「もく星」号の謎
──白鳩号遭難事件を回顧して──
中谷宇吉郎
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「もく星」号の遭難も、桜木町事件につぐ大悲惨事であった。この事件に私は、直接の関係は何もないが、航空機の遭難には少し因縁があるので、思いついたことを書き止めておく。
第一に、このマーチン機には、私は二度ばかり乗ったことがある。そして航空会社の人の話を真に受けて、これは非常な優秀機だと思っていたので、今度の事件の新聞記事を読んで、少し肌寒い思いをした。
去る二月二十八日にも、札幌行のマーチンに乗った。その日は、初めダグラスが飛んだのであるが、離陸後間もなく発動機に故障が起きたので、羽田に引き返し、マーチンに乗り換えたのである。ダグラスの方も、大分使い古した飛行機らしい。発動機の調子が悪いので、前日から修理をしていたそうである。当日もそのために出発が三時間もおくれて、やっと修理をすませて、すぐ飛び出したわけである。ところが離陸して、東京湾の上へ出たと思ったら、すぐ機体に妙な振動を感じて、金属的なへんな音が二、三回したと思ったら、右の発動機が一つ止ってしまった。
幸い四発であるから、飛行には差しつかえがない。しかし海の上で自分の乗っている飛行機のプロペラが、一つ止っているのを窓越しに見るのは、あまりいい気持のものではない。こういう時に、飛行場へ引き返そうとして、すぐに旋回をしてはいけないのである。あの程度の大型飛行機になると、旋回で高度がかなり落ちるので、低空で旋回することは、大いに危険なのである。もちろん操縦士は、十分心得があるので、そのまま直線飛行をつづけていた。これなら安心だと思ったが、厄介なことに、発動機が一つ止っているのと、超満員の乗客だったもので、飛行機がなかなか上昇してくれない。そのままで十分近くも飛んで、やっと必要高度がとれて、無事飛行場へ引き返すことが出来た。しかしその間、やはり気味は悪かった。それからマーチンに乗り換えたわけであるが、今だったら、皆が少し尻込みをしたかもしれない。安全率と心理作用とは、別問題である。
四月九日朝、七時三十三分。日本航空会社福岡定期第一便マーチン二〇二型「もく星」号が、羽田を出発した。気象状態は、千ミリバールの低気圧が、潮岬の南方にあり、天気概況は「本邦の天気は全般的に悪くなってきている」という程度であった。天気予報も「北東の風くもり勝ち、時々小雨」というので、現代の飛行機にとって、航空不適というほどではなかった。同日十一時に、中央気象台から大雨特報が出たが、それは遭難後の話である。
この気象の問題をまず片づけておく。十日朝刊の一紙は、羽田の航空気象観測所で、航空不可能の気象状態と断定したのに、それを無視して飛び出したという記事が出た。これは大問題であって、その後の新聞にも、この点を論評して、日航を非難した文章が出た。しかしこれは間違いである。中央気象台長和達清夫博士が、十三日の毎日新聞投書欄に「気象台では飛行不能の天候であると発表したことはありません。また羽田の航空気象観測所長が航空不能と断定したなどというのも誤りです」といっておられるとおりである。
就航か欠航かを決めるのは、ノースウェストの運航主任と機長とが協議して決定するのであって、日本側は口を入れることが出来ない。整備を含めて、運航は全部ノースウェストがやることになっているので、それは当然のことである。運航主任が、どの程度に気象台側の航空気象資料を重視するかは全く分らない。要するに先方が判断するわけである。少なくとも形の上ではそうなっているはずである。
当日朝の気象状態は、航空不適というほどではなかった。それで運航主任と機長とは、就航と決定したのであろう。その場合はまず空港管制塔に通じて承認を求める。管制係は、航空路管制局に飛行計画を報じて、指示を受け、それを飛行機の機長に通じて、初めて出発するのである。当日ももちろんそのとおりにした。離陸してからの航空路は、ちゃんと決っているので、木更津、館山を通って、大島の上に出、そこで右折して伊豆半島を横断し、静岡県の焼津の上空を通って、真直に大阪へ飛ぶことになっている。その間各地にラヂオ・ビーコン基地があって、そこから指向性電波が出ているので、それからはずれないようにして飛べば、電波のレールに乗っているわけであるから、盲目飛行でも全く安全なのである。
