『団栗』のことなど
中谷宇吉郎



 今度岩波文庫に『寺田寅彦随筆集』の第一巻が出た。小宮さんの編輯によるもので、全部で五巻のうちの第一巻が出たのである。

 その巻頭に『団栗』が載っている。全集第一巻とくらべてみると、執筆年代順からかぞえて、初めの十一篇が略され、十二番目の『団栗』が最初にとりあげられている。もちろん文芸的の価値からいっても、この『団栗』と次の『竜舌蘭』とは、先生の作品の中でも、特に高く評価さるべきものである。しかしそのことの外に、この『団栗』は深い意味のある作品であって、これが今度の集の巻頭に載ったことについては、小宮さんの寅彦に対する心持がしのばれるように、私たちには思われる。

『団栗』は、明治三十八年、漱石の『猫』が初めて『ホトトギス』に連載され始めた年の四月、同じく『ホトトギス』に発表された短篇である。早く亡くなられた先生の最初の奥さんのことを書かれたものである。

「暮もおし詰つた二十六日の晩、妻は下女を連れて下谷摩利支天の縁日へ出掛けた。十時過に帰つて来て、袂からおみやげの金鍔と焼栗を出して余のノートを読んで居る机の隅へそつとのせて、便所へはいつたがやがて出て来て蒼い顔をして机の側へ坐ると同時に急に咳をして血を吐いた。驚いたのは当人ばかりではない。其時余の顔に全く血の気が無くなつたのを見て、一層気を落したと此れはあとで話した。」

 これは明治三十三年の暮のことである。この時先生は二十三歳で、まだ理科大学物理学科の二年生であった。土佐高知の旧家の一人息子として育った先生は、当時の習慣もあり、また父君の特別な意向もあって、非常に早く結婚されていた。熊本の第五高等学校へ入学された翌年、二十歳の時に、この夏子夫人と結婚されたのである。奥さんは多分十五歳くらいであった。

 先生はこの奥さんを深く愛して居られたので、心配も一通りではなかった。それに女中は、肺病ときくと暇をとってしまった。『不如帰』の時代であるから、珍しいことではない。しかし幸いにして、美代という心掛のよい女中が来てくれた。

「仕合せと此れが気立のやさしい正直もので、尤も少しぼんやりして居て、狸は人に化けるものだといふやうな事を信じて居たが、兎に角忠実に病人の看護もし、叱られても腹も立てず、そして時にしくじりもやつた。手水鉢を座敷の真中で取落して洪水を起したり、火燵のお下りを入れて寝て蒲団から畳まで径一尺程の焼穴をこしらへた事もあつた。それにもかゝはらず余は今に到る迄此美代に対する感謝の念は薄らがぬ。」

 この美代というのは、本名のようである。明治三十四年二月一日の日記に「美代帰る。手水鉢の水をはこぶとて台所にて取落し一面の水となる」とある。その美代のことであろう。この美代はその後間もなく二月の末に、夏子夫人が郷里高知へ療養のために帰った時も、高知まで付き添って行った娘である。

 夏子夫人の病気は、正月になって少しずつ快方に向って行った。しかし五月に初産をひかえての喀血であるから、安心は出来ない。三十四年一月初旬の日記には、連日病人のことが書き添えてある。

 一月一日「病人も起床して雑煮を祝ふ」

 二日「病人よし」

 三日「病人よし」

 四日「病人、頭痛。足の関節も痛む」

 五日「病人快からず。夜具の上に琴をよこたへてかきならす。早く戸を閉ぢて病床近く膳具を運ぶ。戸外には風のあるゝ音。心細き夜なり。夢の話。狸の人をばかす話」

 六日「医師来診。最早肺部の呼吸音には毫も異状なきとの事なり。ミゼラブルの話などす」

 七日「帰りて又ミゼラブルの続きを話す。病人大によし」

 病状の起伏に、一喜一憂しながら、先生は細かく気を使って居られたのである。木枯の吹き荒れる宵などは「病床近くに膳具を運」び、「狸の人をばかす話」だの、「ミゼラブルの話など」をされた。「狸は人に化けるものだといふやうな事を信じて」いた美代も、かたわらでその話をきいていたのであろう。

