湯川秀樹さんのこと
中谷宇吉郎
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十一月四日は、たまたま函館にある北大の水産学部で、文化講義をする日になっていた。
朝、学校へ顔を出したら、とたんに学部長の武田さんが、「先生、今朝のラヂオの臨時ニュースを御ききですか。湯川博士がノーベル賞を貰うことに決ったそうですが」と、やや興奮した語調で話し出された。
「そうですか。それはたいへんなニュースですね。ちっとも知りませんでした」
「昨夜のニュースでは、多分決りそうだといっていましたが、今朝はいよいよ確定したというんです」
「それはほんとうに芽出度い話だ。それじゃ今日は終戦以来初めての芽出度い日ですよ」
「先生は、アメリカで湯川博士に御会いになったそうですが、その時何か」
「いや、そんな話は全然ありませんでした。湯川さんも、きっと喜んでいることでしょう。それにアメリカにいる日本人たちが、大いに肩身の広い思いをしていることでしょう」
こういう話をとり交しているうちに、九月に紐育で会った時の、湯川さんの顔、奥さんや子供さんたちの像が、私の頭の中に、ありありと蘇ってきた。初めて内報があった時に、奥さんはきっと、あの大きい眼を一層まんまるにして、喜んだことだろうと、その顔が見えるような気がした。湯川さんもきっとほっとしたことだろうと思う。
昨年の八月、湯川さんが、プリンストンの高級科学研究所から招かれて、渡米するという寸前、京都で会った。それは京都によくある灼きつけるような暑い日の午後であった。二階の方々の窓を開け放して、風通しのいい中で、湯川さんと奥さんとは、部屋一杯に荷物をならべ立てて、整理の真最中であった。湯川さんの渡米許可は早く下りていたが、奥さんの方はその頃はまだ許可がなかなかとれない頃だった。それが、私が訪れた日の前日かに、東京の司令部から電話があって、いよいよよろしいということになったのだそうである。二、三日で出発の準備をして、留守宅の手配をして、というのであるから、たいへんな騒ぎの最中であった。
そんな時だったので、ちょっと用件の話だけして、すぐおいとました。それではプリンストンでまたゆっくり遊びましょうということにして、別れてきた。というのは、その後二、三か月中に、私もアメリカと加奈陀とへ出かける予定になっていたからである。「それにしてもそれじゃまたプリンストンでなどというようになったのも、世の中のテンポがずいぶん速くなったものですね」と皆で笑って別れた。
ところが私の出発が、その後予定よりもずっとおくれたので、到頭プリンストンでは会えなかった。一年近くおくれて、七月の初めにやっと出かけたのであるが、アラスカ、西部、中部、加奈陀と廻っているうちに、紐育へ出たのは九月の初めになってしまった。湯川さんは、高級科学研究所との約束がすんで、八月末から紐育のコロムビア大学に移っていた。それで途中から連絡をして、紐育の御宅で、二、三日遊ぶことにした。
同じ物理学とはいっても、私の方は、湯川さんとは全然専門がちがうし、それにあの難解な理論は、全く分らない。それで会っても、いつも物理の話はほとんどしない。いわば道楽の方での友だち関係を、十年来つづけてきているわけである。というのは、少し際どいところで宣伝をするようであるが、私が南画を描いて、湯川さんが賛をするという、別にはたに迷惑にはならない道楽が、ずっと前からあったからである。
ことの起りは、もう十年昔の話になるが、昭和十五年の晩春、湯川さんが、北大へ臨時講義にきた時から始まった。ホテルのスチームが熱すぎて、湯川さんが途中から風邪をひき、それが肺炎になった。今東大の理学部長をしている茅教授が、その時はまだ北大の同僚だったが、これは大変なことをし出かしたといって、大騒ぎをした。それで早速、北大病院へ入院することになった。何でも茅君が内科の部長に「湯川さんを肺炎くらいで死なしたら、北大病院は一躍世界的に有名になりますよ」とおどかしたとかいう話があったが、真偽のほどは保証の限りでない。
