防寒戸
中谷宇吉郎



 昭和十四年の夏、といえば、太平洋戦争勃発の二年前のことであるが、私は北海道の冬ごもりに適した家というつもりで、今の家をこしらえた。こしらえたといっても、何も自分で設計をしたというほどではなく、ただ平面図だけ描いて、O君に頼んだのである。

 O君は当時は、私立の一小請負業者に過ぎなくて、坪三十円か四十円の借家普請まで引き受けたという程度の建築家であった。しかしそういうしがない業務にたずさわっている間にも、独逸ドイツの建築雑誌をつづけて取っているという変り者であった。そういう話を同僚の人からきいたので、一つO君にすっかり任せて家を作って貰うことにした。

 四月の初め、平面図だけを渡して、あとは勝手に願いますということにして、私は当時療養中だった伊豆の伊東の温泉へひきこもってしまった。そしてその後のことは、いつ建前があったかも知らないで、放って置いたのであるが、家の方はそれでも無事出来上って、八月末に札幌へ来た時には、もういつでもはいれるようになっていた。

 この家のことは、前に『生活の実験』という題で、書いたことがある。それでくわしいことは略するが、簡単に言えば、保温の原理を物理的に忠実に守ったというだけに過ぎない。屋内の温度は、ストーブその他の熱源からの発熱量と、外へ逃げる熱との差できまるという極めて平凡な原理である。従来の北海道の家屋の構造から考えて、熱の逸散の一番大きいものは、硝子ガラス窓からの熱の輻射と伝導であろうという見込みで、硝子戸の内側に雨戸を入れることにしたのが、主な特徴と言えるであろう。

 これくらいの改造でも、なかなか人はしないらしいので、私の家の防寒戸というのが、案外人気を呼んで、いろいろな人が「見学」に来ることになった。細君は台所や納戸の汚くしているところが見られるので、大分難色があったが、参観のお客があると、そういうふだんは掃除の行きとどかないところが綺麗になるので、たいへんいいことだといって、私は大いに歓迎することにした。

 O君も作ってみると、この輻射を防ぐ防寒戸というのが、案外効果があることが分ったので、その後の住宅建築には、この法式を採用することにしたそうである。そのうちに、北海道住宅会社というのが札幌に出来て、O君はそこの技師長として招聘されることになった。

 O君は、住宅会社で、この防寒戸を制式化して、北海道から青森県の某地にかけて、合計千八百軒ばかり、この流儀の家を建てた。この調子ではどんな勢いで、普及して行くかと、内心楽しみにしていたのであるが、太平洋戦争に突入してしまったので、それ切りになってしまった。

 北海道には、もちろん官庁方面にも、耐寒建築の委員会が、以前から出来ている。そういうところでも、いろいろ議論されていて、規格のようなものが沢山出来ているようである。しかしそれがなかなか思うように、普及しないらしい。決められた規格にかなった家を作れば、何とかの便宜を与えるというような規則があるようであるが、人民どもは案外そういう恩恵には、無頓著の場合が多い。人民というものは、案外天邪鬼あまのじゃくなものである。

 普及させようと思えば、かくすに限るのであって、建築雑誌などから二三照会があったが、放っておいた。そうすると、大工をつれて、菓子箱をもって、御家拝見と云って来る連中がぼつぼつ出て来る。そして住宅会社の活躍と相まって、みるみるうちに、千八百軒建ったわけである。人民はまことに行儀の悪いもので、お上の指令には何かと反抗したがるくせに、そっと隠しておくと、一所懸命に手蔓を求めてやって来て、詳しくきいて帰るものである。

 防寒戸の材料としては、ふすまをそのまま使うのが一番利巧である。雨戸も硝子の内側に入れるのであるから、木である必要はないので、紙の襖で十分である。というよりも、襖の方が防寒には、数等上等である。防寒防音用の建具としては、襖は世界的にみても、非常にすぐれたものではなかろうかと思われる。紙が防寒防音用に好適であるばかりでなく、間に空気層が適当な厚みではいっていて、桟で空気の対流を防いでいるところなど、正に理想的なものである。それに軽くていい。実際には、強度のことも考える必要があったので、外側をベニヤ板、内側を紙布にした襖を作ってみたが、これはたいへん具合がよくて、もう十年近く経っているが、何ともない。まず人間の一生は使えそうである。

 この家の成功した点は、こういう風にして、熱の逸散を防いだことの外に、ペーチカで四室、すなわち全一家を一様にあたためた点にあった。熱の逸散さえちょっと注意すれば、一冬に二トン半の石炭で十分間に合った。ペーチカは北海道にも前からところどころにあったのであるが、どうも寒いとか、石炭を七八トンも喰うとか、評判はあまりよくなかったものである。しかしこの家では、風呂用を入れて、三トンでちょうどいいことが分った。

 この家を作って、二年経って、太平洋戦争になった。石炭の配給が急に窮屈になって、一家一冬三トンということにきめられた。方々の家では大分困ったようであるが、私の家では、それがちょうど適量だったもので、そのまま平気で暮していた。今から思えば、一冬三トンでは越せないなどと云っていた時代のことは、まるで夢のような話である。

 この防寒戸は、その上思わぬことに、たいへん役に立った。それは防空用としてである。ヒステリー患者のような防空演習の御連中には、どこの家も大いに手を焼いたものである。しかしこの家には遮光の心配はほとんどなかった。「私の家では年中毎晩防空演習をやっていますから」と云って、平気で済ましていた。

 ところが思わぬ方面から、思いがけぬ非難が出た。それは防寒戸など入れては、色さまざまなカーテンを洩れる光の色の美しさを味わえないではないかという非難である。科学者として、住居の問題を科学的に解決されたのは面白いが、住宅などというものは、審美的な観点からも見る必要があるというのである。冗談でなく、或る建築雑誌に本統にそういう記事が載ったのには驚いた。考えてみれば、本州や九州では、昔から雨戸を使っていたので、従来の日本人の生活には、そういう審美的な住宅観はなかったのである。

 木製の雨戸を硝子窓の外につければ、防寒用に役立つくらいのことは、誰でも知っていたことである。しかし北海道では、そういう雨戸をとりつけても、冬は凍ってしまって、全く役に立たない。それで防寒戸を、外廻りの硝子戸の内側につけたわけである。

 縦の物を横にしたり、外の物を内にしたりするくらいのことは、科学的というまでもないと、一般には思われるであろう。しかし本統は、そういうことが科学なのである。少くとも私は、そういう風に考えて、平気で科学者らしい顔をして暮している次第である。

(二十一年二月)

底本:「中谷宇吉郎集 第五巻」岩波書店

   2001(平成13)年25日第1刷発行

底本の親本:「楡の花」甲文社

   1948(昭和23)年830日刊

初出:「北方風物 一巻二号」

   1946(昭和21)年210日発行

入力:kompass

校正:砂場清隆

2016年99日作成

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