雪の化石2
中谷宇吉郎
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雪の化石をつくろうと思い立ったのは、もう二十年以上も昔の話である。
昭和五年に新しく出来た北大の理学部へ赴任して、間もなく雪の研究にとりかかった。そして冬ごとに、十勝岳の白銀荘へ出かけて行って、雪の結晶の顕微鏡写真をせっせと撮っていた。
十勝岳の雪は、結晶の美しさとその種類の豊富さという点ではおそらく世界にも類例が少ないように思われる。その後いろいろなところで、雪を調べてみたが、十勝岳に匹敵しうるところは、グリーンランドの氷冠上くらいのものである。
二、三年十勝岳へ通っているうちに、何とかしてこの美しい雪の結晶を、そのまま固めて、暖国の子供たちに見せてやれないものかと思うようになった。動機は、ドイツの雑誌に、氷の化石の話が出ていたのを見たからである。
ドイツの北方海岸に近いところから、ときどき妙な化石が出ていた。形はしゅろの葉を小さくしたような形で、まっすぐな葉が、放射状に広がり、そういう群が点々として一面にちらばっている。どう見ても、しゅろ系統の植物の葉としか思われない。そこで化石学者の間でも、何か未知の植物の化石とみなされていた。中には、その植物の名前までつけた人があった。
ところが、この「葉」の形が、海岸の干潟の濡れた砂の上に出来る氷の形と、非常に似ている点に着目した人があった。そしていろいろ調べて、実験などもやってみた結果、これは植物の化石ではなく、濡れた砂の上に出来る氷の化石であるという結論になった。波の痕や、小動物の足跡なども、化石になって残っているのであるから、そういうことがあっても、ちっともおかしくはないのである。砂の上に出来る薄氷の化石が出来るくらいならば、雪の結晶の化石も出来てよいはずである。雪自身を0度以上のところに保存することは、それはもちろんできない。しかし化石は何も、そのものを保存する必要はないので、痕跡をとどめればよいのである。それで天然に化石の出来る順序を、雪の場合に適用すれば、この問題は解決されることになる。
それには、まず水を溶かさない液体で、0度以下で液状を保っているものを使う。この液中に雪の結晶をひたしておいて、0度以下に保ちながら、この液が固化すれば、望みの雪の化石が出来るはずである。理窟は確かにそれで良いのであるが、そういううまい液体がなかなか見当らない。高分子などという言葉もまだ知らなかった時代の話である。
それで手当りしだいに、いろいろなものを試みたのであるが、どうもうまく行かない。そのうちでは、コロホニウムを、クロロホルムに溶かした溶液が、少し有望らしかった。初め液状であって、それで短時間内に固化する、というような液体を探すことは、ちょっとむつかしい。それで溶液を使って、溶液が蒸発したあと、固体が残るものを試みたわけである。
このコロホニウムのクロロホルム溶液は、一応その目的にかなうのでクロロホルムが蒸発したあと、確かに雪の結晶の形が、コロホニウムの中に残る。しかし堅さがたりないらしく、また水をごく微量溶かすようであって、暖めると、間もなく形が崩れてしまう。うまく行っても、数日しかもたない。それでこの実験は、一冬十勝岳でやってみただけで、中止してしまった。
ところが、それから十年ばかり経って、アメリカで雪の化石の製作に成功した人が出てきた。それは人工降雨で有名なシェファー博士である。シェファーの方法は、ポリビニル・ホルマールの塩化エチレン溶液を使う方法である。二パーセントくらいの溶液だと、摂氏マイナス五度くらいではかなりさらさらした液である。雪の結晶を布かガラス板の上に載せて、摂氏マイナス五度以下に冷やしたこの溶液を一滴落す。そうすると、溶液は結晶表面のすみまで、よく行き渡る。この状態で、摂氏マイナス五度くらいのところに、数時間放置する。すると塩化エチレンは蒸発して、ポリビニルの薄膜が雪の結晶の表面に残る。ちょうど天ぷらの衣のようなものになる。このとき標本を暖かい部屋に持ち込むと、雪は溶けて水となり、この水はポリビニルの薄膜を通して蒸発してしまう。あとには、天ぷらの皮だけが残るわけである。この皮は非常に薄いもので、結晶の形はもちろんのこと、表面の微細な構造までも、よく現わしている。顕微鏡で見ても、もとの結晶そのままに見える。コロホニウムを使った場合とは、全く隔世の感がある。材料の発達ということは、恐ろしいものである。
顕微鏡写真の発達によって、雪の結晶の研究は大きい進歩をしたが、この化石をつくる方法、すなわちレプリカ法の発見によって、雪の研究がさらに便利になった。寒いところで、結晶の顕微鏡写真を長時間にわたって撮り続けることは、非常に困難である。野外の不便なところへ、顕微鏡写真装置をもって行くこと自身が、大仕事である。その点レプリカ法は、溶液を一びんもって行くだけですむので、非常に便利である。一降雪中の結晶形の変化、頻度の分布などを調べるにも、ときどき大形のガラス板上にいっぱい結晶を受けて、そのレプリカをつくっておく。そして研究室へ持ち帰って、温かいところでゆっくり落ちついて、調べれば良い。
