悪魔の紋章
江戸川乱歩
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法医学界の一権威宗像隆一郎博士が、丸の内のビルディングに宗像研究室を設け、犯罪事件の研究と探偵の事業を始めてからもう数年になる。
同研究室は、普通の民間探偵とは違い、其筋でも手古摺るほどの難事件でなければ、決して手を染めようとはしなかった。所謂「迷宮入り」の事件こそ、同研究室の最も歓迎する研究題目であった。宗像博士は、研究室開設第一年にして、すでに二つの難事件を見事に解決し、一躍その名声を高め、爾来年毎に著名の難事件を処理して、現在では、名探偵と云えば、明智小五郎か宗像隆一郎かというほどに、世に知られていた。
天才明智は、その生活ぶりが飄々としていて、何となく捉えどころがなく、気に入った事件があれば、支那へでも、印度へでも、気軽に飛び出して行って、事務所を留守にすることも多いのに反して、宗像博士の方は、明智のような天才的なところはなかったけれど、あくまで堅実で、科学的で、東京を中心とする事件に限って手がけるという、実際的なやり方であったから、期せずして市民の信頼を博し、警視庁でも、難事件が起ると、一応は必ず宗像研究室の意見を徴するという程になっていた。
事務所なども、明智の方は住宅兼用の書生流儀であったのに反して、宗像博士は、家庭生活と仕事とをハッキリ区別して、郊外の住宅から毎日研究室へ通い、博士夫人などは一度も研究室へ顔出しをしたことがなく、又研究室の二人の若い助手は、一度も博士の自宅を訪ねたことがないという、厳格極まるやり口であった。
丸の内の一郭、赤煉瓦貸事務所街のとある入口に、宗像研究室の真鍮看板が光っている。赤煉瓦建ての一階三室が博士の探偵事務所なのだ。
今、その事務所の石段を、這うようにして上って行く、一人の若い背広服の男がある。二十七八歳であろうか、その辺のサラリー・マンと別に変ったところも見えぬが、ただ異様なのは、トントンと駆け上るべき石段を、まるで爬虫類ででもあるように、ヨタヨタと這い上っていることである。急病でも起したのであろうか、顔色は土のように青ざめ、額から鼻の頭にかけて、脂汗が玉をなして吹き出している。
彼はハッハッと、さも苦しげな息を吐きながら、やっと石段を昇り、開いたままのドアを通って、階下の一室に辿りつくと、入口のガラス張りのドアに、身体をぶッつけるようにして、室内に転がり込んだ。
そこは、宗像博士の依頼者接見室で、三方の壁の書棚には博士の博識を物語るかの如く、内外の書籍がギッシリと詰まっている。室の中央には畳一畳敷程の大きな彫刻つきのデスクが置かれ、それを囲んで、やはり古風な彫刻のある肘掛椅子や長椅子が並んでいる。
「先生、先生はどこです。アア、苦しい。早く、先生……」
若い男は床の上に倒れたまま、喘ぎ喘ぎ、精一杯の声をふり絞って叫んだ。
すると、唯ならぬ物音と叫び声に驚いたのであろう、隣の実験室へ通じるドアが開いて、一人の男が顔を出した。これも三十歳程に見える若い事務員風の洋服男である。
「オヤッ、木島君じゃないか。どうしたんだ、その顔色は?」
彼はいきなり室内に駈け込んで、若者を抱き起した。
「アア、小池君か。せ、先生は? ……早く会いたい。……重大事件だ。……ひ、人が殺される。……今夜だ。今夜殺人が行われる。アア、恐ろしい。……せ、先生に……」
「ナニ、殺人事件だって? 今夜だって? 君はどうしてそれが分ったのだ。一体、誰が殺されるんだ」
小池と呼ばれた若者は、顔色を変えて木島の気違いめいた目を見つめた。
「川手の娘だ。……その次は親爺の番だ。みんな、みんなやられるんだ。……せ、先生は? 早く先生にこれを。……この中にすっかり書いてある。それを先生に……」
彼はもがくようにして、胸のポケットを探ると、一通の厚ぼったい洋封筒を取出して、やっとの思いで、大デスクの端にのせた。そして、次には同じポケットから、何かしら四角な小さい紙包を掴み出し、さも大切そうに握りしめている。
「先生は今御不在だよ。三十分もすればお帰りになる筈だ。それよりも、君はひどく苦しそうじゃないか。どうしたというんだ」
「あいつに、やられたんだ。毒薬だ。アア、苦しい。水を、水を……」
「よし、今取って来てやるから、待ってろ」
小池は隣室へ飛んで行って、化学実験用のビーカーに水を入れて帰って来ると、病人を抱えるようにして、それを飲ませてやった。
「しっかりしろ。今医者を呼んでやるから」
彼は又病人の側を離れて、卓上電話にしがみつくと、附近の医院へ至急来診を頼んだ。
「すぐ来るって。ちょっとの間我慢しろ。だが、一体誰にやられたんだ。誰が君に毒なんか飲ませたんだ」
木島は、半ば白くなった目を見はって、ゾッとするような恐怖の表情を示した。
「あいつだ。……三重の渦巻だ。……ここに証拠がある。……こいつが殺人鬼だ。アア、恐ろしい」
彼は歯を喰いしばって、もがき苦しみながら、右手に握った小さな紙包みを示した。
「よし、分った。この中に犯人の手掛りがあるんだな。しかし、そいつの名は?」
だが、木島は答えなかった。もう両眼の虹彩が上瞼に隠れてしまっていた。
「オイ、木島君、木島君、しっかりしろ、名だ。そいつの名を云うんだ」
いくら揺すぶっても、木島の身体は水母のように手応えがなかった。
可哀想に、宗像研究室の若き助手木島は、捜査事業の犠牲となって、遂に無残の最期をとげたのであった。
五分程すると、附近の医師が来診したが、最早や脈搏も鼓動も止った木島を、どうすることも出来なかった。
待ち兼ねた宗像博士が研究室に帰って来たのは、それから四十分程のちであった。
博士は見たところ四十五六歳、黒々とした頭髪を耳の辺で房のように縮らせ、ピンとはねた小さな口髭、学者臭く三角に刈った濃い顎髯、何物をも見透す鷲のように鋭い目には、黒鼈甲縁のロイド眼鏡をかけ、大柄なガッシリした身体を、折目正しい夏のモーニングに包んで、少し反り身になって、大股に歩を運ぶところ、如何にも帝政独逸時代の医学博士という趣きであった。
博士は小池助手から、事の次第を聞き取ると、痛ましげに愛弟子のなきがらを見おろしながら、
「実に気の毒なことをした。木島君の家へは知らせたかね」
と、小池助手に訊ねた。
「電報を打ちました。やがて駈けつけて来るでしょう。それから警視庁へも電話しました。中村さん驚いてました。すぐ来るということでした」
「ウン、中村君も僕も、川手の事件が、こんなことになろうとは、想像もしていなかったからね。中村君なんか、被害妄想だろうって、取り合わなかったくらいだ。それが、木島君がこんな目に合う程では、余程大物らしいね」
「木島君は、何だか非常に怖がっていました。恐ろしい、恐ろしいと言いつづけて死んで行きました」
「ウン、そうだろう。予告して殺人をするくらいの奴だから、余程兇悪な犯人に違いない。小池君、外の事件は放って置いて、今日からこの事件に全力を尽そう。木島君の敵討ちをしなけりゃならないからね」
話しているところへ、慌しい靴音がして、警視庁の中村捜査係長が入って来た。鼠色の背広姿である。
彼は木島の死体を見ると、帽子を取って黙礼したが、驚きの表情を隠しもせず、宗像博士を顧みて云った。
「こんなことになろうとは思いもよらなかった。油断でした。あなたの部下をこんな目に合わせて、実に何とも申訳ありません」
「イヤ、それはお互です。僕だって、これ程の相手と思えば、木島君一人に任せてなんぞ置かなかったでしょうからね」
「電話の話では、木島君は何か犯人の手掛りを持って帰ったということでしたが」
係長が小池助手を振返った。
「エエ、これです。この封筒の中に詳しく報告を書いて置いたと云っていました」
小池が大デスクの上の例の洋封筒を取って差出すのを、宗像博士が受取って、裏表を調べながら呟いた。
「オヤ、この封筒は銀座のアトランチスの封筒じゃないか。すると、木島君はあのカフェで、用紙と封筒を借りて、これを書いたんだな」
如何にも、封筒の隅に、カフェ・アトランチスの名が印刷されていた。
博士は卓上の鋏を取って、丁寧に封筒の端を切ると、厚ぼったい書翰箋を抜き出して、開いて見た。
「オイ、小池君、確かにこれに違いないね? 君は何か思い違いをしてやしないかね。それとも、木島君が倒れてから、誰かこの部屋へ入ったものはなかったかね」
博士が妙な顔をして、小池助手にただした。
「イイエ、僕は一歩もこの部屋を出ませんでした。誰も来たものなぞありません。どうかしたのですか。その封筒は確かに木島君が内ポケットから出して、そこへ置いたままなんです」
「見給え、これだ」
博士は用箋を中村係長と小池助手の前に差出して、パラパラとめくって見せたが、不思議なことに、それはただの白紙の束に過ぎなかった。文字なぞ一字も書いてはないのだ。
「変だなア、まさか木島君が、白紙を封筒に入れて、大切そうに持って来る訳はないが」
中村氏が、狐につままれたような顔をした。
宗像博士は、唇を噛んで暫く黙っていたが、突然、白紙の束を紙屑籠に投げ入れると、決定的な口調で云った。
「小池君、すぐアトランチスへ行って、木島君が用紙と封筒を借りたあとで、誰かと話をしなかったか、同じテーブルに胡乱な奴がいなかったか調べてくれ給え。そいつが犯人か、少くとも犯人の相棒に違いない。木島君の油断している隙に、報告書の入った封筒と、この白紙の封筒とすり換えたんだ。毒を飲ませたのも、同じ奴かも知れない。出来るだけ詳細に調べてくれ給え」
「承知しました。しかし、もう一つ、木島君が持って来たものがあるんです。死体の右手をごらん下さい。そこに掴んでいるものは、余程大切な証拠品らしいんです。……では、僕失礼します」
小池助手はテキパキと云い捨てて、帽子を掴むと、いきなり外へ飛び出して行った。
小池助手を見送ると、宗像博士は死体の上に屈んで、その手を調べた。小さな紙包を握っている。死んでもこれだけは手放すまいとするかの如く、固く固く握りしめている。博士は死人の指を一本一本引きはなして、やっとそれをもぎ取ることが出来た。
何か小さな板切れのようなものが、丁寧に幾重にも紙を巻いて、紐でくくってある。博士は隣りの実験室から、一枚のガラス板を持って来て、紙包をその上に乗せ、なるべくそれに手をふれないように、ナイフとピンセットを使って、紐を切り、紙を解いて行った。
博士も無言、それをじっと見つめている捜査係長も無言、ただ時々ナイフやピンセットがガラス板に触れて、カチカチと小さな音を立てるばかり、まるで、手術室のような薄気味悪い静けさであった。
「なあんだ、靴箆じゃありませんか」
中村係長が頓狂な声を出した。如何にも紙包の品物は、一枚の小型の象牙色をしたセルロイド製のありふれた靴箆である。
木島助手は気でも違ったのであろうか。封筒の中へ大切そうに白紙の束を入れていたかと思うと、今度は御丁寧な靴箆の紙包だ。一体こんなものに何の意味があるというのだろう。
しかし、博士は別に意外らしい様子もなく、さも大切そうに、その靴箆の端をソッと摘むと、窓からの光線にすかして見たが、その時分にはもう、窓の外に夕闇が迫っていて、十分調べることが出来なかったので、部屋の隅のスイッチを押して電燈をつけ、その光の下で、靴箆を入念に検査した。
「指紋ですか」
中村係長が、やっとそこへ気がついて訊ねた。
「そうです。しかし……」
博士は吸いつけられたように靴箆の表面に見入って、振り向こうともしないのである。
「外側の指紋は皆重なり合っていて、はっきりしないが、内側に一つだけ、非常に明瞭な奴がある。拇指の指紋らしい。オヤ、これは不思議だ。中村君、実に妙な指紋ですよ。僕はこんな不思議な指紋を見たことがない。まるでお化けだ。それとも僕の目がどうかしているのかしら」
「どれです」
中村氏が近づいて、博士の手元を覗き込んだ。
「ホラ、こいつですよ。すかしてごらんなさい。完全な指紋でしょう。別に重なり合ってはいない。しかし、ホラ、渦が三つもあるじゃありませんか」
「そういえば、なる程、妙な指紋らしいが、このままじゃ、よく見分けられませんね」
「拡大して見ましょう。こちらへ来て下さい」
博士は靴箆を持って、先に立って隣りの実験室へ入って行った。中村係長もそのあとにつづく。
十坪程の部屋である。一方の窓に面して大きな白木の化学実験台があり、その上に大小様々のガラス器具、顕微鏡などが置かれ、一方には夥しい瓶の並んだ薬品棚が立っている、化学実験室と調剤室とを一緒にしたような眺めだ。
又別の隅には、大型写真器、紫外線、赤外線、レントゲンの機械まで揃っている。それらの間に、黒い幻燈器械の箱が、頑丈な三脚にのせて置いてある。実物幻燈器械なのだ。これによって指紋は元より、あらゆる微細な品物を拡大して、スクリーン上に映し出すことが出来る。指紋は紙や板に捺されたものと限らない。ガラス瓶であろうが、ドアの把手であろうが、コップであろうが、ピストルであろうが、それらの実物の指紋の部分を、直ちに拡大して映写することが出来る。博士自慢の装置である。
中村捜査係長は、この部屋へは度々入ったことがあるのだが、入る度毎に、まるで警視庁の鑑識課をそのまま縮小したようだと感じないではいられなかった。イヤ、この部屋には鑑識課にもないような、宗像博士創案の奇妙な器械も少くはないのだ。
博士は先ず靴箆を実験台の上に置いて、指紋の部分に黒色粉末を塗り、隆線を黒く染めてから、窓の紐を引いて厚い黒繻子のカーテンを閉め、部屋を暗室にすると、幻燈内の電燈を点火し、靴箆を器械に挿入して、ピントを合せた。
忽ち部屋の一方の壁のスクリーン上に、巨大な指紋の幻燈が映し出された。五分にも足らぬ拇指の指紋が、三尺四方程に拡大され、指紋の隆線の一本一本が黒い紐のように渦巻いている。
博士も係長も、暗闇の中でじっとそれを見つめたまま、暫くは口を利くことさえ出来なかった。二人とも、指紋ではなくて、何かしらえたいの知れぬ化物に睨みつけられているような、不思議な気味悪さを感じたからだ。
アア、何という奇怪な指紋であろう。一箇の指紋に三つの渦巻があるのだ。大小二つの渦巻が上部に並び、その下に横に長い渦巻がある。じっと見ていると、異様な生きものの顔のように見えて来る。上部の二つの渦巻は怪物の目玉、その下の渦巻はニヤニヤと笑った口である。
「中村君、こんな指紋を見たことがありますか」
闇の中から、博士の低い声が訊ねた。
「ありませんね。僕も相当色々な指紋を見ていますが、こんな変な奴には出くわしたことがありません。指紋の分類では変態紋に属するのでしょうね。渦巻が二つ抱き合っているのは、たまに出くわしますが、渦巻が三つもあって、こんなお化みたいな顔をしている奴は、全く例がありません。三重渦状紋とでも云うのでしょうか」
「如何にも、三重渦状紋に違いない。これはもう隆線を数えるまでもありませんよ。一目で分る。広い世間に、こんな妙な指紋を持った人間は、二人とあるまいからね」
「拵えたものじゃないでしょうね」
「イヤ、拵えたものでは、こんなにうまく行きませんよ。この位に拡大して見れば、拵えものなれば、どこか不自然なところがあって、じき見破ることが出来るのですが、これには少しも不自然な点がない」
そして、闇の中の二人は、目と口のある巨大な指紋に圧迫されたかの如く、又黙り込んでしまった。
暫らくして、中村係長の声。
「それにしても、木島君は、この妙な指紋をどうして手に入れたのでしょう。この靴箆が犯人の持物とすれば、木島君は犯人に会っている訳ですね。直接犯人から掠めて来たものじゃないでしょうか」
「そうとしか考えられません」
「残念なことをしたなア。木島君さえ生きていてくれたら、易々と犯人を捉えることが出来たかも知れないのに」
「犯人はそれを恐れたから、先手を打って毒を呑ませ、その上、報告書まで抜き取ってしまったのです。実に抜け目のない奴だ。中村君、これは余程大物ですよ」
「あの強情な木島君が、恐ろしい恐ろしいと云いつづけていたそうですからね」
「そうです。木島君は、そんな弱音を吐くような男じゃなかった。それだけに、僕らは余程用心しなけりゃいけない。……川手の家は、あなたの方から手配がしてありますか」
博士は心配らしく、せかせかと訊ねた。
「イヤ、何もして居りません。今日までは川手の訴えを本気に受取っていなかったのです。しかし、こうなれば、捨てては置けません」
「すぐ手配をして下さい。木島君をこんな目に合せたからは、犯人の方でも事を急ぐに違いない。一刻を争う問題です」
「おっしゃるまでもありません。今からすぐ帰って手配をします。今夜は川手の家へ三人ばかり私服をやって、厳重に警戒させましょう」
「是非そうして下さい。僕も行くといいんだけれど、死骸を抛って置く訳に行きません。僕は明日の朝、川手氏を訪問して見ることにしましょう」
「じゃ、急ぎますから、これで」
中村係長は云い捨てて、あたふたと夕闇の街路へ駈け出して行った。
あとに残った宗像博士は、幻燈の始末をすると、指紋の靴箆をガラスの容器に入れて、鋼鉄製の書類入れの抽斗に納め、厳重に鍵をかけた。次の間には、部下の無残な死体が、元のままの姿で横たわっている。今に家族のものが駈けつけて来るであろう。又検事局から検視の一行も来るであろう。しかし、それを待つ間、このままの姿では可哀想だ。
博士は奥の部屋から一枚の白布を探し出して来て、黙祷しながら、それをフワリと死体の上に着せてやった。
H製糖株式会社取締役川手庄太郎氏は、ここ一カ月ほど前から、差出人不明の脅迫状に悩まされていた。
「拙者は貴殿に深き恨みを抱くものである。長の年月を、拙者は、ただ貴殿への復讐準備の為に費して来た。今や準備は全く整った。愈々恨みをはらす時が来たのだ。貴殿一家は間もなく鏖に会うであろう。一人ずつ、一人ずつ、次々と世にもいまわしき最期をとげるであろう」
という意味の手紙が、毎日のように配達された。一通毎に筆蹟が違っていた。ひどく下手な乱暴な書体であった。差出局の消印もその度毎に違っていたし、封筒も用紙も最もありふれた安物で、全く差出人の所在をつきとめる手掛りがなかった。
脅迫は必ずしも手紙ばかりではなかった。ある時は電話口にえたいの知れぬ声が響いた。
「川手君、久しぶりだなア。僕の声が分るかね、ホホホホホホ。君には美しい娘さんが二人あるねえ。僕はね、先ず手初めに、その娘さんの方から片づけることに極めているんだよ。ホホホホホホ」
非常に優しい鼻声であった。恐らく電話口で鼻を抑えて物を云っていたのであろう。彼は一言喋る度に、ホホホホホホホと女のように笑ったが、その奇妙な笑い声が川手氏を心の底から震い上らせてしまった。
無論声には聞き覚えがなかった。局に問合せて見ると、自働電話からという答えで、やっぱり相手の正体を掴む手掛りがなかった。
川手氏は今年四十七歳、無一文から現在の資産を築き上げた人物だけに、事業上の敵などは数知れずあったし、事業以外の関係でも、随分むごたらしい目に会わせた相手がないではなかった。だが、それらの記憶を一つ一つ辿って見ても、今度の脅迫者を探し当てることは出来なかった。
「若しやあれでは?」
と思われるものが一二ないではなかったけれど、それらの相手は皆死んでしまっているし、子孫とても残っていないことが分っていた。いくら考えても脅迫者の素性が分らぬだけに、一層不気味であった。前半生にいじめ抜いた相手が、怨霊となって彼の身辺にさまよっているような、何とも云えぬ恐怖を感じないではいられなかった。
川手氏は遂に堪らなくなって、このことを警視庁に訴え出た。だが警視庁では、所轄警察署へよく話して置くからというような返事をしたまま、一向取合ってくれないので、次には民間探偵を物色し、先ず明智小五郎の事務所へ使を出したが、明智氏はある重大犯罪事件の為に、朝鮮に出張中で、急に帰らないという返事であった。そこで、今度は明智探偵と並び称せられる宗像博士に犯人捜査を依頼したところ、博士の助手の木島という若い探偵が訪ねて来て、一伍一什を聞き取った上、捜査に着手したのであった。
それから十日余りの昨夜、川手氏は突然中村捜査係長の訪問を受け、宗像探偵事務所の木島助手変死の次第を聞かされ、今更のように震え上った。
そして、その夜は三名の私服刑事が、徹宵邸の内外の見張りをしてくれることになったが、しかし、この警視庁の好意はもう手おくれであった。
夕刻から友達を訪問するといって出かけた次女の雪子さんが、十時を過ぎ十一時を過ぎ、深夜となっても帰らなかった。友達の家は元より、心当りという心当りを電話や使いで探し廻ったが、友達の家を辞去したのが八時頃と分ったばかりで、その後の消息は杳として知れなかった。
不安の一夜が明けて翌朝、麻布区の高台にある川手邸は、急を聞いて馳せつけた親戚知己の人々で、広い邸内も一方ならぬ混雑を呈していたが、その中に、第一号応接室の洋間には、中村捜査係長と宗像博士と主人川手庄太郎氏の三人が、青ざめた顔を見合せて、善後の処置を協議していた。係長と博士とは、事件の報告を受けると、取るものも取りあえず、早朝から川手邸を訪問したのである。
川手氏は半白の頭髪を五分刈りにして、半白の口髭を貯え、濃い眉、大きな目、デップリと太った、如何にも重役型の紳士であったが、いつも艶々と赤らんでいる豊頬も、今日は色を失っているように見えた。
同氏は、一年程前夫人に先立たれたまま、後添いも娶らず、二人の娘と水入らずの家庭を楽しんでいたのだが、その愛嬢の一人が、何物とも知れぬ殺人鬼の手中に奪い去られたかと思うと、流石の川手氏も狼狽しないではいられなかった。
川手氏と宗像博士は初対面であった。川手氏は、木島助手の変死の悔みを述べ、遺族に対して出来るだけのことをしたいと申出で、博士の方では、この重大事件を、助手任せにして置いた手落ちを詫びた。
「承わると、犯人は妙な三重の渦巻の指紋を持った奴だということですが……」
川手氏はそれを聞き知っていた。
「そうです。三つの渦巻が上に二つ、下に一つと三角型に重なっているのです。若しや、古いお知合いに、そんな指紋を持っている人物のお心当りはないでしょうか」
博士が訊ねると、川手氏は頭を振って、
「それが全く心当りがないのです。指紋などという奴は、いくら親しくつき合っていても、気のつかぬ場合が多いものですからね」
「しかし、これ程の復讐を企てているのですから、あなたに余程深い恨みを持っている奴に違いありません。そういう点で、何かお心当りがなければならないと思うのですが」
宗像博士は、やはり少し青ざめた顔をして、じっと川手氏を見た。そこから、この資産家の旧悪を探り出そうとでもするように、鋭い目で相手の表情を見つめた。
「イヤ、そりゃ、わたしを恨んでいる人間がないとは申しません。しかし、これ程の復讐を受ける覚えはないのです。そんな相手は全く心当りがないのです」
川手氏は、博士の疑い深い質問に、少し怒りをあらわして答えた。
「ですがね、恨みという奴は、恨まれる方では左程に思わなくても、恨む側には何層倍も強く感じられる場合が、往々あるものですからね」
「なる程、そういうこともあるでしょうね。さすが御商売柄、犯罪者の気持はよく御承知でいらっしゃる。しかし、わたしには、どう考えて見ても、そんな心当りはありませんね」
川手氏は益々不快らしく云い放った。