「世間は目出度いお正月になつて、暖い天気が続く。病人も少しづゝよくなる。風の無い日は縁側の日向へ出て来て、紙の折鶴をいくつとなくこしらへて見たり、秘蔵の人形の着物を縫うてやつたり、曇つた寒い日は床の中で「黒髪」を弾く位になつた。そして時々心細い愚痴つぽい事を云つては余と美代を困らせる。妻は其頃もう身重になつて居たので、この五月には初産と云ふ女の大難をひかへて居る。おまけに十九の大厄だと云ふ。美代が宿入りの夜など、木枯の音にまじる隣室の淋しい寝息を聞きながら、机の前に坐つて、ラムプを見つめたまゝ長い息をすることもあつた。」

 病人は案外早く快方に向って、一月十三日にはもう「夏子も起き出でゝガラスを拭ひなど」するまでになった。晴れた寒い日である。「鳥影障子にさせ共人も来ず。梅のつくり花一輪こしらへて庭の枯枝に付けたり」「バイオリン取出て Harmonious Blacksmith と云ふを習ふ」という温和な生活が又戻って来るように見えた。それから暫くの間、日記には病人の記載が無い。多分順調に快復されていたのであろう。そして一月三十日には、「夏羽子板と羽根を買ふ」までになったのであった。

 このままで済めば、或は何事も無かったかもしれなかった。ところがここで「寺田寅彦」の生涯とその性格とに、重大な影響を残すような事件の発端が起った。それは夏子夫人の病気を極端に恐れた父君が、夫人を先生から引き離して療養させる案を立てたことに始まる。一月三十一日に夫人の父君が来訪して、「於夏の病気保養の為帰国しては如何との」相談があった。そして二月二日には、「医師来る 夏の帰国は海上気遣なるべしとの事」という風に、どんどん話が進められた。

 この帰国は二月二十二日に決行された。それまでに二十日間の余裕があった。最愛の夫人を一人遠く高知にまで送られる先生の気持は、日記の中に「火鉢の上にて夏と指相撲」「昼より夏と浅草へ行く」というような文字となって残っている。そしてこの話の主題であるところの、植物園へ行って団栗を拾う話も、この間にあったことである。「昼より於夏を連れて植物園へ行く。戸崎町なる某寺の前にとぶらいの車並べり。温室には目なれぬ花卉咲きみだれて麗はし。池の水氷りたるに石投ぐる者案外に大人なるも可笑し。団栗数多拾ふて帰る」この日は二月三日の日曜で晴れた日であった。

『団栗』には、この時の情景が詳しく書かれている。

「それにも拘らず少しづゝよい。月の十何日、風のない暖い日、医師の許可を得たから植物園へ連れて行つてやると云ふと大変に喜んだ。出掛けるとなつて庭へ下りると、髪があんまりひどいから一寸撫で付ける迄待つて頂戴と云ふ。懐手をして縁へ腰掛けて淋しい小庭を見廻はす。去年の枯菊が引かれた儘で、あはれに朽ちて居る。それに千代紙の切れか何かゞ引掛つて風のないのに、寒さうに顫へて居る。手水鉢の向ひの梅の枝に二輪ばかり満開したのがある。近付いてよく見ると作り花がくつつけてあつた。大方病人のいたづららしい。」

 植物園の門をはいって、広いだらだら坂を上って行く。「穏かな日光が広い園に一杯になつて、花も緑もない地盤はさながら眠つたやう」に静かな景色である。温室の中へはいってみると、「活力の充ちた、しめつぽい熱帯の空気が」強く感ぜられ、「濃緑に朱の斑点の入つた草の薬」だの、「赤い花」だのが沢山並んでいた。

「池の小島の東屋に、三十位の眼鏡をかけた品の好い細君が、海軍服の男の児と小さい女の児を遊ばせて居る。海軍服は小石を拾つては氷の上をすべらせて快い音を立てゝ居る。ベンチの上には皺くちやの半紙が拡げられて、其上にカステラの大きな片がのつて居る。『あんな女の児が欲しいわねえ』と妻がいつにない事を云ふ。」

