牧野伸顕伯の思い出
中谷宇吉郎



 今年の正月のある晩、『リーダース・ダイジェスト』の東京支社長マッキイヴォイ氏と同席した時に、牧野さんの話が出た。

 マッキイヴォイ氏は、牧野さんのことを非常にほめていた。日本の代表的な知識人で、すぐれた民主的政治家である。そして八十九歳の老齢で、頭が少しも衰えていないと感心していた。しかし今病気だということだがどうなんだろうと心配していた。事実その時は既に牧野さんは死の床についておられたので、その後二十日くらいして、われわれは遂にこの「明治の日本」の最後の一人を失ったのである。

 牧野さんに会った人は、誰でもいうことであるが、牧野さんは、最晩年まで頭が非常にしっかりしておられた。それはまことに驚くべきことであった。時々伺うようになったのは、この六、七年来のことで、牧野さんが八十をとっくに越しておられた頃からである。しかしいつも羽織袴をちゃんとつけて、よく『日本タイムス』を読んでおられた。外国語には堪能で、眼も達者だし、耳も普通であった。始終外国の本を読んでおられたらしく、新しい思想のことや、近代の科学の話をきくことを好まれた。話をしていると、この人が西郷隆盛を知り、岩倉公の使節の一行に加わって、明治四年にアメリカへ渡った人とは、どうしても考えられなかった。

 武見太郎氏につれられて、初めて牧野さんのところへ伺ったのは、たしか今度の戦争の初め頃だったかと思う。松濤の御屋敷がまだ戦災にあわなかった前のことである。無雑作に繁った広い庭を前にした広間で、籐椅子を円く並べて、御馳走になり、夜おそくまで話した。安倍能成さんや仁科博士、藤岡博士などと一緒のことが二、三度あった。

 二・二六事件がまだそう遠い昔の話でなく、東条軍閥の勢威が一世を蓋っていた時代のことである。牧野さんはなるべく表面に出ないように静かな生活をしておられた。しかし何といっても、唯一人生き残られた明治の功臣であり、かつ家柄も高いので、日本の近代史に残る家名の人たちが多く出入りされていたようである。

 松濤の御屋敷へ伺って二度目だったか、親戚の若い者たちに話をしてくれとのことで、映画をもって行って、雪の話と、たしか気球による霧の研究の話とをしたことがある。広間と次の間と、それに縁側まで入れて、七、八十人の御客様があった。雪の映画は、アメリカへ送った英語版であった。今度の戦争中のあの空気の中で、牧野さんの邸宅で英語版の映画を見せることは、少し無鉄砲だったかもしれないが、牧野さんは非常に喜ばれた。そして若い人たちに、世界を見る眼を開かすことが大切だというようなことをいわれた。御客様の中には、御降下の宮様も二、三人おられたそうである。

 牧野さんは、いつでも世界を背景として、日本のことを考えておられた人である。インテリの定義として、人類とか民族とかいうものを背景としてものごとを考え得る人というのがある。そういう意味では、マッキイヴォイ氏のいうように、牧野さんは日本の代表的な知識人であった。

 もっとも牧野さんは『回顧録』をみれば分るように、日本人として考え得る最も恵まれた境遇で人と成り、かつその人生の大半を送られたので、誰にでも牧野さんのような世界観を期待することは無理であろう。維新三傑の一人、大久保利通の二男として生まれたのが文久元年、即ち米国に南北戦争の始まった年である。そして明治四年に、岩倉使節が米国及び欧洲へ派遣された時に、十一歳で父大久保卿に伴われ、兄とともに米国へ渡り、十四歳まで米国で教育を受けた。

 初めは幼年学校に入ったが、間もなく費府フィラデルフィアの中学校に入学し、唯一人の日本人として、校長住宅を兼ねた寄宿舎で、米国の子供としての生活をし、正式の教育を受けた。「学業の方では他の子供に譲らぬ程にやって、その点では校長にも喜ばれた。学課は算術、歴史、地理その他にラテン語等があった。しかしとにかく十一歳から十四歳までの間、一番勉強しなければならない時に外国にいて、日本の学問は何も出来ていないのだった」。その点を十四歳の牧野さんが「自分でも気付き」帰国することになった。

