塩の風趣
中谷宇吉郎
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戦争前の話であるが、京橋のあたりに、K鮨という鮨屋があった。材料がよいというので、たいへん評判がよかった。
亡くなった岩波さんは、人に御馳走をするのが道楽であって、よく方々へ連れていって、御馳走をしてくれたものである。K鮨もその一つであった。北海道から出てくると、東京の御馳走は、どれもこれもうまいし、それに味覚のそう発達していない私には、こういう御馳走は、少しもったいないくらいであった。しかし御馳走になるのは悪いものではなく、それに先方が御馳走をするのが道楽の場合には、両者の利害が完全に一致するので、よく方々へ案内してもらったものである。
K鮨は、評判どおりに非常に鮮しい材料を使うので、たいへんうまかった。料理台の上にのっていた、一尺立方くらいの鮪の切身の色の美しさなど、今でも記憶にのこっているくらいである。値段はもちろん相当なものらしかったが、魚の種類によっては、産地または漁船まで、特別に使を出して買いこんでいるということで、少しくらい高くても、むりもない話であった。
ところでK鮨で、いちばん印象に残っているのは、生烏賊であった。というよりも、それにふりかける塩といったほうがいいかもしれない。生烏賊の握りには、醤油はつけさせず、食塩をふりかけてくれるのであるが、その食塩が非常に美しくかつさらさらしていて、味もまたきわめてよかった。苦味はぜんぜんない。妙に甘味があって、塩のうまさというものは、こういうものかと感心したくらいであった。今から考えてみれば贅沢な話であるが、この塩は、英国からとり寄せたもので、ドーヴァーの塩だという話であった。ドーヴァーの塩でも、日本の塩でも、塩にかわりはないから、そういう気障なことをいうのは、下等な商業政策だとけなされるかもしれないが、そう簡単にはいえないようである。女学校の割烹では、塩は塩化ナトリウムだと教えるかもしれないが、海水から採った普通の塩は、決して純粋な塩化ナトリウムではない。だから食塩にいろいろの種類があっても、ちっともふしぎではないのである。もちろん主成分は塩化ナトリウムであるが、俗にいう苦汁すなわち塩化マグネシウムが、粗製塩には、かなりの量はいっている。本当は苦汁には、塩化マグネシウムのほかに、いろいろなものがはいっているのであるが、話を簡単にするために、塩化マグネシウムで代表させておくことにする。
この塩化マグネシウムを多量に含んだ苦汁は、その名のごとく、非常ににがいものである。このごろ街で売っている沢庵が、食べたあと、舌に苦味が残るのは、たぶん苦汁分の多い粗製塩を使うからであろう。普通の塩は、塩化ナトリウムの結晶の表面に、六分子の結晶水をもった塩化マグネシウムの皮膜がかぶさっているものである。
海水の成分は、あんがいに複雑なもので、塩化ナトリウムや塩化マグネシウムの他に、ずいぶんいろいろなものがはいっている。手もとにある理化学辞典の表を見ても、標準的な海水の一キログラム中には、
塩化ナトリウム 二七・二一三グラム
塩化マグネシウム 三・八〇七グラム
硫酸マグネシウム 一・六五八グラム
硫酸カルシウム 一・二六〇グラム
硫酸加里 〇・八六三グラム
炭酸カルシウム 〇・一二三グラム
沃化マグネシウム 〇・〇七六グラム
合計 三五・〇〇〇グラム
というふうに、いろいろなものが含まれている。この海水から、蒸発によって塩を作る時には、もちろんこの成分の割合では、塩は出てこない。各成分に溶解度の差があるので、製法によって、成分の混合割合が少しずつちがってくる。そういう方面のくわしい研究は、専売公社のほうで十分やってあるはずであるが、専門とは縁がとおいので、よく知らない。ここでは、普通の食塩は、塩化ナトリウムだけではないということがわかれば、次ぎの話に移れるのである。
食塩の副成分は、塩化マグネシウムを除いては、他はきわめて微量なものであろう。しかし味の問題では、この微量の副成分が、あんがいに重要な役割をすることがあるので、微量だからといって、無視してしまうわけにはいかない。やっかいなことには、人間の舌というものは、非常に敏感なもので、化学分析では検出が困難なくらいのごくわずかの物質でも味ではよく識別のできることがある。
昔の食通には、新しく砥いだ庖丁で作った刺身から、砥石の味をいいあてたというような話がある。それほどでなくても、いわゆる食通の人の舌は、恐るべく敏感なものであるらしい。しかしそういう例をひき出さなくても、われわれ一般の人間の舌も、あんがいに精巧な測器なのである。いろいろな物質がまざっているものの中から、味を分離して感ずる能力は、きわめて複雑な機能であろうが、そのうちいちばんわかり易いのは、各成分の舌への「拡散速度」とでもいうべきものの差を感ずる作用である。
味を悪くする一つの重大な要素は、いわゆる味が「舌に残る」ことである。粗製塩を使った沢庵でいちばん困るのは、苦味があとに残る点である。サッカリンがあまり喜ばれないのも、やはりあの後味の悪さにあるものと考えられる。ひととおり食物なり飲料なりがのどを通ったあと、あのサッカリン特有の苦味をおびた甘さが、口の中にかなりの時間残ることが、皆にきらわれるいちばん主な原因であろう。
