二つの序文
中谷宇吉郎
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この二つの序文は、私が前から心がけていた『雪華研究の記録』につけるために書いたものである。初め戦争中にこの本を出そうと思って書いた序文と、敗戦後に書いた序文とを、二つ並べてこの随筆集の中に入れた。
『雪華研究の記録』は、稿を起してから、既に四年半になるが、未だに出来上らない。敗戦前一年半の悪夢のような生活と、敗戦後三年間の自分の心の焦燥とを思い返してみると、それも当然のことのような気がする。しかしもう気持も落着いたので、そのうちにこの『記録』も世に出ることと思う。しかしそれにはこの序文は二つとも必要がなさそうである。今度書くとしたら、態度が今少しちがうであろうと思われるからである。
しかしこの二つの序文には、それぞれその時々の気持が出ているように思われるので、棄てるのも惜しく、本書に入れた次第である。
北千島にもいよいよ空襲があるようになった。
その報を耳にしながら、私たちは今、札幌の低温科学研究所と、ニセコの山頂とで、雪に基づく障害防除の或る研究にわれわれの力の及ぶ範囲内で、出来るだけの努力をはらっている。
北辺防備の基礎は、雪、氷、低温などに基づく諸障害の克服にあるという私たちの昔からの持論は今でも変らない。しかし時局は、もう今までのように、静かに自然の内奥をうかがうような研究を許さない。そしてわれわれは、喜んで過去十年にわたる雪華の研究を離れて、もっと直接に時局に寄与する仕事に、皆が懸命になっている。
自然の内懐にはいって、その本性を究めるとわれわれはいつも言う。そのことは時には誤解を伴なうようである。しかし自然科学の研究に従事している者とても、何も自然の本性を究めることだけに意義を見出しているわけではない。そういう一見実用を離れたような研究が、本統は自然の秘密に近づく一番の捷径であり、その秘密を探って初めて自然を克服し得るのであるから、けっきょくそれは実用の見地から見ても早道である場合が多い。少くとも私たちはそういう信念の下に研究に従事している。
今日いろいろな北辺防備に伴なう実際問題を解こうとしているわれわれの努力は、そういう意味で、過去十二年にわたる私たちの雪の研究にその基礎を置いている。私はこの書で、その過去十二年にわたる私たちの教室の雪の研究の歴史をふり返ってみようとしている。それはあながち無駄なことではないと思う。
自分の研究の歴史を自分で書くのは、少し思い上ったことである。しかしそれを敢てするのは、少し思う節があるからである。
この書を読んで下さる方々は、すぐ思い付かれることと思うが、雪の結晶の研究などに、これだけの時間と労力とを払わなくても、もっと手早く切り上げて、もっと直接な問題の研究、たとえば飛行機の着氷防止とか、雪中飛行とかの問題に手をつけた方が良かったと思われるであろう。しかしそれが出来なかったところに、我が国に於ける科学研究の本統の姿があったのである。
昭和七年の暮、初めて雪華の顕微鏡写真を撮った頃は、札幌では物理の器械などは、ほとんど手に入らなかった。エボナイトの板を一枚手に入れるにも、東京へ註文を発して二ヶ月もかかることが稀れではなかった。その頃の世界の物理学は、ちょうど現在隆盛を極めている原子物理学の学問が、漸く欧洲に勃興して、その波紋が世界の隅々にまで響いて来ていた時代であった。
そういう時期に、私は北海道の一隅で、三年目の学生たちを相手に、細々と雪の結晶の写真を撮ろうと努力していたのである。そしてちようどその頃手に入った米国のベントレーの雪華写真帖を開きながら、ああいう美しい写真を一生のうちに五六千枚も撮って死んで行ったベントレーの努力に驚嘆した。
最初の冬の研究は、今から考えてみれば、全研究費が五十円くらいの研究であった。しかしそういう研究でも、とにかく纏めておけば、それが次の年の研究に如何に役に立ったかは、本書に詳しく書いた通りである。それは、実をいえば雪の結晶についてのわれわれの知識を拡める上に役立ったよりも、むしろ次の冬の十勝岳遠征を可能にした点に於て、より以上役に立ったのである。