飛行機は、各地点の上空を通過するたびに、基地にその旨を通報する義務がある。「もく星」号も、もちろんその通報をしているので、七時五十七分、即ち離陸後二十四分には、館山通過の無電を、航空路管制局へ通報している。それから十分くらい後には、大島の差木地ビーコン局通過の報がはいるべきところ、それがはいらなかった。「もく星」号からの無線は、館山通過後、完全に絶えてしまったのである。遭難時刻は、八時五分頃と推定されるので、丁度合っていることになる。遭難地点は、三原山噴火口東側一キロ余のところで、差木地へ向う航空路の上に正確に乗っている。万事規定どおりの飛行をしていたわけである。羽田出発後遭難時刻までの時間が、予定より五分ばかり余計にかかっているが、当日の天候としては、それくらいの差は当然あり得る。
後から考えてみれば、大島通過の無電がなかった時、少なくもその後の焼津及び河和のビーコン基地からの通報が、いづれもなかった時、即ち同日九時頃には、もう遭難の危険性が強く暗示されていたわけである。ガソリン搭載量からみた飛行時間が五時間あるというようなことは、問題にすべきことではなかった。そして館山を通過して、大島の差木地は通過しなかったのであるから、第一に捜査すべきところは、館山差木地間であった。ところがまごまごしているうちに、浜名湖不時着だの、舞坂沖漂流だのという不確実情報がはいってきて、すっかり滅茶苦茶にしてしまったのである。航空会社か関係官庁の中に、誰か一人ちゃんとした人がいたら、遭難そのものは別として、あんな騒ぎにしなくてもよかったのであろう。もっともこれは後からの話であって、人間というものは、突発事件に遭うと、一番肝腎なそして一番明瞭なことを見落しやすいものであって、今度の事件もその一つの例に過ぎない。
私はこの文章で、あの全員救助という重大な誤報とか、日航の責任とかいう点には、全然ふれる意志がない。それよりも、大切なことは、今度の遭難の原因を明らかにして、再びあのような悲惨事をくり返さないようにするには、どうしたらよいかという問題を採り上げよう。もちろんこの点は、政府の方でも十分留意されているので、今更つけ加えるところはない。運輸省では、いち早く航空事故調査会を設置して、多数の一流専門家を委員として、遭難原因の科学的調査を徹底的にすることになっている。通産省でも、特別調査室で航空庁と協力して、「もく星」号遭難の真因を調査することになったという。また近く国会に提出される航空機生産法案、同保安法案などにも「できるだけその内容を盛り上げる」という話である。航空庁でも、調査課長以下八係官を現地に派遣して、現地調査をすると同時に、「日米の各権威を集めて、事故究明に乗出した」由である。
一流の専門家と各権威とを、大勢集めて、こういう委員会が出来たのであるから、やがて今回の事故の原因も分り、今後同じ原因による遭難は、再び起らないことになるであろう。但しそのためには、これらの委員会が、まず地味な科学的調査と研究とをやることが必要である。日本の航空界における大きい遭難事件で、その原因がはっきりと突きとめられた例が二つある。その両者とも、今回と同じく、全員遭難して生存者は一人もなく、また信頼出来る目撃者もなかったのであるが、その原因から墜落の経過までが、実にはっきりと手にとる如く解明されたのである。その一つは大正十三年十一月、海軍のSS航空船が霞浦の上空で突如火を発し、爆破墜落した事件である。搭乗員は全部死亡、焼けた金属部分の残骸が残っただけであった。今一つは有名な白鳩号の遭難である。日本航空輸送会社の旅客機白鳩号が、昭和七年二月二十七日、九州の上空で空中分解を起し、山林中に墜落した事件である。この時も搭乗者五名全部死亡、目撃者は数名あったが、航空機に対する知識が全然なく、また降雪中であって、詳しいことは何も分らなかった。
こういう場合に、科学的に原因の究明をやることは、かなり困難な仕事である。必ずのように委員会が作られるが、ちゃんとした結果の出た場合は、委員中に本気でこの「研究」をする人があった場合に限られているように思われる。SS航空船の時は、海軍で早速査問会を作り、また白鳩号の場合は、航空評議会の中に、事故飛行機調査主査委員会という妙な名前の委員会が作られた。両者とも、当代一流の権威者と関係官との名前をずらりと並べた豪勢なものであったが、実際に仕事をした人は、前の場合は寺田寅彦博士であり、後の場合は岩本周平教授が主であった。そして原因が突きとめられたのは、科学者のシャーロック・ホームズ的考察を、実験室内の基礎的研究で押しつめていったからである。謄写版刷りの書類を前にして、卓を囲んで会議をすることによって、解決されたものではない。
