百科事典美談
中谷宇吉郎



大英百科事典エンサイクロペディア・ブリタニカ』について、私は二つ美談を知っている。ともに札幌で、自ら見聞したことで、又聞きの話ではない。少し話を面白くしてあるが、本筋には少しも捏造ねつぞうがはいっていない。本当にあった話であるから、そのつもりでお読みを願いたい。



 北大の予科に、もうとっくに亡くなられたが、A先生という物理の老先生がおられた。たしか中村清二先生と同期くらいに、東大の物理学科を出られた方である。

 もう二十年以上も前のこと、北大に新設された理学部へ赴任して間もない頃、私はある晩、A先生のお宅へ伺ったことがある。大先輩に敬意を表するためである。

 古いお宅で、応接間も大分古風な部屋であった。一晩ゆっくりお邪魔をして、「新鋭の長岡半太郎講師や優秀な本多光太郎学生」の昔話などを聞いて、たいへん面白かった。

 ところが、この応接間には、如何にもこの部屋にふさわしい古風な『大英百科事典』が、並んでいた。版のまだ若い部厚な昔の『大英百科事典』である。インディアン・ペーパーなどまだ使い出さない、懐かしい本物のやつである。その頃でも、『大英百科事典』を自分でもっているのは珍しかったので、「それは先生のですか」と、失礼な質問をした。

 そうしたら、A先生は、「実は、大失敗をしたんですよ。つい若気の至りで、こんなものを買ってしまいましてね」と前置をして、次のような話をされた。

 何でもA先生が、東大を出て、ここの北大の予科へ赴任されて間もない頃、というと、今から五十年くらいも前の話である。何かの拍子に、思わぬ金が少しはいったことがあったそうである。いくらだったか忘れたが、丁度この『大英百科事典』を買うのに、必要にしてかつ充分な金額であった。それで思い切って、これを買おうと思い立たれた。

 ところが、丁度その時に、全く別な申し込みがあった。それはA先生が今借りておられる土地を含めて、周囲の一画を、まとめて買わないか、という話なのである。札幌は街が碁盤の目に切ってあって、一画は一町四方になっている。即ち三千六百坪である。それがまた因果と、百科事典と同じ金額なのである。五十年前の札幌の地価は、その程度のものであった。

 それで先生は、大いに迷われたそうである。しかし「若かったもんでね。学者になるのに土地は要らないが、『大英百科事典』は要るという結論に、到頭なっちゃったんだ。あの時土地を買っておけば、今頃大金持になっていたんだが。こんなもの五十円にも売れないよ」という話であった。

 札幌は、今たいへんな開発ブームで、ビルがこの数年間に何十と建っている。映画館は二十七とかになったそうであるが、また新しく七百坪とかの大映画館が、建つそうである。それが昔A先生が買い損ねた土地のごく近くである。この土地の買値は、何と一坪十万円ということである。そうすると、A先生の『大英百科事典』は、三億六千万円の値打があったことになる。三億六千万円よりも『大英百科事典』を選ぶというのであるから、これはたしかに美談である。



 これは旧同僚X君の話である。X君は今は東京に出て、日本で一番傑い学者になっているが、その若き日の逸話である。お互いに教授になったばかりで、たしか月給百六十円くらい貰っていた頃の話である。

 その頃、『大英百科事典』が、画期的の大改版をやったことがある。大項目主義をさらに拡張して、世界一流の学者たちに、新しく大項目を書いてもらうことにしたとかで、丸善が見本とパンフレットをもって、何度となく熱心に勧誘にやって来た。

 パンフレットを見ると、なるほどたいへんな顔ぶれである。自然科学の方は、とくに力瘤を入れたらしく、たしか相対性原理はアインシュタインが書き、放射能はラザフォードが書くといったような調子である。X君は、このパンフレットを見て、大いに感じ入り、「学者になるには、『大英百科事典』が要る」と思い込んでしまった。

