家の者は彼れの心の中をはかりかねて、涼み臺や炬燵の側での茶呑み話の折々、眞面目の問題として持ち出されたことは二度や三度ではなかつた。

「最初ヴアヰオリンを習つて音樂家になりたいと云つたのを聞いてやらなんだから、それであんな風になつたのぢやないかと思ふ。」と、ある時父が思ひ當つたやうに云つた。

「そればかりぢやない。鼻がまだ直り切らんのでせう。一寸見るとねて居るやうぢやが、五年も六年も拗ね通されるものぢやない。身體に故障があるからでさあ。」と、才次は云つた。

「あれぢや商人あきんどにもなれんし、百姓にもなれまいし、まあかゆでもすすれるくらゐの田地を配けてやるつもりで、抛つて置くか。」

 とゞのつまり、かう解決をつけて、最早彼れの身の上を誰れも問題にはしなくなつた。見馴れた目には彼れの行爲もさして不思議には映らなくなつた。

 十一時が鳴ると、辰男は椅子を離れて押入から夜具を取り出した。そして、便所へ行つた歸りに、階下の炬燵の殘り火を掻き起して、半身をずり込ませて、氣儘きままに温まつた。おのづから睡氣ねむけの差すまで、かうして過してゐる二三十分間が、彼れには一日中の最も樂しい時間であつた。……今日新たに習ひ覺えた英語を口の内で繰り返してゐたが、ふと、弟の明日の出立が思ひ出されて、自分が眠つてゐる間に出掛けられては殘念な氣がしたので、いつもよりも早目に炬燵を出た。

 しきゐで仕切られてゐるだけで、かつふすまの立てられたことのない自分の居間で、短い敷蒲團に足を縮めて横になつて目を閉ぢた。何時もならば、目を閉ぢると直ぐに睡眠ねむりに落ちるのだが、今夜は慣例を破つて、まだ眠氣の催さぬさきに炬燵を離れたゝめか、頭が冴えて眠付ねつきが惡かつた。

 何處かの障子を破つてゐる猫の爪音がうるさく耳に付いた。辰男は「シツ〳〵。」と云ひながら疊をバタバタ叩いたが、やがてランプを點けて音のする方へ行つて見ると、猫は最早障子の破れ目から縁側へ飛び下りて啼き聲を立てゝゐた。雨戸を少し開けて猫を屋根の方へ追ひ出しながら、辰男は久し振りに自分の村の夜景色を眺めた。十數町を隔てた小學校へ往來ゆききする外には、春にも秋にも殆んど一歩も門を出たことがないのみか、家の周圍にどんな騷ぎがしてゐようとも、滅多に窓の外へ顏を出したことがなかつたので、平生雨戸一枚隔てた外の景色とは馴染みが薄いのだつた。

 夕月は既に落ちて、幾百もの松明たいまつが入江の一方に繪のやうに光つてゐる。耳を澄ますと小波さざなみの音が幽かに聞えたが、空も海も死んだやうに鎭まつてゐる。宮を圍んだ老松は陰氣な影を映してゐる。彼れは他郷から歸省した者のやうに、今夜は少年時代の自分の姿を闇の中の彼方此方あちらこちらに見詰めた。……もつと快活で元氣のよかつた昔の事が未生前みしやうぜんの事件のやうに心に浮んだ。

 冬でもの笠を被つて濱へ出て、餌を拾つて、埠頭場はとばに立つたり幸神潟かうじんがたの岩から岩を傳つたりして、一人ぼつちでよく釣漁つりをしてゐた。釣れても釣れなくても、兄弟や近所の友達と遊ぶよりは面白かつた。潮が滿ちて潟が隱れると、衣服きものを胸までまくし揚げて、陸へ上るので、衣服は何時いつも汐臭かつた。あの時分は川尻によしが生えてゐた。潟からは淺蜊あさりしじみはまぐりがよく獲れて、奇麗な模樣をした貝殼も多かつた。が、今は入江の魚が減つて、岩のあたりで釣魚をしたつて、雜魚ざこ一匹針にはかゝつて來ないらしい。山や海の景色もあの時分は今よりも餘程よつぽど美しかつたやうに思はれる。向ひの小島へ落ちる夕日は極樂の光のやうに空を染めてゐた。漁夫れふし身體からだ付きからして昔はいはのやうだつたり枯木のやうだつたりして面白かつた。

 お宮の松にはふくろんでゐたのぢやがと、その不氣味な鳴き聲を思ひ出しながら、暗い梢を見上げてゐると、その木蔭から一羽の鳥が羽叩はたたきして空を横切つてゐるやうな氣がした。

 辰男は雨戸を閉めて寢間へ戻つてからも、何となく物哀れな氣持がした。側の壁に懸けて置きながら日頃忘れ果てゝゐた、ヴアヰオリンに目がついて久し振りで彈いて見たくなつた。樂器を包んだ黄ろい袋は夜目にも目立つほどに汚れてゐた。

 山間の寂しい小學校にゐた間、俸給の餘剩あまりを積んであがなつて、獨り稽古で勝手な音を出して、夜毎にこれをもてあそんでゐたことが、涙ぐまるゝやうな追憶となつて、乾いた彼れの心をうるほはした。

「明日の晩には是非彈いて見よう。春高樓を彈いて見よう。」……彼れは新しい英字の變則な發音よりも、昔馴染みのヴアヰオリンの變則な音色に、一層強く自分の魂が打ち込まれさうに思はれた。



 辰男の明け方の夢には、わらびえる學校裏の山が現れて、其處には可愛らしい山家乙女やまがをとめが眞白な手を露出むきだして草を刈りなどしてゐた。……と、誰れかに呼び立てられたやうな氣がして目を開けたが、左右のには誰れもゐなかつた。良吉は最早出立したのか知らんと、急いで階下したへ下りると、弟は竹の手のついた煙草盆を膝に載せてゐる父親の前に不恰好なお辭儀をして、これから出掛けようとするところだつた。皆んながあががまちに突立つて見送つてゐた。

 辰男はそつと皆んなの後ろに寄つて、默つて弟の出て行くのを見てゐたが、直ぐに二階へ引返して、弟を乘せたくるまが濱通を過ぎるのを見下ろした。俥の音の消えるまで窓際を離れなかつた。

「良さんも行つてしまうた。」何時いつにか勝代がそばに來てゐた。「これで勝が出て行かうものなら、辰さんは二階に一人法師で淋しうなるぞな。」

「…………。」辰は默つて茫然ぼんやりしてゐた。

「早う嫁さんをりなさいな。小串をぐしに丁度よさゝうなのがあつて、東屋の爺さんが話を持つて來たから、も一度よくただして、成るべくならそれにでも極めたいと、お父さんが云うて居つた。少々氣に入らんところがあつても我慢して、その女を嫁さんに貰うたらえゝにな。傍の者が皆んな相應だと思ふたら、辰さんも強いて否とは云はんでせう。」勝代は母親の命令で、何氣ない風で兄の腹の中をさぐつて見た。

「……そんなことはお前が訊かいでもえゝ。」辰男は鬱陶うつたうしい聲でさう云つて、自分の居間から齒磨粉と手拭を持つて來て、靜かに階下へ下りて井戸端へ出た。大きな酒樽にどつさり大根が漬けられてあつて、大嫌ひな糠味噌ぬかみその臭ひが鼻を襲つて逆吐むかつきさうになつた。

 勝代は、「何であゝ變人なのであらう。家中で私だけが同情してやつてるのぢやないか。」と忌々いまいましく感じた。が、しかし、後で直ぐに心を和げて、自分がかうして一緒にゐるのも今暫らくの間だから、出來るだけ大切にして上げて惡く思はれぬやうしたいと思ひ返した。……外の兄弟は皆んな好きな學問をしてゐるのに、辰さんばかりは一生こんな汚い村の先生をして暮すんだもの、可哀さうだ。お父さんが不公平だと、兄の身の上を不仕合せな人としてあはれんだ。そして、紙箒はたきを持つて兄の机の上の埃を拂ひながら、書物の間に插んである洋紙をのぞいて、まづい手蹟で根氣よく英字を書き留めてゐるのに、感心もし、冷笑を浮べもした。その中には、同窓の誰れにも劣らなかつた英語自慢の勝代にも解き得ない文句が多かつた。