ペニシリンのまだない時代であったが、この肺炎は無事治った。そして一月ほどして退院になったのであるが、今度は病院の先生の方が、茅君をおどかしたらしい。「肺炎の病後は、慎重を期する必要がある。二か月くらい静養をしてから、汽車に乗せた方がいい」ということになった。
そんな騒ぎをしているうちに、夏休みにかかった。ところが、その夏、私は前橋へ雷の観測に出かけることになっていた。それで丁度いいというので、私の家で、一月あまり留守番兼静養をして貰うことになった。湯川さんは、奥の六畳で、一月あまり神妙に静養をして、すっかり元気になって帰って行った。別れ際に、うちの細君が、画帖を出して、何か記念に書いて下さいといったらしい。そうしたら湯川さんが、少しあわて気味に「もうこっちまで知れてますか」ときいたそうである。
湯川さんは、今では日本中知っているように、京大の地理の小川先生の令息である。小川老先生は、書画漢詩などに造詣が深く、従って湯川さんは、子供の頃から、京都随一の書家について、字を習ったというような家庭教育を受けて育った。それで字はなかなか立派である。それに、これはあとで知ったことであるが、南画も一時大分凝ったことがあるらしく、ちょっと素人放れのした米点山水の絵などが、たくさんある。人柄どおりの、正統的なちゃんとした墨絵で、下手な玄人画描きの画よりも、ずっと気持のいいものである。
雷の観測から帰ってみたら、湯川さんは元気で大阪へ帰ったそうで、安心した。画帖には、歌が書いてあった。
字が非常にいいので、ちょっとびっくりした。これもあとで知ったことであるが、歌もなかなか熱心で、すらりとした歌が多い。当麻寺の歌などには、いいものがある。アメリカへ行ってからも、時々はつくられるらしい。
中間子の存在を理論的に予言した論文が発表されたのは、昭和十年のことである。その後二年にして、アメリカで宇宙線の中にこの粒子が存在することが実証され、湯川さんの仕事は、急に日本でも有名になった。そして昭和十四年に京大の教授に迎えられたのであるが、家はまだ六甲の方にあった。
札幌でこの騒ぎがあった昭和十五年の年は、それで湯川さんの名前が、日本の物理学界でも大きくクローズアップされたばかりの頃であった。方々から講演だの、臨時講義だのを頼まれ、それにまた無下に断り切れない性質だったもので、到頭北海道まで引っ張り出されて、この厄を蒙ったわけである。当時まだ三十四歳くらいの若さであったが、大いに感心したことがあった。それは雑誌会などでいろいろ話をきいてみると、最尖端の原子核物理学ばかりでなく、力学や熱力学のような古典的の物理学も非常にしっかりしていた点である。
義理堅い性質で、この時の北大の講義が中途半端になったからといって、十七年の夏にまた一度講義にきてくれた。その前年の秋、細君をつれて六甲の御宅で一泊して、一夕大いに「文人墨客」をやったことがある。スミ夫人も子供の頃から画を習っていて、立派に雅名まであることを、その時初めて知った。私が秘蔵の嘉慶墨で、コスモスを描き、スミ夫人が赤とんぼをあしらい、湯川さんがそれに歓迎の俳句を賛してくれた。細君までその隅に俳句を書き添えるという極めて高尚な遊びをした。別に誰に迷惑のかかる話でもない。
六甲の御宅は、阪神沿線から大阪湾を一望に見下した、数寄屋造りの凝った家であった。湯川さんは、習作の山水をたくさんに持ち出して見せてくれた。中にこの座敷からの眺望という珍品もあった。「写生はなかなかむずかしいですね。水平の景色を垂直に写像するのが、どうも巧く行かない」などといっていた。
周囲は鬱蒼たる樹木につつまれ、岩は白く空は澄んでいた。昼間でも物音一つ聞えない閑けさである。湯川さんは、この家が気に入っていて、京都大学へ移ってからも、非常な不便を忍んで、大分長い間、ここから京都まで通っていた。阪大の助教授時代は、もちろんこの家から通っていたので、中間子の理論は、いわばこの家から生まれたのである。というよりも、この家をつつむ夜の静けさから生まれたといえよう。