 このいつにない話が、その後実現されて、五月には郷里の療養先で、長女貞子『団栗』の「みつ坊」が生れた。そして『団栗』の主題は、若い奥さんがこの日、団栗を沢山拾う話と、五年後にその忘れ形見の「みつ坊」が、同じくこの植物園で団栗を拾う話とからなっている。

「出口の方へ崖の下をあるく。何の見るものもない。後で妻が『おや、団栗が』と不意に大きな声をして、道脇の落葉の中へはいつて行く。なる程、落葉に交つて無数の団栗が、凍てた崖下の土にころがつてゐる。妻は其処へしやがんで熱心に拾ひはじめる。見る間に左の掌に一杯になる。余も一つ二つ拾つて向ふの便所の屋根へ投げると、カラ〳〵と転がつて向側へ落ちる。妻は帯の間からハンカチを取出して膝の上へ拡げ、熱心に拾ひ集める。」

「『一体そんなに拾つて、どうしようと云ふのだ』と聞くと、面白さうに笑ひながら、『だつて拾ふのが面白いぢやありませんか』と云ふ。ハンカチに一杯拾つて包んで大事さうに縛つて居るから、もう止すかと思ふと、今度は『あなたのハンカチも貸して頂戴』と云ふ。とう〳〵余のハンカチにも何合かの団栗を充たして『もう止してよ、帰りませう』と何処迄もいゝ気な事を云ふ。」


 二月二十一日、いよいよ明日はこの家を畳んで、先生は下宿へ移り、奥さんと美代は親戚の家で一泊して、帰郷の途につくことにきまる。「下宿へ荷物を送る。医師、家主其他へ払ひ、此家も今宵限りなりと思へば流石になつかし」先生にはこの西片町の家が気に入っていたので、特にその感が深かったのであろう。

 先生は高等学校時代に結婚されたが、奥さんは家に残したまま熊本で学生生活を送り、東京の大学へ入っても、初めは一人で下宿をして居られた。軍人堅気一方の父君が、一人息子の身のことを案じられたためであろう。初めは親戚にあたる銀座の商店にあずけられ、後に谷中の古い汚い寺の一室に移られた。二年生になって、奥さんが出て来られてからも、逢初町の汚い小路の離れを借りたり、仲御徒町の金貸しのばあさんの離れに移ったりされた。先生自身「随分流浪の生活をしたものだ。それが漸く西片町の家があいて引越しをして、やっと山の手の生活に入ったと思った矢先、妻が病気をして死んでしまったのだ。何故あんな不衛生ないやな所ばかり流浪して歩いていたものか、今思うと腹が立つくらいだ」と述懐されたことがある。「随分永らくあの家の前を通るといやな気がしたが、この頃やつと平気になれるやうになつた」といわれたが、この頃というのは、『団栗』の時代から二十五年後の昭和の初め頃の話である。

 奥さんと美代を送って、先生は浜松まで行かれた。そこで父君に会い、両人を託して翌日朝六時発の汽車で帰京された。そして「飯田町より車にて本郷五丁目の下宿へ帰」り、この日から淋しい先生の下宿生活が始まった。「夏等今夜神戸出帆の電報来る」といっても、先生は唯一人冷い下宿の床で「わだつみも便なき此児を守らせ玉へ」と祈るより外に道がなかった。

 三月二日の晴れた土曜日の午後、梅は大分咲き揃ったが、先生は淋しかった。西片町の医師の処へ行く途中、「旧宅の裏を覗いて通る」と「垣破れたる儘なり」で、感慨深いものがあった。その日の夕方「夏へ少年世界送る。」

 翌日の日曜、「竹崎を訪はんとて出でしも時雨ふりて寒ければ上野広小路の方へ行く 下駄を切らして買換へたり」時雨の日に下駄を切らした先生が、「切通の箪笥屋」の前を通ると、「先日売り払ひし長持」が、まだ「の外れし儘なり」の姿で店頭に置いてあった。思い出はつのるばかりである。先生の生涯の中で、この短い西片町の生活が、唯一の楽しい思い出であったのではないかと思われる。その後三十年、先生の名声は高くなるばかりであったが、「火鉢の上にて夏と指相撲」をする先生は、この時以後はもうなかったようである。