 〝Nonsense〟といふ言葉には圈點けんてんを附けて、ノンセンスと假名をも振つて大事さうに記してゐる。

貴女あなたの云ふことはノンセンスよ。」などゝ、朋輩の間で言ひ合つたことを勝代は思ひ出して獨り笑ひをした。そして、「辰さんはこの英語の意味を理解して居るのか知らん。」と訊きたかつた。

 と、そこへ、辰男は梅干で茶漬の朝餐あさめしを濟まして、齒を吸ひ〳〵上つて來たので、勝代は押入から洋服を取り出してやつて、

「晩まで勝にこのテーブルを貸してお呉れな。腰を掛けて勉強したら、お腹がよう減つて氣持がようなるかも知れんから。」

「…………。」辰男は自分の机や椅子を他人ひとに──たとひ妹であつても──使はれるのが厭であつたが、他人に向つて──たとひ妹であつても──否と斷言することは出來なかつた。無論快い承諾を與へる氣にもなれないのだが。……

「使うてもよからう! 本はちやんとこのまゝにして置くがな。」

「フーン。」と辰男は微かな返事をした。カラアもネクタイも付けない洋服の上に短いトンビを着て、辨當を提げて裏口から家を出て、狹い裏道を通つて學校へ向つた。

 子供達も揃つて出て行くと、廣々とした家の中は大風の跡のやうに靜かになつた。母や兄嫁は立つたり坐つたり、何となしに家事に忙しかつたが、勝代はざつと二階の掃除をして、時間外れの朝餐を一人で食べると、下女に吩咐いひつけて、二階の炬燵に火を入れさせて、閉ぢ籠つた。良吉の歸つてゐる間入學試驗の準備を怠つてゐたので、最早小説など讀み耽つてはゐられなかつた。上京までの日數を數へると心があわただしかつた。……しも落第をしようものなら、一年前に入學してゐる朋輩に對しても、家の者や村の者に對しても、おめ〳〵顏は合はされない。とても生きてゐられないと、神經をたかぶらせながら、英語讀本を披いた。

 が、辭典を片手に勢一杯研究してゐながら、心はややもすると書物から離れて、外の思ひに疲れた。深夜も白晝のやうな東京で、落第した自分がモルヒネか何かの毒藥を飮んで自殺する悲しい有樣を空に描いたり、西洋の婦人と自在に會話を取りかはしてゐる得意な有樣に胸を轟かせたりしていたづらに時を過した。運動不足のために、柔かい食物も消化が惡くて、勉強に取り掛ると、腹の重苦しいのが一層氣になつた。

 辰さんのやうに一心不亂に勉強するつもりで、炬燵を離れて兄のテーブルに向つたが、裾の方が寒くて、手の先も冷えて、とても長い辛抱は出來なかつた。で、再び炬燵の側へ戻つて、額をやぐらの縁に押し當てゝ、取り留めのない空想に耽り出した。好きな蜜柑みかんを母親が籠に入れて持つて來て呉れると、胃に惡いと知りつゝ手を付けて二つ三つ甘い汁を啜つた。


 辰男は極つた時刻に學校から歸つて、テーブルの位置も書物の配置も亂されてゐないのに安心した。衣服を着替へて椅子に腰を掛けると、昨夕ゆうべヴアヰオリンの音を戀しがつたことを思ひ出して、壁の方へ目を向けたが、感興は何時の間にか消えてゐて、そんな物を手に執るのさへものうかつた。矢張り英語修業に心が惹かれた。

 夕日は障子の破れ目から、英文典の上に細い黄ろい光線ひかりを投げてゐる。下女はランプに油をいで、部屋々々へ持ち廻つてゐる。



 十日にはうまい魚を買ひ溜めて待ち設けてゐたのに、榮一は歸つて來なかつた。「もう四五日遊んで歸る。」と、大阪の市街まちを寫した繪端書を寄越した。

 誰れよりも勝代が一番長兄の歸省を待ちかねて、母親に向つて頻りに噂をしてゐた。「榮さんが春まで家に居つて呉れると、勝も東京へ隨いて行けるのぢやけれどな。戻つたと思ふと、直ぐにまた行つてしまふんでせう。東京で暮すよりや田舍に住んで居る方が仕合せだと、よく手紙に書いて來るけれど、自分だつて一月とも田舍にはぢつとして居られんのだもの。……學問した者はこんな下等な人間ばつかり住んで居る村へ戻つて來たつて話相手はないし、見る者聞く者が嫌になつて仕樣があるまい。勝には榮さんの心持がよう分つとるがな。……勝もいまうちにせつせとお姉さんや祖母さんのお墓へ詣つて置かうと思ふとるけど、途中で人に顏を見られるのが氣味が惡いから、どうしても出て行かれん。勝は外を通つてる人の聲を聞いても時々氣疎けうといことがありますぞな。ようあんな下卑たことを大きな聲で喋舌しやべつて、げら〴〵笑つて居られると愛相あいそが盡きてしまふ。こんな人間ばかりのゐる村で一生を暮すとすりやつんぼになりたいと勝は思ふがな。」

 無口な母親は、娘の言葉に輕く雷同するだけだつたが、才次がはたで聞いてゐようものなら、默つて妹に話を續けさせて置かなかつた。兄弟中では常識に富んだ穩やかな彼れは、決して烈しい口は利かないが、小間癪こましやくれた妹の言語態度が女學生めいてゐるのが氣に觸つて、揶揄からかふか冷かすかしなければ蟲が收まらなかつた。

 ある夜も勝代が、上京心得と云つたやうな事を書いてある東京の友達の手紙を母に讀んで聞かせて、母子が炬燵に差向ひで話し込んでゐるところへ、筒袖を着た才次は、兩手を細い兵兒帶へこおびに突込んだまゝ、のそ〳〵傍へやつて來た。

「お前の友達は皆んなペンで手紙を書くんかい。」と、四角な桃色の封筒を手に取つた。

「昔風の候づくめの手紙なら卷紙に筆で書くのがよう似合ふとるけど、言文一致にや西洋紙にペンを使ふた方がえゝ。第一一枚の紙にも仰山に字が書けて、お父さんの口癖の經濟的にもなるんぢやもの。」勝代は皮肉をまぜて答へた。

「まだ友達同士英語で手紙のやり取りは出來んのかい。」才次は差出人の名前を見て封筒を下へ置いて、

「このひとも東京言葉を勉強しに、高い資本もとでを費うて東京の學校へはいつとるのかい。」

「そないな惡口は勝等には何ともないがな。此方こちらに居る者でも、手紙にはお互ひに東京言葉を使うとるんぢやもの。」

「……東京の女子をなご變梃へんてこな言葉を使ふぜ。一寸道を訊いても、ぺら〳〵と云うて何やら譯が分らん。」

「東京の人は一體に口が早いんぢやらうか。」勝代はふと眞面目に尋ねた。そして、卑しい田舍訛いなかなまりを朋輩にわらはれはしないかと氣遣つた。

「口が早いばかりぢやない、何か知らん忙しさうでゴタゴタした所ぢや。わかうちはあんな町で好きなことをして暮すのもよからうが、歳を取つたら居れる所ぢやない。田地まで賣つて大阪や神戸へ行つた者が、よく見い。大抵たいてい失敗しくじつてヒヨコ〳〵戻つて來るぢやないか。まうけて他所よそぜにを持つて戻る者は十人に一人もありやせん。大抵はこの貧乏村の錢を持ち出して都會へ捨てに行くんぢやから、村はます〳〵貧乏になるばかりぢや。近い話が寺の坊主からして、わざ〴〵損をしに神戸へ投機をやりに行くといふ有樣だもの。」

