写真と暮した三十年
中谷宇吉郎



焔を撮る苦心


 物理の実験に、写真が広く応用されることは、周知のとおりである。とくに私の研究の場合は、ほとんど写真を用いた研究であって、考えてみると、もう三十年間も、写真とともに暮していたことになる。

 初めて研究と名のつくものに手をつけたのは、大学三年生の時であった。現在日立の中央研究所におられる湯本博士が、当時大学院の学生として、寺田寅彦先生の下で、水素の爆発の実験をしておられた。私が三年になって、寺田先生の指導で、卒業実験をすることになった時に、先生から、湯本さんのこの実験の手伝いをすることを命ぜられた。

 この実験で、初めて写真を研究に使うことを覚えた。大正十三年のことであるから、今から数えて、三十三年昔の話である。それ以来、英独留学中の二年間を除いては、ずっと写真を使う研究をしていたので、文字どおりに「写真と暮した三十年」なのである。

 水素の爆発といっても、空気中または酸素中に、少量の水素がはいった場合の爆発の研究であって、燃焼といった方がよい程度のものであった。危険はないので、細長いガラスのU字管に一〇ないし一五パーセントの水素と酸素との混合気体を入れて、上端から火花で火をつける。すると燃焼が、ある場合にはU字管の底まで伝播し、ある場合には、途中で立ち消えになる。

 目的は、航空船の爆破防止にあった。当時の日本の海軍は、まだ航空船を使っていたが、それが原因不明の爆発をしたことがあったので、その原因探究のために始められた研究であった。水素が少し漏れているところに点火した場合に、その火が気球にまで行くか、立ち消えになるか、というようなことを調べるのが目的であった。

 やってみると、この現象は非常に複雑であって、管の太さと長さとによって、途中で消えたり一旦消えそうになって、また燃え続けたり、いろいろ不思議なことが出てきてどうにも始末におえなくなった。

 結局焔の伝播の状態を、写真に撮って調べなければ、本当のことはわからない、ということになった。しかしこの焔は、不完全燃焼であるから、光が非常に弱く、やみに馴らした眼に、辛うじて見える程度であった。当時のレンズと感光材料とでは、その撮影は不可能であった。

 それで水素と酸素との不完全燃焼に類似の燃え方をするガスで、もっと強い光を出すものを探した。いろいろ験してみた結果、石炭ガスと酸素との適当な混合気体に、微量のアセチレンを加えたものが、この目的に適うことがわかった。

 しかしそれでもまだ光は弱いので、当時のレンズでは、なかなか写らない。ダゴールのf6.8というのが、上等のレンズであった時代である。さんざん苦労をした揚句、クックのf2という収差コマのひどいレンズを手に入れて、やっとかすかな焔の像がうつることになった。ポートレート・フイルムという厚いフイルムが一番速かったので、それを苦心して円筒に捲きつけ、その円筒を回転しながら、伝播状態の写真を撮ったのである。

 強力現像などは、もちろんなかったし、現像温度なども、そうやかましく言われなかった時代である。それでも温度を十八度だったかに保ちながら、三十分くらいかけて現像したら、やっと見えるか見えないくらいの像が出てきた。

 この時言われた寺田先生の言葉は、その後ずっと大いにためになった。「何も写らないものを、とにかく写るようにするまでが、たいへんなんですよ。どんなに薄くても、何か写りさえすれば、あとは楽になる。実験というものは、どこを改良したかわからなくても、やっておれば、だんだん良くなるものだから」と教えられた。

 果たして、その後根気よく、何枚も何枚も撮っているうちに、焼き付けが出来る程度の写真が撮れるようになった。そして、この複雑な燃焼伝播の機構メカニズムも、どうにか解明された。


つきとめた航空船爆破の原因


 この研究のさなかに、第二回の航空船の爆破事件が起きた。今度はS・Sという気球にアルミニウム・ドープを塗った航空船であった。霞浦上空で突如爆破し、乗組員は全員焼死、機体の残骸が畑の中で発見された。

 これだけの材料で、この爆破の原因をつき止めるという困難な仕事を、先生は大真面目に引き受けられ、私たちにその実験を命ぜられた。そしてその原因を、ついにつき止められた。無電のアース・カレントが流れる時に、球皮のアルミニウムの粉の間に非常に小さい火花がとび、それによって、気球から漏れる水素に点火したことがわかったのである。この研究の内容は、学問的にも重要であり、また探偵小説的興味もあって、非常に面白いのであるが、前に『球皮事件』として書いたことがあるので、ここでは触れない。