湯川さんが、夜更けてから、床の中で、月並でない全く新しいことを考えるという話は、今日になって、よい新聞種になっている。しかしその意味は、一般の新聞読者にはちょっと分らないであろう。ひょっとすると、原子核専攻の若い物理学者たちの中にも、その真意のつかめぬ人があるかもしれない。というのは、今日では湯川さんの最初の論文は、その後原子核の分野で極度に発展した複雑精緻な諸論文に比しては、非常に分りやすいものになっているからである。しかし前人未踏の最初の着想というものは、決して安易な思い付で得られるものではない。それはどこまでもじっと喰い入っていく人間の精神力が、凝りに凝ったものなのである。
湯川さんの最初の論文が発表されたのは、昭和十年であるが、この研究の完成は、その前年、即ち一九三四年のことである。ところで湯川さんのこの仕事は、この年代における近代物理学の世界史を背景にして見ないと、そのほんとうの価値は分らない。
原子爆弾以来、世界中の人たちが、急に原子原子とさわぎ出したのであるが、近代原子論は、原子物理学と原子核物理学とに、はっきり分けて考える必要がある。原子物理学というのは、原子構造論のことである。原子は中心に原子核、その周囲にたくさんの電子があるが、この核の大きさ、電子の数及び配列などを研究するのが、原子構造論である。
物質はすべて元素からなり、各々の元素はそれぞれ原子からなっている。そしてちがった元素の性質の差は、原子核の差に帰せられるのである。例えば鉄と金との差は、鉄の原子の原子核と、金の原子の原子核との差にあって、元素は不変なものというのは、この原子核が万代不易の物質窮極の姿であるということである。
以上が原子構造論、即ち近代原子物理学の素描であるが、この学問は案外歴史が浅く、極めて大づかみにいえば、今世紀にはいって軌道に乗り、約三十年のうちに、一応の完成を見るまでに発達したのである。この間の舞台には、J・J・トムソン、キュリー、アインシュタイン、プランク、ボーア、ハイゼンベルク、ドゥ・ブローイーなど、錚々たる物理学者たちの登場があった。しかしその間終始この原子物理学において、歴史的にみてその嚮導の任にあたったものは、英国のキャヴェンディシュ研究所であったように思われる。一九一四年に所長ラサフォード卿が主催した、王立学会における原子構造の討論会は、遂にその歴史的使命をはずかしめなかった。
原子核を物質窮極の姿であるとする概念は、ギリシヤ哲学の近代化であり、物理学はこの面で一期を劃した。しかし人智の進歩は、ここでさらに次の飛躍を試みた。この原子核自身の構造の研究、進んではその人工崩壊による元素の転換に、歩を踏み入れたのである。
この研究も、初めは主としてキャヴェンディシュで行なわれた。そしてラサフォード卿のα粒子による原子崩壊の今から見れば古典的な実験、アストンの同位元素並にその質量偏差の研究などによって、この原子核物理学の曙光が認められてきた。それで一九二九年に、再びラサフォード卿は、王立学会において、原子核構造の討論会を開いたのである。開会劈頭ラサフォード卿は、十五年前の原子構造論の討論会について述べ、その時の議論が今日なお生命をもっている点を指摘した。そして次の世界の物理学の課題として、原子核構造論を強調した。ところで湯川さんの中間子理論の提出は、この討論のあった年から、僅か五年後のことであったのである。
この五年間における原子物理学の発展は、まことに恐るべきものであった。陽電子の発見、中性子の確認、宇宙線の本態の究明、人工放射能の発見、電気的に原子核を崩壊する実験の成功など、何世紀分もの物理学が、一度に発展したような騒ぎであった。ラサフォードの主催したあの討論会が、まるで洪水の堰をはずしたような形に見えた。