「來月の祖母さんの十三回忌までには、お住寺ぢゆうぢさんは戻つて來るのぢやらうか。」と母親が口を出した。

「法事よりも村に葬式があつたらどうするつもりでせう。坊主は寺の物を賣り飛ばして他所へ行つてもよからうが、さう荒して出られちや、後ではこの寺へ來て呉れ手がないから檀家が迷惑ぢや。」

耶蘇教ヤソけうで葬式をすると、かへつて輕便で神聖でえゝがな。勝はお經も嫌ひだし黒住くろずみのおはらひも嫌ぢや。」

 才次は宗旨などどうでもいゝので、妹が友達の耶蘇信者が女學校で死んだ時の儀式の樣子を話すのを難癖をつけずに聞いてゐたが、やがて、つき云はうとしたことに話を戻して、

「家の者も東京なり神戸なり、出て行く以上は、その土地々々に一生落着くことにして、生活くらしむづうなつて生家うちへ轉がり込まんやうにきつぱり極りをつけとかにやならんと思ふ。都會まち住ひをした者に田舍を手頼たよりにせられちや、此方こちらで質素な生活をしてる者は迷惑するし、第一割に合はん話ぢやから。兄弟だからまさかな時にや世話になりやえゝといふ量見で居られちや共倒れぢや。」

「それは利己主義ぢやがな……。」

「どうせ皆んなが利己主義ぢやから、初めからさう極めとくに限るんぢや。辰男だけはこの村で別家さすにしても、此處とは少し離れて家を建てゝやるとえゝ。直ぐ側に親類が並んでると、よけりやよし、惡けりや惡しで、そねんだりけなしたりし合つて煩いものぢや。」

「昔は兄弟は近い所に居るのがえゝと云うて、高松の伯父さんなぞは直ぐ裏の地續きに、自分の家と間取りから柱の數まで同じい家を弟に建てゝやつたのぢやが、今時はさうは行かんぢやらう。」と、母親は反對もしなかつた。

「兄弟同士嫉むことまで考へとかいでもえゝがな。家の兄弟にはそんな下等な人間はありやすまいに。」

 勝代は細い眉の間にしわを寄せて、「辰さんはあないな風なのに、誰れも構うてやらにや可哀さうぢやがな。勝は貧乏しても何處で暮しとつても、辰さんの力になつて上げにやならん。」と、昂奮した調子で云つた。

他人ひとのことよりや、勝は自分の身に間違ひのないやうに考へとれ。女子をなごが愚圖々々して歳を取つて、英語を喋舌しやべつて學校の先生になつたつて、何が面白いことがあらうぞい。」才次は、眼鏡を掛けた妹の平たい顏を憐憫みじめな思ひをして見入つた。

「才さんに學資を出して貰やあせず……。」勝代は兄がややもすると、自分の樂しい理想を破らうとするのが口悔くやしくて、かう言ひ放つて、顏を見られぬやうに炬燵の上に首伏うつぶした。

 才次は澁い顏して口を噤んだ。

女子をなごで月給取りになるのも、容易なことぢやあるまい。」と、母親は感じのない聲で獨り言のやうに云つた。

 皆んなが暫らく默つてゐるところへ、辰男は階子段をきしませて、のつそり下りて來て炬燵の空いた所へ足を入れた。

「辰さんはテーブルの下へ火鉢を置きなさいな。辰さん一人火の氣のない所に居つちや割に合はんぞな。」勝代は今氣がついたやうに云つた。

「ランプを點けつ放しにしといちや危ないぜ。」才次は二階から差して來る燈火あかりを見上げて云つた。



 勝代は腹がチク〳〵痛みかけると、懷爐くわいろだけでは心許なくて、熱湯を注ぎ込んだ大きな徳利を夜具の中へ入れてることにしてゐたが、ある夜、徳利の效き目がなくつて、眞夜中頃に暫らく忘れてゐた激しい痛みを感じ出した。階下へ下りて母親や兄嫁を驚かすのは氣の毒であるし、それよりも自分の腸胃のまだ癒つてゐないことを家の者に知られて、東京行を引き止められるかも知れないのが恐しくて、腹を壓へてうめきながら我慢してゐた。が、疼痛いたみは容易に收まらなくつて、唸き聲は自然に高くなつた。

 次の室に寢てゐる辰男の耳にも入つた。彼れはふと目をまして、それと氣がつきながら、妹の樣子を見に行かうともせねば、聲を掛けもしなかつた。寢返りを打つて再び眠りに就かうとした。が、呻吟うめきが次第に耳障りになつて仕樣がない。猫を追ひ出すやうにこの睡眠ねむりの邪魔物を遠ざける譯には行かない。……で、彼れはランプを點けて、そつと自分の寢床を、先日こなひだまで良吉のゐた次の室へ持つて行つた。其處では呻吟聲が大分遠くなつた。

「辰さん……。」と、勝代は襖を洩れる燈火に目をつけて、術なげな聲を出した。

 辰男は返事をしない。夜半よはの寒さに身震ひして寢床の中へ藻繰もぐり込んで、燈火を消した。

 勝代は再び兄を呼んだが、返事がないので、寢床からひ出して襖を開けて更に呼んだ。「お父さんの机の上にある藥を取つて來て呉れんかな。」と頼んだ。藥嫌ひで醫者が呉れた藥さへ二度に一度は祕密ないしよで棄てたほどなのに、今の場合父の常用の消化藥をさへ手頼りにする氣になつた。

 確かに兄は起きてゐたのにといぶかりながら、勝代は手索てさぐりでマツチを搜して、ランプを點けて見ると、兄はいつもの所に寢てゐなかつた。近眼をしかめてやう〳〵その寢床を見付けると、腹を壓へながら側へ寄つて耳許で聲を掛けた。誰れにも知らさないでそつと取つて來て呉れと頼んだ。

 辰男は物をも云はず、突如だしぬけに起き上つた。そして、裾の短い寢衣ねまきのまゝランプを持つて階下へ下りて行つた。行燈あんどんの火は今にも消えさうに搖らめいてゐた。彼れは父の部屋や兄の部屋には年に一度足を入れることがあるかないかで、部屋の樣子がどうなつてゐるか知らなかつた。

 音のせぬやうに襖を開けて入ると、子供の時分から見馴れてゐた赤毛氈あかまうせんを掛けた机が以前の通りに壁際に据ゑられてあつた。机の上には大きなすずりや厚い帳簿や筆立てや算盤がごだ〴〵と一杯に置かれてあつた。新聞に蔽はれてゐるあをい藥瓶を搜し出しながら、彼れはふと大谷圓三といふ封筒の文字に目を留めた。母が先日問はず語りに云つてゐた縁談の周旋者の名前が大谷だつたので、彼れは封筒を取り上げてのぞいたが、手紙を引き出して讀まうとはしないで、元の所に置いた。そして、柱に掛つた寒暖計を見て、「三十五度か、寒い譯だ。」と思ひながら部屋を出た。どの室からも安らかな寢息が洩れてゐて一人も目醒めてゐなかつた。ガランとした家の中には寒い風が流れてゐる。

 勝代は待ちかねた藥瓶を兄から渡されると、直ぐに手の平に藥を移して、「このくらゐの分量で利くぢやらうか。」と兄に訊いた。

「そんな藥は毒にもならん代り利きやせん。」と、辰男はぶる〳〵ふるへながら、顏をしかめた妹の苦しげな樣を見下ろしてゐた。

「水を持つて來て呉れなんだのかな。」

「……徳利の湯で飮んだらよからう。」

 勿體振つた兄の言葉を妹は可笑しく感じた。教へられた通りに、徳利の栓を拔いて口移しに湯を啜つた。大息をいて、いくらか安らかな氣持になつて、

階下したでは皆んな眠とつたかな。勝は心細いから、も少し其處で起きとつてお呉れな。」

 さう云はれると、辰男は自分の寢床へ退くことが出來なかつた。

「勝はこないに身體からだが弱うちや困るがな。ほかの兄弟は丈夫なのに勝一人だけは……。」

「……運動せんからぢや。」

「この村にや厭らしい人間ばつかり居るからそとへ出るのが恐しいもの。……辰さんは身體が強いからえゝなあ。うちぢやお姉さんが早う死んだし、勝も長生きをせんやうに思はれるけれど、女子をなごは婆さんになるまで生きて居らん方が結句けつく仕合せなやうに思はれる。お姉さんは家で皆んなに介抱されて死んだのぢやけれど、勝は他所よその土地で一人で死ぬのぢや。」勝代は疼痛いたみやはらぐのにつれてこんなことを云つて涙を浮べた。