 高知へ帰った奥さんは、高知の家にも居らず、近くの海岸の種崎で、唯一人療養の生活をつづけた。それは東京との手紙の往復だけが、唯一の慰めであるような生活であった。それでも五月には無事長女の出産があった。二十六日その電報を受け取られた先生は、日記に左の一句を残された。


幸ありて桃の若葉と照り栄へよ


 この長女貞子は、生れて間もなく、母親の手から引き離されて、高知の先生の家で、乳母の乳で育てられることになった。生れて母の慈愛を知らない子であった。十九歳の若い奥さんは、夫に離れ、家人に離れ、みどり児からも引き離されて、ただ一人乳の張りに悩んでいた。その悩みも手紙に託するより外に道がなかった。六月九日「晴。郷里より書留来る。又夏よりも手紙来る。乳の張るたび此乳を呑ます様ならば如何に嬉しからんと思ふなど言ひ越せり。明星を読む。

二十年の汝が世の夢はつらかりし。笑ひてねて恋の歌読め」

 この頃の先生の日記に、夏子夫人と同程度にしばしば出て来る名前は、土佐一中時代からの友人の間崎純知氏と竹崎氏との名前である。小林勇氏の『回想の寺田寅彦』の中に、間崎氏の談話筆記がある。先生はもともと感情をあらわに出す性質ではなかったが、間崎氏等には、時とすると「間崎、おやじはこんなことを言ふんだ」と云って、苦しい胸を打ち明けられたこともあったそうである。

「奥さんには、わたしは会つた事がありませんが、大変美しい立派な人だつたと聞いて居ります。土佐の人で師団長をした坂井将軍の令嬢で、寺田の父が矢張り軍人だつたところから縁が出来たのでせう。

 奥さんが病気になると、その頃は胸の病気といふと大変恐れられてゐた時世で、ほととぎすの武男と浪子のやうな時代ですから、寺田の父親は、寺田の体はもともと丈夫ではないし、大切な一人息子ですから、一緒に置く事を承知しない。それで父親が迎へに来て奥さんは独り土佐へかへり種崎といふ海岸へ転地して療養する事になりました。」

「寺田は淋しくてたまらぬものですから天気が悪いと言つてはやつて来る。風が吹くと言つてはやつて来る。こんな日に何故やつて来るのだときくと、来たくなつたからやつて来たといふのです。」

「今でも思ひ出します。青木堂にゐて、暮れて行く雨の街路を眺め乍ら三人がゐると、何も憂ひを持たぬ竹崎とわたしでさへも何かしんみりした心持になつて行くのでした。まして病んでゐる最愛の妻を遠くへ一人でやつて、家族ともはなれて暮してゐる人のことを思ふ心はどんなだつたでせうか。寺田は奥さんに孤独の生活をさせて置くことはたへられない。傍で慰めてやり度い。心中でもしてしまひ度い位に思つてゐるのに離れて暮さなければならなかつたのです。」

 間崎氏は、その頃の先生の姿を、「雨や雪の降る天気の悪い日にぐちよぐちよにぬれて現れる寺田の姿を今でも時々思ひ出します」といわれる。今でもというのは、先生の歿後、即ち『団栗』の時代から三十五年後のことである。

 この「ぐちよぐちよにぬれて」友人の下宿へ現われるような生活は、夏休みになって、やっと終りをつげた。六月二十八日、青木堂で干葡萄若干を求め、それを土産として高知へ帰られたのであるが、夏休中の記録は全然残っていない。そして休暇が終って明日帰京という日になって、初めて日記がつけられている。九月三日「明日は出発せんと云ふに頭重く心地悪敷ければ片山医師の診察を乞ふに肺尖加答児カタルなりとの事なり。」

