天地創造の話
中谷宇吉郎



 天地創造の話というと、たいへん大袈裟なことになるが、一昨年即ち昭和十九年の夏から、北海道の片隅で、そういう異変が現実に起きているのである。

 今まで鉄道が通り畑が耕されていたただの平地であった所が、毎日二十センチくらいの速さで隆起して来て、人家や道路が、何時の間にか丘の上に持ち上げられてしまった。そのうちに噴火が起きて、そこに突如として、四〇五メートルもの高さの火山が現出したのである。その火山は今もなお盛んに鳴動しながら、噴煙を吐いている。

 そういう大異変、恐らく世界的に言っても非常に珍しい天地の変動が、現に我が国の一地点で、実際に起きつつあったのである。しかし人々は目前の戦況に心を奪われ、一日何合の米に気をとられていて、そういうことには注意を払う暇がなかったようである。

 もっともそれには官憲側の取締りもあったので、この異変はその勃発当初以来終戦の時までは、報道が禁止されていたのである。禁止の理由は分らないが、人心の不安を考慮したものであろう。もっとも地盤の隆起によって、灌漑水路が断ち切られ、何百町歩とかの水田が駄目になってしまったというような実害もあったのであるが、それよりも何となく不吉な前兆のように思われたからであろう。

 この異変の起きた場所は、有珠山の東に当る壮瞥そうべつ村であって、倶知安から洞爺湖の方へ抜ける支線鉄道の壮瞥駅から半里くらいの所である。昭和十八年の年末頃から、この地方だけに頻々として地震が起り、それが一日百回くらいにも達した。また有珠山が噴火するのかもしれないというので、年末押し迫って、何十台とかのトラックを総動員して、洞爺湖温泉の人たちを、急遽避難させたという噂が伝わって来た。

 十八年の暮といえば、アッツの玉砕に引きつづいて、南太平洋の諸島で次々と玉砕が報ぜられ、戦局の大勢を示す陰鬱な暗雲が、知らず知らずのうちに人々の頭上に感ぜられていた頃である。そういう時に、この群発地震に引きつづいて、明けて十九年の一月早々から、鉄道線路附近に盛んに地割れが始まり、そろそろと土地が隆起して来たのである。余り芽出度い話ではない。


 土地の隆起は、二月も引きつづき進行し、三月に入ってからは、ますます著しくなって来た。灌漑水路は遮断され、鉄道は隆起地帯を逃げる為に、路線を度々変更して、近くを流れている長流おさる川の岸まで押しつけられた恰好になってしまった。その頃はもう二十メートル近くも隆起があって、福富博士の報告にある面白い例では、附近の某氏宅から以前は南方に遠く噴火湾を望み得たのに、眼の前に丘が盛り上って来て、その眺望がきかなくなってしまったという。その反対に、以前は坂下にあって見えなかった人家がせり上って来て、眼前に現われたのである。正に異変である。遥か地の底に眠っていた、真赤に熔けた岩漿が、そろそろ目を覚して、起き出して来たのである。更に面白いことには、この地変は一地点に止らず、最大隆起の場所が、活動の初期にくらべて、漸次北の方へ進行して行ったのである。だいぶ地表近くまで押し上って来た熔岩の大蛇が、少しばかり身をくねらせたのであろう。考えてみれば恐ろしい話である。しかしそういう土地の上にも、なお住民たちは案外不安な顔もしないで住んでいた。

 この間我が国の地球物理学者たちは、戦争に直接関係ある研究に動員されながらも、時を盗んで度々現地の調査をして、一応はこの異変の全貌をとらえたのであった。三月から四月にかけて、水上博士の一行が、精密な水準測量によって、地盤の上昇速度を測り、地震観測と地磁気観測とを行なった。四月に入ってからは、実川、永田両君が地形の変動を詳しく調査している。その報告によれば、鉄道側で五月一日に測量した結果では、異変以前よりも二十四メートルも隆起した所があった。この隆起は一月初めから始まったと考えられ、また各種の観測を綜合した結果、ほぼ一様な速度で上昇したと見られるので、一日に二十センチの割合で、この間隆起が続いていたことになる。その値は水上博士等の測量とも大体一致するのであるが、昨日の測量と今日の測量とで、高さが二十センチも狂って来るということは、たいへんなことである。