 辰男は幾度もくさめをした。寒さに堪へられなくなるし、妹の愚かな言ひ草に興も起らないので、言葉の切れ目にその側を離れて、自分の寢床へ入つた。夜具の中へ首をすつ込めて足を縮めて、冷えた身體の暖まるので、いゝ氣持になつてゐたが、すると今見た手紙の内容なかみがいろ〳〵に想像され出して、自分に女房の出來るのが不思議でならなかつた。……學校の小さい生徒か母か妹かの外には、女と口を利いたこともなければ、染々しみじみ女の顏を見たこともないので、思ひ出にも若い女の影ははつきり浮ばない。山間の學校にゐた時分には土地の若い女に逢ふと極りの惡い思ひをして顏をらせてゐたのだつたが、今は平氣でゐて自然に目がつかぬやうになつてゐる。……彼れは自分の縁談から、どんな男にも女房のあることに思ひ及んで、妙な氣がした。そして、勝代が出て行つた後で、まだ見たこともない女と自分とが、この二階に住ふことを夢のやうに感じながら、ぐつすり眠睡ねむりに陷つた。

 翌日あくるひ學校への往き返りの途中でも彼れは屡々しばしば結婚について珍しげに考へた。擦れ違ふ女の姿形を無心には見過せなくて、むさぐるしい田舍女の一人々々が頭の中に浸み込んだ。テーブルに向ふには向つたが、今日は英字の解釋に早く根氣が疲れて、所在なさに屡々机を離れては障子を開けて外を眺めた。

 西風のいだ後の入江は鏡のやうで、漁船や肥舟こえぶねは眠りを促すやうなの音を立てた。海向ひの村へ通ふ渡船は、四五人の客を乘せてゐたが、四角な荷物を脊負うた草靴わらぢ脚袢きやはん商人あきんどが驅けて來て飛び乘ると、頬被りした船頭は水棹みさをで岸を突いて船をすべらせた。辰男は暫らく船の行方ゆくへを見入つてゐたが、乘客の笑ひ話は靜かな空氣を傳つて彼れの耳にも入つた。入日の海や野天の風呂場をも彼れは久し振りに見下ろした。夜はいつもよりも長く炬燵に當つて過した。



 榮一が歸つて來たのは、豫報の日取りよりも遲れ〳〵て、最早誰れも忘れたやうに噂にさへのぼさなくなつた頃であつた。夕餐ゆふめしの膳が片付いて、皆んなが彼方此方あちらこちらへ別れてゐるところへ、俥夫の提灯ちやうちんを先に、突如だしぬけに暗い土間へ入つて來た。散らばつてゐた家の者はまたぞろ〳〵出て來て一ところ〳〵に集つた。勝代も物音でそれと知ると、書物をいて二階から下りて來た。

 が、辰男一人は椅子から身動きもしなかつた。二三日前から作り始めた英文に心を打ち込んでゐた。「眠つた海」「無用な行爲」などがみづから選んだ課題であつた。大谷が間に立つてしかけた縁談は、碌に話の進まぬ中に立ち消えになつて、父の口から明ら樣に彼れに告げて意向を確める必要もなくて濟んだが、彼れは二三日妄想まうさうに惱んだゞけで、元の彼れに返つて、テーブルに釘付けのやうになつてゐられた。……

「風が吹けば浪が騷ぎ、汐が滿ちれば潟が隱れる。漁船は年々殖えて魚類は年々減りつゝあり。川から泥が流れ出て海は次第に淺くなる。幾百年の後にはこの小さい海は干乾ひからびて、魚の棲家すみかには草が生えるであらう。……」こんな自作の文章を、辭書を繰つては、一々英字で埋めて行つた。

 以前二三度英語雜誌へ宿題を投書したことがあつたが、一度も掲載されなかつたので、今は全くそんな望みを絶つて、只自作の英文は絹糸で綴ぢた洋紙の帳簿に奇麗に書き留めて置くにとどめてゐる。自分ながら、初めの方のに比べると文章は次第に巧みになつてゐるやうな氣がする。熟語なども折々使はれるやうになつた。

 階下が賑つてゐるので、炬燵に當りに行くのを遠慮してゐたが、末の妹が息をせか〳〵きながら上つて來て、「榮さんのお土産。」と云つて、栗饅頭くりまんぢゆうを二つ机の上に置いて行つた。辰男はインキに汚れた骨太い指でつまんで大口に食べた。そして、冷たくなつてゐる手を内懷に入れて温めながら暫らく息休めをした。

 妹と母とは、階下から夜具を運んで、次の室へ兄の寢床をのべた。と、間もなく榮一が上つて來たが、辰男の方を一寸振り返つたばかりで、次の室へ入つて襖を締めた。直ぐには寢ないで、手紙を書いたり雜誌を讀んだり、良吉が殘して行つた書物を手に取つたりしてゐた。矢鱈やたらに吸つてゐる煙草の煙は、襖の隙間から洩れ出て、辰男の顏のあたりにも漂つた。

 階下が寢鎭まつてから暫らく立つて、榮一は部屋にみなぎつた煙を外へ出して、燈火あかりも消して寢床に就いた。平生ふだん眠付ねつきの惡いのが病ひなのに、堅い寢床が身體に馴染まなくてますます寢づらかつた。

「辰はまだ寢ないのか。燈火が邪魔になつていけないな。」

 四年目で耳に觸れた兄の聲は、相變らず尖つてゐた。辰男はその聲を聞くと同時に、ペンを筆筒に收めてインキ壺に蓋をした。ランプをも吹き消した。

 翌日は日曜なので、辰男は目が醒めても容易に起き上らないで、寢床の中で書物を讀んでゐた。お土産の栗饅頭を一つ母が枕許に置いて行つて呉れた。風もないし障子に差した朝日は春のやうにうららかだつた。

 榮一は早く起きて海岸を散歩して來たが、朝餐後に一時間ばかり讀書すると、また外へ出ようとして階子段の方へ行きかけたが、ふと振り返つて、「辰。……山へ登つて見んか。」と誘つた。そして、二三歩辰男の居間へ踏み込んで、テーブルの上に目を据ゑた。

 辰男は立ち上りざま初めて兄の顏を熟視した。……四年前よりも父の顏にいちじるしく似通つてゐた。兄が身體をかがめて、英作文を一二行見てゐる間に、辰男は帽子を被りトンビを着て直立してゐた。

 一人はステツキを持ち草履ざうり穿き、一人は日和下駄ひよりげたを穿いて、藪蔭を通り墓地を拔けて、小松の繁つてゐる後ろの山へ登つた。息休めもしないで一氣に登つたので、二人の額からは汗がぽた〳〵落ちた。頂上近い所にある小祠ほこらまで來て、その側の石に腰をおろした。小祠は田舍の郵便箱のやうな形をしてゐる。扉は壞れて中には枯松葉が散つてゐるだけで、神體はなかつた。其處からは曲りくねつた海を越し山を越して、四國の屋島や五劒山が幽かに見えるのだが、今日は光が煙つて海の向うは糢糊ぼんやりしてゐた。

 草履を穿いてゐる兄の方はかへつて足が疲れ息切れがしてゐたが、冷々ひやひやした山上の風に汗を乾かして爽やかな氣持になると、今までの沈默を破つて、弟に向つていろ〳〵の話を仕掛けた。彼方此方に見える島の名を訊いたり、近くの山の裾の村々の有樣を訊いたりしたが、はつきりした答へは得られなかつた。