そういうことは、科学の研究という筋道の上からのみ見れば、邪道であったかもしれない。しかし第二年目の十勝行によって初めて北大に於ける雪の研究が緒についたといえるのである。それはその次の年には、二千円の研究費となって酬いられたからである。大学の一教授が全教室を挙げての研究に、年額二千円の研究費が、特筆すべき事項であった。それが十年前の日本の科学者の置かれた立場であった。
この補助に気を大きくして、雪の研究室を一棟建てたのが、第三年目の初冬であった。大学の実験室での雪の仕事に一番困るのは、暖房が通っていることである。それで理学部横の空地に、全部トタン張りの寒い実験室を一棟建てた。建築費は七百円であった。
この研究室が出来た時に、寺田寅彦先生からお祝いの葉書が来た。昭和九年十月十二日付のその葉書には、次のような文句があった。
……雪の研究所は大変結構ですから七百円の家を振り出しにして将来七万円七十万円と段々に大インスチチュートに発展する事を蜀望します。今度の小屋はその germ となり、nucleus となり、ignition spark となるべき使命を有するものと思はれ遥に祝意と敬意とを表します。世界に一つ位は Snow Research Institute があつてもいいと思ひます。農業林業鉄道電信航空あらゆる方面に経済的問題と接触するのですから」右気焔迄
今になって考えてみると、その後二年にして六万円の低温実験室が出来、昭和十四年の暮に、現在の低温科学研究所の予算七十三万円が通過したことは、あまりにも不思議な暗合であった。
トタン張りの実験室の中では、三年目の学生の一人が、今までどうしても出来なかった霜の結晶の人工製作に成功した。その研究がこの実験室の中の仕事としては、行けるところまで行き着いた時に、低温実験室が出来た。それが出来上ると間もなく、その中で人工霜が人工雪にと発展して行った。
雪の結晶の人工製作は、このようにして案外すらすらと出来上った。しかしその生成条件を本統に捕えるには、その後なお六年の長い年月を要した。もっともその間には、不幸なる病気のために、二年間に及ぶ伊東での療養生活ということもはいっているが、自然の神秘に一足近づくのに、十年の年月は決して永くはないのである。
先の十年間は永いが、ふり返ってみる十年間は短い。その間には、研究が案外すらすらとほとんど自分で道を拓いて進んで行くように見えた時期もあるが、妙に理由もなく渋滞して困ったこともある。
こういう十年間の研究生活にも一応の区切りをつける時が来た。一年間二千円の研究費で気を大きくしていた私も、昨年はそれが一躍五万円になり、そして今年は四十万円という費用を使って、雪に極めて縁の深い或る研究の実用化をするように命ぜられている。本統はすべての事柄がもう二年繰り上っていたらと思うことがないでもない。しかし私はそれを手遅れだとは思わない。何事であれ人生はそういうものであり、科学者の人生も亦その通則にあてはまるものなのである。
それよりも十年の間黙ってこういう研究の為に毎年の研究費を支出し続けられた寛容にして理解ある或る方面の有力者の庇護を得たことを感謝の念をもって思い返してみる。それと同時に、この一系の研究に、通計十数名の若い研究者の真摯な協力が全期にわたって得られたことも、非常な幸運であった。
又そういう直接の協力者の外にも、その人が無かったらこの研究が中絶したと思われる人の数も限りない。十勝岳の山番の老人とか、まだ先の見えない研究のために十勝岳の山小屋の使用を快諾された当局の人とか、ちようど研究の発展上絶対必要な時期に、それぞれ低温実験室とか、低温科学研究所とかいうような大きい施設をされた大学当局の人とか、数えあげれば切りがない。私の伊東に於ける療養中の冬にも、教室の若い協力者たちは、同僚の人の指導の下に、この研究を中絶させなかった。科学の研究に学恩ということがよく言われるが、私にはそれよりも衆生の恩という言葉の方が身近く感ぜられる。