 ところが厄介なことには、月給は百六十円である。もちろん月賦にしてくれるのであるが、それでも買えない。月二十円宛、一年半だったか払えば済むのであるが、その二十円が出せない。というのは、X君は月給袋をそっくり奥さんに渡して、その中から、月に二十円ずつお小遣を貰うことになっていたからである。その二十円を丸善にとられてしまっては、向う一年半、コーヒーも飲めないし、散髪にも行けないことになる。

 それで一時はきっぱりと断念したのであるが、どうしてもこの百科事典のことが、頭の底にこびりついていて離れない。それで鬱々として、一週間ばかり過ごしてしまった。そしたらある晩、学校から帰って来たX君をつかまえて、奥さんが「貴方あなたこの頃ずっと顔色が悪いようだが、どこか悪いのじゃありませんか」と心配そうに聞いたそうである。

 そこでX君は、包み隠さず、この悩みを打ち明けた。そうしたら奥さんが、しばらく考えていて、決然とX君に言った。「貴方それをお買いなさい。私が毎月十円ずつ上げるから、貴方もお小遣の中から十円出して、買うことにしようじゃありませんか」と言った、というのであるから、まことに美しい話である。これは翌日学校で、X君自身が話してくれたことであるから、真実の話にちがいない。よほど嬉しかったのであろう。

 それで芽出度く『大英百科事典』は、X家の茶の間に、燦然と背の金文字を輝やかすことになった。その頃の大学教授は、丸善に信用があったので、契約さえすれば、本は揃えてすぐ届けてくれたのである。

 これはたしか夏休みの頃だったように憶えている。それから読書の秋が来て、札幌の早い冬が、間近にせまって来た。十月の末くらいか、ある晩X家を訪れた。子供たちはもう寝かしつけて、X君夫妻だけ、茶の間の電灯の下に坐っていた。長火鉢にはかんかんと炭火がおこっていて、鉄瓶の湯がたぎっている。X夫人は毛糸で何か編んでいたらしく、編みかけの毛糸の玉がころがっていた。X君は、食事を済ませたあとの小さいちゃぶ台の上に、『百科事典』を一冊開いて、きちんと坐っていた。

 見ると Egypt というところが、あけてある。この二カ月の間に、Aから始めて、Eまで来たものらしい。まことに仕合わせな『大英百科事典』である。

 この話は、われわれの間には、「昭和山内一豊の妻」という題で、広く行きわたっている話である。それで何も家庭の秘事をあばいたことにはならない。

 先日当時の同僚の他の一人で、やはり東京に出ているY氏の令嬢が結婚した。その時何か為になる話をしてくれといわれて、この話をした。そしたら同席の野村胡堂氏から、「それは美談だね」と褒められた。本当はもう少し面白いのだが、二十年も昔の話で、詳しい状景は大分忘れてしまった。それで皆忘れてしまわないうちに書き止めておくことにする。



『大米百科事典』(Encyclopedia Americana)というのは、『大英百科事典』(Encyclopaedia Britannica)と語呂を合わせた訳であるが、この『大米百科事典』が、近頃その校訂版を出している。

 昨年秋頃、この校訂版中の「雪と雪華」の項の執筆を頼まれ、比較的暢気のんきな気持で、その原稿を書き上げて、送っておいた。日本人の癖で、大英の方だと大いに緊張するが、アメリカの事典だと、一段格が落ちるような気がして、いわば気が楽なのである。

 ところが、最近その校正を送って来たのを見て、ちょっと意外に感じたことがある。それは編集が非常に真面目に、かつ念入りにしてあるという点である。

 まず人名であるが、普通われわれが見ている専門雑誌では、著者の名前は、略してあるのが通例である。例えば J. E. Church(積雪調査の創始者)とか、H. Weickmann(近年人工雪の実験をやっている人)とかいうふうになっていて、フル・ネームは書いていない。それで引用する方も仕方ないので、この略号で間に合わせておいた。