 この病気のために、先生は大学を一年休学して、須崎の浜へ転地療養をされることになった。奥さんは種崎、先生は須崎と、離ればなれの療養生活が始まったわけである。そして僅かに手紙の往復によって、互に慰め合うことだけしか許されなかった。先生は時々は高知の家へ帰られた。しかし父も母も知らぬみどり児貞子は、先生の思いを深めるだけであった。十月二十日「貞子熱あり、泣き止まず」「たまぎりなく児、西東を分かず。我れを父と知るや否。母はいづこ浜の松風。」先生の奥へ奥へとはいり込む後年の性格は、天性ばかりではなく、その境遇も預って力あったものであろう。

 種崎における奥さんの病状は、さほど悪いようではなかった。「夜夏より手紙来る 来月二日は浜の秋祭にて縫物あまた頼まれたりなど云ひこしぬ」「浜の竹崎の主婦来る。夏は今日は松露掘に行きたる由」という程度であった。起居はまず普通と見てよかったらしい。

 先生の肺尖加答児も、とり立てて病気というほどでもなかったらしく、須崎と高知との間を何回も往き来して、気ままな保養をするという程度であった。両人とも床に就ききりというのならばまだ諦めもつくが、この程度の症状であったのに、「肺病」という文字だけのために、引き離されて暮さねばならなかったのであった。十一月二十六日、須崎を立って船で高知へ帰って来られる途上、種崎の方に心を惹かれる先生の姿が、日記の中に残っている。「船浦戸に入りて雑喉場ざこばの前を過る時種崎の方の岸に見とるらしき女夏に似たり。」

 先生が高知へ帰られると、奥さんも種崎から時々出て来られたようである。十一月九日「夏来る 鰯を持来る。早く帰り去りぬ。」十一月二十九日「夏来る。正木さんの写真持ち来る。亡き人のはいづれ哀なり。夕方帰る。」大抵は泊らずにすぐ辞去されたようである。もっとも正月には、流石に「夏浜より来りて一泊」し、また貞子の初節句の時には、珍しく二泊して「雛の衣桁にかくべき衣縫ふ」というようなはかない喜びの日もあった。

 こういう境遇にあっては、おたがいに手紙が唯一の慰めであったのは当然である。先生の日記には、ほとんど連日のように、「夏へ手紙書く」「夏へ長き長き手紙送る」「夏の日記添刪してホトトギスへ送る」というような文字が見られる。奥さんからは、「自分の今の境遇は波打際の落葉の様なものだと云つて」来たり、同じ病で亡くなった友人の正木さんの余りにも哀れな話を知らせて来たりする。「死ぬる前日出産ありしも元より月足らずにて育たず。亡骸は一つの棺に収めて葬りし余りの哀れさ目もあてられずと。墓は虫なく台場の少し手前と云へば、月の夜さりは磯馴松影新敷標木に落ちて。人の涙は砂を潤さんとそぞろに悲しかり。過ぎし日夏子と袖ふりはえて波止場の夕日に釣垂れし人。父も見ず世を蓑虫の母も見ぬ子の亡骸を擁して松濤寒き影に眠るぞうたて世や。」

 正月を送り、二月が過ぎ、三月に入って、先生の健康は順調に快復して行った。しかし奥さんの方は、依然として同じような状態であったらしい。ただ一人種崎の海岸で、「波打際の落葉の様な」境遇にあった奥さんの健康が、はかばかしく快復しなかったのも当然であろう。

 三月に入って、日記に初めて宗教という文字が見え始める。「午前夏へ手紙認め、宗教の事云ひやる」「夏に「基督信徒のなぐさめ」送る」「教会前にて新約全書一冊求む。夏に遣はす為なり。午後は亮来り又宗教談」「夜高知教会へ行く」というような節々がつぎつぎと見られる。それと同じ頃には又「現今家族制度の弊など論ず」「楠病院なる楠目氏を訪ふ 手術後経過よしとなり弟君も来れり。芦花生の不如帰の話より現今家族制の弊や宗教の話して帰る」という風に、温順な先生も遂に余りにも悲しい二人の生涯に、批判の眼を開かれたようである。