こういう風に考えてみると、私の雪の研究くらい恵まれた環境に育った研究も珍しいのではないかとも思われる。そういう恵まれた場合でもなお、今この記録を書いてみると、過去十二年の間、自分の力の半ばは研究そのもの以外に費されているような気がする。いろいろ気骨も折り、かなり悪どいような宣伝にも十分努めて来たつもりである。それですら、前にも言ったようにこの研究を実際に間に合わすには、少くも二年はおくれたという気がするのである。もっともそれを自覚することによって、われわれは心構えが強められるのであって、慨くのではない。われわれとしては出来るだけのことはして来た。そしてこの書にあるようなところまで行かなければ次の道が拓けなかったのである。それは今更一般の科学に対する理解の不足などという簡単な言葉で片付けられることではない。それに本統に役に立つのは科学ではなくて、科学者であることを思えば、何も慌てることはない。
今日ほど科学技術の飛躍的進歩が望まれている時期はなかろう。しかし実際に事を為すのに必要なものは、科学そのものよりもむしろ科学者であるということを本統に理解している人が案外少いのでないかと思われる節がある。私が臆面もなく、こういう記録などを公刊するのは、幾分でもその点の一般の理解に資したいという大それた望みを蔭に抱いているからである。
北海道に於ける私たちの雪の研究も、もう足かけ十五年になる。
この十五年の期間は、我が国にとっては、建国以来未曾有の大旋風下にあった時代であった。そして私自身にとっても、それは瑣細なことではあるが、漸く一人立ちの研究が出来るようになってから、今日までの期間即ち自分の壮年のほとんど全期間に当るものであった。
今日ふり返ってみると、満洲の野に建国の夢のはかない歓声が揚っているのに呼応して、国内では井上準之助氏や団琢磨氏の暗殺から五・一五事件へとつづき、旋風の渦が漸く本格的な姿を現わして来た、その昭和七年の冬から、私たちの雪の研究は始まったのである。それは如何にもささやかな研究であって、卒業を前に控えた一人の学生の助けを借りて、大学の寒い渡り廊下の片隅で、四五十枚の顕微鏡写真を撮った程度のものに過ぎなかった。ところが、その頃には既にソ連では北極洋の研究が漸く一応の見透しを得るまでに進捗して、この年の夏には一隻の砕氷船が、北極洋を横断して、日本の港までその姿を現わしたのであった。
翌昭和八年の国際連盟脱退から、何か目に見えない力に引きずられるかの如く、世界の外に孤立する我が国の姿が、痛ましくもだんだんと表面化して来た。しかし五・一五事件以後一旦落着いたかに見えた国内政情と、その年の暮全国民の待ちに待った皇太子様御生誕の歓びなどに幻惑されて、人々はやがて来るべき深淵の恐ろしさを思いみることもなかった。そして翌昭和九年の春には溥儀執政の即位があり、満洲国の治安も漸次恢復して、銀座のネオンはますます光を増して来た。
この昭和八年及び九年の二ヶ年は、私たちの雪の研究過程の上では、大切な二ヶ年であった。激しく変化しつつある国の姿を余所に、私たちはこの二ヶ年の冬を、十勝岳の中腹の山小屋に隠れて、美しい雪の結晶とともに暮して来たのであった。
この十勝岳に於ける天然雪の研究が、幸いにして一部の識者の注意をひき、その後は研究費の上にも施設の上にも、漸次便宜が与えられるようになった。そして自分にとっては待望の仕事であったところの、雪の結晶の人工製作への道が順調に開けて行ったのである。
私たちは、研究の進捗に心を奪われて、この間に於ける祖国の姿の変化を顧る隙もなかった。しかしその間にソ満国境はしばしば緊迫した空気につつまれ、一触即発の危機を迎えたこともあったようである。そして北辺の急をつげる声が、私たちの雪の研究にもかなり影響を与えるようになった。飛行機用の橇の研究などの課題が、新しく追加されて来た。
しかしこの頃までは、まだ何といっても、人々の心には余裕があった。最初に人工雪の結晶が一つ得られたのは昭和十一年の三月で、それは二・二六事件の日から二週間後のことであった。その後の国家の運命を決定する契機となったこの事件よりも、私たちには、ただ一つの人工雪の結晶の方が、更に関心事であった。それから一年半を待たずして、国を挙げて支那事変に突入するまでの国内の波瀾には全く無関心に、私たちは人工雪の研究に没頭していた。その後三年にわたる療養生活を余儀なくさせた私の病気が始まったのも、この間のことであった。
支那事変の発展につれて、日独防共協定、張鼓峰事件と、推移の速度はだんだん激しくなって行った。その間、療養生活のかたわら、私は今までのやり散らして来た研究を纏めて、なるべく広く国外に送るように努めて来た。英国のネーチュア誌上で、英語の用法についての論争をするという珍事件を起したり、米国のサイエンスサービス紙から一ドル貰ったという微苦笑事件があったりしたのは、この時期のことである。