「あなたの方にお心当りがないとしますと、例の指紋が、今のところ、唯一の手掛りですね。実は昨夜のうちに、警視庁の指紋原紙を十分調べさせたのですが、十五年勤続の指紋主任も、三重の渦状紋なんて見たことも聞いたこともない。指紋原紙の内には、無論そんなものはないということでした」
「化け物だ」
宗像博士が、何か意味ありげに、低い声で呟いた。それを聞くと、川手氏は脅えたように、キョロキョロとあたりを見廻した。さりげなく装っているけれど、心の底では、何者か思い当る人物があるらしく見える。
「中村さん、宗像さんも、何とかして娘を取戻して下さる訳には行かんでしょうか。費用はいくらかかっても、すっかりわたしが負担します。懸賞をつけてもよろしい。そうだ、犯人を発見し、娘を取返して下さった方には、五千円の賞金を懸けましょう。警察の方でも、民間の方でも構いません。娘を安全に取戻して下さればいいのです。わたしは一秒でも早く娘の無事な顔が見たいのです」
川手氏は感情の激しい性格と見えて、喋っているうちに段々興奮して、遂には半狂乱の体であった。
「なる程、懸賞とはよい思いつきですが、悪くすると手遅れかも知れませんね。……僕はさっきから、あの窓の下に落ちている封筒が気になって仕方がないのだが……」
宗像博士は一方の窓の下の床を、意味ありげに見つめながら、独言のように云った。
その声に、何かゾッとさせるような響がこもっていたので、あとの二人は驚いて、その方へ目をやった。如何にも一通の洋封筒が落ちている。
それを一目見ると、川手氏の顔色がサッと変った。
「オヤ、おかしいぞ。つい今し方まで、あんなものは落ちていなかったのですよ。それに、わたしの家には、あんな型の封筒はなかった筈だ」
云いながら、ツカツカと窓の側へ立って行って、その封筒を拾い上げ、気味悪そうに眺めていたが、いきなり呼鈴を押して女中を呼んだ。
「お前、今朝ここを掃除したんだね。この窓の下にこんなものが落ちてたんだが」
女中が顔を出すと、川手氏は叱りつけるように聞きただした。
「イイエ、アノ、わたくし、十分注意して掃除しましたけれど、何も落ちてなんかいませんでございました」
「確かかね」
「エエ、本当に何も……」
若い女中は、いかめしい二人の客の姿におびえて、頬を赤らめながら、しかし、キッパリと答えた。
「誰かが、窓の外から投げ込んで行ったのではありませんか」
中村警部が不安らしく瞬きしながら云った。
「イヤ、そんな筈はありません。ごらんの通りこちら側の窓は閉め切ってあります。封筒をさし入れるような隙間もありません。それに、この外は内庭ですから、家のものしか通ることは出来ないのです」
川手氏は魔術でも見たように、脅え切っていた。
「封筒がここへ入って来た経路は兎も角として、中を改めて見ようじゃありませんか」
宗像博士は一人冷静であった。
「お調べ下さい」
川手氏は、自ら開封する勇気がなく、封筒を博士の方へさし出した。博士は受取って、注意深く封を開き、一枚の用紙を拡げた。
「オヤ、これは何の意味でしょう」
そこには、ただ五文字、
と記してあるばかり、さすがの博士も、その意味を解し兼ねたように見えた。
「オオ、いつもの封筒です。いつもの用紙です。犯人からの通信に違いありません」
川手氏が、やっと気附いたように叫んだ。
「犯人の手紙ですって、それじゃこれは……」
「中村君、行って見よう。これからすぐ行って見よう」
博士は何を思ったのか、中村警部の腕を取らんばかりにして、惶しく促すのだ。
「行くって、どこへです」
「極っているじゃないか。衛生展覧会へですよ」
「しかし、衛生展覧会なんて、どこに開かれているんです」
「U公園の科学陳列館さ。僕は、あすこの役員になっているので、それを知っているんだが、今衛生展覧会というのが開かれている筈なんです。サア、すぐに行って見ましょう」
中村係長にも、おぼろげに博士の考えが分って来た。この素人探偵は何という恐ろしいことを考えるのだろうと、殆んどあっけに取られる程であったが、兎も角愚図愚図している場合でないと思ったので、博士と共に、門前に待たせてあった警視庁の自動車に乗り込んで、U公園の科学陳列館へ走らせた。
川手氏は両人の気違いめいた出発を、あっけにとられて眺めていたが、雪子の行方不明と衛生展覧会とを、どう考えても結びつけることが出来ず、しかし、分らなければ分らないだけに、何ともえたいの知れぬ気味悪さが、黒雲のように心中に湧き起って来て、不安と焦慮に、居ても立ってもいられぬ心持であった。
自動車が科学陳列館へ着くと、宗像博士と中村捜査係長とは、陳列館の主任に事情を話し、その案内で、三階全体を占める衛生展覧会場へ、惶しく昇って行った。
早朝のこととて、広い場内には、観覧者の姿もなく、コンクリートの柱、磨き上げたリノリューム、そこに並べられた大小様々のガラス張りの陳列台が、まるで水の底に沈んでいるように、冷えびえと静まり返っていた。
場内の一半には医療器械、一半には奇怪な解剖模型や、義手義足や、疾病模型の蝋人形などが陳列してある。三人はそれらの陳列棚の間を、グルグルと急がしく歩き廻った。
毒々しく赤と青で塗られた、四斗樽ほどもある心臓模型、太い血管で血走ったフットボールほどの眼球模型、無数の蚕が這い廻っているような脳髄模型、等身大の蝋人形を韓竹割にした内臓模型、長く見つめていると吐き気を催すような、それらのまがまがしい蝋細工の間を、三人は傍目もふらず歩いて行く。目ざすところは、疾病模型の蝋人形なのだ。
何々ドラッグ商会の例の不気味な蝋人形は、もともと衛生展覧会などの蝋人形の効果から思いついたものであった。疾病の蝋人形というものには、それ程のスリルがあるのだ。恐ろしい病毒の吹出物、ニコチンやアルコールの中毒で、黄色くふくれ上った心臓の模型などは、健康者を忽ち病人にしてしまう程の、恐ろしい心理的効果を持っている。
それらの陳列棚の中に、一際目立つ大きなガラス箱があった。上部と四方とを全面ガラス張りとした長方形の陳列台である。
宗像博士は、遠くからそのガラス箱を見つけると、真直ぐにその方へ近づいて行った。そして、三人はその寝棺のようなガラス箱の前に立った。
ガラス箱の中には、等身大の若い女が、腰部を白布に蔽われて、全裸の姿を曝していた。遠い窓からの薄暗い光線では、十分見分けられない程であるが、しかし、何となく生きているような蝋人形である。
「どうして、こんなものを陳列するのですか。別に病気の模型らしくもないじゃありませんか。美術展覧会の彫刻室へ持って行った方が、ふさわしい位だ」
博士が主任を顧みて訊ねた。すると、主任は如何にも恐縮した体で、オズオズと、
「いつの展覧会にも、こういう完全な人形が一つ位まぎれ込むものです。模型師の道楽なんですね。この人形も今朝暗い内に運び込まれたばかりで、つい今し方蔽い布を取って見て驚いた位なんです。若しなんでしたら、別の模型と置き換えることに致しますが」
と弁解しながら、中村警部をチロチロと横目で眺めた。
「イヤ、それにも及ばないだろうが、しかし、この人形は実によく出来ているね。それに非常な美人だ。この乳のふくらみなんか、職人の仕事とは思われぬ程ですね」
博士と中村警部とは、熱心にガラス箱の中を覗き込んでいたが、やがて、何を発見したのか、警部が頓狂な声を立てた。
「オヤッ、この人形には産毛が生えている。ホラ、顎のところをごらんなさい。腕にも、腿にも」
ようやく薄暗い光線に慣れた人々は、裸体人形の全身に、銀色に光る、目に見えない程の産毛を見分けることが出来た。
三人は余りの薄気味悪さに、黙りかえって顔を見交すばかりであったが、宗像博士は、ふと何かに気づいたらしく、ポケットから拡大鏡を取出して、ガラス箱の表面の或る一点を覗き込んだ。
「中村君、一寸ここを覗いてごらんなさい」
云われるままに、レンズを受け取って、ガラスの表面を覗いた係長は、覗くが否や、はじき返されたように、その側を離れて、嗄れた声で叫んだ。
「アア、三重渦状紋だ」
如何にも、そのガラスの表面には、昨夜幻燈で見たのとソックリのお化け指紋が、まざまざと現われていたのである。
「君、この蓋を開けて下さい」
博士が呶鳴るまでもなく、主任もそれに気づいて、もう真青になりながら、ポケットの鍵で、ガラス箱の蓋を開いた。
「人形の肌に触ってごらんなさい」
主任はオズオズと、人差指を人形に近づけ、その腹部に触って見た。触ったかと思うと、悲鳴のような叫び声を立てて、飛びのいた。
人形の肌は、まるで腐った果物のようにブヨブヨと柔かかったからである。そして氷のように冷たかったからである。
三人は暫くの間言葉もなく茫然と顔見合せていた。死体をガラス箱に入れて、衆人の目に曝すという、余りにも奇怪な着想に、流石の犯罪専門家達もあっけにとられてしまったのだ。
「ごらんなさい。この死体には全身に化粧が施してある。唇なんかも念入りにルージュが塗ってある。蝋人形らしくするのに、こんな手数をかけたのですね」
中村係長が感に堪えたように口を切った。
如何にもそれは死体とは考えられぬ程艶めかしい色艶であった。犯人は死体化粧によって、そこに一つの芸術品を創造したのだ。彼が人なき部屋、ほの暗き燈火の下で、死体とたった二人のさし向い、ギラギラと目を光らせ、唇をなめずりながら、絵筆を執って、悪魔の美術品製作に余念のない有様が、まざまざと瞼の裏に浮かんで来るように感じられた。
博士も警部も、川手雪子の顔を知らなかったけれど、種々の事情を考え合せて、この艶めかしい死体こそ、捜索中の雪子さんであることは明かであった。何よりの証拠は、ガラス箱の表面に残されていた悪魔の指紋である。あの怪物の顔のように見える三重渦状紋である。こんな気違いめいた怪指紋を持った奴が、外にある筈はないからだ。
「恐ろしい犯罪だ。僕は永年犯罪を手がけて来たけれど、こんなのは初めてですよ。気違い沙汰だ。この犯人は復讐にこり固まって、精神に異状を来たしているとしか考えられませんね」
中村警部が沈痛な面持で呟いた。
「イヤ、気違いというよりも寧ろ天才です。邪悪の天才です。これほど効果的な復讐があるでしょうか。自分の娘が惨殺されたばかりか、その死体が、しかも裸体の死体が、展覧会に陳列されているのを見る父親の心持はどんなでしょう。こんなずば抜けた復讐が、並々の犯罪者なんかに思いつけるものじゃありません」
宗像博士は、犯人を讃美するような口調でさえあった。博士は今、この稀代の大悪人、絶好の敵手を見出して、武者震いを禁じ得ない体であった。鋭い両眼は、まだ見ぬ大敵への闘志に、爛々と輝き初めたかと見えた。
「ところで、この死体は雪子さんに違いないと思いますが、尚念のために川手氏にここへ来て貰ってはどうでしょうか。僕が電話をかけましょう。それから、僕としては直様検死の手続きをしなければなりません。それも一緒に電話をかけましょう」
中村警部はそう云って、係員に電話の所在を訊ねた。
「それと、もう一つ大切なことがあります。この死体を出品した人形製作者を取調べることです。事務所の帳簿を調べて、すぐそこへ人をやるのですね」
博士が注意すると、警部は肯いて、
「如何にもそうでした。よろしい。電話の序に刑事を呼んで、すぐ調査に着手させましょう」
と云い捨て、そそくさと階下の電話室へ降りて行った。
科学陳列館は、直ちに一般観衆の入場を禁止して、現場保存に力め、博士と捜査係長と数名の係員とが、ボソボソと小声に囁き交しながら待つうちに、やがて、真青になった川手氏が自家用車を飛ばして駈けつけたのを先頭に、警視庁捜査課、鑑識課の人々、裁判所の一行、所轄警察署の人々と次々に来着し、それにつづいて、耳の早い新聞記者の一団が、陳列館の玄関に押しかけるという騒ぎとなった。
川手氏は、死体を一目見ると、目をしばたたきながら、雪子さんに相違ないことを証言した。それから警察医の検死、鑑識課員の指紋検出、訊問と、取調べは型通りに進んで行ったが、雪子さんの死因が毒殺らしいこと、死後八九時間しか経過していないことなどが推定された外は、別段の発見もなかった。例の怪指紋は宗像博士が発見したものの外には一つも検出されなかった。
その取調べの最中、現場に立合っていた宗像博士のところに、惶しく一枚の名刺がとりつがれた。博士はそれをチラッと見ると、すぐさま傍らにいた中村捜査係長に囁いた。
「助手の小池君がやって来たのですよ。例のカフェ・アトランチスの件で至急に会いたいというのです。態々こんなところまで追っかけてくる程だから、恐らく何か大きな手掛りを掴んだのでしょう。別室を借りて報告を聞こうと思いますが、あなたも来ませんか」
「アトランチスというと、木島君が手紙を書いたカフェですね」
「そうです。あの手紙を白紙とすり換えた奴が分ったかも知れません」
「それは耳よりだ。是非僕も立合わせて下さい」
警部はそこにいた係員に耳打ちして、階下の応接室を借り受けることにし、小池助手をそこに通すように頼んだ。
二人が急いで応接室に入って行くと、背広姿の小池助手が、緊張に青ざめて待ちうけていた。
「先生、又大変なことが起ったらしいですね。……川手さんのお宅ではないかと思って、電話をかけますと、川手さんは先生に呼ばれてここへ来られたという返事でしょう。それで、先生のお出先がやっと分ったのです」
「ウン、突然ここへ来るようなことになったものだからね。事務所へ知らせて置く暇がなくて……ところで、用件は?」
博士が訊ねると、小池はグッと声を落して、
「犯人の風体が分ったのです」
と、得意らしく囁いた。
「ホウ、それは早かったね。で、どんな奴だね」
「昨夜あれからアトランチスへ行ったところが、ひどく客が込んでいて、ゆっくり話も出来なかったものですから、今日もう一度出掛けて見たのです。女給達がやっと目を覚ましたばかりのところへ飛び込んで行ったのです。
すると、丁度木島君のお馴染の女給が居合せて、昨日のことをよく覚えていてくれました。木島君は午後三時頃あのカフェへ行って、飲物も命じないで、用箋と封筒を借りて、しきりと何か書いていたそうです。それを書き終ると、ホッとしたように女給を呼んで、好きな洋酒を命じ、それから二十分ばかりいて、プイと出て行ってしまったというのです」
「それで、その時木島君の近くに、怪しい奴はいなかったのかね」
「いたのですよ。女給はよく覚えていて、その男の風采を教えてくれましたが、何でも年は三十五六位、小柄な華奢な男で、青白い顔に大きな黒眼鏡をかけていたといいます。髭はなかったそうです。服装は、黒っぽい背広で、カフェにいる間、まぶかに冠った鳥打帽を一度も脱がなかったといいます。
その男が、木島君が手紙を書き終った頃、隣の席へ移って来て、何だか慣れなれしく木島君に話しかけ、別にシェリー酒を命じて、木島君に勧めたりしていたそうです。恐らくそのシェリー酒の中へ毒薬を混ぜたのではないでしょうか」
「ウン、どうやらそいつが疑わしいね。しかし女給の漠然とした話だけでは、そのまま信じる訳にも行かぬが……」
「イヤ、女給の話だけじゃありません。僕は動かすことの出来ない証拠品を手に入れたのです」
「エッ、証拠品だって?」
博士も中村警部も、思わず膝を乗り出して、相手の顔を見つめた。
「そうです。ごらん下さい。このステッキです」
小池はそう云いながら、部屋の隅に立てかけてあった黒檀のステッキを持って来て、二人の前にさし出した。見れば、その握りの部分全体に、厚紙を丸くして被せてある。
「指紋だね」
「そうです。消えないように、十分用心して来ました」
丸めた厚紙をとると、下から銀の握りが現われて来た。
「ここです。ここをごらん下さい」
小池は握りの内側を指さしながら、ポケットから拡大鏡を取出して博士に渡した。博士はそれを受取って、示された部分に当てて見る。警部が無言で横からそれを覗き込む。
「オオ、三重渦状紋だ!」
木島助手が持帰った靴箆に残っていたのと、寸分違わぬお化けの顔が笑っていた。
「このステッキは?」
「その黒眼鏡の男が忘れて行ったのです」
「そいつはアトランチスの定連かね」
「イイエ、全く初めての客だったそうです。木島君が帰ると、間もなくそいつも店を出て行ったそうですが、今朝になっても、ステッキを取りに来ないということです。多分永久に取りに来ないかも知れません」
アア、小柄で華奢な黒眼鏡の男。そいつこそ稀代の復讐鬼なのだ。お化けのような三重渦巻の怪指紋を持った悪魔なのだ。
「とりあえず、それだけ御報告しようと思って。それから、このステッキを先生にお調べ願いたいと思いまして、急いでやって来たのです。もう風采が分ったからには、何としてでも、そいつの足取りを調べて見ます。そして、悪魔の巣窟を突きとめないで置くものですか。では、僕、これで失礼します」
「ウン、抜け目なくやってくれ給え」
博士に励まされて、若い小池助手はいそいそと陳列館を出て行った。
それから間もなく、死体陳列事件の取調べも終り、そこに集っていた人々は、それぞれ引取ることになったが、宗像博士は中村係長の承諾を得て、黒檀のステッキを研究室に持帰り、拡大鏡によって綿密な検査をしたけれど、ごくありふれた安物のステッキで、製造所のマークもなく、例の怪指紋の外にはこれという手掛りも得られなかった。
雪子さんの死体は直ちに大学に運ばれ、翌日解剖に附されたが、その結果をここに記して置くと、彼女の死因は、やはり毒物の嚥下によることが明かとなった。のみならず、丁度その前日、木島助手の死体も同じ場所で解剖されたのだが、その内臓から検出された毒物と、雪子さんのそれとが、全く同じ性質のものであったことも判明した。これによって、雪子さんと木島助手の殺害犯人が同一人であることは、一層明瞭になった訳である。
なお、雪子さんの死体を蝋人形として出品した人形工場については、中村係長自身その工場に出向いて、厳重に取り調べたところ、工場主は、そういう形のガラス箱はまったく覚えがない、恐らく何者かが工場の名を騙って納入したのであろうと主張した。そして、それには一々確かな拠り所があったので、係長もたちまち疑念をはらし、犯人の用意周到さに驚くばかりであった。
死体入りのガラス箱を陳列館に運び入れた運送店が調べられたことは云うまでもない。しかし、それも何等得る所なくして終った。やはりある運送店の名が騙られていた。それを受取った陳列館員の記憶によると、人夫は都合三人で、似たような汚らしい男であったが、中でも親分らしい送状に判を取って行った人夫は、左の目が悪いらしく、四角く畳んだガーゼに紐をつけて、そこに当てていたということであった。手掛りといえば、それが唯一の手掛りであった。
最愛の雪子さんを失った川手氏の悲歎が、どれほど深いものであったかは、それから四日の後、雪子さんの葬儀の日に、あのよく肥っていた人が、げっそりと痩せて、半白の髪が、更に一層白さを増していたことによっても、十分察することが出来た。
盛んな通夜が二晩、今日は午前から邸内最後の読経と焼香が行われ、正午頃には雪子さんの骸を納めた金ピカの葬儀車が、川手家の門内に火葬場への出発を待ち構えていた。玄関前の広場を、モーニングや羽織袴の人々が右往左往する中に、宗像博士と小池助手の姿が見えた。雪子さんの保護を依頼されながらこのような結果となったお詫び心に、二人は親戚旧知に混って、火葬場まで見送りをするつもりなのだ。
小池助手はその後、例のアトランチスの奇怪な客の捜索をつづけていたが、今日までのところ、まだその行方をつきとめることは出来ないのだ。
宗像博士は、集っている人々に知合いもなく、手持不沙汰なままに、金ピカ葬儀車のすぐうしろに佇んで、見るともなくその観音開きの扉を眺めていたが、やがて、何を見つけたのか、博士の顔が俄かに緊張の色をたたえ、葬儀車の扉に顔を着けんばかりに接近して、その黒塗りの表面を凝視し始めた。
「小池君、この漆の表面にハッキリ一つの指紋が現われているんだよ。見たまえ、これだ。君はどう思うね」
博士が囁くと、小池助手は、指さされた箇所をまじまじと見ていたが、見る見るその顔色が変って行った。
「先生、なんだかあれらしいじゃありませんか。渦巻きが三つあるようですぜ」
「僕にもそう見えるんだ。一つ調べて見よう」
博士はモーニングの内ポケットから、常に身辺を離さぬ探偵七つ道具の革サックを取出し、その中の小型拡大鏡を開いて、扉の表面に当てた。
艶々とした黒漆の表面に薄白く淀んでいる指紋が五倍程に拡大されて、覗き込む二人の目の前に浮上った。
「やっぱりそうだ。靴箆のと全く同じです」
小池助手が思わず声高に呟いた。
アア、又してもあのえたいの知れぬお化けの顔が現われたのだ。復讐鬼の執念は、どこまでも離れようとはしないのだ。
「この会葬者の中に、あいつがまぎれ込んでいるんじゃないでしょうか。なんだか、すぐ身辺にあいつがいるような気がして仕方がありません」
小池助手はキョロキョロと、あたりの人群を見廻しながら、青ざめた顔で囁いた。
「そうかも知れない。だが、あいつがこの中に混っているとしても、僕等には迚も見分けられやしないよ。まさかあの目印になる黒眼鏡なんかかけてはいないだろうからね。それに、この指紋は、車がここへ来るまでに着いたと考える方が自然だ。そうだとすると、迚も調べはつきやしないよ。街路で信号待ちの停車をしている間に、自転車乗りの小僧が、うしろから手を触れることだって、度々あるだろうし、誰にも見とがめられぬように、ここへ指紋をつけることなど、訳はないんだからね」
「そう云えばそうですね。しかし、あいつ何の為に、こんなところへ指紋をつけたんでしょう。まさかもう一度死体を盗み出そうというんじゃないでしょうね」
「そんなことが出来るもんか。僕達がこうして見張っているじゃないか。そうじゃないよ。犯人の目的は、ただ僕への挑戦さ。僕が葬儀車の扉に目をつけるだろうと察して、僕に見せつける為に、指紋を捺して置いたのさ。なんて芝居気たっぷりな奴だろう」
宗像博士は事もなげに笑ったが、あとになって考えて見ると、犯人の真意は必ずしもそんな単純なものではなかった。この葬儀車の指紋は、同じ日の午後に起るべき、ある奇怪事の不気味な前兆を意味していたのであった。
それはさて置き、当日の葬儀は、極めて盛大に滞りなく行われて行った。葬儀車とそれに従う見送りの人々の十数台の自動車が、川手邸を出発したのが午後一時、電気炉による火葬、骨上げと順序よく運んで、午後三時には、雪子さんの御霊は、もう告別式会場のA斎場に安置されていた。
事業界に名を知られた川手氏のこと故、告別式参拝者の数も夥しく、予定の一時間では礼拝しきれない程の混雑であったが、斎場の内陣に整列して、参拝者達に挨拶を返している家族や親戚旧知の人々の中に、一際参拝者の注意を惹いたのは、最愛の妹に死別して涙も止めあえぬ川手妙子さんの可憐な姿であった。
妙子さんは故人とは一つ違いのお姉さん、川手氏にとって、今ではたった一人の愛嬢である。顔立ちも雪子さんにそっくりの美人、帽子から、靴下から、何から何まで黒一色の洋装で、ハンカチを目に当てながら、今にもくずおれんばかりの姿は、参拝者達の涙をそそらないではおかなかった。
予定の四時を過ぎる三十分、やっと参拝者が途切れたので、愈々引上げようと、人々がざわめき始めた頃、妙子さんも歩き出そうとして一歩前に進んだとき、悲しみに心も乱れていたためか、ヨロヨロとよろめいたかと思うと、バッタリそこへ倒れてしまった。