この味が舌に残る作用は、物理的の拡散速度がちいさいだけでなく、ほかにもいろいろな生理作用があずかっているものと思われる。たとえば舌の上に残った少量の成分が、唾液のためにうすめられると、そのうちの苦味とか、その他の悪い味とかのほうが、とくに感ぜられるというようなこともあるかもしれない。いずれにしても、この舌に残る味のほうが、料理ぜんたいの味の印象を後からうち消すために、味を悪く感じさせるということは、たしかにあるようである。
前の塩の話にもどるが、苦汁のとれていない塩は、にが味があとに残るために、本当の塩の味をかくしてしまうように思われる。もっとも日本でもたいていの家では、食卓で粗製塩は使わず、いわゆる焼き塩を使う。これは塩を焼いて、六分子の結晶水をもった塩化マグネシウムを分解させたものである。分解してもマグネシウムが無くなるわけではなく、結晶水をもった普通の塩化マグネシウムが結晶水をもたない塩化マグネシウムにかわっただけである。これは水分を吸収しないので、さらさらとしている点はいいが、マグネシウムはもとどおりに存在しているのである。せっかく苦心して入手した、生きたような烏賊の微妙な味などには、焼き塩のわずかな苦味でもまだじゃまになるというようなことは、有り得る話である。単なる商業政策的の宣伝とばかりはいいきれないであろう。
ところでドーヴァーの塩であるが、標本をもらってきて分析したわけではないから、副成分のことはわからない。ただ苦味がぜんぜんないところからみて、塩化マグネシウムはほとんど完全にとり除かれていることはたしかであろう。そしてマグネシウム化合物をとりさったあとに、初めて塩の本当の味が出てくるということも、有り得る話と思われる。
ドーヴァーの塩ときいて、すぐなっとくがいったのは、英国の料理のことを思いだしたからである。英国の料理ならば、なるほど塩がよくなければならないはずであり、ああいう国では、食塩の吟味が十分よくなされていて、当然しかるべきなのである。というのは、純粋な英国の料理は、ぜんぜんといっていいほど、何も調味料は使わないのである。そして皿に盛ってから、各自が自分の好みに応じて、食卓塩をふりかけて食べる習慣になっている。食卓塩ばかりでなく、いろいろなソース類もたくさん食卓に並んでいて、好きなものをかけて食べるのである。
日本では、西洋料理というと、日本のいわゆるレストランで出すような料理を、世界中どこの国でも、食べているように思う人が多いが、けっしてそうではない。日本の西洋料理は、フランス料理の系統またはその変形であって、その他の国は、大分ようすがちがっている。とくに英国がひどくかわっているので、昔からの英国料理には、少し極端にいえば、料理法がただひとつしかないといっていいくらいである。それは肉でも野菜でも、ぜんぜん味付をしないで、そのまま天火でむしただけの料理である。英国には料理はただひとつしかない、それはローストビーフであると、よくいわれるが、あのローストビーフが、まさに英国料理の代表なのである。
野菜たとえばなっぱなど、ぜんぜん味付をしないで、そのまま天火でむしたものに、塩だけをふりかけて食べるのは、初めはひどく味気なく感ずる。しかし、一二カ月もこういう料理を毎日食べていると、しだいに英国料理の良さがわかってくる。野菜のもっている天然の美味は、こういう料理をした時に、初めてその本来の味を具現してくれるので、いかに粋を凝らしても、人工の調味でだせる味ではない。これはあとになって、すなわちK鮨へ行ってから、初めて気がついたことであるが、この英国風の料理で、もし塩がまずかったら、それはずいぶん惨めなことになるであろう。
できあがった料理に、塩をふりかけてすぐ食べるのであるから、塩の粉の一部は、まだ溶けきらないで、粒子のままでいる。それで塩は固体のままで、直接に舌に接するわけである。そういう場合には、その善し悪しが、一番はっきり感ぜられるであろう。なっぱを蒸して、苦味のあとに残る粗製塩をふりかけて食べてみた経験はまだないが、実験してみるまでもなく、これは遠慮したほうがよさそうである。
そう考えてみると、英国人が自国の料理を、天然の味を活かす点で、世界第一の料理であると自慢しているのは、ああいう塩があって初めていえることなのである。英国の塩は、海水から採るのかあるいはそれを輸入したか、それともぜんぜんちがって、岩塩から精製したものか、うかつにしてきいてこなかった。調べればすぐわかることであろうが、それほど塩に凝る気もないので、わからないままにしておく。ただ英国には岩塩の鉱床がかなりあるので、岩塩から精製したものがかなりあるであろうことは想像される。それだとマグネシウムはあまり含んでいないだろうから、ああいう良い塩が、比較的簡単にできるのであろう。海水から採った塩、すなわち海塩では、マグネシウムを完全に取り去ることは、かなり困難な操作である。少なくも全国民の日常の用に供しうるほど、多量にかつ安価に、そういう塩を作ることは、非常に困難なことであろう。
