『ケプロン・黒田の構想』について
──英文誌 This is Japan のための草稿──
中谷宇吉郎
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一八六八年は、日本が中世の封建制度から脱却して、近代世界へはいった年として、日本の歴史の上で、一番重要な年である。われわれは、これを明治維新といっている。
明治政府が、その創設と同時に着眼したのは、北海道である。北海道は、その他の日本全土の三分の一の面積をもつ大きい島であって、当時はエゾと呼ばれていた。このエゾの島は、全島が千古の密林におおわれ、沿岸の海は豊富な魚で満ちていた。地下資源もきわめて豊かと推察された。
後の黒田長官は、明治三年(一八七〇年)に北海道開拓次官に任命されたが、彼は、当時の日本の三分の一に当る、この広漠かつ未開の土地の開発に、まったく新しい構想をたてた。それは範をアメリカの開発に求めたことである。百年前のアメリカは、まだ東部だけに限られていた国で、中部および西部は、開発途上にあった。その活溌な開発様式を、北海道に導入する計画をたてたのである。
明治三年に、彼はこの地位につくや、直ちに訪米の案をたて、翌年の明治四年(一八七一年)に、自らアメリカへ渡った。当時、彼は三十一歳であった。この若い政治家は、ときの大統領グラントに会い、自分の構想を打ち明け、しかるべき人の推挙を頼んだ。そのときグラントは、まことに驚くべき人を推薦した。それはときの米国農務省総裁のホーレス・ケプロンであった。ケプロンはすでに六十七歳、現職の農務大臣である。黒田次官は、ケプロンを訪ね、誠意と情熱をかたむけて、北海道開発の顧問として、札幌へ来訪されることを懇請した。
ケプロンは、外のもう三名の顧問とともに、この年に来日、直ちに北海道開発の構想をたてた。まず首都をきめる必要がある。当時札幌がすでに全北海道の首都となっていたが、ケプロンは、まず気候条件や立地条件の調査をして、札幌が将来、大都市として発展し得る条件に適していることを確かめ、首都を札幌と確定した。
黒田次官は、ケプロンの助言を率直に受け入れ、万事彼の意志どおりに仕事をさせた。この二人ははじめから肝胆相照らした仲であり、明治八年(一八七五年)に、ケプロンがりっぱにその任を果たして帰国するまで、その友情は変らなかった。
ケプロンが最も重視したのは、調査であって、北海道の気候、土質、地質などを、十分に調べ、その資料に基づいて、科学的かつ組織的な開発を行なうべきだと提唱した。黒田長官は、この助言により、当時としては、非常に巨額の経費をかけて、開発事業に打ち込んだが、何といっても、日本ではじめての事業であり、日本内地全体が鍬一丁の農作を営んでいた時代のことであるから、まず、必要なのは、技術者である。それで、黒田長官は、思い切って、多数の外人技術者を招聘した。彼の在任中に招いた外国人は全部で七十五名に及び、そのうちの四十五名はアメリカ人であった。
ケプロンは、調査を進めると同時に、開発に一番必要なのは、人間である点を強調し、人材養成の機関として、学校の設立を要望した。いつまでも外国人技術者にたよっていることはできないから、当然な話である。黒田長官は直ちに、この案をとり上げ、ケプロン来任の翌年、明治五年(一八七二年)に、東京に開拓使仮学校を創立した。これが今日の北海道大学の前身である。
調査が進行するにつれて、開発の構想も、次第に具体化してきた。この開発の一つの眼目は、多数の人間を内地から移住させて、北海道を日本領土として確保する点にあった。それで一番重視したのは農業であるが、これには、内地流の米作本位をやめて、アメリカ式の酪農を採り入れる方針をたてた。
水田米作をしないとすると、果樹や野菜の栽培にも力を入れる必要がある。この方面を受けもったのがベーマーであって、今日の北海道林檎はもちろんのこと、青森林檎も、彼の恩恵を受けている。林檎栽培は現在かなり重要な産業になっているが、おもしろいことには、北海道の林檎の種類には、今日でも、六号とか四十九号とかいう名前がついていて、番号で呼ばれている。これは輸入番号であって、一号からずっとつづいていたのであるが、そのうち北海道の風土に適したものが、生き残ったのである。
開発は農業だけに限られたものでないことを、ケプロンはよく知っていた。彼の部下のライマンは北海道の地質を詳細に調査し、とくに石炭の調査をよくやった。彼はその調査を行なうと同時に、若い日本人を養成し、その門下生たちは、後になって、つぎつぎと、北海道における主な炭山を発見した。石炭は、今日の北海道では、最重要な産業の一つであり、日本の勢力資源に、大きい寄与をしているが、これもライマンに負うところが多い。
