ケリイさんのこと
中谷宇吉郎



 十二月の初め頃、ちょっと用事があって、ワシントンへ出かけた。実は用事といっても、大したことはなかったので、久しぶりにケリイさんに会ってみたいという気持もあったからである。

 ケリイ博士といえば、日本の自然科学関係者の間には、非常に親しい名前である。終戦後間もなく日本へやってきて、総司令部の経済科学局で、自然科学方面の主任を、ずっとやっていた物理学者である。たしか講和会議のすぐ前までいたはずで、日本に対して、非常に深い理解をもっていた。終戦直後の虚脱状態にあった日本の科学界が、案外早く息を吹き返したのは、この人の親身も及ばぬ介抱が、大いに役に立った。

 占領軍としての総司令部は、各種の政策を残していったが、その中には、今日になれば、いろいろ批判されることもあろう。しかし自然科学に関する限りは、その施策は、かなり適正なものであったし、また親切でもあったと思われる。とにかく、日本の科学界は、私たちが初めに予想したよりも、ずっと急速に、その体力を恢復したという感じがする。

 日本は、現実問題として、世界の歴史に残るような完全敗北を喫したのである。そういう敗戦国で、敗戦後八年目には、もう世界の理論物理学会の大会が開かれたのである。しかも東洋というハンディキャップを入れての話であるから、こういうことは、世界的にいって、ちょっと類例がないであろう。これにはもちろん、湯川さんや朝永さんを初めとする日本の理論物理学者たちの力が大いに働いているが、その外に、日本の科学界が蘇生したという点も、一つの有力な背景をなしている。そしてその蔭には、ケリイさんの隠れた功績が、少なくも一つの礎石として、立派に存在しているように思われる。

 ケリイさんに初めて会ったのは、終戦後そう間もない頃で、たしか冬の初めであった。あの頃のことは、記憶が少しぼんやりしていて、最初の冬であったか、次の年の冬であったか、はっきりしない。とにかくまだひどい時代であった。北大の各研究室の様子を見にきたわけであるが、当時の北大は、石炭不足のために煖房が止っていた。札幌の冬を煖房なしには過せない。従って講義は冬季の四か月間休講、病院も半分閉鎖、手術もたしか一週一回という状態であった。手術室を毎日暖めることが出来なかったからである。「盲腸になるんだったら、夏まで待たなきゃあ」と冗談をいっていたが、実際気の毒な急患もあったことであろう。それに私たちの関係では、低温研究所が、兵舎として接収されていた。

 ケリイさんは、こういう問題を一々丁寧に調べ上げて、その解決のために、いろいろ尽力してくれた。低温研究所の接収解除などにも、大いに働いてくれた。文官が軍人のすることにくちばしを容れることは、アメリカでも、もとの日本同様に、非常にむつかしいのであるが、ケリイさんは、到頭それを実現させてしまった。少なくも解除の促進をやってくれた。

 この時の札幌訪問には、ケリイさんにとって、忘れがたい印象を残した事件があった。それは、ついでに石狩川の河口を視察に行ったのであるが、その帰途に起った事件である。札幌から石狩河口までは、五里くらいもあるかと思うが、冬の間は、交通機関としては、馬橇しかない。馬橇は、幌をかけると、ひどく酔うので、ほとんど全部オープンである。従って非常に寒く、雪まじりの強い風をまともに受けて走る時などは、いくら防寒の支度をよくして、毛布にくるまっていても、一、二時間もすれば、骨の髄まで冷え込んでしまう。

 ところが、ケリイさんの場合は、帰途、夕方になってしまって、しかも天気が急にかわって、ひどい吹雪になってしまった。冬の北海道は、五時になればもう真暗になってしまう。夜の石狩の原野の真中で、吹雪にあうということは、冗談ごとではない。御者も大いにあわてて、懸命に馬を走らせるが、いつまで行っても、暗黒の原野で、吹雪はますます激しくなる。まさに遭難の一歩手前というところまでいってしまったらしい。

 その時に、幸運にも、かすかな灯を一つ見附けたので、とにかくそこへたどりついて、救いを求めることにした。行って見たら、小さい一軒屋で、北海道によく見る貧しい百姓家であった。迎え入れてくれたのは、腰の曲った六十あまりの老婆で、もちろん英語など片言も分らない。普通の日本語もよく通じないような老婆が、北海道の辺鄙な農村にはよくいるが、そういう人であったらしい。

 その老婆が、非常に親切に、ケリイさんを招じ入れて、いろりの側に坐れという。もちろん手真似である。そしていろりに薪をどんどんくべて、ケリイさんの身体を暖めてくれた。吹雪の夜に、行きくれた旅人が、救いを求めてくるということは、昔から日本の雪国には、時々あったことなので、この老婆にも、そういう場合の処置が、半ば本能的に身についていたのであろう。湯を沸かして飲ませてくれ、一晩中、薪を焚いてくれたそうである。

 もちろん煙出しのないいろりであるから、煙はもうもうと部屋をこめる。ケリイさんは、煙にむせびながら、一晩中、その老婆と対坐して、夜を明かしたそうである。その間二人の間には、言葉としては、一言も通じなかったわけである。しかしケリイさんの述懐によれば、「言葉は一言も通じなかったが、言葉などはいらないもので、あの老婆が言いたかったことは、全部分った。そして思っていることもすっかり読みとれた。日本人の「言うこと」が、あれほどよく分ったことは、今までになかった」という話であった。

 今度ワシントンで会った時も、日本への一つの心残りは、帰る前に今一度あのお婆さんを訪ねる時間がなかったことだ、と言っていた。

(昭和二十九年四月『新潮』)

底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店

   2001(平成13)年35日第1刷発行

底本の親本:「知られざるアメリカ」文藝春秋新社

   1955(昭和30)年525

初出:「新潮 第五十一巻第四号」

   1954(昭和29)年41日発行

※初出時の表題は「日米小記(一)」です。

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校正:砂場清隆

2016年610日作成

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