三年間の療養生活で、すっかり気力と体力とを取り戻して、再び北海道の雪の生活に戻った時は、もう第二次欧洲戦争が始まっていた。昭和十四年の秋である。私たちの研究の面貌もそろそろ変るべき時期となった。十一月には現在の低温科学研究所の予算が通過し、大分生活が忙しくなって来た。そして周囲の空気がだんだん息苦しくなって来て、やがてそれは今次の太平洋戦争へと移行してしまったのである。
いよいよこの大戦争となってからは、今までのような静かな研究生活は、もはや許されなくなってしまった。私たちは、資材の極端な不足と、無理解な統制制度の桎梏とに苦しめられながら、ニセコの山頂で、三冬の研究生活を送った。題目は、航空機着氷防除の研究であった。
それは悪夢の如き生活であった。しかし私たちは、忠実に自己の義務を果したつもりである。ただその生活の中で、いつも自分の頭の片隅に残っていたのは、この十余年にわたる私たちの雪の研究の完全な報告を残していないことであった。
私は寸暇を盗みながら、今までに得られた全研究結果を一冊の本に纏めるべく努力した。結晶の顕微鏡写真も天然雪と人工雪とを合して四千枚を超えていたが、その中から約千六百枚の代表的な写真を選んだ。それ等の写真と本文とを纏め上げて岩波書店に渡したのが、太平洋戦争勃発後まる一年の昭和十七年の暮であった。それを東京で岩波書店の人に渡して、安心して北満の永久凍土層調査に出かけたのである。
しかしこの書は今日までのところ遂に出版されていない。緒戦の華々しいいわゆる戦果も束の間の夢にすぎず、翌昭和十八年の春にはアッツの玉砕があり、引き続いて、南太平洋諸島に於ける悲報がつぎつぎと伝えられて来て、戦局の不利は蔽うことが出来なくなった。もはやあの膨大な著書が世に出る見込は極めて少くなってしまった。それで私はせめてものことに、自分の雪の研究の過程と、簡単な結果の記録とを、もっと普通な型の本として出版しておきたいと思った。そして昭和十九年の正月の休みに、北千島空襲の報を耳にしながら、その筆を執り始めたのである。
この本も遂に世に出るには到らなかった。その後の急激な敗戦への道程が、私にそれだけの心の余裕を与えてくれなかったからである。大部な『雪の研究』の方も、おそれていた通りに、刷り上ったところで、千六百枚の銅版とともに、戦災によって焼失してしまった。ただここに残ったものは、昭和十九年の一月に書いた序文の原稿である。
その序文を読み返してみて、私は再び勇をふるって、記録の方をとりあえず一冊に纏める決心をした。それには、敗戦後の全く変った心組の下で、今一つの序文を書く必要を感じ、それを実行したのである。
それでこの本には、二つの序文がつくことになったわけである。戦争の最中に書いた序文と、完全な敗戦の後に書いた序文と、もしその二つの序文を一冊の本につけることが許されるならば、それは常に真実なるものを求めていたからであるとも言えるであろう。或は全くの自惚れに過ぎなくて、滑稽なる恥さらしに終るかもしれないが、そういう夢を本気で書き立てられるだけでも、有難いことと思って、敢てその危険を冒す次第である。
千六百枚の顕微鏡写真を入れた『雪の研究』は、焼け残った一部の校正刷を頼りにして、再び印刷にかかった。そして遂に昭和二十四年三月に公刊された、昭和十七年の暮に原稿を渡してから正味六年半かかったわけである。根気くらべの一つの記録として書き残しておくことにする。とにかくこれで私は安心した。
底本:「中谷宇吉郎集 第五巻」岩波書店
2001(平成13)年2月5日第1刷発行
底本の親本:「立春の卵」書林新甲鳥
1950(昭和25)年3月30日刊
初出:「村の科学 六月号」
1946(昭和21)年6月10日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ちょうど」と「ちようど」の混在は、底本通りです。
※冒頭部の記述と「附記」は底本の親本収録時に加筆されました。
入力:kompass
校正:砂場清隆
2018年6月27日作成
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