白鳩号の調査記録は、昭和九年の『航空研究所彙報』に出ているが、その内容の一番面白いところは、寺田先生の随筆「災難雑考」に紹介されている。乗組員は全部死んでしまい、しかも遭難の大分前から無線通信も切れていたので、墜落前の状況は全然分らない。しかし幸いなことに、救援隊の中に心得のあった人がいて、現場における機体の破片の散乱状態を詳しくかつ忠実に記録した。そしてそれらの破片を全部当時の姿のままで集めて、保存してあった。
岩本教授はそれを全部とり寄せて、ばらばらの破片を組立て、機体の骨骼を復原する仕事からとりかかった。これはたいへん骨の折れる仕事であるが、これが出来上ると、機体のどこにどういう性質の破損が生じたかが分るはずである。そしてその結果、破壊が、ほぼ左右似た形に起ったことが知られた。即ち両翼が羽ばたきを起したために、空中分解をしたという見当がついた。
そればかりでなく、破片にはいろいろな傷痕が残っているが、それも一々丹念に調べて、どの破片がどういう方向にどこへ衝突したかということを推定した。さらに各機片の折れ方を調べるために、機材と同じ形をした試片を、いろいろに引っ張ったりねじったりして折ってみた。折れ口の様子は、力の加え方でみなちがうので、現品の折れ口をそれらと比較して、どの機片には、どういう力が加わったために折れたかということを知ることが出来た。こういう研究を根気よくやった結果、空中分解の第一歩が、どこから始って、どういう順序で破壊が進行したかを推定することが出来た。折れとんだ破片が、空中で互いに衝突し、その中を尾翼が通ったために、三重衝突をした点まで明らかになった。
ところで次は、この羽ばたき運動がどうして起ったかを知る必要がある。現場では、左の補助翼が少し離れたところに落ちていたので、補助翼が何かの役割を果したことが察せられた。それで今度は飛行機翼の模型を作り、それの風洞実験をしてみた。補助翼は、普通操縦索で固定されているが、これをぶらぶらにして実験してみると、ある風速以上になると、翼全体がひどい羽ばたき振動を始めることが分った。この研究で分ったことは、何かの原因で、補助翼の操縦索が切れたために、翼の羽ばたきを起し、それが空中分解の原因をなしたのであろうということであった。
それで現物の操縦索系統をくわしく調べてみたところ、果して鋼索の張力を加減する螺子が離脱していた。これは戻るのを防ぐために銅線を通して留めてあるものであるが、その銅線が切れていたことが知られた。何かの原因でこの留めの銅線が切れたために、タンバックルが抜け、補助翼がぶらぶらになったものにちがいない。
ところでこういうところの銅線が、切れるはずはないのであるが、そういう常識が間ちがっていたのである。実物の鋼索とタンバックルとをもってきて、いろいろ実験してみると、ある条件の下では、銅線が切れ、タンバックルが抜けることがわかった。即ち張力を強くして、頻繁に往復運動をさせながら、ある種の衝撃をくり返して与えると、螺子がゆるみ、そのために留めの銅線がねじ切られるということが確められた。白鳩号は、少し悪気流にはいると、振動を起す癖があることは、前から知られていたので、これで原因がすっかり分ったことになる。即ち一本の銅線に、機の全生命がかかっていたのを、今まで知らないでいたのである。そういうことが判明すれば、対策は簡単であって、この銅線を強くさえすれば、今後は同じ事故は絶対に起さないことになるわけである。
この美事な成果は、けっきょく机の上で得られたものではなく、実験室の中から生まれたものである。いくら大勢の傑い学者が集っても、会議ではこういうことは決して分らない。
SS航空船の場合も、全く同じことであった。この方は、私のまだ学生時代のことであって、卒業実験として、寺田先生のこの研究の助手をつとめたので、当時のこと、とくにその内情はよく分っている。
現在日立研究所にいる湯本博士が、当時大学院の学生で、寺田先生の下で、SS爆破の基礎研究として、水素の爆発の実験をしていた。私は三年になると、卒業実験として、湯本さんのこの仕事を手伝うことになった。寺田先生は、海軍の査問会の一員を委嘱され、SS爆破の原因として、無電発信による火花で、水素に点火したという説を出された。当日の天候その他、出来るだけくわしく当時の事情を調べていくうちに、遭難時刻と推定される直前に、航空船から「唯今非常にかぶって(動揺のこと)いる」という無電を打ってきた。それに対して基地から出した命令には、なんら返事がなかったので、その間に焼け落ちたものと推定された。