ところでこの爆発的な原子核物理学の発展の裏に、何時でも一つ残されていた問題があった。それは原子核を構成している素粒子の問題である。それは陽核子及び中性子の発見によって、この両者が構成成分であることは分ったのであるが、その両者を結合する力が何であるかということが、全然不明であったのである。たくさんの陽核子及び中性子が、どういう力で結合されて、今まで物質窮極の姿とされていた原子核を作っているか。この重大な問題が解決されない以上、原子核物理学はこれで行き詰りになるおそれがある。
この時代に提出されたのが、湯川さんの中間子の理論である。原子核の中に働く力が、重力や電磁力のようなものでないことは、前からも知られていた。それは何か今まで誰も考えなかったような全く新しい力でなければならない。その新しい力を、湯川さんは、新しい未知の粒子の導入によって説明した。電子質量の約二百倍の重さをもった無帯電の粒子が核の中にあって、中性子と陽核子とが互いにそれをやりとりしていると仮定すると、丁度この極微の原子核内だけに働き、しかも中性子と陽核子とを結合する力が生まれてくるというのである。この新粒子が即ち中間子なのである。そしてこの理論の発表後二年にして、アメリカのアンダースン博士の霧函の中で、この中間子が初めてとらえられたのである。
湯川さんから五年前、一九二九年の王立学会の討論会で、ラサフォード卿が提出した原子核構造は、α粒子と陽核子とから成っているものであった。ピンポンの球をα粒子に見立てて、それをいくつか積み重ねて、その配置の恰好から、アストンの質量偏差を説明しようと試みる極めて原始的な仮設であった。ラサフォード卿自身、僅か五年後に、あのピンポンの球が、湯川さんの中間子理論にまで発展しようとは思わなかったことであろう。こういう近代物理学の世界史を背景にして、初めて湯川さんの仕事の価値が理解されるのである。
もっともピンポンの球から直接中間子理論へ飛躍したわけではない。その間には、量子力学の数学的発達、放射性物質のβ崩壊に伴うフェルミの理論、原子核についてのボーアの仮説など、湯川さんの理論に達するまでには、たくさんの足場があった。そして物理学史の上では、丁度いいところに、中間子理論がはめ込められている。しかしそれはあとから歴史的に見ていえることであって、身をもって前線に立っている人には、その現在における全体の主流はなかなか見えないものである。今日になって今度の戦争の後をふり返って見て、いろいろなことをいうことはやさしいが、戦争前や戦争中は、たいていの人が五里霧中になっていたのと同じことである。
中間子の最初の着想に到達するまでには、それで湯川さんは、骨身をけずる苦心をしたのである。現在の日本の大学では、研究室というものが、ほんとうの研究室にはなっていない。それは一種の事務室である。中間子のような全く新しい思想に、じっと思いを潜めることは、大学では出来ない。夜更けた六甲のあの家と、あの静寂な環境とが、湯川さんの仕事の母胎になったのは、当然のことである。
更けて行く六甲の家で、湯川さんは、「僕はどうも床の中で考える癖がありましてね」という話をし出した。枕もとにノートと鉛筆とを置いて、床につく。そして静かに原子核の内部の秘密に沈潜する。時々ひらりと啓示があったような気がすることがある。それをすぐノートに書きつける。ああそうかと思い、これは巧いと思うようなことが何度もあったそうである。しかし翌日眼をさまして、そのノートを見直してみると、全くの出鱈目で、がっかりしてしまう。
こういう生活は、決して健康にいいものではない。また公務員法にも抵触する。よくねそびれて困ることがあったらしい。そういう時には、普段は全然気にならない遠くの蛙の声が、妙に耳について、ますます寝つかれなくて困ったそうである。その心境をうたった「いねがての云々」という歌を、私の本の絵に賛をしてくれたが、その絵は誰か持って行ってしまったので、歌は今思い出せない。