それを見ると、人々は彼女が脳貧血を起したものと思い込み、我先に側へ駈け寄って、介抱しようとしたが、妙子さんは、傍らにいた親戚の婦人に抱き起され、そのまま自動車に連れ込まれて、別段の事もなく自宅に帰ることができた。
自宅に帰ると、彼女は何よりも独りきりになって、思う存分泣きたいと思ったので、挨拶もそこそこに、自分の部屋に駈け込んだが、そこに備えてある大きな化粧鏡の前を通りかかる時、ふと我が姿を見ると、右の頬に黒い煤のようなものが着いているのに気づいた。
「アラ、こんな顔で、あたし、あの多勢の方に御挨拶していたのかしら」
と思うと、俄かに恥かしく、そんな際ながら、つい鏡の前に腰かけて見ないではいられなかった。
鏡に顔を近寄せて、よく見ると、それはただの汚れではなくて、何か人の指の痕らしく、細かい指紋が、まるで黒いインキで印刷でもしたように、クッキリと浮き上っていた。
「マア、こんなにハッキリと指の痕がつくなんて、妙だわ」
と思いながら、つくづくその指紋を眺め入っている内に、妙子さんの顔は、見る見る青ざめて行った。唇からは全く血の気が失せ、二重瞼の両眼が、飛び出すのではないかと見開かれた。そして「アアア……」という、訳の分らぬ甲高い悲鳴を上げたかと思うと、彼女はそのまま、椅子からくずれ落ちて、絨毯の上に倒れ伏してしまった。
その指紋には、三つの渦がお化けのように笑っていたのである。復讐鬼の恐るべき三重渦状紋は、遂に人の顔にまで、そのいやらしい呪いの紋を現わしたのである。
妙子さんの部屋からの、ただならぬ叫び声に、人々が駈けつけて見ると、彼女は気を失って倒れていた。そして、その頬には、まだ拭われもせず、悪魔の紋章がまざまざと浮上っていたのである。
だが、騒ぎはそればかりではなかった。丁度その頃、父の川手氏は、まだ居残っている旧知の人達と、客間で話をしていたのだが、シガレット・ケースを出そうとして、モーニングの内ポケットに手を入れると、そこに全く記憶のない封筒が入っていた。
オヤッと思って、取出して見ると、どうやら見覚えのある安封筒、封はしてあるが、表には宛名も何もない。それを見たばかりで、もう川手氏の顔色は変っていた。しかし中には手紙が入っているらしい様子、恐ろしいからと云って、見ない訳には行かぬ。
思い切って封を開けば、案の定、いつもの用紙、態と下手に書いたらしい鉛筆の筆蹟。あいつだ。あいつがまだ執念深くつき纒っているのだ。文面には左のような恐ろしい文句が認めてあった。
川手君、どうだね。復讐者の腕前思い知ったかね。だが、本当の復讐はまだこれからだぜ。序幕が開いたばかりさ。ところで二幕目だがね、それももう舞台監督の準備はすっかり整っている。さて、二幕目は姉娘の番だ。はっきり期日を通告して置こう。本月四日の夜だ。その夜、姉娘は妹娘と同じ目に遭うのだ。今度の背景はすばらしいぜ。指折り数えて待っているがいい。
それが済むと三幕目だ。三幕目の主役を知っているかね。云うまでもない、君自身さ。真打ちの出番は最後に極っているじゃないか。
この二つの椿事が重なり合って、川手邸は葬儀の夕べとも思われぬ、一方ならぬ騒ぎとなった。
妙子さんは、人々の介抱によって、間もなく意識を取戻したけれど、感情の激動のために発熱して、医師を呼ばなければならなかったし、それに引続いて、葬儀から帰ったばかりの宗像博士が、川手氏の急報を受けて再び駈けつける、警視庁からは中村捜査係長がやって来る。それから川手氏と三人鼎座して、善後策の密議に耽るという騒ぎであった。
犯人は恐らくA斎場の式場にまぎれ込んでいたものに違いない。そして、一方では妙子さんの頬に怪指紋の烙印を捺し、一方では川手氏に接近して、その内ポケットに、掏摸のような手早さで、あの封筒を辷り込ませたものに違いない。
しかし、妙子さんの頬に指型を押しつけるなんて、いくら何でも普通の場合にできる業ではない。これはきっと、告別式が終って、妙子さんが倒れた時のどさくさまぎれに、素早く行われたものであろう。すると、その時、場内に居合せたものは、川手氏の親戚旧知の限られた人々のみではなかったか。
中村警部はそこへ気がつくと、川手氏の記憶や名簿をたよりに、忽ち四十何人の人名表を作り上げ、部下に命じて、その一人一人を訪問し、指紋を取らせることに成功した。それには主人の川手氏は勿論、同家の召使達は漏れなく入っていたし、宗像博士や小池助手の指紋まで集めたのであったが、その中には、三重渦状紋など一つもないことが確められた。
一方カフェ・アトランチスに現われた怪人物については、引きつづき宗像研究室の手で捜査が行われていたが、最初小池助手が探り出した事実の外には、何の手掛りも発見されぬままに、一日一日と日がたって行った。
そして、間もなく、復讐鬼のいわゆる第二幕目の幕開きの日がやって来た。四日の夜がすぐ目の前に近づいて来た。
川手氏の邸宅は、妖雲に包まれたように、不気味な静寂に閉されていた。妙子さんはあれ以来ベッドについたきりで、日夜底知れぬ恐怖に打震えていたし、川手氏も一切の交際を絶って、妙子さんを慰めることと、仏間にこもって、なき雪子さんの冥福を祈ることにかかり果てていた。
さて、当日の四日には、予め川手氏の依頼もあって、同邸の内外には、十二分の警戒陣が敷かれた。
先ず警視庁からは六名の私服刑事が派遣され、川手邸の表門と裏門と塀外とを固めることになったし、邸内妙子さんの部屋の外には、宗像博士自ら、小池助手を引きつれて、徹宵見張りを続けることにした。
妙子さんの部屋は、屋敷の奥まった箇所にあり、二つの窓が庭に面して開いている外には、たった一つの出入口しかなかった。博士はそのドアの外の廊下に安楽椅子を据えて夜を明かし、小池助手は二つの窓の外の庭に椅子を置いて、この方面からの侵入者を防ぐという手筈であった。
早い夕食を済ませて、一同部署についたが、川手氏はそれでもまだ安心しきれぬ体で、妙子さんの部屋に入ったり出たりしながら、廊下の宗像博士の前を通りかかる度に、何かと不安らしく話しかけた。
博士は笑いながら、妙子さんの安全を保証するのであった。
「御主人、決して御心配には及びませんよ。お嬢さんは、謂わば二重の鉄の箱に包まれているのも同然ですからね。お邸のまわりには事に慣れた六人の刑事が見張っています。その目をごまかして、ここまで入って来るなんて殆んど不可能なことですよ。若し仮りにあいつが邸内に入り得たとしてもですね、ここに第二の関門があります。たった一つのドアの外には、こうして僕が頑張っていますし、窓の外には、小池君が見張りをしている。しかも窓は全部内側から掛金がかけてあるのです。このドアもそのうち僕が鍵をかけてしまう積りですよ」
「併し、若し隠れた通路があるとすれば……」
川手氏の猜疑は果てしがないのである。
「イヤ、そんなものはありやしません。さい前僕と小池君とで、お嬢さんの部屋を隅から隅まで調べましたが、壁にも天井にも床板にも、少しの異状もなかったのです。ここはあなたのお建てになった家じゃありませんか。抜穴なんかあってたまるものですか」
「アア、それも調べて下すったのですか。流石に抜目がありませんね。イヤ、あなたのお話を聞いて、いくらか気分が落ちつきましたよ。しかし、わたしは、今夜だけはどうしても娘の傍を離れる気になれません。この部屋の長椅子で夜を明かす積りです」
「それはいいお考えです。そうなされば、お嬢さんには三重の守りがつく訳ですからね。あなたがこの部屋の中にいて下されば、僕達も一層心丈夫ですよ」
そこで川手氏は、そのまま妙子さんの部屋に入って、寝室につづく控えの間の長椅子に腰をおろし、暫くの間は、ドアを開いたままにして博士と話し合っていたが、この際会話のはずむ筈もなく、やがて、川手氏は長椅子の上に横になったまま黙りこんでしまったので、博士は預って置いた鍵を取出して、ドアに締りをした。
夜が更けるに従って、邸内は墓場のように静まり返って行った。町の騒音ももう聞えては来なかった。女中達も寝静まった様子である。
宗像博士は、強い葉巻煙草をふかしながら、安楽椅子に沈み込んで、ギロギロと、鋭い目を光らしていた。庭では小池助手が、これも煙草を吸いつつ、椅子にかけたり、椅子の前を歩哨のように行きつ戻りつしたり、睡気を追っぱらうのに一生懸命であった。
十二時、一時、二時、三時、長い長い夜が更けて、そして、夜が明けて行った。
午前五時、廊下の窓に清々しい朝の光がさしはじめると、宗像博士は安楽椅子からヌッと立上って、大きな伸びをした。とうとう何事もなかったらしい。流石の復讐鬼も、二重三重の警戒陣に辟易して、第二幕目の開幕を延期したものらしい。
博士はドアに近づくと、軽くノックしながら川手氏に声をかけた。
「もう夜が明けましたよ。とうとう奴は来なかったじゃありませんか」
返事がないので、今度は少し強くノックして、川手氏を呼んだ。それでも返事がない。
「おかしいぞ」
博士は冗談のように呟きながら、手早く鍵を取出し、それでドアを開けて、室内に入って行った。
すると、アアこれはどうしたというのだ。川手氏は長椅子に横たわったまま、身体中をグルグル巻きにされて、固く長椅子に縛りつけられていた。その上、口には厳重な猿轡だ。
博士はいきなり飛びついて行って、先ず猿轡をはずし、川手氏の身体をゆすぶりながら叫んだ。
「ど、どうしたんです。いつの間に、誰が、こんな目に合せたのです。そして、お嬢さんは?」
川手氏は絶望の余り、物を云う力もなかった。ただ目で次の間をさし示すばかりだ。
博士はその方を振り返った。間のドアが開いたままになっているので、妙子さんのベッドがよく見える。だが、そのベッドの上には、誰も寝てはいないのだ。
博士は寝室へ駈け込んで行った。余程慌てていたと見え、大きな音を立てて椅子の倒れるのが聞えた。
「お嬢さん、お嬢さん…………」
だが、いない人が答える筈はない。寝室は全くの空っぽだったのである。
博士は青ざめた顔で再び控えの間に戻って来た。そして手早く川手氏の縛めを解くと、
「一体これはどうしたというのです」
と叱責するように訊ねた。
「何が何だか少しも分りません。ウトウトと眠ったかとおもうと、突然息苦しくなったのです。あれが麻酔剤だったのでしょう。口と鼻の上を何かで圧えつけられているなと思ううちに、気が遠くなってしまいました。それからあとは何も知りません。妙子は? 妙子は攫われてしまったのですか」
川手氏は無論それを知っていた。だが、聞かずにはいられないのだ。
「申訳ありません。しかし、僕の持場には少しも異状はなかったのです。あいつは窓から入ったのかも知れません」
博士は云い捨てて、窓のところへ飛んで行くと、サッとカーテンを開き、掛金をはずして、すりガラスの戸を上に押し上げ、庭を覗いた。
「小池君、小池君」
「ハア、お早うございます」
何としたことだ。小池助手は別状もなく、そこにいたのである。そして何も知らぬらしく、間の抜けた挨拶をしたのである。
「君は眠りやしなかったか」
「イイエ、一睡も」
「それで、何も見なかったのか」
「何もって、何をですか」
「馬鹿ッ、妙子さんが攫われてしまったんだ」
博士はとうとう癇癪玉を破裂させた。
だが、よく考えて見ると、小池助手に落度のある筈はなかった。彼が犯人を見逃したのではない証拠には、窓は二つとも、ちゃんと内側から掛金がかけられ、少しの異状もなかったからである。
とすると、あいつは一体全体、どこから入って、どこから出て行ったのであろう。室内に抜け穴なんかないことは十分調べて確めてある。ドアには外から鍵がかかっていた。窓の締りにも別条はない。アア、愈々お化けだ。お化けか幽霊ででもない限り、密閉された部屋に忍び込んだり、抜け出したり出来る筈がないではないか。
しかし、幽霊が麻酔薬を嗅がしたり、人を縛ったりするものであろうか。イヤ、それよりも、曲者自身は幽霊のように一分か二分の隙間から抜け出たとしても、妙子さんをどうして運び出すことが出来たのだ。妙子さんは血の通った人間だ、隙間などから抜け出せるものではない。
流石の名探偵宗像博士も、これには全く途方に暮れてしまった様子であった。だが、徒らに途方に暮れている場合ではない。あらん限りの智恵を絞って、このお化じみた謎を解かなければならぬ。
博士はふと思いついたように、慌しく女中を呼んで、玄関と門とを開かせると、気違いのように門の外へ飛び出して行った。云うまでもなく、外部を固めている六人の刑事に、昨夜の様子を訊ねるためだ。
だが、その結果判明したのは、表門にも裏門にも、その外邸を取りまく高塀のどの部分にも、全く何の異状もなかったということである。彼等は異口同音に、外からも内からも、門や塀を越えたものは決してなかったと確信に満ちて答えたのであった。
「おかしい。どうもおかしい。僕は何か忘れているんだ。脳髄の盲点という奴かも知れない。物理上の不可能はあくまで不可能だ」
博士は拳骨で、自分の頭をコツコツ殴りつけながら、川手邸の門を入ったり出たり、そうかと思うと、モーニングの裾をひるがえして、コンクリート塀のまわりを、グルグル歩き廻ったりした。
明るくなるのを待って、再び屋内屋外の捜査が繰返された。博士と助手と六人の刑事とが、夫々手分けをして、たっぷり二時間程、まるで煤掃のように、真黒になって天井裏や縁の下、庭園の隅々までも這い廻った。しかし、足跡一つ、指紋一つ発見することが出来なかった。
この事が警視庁に急報されたのは云うまでもない。忽ち全市に非常線が張られたのだが、狭い邸内でさえ、煙のように人目をくらました賊のことだ。恐らくその手配も徒労に終ることであろう。
敗軍の将宗像博士は、非常な不機嫌で、一応事務所に引上げることになった。主人の川手氏は、博士の失敗を責める力もなく、絶望と悲歎のために半病人の体であったし、博士は博士で、殊更詫びごとをいうでもなく、苦虫をかみつぶしたような顔で、簡単な挨拶をすると、小池助手を引きつれて、サッサと玄関を出てしまった。
自動車を拾うと、博士はクッションに凭れたまま、じっと目を閉じて、一言も口を利かない。まるで木彫の像のように、呼吸さえしていないかと疑われるばかりだ。小池助手は、この不機嫌な先生を、どう扱っていいのか見当もつかなかった。ただ、気拙ずそうに、博士の横顔をチロチロと盗み見ながら、モジモジするばかりである。
ところが、自動車が事務所への道を半ば程も来た時である。博士は突然カッと目を見開き、
「オオ、そうかも知れない」
と独言をいったかと思うと、今まで青ざめていた顔に、サッと血の気がのぼって、目の色も俄かに生々と輝いて来た。
「オイ、運転手、元の場所へ引返すんだ。大急ぎだぞ」
博士はびっくりするような声で呶鳴った。
「何かお忘れものでも……」
小池助手がドギマギして訊ねる。
「ウン、忘れものだ。僕はたった一つ探し忘れた場所があったことに、今やっと気附いたんだ」
名探偵は、そういう間ももどかしげに、再び運転手を呶鳴りつけて、車の方向を変えさせた。
「それじゃ、あの賊の秘密の出入口がおわかりになったのですか」
「イヤ、賊は出もしなければ、入りもしなかったということを気附いたのさ。あいつは、妙子さんと一緒にちゃんと僕達の目の前にいたんだ。アア、俺は、今までそこに気がつかないなんて、実にひどい盲点に引っかかったもんだ」
小池助手は目をパチパチとしばたたいた。博士の言葉の意味が、少しも分らなかったからである。
「目の前にいたといいますと?」
「今に分る。ひょっとしたら僕の思い違いかも知れない。しかし、どう考えてもその外に手品の種はないのだ。小池君、世の中には、すぐ目の前に在りながら、どうしても気の附かないような場所があるものだよ。習慣の力だ。一つの道具が全く別の用途に使われると、我々は忽ち盲目になってしまうのだ」
小池助手は益々面喰った。聞けば聞く程訳が分らなくなるばかりである。しかし、彼はこれ以上訊ねても無駄なことをよく知っていた。宗像博士は、その推理が確実に確かめられるまでは、具体的な表現をしない人であった。
やがて、車が規定以上の速力で、川手邸の門前に着くや否や、博士は自らドアを開いて自動車を飛び出し、風のように玄関へ駈け込んで行った。
客間に入って見ると、川手氏は、そこの長椅子にグッタリと凭れたまま、ものを考える力もなくなったように、茫然としていた。
「御主人、ちょっと、もう一度あの部屋を見せて下さい。たった一つ見落していたものがあるんです」
博士は川手氏の手を引っぱらんばかりにして、せき立てた。
川手氏は、異議も唱えなかった代り、さして熱意も示さず、気抜けしたように立上って、博士と小池助手の後につづいた。
妙子さんの部屋の前まで来ると、博士はドアの把手を廻して見て、
「アア、やっぱりそうだったか。ここへ鍵をかけてさえ置いたらなあ」
と、落胆の溜息をついた。既に妙子さんが誘拐されてしまったあとの部屋へ、誰が鍵なぞかけるものか。博士は一体何を云っているのであろう。
部屋に入ると、博士は次の間を通り越して、寝室に飛び込み、昨夜まで妙子さんの寝ていた大きな寝台の上に、いきなりゴロリと横になった。そして、不作法にも、モーニングのまま、その上に腹這いになって、川手氏に話しかけたのである。
「御主人、このベッドはまだ新しいようですね。いつお買いになりました」
余りにも意外な博士の態度や言葉に、川手氏はますますあっけにとられて、急には答えることも出来なかった。一体この男はどうしたのだ、気でも違ったのではないかと、怪しみさえした。
「エ、いつお買入れでした」
博士は駄々ッ子のように繰返す。
「つい最近ですよ。以前に使っていたのが、急にいたんだものですから、四日程前に、家具屋にあり合せのものを据えつけさせたのです」
「ウン、そうでしょう。で、それを持込んで来た人夫をごらんでしたかね。たしかにその家具屋の店のものでしたか」
「サア、そいつは……。わしは丁度居合せて、据えつける場所を指図したのですが、何でも左の目にガーゼの眼帯を当てた髭面の男が、しきりと何か云っていたようです。無論見知らぬ男ですよ」
アア、左の目にガーゼを当てた男。読者は何か思い当る所がないだろうか。我々はどこかで、同じような人物に出会ったことがあるのだ。嘗て雪子さんの死体を入れた陳列箱を、衛生展覧会へ持込んだ人夫の頭が、丁度それと同じ風体の男ではなかったか。
「オオ、やっぱりそうだったか」
博士は唸るように云うと、ベッドから降りて、今度はその下の僅かの隙間に這い込むと、自動車の修繕でもするように、仰向きになって、ベッドの裏側を調べていたが、突然、恐ろしい声で呶鳴り出した。
「御主人、僕の想像した通りです。ごらんなさい。ここをごらんなさい。彼奴の手品の種が分りましたよ。アア、なんということだ。今頃になって、やっとそこへ気が附くなんて……」
川手氏と小池助手は、急いでベッドの向側に廻って見た。
「どこですか」
「ここだ、ここだ。ベッドをもっと壁から離してくれ給え。ここに仕掛けがあるんだ」
二人はいわれるままに、ベッドを押して、壁際から離したが、すると、その下から仰向きに横たわっている博士の上半身が現われ、博士はそのまま起き上って、今まで壁に接していたベッドの側面を指し示した。
「ここに隠し蓋があるんです。ホラネ、これを開けば中は広い箱のようになっています」
シーツをめくり上げて、ベッドの側面を強く圧すと、それは巧妙な隠し戸になって、幅一尺、長さ一間程の、細長い口が開いた。つまり、ベッドのクッションの部分を、上部の三分の一程の、薄い部分にとどめて、その下部は全体が一つの頑丈な箱のように作られているのだ。無論人間が潜んでいるためだ。その広さは二人の人間を隠すに十分である。
「巧く造りやがったな。外から見たんでは、普通のベッドとちっとも違やしない」
小池助手が感心したように叫んだ。
よく見れば、普通のベッドよりは、いくらか厚味があるようであったが、しかし、その側面には複雑な襞のある毛織物で、巧みに錯覚を起させるようなカムフラージュが施され、一寸見たのでは少しも分らないように出来ていた。
恐らく、復讐鬼は、家具屋から運ばれる途中で、ベッドを横取りして、予め造らせて置いたこの偽物を持ち込んだのに違いない。
「すると、これが運び込まれた時から、あいつは、ちゃんとこの中に隠れていたのでしょうか」
川手氏が、もう驚く力も尽き果てたように、投げやりな調子で訊ねる。
「そうかも知れません。或はあとから忍び込んだのかも知れません。いずれにせよ、昨夜は、早くからこの中に身を潜めていたに違いありません。お嬢さんは、それとも知らず、悪魔と板一枚を隔てて、ここへお寝みになったのです」
博士は無慈悲な云い方をした。
「そして、あいつは真夜中に、そこから忍び出し、あなたをあんな目にあわせた上、お嬢さんをこの箱の中へ押し込み、自分もここへ入って、逃げ出す時刻の来るのを、我慢強く待っていたのです」
「では、今朝になってから……」
「そうです。僕達は非常な失策をしました。まさか賊とお嬢さんとが、この部屋の中に隠れているとは思わないものですから、ここは開けっ放しにして、庭の捜索などやっていたのです。賊はその間に、廊下や玄関に誰もいない折を見すまして、お嬢さんを抱いて、ここから逃げ出したのに違いありません」
「しかし、逃げ出すと云って、どこへですか。一歩この邸を出れば、人通りがあります。まさか明るい町を、女を抱いて走ることは出来ますまい。それに、刑事さん達も、まだ門の外に見張りをつづけていたんだし──」
川手氏が腑に落ちぬ体で反問した。
「そうです。僕もそれを考えて安心していたのですが、賊の方では、この二重の包囲を脱出する、何か思いもよらぬ計略があったのかも知れません。イヤ、ひょっとすると、あいつは、まだ邸内のどこかに潜伏しているんじゃないか。夜を待つ為めにですね。しかし……」
博士も確信はないらしく見えた。
「だが、妙子はどうして救いを求めなかったのだ」
川手氏はハッとそこへ気づいたらしく、真青になって、脅え切った目で宗像博士を見つめた。
「妙子はわしと同じように猿轡をはめられていたのでしょうか。それとも……」
「何とも申せません。しかし、少くとも無残な兇行が演じられなかったことは確かですよ。どこにも、血痕などは見当らないのですから。しかし、お嬢さんの生死は保証出来ません。ただ御無事を祈るばかりです」
博士は正直に云った。
川手氏の物狂わしい脳裏を、妙子さんが賊の為めに絞殺されている光景や、毒薬の注射をされている有様などが、浮かんでは消えて行った。
「若し邸の中に隠れているとすれば、もう一度捜索して下さる訳には……」
「僕もそれを考えているのです。しかし、念の為めに、門前に見張りをしている刑事に、よく訊ねて見ましょう。まだ二人だけ私服が居残っている筈です」
そういうと、博士はもう部屋の外へ走り出していた。小池助手と川手氏とが、慌しくそのあとにつづく。
門前に出て見ると、背広に鳥打帽の目の鋭い男が、煙草をふかしながら、ジロジロと町の人通りを眺めていた。
「君、その後、不審な人物は出入りしなかったでしょうね。何か大きな荷物を持った奴が、ここから出たという様なことはなかったですか」
博士がいきなり訊ねると、刑事は不意を打たれて、目をパチパチさせた。
この刑事は、早朝邸内の大捜索が終ったあと、万一犯人が邸内に潜んでいて、逃げ出すようなことがあってはと、念の為めに見張りを命ぜられていたのだから、若し不審の人物が出入りすれば、見逃す筈はなかった。