無電の発信には、当時三千ヴォルトの発電機を使っていたので、小さい火花ならば、発生の機会はいくらでもある。普通の場合ならば、水素は気嚢の中にあり、火花はその中ではとばないから、大した危険はない。しかしこの場合のように、機体がもまれている時は、水素の漏洩する機会も多くなるから、点火の危険も増す。
それでこの研究は、水素の細い噴流を作り、どれだけの小ささの火花で、これに点火するかを、実験的に決めることが、第一歩である。つぎには、発信用の電圧で、気嚢の上に、果してそれだけの火花が出るか否かを確める。この両者さえ分れば、それでよいわけであるが、念のため当時使っていた発信機を用いて、模型飛行船を爆破して見せる。これだけすればよいわけで、事実そのとおりにやったのである。毎晩十二時頃まで、湯本さんと二人で、大いに勉強して、それでも三か月くらいかかった。実験の詳しいことは、前に一度書いたことがあるので略するが、非常に面白い研究であった。
ところで、これだけの実験をやって、原因が、アルミニウムの粉を塗った気嚢の皮にあることを確めたのであるが、肝腎の委託した先方、即ち海軍の方では、この研究結果を、少しも喜ばない。当時SSに使っていたいろいろな資材や器材を借りてこなければ、この実験は出来ないのであるが、そういう便宜はなかなかはかってくれない。海軍側では、原因が電気的のところにあると決ると、責任者を出さねばならないし、殉職者の取扱いもひどく変るので、何とかして不可抗力にしたい模様であった。それで無電説には、海軍こぞって反対であった。霞浦で立会実験をしたり、新聞に「もし無電の波を送って航空船が爆発すればよし、しなければ寺田博士等の面目は丸潰れになるであろう」などという記事を出したり、不思議なことがたくさんあった。それで私たちも少し腹を立てて、猛勉強をしたわけである。
けっきょく実験室へ海軍の人たちを招き、現物の無電機で、模型飛行船を爆発させて見せて、やっと承服させるという騒ぎにまで発展した。そして最後に、海軍省の第一会議室で、決定案を作る査問会が開かれた。物理、気象、化学、航空の各面で日本第一の大先生方が委員になっておられ、海軍の将官、佐官、の傑い方々が、これに加わった大会議であった。この会議の模様を見て、私は委員会というものは駄目なものだとよく分った。けっきょく本当に打ち込んで研究されたのは、寺田先生一人だけで、あとはこの会議の席上に出て、初めてこの問題を思い出される方が多いように見えた。皆さん一言ずつ発言されたが、どれも御座なりの言葉で、けっきょく寺田先生の報告が、決定案として採用された。これは委員の先生方が悪いのではなく、どなたも非常に忙しく、たくさんの仕事を持っておられる方々であるから、仕方のないことである。ただ名前だけ借りて、ことを円満に(?)納めようとする方が悪いのである。
白鳩号の場合に、もし岩本教授のあの研究がなく、SS航空船の場合に、寺田先生のこの実験がなかったとしたら、何も結果は出て来なかったといっても、いい過ぎではないであろう。それで今度の「もく星」号の事故調査会でも、岩本教授や寺田博士の役割を演ずる人が出て来ることを、切に望んでいる。
現場調査などは、もちろん完全な記録がとれていることと思うが、遭難者の運び出しなどで、大分乱されたのではないかと、少し気にかかることもある。今度の事件は、白鳩号やSS航空船の場合とは、人命の損傷も被害の程度も、将来に対する悪影響も、桁ちがいに大きい。従って事故調査会の責任は、きわめて重大である。主催される官庁の方では、十分腹を決めて、本格的な研究と調査とをされることを希望する。
底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店
2001(平成13)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「イグアノドンの唄」文藝春秋新社
1952(昭和27)年12月5日
初出:「文藝春秋 第三十巻第八号」文藝春秋新社
1952(昭和27)年7月1日
入力:kompass
校正:砂場清隆
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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