前人未踏の新しい着想、しかも現実にわれわれの眼前にあるすべての物質の、最も深いところに秘められている法則である。それは最高の詩人だけに時折その片鱗を見せるあの天の啓示のように、時々ひらりとかすかな光を見せる。しかしそれを捕えようとすれば、既にあとかたもない。未生以前の記憶をよび起そうと努力するような、やるせない苦しみである。湯川さんは、毎晩のように、こういう気持を、身をもって味わったのであろう。何度も何度も、この啓示をつかまえたと思っては、翌朝はがっかりする。そういうことをくり返した末最後に、遂にその本態をしっかりと捕えたのである。新聞では「湯川博士は、中間子の理論を、床の中で発見した」というが、御本人にしてみたら、そんな生やさしい話ではなかろう。
こういう話のあった頃から、既に十数年を経過した。終戦後は、湯川さんも科学再建と文化復興には、相当悩まされたことであろう。しかし英文の専門誌『理論物理学の進歩』を発刊し、同じ専門の若い人たちともよく協力して、中間子の理論は、大いに進歩したようである。しかし終戦後のどこか息づまるような日本の雰囲気は、湯川さんにとっても、あまり心よいものではなかったであろう。
アメリカへ渡ってからは、すべての五月蠅い係累からとき放され、人いきれのする部屋から出て、大空の下で清々しい大気を胸一杯に吸ったような気になったことであろう。紐育へ行く前に、アイオワ州立大学で、前に総司令部にいたフォックス博士に会った時、「湯川さんをうちの大学に招聘したかったのだが、一足おくれてコロムビアにとられてしまった。紐育で会ったら、来年はこっちへ来るようにすすめておいてくれ」と頼まれた。ジョージ湖でラングミュア博士に会った時にも、湯川さんの話が出た。単分子層の研究でノーベル化学賞を貰ったラングミュア老先生までが、中間子の湯川さんの噂をするのにはちょっと驚いた。
紐育へ着いたのは、九月一日。八月末湯川さん一家は、プリンストンを引き揚げ、紐育に移ったが、アパートの装備がととのわないので、その間ラビ教授の留守宅にはいっていた。ラビ教授は昨年日本へ来た科学使節団の一員である。原子核物理学の実験の方で有名なコロムビアの教授で、先年ノーベル賞を貰った独逸系の物理学者である。ラビ教授と湯川さんとは、非常に親しい間柄の由である。丁度この夏ラビ教授が欧羅巴へ旅行していた間、その留守宅にしばらく湯川さんがはいっていたわけである。アメリカ人は一般に、一度親しくなると、非常に打あけた交際をする。湯川さんの場合も、戸棚から押入まで、全部鍵もかけないで、そのまま使わせるというようなやり方であった。戸棚の中にたくさん洋服がぶら下っていたが「それはラビ先生の洋服ですから」と奥さんが話していた。「こういう風に何から何まであけっぱなしのまま、私たちを住まわせて下さるんですものね。お台所のものでも、何でも、ラビ先生の御うちのものを使ってるんですが、ほんとに気持がいいですわ。しかしお皿をこわしやしないかと、そればかり心配していますのよ」と、奥さんは、恐る恐る食器を運びながらの話であった。
ラビ教授のアパートは、リヴァサイドドライヴにあって、紐育でも一流の高級住宅街である。ハドソン河に沿った美しい広い道路に面して、十数階の立派な石造の建物がずっと並んでいる。高い十分に伸び切ったという感じの街路樹の並木が、その建物に光と影との交錯した木影を印している。その建物の一つ、たしか五階かに、ラビ先生のアパートがあった。部屋は五室あって、室内の様子は映画で見る高級アパートそのものと思えばまず間違いがない。ラビ先生の留守宅へ、居候の又借りをするのも、少々気がひけたが、日本からの約束どおりに、遠慮なく三日ばかり御厄介になった。湯川さんも奥さんも元気で、二人とも晴れ晴れした顔付であった。坊ちゃんたちも見ちがえるほど大きくなり、伸ばしかけの頭髪の恰好が、ちょっと可愛らしくなっていた。