 帰国したのは、明治七年であった。その時には、東京には後の東京帝大の前身たる開成学校が既に開かれていて、そこへ入学した。注意すべきことは、牧野さんは、予備科を終ってから、文学部の和漢文学科へ進まれたことである。当時の開成学校の授業はほとんど全部英語で行なわれていたので、米国で正式の中学教育を終えた牧野さんにはきわめて楽であった。それで「日本の学問は何も出来ていない」のを補うために、和漢文学科を選んだのである。英語が出来るから貿易科を選ぶというようなのとは、根本的に考えがちがっていた。

 開成学校での勉強は、五年間つづいた。そして「十九の時に、まだ大学だったが、漢学も人並かと信じ、もう一度海外へ渡って外国の様子を見てきたい」と思われた。それで外務省の書記生になって、倫敦ロンドンへ在勤した。

 倫敦では英国の上流の家庭に入って、「行儀作法、着物の着方、訪問の仕方等を習得するように努め、仕立屋も一流のを選んで服を注文した」。本も盛んに読み、主として小説特にスコットのものを耽読された。小説を読むのも「社交の際に話の種にもなり、また風俗人情を研究する上でも色々と教えられる所があるからだった」。『倫敦タイムス』は毎朝これを日課として読み、議会にも度々傍聴に行き、グラッドストーンとディスレーリの論戦に傾聴されたこともあったそうである。

 二十歳の日本の一青年が、既に英語を身につけ、漢学の専門的素養をそなえ、英国紳士として『タイムス』を読み、グラッドストーンの演説に傾聴したのである。そしてその知的精神力は、九十歳の老齢に達するまで、少しも衰えを見せなかった。この人を保守と呼び、頑迷と罵って、狙撃したいわゆる青年将校たちとは、初めから人間がちがっていたのである。環境のちがいはもちろんあるが、そればかりではないように思われる。十一歳で米国へ渡ったのも、自分から父大久保卿にねだってのことであり、「日本の学問は何も出来ていない」と「自分でも気付いた」のは、十四歳の時であった。

 倫敦滞在中、牧野さんは、英国の地方自治制度を研究し、民主政治の根本は地方制度にあることを確信された。そして偶々憲法取調べのために欧洲へ来られた伊藤博文公に、日本の地方制度に関する意見書を差し出された。伊藤公はそれに対して、鄭重な返事を書き、「御帰朝之上ハ御面晤ヲ得詳細御商議可申候」と約束された。意見書もその返事も、ともに『回顧録』の中にあるが、現在の政治家や、二十歳程度の大多数の青年たちの言動とくらべて、別の世界という感が深い。

 帰朝後牧野さんは黒田総理の秘書官をしばらくつとめ、内閣記録局長に転じた。これは普通の役人にとっては隠居仕事であるが、牧野さんにとっては、よい勉強の機会であった。当時の日本は、現在も同じことであるが、思想の混乱期で、「極端な主義や政綱を丸呑みにする傾向が一般に強かった」。ところが記録局にくる外国の刊行物をみると、中には中正穏健な論説が少なくなく「ただ一読するに止めるのが惜しいので、そのうちでも権威ある学者によって書かれたもので内容が殊に充実している記事、論説を飜訳して」『政治一班』という雑誌として、広く頒布する仕事をはじめられた。それはかなりの反響があった。こういう仕事の出来る局長は、現代の役人にはないであろう。それにたとえそういう人があっても、その反響などはあまりないであろう。

 この勉強時代の後、牧野さんは三十一歳の時に、福井県知事として地方に出て、三十三歳で文部次官に就任された。次官時代には、岡倉天心とはかって、美術学校の創設という意義深い仕事をされた。

 牧野さんの外交官生活は、それから後のことである。二年間の伊太利イタリア在留の後、ウィーンの公使として、十年近く在勤された。そして明治三十三年の北清事変と日露戦争との波紋を、欧洲の一角で体験された。当時のウィーンは、宮廷政治華やかな文化の香り高い都であった。リストやワグナーの時代から、十年あまりしか隔っていない頃のウィーンでの公使の生活は、非常に興味の深いものであったらしい。