 北大では地球物理の福富教授と地質の石川教授とが、四月末頃から度々調査をして、その観測は今日まで続いている。この地変はその年、即ち昭和十九年の六月二十三日の爆発に到って、その序曲を閉じ、引き続いての噴火によっていよいよ本格的な大異変に展開して行ったのである。

 何時までも続く薄気味悪いこの土地の盛り上り。それに縦横に走る地割れ。そのうちには福富教授の調査によると全長六百メートル幅二十五メートル、落差五メートルという恐ろしい地割れまでがあったそうである。これだけの異変が地表に起るには、地下によほど恐ろしい力のひしめきがあるにちがいない。しかしそれが噴火となって爆発するか、この程度で落着くかという見透しはなかなか困難である。

 地貌の変化が著しいこと、その進行が長期間にわたることから見れば、相当の大勢力のものであるにはちがいない。しかし考えようによっては、これだけの大変化として勢力の一部が発散してしまったのだから、案外この程度でおさまるかもしれない。そういう期待をするには、参考となる前例がある。それは明治四十三年の有珠の噴火であって、その時は今回の場合ほどではないが、やはり異変が起ったので、その前兆を捉えて、時の室蘭警察署長飯田氏が、非常手段をもって附近一万五千の住民に強制立退を命じて、災害を未然に防いだことがある。今回はその時よりももっと大規模な異変がもう六ヶ月も続いているのであって、噴火が起きるものならば、もうとっくに起きてしまっているであろうという観測である。

 この根拠の無い希望的期待は、簡単に破れてしまって、六月二十三日の朝、遂に爆発が起り、噴煙を開始したのである。地点は有珠火山の山腹をめぐる突起山塊の一つ、松本山の南方程近い所である。松本山は標高二三九メートルで、周囲のいくつかの山塊の中では、目立って突出していた山であるが、この新火山はみるみるうちに隆起して行って、間もなく松本山を眼下に見るまでに生長したのである。

 最初の爆発から新火山の生成にかけて、始終そのスケッチと記事とをとって、千載一遇の貴重な記録を残した人がある。これは壮瞥村の郵便局長三松氏であった。その記録によってわれわれは、この世紀の大事件の過程を、居ながらにして知ることが出来るのである。この爆発の報道は、数行ばかりの記事として、新聞の片隅に出ていたが、その時期がたまたま今次の大戦の決定的段階を画したサイパンの陥落と相前後していたために、狂躁的興奮の渦に巻かれていた国民の中に、それに一瞥を与えた人は殆ど無かったであろう。しかし三松氏はその後も相継ぐ国民的悲報の連続の中で、克明にこの記録をとり続けたのである。

 第何回目の爆発であったか忘れたが、爆発の写真を撮るべく苦心を重ねていた福富教授が、遂にその撮影に成功して、その貴重な写真を持って来られたことがある。「ちょうど運がよろしかったのでしてね。噴火口の一五〇メートル近くくらいまで行った時に、この爆発が起ったんです。慌てて写真を撮ったんですが、もうその時にはこんな大きい石がばらばら落ちて来ますもので。さあもうリュックも何も放り出して逃げて参りました」ということであった。自分で持って来た写真に、自分で見惚れている同君の顔には、つい先頃テニヤンの悲劇で令弟を喪った嘆きの陰も見られなかった。

 六月二十七日の第二回の爆発の時には、火口の出来た平地はもう六十メートルほども隆起していた。そして最初の泥流が押し出されて来て、下の沢を埋めてしまった。この泥流は有珠火山の噴火には何時も伴なうものである。噴火湾と洞爺湖との間に挟まれたこの地帯では、地の底に豊富な水分の存在が想像され、それが噴火と同時に押し出されるのであろうとされている。