私が着いた翌日には、丁度朝永、小平両君が日本からやってきた。二人ともプリンストンへ行くのであるが、紐育によってまず湯川さんのところで足を止めたわけである。「紐育にいると、今に私設大使にされてしまいますよ」というと、奥さんは「プリンストンにいた時よりもとても忙しいのですが、それでも皆さん来て下さるので嬉しいわ」と機嫌よくいろいろ世話をしていた。そして皆が珍しいだろうからというので、日本料理をわざわざ作ったりしてくれた。奥さんの話によると、上等の日本料理が喰べたかったら、紐育に住むに限るそうである。醤油は亀甲万の極上品があり、豆腐でも、生麩でも、らっきょうでも、何でも欲しいものが、すっかり揃っている。魚も鮮しい刺身用のものがふんだんにあり、天ぷら用の蝦などもいつも豊富に手にはいる由である。奥さんはもともと身体の丈夫な人でないのに、いろいろ気を使ってもてなされるので、こっちの方が心配するくらいであった。プリンストンにいた時には、静かな生活だったらしいが、紐育へ来ると、お客があったり、在米の日本人たちが、いろいろ好意のもてなしをしてくれたり、なかなかたいへんなようである。今度ノーベル賞を貰ったりしたら、ますますたいへんなことになるだろう。
湯川さんのところには、三泊だけして、御別れして、ワシントンへ行くことにした。忙しい中ではあったが、そのうち二晩は、絵を描いた。ラビ先生は科学使節団員として日本へ来て以来、大分日本の古い美術品などにも興味を持たれたらしい。花鳥の金屏風が一双飾ってあったが、これが一番実用的にも使われ得るようである。
もともとラビ先生という人は、広い意味での芸術方面にも関心のある人のようである。書棚の本を見ても、古典的な文芸方面の名著がたくさんあり、飾り棚の上の物を見ても、趣味のよい珍しい品が並んでいる。客間の絨氈の上に新聞紙をしいて、その上に半切を拡げ、ラビ先生の秘蔵品を、いろいろ物色して、絵になりそうなものを探し出して、大分生産をあげた。その中でも比較的出来の良かったのは、妙な鳥の絵のある壺である。原始的な形で、絵柄もいかにも未開人らしいところのある面白いものであった。絵が出来上ると、それは何の壺だろうということになった。アメリカインディアンとは少しちがうようであるが、いずれにしてもアメリカ先住民族のものだろうということにして、湯川さんは、
はどそんの水はゆたけし今もなほ
人岸に来て網をなげ打つ 秀樹
と賛をした。窓からは、街路樹の交錯した小枝を透かして、ハドソン河が一望の下に眺められた。ラビ先生のこのアパートは、前にもいったように、映画に出てくる高級アパートそっくりな豪華なものである。記念写真をとった時に、湯川さんは「日本へ帰ったら、これはラビ教授の家だとことわっておいて下さい。日本が皆困っている時に、僕だけアメリカへ来て贅沢をしているわけじゃないんですから」といっていた。事実湯川さんも奥さんも、極めてつつましやかな生活のようである。日本で考える「アメリカでの豪華な暮し」とは、およそ縁の遠い生活である。もっともアメリカ人自身が、決して贅沢な暮しはしていない。
それについて湯川さんからの言伝があった。日本の大学のこの頃のごたごたや、日本人の生活態度について、いろいろ話しているうちに、湯川さんが、少し改った調子でいい出したことがある。「御帰りになったら、何とかして、アメリカ人は決して贅沢をしていないということを、何かの機会に日本人に話して貰えませんか。アメリカ人は、決して贅沢をしませんね。あれはほんとうに感心なことですよ」というのである。
これは全くそのとおりで、今度アメリカを見て、一番感じたことは、その点である。二十年前のアメリカもそうであったが、再度の戦勝で世界唯一の繁栄国になっている現在のアメリカがやはりそうなのである。もっともかなり下級の労働者でも、例えば食物などは、日本の中流以上のものを食べている。しかし日本ならばたいへんな金持に相当する人でも、それより少し上等くらいの物で満足している。どんな贅沢でも出来る人が、決して必要以上の贅沢をしない点が、まことに感心なのである。