 この研究の場合にも、写真が大いに活用された。顕微鏡の下で、球皮に高周波をかけ、アルミニウムの粉間にとぶ微小火花の顕微鏡写真も撮った。また高電圧をかけると、球皮の表面に沿って、非常に長い火花がとぶので、その写真を撮って、電光の形と比較したりもした。電光の長さが、その電圧から推定される長さに比して、数倍或いは十倍くらいも長いことは、前から知られていて、気象学の一つの謎とされていた。その説明に、このアルミニウム・ドープの沿面放電の機構が使われた。


十万分の一秒で火花の撮影


 大学を卒業して、理化学研究所の寺田研究室にはいってからは、長い電気火花の形および構造の研究を始めた。これは専ら写真による研究であって、留学までの三年間に、約三千枚の写真を撮った。

 電気的の条件をいろいろに変え、気体の種類を変えて、火花をとばせて見ると千差万別の形になる。空気中の一番普通の火花でも、少し長くなると、妙に角立った屈曲をする。変圧器による交流高圧を用いた実験は、それまでにもたくさんなされていた。その火花は、うねうねと紐をくねらせたような形になる。ところが感応起電機による直流高圧で、急激な放電をさせると、火花は箸を何カ所かで折ったような形に、角立って屈曲する。その写真を、前方からと、上からと、同時に撮って屈曲の角度を空間的に求めた。その角度の分布曲線をつくってみると、三つの極大が出て来た。これが先生一流の「空気の割れ目」説に導かれたのである。その分布曲線を一本つくるだけに、五百枚以上もの写真を撮った。

 気体を変え、電気的条件を変えると、いろいろな意外な現象が出て来た。酸素の中では、火花は角立って曲らず、うねうねと妙に波打った形になる。正電極直前の電場を少し弱めると、風で吹き流される火花が出来る。

 いろいろやっているうちに、これらの複雑な現象の全部が、一つの仮説を立てると、巧く説明されることに気がついた。

 それは火花が飛ぶ直前に、ある種の前放電があるという仮定である。この前放電の形、およびそれと本当の火花との間の時間間隔が、気体の種類により、また場合によって、いろいろにちがうとすると、全部の現象が説明されるのである。

 それで厚いX線フイルムを円形に切り、中心を高速モーターの軸に直結させて、一万回転近くで回し、その上に火花の写真を撮ることを試みた。これだと十万分の一秒くらいまで解析が出来る。今日のような高速度カメラなど、夢にも考えられなかったころの話である。

 しかしこれでも前放電らしいものが、ちっとも写らない。大いに失望したわけであるが、そのうちに気がついたのは、前放電があっても、紫外線が主だったら、ガラスのレンズでは写らないということであった。ところが運よく水晶と蛍石とで造った写真レンズが、高嶺研究室にあることがわかり、藤岡(由夫)君に頼んで、それを借り出した。

 この水晶蛍石レンズで撮ってみたところが、果して待望の前放電がちゃんと写ったのである。回転フイルムの上に、条件によっていろいろな形の前放電の像があらわれ、その前放電の一部に沿って、火花がとぶことがわかった。それで今までの実験の急所々々をこの水晶蛍石レンズで撮り直し、これでやっと三千枚の写真が生きることになった。


寺田寅彦先生と線香花火


 この電気火花の研究の途中夏休みの骨休めに、線香花火の研究をやったことがある。炭素と硫黄と硝石との混合物という、きわめて簡単な火薬から、あの複雑で美しい松葉火花や可憐な散り菊がとび出てくることは、如何にも不思議である。

 寺田先生は前からこの線香花火に興味をもたれ、こういう日本独特のものは日本人が研究すべきだと言っておられた。事実、線香花火は、日本独特の花火で、如何にも日本的な風趣のあるものである。

 この線香花火の研究も、写真を撮ることが、大部分の仕事であった。しかしあの赤い光の弱い火花の写真を撮ることは、当時としては、非常に困難なことであった。イルフォードのパンクロ乾板が唯一の頼りで、それをアンモニアで強化して使った。真夏の東京で、暗室の中でアンモニアにむせびながら、どうにかこの研究も仕上げた。

 留学から帰って、北大へ勤めてからも、初めは、電気火花の前放電のもう一つ前に起こるイオン放電を、霧函の方法で研究する仕事を始めた。これも写真による研究であった。

 その後雪の研究を始めてからは、もう写真とは切っても切れない縁が出来てしまった。今までに撮った天然雪と人工雪との顕微鏡写真は六千枚を突破しているであろう。それから数年前に、アメリカの雪氷永久凍土研究所で氷の単結晶の研究をしたが、これにも二千五百種の写真を撮った。この調子では、まだあと二十年くらいは写真とは縁が切れないであろう。

(昭和三十二年)

底本:「中谷宇吉郎集 第八巻」岩波書店

   2001(平成13)年57日第1刷発行

底本の親本:「中谷宇吉郎随筆選集 第三巻」朝日新聞社

   1966(昭和41)年1020

入力:kompass

校正:砂場清隆

2016年34日作成

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