 その時代のことは、いろいろ話を聞いたが、『回顧録』にくわしい記録が残っているので略することにする。ただある晩、松濤の御屋敷で、今日は珍しいものを御馳走するといって、古い葡萄酒を出されたことがあった。「ウィーンから帰る時に持ってきたものだが、自分では酒はのまないので、縁の下に放り込んでおいて忘れていた。先日それが出てきたので」ということであった。コルクもぼろぼろになり、おりがすっかりたまっていたが、リスト時代のおりだと思って、有難く飲んだ。安倍さんは「正に醇の醇なるものですね」と大恐悦であった。

 その時だったか、別の機会だったか忘れたが、安倍さんがすっかり御機嫌になって、葡萄酒の罎を捧げもって、峯子老夫人の前へ行って御酌をされた。「僕はフェミニストでありますから、一つ御酌をしましょう。今日はあなたも婦人と認めます」といわれた。牧野さんは「それは光栄だな」と珍しく大笑いをされ、一座大いにはしゃいだ。

 この峯子夫人は、有名な三島通庸の次女であった。牧野さんは英国から帰られて、兵庫県の大書記官(今の副知事)をされていた時代に結婚されたのである。爾来牧野さんの全生涯は、淑徳聡明をもって有名なこの夫人に負うところが多かったということである。牧野さんは、宮中に関することは、滅多に話されなかったが、峯子夫人からは時々そういう話もきいた。

 昭憲皇太后は、明治天皇の前では、決して座布団の上に坐られなかったようなつつましい心使いの方であったそうである。しかし非常にしっかりしておられて、いつか御縁側でおぐしをあげておられた時に、大きな蛇が一匹上ってきたことがあった。大内山には野鳥や野獣がかなりいて、蛇などもたくさんいたらしい。皇太后は少しも慌てる気ぶりをお見せにならないで、両袖でしっかりその蛇の頭と尾とを押えて、そっと縁下にお棄てになったことがあったそうである。畳の上にしゃんと坐って、両袖を張って、その身振りをしてみせられる峯子夫人の姿には、昭憲皇太后の面影がしのばれるような気がした。

 戦争が大分ひどくなった頃、峯子夫人が亡くなられた。その時は牧野さんもずいぶん弱られたらしい。家庭内のすべての仕事は、夫人が全部とりしきっておられたので、あとのことを皆さんがたいへん心配された。しかし牧野さんは、少くも外面的には少しも弱りを見せられなかった。もっとも長男の伸太郎さんの奥さん純子夫人が、立派に老夫人のあとをついで、牧野さんを最後まで看とられたのである。

 空襲が大分ひどくなった頃、もう物資もすっかり不自由になっていたが、珍しく鶏を貰ったからというので、武見さんと一緒に伺ったことがある。純子夫人の御料理で、鹿児島の旧いしきたりの鶏汁を御馳走になったのである。一日とか半日とかゆっくり煮込む流儀の料理だそうである。「代々私の家では、こういう風な料理をしたものだ。鹿児島の古い習慣だが、美味いものだよ」と牧野さんはいっておられた。いかにもいい意味での封建の磨きのかかったような料理であった。近代的の教養を身につけ、しかもこういう流儀の料理も本格的に出来る純子夫人が、牧野さんの晩年に最後まで附き添われたことは、仕合せであったと思う。『回顧録』の初めのところに、牧野さんの祖父、即ち大久保卿の父である大久保次郎右衛門氏が、客好きで、よく若い者を集めて、鶏汁などを振舞ったという話が載っている。大山巌さん(後の大山元帥)などもよく往来で「今夜来ないか、鶏を食わせてやる」という招待を受けられた由。それを読んで、私は松濤の奥の居間での、その夜の牧野さんの機嫌のよかった顔を思い出した。

 話は少し前に戻るが、戦争がはじまってからまだ一年くらいの頃、世間はいわゆる緒戦の戦果に酔っていたが、牧野さんは、日本の科学兵器のことをひどく心配しておられた。東条らのやり方では、日本の科学技術は進歩するはずがないというようなことを、時々もらされた。そして島津斉彬公の治績を賞揚されて、その言行録の出版を考えておられた。それを政府の要路の人たちに読ませたいというような気持があったらしい。そしてそれは牧野さんの長文の序文をつけて、岩波文庫として出ることになった。牧野さんはその出版を待っておられたが、当時の印刷事情では、なかなか進行しなかった。けっきょく敗戦の前年の十一月に、やっと出版された。