 七月に入って、活動はますます激しくなって来た。山は地の底から生い出るように、どんどん隆起して来る。噴火口附近は濛気にこめられて、山容も明らかには見られない。時々爆発の地響と、地震とも思えぬ振動の連続、それに地鳴りとに脅される日がずっと続いた。爆発毎に噴火に特有な塔状積雲が、濛気につつまれた山上に高く立ち昇り、夜などはその中に赤く火柱が立つ。降灰の範囲は漸次拡がって、洞爺湖畔から徳舜瞥とくしゅんべつに及び、数千町歩の畑地が三センチ以上も灰をかぶって、作物は全滅。見渡す限り灰一色で、緑の面影も無いという景色に変ってしまった。

 周囲の山の立木はもちろん全滅。全山緑であった松本山は一挙にして熱灰の山となり、七月七日の報告で既に「松本山は丸坊主となり低く」とあるところをみると、新火山は非常な勢いで盛り上って行ったらしい。

 その後も隆起は依然として止まず、一日一メートルくらい、火口附近は数メートルという勢いで生い立って行った。そして冬を越して、昭和二十年の春を迎えた頃は、昨年まで畑であったところに、周囲二キロ、高さ四〇五メートルの火山が聳え立ち、真中に突立った立派な円頂丘ドームからは、盛んに噴煙を見るという奇蹟の山が現出したのである。

 一生のうちに再び見ることの出来ないであろうこの大異変を眼前にしながら、私は一日一日を引きずられるような姿で、戦時研究に没頭させられ、二日の暇を割くことが出来なかった。というよりもそれだけの気力が出ないほど疲れていたのであろう。ところがその夏に、幸いこの新火山の近くの飛行場で、或る研究をすることになったのを機会に、一日を潰して全教室員で見に行くことにした。案内は福富教授である。各人それぞれ自慢のカメラや寒暖計などを持ち出して、たいへんな意気込みで乗り込むことになった。

 洞爺湖温泉で一泊した一行は、翌朝速く立って湖畔に沿い、明治四十三年に出来た新山の麓を通って、西湖畔へ出た。此処まではところどころに降灰の痕跡を見る程度にすぎなかったが、一歩西湖畔から折れて山地に向うと、途端に一望唯灰一色の死の山野の風景がひらけて来た。そしてその景色の奥に、新しい火山が濛々たる白煙を噴いて聳えている姿に接したのである。

 この有珠山の東麓地帯も、普通に北海道によく見られる広漠たる平野で、極めてなだらかな起伏のある美しい沃野である。昨年までは一面の緑の畑に牧草地が続き、ところどころに白い牛が放たれていたのであろう。それが今は全く熱灰の下に埋められ、一望沙漠のような何物も無い景色に変っている。わずかに残骸を示す立木も白く枯れて、半ば折れくだかれている。正面の新火山の右に、松本山が丸坊主になって小さく見える。これもこの附近では目立って高い山であったのが、まるで今度の山の瘤くらいな恰好である。左手には、ずっとなだらかな丘陵地帯が続いているが、それも全山灰の下になって、滑らかな砂丘のような姿である。暫く歩いて行くうちに、黒い洋服の布地の上に、白い粉がいつの間にか溜っている。今日は風向きが悪いので、こっちへ灰が来るらしい。立ち止ると、火山の地鳴りがごうごうと、遠い海鳴りのように聞えて来た。

 歩きにくい灰の上を難行しながら、新火山の麓近くまで行く。近づくにしたがって、鳴動はだんだん大きくなって来る。降灰層の厚みは、二メートルを越えるところもある。降水の浸蝕のために、到るところに原始の川が出来ている。この種の「土」に特有な性質として、両岸が垂直に切り立って、落雁を割ったような形になっている。北支の奥、ゴビの沙漠の黄土地帯を流れる川の原型が、到るところに見られるのである。

 地割れといった方が適当なこの原始の川については、構造よりもその形の方が私にはもっと心が惹かれた。左手にある砂丘のような滑らかな丘陵の腹に、この原始の川が何本も並んでいる。山肌のわずかばかりの凹みを水が流れ、一度水が流れるとますます溝が深くなるので、その流路は固定される。そういう流路が沢山沢に向って集り、一本の幹となって流れ下る。それ等の流路が、一草の遮るもののないこの原始の山肌の上では、ちょうど地図の上で見る川の形そのままに見られるのである。山はただ一面の灰に蔽われ、生ける者のしるしもない。灰色一色の山肌の上に、両岸の切り立ったこの原始の川が、強い鉄線を曲げたような形に、黒く力強い線となって刻み込まれている。天地創造の世界で、川が誕生する時の姿を想像するには、これ以上の巧い景色は無いであろう。