「イイエ、誰も通りませんでした。あなた方の外には誰も」
刑事は、宗像博士が彼等の上役中村捜査係長の友人であることを、よく知っていた。
「間違いないでしょうね。本当に誰も通らなかったのですか」
博士は妙に疑い深く聞き返す。
「決して間違いありません。僕はその為めに見張りをしていたのです」
刑事は少し怒気を含んで答えた。
「例えば新聞配達とか、郵便配達とかいうようなものは?」
「エ、何ですって? そういう連中まで疑わなければならないのですか。それは、郵便配達も、新聞配達も通りました。しかし、犯人がそういうものに変装して逃げ出すことは出来ませんよ。彼等は皆外から入って来て、用事をすませると、すぐ出て行ったのですからね」
「しかし、念の為めに思い出して下さい。その他に外から入ったものはなかったですか」
刑事は、何というつまらない事を訊ねるのだと云わぬばかりに、ジロジロと博士を見上げ見下していたが、やがて何事か思い出したらしく、いきなり笑い出しながら、
「オオ、そういえば、まだありましたよ。ハハハハハハハ、掃除人夫です。塵芥車を引っぱって、塵芥箱の掃除に来ましたよ。ハハハハハハハ、掃除人夫のことまで申上げなければならないのですか」
「イヤ、大変参考になります」
博士は刑事の揶揄を気にもとめず、生真面目な表情で答えた。
「で、その塵芥箱というのは、ここから見えるところにあるのですか」
「イヤ、ここからは見えません。掃除人夫は門を入って右の方へ曲って行きましたから、多分勝手元の近くに置いてあるのでしょう」
「それじゃ、君は、そこで掃除人夫が何をしていたか、少しも知らない訳ですね」
「エエ、知りません。僕は掃除人夫の監督は命じられていませんからね」
刑事はひどく不機嫌であった。何をつまらないことを、クドクドと訊ねているのだと云わぬばかりである。昨夜の徹夜で、神経がいらだっているのだ。
「で、その人夫は、ここから又出て行ったのでしょうね」
博士は我慢強く、掃除人夫のことにこだわっている。一体塵芥車と昨夜の犯罪とに、どんな関係があるというのだろう。
「無論出て行きました。塵芥を運び出すのが仕事ですからね」
「その塵芥車には蓋がしてあったのですか」
「サア、どうですかね。多分蓋がしてあったと思います」
「人夫は一人でしたか」
「二人でした」
「どんな男でしたか。何か特徴はなかったですか」
そこまで問答が進むと、仏頂面で答えていた刑事の顔に、ただならぬ不安の色が現われた。博士がなぜこんなことを、根掘り葉掘り訊ねるのか、その意味がおぼろげに分って来たのだ。彼は暫らく小首をかしげて考えていたが、やがてそれを思い出したらしく、今度は真剣な調子で答えた。
「一人は非常に小柄な、子供みたいな奴で、黒眼鏡をかけていました。もう一人は、アア、そうだ、どっちかの目に四角なガーゼの眼帯を当てた四十ぐらいの大男でした。二人とも鳥打帽を冠って、薄汚れたシャツに、カーキ色のズボンをはいていたと思います」
それを聞くと、小池助手はハッと顔色を変えて、今にも掴みかからんばかりの様子で、刑事を睨みつけたが、宗像博士は別に騒ぐ色もなく、
「君は犯人の特徴を、中村君から聞いていなかったのですか」
と穏かに訊ねた。すると、刑事の方が真青になって、俄かに慌て出した。
「そ、それは聞いていました。アトランチス・カフェへ現われた奴は、黒眼鏡をかけた小柄な男だったということは、聞いていました。しかし……」
「それから、衛生展覧会へ蝋人形を持込んだ男の風体は?」
「そ、それも、今、思い出しました。左の目に眼帯を当てた奴です」
「すると、二人の掃除人夫は、犯人と犯人の相棒とにソックリじゃありませんか」
「しかし、しかし、まさか掃除人夫が犯人だなんて、……それに、あいつらは外から入って来たのです。僕は中から逃げ出す奴ばかり見張っていたものですから。……偶然の一致じゃないでしょうか」
刑事は、ひたすら自分の落度にならないことを願うのであった。
「偶然の一致かも知れない。そうでないかも知れない。我々は急いでそれを確かめて見なければならないのです。犯人は妙子さんの自由を奪って、どこかへ隠して置いて、独りでここを逃げ出し、改めて妙子さんを運び出す為に戻って来た、と考えられないこともない。今朝あなた方が邸内を捜索している間に、犯人がひとりで逃げ出すような隙は、いくらもあったのですからね」
「隠して置いたといって、お嬢さんを塵芥箱の中へですか」
「突飛な想像です。しかし、あいつはいつも、思い切って突飛なことを考える奴です。それに、我々は今朝の捜索の時、塵芥箱の塵芥の中までは探さなかったのですからね。サア、一緒に行って、調べて見ましょう」
人々は博士のあとに従って、門内に入り、勝手口の方へ急いだ。博士と刑事のあとから、青ざめた川手氏と小池助手とがつづく。
問題の塵芥箱は、炊事場の外の、コンクリート塀の下に置いてある。黒く塗った木製の大きな箱だ。これなれば、人間一人十分隠れることが出来る。
博士はツカツカとその塵芥箱の側に近づいて、蓋を開いた。
「すっかり綺麗になっている。だが、あれはなんだろう、小池君、一寸見てごらん」
云われて、小池助手も箱の中を覗き込んだが、ジメジメしたその底に、少しばかり残った塵芥に混って、四角な白いものが落ちている。
「封筒のようですね」
彼はそういいながら、手を入れて、拾い上げた。どこやら見覚えのある廉封筒だ。宛名も差出人もないけれど、中には手紙が入っているらしい。
「中を見てごらん」
博士の指図に従って、小池助手は封筒を開き用箋を取出した。
「オヤ、ここにインキで指紋が捺してあります」
簡単な文章の終りに、署名のかわりのように、ハッキリと一つの指紋が現われているのだ。
博士は急がしく例の拡大鏡を取り出して、その上に当てた。
「やっぱりそうだ。川手さん、僕の想像した通りでした。お嬢さんはここに隠してあったのです」
そこには、あのお化けのような三重渦状紋が、用箋の隅からニヤニヤと笑いかけていたのである。
小池助手が、気を利かして文面を読み上げた。
「川手君、俺の字引に不可能という文字はないのだ。ずいぶん厳重な警戒だったね。しかし、君のほうで二重の警戒をすれば、俺も二重の妙案をひねり出すばかりさ。
宗像大先生によろしく伝えてくれ給え。あれほど捜索をしながら、ベッドと塵芥箱に気附かなかったとは、名探偵の名折れですぜと伝えてくれ給え。尤も俺は誰しも見逃しそうな盲点と云う奴を利用したんだがね。
君はとうとう一人ぼっちになってしまったねえ。だが、妙子にはいつか逢えるよ。一つ探して見たまえ。そして、ある恐ろしい場所で、君が娘の無残なむくろと対面した時、どんな顔をするか。それを思うと、俺は心の底からおかしさがこみ上げて来る。川手君、これが真の復讐というものだぜ。今こそ思い知るがよい」
小池助手は途中で、幾度も朗読をやめようかと思ったが、川手氏の目が、先を先をと促すものだから、やっとのことで読み終った。
「川手さん、何と云ってお詫びしていいか分りません。僕は完全に敗北しました。だが、何という恐ろしい奴だ。あいつは心理学者ですよ。あいつのいう通り、僕達は盲点に引っかかったのです。それをちゃんと予知して、少しも騒がず、悠々と逃げ去った腕前は、ゾッと怖くなる程です。
しかし、僕はこの恥辱を雪がねばなりません。お嬢さんは恐らく、もう生きてはいらっしゃらないかも知れませんが、いずれにせよきっとその隠し場所を発見してお目にかけます。そして、僕はあいつを捉える迄は、この戦いをやめません。命をかけても、必ずあいつをやッつけます。やッつけないでおくものですか」
宗像博士は、満面に朱を注いで、川手氏にというよりは、寧ろ我れと我が心に誓うもののように、烈しい決意を示すのであった。
宗像博士が、塵芥車のトリックを発見したのが八時三十分頃、警視庁の中村捜査係長が、おくればせに駈けつけたのが、それから又十分ほども後であった。
中村警部は、宗像博士から委細を聞き取ると、捜査手配のために、すぐさま警視庁に引返したが、あらためて全市の警察署、派出署、交番などに、犯人逮捕の指令が飛んだことは云うまでもない。
今度は犯人と共犯者の風体もよく分っているのだし、その上、塵芥車という大きなお荷物があるのだから、発見は容易である。だが、彼等が逃出してから既に一時間、何しろ魔術師のような素早い奴のことだから、まさか今頃まで、元の掃除人夫の姿で塵芥車を引っぱって、ノロノロ町を歩いている筈はない。恐らくは、邪魔な塵芥車はどこかへ捨てて、風体を変え、妙子さんを攫って、姿をくらましてしまったに違いない。とすると、折角の非常指令もあとの祭である。空っぽの塵芥車でも発見するのが関の山であろう。
案の定、それから三十分程もすると、主人を慰める為に川手邸に居残っていた宗像博士のところへ、警視庁の中村係長から電話があって、塵芥車が発見されたという知らせである。
場所は、川手邸から三町とは離れていない、神社の森のなかだという。アア、何ということだ。賊は川手邸を出たかと思うと、もう車を捨ててしまったのだ。では、妙子さんは? まさか森の中へ捨てた訳ではあるまい。一体どうして、どこへ運び去ったというのであろう。
博士と小池助手とは、兎も角現場へ行って見ることにした。
車を呼ぶまでもなく、教えられた道を、走るようにして二つ三つ曲ると、もうそこが神社の森であった。その辺は、麻布区内でも、市中とも思われぬ場末めいた感じで、附近には広い空地などもあり、子供達の遊び場所になっている。
神社の森の中へ入って見ると、塵芥車はもう警察署へ運び去られたということで、そのあとに目印の小さな杭が立てられ、側に制服の若い警官が立っていた。
博士は名刺を出して、警官に話しかけた。
「警視庁の中村警部から聞いてやって来たのです。中村君もじきあとから、ここへ来ると云っていました」
「ア、そうですか。お名前はよく承知して居ります。今度の事件には御関係になっているんだそうですね」
若い警官は、有名な民間探偵の顔を、まぶしそうに見て、丁寧な口を利いた。
「で、塵芥車の外に何か発見はありませんでしたか」
「さい前から、一通りこの森の中を捜索したのですが、全く何の手掛りもありません。ごらんの通りの石ころ道で、足跡は分りませんし、被害者をどこかへ隠したのではないかということですが、そういう様子も見えません。狭い境内のことですから、土を掘ったりすれば、すぐ分る筈ですし、社殿の中や縁の下なども調べたのですが、これという発見もありませんでした」
「君一人でお調べになったのですか」
「イイエ、署の者が五人程で手分けをして、調べたのです」
「イヤ、有難う。僕はこの辺を少しぶらついて見ますから、中村君が来られたら、そうお伝え下さい」
博士は警官に挨拶をして、小池助手と一緒に神社を出ると、どこという当てもなく、ブラブラと歩き出した。
「オヤ、小池君、あすこに見世物が出ているようだね」
暫らく行くと、博士がそれに気附いて、助手を顧みた。
「エエ、そうのようですね。のぼりが立ってますよ。アア、お化け大会と書いてあります。例の化物屋敷の見世物でしょう」
「ホウ、妙なものが出ているね。行って見ようじゃないか。化物屋敷なんて随分久し振りだ。東京にもこんな見世物がかかるのかねえ」
「近頃なかなか流行しているんです。昔は化物屋敷とか八幡の藪知らずとか云ったようですが、この頃はお化け大会と改称して、色々新工夫をこらしているそうです」
話しながら歩く内に、二人は大きなテント張りの小屋掛けの前に来ていた。
小屋の前面は、張り子の岩組みと、一面の竹藪になっていて、その間から、狐格子の辻堂などが覗いている。さも物凄い飾りつけである。上部にはズラッと毒々しい絵看板が並び、それには、ありとあらゆる妖怪変化の姿が、今にも飛びついて来そうに、物恐ろしく描いてある。
前には黒山の人だかりだ。その群衆の頭の上に、台にのった木戸番の若者の胸から上が見えている。若者は口にメガフォンを当てて、嗄声をふりしぼり、夢中になって客寄せの口上を呶鳴っている。
段々近づいて見ると、木戸の上に、大きな貼紙をして、下手な字で、何かゴタゴタと書いてある。
本お化け大会入口より出口まで無事御通過なされしお客様には、入場料金を全部返却の上、賞金五円を贈呈致します。
「オヤ、変な見世物だねえ。五十銭の入場料で、五円の賞金を出していたんじゃ、興行主は損ばかりしていなけれゃなるまい」
博士が思わず独言のように云うと、群衆の中の一人の老人が、それを聞きつけて、話しかけた。
「それが、そうじゃねえんですよ。座元は丸儲けでさあ。ホラ、ごらんなさい。入口からああしてゾロゾロ見物が出て来るでしょう。みんな中途で引返すんでさあ。
あっしゃ、昨日から気をつけて見ているんだが、無事に出口まで辿りついた客は一人もねえ。よっぽどおっかない仕掛けがあるんですぜ。中途で引返した人の話じゃ、中は八幡の藪知らずで、どこをどう歩いていいかさっぱり見当がつかない上に、全く思いもかけないところから、ヒョイヒョイとおっそろしい化物や幽霊が飛び出して来る。イヤ、化物ばかりならいいんだが、もっと気味の悪いものがあるって云いますよ。死人ですよ。汽車に轢かれて、手足がバラバラになって転がっているんだとか、胸を抉られて、空を掴んで、口から血をタラタラと流して、今息を引取ろうとしているんだとか、怖いよりも胸が悪くなって、迚も見ちゃいられねえっていうんです」
江戸っ子らしい老人は、ひどく話好きと見えて、聞きもしないのに、ベラベラと喋るのだ。
「で、お爺さんは中へ入って見ないんですか」
小池助手がからかい顔に訊ねると、老人は顔の前で手を振って見せた。
「御免、御免、五貫も出して胸の悪い思いをするこたあねえからね。何なら、お前さん方御見物なすっちゃどうだね」
すると、宗像博士は何を思ったのか、その言葉を引きとるように、
「どうだ、小池君、一つ入って見ようじゃないか」
と、笑いもしないで云うのである。
「エ、先生お入りになるんですか」
犯人の捜索はどこへ行ったのだ。それを捨てて置いて、子供みたいにお化けの見世物を見たがるなんて、先生はどうかしたんじゃないかしら。小池助手はあっけに取られて、博士の顔をまじまじと見つめた。
「少し思いついたことがあるんだよ。……マア、黙ってついて来たまえ」
博士はそう云ったかと思うと、群衆を押し分けて、もう木戸口の方へ歩き出していた。
小池助手は、名探偵とも云われる人の、余りの子供らしさに、呆気にとられたが、ふと気がつくと、それには何か訳がありそうであった。博士は非常に実際的な規則正しい性格で、意味もなく見世物なんかへ入る人ではなかった。
「若しかすると、先生はこの化物屋敷の中で、妙子さんを探そうというのではないかしら」
この想像が、小池助手をギョッとさせた。見せびらかすことの好きな、芝居がかりの殺人鬼のことだ。或はこの想像が当っているかも知れない。妙子さんを運んだ塵芥車はすぐ近所の神社の境内に、空っぽにして捨ててあったのだ。まだ薄暗い早朝とは云え、まさか若い女を抱いて遠くまで逃げることは出来まい、どちらの方角も町続きだから、やがてはげしくなる人通りの中を、怪しまれないで逃げおおせるものではない。という風に考えて来ると、いかに突飛に見えようとも、博士の想像は、どうやら当っているらしくも思われる。
博士が木戸へ近づいて入場料を払うと、木戸番の若者は妙な笑い顔で注意を与えた。
「中で紙札を二度渡しますからね。出口で返して下さい。それが無事に通り抜けたという証拠になるのですよ。二枚揃ってなくちゃいけませんよ」
二人はそれを聞き流して木戸を入って行った。テント張りとは云え、天井はすっかり厚い黒布で蔽ってあるので、一歩場内に入ると、夜も同然の暗さであった。その薄暗い中に、見通しも利かぬ竹藪の迷路が続いているのだ。
或は右に或は左に、或は往き或は戻り、やっと人一人通れる程の細道が、何町となくつづいている。全体の面積はさほどではなくても、往きつ戻りつの道の長さは驚くばかりである。
道が分れている箇所に出ると、小池助手はどちらを選ぼうかと迷った。若し間違った道に入り込んでしまったら、いつまでもどうどう廻りをするばかりで、果しがないからである。
「君、迷路の歩き方を知っているかい。それはね、右なら右の手を、藪の垣から離さないで、どこまでも歩いて行くんだ。そうすると、仮令無駄な袋小路へ入っても、二度と同じ間違いを繰り返すことがない。出鱈目に歩くよりも、結局はずっと早く出られるのだよ」
博士は説明しながら、右手で竹藪を伝って、先に立って、グングンと歩いて行く。小池助手は、成程そういうものかなあと思いながら、そのあとを追うのである。
長い竹藪の間々には、ありとあらゆる魑魅魍魎が、ほのかな隠し電燈の光を受けて、或は横わり、或は佇み、或は蹲まり、或は空からぶら下っていた。あるものはからくり仕掛けで、ゆっくりと動いていた。古池になぞらえた水溜の中から、痩せ細った手がニューッと出て、それから徐々に、お岩のように片目のつぶれた女の幽霊が現われ、見ていると、そのまんまるに飛び出した目から、タラタラと真赤な血が、とめどもなく流れ出すという、念の入った仕掛けもあった。
或時はまた、見物は闇の通路で、何かしらグニャグニャした大きなものを踏んづけるのである。ギョッとして目をこらすと、何とも形容の出来ない、鼠色のいやらしいものが地上に横わっているのだ。どうやら顔らしい部分や、手足らしい部分が見えるけれど、無論人間ではない。と云って動物でもない。何かしら、ゾーッとするような、えたいの知れぬ物体なのだ。
ある場所では、真に迫った首吊り女が、見物の頭の上から、スーッとその肩に負ぶさって、両手でしがみつき、いやな声で笑い出す仕掛けもあった。
だが、それらの人形が、どれほど巧みに、いやらしく出来ていたとしても、屈強の男を走らせる程の恐怖は感じられなかった。よく見ていると滑稽でこそあれ、心から怖いというようなものではなかった。
「先生、つまらないじゃありませんか。ちっとも怖くなんかありゃしない。どうしてこんなものを見て逃げ出すんでしょうね」
「マア、終りまで見なければ分らないよ。それに僕達はただ慰みに入って来たんじゃない。大事な探しものがあるんだ。人形一つでも見逃す訳には行かないよ」
二人はそんなことを低声に云い交しながら、お化けや幽霊に出くわすとは、立止り立止り、歩いている内に、やがて竹藪の迷路を抜けて、黒板塀のようなものに突き当った。
「オヤ、また袋小路かな。イヤイヤ、そうじゃない。ここに小さな潜り戸がある。開けてお入りくださいと、貼り紙がしてある」
如何にも、黒板塀の上に、ひどく下手な字の貼り紙が見える。
「君、少し凄くなって来たじゃないか。真暗な中で戸を開けて入るというのは、何だか気味の悪いものだね」
「そうですね。一人きりだったら、一寸いやな気持がするかも知れませんね」
しかし、二人はまだ心の中ではクスクス笑っていた。なんてこけおどしな真似をするんだろうと、おかしくて仕方がなかった。
博士を先に、二人は戸を開いて中に入った。だが、そこには別に恐ろしいものがいる訳ではなく、ただ文目もわかぬ闇があるばかりであった。天井も左右の壁も、板を重ねた上に黒布が張ってあるらしく、針の先程の光もささぬ如法暗夜である。目の前に何かムラムラと煙のようなものが動いたり、ネオン・サインのように鮮かな青や赤の環が現われたり消えたりした。造りものの化物などよりは、この網膜のいたずらの方が、却って不気味な程であった。
「こりゃ暗いですね。歩けやしない」
二人は手を壁に当てて、足で地面をさぐりながらあるいて行った。
「昔パノラマという見世物があってね、そのパノラマへ入る通路が、やっぱりこんなだったよ。この闇が、つまり現実世界との縁を断つ仕掛けなんだ。そうして置いて、全く別の夢の世界を見せようというのだね。パノラマの発明者は、うまく人間の心理を掴んでいた」
手さぐりで五間程も進むと、左側の闇に、何か白いものが感じられた。やっぱり網膜のいたずらかと疑ったが、どうもそうではないらしい。何かが蹲まっているのだ。
「ナアンだ。骸骨ですよ。骸骨が胡坐をかいているんですよ」
小池はその側に近づいて、骨格に触って見た。絵ではない。人間が縫包を着ているのでもない。本物の骨格模型である。
何も見えぬ黒暗々の中に、この世のたった一つの生きもののように、白い骨が浮き上って、ポツンと胡坐をかいている有様は、怖いというよりも、異様に謎めいて不気味であった。
だが、二人が立止って見ているうちに、妙なことが起った。骸骨がスーッと立上ったのである。そして、いきなり右手を二人の方へ突き出した。その手に紙の束を持っているのが、どうやら見分けられた。
と同時に、骸骨の口がパックリと開いて、カチカチと歯を噛み合した。
妙な嗄れ声で笑っているのだ。どこかにラウド・スピーカーがあって、遠くから声を聞かせているのに違いない。
それが木戸番の云った証拠の紙札であることは、すぐに分ったが、気の弱いものは、黒暗々の中で、骸骨の手からそれを受取る勇気がなくて、逃げ出してしまうかも知れない。謂わばこれが第一の関所であった。
博士と小池助手とは、無論怖がるようなことはなく、一枚ずつそれを受け取って、さらに前方への手さぐり足さぐりをはじめた。
それから少し行くと正面の壁に突き当った。右にも左にも道はない。行き止りになっているのだ。
「変だね、あとへ戻るのかしら」
「その辺に、又戸があるんじゃないでしょうか。やっぱり黒い板塀のようじゃありませんか」
「そうかも知れない」
博士は正面の板をしきりとなで廻していたが、間もなく、
「アア、あった、あった。ドアになっているんだよ。押せば開くんだ」
と呟きながら、そのドアを押して中へ入って行った。その拍子に、何かしらマグネシュウムでも焚いたような、ギラギラした光線が、パッと小池助手の目をくらませたが、それも一瞬で、ドアはバネ仕掛けのように、彼の鼻先にピッタリ閉されてしまった。
博士を追って中へ入ろうと、押しこころみたが、どうしたことか、ドアは誰かがおさえてでもいるように、びくとも動かない。
「先生、戸が開かなくなってしまいました。そちらから開きませんか」
その声がドアを漏れて幽かに聞えて来たが、博士の方ではそれどころではなかった。真暗闇から突然太陽のような光の中へ放り出されて、クラクラと眩暈がしそうになっていたのだ。
何かしらギラギラと目を射る、非常な明るさであった。暫らくは闇と光との転換の余りの激しさに、網膜が麻痺したようになって、何が何だか少しも分らなかったが、靄が薄れて行くように、目の前のギラギラした後光みたいなものが消えて行くと、その向うに、目を大きく見開いて、口を開け、だらしのない恰好で立っている一人の男が現われて来た。
「オヤッ、あれは俺じゃないか」
ギョッとして見直すと、その男はもう他所行きの取りすました顔になっていたが、眼鏡といい、口髭といい、三角の顎髯といい、モーニングといい、宗像博士自身と一分一厘も、違わない男であった。
何だか魔法にかけられたような、それとも気でも狂ったのじゃないかと怪しまれるような、一種異様の心持であった。場所が化物屋敷の中だけに、そして、今の今まで、文字通りの闇の中を歩いて来ただけに、博士はついこの見世物の考案者を買被ったのであった。
少し落ちついて、よくよく見れば、博士の正面にあるものは、大きな鏡の壁に過ぎないことが分って来た。