英国料理の伝統などというものも、こういうふうに考えてみると、それは良質の塩に恵まれているという物質的の条件の上にたって、初めてできあがったものともいえるであろう。もっともドイツも岩塩には非常に恵まれた国であるが、料理は英国とは相当ちがっているので、国民性ももちろん一つの要素をなしていることはたしかである。しかし英国料理の伝統ができる必要条件としては、良質の塩に恵まれている点をあげてまちがいないであろう。
天然の味を活かす点で、英国古来の料理はまさに推賞にあたいする料理である。そうかといって、日本でもああいう料理をまねるかといったら、私はあまり賛成ではない。それは日本の塩が、ああいう料理には適しないからである。しかし苦汁分の多い日本の粗塩も、またそうすてたものではない。たとえば鯛のうしおなどは、私は粗塩のほうが好きである。味をうすくすれば、あの程度の苦味もそう苦にはならず、あの味がかえって磯のかおりを連想させるよすがになる。
これは何も鯛のうしおのようなぜいたくな料理にかぎった話ではない。日本海沿岸の東北北陸の各地で、広く庶民の間に愛用されている塩魚の出し汁、というよりも秋田のしょっつる鍋といったほうがわかりよいのであるが、あの素朴にしてつつましやかな塩汁の味も、日本の粗塩から生れたものではないかと思う。東京の料理屋などで、地方名物として出されるしょっつる鍋しか知らない人の中には、何か凝った料理のように思う人もあるが、あれは一番安い粗末な料理なのである。鰯とか、はたはたとかいうような安魚を、たくさんとれる時期に多量に買いこんで濃い塩汁に煮込んで保存する。その塩辛い出し汁を醤油のかわりに使って煮物をするのが、しょっつる系統の料理なのである。
北陸東北の片田舎では、一昔前までは、醤油が一つのぜいたく品であった。しょっつるは、醤油をぜいたくな調味料と考えるような、貧しい農山漁村の人たちのものなのである。そしてその人たちと少なくも数百年の間は、一緒に育ってきたものである。そういういわばいちばん粗末な塩汁の料理にも、りっぱに独特の風趣があり、それがしょっつるに、今日までの生命を持続させてきたのであろう。
しょっつるのあの少しえがらっぽいようなうら悲しい味は、粗塩を使うところからきているもののように、私には思われる。少なくもドーヴァーの塩を使ったら、ああいう味にはなるまい。しょっつるはそううまいものではないが、あのわびた味の底には、われわれの遠い祖先のためいきがある。そしてこの日本の国は、しょっつるをなめながら、激しい勤労をしていた、名もなき民の力によって、できあがってきたものである。
しょっつるにしても、うしおにしても、考えてみれば、魚の料理である。こういう魚の料理の場合に、粗塩のほうがかえってよくあう場合があるのは、ちょっとおもしろいことである。アミノ酸とマグネシウムとはうんぬんというようなこともあるのかもしれないが、海の魚には海の塩があうといっておいたほうが、余韻があるかもしれない。もっとも微量の苦汁分がかえって風情を添えるという場合はそうたびたびではなく、塩魚などのように濃く塩を使う場合は、やはり苦汁分の少ないいわゆる良質の塩のほうがよい。食卓塩のように粉のまま使う場合は猶更のことである。
塩の味のことなどを、こうぎょうぎょうしく書きたてるのは、あまりいい趣味ではないかもしれない。へたをすると、ブルジョアくずれの趣味と誤解されるかもしれない。しかしそれは全くの間ちがいであって、塩の善し悪しにいちばん関心をもっているのは、農村や漁村の人たちである。塩魚や漬物が御馳走である人々にとっては、塩の良否は大切な問題なのである。終戦後の混乱時代に、北海道の漁村では、塩不足のために非常に困ったことがある。生鮭を闇で塩と交換してきた漁夫の一人が「二俵も手に入ったよ。しかもとてもいい塩でね」と話しているのを聞いたことがある。とてもいい塩だと度々強調していたが、その語調には、良質の塩へのあこがれの情が深くねざしていた。塩気ならなんでもよかった時代だけに、深い印象を受けた。
漬物にしても、塩魚にしても、材料の新鮮さはもちろんのことであるが、塩の良否もそれに劣らぬ大切な役割をする。良い塩を使ったそれらの食物は、大地の美味を具現してくれるが、その味は微妙なところにあるので、食物を恵みとして受けとる心がなければ、感受することができない。
農村や漁村の貧しい人々が、塩の質を重要視し、都会の比較的豊かな生活をしている人たちのほうが、かえって無関心なのは、食物に対する心がけの問題なのであろう。だから塩の味の話は、いわば貧乏話なのであって、いわゆる趣味話ではないつもりである。
底本:「中谷宇吉郎集 第七巻」岩波書店
2001(平成13)年4月5日第1刷発行
底本の親本:「黒い月の世界」東京創元社
1958(昭和33)年6月30日
初出:「オール読物 第七巻第四号」文藝春秋新社
1952(昭和27)年4月1日発行
※初出時の表題は「科学の眼(Ⅲ)」です。
入力:kompass
校正:岡村和彦
2018年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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