 熱灰の下の松本山は、悲惨な景色である。なまじっか唐松の林に蔽われていたばかりに、無慙にもくだかれたその残骸が、灰にまみれているのが傷ましい姿に見える。不思議なのは、松本山の右手に続く山の唐松が、皆根本に近いところからへし折られたような形に倒れていることである。こういう例は前にも一度あったとかいうことで、何か重いガスが非常な勢いで噴出されたためではないかと、想像している人もあるそうである。そういうことは実験室の物理学ではちょっと考えられないが、そうかといって外にちょっと説明のしようもない。天地創造の世界で起る現象は、そう簡単に説明されないのが当然なのかもしれない。

 もうだいぶ山が落着いているので、円頂丘にはとても登れないが、外輪山壁までは行けそうである。そこまで行けば、円頂丘の割れ目から中の熔岩が見えるはずだがということで、私たちはまず松本山へ登った。その頂上から新火山の外輪山壁へは、比較的安全に登れるということである。この出来たばかりの火山は、私たちの見ている眼の前でも、盛んに岩が崩れ落ちているので、とてもまともには近寄れないのである。

 松本山の頂上附近は、深い地割れが一面にはいっている。全山を蔽った厚い降灰層が、その後の基盤地形の変化によって、散々に割られたのである。今にも全山が崩壊しそうな気がする。薄気味悪い思いをしながら、深い地割れをまたいで登って行く。いよいよ新火山にとりつくと、地鳴りはますます激しくなる。ごうごうと全山が身を震わせて鳴っているようである。何だか本統にその振動が脚下に響いて来るようである。

 外輪山壁にとりついて、噴煙の円頂丘ドームに面と向った時に、景色がまるで一変したという感じを受けた。熱灰の下の山野は死の世界であるが、この今大地の底から押し上って来た岩山は、スタインの言葉を借りれば、それは生を知らぬ世界である。まず眼を見張るのは、その多彩なる色彩である。一遽に四〇五メートルも押し上げられた地殻は、その表土をかなぐり棄てて、地下の岩盤をあらわに露出している。今まで地熱とガスとに焼かれていたその岩盤は、縦横に打ち割られて、一メートルから二メートルくらいの岩塊の集りとなって、危く山の形を保っている。百万年の間地下に秘められ、今新しく初めて陽光を見る岩の色は、極めて鮮かである。それは人界にある色とはちがった美しさである。分析の結果から言えば鉄分が多いためといわれるかもしれないが、この岩の基調の色は、紫を含んだ代赭たいしゃに似ている。

 岩の割れ目からは、かすかに蒸気が漏れている。そういう割れ目の端は、特に鮮明な多彩の色に縁どられ、濃い紫と輝く黄色と鶏冠石の朱とに飾られて、螺鈿をちりばめたように妖しく美しい。黄は硫黄の結晶であろう。朱の色は砒素の蒸気によって本統に鶏冠石が生まれて来ているのかもしれない。そういえば、孔雀石の青緑を思わす鮮かな色彩も雑っている。手を触れてみると、岩はまだ熱い。

 この妖しく美しい岩石の原を前景として、濛気の隙間から、紫色に黒く円頂丘の大岩塊が、すぐ眼の前に見上げるばかりに聳えている。真白い噴煙が、その円頂丘の脚下から頂上まで、到るところから非常な勢いで吹き出されて、この大岩塊をつつんでいる。地をとどろかして響く鳴動は、しばしの休みもない。噴煙が左右に揺れる隙間から、時々岩の割れ目が見える。双眼鏡を眼にあてたまま待っていると、噴煙のなびく隙に、その割れ目が黒く浮き出して来る。割れ目の奥は暗く、その底に真紅の熔岩が光って見える。その火の色を見ていると、何だか自分が現実に地球の奥を覗いているような気持になる。普通の活火山で熔岩を見ても、こういう気持はあまり起らない。つい近くまで大地の底にあった物が、今眼の前に現出したという、地球の力を如実に示すこの新火山にして初めて感ぜられる気持なのであろう。