「ナアンだ。鏡だったのか。しかし、それにしても、この見世物は普通の化物屋敷なんかと違って、なかなか味をやりおるわい」
だが、ナアンだ鏡かと、軽蔑するのは少し早まり過ぎた。この妙な小部屋には、まだまだ博士をびっくりさせるような仕掛けが、しつらえてあったのだから。
ヒョイと右を向くと、そこにも博士自身がいた。左を向くとそこにも同じ自分の姿があった。後を振返れば、ドアの裏側がやっぱり鏡で、そこに実物の五倍ほどもある大入道のような博士の、あっけに取られた顔が覗いていた。
イヤイヤ、こう書いたのでは本当でない。鏡は四方にあったばかりではないのだ。天井も一面の鏡であった。床も一面の鏡であった。そして、博士を取りまく壁は不規則な六角形になっていて、それが枠もなにもない鏡ばかりなのだ。つまり六角筒の内面が、少しの隙間もなくすっかり鏡で張りつめられ、その上下の隅々に電燈が取りつけてあるという、いとも不思議な魔法の部屋なのである。
しかも、それらの鏡は、必ずしも平面鏡ばかりではなかった。ある部分は先にも記したように、実物を五倍に見せる円形の凹面鏡になっていた。またある部分は、鏡の面が複雑な波形をしていて、人の姿を一丈に引き伸ばしたり、二尺に縮めたりして見せた。そして、それらの雑多の影が六角の各々の面に互に反射し合って、一人の姿が六人になり、十二人になり、二十四人になり、四十八人になり、じっと鏡の奥を覗くと、遙かの遙かの薄暗くなった彼方まで、恐らくは何百という影を重ねて映っているのだ。それを六倍すれば何千人、更にその上に、天井と床とが、また各々に反射し合い、方々の壁に影を投げるのである。
博士はそういう鏡の部屋というものを、想像したことはあった。しかし、これ程よく出来た鏡の箱に、ただ一人とじこめられたのは、全く初めての経験なのだ。世間を知りつくし、物に動ぜぬ法医学者も、このすさまじい光景には、理窟ぬきに、赤ん坊のような驚異を感じないではいられなかった。
博士が笑えば、千の顔が同時に笑うのだ。しかも、それらの中には、五倍の大入道の顔、胡瓜のような長っ細い顔、南瓜のように平べったい顔なども、幾十となく交っている。手を上げれば、同時に千人の手が上がり、歩けば同時に千人の足が動くのだ。
天井を見上げると、そこには逆立ちをした博士が、じっとこちらを睨みつけている。床を覗けば、そこにも足を上にしてぶら下っている博士が、下の方から見上げている。そして、それら二様の逆の姿が、無限の空にまで、奥底知れぬ六角の井戸の底まで、数限りもなく重なり合って、末は見通しも利かぬ闇となって消えているのだ。つまり、前後左右は勿論、上も下も無限の彼方に続いていて、まるで大空に投げ出されでもしたような、大地が消えてなくなったような、云うに云われぬ不安定の感じであった。
どちらを見ても、行き止りというものがなく、自分自身の姿が無限に続いているのである。この恐ろしい場所を逃れるためには、それらの何千という人々を、掻き分け押し分け、無限に走る外はないという、奇怪千万な錯覚が起るのだ。
博士はふと、こんな見世物を興行させて置くのは人道問題だと思った。博士のような思慮分別のある中年者でさえ、たまらない程の不安を感じるのだから、若し女子供がこの鏡部屋にとじこめられたなら、恐怖のために泣き出すに違いない。イヤ、泣き出すばかりでなく、中には気が違ってしまう者もあるかも知れない。
博士は嘗て何かの本で、人間を鏡の部屋にとじこめて発狂させた話を読んだことがあった。そして、それと関聯して、寄席の芸人が物真似をする、蝦蟇の膏売りの、滑稽なようでいて、どことなく物凄い妙な口上が、耳元に浮かんで来た。無神経な蝦蟇でさえ、鏡に取りかこまれた恐怖には、全身からタラーリタラーリと膏汗を流すではないか。
流石の宗像博士もこの恐怖の部屋には、そのまま佇んでいる気はしなかった。大急ぎで六角の鏡の面に触りながら、どこかに出口はないかと歩き廻った。すると、千人の同じ博士がグルグルと、大グラウンドでのマス・ゲームのように、卍巴となって歩き廻るのだ。
何という残酷な仕掛けだろう。入口のドアは閉まったまま開かないし、出口も見つからぬ。見物が気の違うまで閉じこめて置こうとでもいうのだろうか。
さい前ドアが素早く閉まったのには理由があったのだ。あのドアには、一人だけ中に入ると、あとから見物が入らぬよう、ある時間、押しても引いても開かなくなってしまう仕掛けがしてあるのだ。そして、一人ぼっちでこの魔の部屋の恐怖を味わせようという訳なのだ。
「小池君、こいつは気味が悪いよ。鏡の部屋なんだ。それに出口がどこにあるんだか分らない。そのドアをもう一度押してごらん」
博士は外の闇の中にいる小池助手に、大声に呼びかけた。
「どうしても開かないんです。さっきから押しつづけているんですけれど」
「小池君、君ここへ入っても驚いちゃいけないよ。僕は何も知らずに飛び込んだものだから、ひどく面喰ってしまった。どこもかも鏡ばかりなんだ。この部屋には僕と同じ奴が千人以上もウヨウヨしているんだぜ。そして、僕と同じように、今物を云っているんだ。ハハハハハハハハ、アア、僕が笑うと、奴らも口を開いて笑うんだ」
「ヘエ、気味が悪いですね。そして、出口が分らないのですか。この戸はどっか狂ったのじゃないでしょうか。入口へ戻って、人を呼んで来ましょうか」
「アッ、開いた。開いた。君、やっと鏡の壁が口を開いたよ。じゃ僕は先に出て待っているからね」
如何にも、六角形の一つの面が、機械仕掛でクルッと廻転して、人一人通り抜けられる程の隙間が出来た。その向う側は例によって、黒暗々の闇である。
博士はそこを出ようとして、躊躇した。若し小池助手が入って来たら、こんな不気味な部屋へ一人残して置かないで、一緒に向うへ出ようと考えたからである。
しかし、化物屋敷の考案者は、そこに抜かりがなかった。
「僕の方は開きませんよ。どうしたんだろう」
小池助手が入口のドアを、外からドンドンと叩く音がした。しかし、いっかな開きはしないのである。
仕方がないので、博士は先に鏡の部屋を出て、外の暗闇に入ったが、すると、今まで開いていた隙間が、カタンという音を立て、自然に塞がされてしまった。そして、殆んどそれと同時に、部屋の中から幽かな小池助手の声が聞えて来た。
「先生、どこにいらっしゃるのです。開きましたよ。ドアが開きましたよ」
「出口はここだ。しかし、自然に開くのを待つ外はないのだ。仕方がない、暫くそこに我慢していたまえ」
博士は今出たあたりの壁をコツコツと叩いて聞かせながら、大声に呶鳴るのであった。
闇の中に佇んで暫らく待っていると、やっと目の前の壁が開いて、小池助手がフラフラと逃げ出して来た。
「驚きました。実にいやな気持ですね。僕は半分は目をつむってましたよ。そうでないと、今にも気が変になるような気がして」
「なる程。これじゃ、みんなが逃げて帰る筈だ。進めば進む程、物凄くなるんだからね」
二人はボソボソと囁き交しながら、またしても壁伝いに闇の中を歩きだした。真の闇というものは、人の声を低くするものである。そこに漂う何かしら隠微な魂が高話を抑えつけて、囁き声にしてしまうものである。
「どうです? 少し驚いたでしょう。だが、これはまだホンの序の口ですよ。本当に怖いのはこれからです。引返した方がおためですぜ。気絶なんかされちゃ困りますからね」
闇の中から低い嗄れ声が響いて来た。恐らくは骸骨の場合と同じように、どこかにラウド・スピーカーがあって、誰かが遠くから喋っているのであろうが、闇の中だけに、つい鼻の先に真黒な奴が踞まってでもいるような気がして、二人は思わず立止った。
「ハハハハハハ、ひどくおどかすねえ。それに、帰れ帰れっていうのは、すこし卑怯じゃないか」
「そうですね。人を喰ったものですね」
大多数の見物は、この辺でとどめを刺されて、愈々引返す気になるのであろうが、博士達は引返さなかった。鏡の部屋の経験で、これが世の常の化物屋敷でないことが分ったけれど、この二人は、不気味であればある程、却って好奇心をおこす側の人々であった。それに、肝腎の死体捜索という大目的があるのだから、場内を一巡しないでは意味をなさぬ訳だ。並々の見世物でなくて、大人の二人にも、かなりのスリルを感じさせるのは、謂わば予期しなかった儲けものであった。
手探り足探りで歩く程に、やがて徐々にあたりがほの明るくなって来た。
「また竹藪があるようだね」
如何にも、黒布のトンネルのような通路を出ると、またしても鬱蒼たる竹藪の細道であった。そこをガサガサ云わせながら辿って行く内に、ヒョイと右側を見ると、その竹藪に切れ目があって、幅一間奥行二間ほどの、藪に囲まれた空地があった。その部分だけ薄青い電燈がついているので、ハッキリ見えるのだが、空地の真中に大きな十字架が建っていて、そこに一人の女が大の字にしばりつけられている。青い獄衣のようなものを着て、その胸の部分だけが、前に括り合わされ、両腋から乳の辺まで、肌が現われている。
「磔刑人形ですね」
その十字架の両側には、チョン髷に結った二人の男が、繩の襷をかけて、長い鎗を左右から女の両腋につきつけている。そして、その鋒鋩が女の両の乳の下を、抉っている。それはここに細叙することを憚るほどの、見るものはたちまち吐き気を催すほどの、無残な有様であった。
女の美しい顔は、濃い藍色であった。恨めしげに見開いた目は真赤であった。唇はドス黒く見えた。眉をしかめ、目を狐のように逆立て、口を大きく開いて、わめいている形相の物凄さ。
しかも、ここにも異様なからくり仕掛けがあった。二人の男の手が動いて、鎗の鋒鋩がグイグイとそこを抉った。すると、アア、何ということだ。磔刑女は、ゾーッと歯ぎしりが出るような、聞くも無残な声で叫ぶのである。一度聞いたら、一月も二月も耳に残るような恐ろしい声で、わめくのである。マイクロフォンとラウド・スピーカーを、何と巧みに使いこなしていることだろう。
お化や幽霊を怖がらなかった二人も、流石にこの生人形には胸が悪くなった。お互の顔色が青くなっていることを認め合った。
「先生、早く通りましょう。これでは見物が逃げ戻る筈ですよ。なんてひどい見世物でしょう」
「管轄の警察の手落ちだね。こんなものを許すなんて。多分いつものお化け大会だぐらいに思って、よく調べなかったのじゃないかな」
それからの長い竹藪の細道には、或は右に或は左に、大小様々の空地があって、そこにありとあらゆる無残なもの、血腥いもの、一口で云えば、解剖学教室の最も怖ろしい光景に類する恐怖が、次から次へと、ほの暗い照明の中に、毒々しい生人形の塗料を光らせて、真に迫って、並んでいたのである。或ものは断末魔のうめきを立て、十本の指に空を掴み、あるものは知死期の痙攣に震え、あの死の恐怖、大手術の恐怖を、まざまざと見物の目の底に焼きつけようとしていたのである。
その光景の悉くを描写する事は、読者の為めに避けなければならない。それらの内の、最も手軽な一例を記すだけでも、恐らく十分すぎるであろう。
そこにはやや広い空地があって、背景は暗く繁った森林、左手にトンネルが魔物のような真黒な口を開き、その中から二本の鉄路が流れ出している。レールの土台を除いて、一面の草原、今汽車が通過したばかりという心持である。
その線路と草原とのあちこちに、今轢断されたばかりの若い女の死体が、転がっている。無論それらは一つに連続した死体ではない。六つ程に分れて転がっている死体だ。
レールも、青い草も血に染まっている。夫々の切口の恐ろしさ。何かしら白いものを中心にした真赤な輪であった。
切り離された首だけが、見物に最も近い草の上に、チョコンと、切口を土につけて立っていた。藍色に青ざめているけれど、美しい顔だ。
桐の木に彫刻をして、胡粉を塗り、塗料を塗り、毛髪は一本一本植えつけ、歯は本当の琺瑯義歯を入れるという、この生人形というものは、いつの世、何人が発明したのであろう。顔の小皺の一本まで、生けるが如き生々しさ。生人形とはよくも名づけたものである。
轢死者の首は、美しい眉をしかめ、口を苦悶にゆがめて、じっと目を閉じていた。アア、何という生々しさ。今汽車が通過したばかり、そして、レールからコロコロと転がって来て、そこへ据わったばかりという心持を、どんな名画も及ばぬ巧みさで描き出していた。まだ反動が鎮まらないで、生首はユラユラと揺れているかとさえ疑われた。
「先生、先生」
小池助手が青ざめた顔で、乾いた唇で、強く囁きながら、博士の腕を捉えた。
「先生、僕の目がどうかしているんでしょうか。よくこの首を見て下さい。こんな人形ってあるでしょうか。若しや……」
あとは口に出すのも恐ろしいように、云い渋った。
「妙子さんではないかというのだろう。僕もそれに注意しているんだが、少しも似ていないよ。生顔と死顔とは相好が変るものだと云っても、こんなに違う筈はないよ」
「そういえば、そうですね。しかし、僕はなんだか、本当の人間の首のような気がして……」
小池助手がそこまで囁いた時であった。まるで、その言葉を裏書でもするように、生人形の首が、パッチリと目を見開いたのである。涼しい黒目勝の目だ。その黒目が右に左にキョロキョロと動いた。
二人はギョッとして、一歩あとにさがった。例のからくり仕掛にしては、少し出来すぎている。
呆然と立ちすくんでいる二人の前で、生首の口辺の皺がムクムクと動いて、やがて、紫色の唇が開き、白い歯がニッと現われた。そして、笑ったのである。草原の上の生首が声を立てないでニヤニヤ笑ったのである。一瞬間、流石の法医学者も、勇敢なその助手も、動悸の早まるのをどうすることも出来なかった。顔は二人とも紙のように青ざめていた。
しかし、やがて、宗像博士は笑い出した。
「これは君、生きた人間だよ。若い女が土の中へ全身を埋めて、首だけ出しているんだよ」
無論その外に考え方はなかった。恐らくそこに木の箱でも埋めて、身体が冷えぬような設備をして、そんな真似をしているのであろうが、それにしても、何という突飛な、人騒がせな思いつきをしたものだ。薄暗い草原の中で、人形とばかり思い込んでいた轢死女の首だけが、ニヤニヤ笑うのを見たら、大抵の見物は腰を抜かしてしまうであろう。
「なる程考えたものだねえ。これ一つでも入場料だけの値打はありそうだぜ」
「僕はこんな気味の悪い見世物は始めてですよ。この興行主はよっぽど変り者に違いありませんね」
まだ青ざめた顔で、乾いた唇で、そんなことを話しながら、轢死の場面を立去ろうと、二三歩あるいた時である。小池助手は何かしら、うしろに異様な物の気配を感じて、ハッと振向いた。
すると、線路の上に転がっていた、血みどろの腕が、まるで爬虫類ででもあるように、スーッと草原の上を這って、こちらへ近づいて来るのが見えた。しかも、恐ろしいことには、それが見る見る柵を越して、通路の方まで這い出して来たのである。
「ワアッ!」
小池助手は思わず声を上げて、博士の肩にしがみついた。からくり仕掛けと分っていても、青白い腕ばかりが、暗い地面を這い出して来るなんて、どんな大人にも気味のよいものではない。
すると、又してもいつもの嗄れ声が、どこからともなく響いて来た。
「お客さん、これが二枚目の紙札ですよ。これを持って出ないと賞金はとれませんよ。だが、用心して下さい。死びとの腕はお客さんに咬みつくかも知れませんぞ」
又しても、陰気な脅し文句だ。見れば、死人の指には、一束の小さな紙札が握られている。
「なるほど、なるほど。よく考えたものだねえ。しかし、これを受け取れば、我々は完全に関所を通過したことになる訳だね」
博士はそんなことを呟きながら、腰をかがめて、人形の腕を掴むと、その指から二枚の紙札を抜き取った。
「なる程、大きな判が捺してあるね」
博士は立上って、感心したように紙札を眺めていたが、さい前のと同じように、二枚とも自分のポケットに納めた。
それからまた、幾つもの思い切って無残な場面を通りすぎて、さしもに長い竹藪も終りに近いところまで辿りついた。
「先生、とうとうおしまいのようですね。しかし、どこにも本物の死体なんて、なかったじゃありませんか」
小池助手は失望の面持である。あれだけ夥しい死びと人形の中に、一つも本物が混っていないなんて、却って不自然なような気さえした。
「だが、まだここに、何だか物々しい場面があるぜ。ここだけひどく薄暗いじゃないか」
博士はそこの柵の前に立って、じっと奥の方を見つめていた。
そこには、竹藪に囲まれ雑草の生い茂った空地に、一軒の荒屋が建っていた。六畳一間きりの屋内は、戸も障子もなくて見通しである。その部屋一杯に、色褪せた萠黄の古蚊帳が吊ってある。光と云っては、その蚊帳の上に下っている青いカヴァーをかけた五燭の電燈ばかり。蚊帳の中は殆んど見すかせぬ程の暗さである。
「なんだろう。蚊帳の中に何かいるようじゃないか」
「いますよ。よく見えないけれど、何だか裸体の女のようですぜ。アア、真裸体です。それでこんなに暗くしてあるんですよ」
「なにをしているんだろう」
「殺されているんですよ。顎から胸にかけて、黒いものが一杯流れています。血です。裸体に剥がれて、惨殺された女ですよ」
「五体は揃っているようだね」
「エエ、そうのようです」
「髪は断髪じゃないかい」
「断髪ですよ」
「肉づきのいい、若い女だね」
話している内に、少しずつ目が慣れて、蚊帳の中の女の姿が浮上って来た。
「調べて見ましょうか」
「ウン、調べて見よう」
二人は意味ありげな目を見交した。何かツーンと痺れるような感じが、小池助手の背筋を這い上った。
二人は柵を越えて、無言のまま中に入り、膝を没する雑草を踏み分けて、荒屋の上に上って行った。そして、先ず博士が古蚊帳の裾に手をかけると、それをソッとまくり上げた。
荒屋の縁側に上って、古蚊帳をまくると、天井に仕掛けた青い豆電燈の幽かな光を受けて、全裸の美女が、まるで水の底の人魚のように横わっていた。二人は這うようにして、その生々しい生人形の側へ近づいて行った。
「どうもそうらしいね」
「エエ、この顔は妙子さんにそっくりです」
小池助手の鼻の先に、ふっくらとした美女の肩がもり上っていた。彼はオズオズとその青ざめた肌に指を当てて見た。
冷い。氷のような冷さが、指の先から心臓まで伝わって来るように感じられた。それを我慢しながら、グッと押して見ると、美女の肩が、靨のように凹んで行った。柔かいのだ。ゴムのように柔かいのだ。
博士は、ハンカチを取り出して、ベットリと美女の胸を染めた黒いものに押し当て、それを目の前に持って来て眺めたり、匂を嗅いだりしていた。ハンカチには黒い液体が滲んでいる。
「君、懐中電燈をつけてごらん」
小池助手はポケットから、小型の懐中電燈を取り出して、スイッチを押し、その光を博士のハンカチに当てた。
今まで青い電燈の下で、黒く見えていたハンカチの汚点が、赤黒い血の色に変った。
博士は無言のまま、ハンカチを助手に渡すと、胸の傷痕を調べた。
「心臓を抉られている。だが……」
博士は出血量が案外少いことを不審に思っているらしく、なお死体の全身を眺め廻していたが、
「アア、やっぱり絞殺されていたんだ。そして、ここへ運んで来てから、舞台効果を出すために、心臓を抉ったのに違いない」
と、独言のように呟いた。
「昨夜、寝室で絞殺されたのでしょうか」
「そうらしい。でなければ、あんなに易々とベッドの中へ隠したり、塵芥箱の中へ隠したり出来ない筈だからね。……犯人は、今朝まだ薄暗い内に、これを塵芥車にのせて、そこの神社の森の中へ引っぱって来た。それから、死体を担いで、化物屋敷のテントに忍び込み、この蚊帳の中の生人形と置き換えたのだ。心臓を抉ったのは、ここへ来てからに違いない。無論、最初からここへ死体を隠すつもりで、見当をつけて置いたのだろう。この場面を選んだのは、電燈も薄暗いし、蚊帳の中といううまい条件が揃っていたからだ。この中へ置けば、我々のように蚊帳をまくって見る見物なんかありやしないから、急に発見される心配はないと思ったのだ」
「それに、大抵の見物は、ここまで来ないで、逃げ帰ってしまうのですからね。……でも、見世物小屋の人達に、よく見つからなかったものですね」
「犯人がここへ来た頃は、まだ夜が明けたばかりで、みんな寝ていたのだろう。それに、何も正面の入口から入らなくても、この場面のすぐうしろから、テントの裾をまくって忍び込めば、訳はないんだからね」
「早速、川手さんと中村係長に知らせなければなりませんね」
「ウン、電話をかけることにしよう。……だが、小池君、ちょっと待ち給え。さい前渡された二枚の紙札が何だか気になるんだ。懐中電燈をつけた序に調べて置こう」
紙札というのは、例の暗闇のなかの骸骨と、叢を這い出して来た生腕とから受取った、化物屋敷通過証ともいうべき紙片である。
博士はその二枚の紙片を、ポケットから取り出し、小池助手のかざす電燈の光の中で、丁寧に調べて見た。
紙片は二枚とも同質同形で、その表面には、夫々「第一引換券」「第二引換券」と筆太に記され、その真中に「丸花興行部之印」という大きな赤い判が、ベッタリと捺してある。
二枚とも表面を調べ終ると、博士はそれを裏返して、懐中電燈の光に照らして見た。
「アア、やっぱりそうだ。君、これを見たまえ」
二枚とも、紙片の真中に、黒い指紋がハッキリと現われていた。偶然についたのではなくて、指の腹に墨をつけて、態と捺した指紋である。
博士は胸のポケットから、小型拡大鏡を出して、紙片の上に当てて見た。
「三重渦状紋だ、悪魔の紋章だ」
「例のいたずらですね」
「我々を嘲笑しているのだよ」
「しかし、あの骸骨や、人形の腕が、これを持っていたのは変ですね。丁度僕らの受取った札に、あいつの指紋が捺してあるというのは。……若しや、あいつ、まだこの中にウロウロしているんじゃないでしょうか」
小池助手は異様に声を低くして、じっと博士の顔を見つめた。
「そうかも知れない。君、あれは何だろう。あの藪の中にいる黒いものは……」
博士の目は、蚊帳を通して、荒屋のうしろの竹藪に注がれていた。
「エッ、黒いものですって?」
「ホラ、あすこだ。海坊主のような真黒な奴だ、まさか、こんな人の目につかぬところに、化物の人形が置いてある筈はない」
博士は、荒屋の背後の竹藪の中を、目で知らせながら囁いた。殆ど光線の届かぬ闇の中だ。そう云われて見ると、何かそこに、闇よりも濃い影のようなものが、朦朧と立っているように感じられる。
博士は刺すような眼光で、それを睨みつけている。闇の中の怪物も、身動きもせず、こちらを見つめている様子だ。蚊帳を隔てて、殆んど三十秒ほども、息づまるような睨み合いがつづいた。
「君、来たまえ」
博士はそう囁くと、いきなり蚊帳をまくって、荒屋の裏の藪の中へ飛び込んで行った。
ガサガサと竹の揺れる物音。
「そこにいるのは誰だッ」
博士の叱りつけるような重々しい声に応じて、闇の中から異様な笑い声が響いて来た。クックックッと、口を押えて忍び笑いをしているような、まるで怪鳥の鳴き声のような、何とも云えぬいやな感じの音響であった。そして、又ガサガサと竹が鳴って、黒い怪物は素早く藪の中へ逃げ込んだ様子である。
「待てッ」
闇の中の盲目滅法な追跡が始まった。
小池助手も、博士のあとを追って、蚊帳を飛び出し、竹藪をかき分けながら、音のする方へ急いだ。