 四月に入って、先生の健康はほぼ快復したので、須崎を引きあげて高知へ帰られた。夏子夫人も一時は大分調子がよく、四月十日貞子の初節句に高知へ帰り、珍しく二泊して「雛の衣桁にかくべき衣」を縫った頃は「帰路片山にて診察受く。大に快しとの事なり」と前途に希望がもてるようであった。しかし五月二十六日の貞子誕生日には、「夏は風邪未だ退かぬ由にて来ず。」そのまま六月に入って病状は悪化の傾向にあったらしい。六月十日「安岡叔母様浜より帰る。夏の熱未ださめず。熱のある際は腹痛もある由。御両上明朝浜へ赴かるゝ由なり。」

 先生の日記の中に種崎の「浜」へ行かれた記事は一つもない。今病状悪化の報に心を痛めつつも、御両上がかわって見舞に行かれるだけで、先生が「肺病」の病人の枕頭に顔を出すことは許されなかった。その間の心の悩みは、ただ日記の欄外に「主の涕を賜へ」と一言洩されただけである。そして翌日「朝御両上種崎へ赴く。夕方帰らる。夏の病気はさしたる事もなしとの事にて安心せり」と、はかない報告に安心して居るよりしかたなかったのである。

 こういう状況のところへ、七月に入って、この薄幸の病人を更に苦しめる事件が起った。それは七月二十五日「愈々いよいよ肺病患者は種崎へは住居させぬ由」という事件である。「父上は種崎より長浜へ家の詮議に行く」「種崎と仁井田の境に売家ある由」「又長浜の大工に新築の見積をなさしむる事としたる由なり」と、いろいろ苦慮を重ねられたようである。しかし先生はただ傍観しているより仕方なかった。家にいて「貞にまりをつけとねだられ、庭に出でゝ屋根に投げ上げては受け」て居られた。翌日夜「九時頃、夏、竹崎の主婦と帰り来る。竹崎には愈々置かぬとの事なり。夏はいたく痩せ衰へし様なり。それもさる事なるべし」。

 次の日「父上早朝種崎より浦戸に至り前に相談し置きたる家を借り受け於夏は午後より其方に赴く。」ところがやっと落著けるかと思うと、一日おいてすぐ「浜より竹崎の主婦来り一昨日引移りし家は元来が借家にて家主より苦情を申込みたる由」を報じて来た。こういう事件が精神的にも肉体的にも、この可憐な病人にひびかないはずはない。

 八月十一日「暴風雨。桂浜の茅屋を思ふ」

 八月十三日「朝夢に襲はれて泣く」「夏より端書来る。一昨日より嘔気を催し困難の由報じ来る」「片山医師へ夏の容体に就き意見を聞きに行く 衰弱すべしとの事なり。」事情はだんだん切迫して来る。父君はしばしば桂浜へ行かれる。そして「夜九時頃父上帰宅。夏は嘔気も止み経過良好との事」という報告をされる。

 夏休みもいよいよ終りに近づき、先生の一年間の休学期間も切れて、復校の時期が迫って来た。八月二十一日、別れの言葉をかわすために、先生は初めて桂浜の病床を訪われた。父君も一緒である。「正午より父上と桂浜に行き夏を訪ふ。次第に快き由なり。」「夏は思ひし程衰弱し居らず。戯れに写生帖にハンケチ頸に巻きたる姿を写す。別れ際に我衣の懐のだらしなく膨れたるを見て」とここで日記はぼつんと切れている。その欄外に後から書き入れられた Last interview!!! という文字が悲しく残っている。

 この最後の会見を終えて、先生は東京へ出られる。しかし八月末にはまだ大学は開かれていない。「本郷なる学校へ赴く。扉閉ぢられて人の気なし」という状態である。それで先生は珍しく九月初めから一週間ばかり、江之島逗子に遊ばれた。随筆にある簑田先生の家を訪ね、留守番をされたのは、この時のことである。