 辰男はまるで他郷を見渡してゐるやうで方角も取れなかつた。萬國史で見た西洋の天子の冠のやうな形をした小さい島が入江から眞近い所にあるのに、今始めて氣がついた。入江に出入ではいりして來る漁船は皆その側を通つてゐるのに、彼れはかつて其處までも行つたことがなかつた。「あれが鍋島だ。樹がよく茂つてるから、あの周圍まはりにはよく魚が寄つてると云ふぢやないか。」と、却つて兄に教へられたが、さう聞けば島の名前は子供の時から聞き馴れてゐるのだつた。

「しかし鍋よりや王冠によく似てゐる。」と思つて、冠島といふ課題で英文を作らうと思ひついた。目の下の墓地も、海を渡つてゐる鳥の群も、辰男には皆英文の課題としてのみ目に觸れ心に映つた。飛んでゐる五六羽の鳥はとびだかがんだか彼れの智識では識別みわけられなかつたが、「ブラツクバード」と名づけただけで彼れは滿足した。

「辰は英語を勉強してどうするつもりなのだ。目的があるのかい。」冬枯の山々を見渡してゐた榮一は、ふと弟を顧みて訊いた。

 ブラツクバーヅの後を目送しながら、「飛ぶ」に相當する動詞を案じてゐた辰男は、どんよりした目を瞬きさせた。直ぐには返事が出來なかつた。

「中學教師の檢定試驗でも受けるつもりなのか。……英語は面白いのかい。」と、兄は疊みかけて訊いた。

「面白うないこともない……。」辰男はやがて曖昧あいまいな返事をしたが、自分自身でも面白いとも面白くないとも感じたことはないのだつた。

「獨學で何年やつたつて檢定試驗なんか受けらりやしないぜ。外の學問とは違つて、語學は多少教師について稽古しなければ、役に立たないね。」

「…………。」辰男は默つて目を伏せた。

「それよりやそれだけの熱心で小學教員の試驗課目を勉強して、早く正教員の資格を取つた方がいゝぢやないか。三十近い年齡としでそれつぱかりの月給ぢや仕方がないね。」

「…………。」足許でくぬぎの朽葉の風にひるがへつてゐるのが辰男の目についてゐた。いやにわびしい氣持になつた。

「今お前の書いた英文を一寸見たが、全で無茶苦茶でちつとも意味が通つてゐないよ。あれぢやいろんな字を並べてるのに過ぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使つて、あんなことをやつてるのは愚の極だよ。發音の方は尚更間違ひだらけだらう。獨案内の假名なんかを當てにしてゐちや駄目だぜ。」

「…………。」

娯樂なぐさみにやるのなら何でもいゝ譯だが、それにしても、和歌とか發句とか田舍にゐてもやれて、下手へたなら下手なりに人に見せられるやうな者をやつた方が面白からうぢやないか。他人には全で分らない英文を作つたつて何にもならんと思ふが、お前はあれが他人に通用するとでも思つてるのかい。」

 さう云つた榮一の語勢は鋭かつた。弟の愚を憐むよりもののしあざけるやうな調子であつた。

「…………。」辰男は黒ずんだ唇を堅く閉ぢてゐたが、目には涙が浮んだ。無論他人ひとに教へるつもりで讀んでゐるのではないし、他人に見せるために作つてゐるのではないし、正格せいかくでないことは常に承知してゐるが、全然まるきり無價値だとこの兄に極められると、つく〴〵情なかつた。

「さあ、歸らうか。」と云つて、榮一は裾の埃を拂つて、同じ道を下つた。墓地近くなつて、のろ〳〵下りて來る弟を待ち合せて、妹の墓と祖母の墓とへ詣つた。目が窪んで息の臭かつた妹の死際の醜い姿は辰男の記憶にはまざ〳〵と刻まれてゐて、妹といふと直ぐそれを思ひ出したが、今墓場に立つてゐると、×子の墓と彫つた新しい石碑に對して追慕の感じは起らないで、石の下の棺の中でうじに喰はれてゐる死骸の醜さが胸に浮んだ。

 僧侶が投機にしてからは、寺は雨戸をとざして空屋のやうに汚れて、墓場の道は草が生え木の葉の散るにまかせてゐた。兄弟は朽葉を踏んで墓地を下つた。

「辰は家で許したら、學校へ入つて眞劍に英語の稽古をしようといふ氣があるのかい。」榮一は前とはちがつて穩やかに話しかけた。

 が、辰男は兄の言葉に甘えた快い返事をしようとはしなかつた。「別段學校へ入りたいといふことはありません。」と、干乾びた切口上きりこうじやうで答へた。

「せめて、もう四五年早く決心して、強硬に親爺おやぢを説き付けたなら、東京へ英語研究に行けんことはなかつたらうのに。勝代さへ行くやうになつたのだもの。……しかし、お前は今からぢやあまり遲過ぎるね。」

 家へ歸ると、辰男は外に自分の身を置く所がないやうにテーブルの前に腰を掛けたが、作りかけの文章に目を向けるのが厭な氣がした。

 午過ぎになると、所在なくて、文典など讀みだしたが、今までのやうにかたはら人無きが如き態度ではゐられなくて、兄の足音が聞えると書物を脇へ片寄せた。



 階下で兩親や才次などが一家の雜務に取り掛つてゐる間に、二階では三人が各自めいめいの部屋に籠つて、それぞれに讀んだり書いたりしてゐた。一人も他の部屋へ入つて無駄口を利くこともあまりなかつたが、階下から才次などが上つて來て勉強を亂すことは尚更稀だつた。良吉のゐた時分のやうな賑やかな笑ひ聲や打ち解けた雜談は二階では跡を絶つてゐて、榮一の歸省は勝代が豫期したやうな明るみを家の中へもたらさなかつた。

 榮一は自分をはばかつてゐる辰男に向つて強いて話を仕掛ける氣はなかつたが、でも、折々辰男に對しては神經を凝らしてゐた。ランプの下で難解な英字に青春の根氣を疲らせてゐる弟の青黒い顏の筋肉の微動をも、襖越しに見透してゐるやうに感ずることもあつた。しかし自分に親しみを寄せたがつてゐる勝代をば、極めて淡く見過してゐた。妹の聞きたがつてゐる東京の女學校や女學生の氣風について話をしてやるでもなく、妹の東京行について一口も明ら樣に可否の意見を述べなかつた。二十はたち未滿の女が小説で知つてゐる東京にあこがれて、東京の何とか云ふ英語學校へ入つて、學問で身を立てゝ、一生獨身で通すといふやうな乳臭い言ひ草を眞面目に聞いて、兔や角と無用な陳腐な意見を述べる氣にはなれないのだつた。そして、ひそかに、「女の子にまで高等な學問をさせるやうになつたとすると、家の身代にも大分餘裕が出來たな。」と思つた。

 大勢炬燵を圍んで居る時、

「わしが初めて東京から歸つて來た年に大病にかかつて座敷で寢てると、勝が蚊帳かやの側へつて來ちや惡戲いたづらをしたり小便を垂れたりして煩くつて困つたよ。それが一人で東京へ行くやうになつたのだから、わしも知らない間に歳を取つたのだね。」と、榮一は幾年か隔てゝ會ふたびに不思議なほどかはつてゐる妹の顏を見入つた。

「榮さんよりや才さんの方が老けて見えるがな。才さんの頭にや白髮しらがが仰山生えてる。もう若白髮ぢやないなあ。」勝代がさう云つて、兄達の顏を見比べると、外の者も知らず〴〵相互たがひの顏や頭に目を留め出した。よく見ると、離れてゐた間の年月は誰れの顏にも刻まれてゐた。發育盛りの妹ばかり違つてゐるのではなかつた。

「何と云つても四十近くなると、人間はそろ〳〵衰へ出すんだね。」榮一は弟に向つて云つて、「おれ達が一生にやりたいと思ふ好きなことをやつて見るのは今のうちだぜ。金をいかして使ふのも今の中のやうな氣がするよ。」