 それからこれはちょっと耳新しいことであろうが、鼓型の雪の結晶を最初に発見した人は、「我考う、故に我あり」のデカルトである。またすべての結晶が六方晶系に属することを指摘したのは、「ケプラーの法則」のケプラーである。ケプラーやデカルトの名前を知らない人はいないだろうからと意識したわけではないが、あまりよく知られている名前なので、単に Kepler, Descartes と書いておいた。

 ところが、この事典では、人名は全部完全形で書くことになっているらしく、一々 Johann Kepleŗ René Descartes と直してあった。それくらいのことは当然であるが、驚いたことには、十人ばかり引用しておいた略号が、全部完全形に直っている。前の例でいえば、James Edward Church, Helmut Weickmann というふうになっている。

 これも米国の学者ならば、米国科学者人名簿でわかるから、問題はないが、外国の学者の名前まで全部直してあった。ただ一つ、ユーゴースラビアの A. A. Sigson だけは、どうしても探しかねたものとみえて、完全名がわかったら知らせてくれといって来た。シグソンは結晶の凹凸を出した顕微鏡写真を初めて撮った人で、一八九四年のドイツの気象学雑誌メット・ツァイトに、その写真が出ている。これは大英百科事典にも引用してあって、Russian となっていたので、そのままにしておいた。ところが「ニューヨーク図書館でソ連出版の百科事典を全部調べたが、この名前は出ていない」といって来た。もう旧い話であるし、別に名のある学者ではないから、A・Aの本名は一寸わからないであろう。それにしても、ひどく念入りな話である。

 ところで、あまり念が入りすぎて、ちょっと面白い間違いもあった。それは、沼津の田村専之助氏が史観第四十五冊に書かれた「中国人の雪の観察」を引用した個条である。田村氏によると、「凡草木花、多五出、雪花、独六出」の語が、『太平御覧』に引かれた「韓詩外伝」にあるそうである。「韓詩外伝」は前漢の大儒韓嬰の手になったもので、韓嬰は西紀前二世紀の人である。ケプラーが「六出」を発見した時よりも、千八百年近くも昔に、支那では、既に、雪の結晶が六方晶系に属することを発見していた、と贔屓目にいえば、いえないこともない。

 ちょっと面白い話なので、S. Tamura の研究によればとして、この話を引用しておいた。ところがそれが Satoru Tetsu Tamura と直してあった。サトル・テツ・田村氏のことはよく知らないが、多分アメリカでは知られた学者なのであろう。これなどは、馬鹿念入りの例で、ちょっと笑い話になるが、それにしても、編集者の糞真面目さは認めるべきであろう。

 今一つ、この韓嬰であるが、支那文学の人に発音をきいて、Han ing としておいた。ところが、一八九八年版 Gilas, A Chinese Biographical Dictionary でもまたニューヨーク図書館の東洋部門の人と一緒に調べたところでも、西紀前二世紀頃活躍した有名な支那の学者には、Han Ying という人しか見当らないが、それに直しておいてよいかときいてきた。どうも驚いた話である。

 何も『大米百科事典』の提灯持ちを頼まれたわけではないが、格のことは別として、アメリカの辞書にも、ひどく真面目な編集をしているものもあることを知って、ちょっと意外な気がした。これも百科事典美談の一つに加えておいてもよいであろう。

(昭和三十年五月/昭和三十一年七月)

底本:「中谷宇吉郎集 第八巻」岩波書店

   2001(平成13)年57日第1刷発行

底本の親本:「中谷宇吉郎随筆選集 第三巻」朝日新聞社

   1966(昭和41)年1020日刊

初出:一「図書 第六十八号」岩波書店

   1955(昭和30)年55日発行

   二「図書 第六十八号」岩波書店

   1955(昭和30)年55日発行

   三「図書 第八十二号」

   1956(昭和31)年75日発行

※中見出し「一」の初出時の表題は「大英百科事典美談 その一」です。

※中見出し「二」の初出時の表題は「大英百科事典美談 その二」です。

※中見出し「三」の初出時の表題は「大米百科事典」です。

入力:kompass

校正:岡村和彦

2017年59日作成

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