ケプロンは、首都には産業が必要だとして、札幌に製材、製鉄、製粉など、各種の工場を建て、また北海道全体の問題としては、道路が何よりも急務であることを説いた。それでまず札幌から室蘭までの道路をつくり、室蘭を中継港として、札幌と東京を結ぶという大事業を起こした。
ケプロンは、在任満三年十カ月、りっぱに北海道開発の基礎を作り上げて、明治八年(一八七五年)に米国へ帰った。
ケプロン以後、日本の政府は北海道の開発に、ずっと金を注ぎ込んできた。しかし、その様式は、次第にくずれてきて、政治色が濃くなるにつれて、業績は次第にあがらなくなった。とくに戦後に実施された北海道開発第一次五カ年計画は、昭和二十六年(一九五一年)からはじめられ、昭和三十一年三月に完了された。しかし、その成績は惨澹たるものであって、日本一流の有識者を集めた委員会から、きびしい批判を受けた。この委員会は、第二次五カ年計画についてリコメンデーションを出したが、その冒頭において、「この勧告の全貌を最も簡単にいえば、〝ケプロン・黒田の構想にもどれ〟の一言につきる」といっている。八十年の昔に、北海道をひらいた人々は、非常に偉かったのである。
ケプロンのまいた種が、もっとも実を結んだのは、現在の北海道大学である。彼の献策によってつくられた開拓使仮学校は、四年後の明治八年(一八七五年)に本来の目的地である札幌へ移転した。そして「札幌農学校」となった。この札幌農学校に、生命を吹き込んだのは、いま一人のアメリカ人クラーク博士であった。
いよいよ札幌移転が実現して、札幌農学校はできたが、新しい農法や、開拓に必要な新知識を教え得る教授はいない。それで専門教師を三名アメリカから招聘し、そのうちの一人に教頭の任を兼ねさせることにした。そして、ケプロンが去った年、明治八年(一八七五年)に外務省から駐米日本公使に、適任者の選定を依頼した。公使はその推薦を、当時の米国教育界の第一人者であったB・C・ノースルップに頼んだ。
ところが、ノースルップが推薦したのは、これも驚くべき話であるが、マサチュセッツ州立農科大学の学長ウィリアム・スミス・クラーク博士であった。米国州立大学の学長を、当時人口三千に足りなかった日本北辺の小都市へ招いて、十代の生徒がわずか二十四名という、いわば寺子屋のような学校の教頭に迎えようというのであるから、ずいぶん無茶な話である。
しかし、話を聞いたクラーク博士は、これを快諾した。彼は牧師ではなかったが、非常に信仰心の厚い人で、ミッショナリイ的な精神が、彼のエゾ島行きを決心させたのである。彼は二人の同僚を伴って、明治九年(一八七六年)の夏日本へきて、八月十四日の札幌農学校の開校式に臨んだ。
黒田長官は、札幌農学校創設の目的を、開拓に役だつ官吏の養成という点においた。しかし、クラーク博士は、そういう目的のために、数千マイルの旅をして、生徒二十四人の学校の教頭として赴任したのではなかった。彼の目的はこの東洋の一僻地において、自由と独立と大志とを目ざした新しい人間教育をする大学をつくり上げる点にあった。開校式の席上で、「長い間暗雲のように東洋国民の頭上をおおっていた、階級制度や因習の暴君の束縛から、国民を自由にした驚くべき解放は、これより本校で教育を受けようとしている学生諸君の胸中に、おのずと高遠なる大志(ロフティ・アンビション)を喚起するであろうことを信じて疑いません」と、彼は演説した。
彼は在任わずか九カ月、明治十年(一八七七年)の四月に札幌をはなれ、米国へ帰った。馬に乗って帰途についたクラーク博士を、生徒たちは十五マイルついて行った。そして、いよいよ別れるときに、彼はボーイズ・ビー・アンビシァス Boys be ambitious(若人よ、大志を抱け)と一言いい残して、一人で草原のかなたに消えて行った。
開拓に必要なものは、土地を含めた意味での資源と、人間とである。
黒田長官のような強大な推進力をもった人に、ケプロンとクラークとが加わったという点において、北海道の開拓は、非常に幸運な出発をしたのである。
底本:「中谷宇吉郎集 第八巻」岩波書店
2001(平成13)年5月7日第1刷発行
底本の親本:「文化の責任者」文藝春秋新社
1959(昭和34)年8月20日
入力:kompass
校正:砂場清隆
2016年6月10日作成
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