「その事はわしの方が一層本氣で考へてる。」と、才次は話に乘つて來て、「少し資本が續けば、この土地でも隨分利益の上る事業があるんぢやが、資本を自由に出してわしに任せて呉れる者がないから些とも實行が出來ん。」と云つて、老父おやぢ何時いつまで經つても、財産の一部も彼等に手渡しゝない不平を微見ほのめかせた。

「おれは事業をやらうとは思はないが、今の中に少なくも氣儘な旅行をして見たいな。充分の路用を持つて、一二年西洋へ行つて來られゝばそれに越したことはないが、支那とか朝鮮とか、あるひは日本の内地だけでも端から端までゆつくり旅行して見たいよ。も少し歳が老ると、足が弱つたり無精になつたりして長旅が厭になるし、旅行の樂みといふものが減つて來るからね。内地なら旅費なんか幾らもかゝりやしない。千圓もあれば半年ぐらゐ方々で氣樂に遊んでられらあ。」

 旅行費に千圓とは、贅澤の極のやうに勝代は思つて「東京で暮しとれば、見る物聞く物が何でも揃うとつて、旅行なぞせいでもよからうにな。東京でさへ年中居ると單調になるぢやらうか。勝は去年の春からうちの門のしきゐから外へ出たことは數へるほどしかないのぢやもの。」

「わしは旅行しようとも學問しようとも思はんが、自分の計畫を一度は成功しても失敗しても實地にやつて見にや寢覺めが惡い。この歳までたつた一度自分量見でやつたことはないんぢやから。」と、才次は云つた。

「何か面白いことがあるのかい。」

「それは一寸今云ふ譯に行かんのぢやが、自分の得にもならんのに漁夫れふし等の世話を燒いてやつても詰らんからなあ。」

「しかし、この村の漁場をよくして村を繁昌させるのも面白い事業ぢやないか。喰ふに困らないで、さういふ公共的の仕事をやつてるのは愉快ぢやないかなあ。」

「いや他人ひとのことだと思ふと張り合ひがない。漁夫の方から云うても、組長には相當な人間を他所よそからでも頼んで來て、それで喰へるだけの月給をやつて働かせた方が得なのぢや。月給を取らにや喰へん人間なら、自然一生懸命に働いて、他村との懸け合ひでも漁場の見廻りでも行き屆くだらうし、漁夫等の望みなら無理なことでもやつて呉れるだらうが、名譽職の組長にやそんな眞似は出來ん。無理な注文をおいそれと聞いて飛び廻る氣にやなれんからなあ。」

「さうかも知れんね。」榮一は輕く弟に同意した。

「紀州の沖や土佐の沖ぢや、一網に何萬とぼらが入つたのぶりが捕れたのと云ふけれど、この邊の内海ぢや魚の種が年々盡きるばかりだから、次第に村同士で漁場の悶着が激しうなるんぢや。漁夫もこの頃は將來さきざきの望みのないことに多少氣がついて來て、思ひ切つて百姓になる者が出來て來たが、百姓だと米の飯に魚を添へて食ふ譯に行かんし、こんな村ぢや海でもくがでもえゝことはない。」

 かう云つた才次の言葉には力が籠つてゐた。「しかし、此處いらの奴は皆んな身體は強いし隨分過激な勞働には堪へるんだから、智慧と資本のある者が先へ立つて使つてやれば役に立つんだが……。」

「そりや何處でもさうだ。」

 榮一は深入りして弟の計畫の底を叩かうとはしなかつたが、才次は平生ふだん胸の中にもだ〴〵してゐる不滿な思ひを兄にこそ洩らし榮えがするやうに感じて、何かと問はず語りをした。可成りの財産のある家から良吉を養子に欲しいと申し込んで來てゐるのだから、早くその話を極めて家の負擔を減らした方がいゝ、僅かな財産の分配をされるよりは當人のためにもいゝと云つたり、しも夫婦養子の口があれば、才次自身大抵な家なら我慢して行つてやるつもりだ、こんなに愚圖々々して歳を取つてゐるよりはましだからと云つたりした。弟や妹が自分の知らない英語ばかりこそこそ勉強してゐるのを彼れはさも目障りでならぬと云つたやうな口調で話した。

 暫らく默つて聞いてゐた榮一は、「だけど、辰男が英語を樂みにして、一生通せるのなら、好きなやうにさせといたらいゝぢやないか。はたの者へ迷惑は掛けないのだから。」と辯護するやうに云つた。

「差し當つて迷惑は掛けんが、しかし、家族の一人として毎日同じ飯櫃の飯を食ふとると、自然に傍の者の氣を惡うすることがあるんぢや。白痴ばかでも狂人きちがひでもないんぢやから、外の兄弟並に扱はにやならんし、尚更仕末に困るが、どうも不思議な人間ぢや。」

「おれの子供の時分の氣持に似てやしないかと思ふ。おれも家にぢつとしてゐたらあゝなつてたかも知れないよ。」

 榮一は微笑しながらかう云つて、弟の話を外らした。

 勝代はとつくに炬燵を離れて、小さい弟を連れて座敷の縁側へ出て日向ひなたぼつこをしてゐた。落葉やとりの糞で汚れた小庭へ下りて久し振りで築山へも登つたが、昔の庭下駄は歩きつけない足にも重くつて、きに息苦しくなつた。



 榮一は毎日の日課として後ろの山へ上つて沖を見渡した。瀬戸通ひの汽船が島々の彼方かなたにはつきり見えて、春めいたうららかな日光ひかりが讚岐の山々に煙つてゐることもあれば、西風が吹き荒れて、海には漁船の影もなくつて、北國のやうな暗澹たる色を現してゐることもたまにはあつた。そんな風の強い日には、大きなうちの中がさながら野原のやうで、いくら襖や帶戸を閉め切つてゐても、何處からか風が吹き込んで、寒さを防ぐすべがなかつた。

「これでは冬籠りも出來ないね。早く東京へ歸ることにしようか。」と、榮一は故郷うちの樣子を見たゞけで滿足して、再び都の小さい借家へ歸らうとした。不漁つゞきで、海鼠なまこ飯蛸いひだこなどの名産もあまり口に入らないし、落着いて勉強も出來ないし、殊に家族の中に交つてゐると、急に歳を取つたやうな氣持になるのが厭だつた。

明日あすうちに立たう。」と、榮一は急に決めたが、ひそかにそれを喜んだのは、辰男だつた。明日の晩から、何時いつまでランプを點けてゐようとも、最早苦情を云ふ者はなくなるのである。彼れの英語の發音を試驗したり、彼れの英文について無慈悲な批評を下したりしたがる素振を見せて驚かす者がなくなるのだ。……辰男はこの頃英字に親しめなくなつて、ややもすると心が外へ散つて、寂しい詰まらない氣持がし出したのを、兄の所爲と思つてゐた。

「この書物は讀んでしまつたからお前にやらう、荷物は成るべく輕くしときたいから。」と、出立の前の夜、榮一は弟のテーブルの上に英書を二册置いて行つた。

 辰男は表題と著者の名前とを見詰めたが、讀み方をも意味をも判じかねた。そして、知らない文字に攻められるのが恐しさに、内部なかをば開けて見ないで、手馴れてゐる自分の書物で蔽うて机の片隅へ押し遣つた。

 今夜一晩と極つたゝめ、階下の炬燵には皆んなが集つた。珍しく親爺も加つて、何か知ら話が賑つてゐたが、辰男一人は相變らず、二階にぢつとしてゐた。書きかけの英作文にも取り留めのない疑ひのみ頻りに起つて容易に書き續けられなかつたので、懷手ふところでをしてぼんやり、風にうめいてゐる障子を見てゐた。すると心がゆるんで、われ知らず机にかうべを垂れて假寢うたたねをし出した。

 やがて、夢の中の物音に驚いてふと目を醒ますと、ランプは机の向うへ押し落されて、火は障子に燃え移つてゐた。……辰男は氣拔けがしたやうな顏をして突立ちながら、聲も立てず、直ぐには手出しもしなかつた。……外では風がザワ〳〵音を立てゝゐる。疊は石油に浸つて青い熖を吐いてゐる。……「このうちは燒ける。」と思ふと共に、灰燼くわいじんになつた屋敷跡の光景ありさまが彼れの心に浮んだ。