湯川さんがノーベル賞をもらって、一番得をしたのは、日本の国である。これはいわばまるもうけをしたのである。湯川さんも得をしたことはもちろんであるが、これには資本がかかっているばかりでなく、今後いろいろな負担がかかりそうである。そのうちで一番困るのは、精神的な負担であろう。というのは、湯川さんの受賞を機会に、いろいろな企てなどをいい出す人が今後もたくさんにあろうが、そのうちにはこの機会を利用しようとする人が相当出るおそれが十分ある。私などがこういう雑文を書くのもその一つであるが、これなどはまだ罪の浅い方である。
利用するというほどでなくとも、無邪気すぎて、ことの本質からそれる場合もある。無闇と英雄化されることも、また迷惑至極であろう。もっと極端にいえば、御祝状や訪問客すら、あまり多くては閉口であろう。こんな話のなかった前でも、「日本へ手紙を書くのが重荷ですよ」と湯川さんは洩らしていた。あまり名士税を強要することは止めた方がいい。今頃になって国会が表彰をするというような話も、どうも少し可笑しいような気がする。
一番滑稽なのは、ノーベル賞に税金を免除せよという動議か勧告かを、出すとか出さぬとかいう話である。税制のことは、全く知らないが、これも全くの筋ちがいの話のように思われる。アメリカでそれを問題にするのなら、まだ話は分るが、これは日本の国会で論議すべき筋合ではなかろう。五日間以上アメリカに滞在した人間が、アメリカ在国中に得た収入に対しては、アメリカ政府で課税をすることになっている。それで居住者はもちろん旅行者でも、出国の際には税務署へ行って在米中の収入を申告して、税金を納めて、初めて渡航許可が下りるのである。アメリカでノーベル賞に課税をするかしないかは知らないが、いずれにしても、これはアメリカの税務署の話であろう。これに類似した話がまだ一つ新聞に出ていた。それは湯川さんにこの賞金で研究所を建ててもらおうという話である。これは全く純真な動機から出た話のようであり、あるいは湯川さんがそういう口吻を洩らされたことがあるのかもしれないが、これも可笑しな話である。そういう研究所は、政府が建てるべきものである。丸もうけをした日本の政府が、この上賞金まで横取りするようなことは、なすべきことでない。
こういういろいろな五月蠅い話が出るだけでも、日本人がまだ田舎者である証拠である。英国だったら、例えばC・T・R・ウィルソン先生のように、貰ったノーベル賞金で、剣橋の郊外、美しい緑の土地に、自分の趣味に合った家を作り、応接間兼書斎に、受賞式の記念写真と賞状とを飾って、客毎に写真の説明をしながら、にこにこしていればよいのである。それが賞金を出した人の意志を、最も尊重する所以なのである。
もっとも湯川さんはまだ若いのだから、ああいう老先生の真似をする必要はないかもしれない。しかし皆が心得ておくべきことは、湯川さんはノーベル賞を貰ったから偉い学者なのではなく、偉い学者だったからノーベル賞を貰ったのだということである。
底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店
2001(平成13)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「花水木」文藝春秋新社
1950(昭和25)年7月10日
初出:「文藝春秋 第二十八巻第一号」文藝春秋新社
1950(昭和25)年1月1日
入力:kompass
校正:砂場清隆
2016年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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