『島津斉彬言行録』は、牧野さんの推奨に値する驚くべき本であった。私は一読、科学の精神に徹した稀れな日本人の一人として、初めて斉彬公の面目をうかがい知った。科学と権力とは、普通には両立し得ないものである。当時の軍に対して、科学を求めることは、この原則からいっても無理な註文であった。きわめて稀れな場合に、その両者が一致する。そしてその時には新星の出現のような光芒を発するのである。斉彬公の場合が、そのきわめて稀れな一つの例であったと私には思われた。

 読後私は、解説なしでは、一般にはこの書の真意は理解されないであろうと考え、かなり長い解説を書いて、牧野さんのところへ送った。これは後に、『科学の芽生え』と題する小冊子として印刷に付した。牧野さんはたいへん喜ばれて、斉彬公の科学精神が、あれほど高いものだとは知らなかったという意味の返事がきた。それには、しかしこの書を要路の人に読んでもらうには、もう手おくれだと書き添えてあった。

 そのとおりであって、間もなく三月十日の大空襲で、日本は全く防禦不能の状態にあることが立証され、五月の空襲では、宮中が炎上しても、手の出しようがなかった。その時牧野さんの松濤の御屋敷も全焼し、牧野さんは身をもって逃れられた。それで武見さんは、前に書き落したが、武見さんの奥さんは牧野さんのお孫さんに当るので、万事をとりしきって、千葉の柏へ避難させた。武見さんの家のすぐ近くに、二室ばかりの部屋を借りて、そこが牧野さんの仮の住居となった。

 戦争もいよいよ最後の段階に達した頃、即ち終戦の夏の初めのある晩、武見さんに案内されて、その仮の住居を訪ねたことがある。月の無い夜で、灯火管制のために、全くの暗闇であった。武見さんの懐中電灯の微かな光に案内されて、畑中の小道を、露の降りた草を分けながら、たどって行った。真暗の中を、竹藪の横を折れ、生垣に沿って行くうちに、夏のズボンがすっかり露に濡れてしまった。足許の悪い道を歩きながら、何という理由もなく、「七卿落」という言葉がふと思い出された。

 庭らしいところに入ると、かすかな光が縁先から洩れていた。縁に上ると、八畳と六畳とが続いて、それに縁側がついた一棟であったように思い出される。庭の様子は暗くて分らない。そのうす暗い縁先に籐の椅子をおいて、牧野さんが坐っておられた。相変らず端然とした姿であった。罹災の話や、現在の生活の話などはほとんど出ず、松濤の時と同じように、戦争の前途とか、科学における彼我の差とかいう点について、静かに話をされた。

 八十五歳になって、つい前の年には生涯の伴侶であった峯子夫人を失い、今また戦災によるこの不自由をみながら、ちっとも衰えを見せておられなかった。武見さんの言葉によると「親爺(大久保卿)は暗殺され、自分も湯河原で生命を落すところだったんだもの。ほんとうに生命がけの場面を何度も通ってきた老人にはかなわない」のである。そういえば、いつか牧野さんは「私はどういう巡り合せか、暗殺とは縁があってね」という話をされたことがある。原敬とは東京駅の悲劇の日に打合せの用事があり、森有礼の暗殺にも、星亨のそれにも因縁があった。それから大隈重信遭難の爆音もきかれた由である。生命がけという言葉も、文字で読むのと、身近に体験するのとでは、質的のちがいがあるのであろう。

 この仮の住居の後、やっと近くに家が見つかって、その寓居で牧野さんは終戦を迎えられ、そして柏がついに終焉の地となった。私が直接見聞したことではないが、あの終戦の奇蹟が、現実にこの日本の国に生まれたのには、牧野さんの力が大いにあずかっていたのである。広島の新爆弾は、数日にして、原子爆弾と確認されたのであるが、その威力の恐しさをリアライズして考え得る人は、当時の我が国の最高指導者の中には非常に少なかったのである。軍の主脳者たちの中には、この「新爆弾」による広島の壊滅を、サイパンの陥落や、連合艦隊の全滅と、同じレベルで考えていた人が多かった。