 大学の三年生として、先生は研究実験に著手され、かなり忙しい生活が始まった。夏子夫人への手紙も以前よりは、少し間遠おになったようである。しかしいつも念頭からは去らなかったらしい。「今日は夏よりの手紙来らんなと思ひつゝ小石川芭蕉庵に田中子爵を訪ふ 在宅 新築中の邸宅を巡覧す。四時過帰る。夏よりの手紙来れり。返事認む」とか、「午前夏へ端書認め高等学校に行きてオルガン引く」とか、「夏より写真来れり。夜トムソンのダイナモを読む」とかいうような記事が、三四日おきに書き残されている。病状は徐々ながら次第に悪化して行くようである。

 九月から毎日ちゃんとつけられている日記が、十月十三日から三日間空白になっている。そして十六日になって、「夏の病気も又模様よく最早気遣なる事もなかるべしとの事なり。数日来非常に病状悪敷、毎日父上より通報ありしが最早危険はなき由」と書きつけてある。毎日の父上よりの通報に、心を痛められている先生の姿が、空白の日記帖の中にありありと見えるようである。日記は再び始まり、田丸節郎氏へ「約束のバイオリン曲譜を持」って行ったり、「高等学校へ寄りピアノ」を弾いたり、「三河島迄散策」したりして居られる。しかし三日ばかりして、又空白が九日ばかりつづく。そして十一月十五日の記事には「理科大学懇親会」という簡単な一行の次に、「夏夜十時死去」と鉛筆の追記がある。この日記帖は当用日記であって、上段に毎日格言が印刷されている。たまたまこの日の言葉は、「死後も尚貴きは徳行のみ」というのである。その言葉の下には、先生の手による波線が施されて残っている。

 翌十一月十六日「午前四時夏危篤の報あり。次で六時絶息の報あり 十二時新橋発急行。坂井両上送り来る。昨夜会より帰りて床に就かんとする頃、胸さわぎ一しきりしたるが恰も夏の臨終の刻なりしと思合はされたり。此朝第二の電報の未だ来ぬ前、暁の鴉夥しく屋根に鳴き騒ぎたり」。十九日埋葬をすませて、一週間で又東京へ帰って来られた。それからは『回想の寺田寅彦』にある間崎氏や竹崎氏への訪問がますますしげくなる。「夜竹崎を訪ひ、共に神楽坂の洋食屋に行き九時過迄亡き人の事物語りす。」「竹崎と間崎に到り例により、上野より万世に出で神楽坂の青陽楼にて食事。又和良店の隣なる間崎君の舎弟の下宿に到り、法律の話より霊魂不滅の議論となり十二時帰る。宿に着きしは一時過なりし」というような生活がかなりつづいたようである。

 十二月二十四日「今夜は夏の御魂移し十一時より執り行はるべき筈なり」欄外に


亡き魂と親しむや窓の小夜しぐれ



『団栗』の最後は次の一章で結んである。

「団栗を拾つて喜んだ妻も今はない。御墓の土には苔の花が何遍か咲いた。山には団栗も落ちれば、鵯の啼く音に落葉が降る。今年の二月、あけて六つになる忘れ形身のみつ坊をつれて、此植物園へ遊びに来て、昔ながらの団栗を拾はせた。こんな些細な事に迄、遺伝と云ふやうなものがあるものだか、みつ坊は非常に面白がつた。五つ六つ拾ふ毎に、息をはずませて余の側へ飛んで来て、余の帽子の中へひろげたハンケチへ投げ込む。段々得物の増して行くのをのぞき込んで、頬を赤くして嬉しさうな溶けさうな顔をする。争はれぬ母の面影が此無邪気な顔の何処かの隅からチラリとのぞいて、うすれかゝつた昔の記憶を呼び返す。『おとうさん、大きな団栗、こいも〳〵〳〵〳〵〳〵みんな大きな団栗』と小さい泥だらけの指先で帽子の中に累々とした団栗の頭を一つ一つ突つつく。『大きい団栗、ちいちやい団栗、みいんな利口な団栗ちやん』と出たらめの唱歌のやうなものを歌つて飛び〳〵しながら又拾ひ始める。余は其罪のない横顔をぢつと見入つて、亡妻のあらゆる短所と長所、団栗のすきな事も折鶴の上手な事も、なんにも遺伝して差支へはないが、始めと終りの悲惨であつた母の運命だけは、此児に繰返させ度くないものだと、しみ〴〵さう思つたのである」。