厚い竹藪の壁を押し分けて向うに出ると、そこは以前に通り過ぎた迷路の中で、両側に藪のある曲りくねった細道がつづいていた。
「どちらへ逃げました?」
「分らない。君はそちらを探して見てくれたまえ」
博士は云い捨てて、迷路を右へ走って行く。小池助手は左の方へ突進した。
右に折れ左に折れ、いくら走っても際限のない竹藪の細道であった。もう自分がどの辺にいるのかさえ見当がつかない。黒い怪物は影も見えず、宗像博士がどの辺を追跡しているのか、それさえ全く分らぬ。
ふと立止ると、厚い竹藪の向側に、ガサガサと人の気配がした。重なり合った竹の葉をすかして見ても、薄暗くてよく分らない。何かしら黒い人影が感じられるばかりだ。
「先生、そこにいらっしゃるのは先生ですか」
声をかけても相手は答えなかった。答える代りに、又ガサガサと身動きして、クックックッと、あの何とも云えぬ不気味な笑い声を立てた。
小池助手は、それを聞くと、ギョッと立ちすくんだが、やがて気を取りなおして、いきなり竹藪をかき分けながら、
「先生、ここです。ここです。早く来て下さい」
と叫び立て、顔や手の傷つくのも忘れて、藪の向側へくぐりぬけた。
だが、くぐりぬけて見廻すと、怪物はどこへ逃げ去ったのか、影もない。そして又、八幡の藪知らずの、際しもない鬼ごっこが始まるのだ。
「小池君」
ヒョイと角を曲ると、向うから宗像博士が走って来た。
「どうだった。あいつに出会わなかったか」
「一度声を聞いたばかりです。確かにこの迷路のどこかにいるには違いないのですが」
「僕も声は聞いた。竹藪のすぐ向側に立っているのも見た。しかし、こちらがそこまで行く間に、先方はどっかへ隠れてしまうんだ」
二人が立話をしている所へ、ガサガサと人の気配がして、三人の男が近づいて来た。見世物小屋の人達である。さい前の叫び声を聞きつけて、様子を見にやって来たのだ。
博士は三人のものに、事の仔細を語り、怪物逮捕の手伝いをしてくれるように頼んだ。
「小池君、じゃ、君はこの人達と一緒に、出来るだけ探して見てくれたまえ。僕は近くの電話を借りて、中村君に警官隊をよこしてくれるように頼むことにする。
外は明るいのだし、大勢の見物が集っているんだから、犯人が外へ逃げ出すことはなかろう。ナアニ、もう袋の鼠も同然だよ」
博士は云い捨てて、惶しく迷路の彼方へ遠ざかって行った。
それから間もなくの出来事である。
薄暗い竹藪の、とある細道を、黒い影法師のようなものが、フラフラと歩いていた。
よく見ると、そいつは、ぴったりと身についた真黒のシャツを着、真黒のズボン下を穿き、黒い靴下、黒い手袋、頭も顔もすっぽりと黒布で包んだ、全身黒一色の怪物であった。
ただ、黒布の目の部分だけが、細くくり抜いてあって、その奥から、鋭い両眼が要心深くあたりを見廻している。無論何者とも判断がつかぬけれど、若しこれが妙子さんを誘拐した犯人の一人とすれば、あの背の高い方の、ガーゼの眼帯を当てていた男に違いない。
黒い怪物は、宗像博士が警官隊を呼ぶために電話をかけに行ったことも、又、小池助手の指図で、十人余りの小屋の者が、迷路の要所要所に、捜索の網の目を張っていることも、よく知っているに違いない。
だが、彼は少しも慌てている様子がない。さも自信ありげに、ゆっくりと歩いている。例のクックックッという幽かな笑い声さえ立てながら。
竹藪の向うのあちこちでは、捜索の人達がガサガサと物音を立てながら、右往左往しているのが、手に取るように聞える。竹の葉をかき分ける音が、前からも後からも、右からも左からも聞えて来る。黒い怪物は、今や四方から包囲された形だ。しかも、その包囲陣は徐々に彼の身辺に縮められているのだ。
怪物は、しかし、まだせせら笑っていた。冗談らしくピョイピョイと飛ぶような恰好をしたりして、暗の中を呑気らしく歩いていた。
角を曲ると、頭の上に白いものがぶら下っていた。例の首吊り女の幽霊である。
怪物はそれを見上げて、又クックックッとせせら笑った。黒布で包んだ顔の中から、二つの細い目が、何か陰気なけだものの目のように光っている。この黒い海坊主を見ては、幽霊の方で身震いするかも知れない。
怪物がそのまま歩き出すと、からくり仕掛けの幽霊は、そのあとを追うように、スーッと舞い下って来た。そして、普通の見物にするのと同じ恰好で、うしろから、彼の黒シャツの肩にしがみついた。
怪物は予期していたと見えて、少しも驚かなかった。又妙な笑い声を立てながら、そのか細い幽霊人形の手を払いのけようとした。
だが、どうした事か、幽霊の両手は、いくらふりほどいても、黒い怪物の肩から離れなかった。もがけばもがく程、その手はグングン彼の頸をしめつけて来た。
それは実に異様な光景であった。細い両眼の外は黒一色の影法師の背中に、長い髪の毛をふり乱した、白衣の青ざめた女幽霊が、負ぶさるようにしがみついているのだ。暗闇の竹藪の中では、それが滑稽に見えるどころか、何ともえたいの知れぬ奇怪なものに感じられた。現実の出来事というよりは、悪夢の中の突拍子もない光景であった。
痩せ衰えた女幽霊の余りの力強さに、流石の怪物もギョッとしたらしく、今度は本気になって、力まかせにその手をふりほどこうとあせった。
だが、幽霊の両手は、愈々力をこめて、頸をしめつけて来る。呼吸もとまれとしめつけて来る。
「き、貴様ッ……」
怪物は遂に悲鳴を上げた。うしろにしがみついている奴が、人形ではなくて、生きた人間であることを悟ったのだ。幽霊に化けて、彼の通りかかるのを待ち受けていた、追手の一人であることを悟ったのだ。
恐ろしい格闘が始まった。女幽霊と海坊主との、死もの狂いの組打である。
だが、戦いはあっけなく終りをつげた。頸をしめつけられて、力の弱っていた怪物は、たちまち幽霊の為に組み伏せられてしまった。
「オーイ、捕えたぞ。ここだ、ここだ、早く来てくれ」
幽霊が小池助手の声で呶鳴った。
ただ追い廻していたのでは、相手は真黒な保護色の怪物だから、急に捉える見込みはないと悟って、咄嗟の機智、彼は首吊り幽霊の衣裳をつけ、長髪の鬘を冠って、人形に化けて敵の虚を突いたのであった。
小池助手は得意であった。博士の留守の間に、早くも怪物を捉えてしまったのだ。残虐飽くなき復讐魔を組み敷いてしまったのだ。それにしても、見かけ程にもない弱い奴だ。一体どんな顔をしているのだろう。
彼はいきなり覆面の黒布に手をかけて、ビリビリと引き破った。顎が、口が、鼻が、そして目が、次々と現われて来た。薄闇の中とはいえ、接近しているので顔容が分らぬ程ではない。彼は怪物の顔を見た。はっきりとその素顔を見たのだ。
一目見るや否や、小池助手の口から、何とも云えぬ恐ろしい叫び声がほとばしった。その調子には、極度の驚きと、何かしら世にも悲痛な響きが籠っていた。
「ウヌ、俺の顔を見たな」
黒い怪物がうめくように云って、組みしかれたまま、クネクネと身体を動かしたかと思うと、闇の中にパッと青い光が閃めいて、バクッと物を裂くような音がした。
それと同時に、幽霊の胸から、真赤な血のりがポトポトと滴り落ちていた。彼は顔の前に垂れ下った長い髪の毛を振り乱して、ウーンとのけぞったが、そのまま縡れて、パッタリうしろに倒れてしまった。
組みしかれていた黒い怪物は、引裂かれた黒布を元通り顔の前に垂れると、ゆっくりと起き上った。右手には今火を吐いたばかりの小型のピストルを握っている。
「クッ、クッ、クッ……」
彼は又あの奇妙な笑い声を立てた。そして、可哀想な小池助手の死体を踏み越え、素早く竹藪の向うに姿を隠してしまった。
それと引違いに、反対の方角から、二人の小屋の者が、息せききって駈けつけて来た。小池助手の恐ろしい叫び声と銃声を聞きつけたからである。
彼等はそこに女幽霊の転がっているのを見た。不思議なことに、その幽霊の裾からは、二本の足がニューッと突き出していた。胸からは白衣を染めて真赤な血が流れ出していた。
暫くは何が何だか分らず、呆然として立ちつくしていたが、やがて、一人がそれと気附いて、幽霊の長髪をかき分けて見た。
「オイ、これはさっきの探偵さんだぜ。幽霊に化けて曲者を待伏せしていたのかも知れない。アア、もう脈が止まっている。あいつにやられたんだ。あいつはピストルを持っているんだぜ」
二人は恐怖に耐えぬもののように、竹藪の重なり合った闇の中を見廻した。
「それは一体どうしたというのです」
見上げると、そこに宗像博士が立っていた。
「あなたのお連れの方が、曲者の為に撃たれたのです」
「エッ、小池君が?」
博士は咄嗟にそれと察したのか、転がっている幽霊の側に跪いた。
「オオ、小池君、この様子では、あいつを見つけて組みついて行ったんだね。そして、こんな目に会ってしまったんだね。
アア、もう駄目だ、心臓の真中をやられている。よしッ、小池君、この仇はきっと取ってやるよ。君と木島君と二人の仇は俺が必ず討って見せるよ」
博士は両眼にキラキラと涙の玉を浮べて、小池助手の屍の前に静かに脱帽するのであった。
中村捜査係長が制服私服合せて十二名の部下を引連れ、三台の自動車を飛ばして駈けつけたのは、それから二十分程のちであった。
係長は宗像博士から委細を聞き取ると、敏速に兇賊逮捕の陣容を整えた。半数の警官は賊がテントを潜って逃走するのを防ぐ為に、小屋掛けの四方の見張りに立て、残る半数を二隊に分け、小屋の入口と出口とから、綿密な捜査をしながら中心地点に進ませることにした。
化物屋敷全体を薄暗くしている天井の黒布は、小屋の者に命じて、直ちに取りはずさせることにしたので、見る見る陰鬱な小屋の中が明るくなって行った。それにつれて、場内の魑魅魍魎は、昼間の化物となって、到る所に滑稽なむくろを曝しはじめた。
竹藪の迷路も、行き止りの袋小路が全部切り払われ、どこを通っても出口に達することができるようになった。警官隊と十数名の小屋の若い者とが、隊伍を組んで、切り開かれた白昼の藪の間を進んで行った。
裏口から入った一隊は、無残人形の場面を、一つずつ綿密に捜索しながら、前進したが、天井の黒布が取り払われて見ると、どの場面もいたずらに毒々しく醜怪なばかりで、凄味など殆んど感じられなかった。
裏口から三つ目の舞台は、例の轢死女の場面であったが、地中に身を潜めた生ける生首は、どこへ逃げ去ったのか、影もなく、その首の生えていた部分に、ポッカリと黒い穴があいていた。
「オイ、あの奥に何だかいるようだぜ」
一人の警官が同僚を顧みて囁いた。指さすのを見ると、そこには例の模造赤煉瓦のトンネルが真黒な口を開いているのだ。
天井から光が射すとは云っても、トンネルの中は真暗だし、その辺一体は、竹藪の茂みになっていて、何となく陰気である。
三人の警官、それに小屋の若者四人、七人の同勢が、手をつながんばかりにして、オズオズと柵を乗り越え、汽車の線路を伝って、転がっている人形の手や足を蹴ちらしながら、トンネルの口に向って近よって行った。
「このトンネルは一間ばかりで行き止りになっているんですから、どこにも逃げ道はありやしませんよ」
若者が警官達に囁く。
やがて、人々はトンネルの前二間程に近づくと、暗い穴の中を覗き込んだ。
トンネルの内部は、すっかり黒い塗料で塗りつぶしてあるのだが、その行き当りの壁の中に、細い二つの目が光っていた。よく見ると、壁と同じ色をした影法師のようなものが、そこに突立っているのだ。
それを見ると、人々は思わずギョッと立止った。
「危いッ、ピストルを持っているぞッ」
人々のひるむ前に、黒い怪物は、浮き出すように前進して来た。右手には油断なくピストルを構えながら、クックックッと例の不気味な笑い声を立てながら。
トンネルを出ると、大胆不敵にも、ジリジリと警官の方へにじり寄って来る。七人の方が却って押され気味である。
怪物の足が線路を越えた。今度は柵の方へと、蟹のように横歩きを始める。ピストルは七人の真中に狙いを定めたままだ。
アッ、柵を越えた。越えたかと思うと、クルリとうしろ向きになった。そして、通路を人なき方へと、矢のように走り出した。
「ウヌ、待てッ」
「逃がすもんか、畜生」
かけ声だけは勇ましく、逃げる一人を追う七人、すさまじい追っ駈けが始まった。
「クックックッ……」
怪物は走りながらも、まだ嘲笑をやめなかった。
無残人形の幾場面を過ぎて、怪物は両側を黒布で張った細い通路へ飛び込んで行った。その正面には、例の鏡の部屋があるのだ。
その通路も、天井の蔽いが取去ってあるので、怪物の躍るような黒い姿がよく見える。彼はそこを一息に駈け抜けて、行き当りの黒板塀のドアを引きあけ、とうとう鏡の部屋に辷り込んだ。
七人の追手は忽ちドアの前に殺到したが、そこで又立ちすくんでしまった。ドアが細目に開いて、怪物の白い目がじっとこちらを睨みつけていたからだ。イヤ、目だけではない。ピストルの筒口が、今にも火を吐くぞとばかり、不気味に覗いていたからだ。
「向うの出口から廻って、はさみ撃ちにしたらどうでしょう」
一人の若者が囁き声で、妙案を持出した。
「よし、それじゃ、君は向うへ廻って、あちらにいる警官に、この事を伝えてくれ。出口の方を固めてくれるようにね」
これも惶しい囁き声の指図だ。若者は通路の壁を押し破って、鏡の部屋のうしろ側へ飛び出して行った。
愈々怪物は袋の鼠となった。彼は今、何も知らないで、戸の隙間から警官達を威嚇しているけれど、やがて背後の入口から、別の警官隊が殺到するのだ。腹背に敵を受けては、いかな兇賊も運の尽きに違いない。若し万一、どうかしてこの鏡の部屋は逃げ出すことが出来たとしても、小屋の外には六人の警官が見張りをしているばかりか、事件を聞きつけて集った弥次馬の大群が、テントのまわりをグルッと遠巻きにして見物しているのだ。その中を、どう逃げ終せることが出来るものか。
あとに残った六人の追手は、じっとピストルの筒口を睨みつけながら、息を殺して時の来るのを待ち構えていた。
「クックックッ……」怪物は又笑い出した。アア、何も知らないで、呑気らしく笑っている。
五秒、十秒、十五秒……追手達の腋の下から冷い汗がジリジリと流れた。突然、鏡の部屋の中に物音がした。何者かが歩き廻っているのだ。咳払いの音が聞える。
しかし、賊のピストルはこちらを狙ったまま、少しも動かない。どうしたのかしら。オオ、今にも格闘が始まるのではないか。敵も味方も鏡に映る千人の姿となって、何千人の大乱闘が演じられるのではないか。
手に汗を握って待ち構える人々の前に、鏡の部屋のドアが、静かに開き始めた。オヤッ、おかしいぞ。怪物はやっぱりピストルを構えたままだ。では、早くも計略を悟って、逆にあいつの方から打って出る積りかしら。
人々はギョッとして、思わずあとじさりを始めた。
ドアは段々大きく開いて行く。黒い怪物め、愈々飛び出して来るんだな。逃げ腰になって、じっと見つめている一同の前に、遂にドアはすっかり開け放された。
すると、オオ、これはどうした事だ。そこに立っていたのは、敵ではなくて味方であった。味方も味方、当の怪物の発見者の宗像博士その人であった。
「オヤ、あなた方何をしているんです。あいつはどうしたのですか」
博士の言葉に、警官達は開いた口が塞がらなかった。
「オオ、宗像先生、あなたはその部屋で、曲者をごらんにならなかったのですか。つい今し方まで、そのドアの隙間から、我々にピストルを突きつけていたんですぜ」
「僕もここにあいつが隠れていると聞いたものだから、はさみ撃ちにする積りで、入って来たのだが、入って見ると誰もいないのです。ただ、このピストルがドアの把手にぶら下っていたばかりでね」
博士はそういいながら、紐で結びつけたピストルを取り上げて、一同に示した。
「あなた方は、このピストルの筒口が覗いているのを見て、あいつ自身が、ここにいるのだという錯覚を起していたのですよ。あいつはピストルをここにぶら下げて、丁度あなた方の方に筒口が向くようにして置いて、素早く逃げてしまったのです」
人々は余りのことに、それに答える力もなく、呆然として博士の顔を見つめていた。
「しかし、おかしい。僕はもうさい前から、向うの戸口の外にいたんですが、誰もここから逃げ出すものを見かけなかった。ひょっとしたら、鏡の壁に何か抜け穴でも出来ているのじゃないかと思うくらいです」
怪物の奇怪な消失に、又改めて大捜索が繰返された。人の隠れそうな場所は、悉く打毀し、迷路の竹藪もすっかり倒してしまって、隅から隅まで、何度となく探し廻った。
しかし、遂に黒い怪物は、どこにも姿を現わさなかった。と云って、テントの外へ逃げ出さなかったことは、見張りの六人の警官をはじめ、まわりを囲む群集が、何よりの証人であった。
宗像博士の提案によって、鏡の部屋が取り毀され、大鏡が一枚一枚壁からはずされて行った。しかし、そのあとには、どんな抜け道も、どんな隠れ場所も発見されなかった。
あの不気味な鏡の部屋は、一人を千人にして見せるばかりでなくて、人間を全く影も形もないように吸い取ってしまう魔力を持っていたのであろうか。
人々は、六角の鏡の部屋が、奇術師の魔法の箱のように、そこへ入った人間を、先ず粉々に打ちくだき、その目にも見えぬ破片を、六方から、サーッと吸い取って行く光景を幻想して、ゾーッと肌寒くなる思いをしたのであった。
その執拗残酷な復讐鬼の正体は少しも分らなかった。不思議なことに、復讐を受けている川手氏自身さえ、全く見当がつかないと云っていた。
ただ分っているのは、そいつが世にも恐ろしい三重渦巻の指紋を持っていることであった。三つの渦巻が三角形に並んで、まるでお化けが笑っているように見える三重渦状紋。悪魔は到るところにその怪指紋を残して行った。殊に復讐行為の直前には、殺人の予告ででもあるかのように、必ず人々の前にそのお化指紋が現われるのであった。
復讐鬼は魔術師のような不思議な手段によって、川手氏の二令嬢を誘拐し、惨殺し、しかもその美しい死体を、衆人の目の前に曝しものとした。妹娘雪子さんは、衛生展覧会の人体模型陳列室に、その生けるが如きむくろを曝す憂き目を見、姉娘の妙子さんは、場所もあろうにお化け大会の残虐場面の生人形と置き換えられ、竹藪に囲まれた一つ家の場面に、胸を血だらけにして倒れていた。
そして、この次は、一家の最後の人、川手氏自身の番であった。復讐鬼の真の目的は、川手氏にあったことは云うまでもない。先ずその二令嬢を惨殺したのは、川手氏を思うさま苦しめ悲しませ、復讐を一層効果的にする為であったことは、復讐鬼の嘗ての脅迫状によっても明かであった。
川手氏は愛嬢を失った悲歎と、我身に迫る死の恐怖の為、流石の実業界の英雄も、まるで思考力を失ったかのように、為すところを知らぬのであった。殆んど人任せで妙子さんの葬儀を終ると、奥まった一間にとじこもり、人を避けて物思いに耽っていた。
葬儀の翌早朝、宗像博士の来訪が取次がれた。他の来客は悉く断っているのだけれど、博士だけには会わぬ訳には行かぬ。今はこの聡明な私立探偵だけが頼りなのだ。妙子の場合は、明かに探偵の失敗であったが、忽ちに悪魔のトリックを看破し、死体のありかを探し当てたのは、宗像博士その人ではなかったか。この人をおいて、あの魔術師のような復讐鬼に対抗し得る者が、外にあろうとは考えられないのだ。
応接間に通されると、宗像博士は鄭重に悔みを述べ、彼自身の失策を心から詫びるのであった。
「この申訳には、第三の復讐を未然に防ぐ為に、僕の全力を尽したいと思います。こうなっては、もう職業としてではありません。あなたの依頼がなくても、僕の名誉の為に戦わなければなりません。それに、僕としては、可愛い二人の助手をあいつの為に奪われているのですから、彼らの復讐の為にも、今度こそあの怪指紋の主を捉えないでは、僕自身に申訳がないのです」
「有難う、よく云って下すった。わしは二人の娘をなくし、あなたは二人の助手を奪われたのですねえ。お互に、同じ被害者だ。費用の点はいくらかかっても僕が負担しますから、思う存分にあなたの智慧を働かして下さい。
二人きりの娘が二人とも、あんなことになってしまって、わしはこの世に何の楽しみもなくなったのです。もう事業にも興味はありません。今もそれを考えていたところですが、これを機会に事業界からも引退したいと思うのです。そして、二人の娘の菩提を弔って、余生を送りたいと思っています。
ですから、娘達の敵を取るためには、わしの全財産を擲っても惜しくはありません。君に一切をお任せしますから、警視庁の中村君とも聯絡を取って、出来るかぎりの手段をつくして下さい」
「お察しいたします。おっしゃるまでもなく、僕は当分の間、外の仕事は放って置いて、この事件に全力をつくす考えです。それについて、一つ御相談があるのですが」
宗像博士はそう云って、一膝前に乗り出すと、殆んど囁き声になって、
「川手さん。今さし当って予防しなければならないのは、第三の復讐です。つまりあなたに対する危害です。それがあいつの最終最大の目的であることは分り切っているのですからね。
こうしてお話ししている内にも、魔法使のようなあいつの魔手は、我々の身辺に迫っているかも知れません。これから僕達は、昼も夜も絶間なく、あいつに監視されているものとして、行動しなければならないのです。
で、僕は第三の復讐を予防する手段について、今朝から一日頭を絞ったのですが、結局あなたに身を隠して頂く以外に、安全な方法がないという結論に達したのです。
身を隠すなんていうことは、あなたもお好みにならぬでしょうし、僕にしても採りたくない手段ですが、この場合に限って、そうでもするより安全な道はないのです。なにしろ、相手が何者であるか、どこにいるのか、少しも分っていないのですからね。見えぬ敵と戦うためには、こちらも身を隠すほかはないのです。
そうして、あなたに安全な場所へ移って頂けば、僕は思う存分働けるというものです。あなたの保護と賊の逮捕という二重の仕事に、力をわける必要がなくなって、ただ復讐者の捜索に全力を注ぐことが出来る訳ですからね。
それについて、一つ考えていることがあるのですが」
博士はそこまで云って、ジロジロと辺りを見廻し、椅子を引き寄せて、川手氏に近づき、その耳に口をつけんばかりにして、一層声を低め、殆んど聞き取れぬ程に囁くのであった。
「あなたの替玉を作るのですよ。影武者ですね、丁度持って来いの人物があるのです。相当の報酬を出して下されば、命を的に引受けてもいいという男があるのです。柔道三段という豪のものですよ。その男をこのお邸へ、あなたの身代りに置いて、謂わば囮にする訳です。そして、近づいて来る賊を待伏せしようというのです」
「そんな男が本当にあるのですか」
川手氏は少し大人げないという面持で、気の進まぬ調子であった。
「不思議とあなたにそっくりなのです。マア一度会ってごらんなされば分ります。うまくやれば召使の方達も、替玉とは気がつかないかも知れません」
「それにしても、わしが身を隠す場所というのが、第一、問題じゃありませんか」
「イヤ、それも心当りがあるのです。山梨県の片田舎に、今丁度売りに出ている妙な一軒家があるのです。ある守銭奴のような老人が、盗難を恐れる余り、そんな妙な家を建てたのですが、全体が土蔵造りで、窓にも縁側にもすっかり鉄板張りの戸がついていて、その上に城郭のような高い土塀を囲らし、土塀の外にはちょっとした堀があって、跳橋まで懸っているという、まるで戦国時代の土豪の邸とでもいった用心深い建物なのです。