この方法は、氷河の氷について、その結晶配置の研究をする場合にも応用される。氷河の氷は、長い年月の間、巨大な圧力の下に保存されるので、構成要素の結晶がしだいに生長する。アラスカのメンデンホール氷河などでは、一抱えもある氷の単結晶が、氷河の末端近いところにはたくさんできている。グリーンランドや、アルプスの氷河などでは気温が低いので、氷の結晶はせいぜい数センチくらいのものである。この結晶は、境界面が少し速くエッチされるので、光をうまく当てて注意してみれば、肉眼でも見える。しかしその写真を撮ることは、なかなかむつかしい。大がかりの照明装置を、氷河の上までもって行くのは、はなはだやっかいである。それでこのレプリカ液を、氷の表面に塗って、乾いたときに剥ぎとる方法が、よく使われるようになった。レプリカ液のはいった小びんを一本ぶら下げて行くことくらいは、どんな嶮しい氷河の上でもできることである。この剥いだ膜を、ガラス板の上に広げて貼りつけ、写真を撮ると、結晶の境界がよく出る。氷河の力学的性質は、氷の結晶の大きさや配列によって、著しく影響されるので、この簡便に行える結晶観察法は、氷河の研究に一つの有力な武器となる。
ところで、この雪の化石は、ごく近年になって、また一つの大飛躍をした。それはオーストリアのフックス博士が、積雪の研究に、レプリカ法を応用することを考案したからである。積雪の力学的性質は、雪を対象とする多くの問題の中でも、いちばん重要なものである。しかしその研究は、多くの研究者の努力にもかかわらず、なかなか思ったように進展しない。世界的に見ての話である。いちばんやっかいな点は、積雪の標本について、その特性が決められないところにある。積雪になって地上に積っている雪は、もはや降ったときの結晶の形をしていない。昇華凝縮が盛んに起るために、小さい氷の粒子の集まりになってしまう。それで積雪は、いろいろな大きさの粒子の集まりに、空隙がはいったものである。そういうものの性質の中で、はっきり測定できるものは、比重くらいのものである。しかし比重を測っても、一つの標本の中にある氷の全量と空隙の全容積とがわかるだけである。雪の性質は、氷の粒子の大きさとその大きさの頻度分布、および粒子間にかかっている橋の強さと数とによって、著しく異なる。ざらめ雪と、締り雪とでは、その力学的性質は天地の差があるが、その差は粒子のつながり方、すなわち積雪の構造によるのである。それで積雪の力学を完成するには、その構造をスペシファイする要素を見付けることが、先決問題である。それでフックスは、積雪の立体レプリカをつくって、それを薄片に切って、顕微鏡の下で粒子の大きさおよびそのつながりなどを調べることを思い立った。積雪の表面を顕微鏡で見ただけでは、粒子の大きさもよくわからず、いわんやそのつながり方などは決して見られない。
雪を薄片に切るといったが、その薄さは、粒子の大きさの程度にする必要がある。すなわち一ミリ程度の厚さに切ることが望ましい。しかし粒子間の橋をこわさないで、氷の粒を切ることは、非常にむつかしい。ただの雪をミクロトームで切っても、それは不可能である。それでフックスは積雪の丈夫な立体レプリカをつくることを試みた。シェファーの方法では、レプリカは非常に薄い膜になる。それであの方法で積雪の立体レプリカをつくっても、雪を溶かしてみると、綿菓子がつぶれたようになってしまう。
フックスの方法は、原理も材料もだいたいシェファーの方法と同じであるが、ただ丈夫なレプリカにするために、溶液の濃度を八パーセントくらいまで上げた。ポリビニルはなかなか溶けにくいので、ごく少量ずつ粉を加えて、少なくも一時間はかきまわしていなければならない。しかし根気よくやれば、かなり透明などろどろした液になる。それに約四割のチタンの粉を加える。これもごく少量ずつ粉を加えて、一時間か二時間かきまぜている必要がある。それで結局白いどろどろした液ができる。
この液ができたら、積雪の小さい塊を氷でつくったメッシュの上に載せて、液中に徐々に沈めてやる。充分液がしみこんだところで、それを取り出し、手回しで遠心力を与え、余分の液を切って、寒いところで乾かす。これでかなり丈夫な立体レプリカができる。
しかしこれでも一ミリくらいの薄片に切ると、粒子間の橋が、とかくこわれやすい。それでこの標本を、氷の粒があるままの状態で、ガラス板に貼りつけ、五ミリ程度の厚さに切る。そしてその上から摂氏零度の水を注いでやると、水は空隙の部分にしみこんで、そのまま凍ってしまう。できたものは、無垢の氷の板であって、ただもとの氷の粒の周囲に、レプリカの膜がかぶさったものになる。全体が無垢な氷になったので、あとはミクロトームで、いくらでも薄く切ることができる。
粒子の大きさの程度まで薄くして、顕微鏡でのぞいてみると、粒子の形、大きさ、粒子間の橋の太さなどまで、はっきりと見ることができる。ただやっかいなことは、粒子も氷であり、空間も氷になっていて、その境界のレプリカ断面が見えるだけである。それで境界のどっち側がもと空隙だったところか、ちょっと判断に迷う場合がしばしばある。あとから加える水に色をつけておけばよさそうにも思われるが、色素が分離して駄目だと、フックスは言っていた。しかし何か工夫がありそうなもので、目下実験中である。
それよりも、何か適当な充填用材料がありそうなものである。必要条件は、次のとおりである。氷を溶かさないこと、零下二、三度で流動性があること、ただし常温におけるグリセリン程度の粘性はあって良い。零下十度あるいは二十度で固くなること。こういうものがあれば、零度に近いところでしみこませて、低温で切って、顕微鏡写真に撮れば、問題はいっぺんに片づいてしまう。何かそういう材料にお心当りの方があったら、ご教示をいただければ幸甚である。
底本:「中谷宇吉郎集 第八巻」岩波書店
2001(平成13)年5月7日第1刷発行
底本の親本:「中谷宇吉郎随筆選集 第三巻」朝日新聞社
1966(昭和41)年10月20日
初出:「高分子 第七巻第七十三号」高分子学会
1958(昭和33)年3月20日
入力:kompass
校正:砂場清隆
2015年12月13日作成
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