 御霊移しがすんで、一日おいて先生は、興津から修善寺へ数日遊ばれた。Rayleigh の Sound の耽読がはじまったのは、この小旅行中のことである。

 明けて明治三十六年の元旦は、東京の下宿で迎えられた。「暖にて初日影も柔かに拝まれた」よい日であった。しかし「おとゞしの正月の事何くれと思出」された。いやな思いをしながら不衛生な下町の「流浪」の生活をつづけた末に、やっと西片町の気に入った家で、夏子夫人と初めて正月を迎えられた。しかしその時には既に、若い可憐な奥さんの身体には、不治の病がひそみ込んでいたのであった。「おとゞしの正月の事何くれと思出」されるのも無理のない話である。

 苦しいそして美しい思い出は、日の経つにつれて、柔かな暈光をおびて来る。四月五日の日曜日、晴れた春の陽を浴びて、「竹崎と植物園に行く 温室には珍しき草の花数知れず。桜も今を盛りなり。ヒアシンスの紅白紫に咲き乱れたるは更に美し。昔ながらの園生の錦、昔しの人をしのぶ種もさわなり」。

 思い出に美しい紗のカーテンがかかって来た。それには漱石先生が、この年の一月に倫敦ロンドンから帰って来られ、その家への出入りが再び頻繁に始まったことも、あずかって力があったのであろう。それに卒業実験も忙しくなり、また本もよく読まれ、物理学へ没入して行かれた。

 この間に日露の関係は次第に険悪になり、ついに翌三十七年に戦争がはじまった。先生は大学院で実験物理学を専攻することになっていたが、初めは地球物理学方面の仕事が多かった。そして日露開戦の二月には、熱海の間歇泉の研究を本多光太郎先生と一緒にされていた。

 夏目先生も、戦争とは余り関係のない『猫』の生活をして居られた。三十八年の一月二日旅順陥落の報に国中湧き立っていた日、先生は溝淵氏方で屠蘇をよばれ、椎茸を噛んで前歯一枚を折った。『猫』はこの一月から『ホトトギス』に連載された。そして『団栗』はその四月に、同じ『ホトトギス』に出たのである。

『団栗』が書かれたことは、もう思い出の中から、にがいものが消えたことを示すものであろう。そしてこの年の八月に、先生は浜口真澄氏の令嬢寛子と結婚をされた。寛子夫人との生活で、先生は再び幸福をとり戻されたようである。先生が日記をつけられない日には、寛子夫人が時々代って書いて居られる。十一月十六日(寛子記)「今日は貞子母上の五年祭とて心ばかりの祭をなす。」十二月十九日「旦那様昨夜より風邪の御気味にて学校は御休み」と書かれるような奥さんであった。しかしこの奥さんも大正六年、先生四十歳の時に亡くなられた。

「みつ坊」はずっと郷里高知の家で育てられ、大正三年に高知の家が引き払われるまで、ずっと祖父母の手許にいた。女学校に入って初めて父の手に戻った「みつ坊」は、寛子母上の死を送り、先生の吐血から始まる二年間の療養生活を看とり、それから結婚をした。しかし数年にして夫に死別し、遺児を育てるために婚家に止った。それが「始めと終りの悲惨であつた母の運命だけは、此児に繰返させ度くないものだと」願って居られた先生には、かなりの傷手であったようである。晩年の先生は、「みつ坊」のことは滅多に話されなかった。稀れに話が出ても、一言か二言で話をそらされるのが常であった。

(二二、一一、一五)

底本:「中谷宇吉郎集 第五巻」岩波書店

   2001(平成13)年25日第1刷発行

底本の親本:「立春の卵」書林新甲鳥

   1950(昭和25)年330日刊

初出:「手帖 第三冊」

   1948(昭和23)年430日発行

※初出時の表題は「読書随筆 二」です。

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校正:砂場清隆

2017年1025日作成

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