僕はそこの主人がなくなる前、ある事件で知合いになって、その城のような邸に泊ったこともあるのですが、場所といい、建物といい、あなたの一時の隠れ場所には持って来いなのです。
現在は、その地方の百姓の老夫婦が留守番をしているのですが、その人達も僕はよく知っていますから、売買のことはいずれゆっくり取極めるとして、今日からでもそこへ落ちつくことが出来ます。家具調度も揃っていますし、マア、宿に泊るようなつもりで、鞄一つで行けばいい訳です。
実はこういうことをお勧めするのも、その城のような家があり、あなたの替玉になる男を知っていたから思いついたので、こんなお誂え向きな話は、滅多にあるものじゃないと思うのです」
「一つ、考えて見ましょう。何だかそれ程にして逃げ隠れするのも、大人げないような気もしますからねえ」
川手氏はまだ乗気にはなれない様子であった。一々記さなかったけれど、これらの会話は凡て、用心深く、お互の耳から耳へ囁き交されたのである。
川手氏が考え込んでいる所へ、若い女中が二度目のお茶を運んで来た。漆器の蓋のついた大型の煎茶茶碗である。
宗像博士は、それを受取って、蓋を取ろうとしたが、何を思ったのか、ふと手を止めて、その黒い漆器の表面を、異様に見つめるのであった。それから、
「ちょっと」
と云って、川手氏の茶碗に手をのばし、その蓋を取って、窓の光線にかざしながら、つくづくと眺めた上、今度はポケットから例の拡大鏡を取出して、二つの蓋の表面を仔細に点検しはじめるのであった。
「その蓋に何かあるのですか」
川手氏は早くも恐ろしい予感に脅えて、サッと顔色を変えながら、上ずった声で訊ねた。
「あの指紋です。ごらんなさい」
恐ろしいけれど、見ぬ訳には行かぬ。川手氏は顔をよせて、レンズを覗き込んだ。アア、お化けが笑っている。まぎれもない三重渦状紋が、二つの蓋の表面に一つずつ、はっきりと浮き上っているではないか。
「態々捺したのです。そして、我々を嘲笑っているのです」
二人はあきれた様に顔を見合せた。ア、何という素早い奴だ。妙子さんの葬儀がすむか済まぬに、もう第三の復讐の予告である。ぐずぐずしている訳には行かぬ。悪魔の触手は、既にして川手氏の身辺に迫っているのだ。
直ちにお茶を運んだ女中が、取調べられたのは云うまでもない。宗像博士は自身台所へ出向いて行って、そこにいる召使達に一人一人質問した。だが、いつの間に、誰がそんな指紋をつけたのか、まるで見当もつかなかった。念のために召使達残らずの指紋を取って見たけれど、無論三重の渦巻などは一つもなかった。
問題の茶碗は、昨夜すっかり拭き清めて茶箪笥に入れて置いたのを、今取出してそのまま応接室へ運んだというのだから、賊は昨夜の内に台所へ忍び込んで、茶箪笥をあけ、指紋を捺して逃げ去ったものとしか考えられなかった。しかし戸締りには少しも異状はなく、どこからどうして忍び込んだかということは、少しも分らなかった。屋外にも賊の足跡らしいものは全く発見されなかった。
「宗像さん、やはりお勧めに従って、一時この家を去ることにしましょう。臆病のようですが、こんなものを見せつけられてはもう一刻もここにいる気がしません。それに、この家にはなくなった娘達の思い出がこもっていて、いつまでも悲しみを忘れることが出来まいと思いますから、旁あなたのおっしゃるようにする決心をしました」
川手氏は遂に我を折った。三重渦巻のお化けの恐怖は、世間を知りつくした五十男を、まるで子供のように臆病にしてしまったのである。
「実を云いますと、無理にもこの計画を実行して頂く決心で、ちゃんとその手配をして置いたのですが、御同意下さって、僕も安堵しました。あなたさえ安全な場所へお匿いすれば、僕は思う存分あいつと一騎討が出来るというものです。あなたの替玉になる男も、実は用意をして、ある場所に待たせてあるのです。電話さえかければ、すぐにもやって来ることになっています」
博士はひそひそと囁いて、部屋の隅の卓上電話に近づくと、ある番号を呼出して、第三者には少しもそれと分らぬ話し方で、簡単に用件を済ませた。
それから二十分程もすると、書生の案内で、その応接間へ、異様な人物が入って来た。ソフトをまぶかく冠ったまま、インバネスを着たまま、しかもその襟を立てて顔を隠すようにしながら、ツカツカと部屋の中へ入って来たのだ。
予め玄関番の書生に、こういう人が来るから、怪しまないで案内するようにといいふくめてあったので、この異様な身なりのまま、無事に玄関を通過することが出来たのである。
書生がドアを閉めて出て行くと、宗像博士は、主人から渡されていた鍵で、唯一の入口へ締りをした。それから、窓という窓のブラインドをおろし、御丁寧にカーテンまで閉めてしまった。そして、薄暗くなった部屋に電燈をつけてから、異様な人物に何か合図をした。
すると、その人物が、いきなり外套を脱ぎ、帽子をとって、川手氏に向い、
「初めてお目にかかります。よろしく」
と頭を下げた。
川手氏は思わず椅子から立上って、あっけにとられたように、その人物を眺めた。アア、これはどうしたことだ。突然目の前に大きな姿見が現われたとしか考えられなかった。背恰好といい、容貌といい、髪の分け方、口髭の大きさ、着物から羽織から、羽織の紐や襦袢の襟の色までも、川手氏とそっくりそのままの人物が、眼前一二尺のところに佇んで、ニコニコ笑いかけているのだ。
「ハハハ……、如何です。これなら申分ないでしょう。僕でさえどちらが本当の川手さんだか迷うくらいですからね」
宗像博士は双生児のような二人を見比べて、得意らしく笑うのであった。
「この人は近藤という僕の知合のものです。さっきも申上げた通り、柔道三段の豪のもので、こういう冒険が何よりも好きな男です。
ところで近藤君、お礼のことは僕が引受けて、十分に差上げるから、一つうまくやってくれ給え。つまり今日から君が、川手家の主人なのだ。兼ねて打合せて置いた通り奥の間にとじこもって、一切客に会わないことにするんだ。召使いもなるべく近づけないように。いくら似ていると云っても、よく見ればどこか違ったところがあるんだから、召使にはすぐ分るからね。
マア、お嬢さんがあんなことになられたので、悲しみの余り憂鬱症に罹ったという体にするんだね。そして、昼間も部屋を薄暗くして、女中などにも正面から顔を見合わさないように、その都度何かで顔を隠す工夫をするんだ。
無論そんなことが永続きする筈はないから、いずれ一両日のうちに僕が来て、召使達に事情を話し、よく呑み込ませる積りだが、それまでのところを、一つうまくやってくれ給え」
博士が例のひそひそ声で注意を与えると、新しい川手氏は、呑み込んでいるよと云わぬばかりに、胸を叩いて答えた。
「マア、私の腕前を見ていて下さい。青年時代には舞台に立ったこともある男です。お芝居はお手のものですよ」
「これは不思議だ。声までわしとそっくりじゃありませんか。これなら女中共だって、なかなか見分けはつきませんよ」
川手氏はあきれたように、つくづくと相手の顔を見守るのであった。
間もなく、応接間の窓のブラインドやドアが元のように開かれ、宗像博士と、ソフト帽と外套の襟で顔を隠した異様の人物とは、偽物の川手氏をあとに残して、さりげなく川手邸を辞去した。ソフト帽と外套の男が、替玉と入れ替わった本物の川手氏であったことは云うまでもない。同氏は咄嗟に取纒めた重要書類と当座の着換えを詰めたスーツ・ケースを、外套の袖に隠すようにして下げていた。
二人は書生に送られて、玄関を出ると、門前に待たせてあった、宗像博士の自動車に乗り込んだ。
「丸の内の大平ビルまで」
博士の指図に従って車は動き出した。
「近藤さん、サア、これからが大変ですよ。色々意外なこともあるでしょうが、驚いてはいけません。一切僕にお任せ下さるんですよ」
博士は川手氏を近藤さんと呼ぶのだ。
「お任せします。だが、山梨県へ行くのに、丸の内というのは、どうした訳ですか。汽車は新宿駅からでしょう」
と川手氏が不審を起して訊ねると、博士はいきなり口の前に指を立てて「シーッ」と制しながら、
「だから、お任せ下さいというのです。これから妙なことが幾つも起る筈ですから、びっくりなさらないように。みんなあなたを賊の目から完全に隠す為めの手段なのですからね。これから目的地へ着くまでに、探偵という商売がどんなものだか、あなたにもお分りになるでしょう」
と、何か意味ありげに囁くのであった。
それから二十分程のち、車は大平ビルディングの表玄関に横着けになった。博士は運転手に賃銀を支払うと、外套で顔を隠した川手氏の手を引くようにして、いきなりビルディングの中へ入って行ったが、エレヴェーターに乗ろうともせず、階段を登ろうともせず、ただ廊下をグルグル廻り歩いた末、いつの間にか建物の裏口へ出てしまった。
見ると、そこの道路に大型の自動車が一台、人待ち顔に停車している。博士は川手氏を引っぱりながら、大急ぎでその自動車の中に飛込んだ。
「怪しい奴は見なかったか」
「別にそんなものはいないようです」
運転手が振向きもせず答える。
「よし、それじゃ云いつけて置いた通りにするんだ」
車は静かに走り出した。
博士は手早く、窓のブラインドをおろし、運転席との境のガラス戸を閉め切って、さて、面喰っている川手氏の方に向き直った。
「近藤さん、これが尾行をまく、ごく初歩の手段ですよ。犯罪者が用いる籠抜けというのはこれですが、探偵も犯罪者も、時には同じ手を使うものですよ。
こうして置けば、仮令お宅から我々をつけて来た者があったとしても、或は又、あの自動車の運転手が敵の廻しものであったとしても、大丈夫です。
しかし、普通一般の悪人を相手なればこれで十分ですが、なにしろあいつは神変自在の魔術師ですからね。まだまだ手段を施さなければなりません。今度は変装です。この運転手は僕の部下も同様のものですから、先ず心配はありません。この車の中で変装をするのです。探偵というものは、走っている自動車の中で、姿を変えなければならない場合が往々あるのですよ」
博士は小声に説明しながら、予め車内に置いてあった大型のスーツ・ケースを開いて、先ず髭剃りの道具を取り出した。
「近藤さん、あなたの口髭を剃り落すのです。つまり川手さんの面影を出来るだけなくしてしまおうという訳です。構いませんか。では失礼して、お顔に手を当てますよ。サア、もっとこちらを向いて下さい」
川手氏は博士の用意周到なやり口に、感に堪えて、されるがままになっていた。あの恐ろしい復讐鬼の目を逃れる為とあれば、口髭を落すくらい、何の惜しいことがあろう。
車は予め命じられていたと見えて、徐行しながら、麹町区内の屋敷町をグルグルと廻っていた。
左右と後部の窓のブラインドがおろしてあるので、通行者から車内を覗かれる心配はない。安全至極な移動密室である。
博士はチューブから石鹸液を絞り出して、川手氏の鼻の下を泡だらけにしながら、手際よく剃刀を使って、見る見る髭を剃り落してしまい、剃りあとにメンソレータムを塗ることさえ忘れなかった。
「ウフフフ……、大変若返りましたよ。サア、これでよし、今度は僕の番です」
「エッ、あなたもその髭を剃るのですか。惜しいじゃありませんか。君まで何もそんなことをしなくっても」
川手氏はびっくりして、博士の立派な三角型の顎髯を見た。この特徴のある美髯をなくしては、宗像博士の威厳にも関するではないか。
「ところが、この髯は一目で僕という事が分りますからね。いくら変装をしても、髯があっちゃ何にもなりません。
しかし、剃り落すのじゃありません。剃らなくてもいいのです。これは僕の取って置きの秘密ですが、この際ですから、あなたにだけ明しましょう。ごらんなさい、これです」
云うかと見ると、博士は揉上げのところを指でつまんで、まるで顔の皮を剥ぎでもするように、いきなりメリメリと引きむしり始めた。すると、驚くべし、あの立派な三角型の美髯が、見る見る顔を離れて行き、そのあとに滑かな頬が現われた。次には口髭に爪を当てると、それも美しく剥がれてしまった。
「つけ髯とは見えなかったでしょう。これを作らせるのには随分苦心をしたものです。ある鬘師と僕との合作なんですがね。普通に註文したんでは、迚もこんな見事なものは出来ません。
この三角髯は、僕の謂わば迷彩なのですよ。無髯の探偵がつけ髯で変装するということは、よくありますが、こんな髯武者の男が、逆に無髯の人物に変装出来るなんて、ちょっと考え及ばないでしょう。僕はそこへ目をつけて、逆手を用いることにしたのです。数年前から、態と目につき易いこんな髯を貯えたと見せかけ、宗像といえばすぐに三角髯を聯想するように、世間の目を慣らして置いて、実はその逆の効果を狙った訳です。ハハハ……、探偵というものはいろいろ人知れぬ苦労をするものですよ」
川手氏は益々あっけにとられてしまった。なる程その道によっては、外部から想像も出来ない苦心のあるものだと、感嘆しないではいられなかった。
博士は十年も若返ったような、のっぺりとした顔に微笑を湛えながら、今度はスーツ・ケースの中から、変装用の衣服を取り出して、膝の前に拡げた。
「近藤さん、これがあなたの分です。ここで着更えをして下さい。あなたは印半纒の職人になるのですよ。僕はその親分の請負師という訳です」
川手氏の分は、古い印半纒に紺の股引、破れたソフト帽子まで揃っている。博士の分は、茶色の古い背広に、廉手なニッカーボッカー、模様入りの長靴下、編上靴、ソフト帽などで、いかさま土方の親分といった服装である。
二人は車の中で、窮屈な思いをしながら、どうやら着更えを済ませた。今まで身につけていた着物や外套は、一つに纒めてスーツ・ケースの中へおし込まれた。
「サア、これでよし。近藤君、これから口の利き方もちっと乱暴になるからね。悪く思っちゃいけないぜ」
親分が云い渡すと、子分の川手氏は、急には答える言葉も見つからぬ様子で、破れソフトの下から、目をパチパチさせるばかりであった。
「もういいから、東京駅へ直行してくれ給え」
博士が境のガラス戸を開けて、運転手に声をかけた。車は忽ち方向を変えて、矢のように走り出す。
やがて、駅に着くと、二人は銘々のスーツ・ケースを下げて、車を降り、遠方へ出稼ぎに行く職人といった体で、構内へ入って行った。
博士は川手氏を待たせて置いて、三等切符売場の窓口に行き、沼津までの切符を二枚買った。
「オヤ、こりゃ沼津行きじゃありませんか。山梨県じゃなかったのですか」
川手氏は切符を受け取って、けげん顔に訊ねる。
「シッ、シッ、何も訊かないという約束じゃないか。サア、丁度発車するところだ。急ごうぜ」
博士は先に立って、改札口へ走り出した。
発車間際の下関行き普通列車に間に合って、二人は後部三等車の片隅に、つつましく肩を並べて腰かけた。
ゴットンゴットン各駅に停車して、横浜へついたのは、もう正午に近い頃であった。
「この次の駅で、少し危い芸当をやりますからね。足もとに気をつけて下さいよ」
博士は川手氏の耳に口を寄せて囁いた。
やがて保土ヶ谷。だが停車しても博士は別に立上ろうとするでもない。
「ここですか」
川手氏が気遣わしげに訊ねると、博士は目顔で肯いて、平然としている。一体どんな芸当をしようというのだろう。
車掌の呼笛が鳴った。ガクンと動揺して汽車は動き始めた。
「サア、降りるんです」
矢庭に立上った博士が川手氏の手を取って、後部のブリッジへ走った。そして、もう速力を出し始めている車上から、先ずスーツ・ケースを投げ出して置いて、サッとプラット・フォームへ飛び降りた。川手氏も手を引かれたままそれに続く。二人とも足がもつれて、危く転がるところであった。
「一体これはどうした訳です」
「イヤ、驚かせてすみませんでしたね。これも尾行をまく一つの手なんですよ。まさかここまであいつが尾行していようとは考えられませんが、ああいう敵に対しては、無駄と思われる程念を入れなければなりません。
こうして置いて、今度は東京の方へ逆行するんです。若しあの汽車に我々の敵が乗っていたとすれば、まんまと一駅乗り越す訳ですから、いくらくやしがっても、もう我々のあとをつけることは出来ません。オオ、丁度向うから上り列車が入って来たようです。向うへ渡りましょう。ナアニ、切符は中で車掌に云えばいいんですよ」
ガランとしたプラット・フォーム。あたりに聞く人もないので、博士は普通の口を利いた。
それから反対側のフォームに渡り、上り列車に乗って、二駅引返すと東神奈川である。二人はそこで下車して、今度は八王子への線に乗替え、八王子で再び目的の中央線に乗替えた。つまり、東海道線に乗ったと見せかけ、桜木町八王子線の聯絡を利用して、まんまと中央線に方向転換をしたのである。その大迂回の為めに、乗替えの度に時間をとり、甲府へついた頃にはもう日が暮れかけていた。
「サア、やがてN駅です。今度こそ思い切った放れ業を演じなければなりませんよ。しかし、決して危険なことはありません。N駅の少し手前で汽車が急勾配にさしかかって、速力をウンとゆるめる場所があります。僕らはそこで土手の下へ飛び降りる予定なのです。これが最後の冒険ですよ。
何もそれ程にしなくてもとお思いでしょうが、必ずしもあいつの尾行を恐れるばかりじゃありません。いくら変装をしていても、あなたはただ口髭がなくなっただけですからね。知っている人が見れば疑います。そして、どこの駅で降りたかということを記憶していて、人に話せば、それがどんなことで敵の耳に入らないとも限りません。
当り前なれば、N駅で下車するのですが、丁度そのN駅に我々の知人が居合わさないと、どうして断言出来ましょう。中途で飛び降りるというのは、必ずしも無駄な用心ではないのですよ。それに汽車の速度が決して危険がないまでににぶることが、ちゃんと確かめてあるのですから、少しも心配は要りません」
博士は川手氏の耳に口をつけて、こまごまと説明するのであった。幸い、日もとっぷりと暮れて、窓の外は真暗になっていた。冒険にはお誂え向きの時間である。
「ボツボツ、ブリッジへ出ていましょう。今に急勾配にさしかかりますから」
二人は何気なく、鞄を下げて、後部のブリッジへ忍び出た。幸い、車掌の姿もなく、こちらを注意している乗客も見当らなかった。
やがて、トンネルを知らせる短い汽笛が鳴り響くと、汽車の速度が目に見えて減じて行った。ボッボッボッという機関の音、黒煙に混って、火の粉が美しく空を飛んで行く。
「サア、ここです」
博士の声を合図に、二つのスーツ・ケースが闇の土手下へ投げ出された。つづいて博士の手が鉄棒を離れると見るや、まん丸な肉団となって、サーッと地上へ。印半纒の川手氏もおくれず、闇の中へ身を躍らせた。
線路の土手の草の上を、二つのスーツ・ケースと、二つの肉団とが、相前後して、コロコロと転がり落ち、下の畑に折り重なって倒れた。
暫らくして闇の中に低い声が聞えた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。飛び降りなんて、存外訳のないものですね」
川手氏は数十年来経験せぬ冒険に、腕白小僧の少年時代を思い出したのか、ひどく上機嫌であった。
「すぐその向うに細い村道があるので、そこを二三丁行って、右に折れた山裾に、例の城郭が建っているのです」
二人は闇の中に、ムクムクと起き上り、塵を払って、スーツ・ケースを下げると、畑を踏んで村道に出た。
雑木林を過ぎて、右に折れ、雑草を踏み分けて、こんもりとした森の中へ入って行くと、行手の木の間に、チロチロと燈火が見えた。
「あれですよ」
「なる程、山の中の一軒家ですね」
しばらく行くと、森の切目から、夜目にも白い土蔵づくりの不思議な建物が見え始めた。なるほど城郭である。屋根のつくりにも、何かしら天守閣を思い出させるようなところがある、高い土塀も見えて来た。なお近づくと、土塀の一ヶ所に、いかめしい門があって、その前に堀の跳橋が吊り上げられているのが、ぼんやりと、まるで夢の中の不思議な城門のように眺められた。
「変った建物ですね」
「お気に召しましたか」
二人はそんな冗談を云い交して、低い笑い声を立てた。
その城郭のような一軒家に到着すると、川手氏は先ず、広い邸にたった二人で留守番をしている老人夫婦に引合わされた。夫婦とも見た目こそ頑丈な老人であったが、気だては至極淳樸な田舎者、これなら身の廻りの世話をして貰うにも気が置けないし、その上護衛の役も勤まると、川手氏も大気に入りであった。
同行した宗像博士は、一晩そこに泊って、川手氏の気持の落ちつくのを見届け、老人夫婦にその世話を懇に頼んだ上、直ちに東京に引返した。復讐鬼は東京にいるのだ。そして、今頃は影武者とも知らず、贋川手氏の身辺に悪魔の触手を伸ばしているに違いない。博士は、その見えざる敵と、愈々最後の勝負を決するために、一日もぐずぐずしている訳には行かなかった。
川手氏が城郭の不思議な掛人となってから、四五日は何事もなく経過した。陽春の山住いは憂いの身にも快かった。土蔵造りの白壁も明るく、それを取りまく雑木林の枝々には、黄ばんだ若芽のふくらみも暖かく、吊橋の下の小川は軽やかにせせらぎ、樹間に呼び交う鳥の声も、浮世離れてのどかであった。
三度の食膳には、老夫婦が心尽しの、新鮮な山の珍味が列べられ、退屈すれば、うらうらと日ざしの暖かい庭の散歩、夜ともなれば、老夫婦の語る山里の物珍らしい物語、忘れようとて忘れられぬ悲しみを持つ川手氏も、環境の激変に心もなごみ、時には、何か保養の旅にでも出ているような気分になることもあった。
ところが、山住いの物珍らしさに、だんだん慣れて来るにつれて、川手氏は身辺に何となく気がかりな空気を感じ始めた。あれ程の用心をしたのだから、復讐鬼がこの山中まで追駈けて来るということは、全く考えなかった。その点はすっかり安心し切っていたのだけれど、それとは別に、広い城郭住いの朝晩、何とはなしに怪談めいたゾクゾクするような雰囲気が、ひしひしと身にせまるのを覚え始めた。
最初それに気附いたのは、五日目の夜更けのことであった。ふと目を覚ますと、どこかでボソボソと人の話声がしていた。天井の高い寒々とした十二畳の座敷、ここには電燈の設備がないので、石油の台ランプを使っているのだが、それも吹き消して寝についた、全くの暗闇である。
一間隔てて老夫婦の部屋があるので、彼らが老の寝覚めの物語でも交しているのかと想像したが、それにしては人声が遠すぎる。しかも二人ではなくて、三人四人の声が入り混っているように思われる。
何町四方人家のない山中、この城郭には自分を混ぜて三人しか人が住んではいないのに、そんな多人数の話声が聞えるというのはただ事でない。幻聴かしら、イヤイヤ、幻聴ではない。確かにどこかこの建物の中の遠くの方で、意味は少しも聞き取れぬが、ボソボソという話声がいつまでも続いている。五十男の川手氏も、それを聞いていると、ゾーッと水をあびせられたような怖れを感じないではいられなかった。
城郭には一階と二階を合せて、二十に近い部屋数がある。老人二人では迚も全部の掃除が出来ないので、入口に近い階下の五間程を除いては、全く雨戸を閉め切って、誰も入らぬことにしているのだが、若しやその開かずの部屋の奥の方に、何者かが深夜の会合をしているのではあるまいか。山賊共か。まさか今どきそんなものが、人里近いこの辺に棲んでいる筈もない。では、山の奥からさまよい出した谺の精、老樹の精、沼の精、童話の国の魑魅魍魎の類であろうか。