 やがて、彼れは兩手に力を入れて、何年も動かしたことのないテーブルを書物の載つてゐるまゝ、次の室へ移した。そして、座蒲團を丸めて、火を叩き消さうとしてゐるところへ、階子段はしごだんに氣立たましい足音がした。

「火事だ……。」と、榮一の慌てた叫び聲が階下にゐる人々の耳をつんざいた。外を通つてゐた者をも驚かした。

 大勢がどや〴〵驅け寄つて、口々に荒い言葉で指圖し合つて、燃え付いてゐる障子を屋根から外へ抛り出したり、バケツや手桶てをけ水甕みづかめの水をすくつて來たりした。父の目も血走つた。妹も息を切らして素足で井戸端へ驅けた。皆んなが騷ぎ出すと、辰男は後退りして薄暗い所に突立つてゐた。石油が燃え盡きると共に火の手は見る〳〵衰へたが、彼れのテーブルも書物もずぶ濕れになつてしまつた。轉げ落ちたノートは半ば灰になつてひら〳〵してゐた。

 つきから辰男の不注意を罵つてゐた父や兄は、火が消えて心が落着いてから、一樣に彼れの方へ目を向けてなじつたが、石のやうに身動きもしないで、堅く口を閉ぢてゐるのに呆れて、次第に相手にしなくなつた。

 疊を上げて汚れ物を片付けて、念のために二階の部屋々々を見廻つて、階下へ下りたが、誰れも皆睡氣を醒ましてゐて、子供まで中々寢床へは入らなかつた。

 見舞ひに來た隣り近所の者が歸つて、表の戸をおろした後、草臥くたびれ休めの茶を沸して駄菓子を食ひなどして、互ひに無事を祝して夜を更した。

「電氣にしとけばこんな危險はないのだがね。」と、榮一が云ふと、父は、

「電氣は不經濟なばかりぢやない、柱や鴨居かもゐへ穴を明けて家を臺なしにするから考へ物ぢや。今夜のやうなことがあるとすると保險はつけといた方がえゝかも知れんが。」

「辰の奴、何か碌でもないことを爲出しでかしやせんかと思ふとつた。これからは夜遲くまでランプを點けて置かせんやうにしませう。勝も他所よそへ行つて辰一人が二階に居ることになると不用心で仕樣がないから。」と、才次は眉根をひそめた。

「しかし、こんなことは滅多にあるまいが、兔に角今年中には嫁を取らせて、別家させて、自分の仕末は自分でやらせることにしたら、ちつとは普通あたりまへになるだらう。」

「さあ。」才次は父の言葉は空々しく受けて、「一軒の家の災難はどんなことで湧いて來んとも限らん。今夜にしても、もう十分遲う氣がついたら取り返しがつかなんだのぢや。」

 皆んなの言葉が止切れたところへ、時計が一時を打つた。寒さうに風が音を立てゝゐる。父は手燭を點けて部屋々々を見廻つて自分の寢室へ入つた。

 勝代は燒跡の隣りで眠るのが厭さに、何時までも炬燵の側にゐて假睡をし出した。兄二人が最後まで話に耽つてゐたが、其處へ辰男は忍び足で下りて來て、便所はばかりへ行くが早いか直ぐに階子段を上つた。

「まだ起きとるんか。」と、才次は聲を掛けた。氣にかゝつたので、手燭を點けて見に行つたが、辰男は燒跡の隅つこの疊に夜着を被つて寢てゐた。

「榮さんの室に一緒に寢たらいゝぢやないか。」とやさしく説いたが、

「わしは此處でえゝ。」と云つて、辰男は枕を直して目を閉ぢた。

 闇の中に目を閉ぢてゐても、辰男は絶えず周圍まはりの汚れた燒跡を頭に描き鼻で嗅いでゐた。ぐちや〴〵になつてゐる書物や帳面を日に乾かさねばならぬと思つたり、何と何とが燒け失せたか撿べて見なければならぬと思つたりしたが、このまゝ塵屑ごみくづにしてしまひたい氣もした。……机上に安んじてゐた彼れの堅固な心が長兄の歸省前後から破れかけてゐたのに、今夜の災難は最後に下された槌のやうだつた。

 すると、學校から歸つた後の毎夜々々の長い時間を何もしないで持てあましてゐる自分の姿が見窄みすぼらしく目先にちらついた。……以前ふとヴアヰオリンが厭になつた頃には、語學に興味が起つて、心がその方へ吸ひ寄せられたが、今度は新しい道は開かれさうでなかつた。

 陰鬱な氣懶けだるい氣持は夜が更けるにつれて刻々に骨のずいまで喰ひ込んだ。そして、いつそ今夜の火事が擴がつて、机も書物も家も、自分自身も焔の中に包まれて、燃えてしまへばよかつたやうに思はれ出した。

 家から家へ火が移つて、村一面に焔の海となつて、見覺えのある村の者共が顏や手足を燒け焦がして泣き叫んでゐる光景ありさまを彼れは夢みた。



 翌朝辰男は火事話を避けるために、起きると直ぐに家を出た。始業時間までには餘程の暇があつたので、所在なさに、先日こなひだ兄に隨いて上つた山の方へ足を向けた。墓地を拔けると、一歩々々眼界が擴がつて、冴えた朝日は滑かな海を明るく照らしてゐたが、昨夕ゆうべの不快な記憶が彼れの頭から消えなかつた。先日のやうに目前の眺めが英文の新たな材料として目に映らず、ながの年月自分を押し籠めた牢屋の壁か何かのやうに侘しく見えた。……この先五年十年この土地にどうして生きてゐられるか、生きる術が見つからなかつた。

 白い雲の漂つてゐる海の向うへ出て、何處ともなく旅から旅を續けたらと、ふと家出を考へたが、それも一瞬間の妄想に止まつて、旅費なしには一日が二日も他郷へ出掛ける無謀な勇氣を彼れは持つてゐなかつた。「見ず知らずの人は一わんの麥飯も喰はしては呉れない。只では汽車にも汽船にも乘せて呉れはしない。」といふことを、彼れは今更しみ〴〵と考へたが、それにつけても、今まで無用な書物を買ひ込んで月々の俸給を浪費したことが後悔された。で、これまでの俸給のすべてを貯蓄してゐたらば、幾ら〳〵になつてゐたのにと、暗算をしながら、山を下つて學校へ行つた。

 授業を終へて歸つて見ると、兄は昨夕の騷ぎのために、出立を一日延してゐた。火事の跡仕末がついてゐて、障子が新たに張り替へられ、テーブルも久し振りで奇麗に拭はれてあつたが、濕れた書物は西日の差した縁側へ亂雜に抛り出されてあつた。乾いて皺をつくつてゐた。

 辰男はそれ等を本箱に收めて、紙切かみきれ一つ置かれてゐないテーブルの前に腰を掛けた。〝Fire〟〝Conflagration〟〝Nonsense〟などいろ〳〵の英語が頭腦の中に黒く綴られながら現れた。

 新たに買つた二分心のランプを小さい妹が持つて來たが、辰男は日が暮れても燈火あかりを點けなかつた。記憶に刻まれてゐる英語を闇の中で果てもなく綴つては崩し崩しては綴りしてゐた。兄が既に整へてゐる旅の荷物を亂すのが厭さに、終日何もしないで暮した退屈醒ましに、勝代に英語を讀ませたり、不審な字句を解いてやつたりしてゐるのが、襖越しに彼れの耳へも入つた。

「辰は其處にゐるのかい、ランプも點けないで。」榮一は襖を細目に開けて暗がりを透かし見して、「此處へ來い此處へ。」と、無理強ひに空いた座へ招いた。

 妹の机には青い机掛けが掛つて、その上には木彫の奈良人形と、亡妹の寫眞を插んだ寫眞立しやしんたてがあつた。毛絲のランプ敷に据ゑられたランプの明るい光は、差向ひで炬燵に當つてゐる兄弟の手に持つた英書を照らしてゐた。辰男は燈光あかりの邪魔にならぬやうな所に坐つた。