 この如実に示された地球の力に幻惑されたことも一つの理由であろうが、今眼の前に見るこの山の姿は、誠に美と力との象徴である。その美は人界に無い妖しい光につつまれている。その力にも闘争や苦悩の色が微塵もなく、それはただ純粋なる力の顕現である。こういう美と力との世界は、生を知らぬ世界であり、人の心に天地創造の夢をもたらす世界である。

 風向きが変って、灰が真白に降って来た。煙もこちらへ靡いて来るようである。私たちは慌てて山を下りた。ふり返ってみると、山腹に沿って時々岩塊がころげ落ち、それにつれて土砂と火山灰との山崩れが起り、濛々と土煙を立てていた。あの麓までころげ落ちた岩塊には、もうさっきの色の美しさは消えていることであろう。

 地球物理学の立場から言えば、今度の新火山も、やはり有珠火山活動の一例で、それほど珍しがることもないかもしれない。もっとも有珠火山そのものが、世界的に珍しい火山なので、その意味では稀有な現象と言って差支えない。しかし有珠では既に明治四十三年の噴火に際し、洞爺湖畔に新山が隆起し、百日の間に一五五メートルの高さとなって、現在の山が出来ている例もある。

 この有珠火山では、岩漿が火口まで昇って来る前に、熔岩柱の頭が固化し、それが下方のまだ熔けている岩漿で押し上げられて、円頂丘ドームとなって盛り上って来るという特徴がある。円頂丘が出来ると火口を塞ぐので、岩漿の新しい活動は、時として山腹部の抵抗の弱いところへ向い、新しい山を隆起させて、今度のような新火山を造る。その熔岩柱が地上まで噴出せず、地下に潜在円頂丘として止る場合は、明治四十三年の新山の場合のように、山の隆起だけに止ることになる。

 こういう説明をきけば、今度の新火山の現出も、何も天地創造の夢までもち出すほどの事件ではないかもしれない。しかしそういう説明をきいても、あの美と力との不思議な世界の魅力は少しも減じない。私にはアルプスの成因の学説よりも、今度の火山の姿の方がもっと心に残るのである。

 すべての原始民族が、それぞれ自分の天地創造の伝説を持っていることを思えば、こういう夢も許されることであろう。

(昭和二十一年一月六日)



附記


 本文にもちょっと書いた北大理学部地質学教室の石川教授の好意によって、この新山の出来た経過を示す図を一枚加えた。この図はこれも本文にちょっと書いた壮瞥村郵便局長三松氏の観測に基づいたものである。隆起前の地表面を太線で現わし、昭和十九年五月二十五日から昭和二十年九月十日までの新山の外郭線の変化を八期に分けて描いてある。昭和二十年九月以後は殆ど著しい上昇を示さないので略してある。


 最初の爆発は昭和十九年六月二十三日に起ったので、下から二番目の線の頃である。爆発が起ってから、土地の隆起は急に速度を増している様子がよく見られる。そして翌二十年四月には円頂丘が完全に出来ている。私たちがこの山を訪れた時、即ち本文に書いた記述は、上から二番目の時である。

 三松氏の原図はこれよりももっと詳しいもので、極めて貴重な資料である。今度三松氏の快諾を得てこの略図を転載することが出来たことは有難い次第である。

(昭和二十二年七月九日)

底本:「中谷宇吉郎集 第五巻」岩波書店

   2001(平成13)年25日第1刷発行

底本の親本:「楡の花」甲文社

   1948(昭和23)年830日刊

初出:「婦人公論 四月再生号」中央公論社

   1946(昭和21)年41日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※三松正夫(1888(明治21)年-1977(昭和52)年)の観測に基づく昭和新山の出来た経過を示す図は三松氏の著作権を鑑み収録していません。

入力:kompass

校正:砂場清隆

2016年610日作成

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