 混乱と狂燥との世紀の渦巻の中で、牧野さんの知性は、ますますその輝きを増した。信頼し得る原子物理学者の意見を一言きくと、牧野さんは直ちにことの重大性をリアライズされた。そして困難な情勢の中で、参内を決行されたのだそうである。終戦の奇蹟の因って来たるところは、ジャーナリズムには、恰好の題目であろう。しかし直接見聞したことではないので、あまり立ち入らないことにする。ただ牧野さんが、その八十九年の生涯の最後の御奉公として、民族を「玉砕」から救うべく、身を挺されたことは事実だと思っている。

 終戦後は立場がすっかりかわった。「バドリオ」としての監視から解放され、いろいろな訪問客があるようになった。その中には、外国通信社の人たちもあり、千葉の寓居も大分賑やかになった。しかし牧野さんは、軍閥の重圧下にあった時と、少しも変らぬ静かな生活をしておられた。もっとも精神の方はしっかりしておられたが、急に身体は衰えられたような気がした。敗戦の痛手がよほどこたえたのであろう。

 生活は相変らず質素であった。終戦の次の年だったか、内原の加藤完治氏のところで講演を頼まれ、その御礼に味噌を貰ったことがある。帰りに柏へ寄ったので、その味噌を牧野さんのところへ差上げたところ、久し振りで味噌汁が吸えるといって、たいへん喜ばれた。いわゆる大衆というものは、戦争中は竹槍をかついで歩き廻り、敗戦後は、自分たちを焦土から救ってくれた人に、味噌汁も吸わせない人種のことらしい。

 終戦後の牧野さんの楽しみの一つは、『回顧録』の出版であった。第一巻の後記に吉田健一氏が書かれているように、口述とはいいながら、全篇にわたって牧野さんの筆がはいっているので、著述とみてよいものである。志賀(直哉)さんの熱心なすすめによって着手されたこの仕事は、重大な意味をもった仕事であった。第二巻が本になった時には、牧野さんは既に最後の病床にあった。この第二巻は明治天皇の崩御で終っている。その後第一次の世界大戦、講和会議、軍縮問題、軍閥の擡頭、満洲事変と、目まぐるしい走馬灯の国の姿は、第三巻以下に残された。その一部は『松濤閑談』に納められているが、永遠に歴史の闇に葬り去られた資料もかなりあったことであろう。「第三巻が出来なくて残念でした。口述のための手記はすっかり出来ていたのですが、誰にも読めないんです。おじいさまも心残りのようでした」と、純子夫人は述懐しておられた。

 一月二十六日の午後、柏の御宅へ伺った時に、丁度勅使がおいでになった。純子夫人は枕頭にきちんと坐って、三宝を捧げ、「唯今、従一位に叙せられました」と挨拶された。次の間に並んで居た親戚の方たちは、静かに頭を垂れた。

 控の間で、わずかの隙をみて、純子夫人が臨終の時の様子を話された。いよいよ御自分でも最後と思われたらしく、枕頭の純子夫人たちに、「いろいろ御世話になって有難う」と挨拶をされたそうである。そして「世の中で一番むつかしいことは、わたくしを無くすことだ。自分は悪いことはしなかった」といわれた。それが最後の言葉であった由である。

 純子夫人は「御教訓はよく分りました。私たちもおじいさまの御名前を汚さないようにつとめます。おじいさまはえらい方でした」と挨拶された。牧野さんはよく分ったらしく、うなずいて苦笑いの表情を示されたそうである。臨終の床でのこの苦笑いに、牧野さんは最後の知性を示されたような気がする。

(昭和二十四年三月)

底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店

   2001(平成13)年35日第1刷発行

底本の親本:「花水木」文藝春秋新社

   1950(昭和25)年710

初出:「文藝春秋 第二十七巻第四号」文藝春秋新社

   1949(昭和24)年41日発行

入力:kompass

校正:岡村和彦

2019年1227日作成

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