「わしも學校にゐた時分には、會話に身を入れて、西洋人の夜學校へも通つたりして、一時は大抵の事は自由に話しが出來たものだ。しかし今は丸で駄目だね。一寸した挨拶さへよく考へなくちや英語で云へなくなつたよ。日本にゐりや外國人と話をする機會はないし、會話の研究こそ全くの無駄骨だつた。」

 榮一は妹の「實用會話集」に出てゐる日常の用語を久し振りで口すさんだが、勝代は兄の脣の微動を見入つた。自分も二三年したらあんな風に巧みに操れるだらうかと、廣々とした氣持になつて、

「田舍者よりや東京生まれの人の方が英語の發音が早く上手じやうずになるんでせう。」

「何故? 同じことぢやないか。」

「……田舍は日本語の發音でも下等で頑固ぢやから、それが癖になつてしまつて英語でもすら〳〵と音が出し難いんぢやないかと思ふがな。」

「そんな馬鹿なことがあるものか。……勝も東京へ行つて三月もすると、東京言葉を使つて田舍者を馬鹿にするやうになるだらうな。」榮一はさう云つてから、辰男に向つて、「お前は今から學問したつて追付おつつかんから、農業か何か實業をやつて見い。そんな頑丈な身體をしてるし、辛抱強いのに、机の前でいぢけてるのは詰まらないぢやないか。先日こなひだ山から見た島を借りて桃を栽ゑても、後ろの禿山はげやまひらいても何か出來さうぢやないか。兄弟の眞似をしないで、お前一人は泥まみれになつて本當の田舍者になつちまふさ。」

「そんなことは出來やせんなあ、辰さん。」と勝代は代つて答へた。「去年二百圓も出して、青年會の人が松を山へ栽ゑたんぢやけど、直きに枯れてしまうたのぢやもの。桃もつく所へは何處へでも栽ゑてるしこの邊の土地は衰微しるとも、今よりようなりやせんと勝は思ふがな。この先の島は漁夫が巡査に見付けられんやうに賭博を打ちに行く所になつとるんぢやもの。」

「へえ。あれが漁夫の賭博場かい。さう思つて見ると面白いね。」榮一は一廉ひとかどのいゝ思ひ付きのつもりで云つたことを、妹のために容易たやすく打ち消されて照れ隱しにかう云つて、「しかし、自分ですきくはを持つて働くつもりなら何かやれんことはないさ。」

「それはやれないことはありません。」と、辰男は意外にはつきりした返事をした。

「ぢや、田地を分けて貰つて、百姓になり切つちやどうだい。」

「さう云ふ氣にもなれんけど……百姓をして米や麥をつくつても面白うないから。」

「面白くなくつても、田圃たんぼに麥や、米が出來なきや困るぢやないか。……西洋の草花でも造りや綺麗で面白いかも知れないが。」

「花なら自然に生えてるのが好きぢや。山に居つた時分に植物の標本をちつとは集めたことがありました。」

「植物の採集もこの邊にや珍しい者はあるまいが作州の山には高山植物があるんだらう。」

「へえ。いろ〳〵珍しい者がありました。二三百はちがつたのを集めて蔭干しにして取つといたのぢやけど彼方あちらの學校を止めた時に皆んな燒いて來ました。」

「そりや惜しいね。學校へ寄附しとけば植物學の教授に役に立つのだらう。」

「名が分らんから教へる時にや役に立ちません。私にだけしか誰れにも分らんでせう。」辰男は雜草でも木の葉でも手あたり次第に採集して、出鱈目でたらめな名前を付けてゐたのだつた。

「それで滿足出來るかね。世間で極めた名前を知らずに集めてばかりゐても樂みになるのかい。」

「へえ。あの時分は樂みにしとつたんでせう。」

 今夜は何故なぜだか珍しくテキパキと話すのを聞いてゐると、榮一は弟の辰男を、永年家族が極めてゐるやうな低能兒とも變人とも思はれない氣がした。が、顏を見ると、光のない鈍い眼、小鼻の廣い平たい鼻、硬さうな黒い皮膚がどうしても愚かものらしく彼れを見させた。他人から慈愛いつくしみを寄せられさうなうるみや光は、身體の何處にも持つてゐない。

「何か望みや不平があるのなら明ら樣に云つたらいゝぢやないか。おれが立つ前に聞いといたら、多少お前の爲になる樣な事があるかも知れないぜ。」と、榮一は柔しく訊いて弟の心の底をさぐらうとしたが、

「そんなことは他人ひとに云ふたつて仕方がありません。」と、辰男は冷やかに答へた。押し返して訊いても執念しふねく口を噤んで、他所目よそめには意地惡く見えるやうな表情を口端に漂はせた。

「仕方がないつて、お前なんかつまりは兄弟の世話にならにや生きてられない時が來るんだよ。兩親の達者な間に方法を立てゝ貰つとかなきや駄目ぢやないか、無駄な事ばかり氣儘に勉強してゐても、食ふ道は些ともついてゐないのだから。」

 兄の聲が尖つて來ると、辰男は目を伏せて心をほかへそらせた。

「勝は學校を出てお金が取れるやうになつたら、辰さんに上げるつもりぢや、勝は利己主義は嫌ひぢやから。」勝代は氣取つた口を利いた。

 これで話を止めて、榮一は横になつて、挽舂ひきうすの響きを聞きながらうつら〳〵假睡うたたねの夢に落ちた。勝代は温か過ぎる炬燵で逆上のぼせて頭痛がしてゐたが、それでも座を立たうとはしないで、

「口が粘つて氣持が惡いから蜜柑を食べたいがな。辰さんは奢つて呉れんかな。」とねだつた。

「お前が自分で買ひに行きやおごつてやらあ。」

「勝は物を買ひになぞ行つたことはないのに。およしでも使ひにやりやえゝがな。」

「自分で行かんのならわしは錢を出さんぜ。」辰男はかたくなに云つた。

「辰さんは時々意地の惡いことを云ふんぢやな。」

 勝代は階下へ行つて母にねだつて貰つて來た蜜柑の一つを兄の前に置いたが、辰男は手に取らなかつた。



 榮一は翌朝車で村を離れると、のび〳〵した氣持になつた。二里も隔つた停車場までの途すがら、車夫は頻りに村の話をして聞かせたが、それによると、隣縣の者が近い中に乘合馬車をこの近所の國道へ通さうと企てゝゐるさうである。

「さうしたらお前達は困るだらう。」と訊くと、「馬車なぞは永續きはしますまい。何でもその金主は性の惡いことをして監獄へ入つとつて、この頃出て來たばかりぢやさうですから。」と車夫は答へて、「若旦那は澤山金を儲けてお歸んなさつたんぢやと、皆んなが云ふとりますがな。」

 車夫の話が自分のことや家族のことに關係し出すと、榮一は相手にならなかつた。そして、汽車に乘ると勝代の顏も辰男の顏も心に薄らいで、只入江のほとりの古めかしい大きな家の二階にあんな弟妹の住んでゐるのが、憎みも愛もなく顧みられた。「辰はおれが遣つた○○の英文小説を讀むか知らん。」と、ふと、思つたが、それも瞬く間に消えてしまつた。

 辰男は二三日テーブルの前に懷手をして腰を掛けたまゝ夜を過ごした。妹の頁をめくる音を聞きながら……。

底本:「正宗白鳥全集第五卷」福武書店

   1983(昭和58)年1225日発行

底本の親本:「入江のほとり」春陽堂

   1916(大正5)年621

初出:「太陽 第二十一巻第四号」

   1915(大正4)年41日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※このファイルには、以下の青空文庫のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。

「入江のほとり」(入力:住吉、校正:山村信一郎)

※「熖」と「焔」、「糸」と「絲」の混在は、底本通りです。

入力:山村信一郎

校正:フクポー

2018年928日作成

青空文庫作成ファイル:

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