闇と静寂と山中の一軒家という考えが、川手氏を子供のように臆病にしてしまった。しかし、頭から蒲団を被ってちぢこまるほどではない。彼は枕許の手燭に火をつけて、小用に起き上った。
念のために廻り道して、一間隔てた老夫婦の部屋を覗いて見たが、二人は山慣れた健康者、夜半に目を覚ますこともないと見え、グッスリ寝入っている。
広い冷い廊下を踏んで、ガランとした昔風の便所に入った。窓の外はすぐに大樹の茂みである。小障子を開けて空を見ると、星もない真暗闇、大樹の梢がカサコソと動くのは、夜鳥か、それとも、川手氏などには馴染のない小動物が住んでいるのか。
そうしていると、心が澄んで、夜の静けさがしんしんと身にしみる。その静寂の中に、突然、実に突然、川手氏は人間の笑い声を聞いたのである。
丁度便所の壁の外の辺、女の、恐らくは若い女の忍び笑いの声であった。低いけれども、おかしくて耐らないというようにいつまで笑いつづける、まがう方なき女の笑い声であった。
川手氏はゾーッと背筋がしびれるように感じて、外へ出て調べて見る勇気もなく、そのまま寝室へ逃げ帰った。すると益々不気味なことには、手燭をかざして、急ぎ足に通り過ぎる廊下の闇で、スーッと何者かにすれ違ったのである。何か小さなものであった。しかし、人間には違いない。子供とすれば四つ五つの幼児である。それが、目にもとまらぬ素早さで、行手の闇から、足音も立てず、矢のように走って来て、川手氏の袖の下をくぐり、うしろの闇の中へ姿を消してしまったのだ。重ね重ねの怪異に、その夜はまんじりともせず、朝になるのを待って、老夫婦にその由を告げると、ひどく笑われて、山住いに慣れない人はよくそんなことを云うものだ。人の話声は、堀の小川のせせらぎを聞き誤ったのではないか。女の笑い声は、夜の鳥が鳴いたのであろう。廊下の小坊主は、気のせいでなければ、大方いたずら猿めが迷い込んでいたのであろうと、一向取合ってはくれなかった。
だが、怪異はそれで終った訳ではない。翌日は昼間から、不思議なことが起った。川手氏が老人達の部屋で暫らく話し込んで、自室に帰って見ると、床の間に置いたスーツ・ケースの位置が明かに変っていた。紫檀の大きな卓の上に置いてあった懐中時計が裏返しになっていた。同じ卓上の手帳が開かれていた。
一度なれば川手氏の思い違いということもあるだろうが、二度三度同じことが起った。今度は念の為めに、色々な品物の位置をよく記憶して置いて、暫らく部屋を開けて帰って見ると、ちゃんとその位置が変っている。もう思い違いではない。この城郭の奥の方には、老夫婦も知らぬ何者かが住んでいるのだ。そして、川手氏を驚かせようと、企んでいるのだ。
そんなにおっしゃるなら、御得心の行くように、邸中の雨戸をあけて家捜しをして見ましょうと、その翌日は、三人で広い邸内を二階も下もすっかり調べて見たが、別に怪しいこともなかった。どの部屋にも人の住んでいたような気配は見えぬのだ。
それごらんなさい。やっぱり猿かなんかのいたずらですよと、老夫婦は笑い話にしてしまったが、川手氏はどうも納得が行かなかった。何かしら身近に、人の匂が感じられた。妖気とでもいうようなものが、ひしひしと身に迫るのを覚えた。
すると、その晩のことである。
川手氏は深夜また目が覚めて、どこからか漏れて来る人の話声を聞いた。そして、前の晩と同じように、手燭をつけて小用に起きた。今夜もひょっとしたら、あの笑い声がするかも知れない。川手氏は覚悟をきめて耳を澄ましていた。今度こそ鳥の鳴き声か人間の声か聞き分けてやろう。
窓から覗いた空には、やっぱり星がなかった。そよとの風もない梢に、カサコソと不気味な音がしていた。
突然、アア、又してもあの笑い声だ、若い女が、袂で口を蔽って、身体を曲げて、忍び笑いをしているような、あの笑い声だ。川手氏は目の前に、その若い女の白い顔が見えるような気がした。
今夜こそ正体を見現わさないでおくものか。かねて心に定めて置いた通り、川手氏は急いでそこを出ると、音のせぬように、廊下の端の雨戸の枢をはずし、ソッと引き開けて、真暗な庭の声のしたと思われる箇所へ手燭をさしつけた。
だが、恐らくは今の間に逃げ失せてしまったのであろう。そこには一むらの南天が黒く押黙っているばかりで、人らしい物の影はなかった。
しかし、人の姿は見えなかったけれど、それよりももっと妙なものが、忽ち川手氏の注意を惹いた。というのは、その廊下の斜向うに、鈎の手になった建物の大きな白壁が、夜目にも薄白く、目を圧するように浮上っているのだが、その白壁の表面にボーッと白く燐のような光がさしていたのである。
オヤ、何だろう。ギョッとして、よく見直すと、壁を塗り直した痕ではない。たしかに何かの光である。直径二間にもあまる巨大な円を描いて、その部分だけが映画のように浮き上っている。
だが、怪異はそれだけではなかった。じっと見ていると、その丸い光のなかに、何かしら、無数の蛇でも這っているような、妙な黒い模様が、朦朧と見えて来るのだ。何百何千とも知れぬ蛇だ。イヤ、蛇ではない。何だか、えたいの知れぬ模様だ。どこかで見たような模様だぞ。どこで見たのかしら……。あまりに大きすぎてよく分からぬが…………
川手氏はその巨大な模様めいたものを見つめているうちに、心臓の鼓動がピッタリと止まってしまうほどの、はげしい驚きにうたれた。驚きというよりも恐れであった。ゲエッ、と吐き気を催すような深い恐怖であった。
無数の蛇の塊と見えたのは、何千何万倍に拡大された人間の指紋であることが分って来たからだ。しかも、オオ、どうしてあれを忘れよう。その巨大な指紋には、三つの渦巻があったではないか。二つは、まん丸く上部に並び、一つは、楕円形に下部に拡がっている。お化けの顔だ。一間四方のお化けが山中の一つ家の庭で、ニヤニヤと笑っているのだ。
川手氏は、訳のわからぬうめき声を立てながら、死にもの狂いに廊下を走った。
そして、老夫婦の部屋の障子を乱打しながら、狂気のようにその名を呼んだ。
それから、何事が起ったのかと、びっくりして飛び起きた二人に、事の次第を話して、庭を調べてくれるように頼んだ。
老人達は、又かというように、川手氏の幻覚を笑った。いくらなんでも、その三重渦巻の悪者とやらが、こんな山の中までやって来る筈がない。宗像先生があれ程用心に用心を重ねて、敵の目をくらましておしまいなすったのだから、決して決してその心配はない。旦那様は幻でもごらんなさったのでしょうと、相手にしないのである。
それでもと、頼むようにして、やっと庭を調べて貰ったが、二人の老人が提灯をつけて、例の白壁のところへ行って見た時には、もうそこには何の光りもなければ、巨大なお化け指紋など影も形もないのであった。
それではやっぱり幻を見たのかしら。怖い怖いと思っているところへ、あの笑い声を聞いたものだから、つい復讐魔を聯想して、何もない白壁の上に、あんな恐ろしい物の影を、我れと我が心に作り出したのかしら。
その晩は解き難い謎を残して、そのまま寝についたが、翌日はうらうらと暖かい日ざしを味方に、まさか真昼間怪しい奴が庭に隠れていることもあるまいと、川手氏は昨夜の謎を確めるために庭へ降りて行った。
太陽の光で、例の白壁の表面を調べて見たが、別に怪しい影もなく、それと見まがう亀裂がある訳でもない。若しあれが幻燈の影だったとすれば、幻燈器械はあの辺に据えつけてあった筈と傍らの木立の奥に目をやると、そこの小高くなった薄暗い空地に、ヒョッコリと新しい石碑が建っているのに気付いた。
オヤ、今まで度々庭を散歩したのに、ここにこんなものがあるのは、少しも知らなかった。変だなあ。あれはどうやら誰かの墓石らしいが、庭の真中に墓地があるなんて。
川手氏はいぶかしきまま、つい木立をかき分けて、そのじめじめした薄暗い中へ入って行った。近よって見ると、それはまだ磨いたばかりの真新しい墓石であることが分った。決して半月も一月も前からあるものではなく、昨日今日ここに運び込まれたものとしか見えぬのだ。
妙なことに、その墓石の表面には、戒名のあるべき中央の部分が空白になっていて、その傍のところに、小さく「昭和十三年四月十三日歿」とだけ、今鑿を入れたばかりのように、クッキリと鮮かに刻んであった。
待てよ。昭和十三年と云えば今年ではないか。四月といえば今月ではないか。そして、十三日といえば、アア、何ということだ。今日は十二日だから、十三日と云えば明日の日附ではないか。
川手氏は気でも狂ったのではないかと、我が目を疑った。幻覚ではない。決して読み違いではない。この通り確かに昭和十三年、四月、十三日と刻ってある。態々指を当てて、一字一字をさすって見たが、決して読み誤りではなかった。
一体これは何を意味するのだ。明日死ぬに違いない誰かの墓が、こうしてちゃんと用意されているのであろうか。だが、どんな重病人でも、いつ何日に死ぬと予め分っているというのは変ではないか。死刑囚ででもない限り……、と考えている内に、川手氏は見る見る幽霊のように青ざめて行った。
若しかしたら、これは俺の墓じゃないのかしら。
あの深夜の笑い声といい、昨夜の白壁の怪指紋といい、幻視幻聴と思えばそうのようでもあるが、若しあれらが、何者かの計画的な悪戯であったとすれば……何者かといって、外に誰があんな妙な真似をするものか。三重渦巻の指紋の主だ! あいつが早くもこの隠れ家を探し当てて、奇怪な復讐の触手を伸ばしているのではあるまいか。そうとすれば、この墓石の謎の日附の意味も分って来る。「十三日」に「歿」する人は、外ならぬ俺自身なのだ。俺は明日中に、何らかの手段によって復讐魔の為めに惨殺されるのではないだろうか。俺は今、こうして自分自身の墓石を見せつけられているのではあるまいか。
川手氏はクラクラと眩暈を感じて、今にも倒れそうになるのを、やっと我慢して、喘ぎながら母屋に引返し、老夫婦にこの事を告げたので、二人のものは、又かと云わぬばかりに、目を見交しながら、兎も角急いで現場へ行って見たが、案の定、そこには、いくら探しても新しい墓石なんて、影も形もないことが確められた。
まるで狐につままれたような話だけれど、川手氏自身も、あの大きな石碑が、かき消すようになくなっていることを認めない訳には行かなかった。
川手氏は我が耳我が目が恐ろしくなった。重なる心痛の為めに、視覚や聴覚に異状を来たしたのではあるまいか。イヤ、視覚聴覚ばかりではない、脳細胞そのものが病気に罹っているのではないだろうか。こんな山の中の独居がいけないのかも知れぬ。このままここにいては、気が狂ってしまうような不安を感じた。
川手氏はそこで、老人に話して東京の宗像博士に、火急に相談したいことが出来たから、直ぐお出でを乞うという電報を打つことにした。そして博士の判断を求め、その結果によっては別の場所へ居を移そうと考えたのだ。
午後になって博士からの電報が到着した。明日行くという返事である。川手氏はその返電に力を得て、やっと気分を落ちつけることが出来た。そして、その晩寝につくまでは別段の異変も起らなかったのだが……
しかし、川手氏は遂に宗像博士に会うことは出来なかった。博士が来なかったのではない。川手氏の方が城郭から姿を消してしまったのだ。その翌朝、老人夫婦は旦那様の蒲団が空っぽになっているのを発見した。早朝から庭でも散歩しているのかと、庭内を隈なく探したが、どこにも姿はなかった。座敷という座敷を見て廻ったが、川手氏は屋内にもいなかった。まるで神隠しにでも遭ったように、空気の中へ溶け込んででもしまったように、彼は、その日限り、つまり四月十三日限り、この世界から消失せたのであった。
では川手氏は一体どうなったのか。その夜中彼の身辺にどのような怪異が起ったのであるか。我々は暫らく川手氏の影身に添って、世にも不思議な事の次第を観察しなければならぬ。
その夜更け、川手氏は例によって床の中でふと目を覚ました。何か人声らしいものを聞いたからである。また幻聴が起ったのかと、慄然として耳を澄ますと、つい障子の外の廊下の辺で、シクシクと人の泣いている声がする。さもさも悲しげに、いつまでも泣きつづけている。誰だと声をかけても、答えはなくて、ただ泣くばかりである。
川手氏はまた手燭に火をつけた。そして蒲団から起き上ると、ソッと障子を開いて、廊下の暗を覗いて見た。
すると、今夜は声ばかりではなくて姿があった。両手を目に当てて、啜り泣いている子供の姿がハッキリと眺められた。
まだ四五歳の上品な可愛らしい幼児だ。絹物らしい筒袖の着物と羽織、袖からは、明治時代に流行した、手首のところでボタンをかける白いネルのシャツが覗いている。男の癖に頭は少女のようなおかっぱだ。どうもこんな山里にいそうな子供ではない。それに風俗が異様に古めかしくて、現代の子供とも思われぬ。
川手氏は夢でも見ているような気持であった。変だぞ。俺はこの通りの子供を知っている。遠い遠い記憶の中に、丁度こんな服装をした子供の姿が焼きついている。誰だろう。ひょっとしたら幼年時代の遊び友達の面影ではないかしら。
何か物懐かしい気持に支配されて、思わず廊下に立出でると、泣いている幼児の傍に近づいて行った。
「オイオイ、泣くんじゃない。いい子だ。いい子だ。お前今時分、一体どこから来たんだね」
おかっぱの頭を撫でてやると、子供は涙の一杯湛った目で川手氏を見上げ、廊下の奥の闇の中を指さした。
「お父ちゃんとお母ちゃんが……」
「エ、お父ちゃんとお母ちゃんが、どうかしたの?」
「あっちで、怖い小父ちゃんに叩かれているの……」
子供はまたシクシクと泣き出しながら、川手氏の手を取って、助けでも求めるように、その方へ引っぱって行こうとする。
川手氏は夢に夢見る心地であった。真夜中、この山中の一つ家に、こんな可愛らしい子供が現われるさえあるに、その父と母とがこの邸の中で何者かに打擲されているなんて、常識を以てしては全く信じ難い事柄であった。
アア、俺はまた幻を見ているのだ。いけない、いけない。しかし、いけないと思えば思う程、心は却って、いたいけな幼児の方へ引かれて行った。取られた手を振り放すことも出来ず、いつの間にか、その妖しい子供と一緒に、足は廊下の奥へ奥へと辿っていた。
子供は傍目もふらず闇の中へ進んで行く。川手氏さえ戸惑いしそうな複雑な邸内の間取りを、子供の癖にちゃんと諳んじているらしく、少しも躊躇しないで、廊下から座敷へ、座敷からまた別の廊下へと、グングン進んで行く。
川手氏は相手があまりに幼い子供なので、身の危険を感じはしなかった。それよりも、遠い昔、どこかで見たことのあるようなその子供が、なんとやら懐しく、可哀想にも思われて、取られた手を振り払うどころか、自ら進んで、子供の導くままにつき従って行くのであった。
「小父ちゃん、ここ」
子供が立止ったので、手燭でそこを照らして見ると、意外にも、その廊下の突当りに、井戸のような深い穴がポッカリと口を開いていた。床板が揚げ蓋になっていて、その下にどうやら階段がついているらしい。地底の穴蔵への入口である。
不断の川手氏なれば、この不思議な地下道を見て、忽ち警戒心を起す筈であった。老人夫婦さえ知らぬ、こんな秘密の穴蔵へ、仮令いたいけな子供の願いとはいえ、無謀に入って行くようなことはしなかった筈である。
だが、その時の川手氏は、この出来事を現実界のものとは考えていなかった。明治時代の風俗をした幼児と、夢の中で遊んでいるような漠然とした非現実の感じ、恐怖も恐怖とは受取れぬ無警戒な心持、謂わば空を漂っているような一種異様の朦朧とした心理状態で、つい子供のせがむままに、その穴蔵の階段を底へ底へと降りて行った。
階段を降りて狭い廊下のようなところを少し行くと、八畳敷程もある地下室に出た。床はコンクリート、四方はグルッと板壁に囲まれている。湿っぽい土の匂、押しつめられたように動かぬ空気、ジーンと耳鳴りのする死のような静けさ。手燭の蝋燭の焔は、固体のように直立したまま、少しも揺れ動かぬ。
その手燭をかざして、あたりの様子を眺めると、何一つ道具とてもないガランとした部屋の片隅に、たった一つ妙な箱が置いてあるのが目を惹いた。
丁度寝棺ほどの大きさの、長方形の白木の箱だ。近づいて見ると、その蓋の表面に、墨黒々と何か書いてある。読むまいとしても読まぬ訳には行かなかった。思いもよらぬその木箱に、川手氏自身の姓名が記されていたからである。
「俗名川手庄太郎」「昭和十三年四月十三日歿」
アア、それは川手氏の死体を納める為に用意された棺桶であった。四月十三日歿という月日さえ、あの庭の石碑に刻みつけてあった日附と、ピッタリ一致しているではないか。
アア、そうだったのか。俺はこの棺に納められるのか。そして、庭の石碑の下へ埋められるのか。十三日といえば、明日だな。イヤ、もう十二時をすぎているから、今日という方が正しい。愈々俺はそういう事になるのかな。
川手氏は悪夢を見ているような気持で、まだ本当には驚けなかった。奥底も知れない程の恐怖ではあったが、それが何か紗を通して眺めるようで、まだ身にしみて感じられなかった。
ふと気附くと、今まで側にいた子供の姿が見えぬ。一体どこへ消えてしまったのだ。四方を板で囲まれた部屋の中、どこにも身を隠す場所はないではないか。アア、これも悪夢だな。子供は魔法使の妖術で、煙のように消えてしまったのに違いない。
だが、地底の怪異はそれで終ったのではなかった。茫然と夢見るように佇んでいる川手氏の耳元に、どこからともなく、ボソボソと多勢の人の話声が聞えて来た。いつか寝室で聞いたのとは違って、板壁のすぐ向うからのように近々と響いて来る。アア、そうだったのか、山の魑魅魍魎はこんなところに隠れて、深夜の会合を催していたのか。
川手氏は声する方の壁に近づいて、どこかに秘密の出入口でもないかと、探し求めた。すると、その板壁の丁度目の高さの辺に、大きな節穴が一つ、サア覗いて下さいと云わぬばかりに開いているのが目についた。彼は中腰になってそこを覗いたが、一目覗くと、もう身動きも出来なかった。彼はそこに、全く想像もしなかった不思議なものを見たのである。
アア、これが正気の沙汰であろうか。この世に何か思いもかけぬ異変が生じたのではあるまいか。その地下室の穴蔵の板壁の向側には、夢のような一つの世界があったのである。
そこには、現代ばなれのした、ひどく古めかしい装飾の、立派な日本座敷があって、その床の間の柱に、夫婦と覚しき男女が、後手に縛りつけられていた。女の方は猿轡まではめられている。
男は三十四五歳の、髪の毛を房々と分けた好男子、女は二十五六歳であろうか、友禅の長襦袢の襟もしどけなく、古風な丸髷の鬢のほつれ艶めかしい美女。二人とも寝入っているところを叩き起され、いきなり縛りつけられたらしく、ついその前に乱れた夜具が二つ敷いたままになっている。
縛られてうなだれた二人の前に、黒っぽい袷の裾を高々とはしおり、毛むくじゃらの素足を丸出しにした四十前後と見える大男が、黒布ですっぽりと頬被りをして、右手にドキドキ光る九寸五分を持ち、夫婦のものを脅迫している体である。
その異様の光景を、高い竹筒の台のついた丸火屋の石油ランプが、薄暗く照らし出している有様は、どう見ても現代の光景ではない。室内の調度といい、人物の服装といい、明治時代の感じである。どこかへ姿を隠した、さい前の幼児が、やはり明治時代の服装をしていたことを思い合せると、一夜の内に時間が逆転して、三四十年も昔の世界が、突如として眼前に現われたとしか考えられなかった。
山の魑魅魍魎のあやかしであろうか。それとも狐狸の類のいたずらであろうか。だが、現代にそんな草双紙めいた現象があり得ようとも思われなかった。
頬被りをした強盗らしい男は、いきなり手にした短刀の刃で、美しい妻女の頬を、ピタピタと叩き始めた。
「強情を云わずと、金庫の鍵を渡さねえか。愚図愚図していると、ホラ、お内儀のこの美しい頬っぺたから赤い血が流れるんだぜ。ふた目と見られぬ、恐ろしい顔に早変りしてしまうんだぜ。サア、鍵を渡さねえか」
すると、縛られている男が、くやしそうに目をいからせて、盗賊の覆面を睨みつけた。
「金庫の中には書類ばかりで、現金はないって、あれ程云っているじゃないか。さっき渡した五十円で勘弁してくれ、今うちにはあれっきりしか現金がないんだから」
それを聞いた賊は、鼻の先で、フフンとせせら笑った。
「ヤイ、手前は俺がなんにも知らねえと思っているんだな。金庫の中には一万円という札束が入っているのを、ちゃんと見込んでやって来たんだ。ウフフフフ、どうだ図星だろう」
縛られている主人の顔に、サッと当惑の色が浮かんだ。
「イイエ、あれは私の金じゃない。大切な預りものだ。あれだけは、どうあっても渡すことは出来ない」
「そうら見ろ。とうとう白状してしまったじゃねえか。預りものであろうと、なかろうと、こっちの知ったことか。サア、鍵を出しねえ。俺はあれをすっかり貰って行くのだ。エ、出さねえか。出さねえというなら、どうだ、これでもか。エ、これでもか」
と同時に、ウーンと押し殺したようなうめき声が、川手氏の耳をうった。今までうなだれていた女が、顔を上げて、猿轡の中から身の気もよだつ恐怖のうめき声を立てたのだ。見ればその青ざめた白蝋のような頬に、一筋サッと真赤な糸が伸びて、そこから濡紙にインキが浸み渡りでもするように、見る見る血のりが頬を濡らして行く。
「アッ、何をするんだ。いけない。いけない。そ、それじゃ、わしの今持っているだけのお金を皆やる。ここにある。この違い棚の下の地袋を開けてくれ。そこに手文庫が入っている。その手文庫の中の札入れに、確か三百円余りの現金があった筈だ。それを皆やるから、どうか手荒な事はよしてくれ。お願いだ。お願いだ」
主人は拝まんばかりの表情で懇願する。
「ホウ、そんな金があったのか。それじゃ、序にそれも貰って置こう」
賊は憎々しく云いながら、直ぐさま地袋を開いて、手文庫をかき探し、札入れの中の紙幣を懐中に入れた。
その間、主人は賊の一挙一動をさも無念そうに睨みつけていたが、紙幣を取り出して立上ろうとする時、賊の顔が一尺程の近さに迫って、覆面の中の素顔がはっきり見えたらしく、愕然として、
「オオ、貴様は川手庄兵衛じゃないか」
と叫んだ。
それを聞くと、賊もギョッとした様子であったが、賊よりも節穴から覗いている川手氏の方が一層の驚きにうたれた。アア何という事だ。川手庄兵衛といえば、川手氏の亡父と同じ名前ではないか。明治時代らしいこの光景と、庄兵衛と呼ばれた男の年齢とも、ぴったり一致している。この当時には、亡父は丁度あのくらいの年輩であったに違いない。気のせいか、賊の姿や声までが、十歳の頃に死に別れた父親とそっくりのような気さえするのだ。
気でも違ったのか、夢を見ているのか、こんな不可思議な時間の逆転が起るなんて、五十近い息子が、自分よりも若い頃の父親の姿を、かくまでまざまざと見せつけられようとは。しかも、その父親は泥棒なのだ。ただの泥棒ではない、兇悪無残な持兇器強盗なのだ。
川手氏はもう別世界の景色を眺めているような呑気な気持ではいられなかった。鼻の頭が痛くなる程、板壁に目をくッつけて、まるで、我が心の中の奇怪な秘密でも隙見するような、怖いもの見たさの、世にも異様な興奮に引入れられて行った。
川手庄兵衛と呼びかけられた賊は、一応はギョッとしたらしい様子であったが、忽ちふてぶてしく笑い出した。
「ハハハ……、そう気附かれちゃ仕様がない。如何にも俺はその川手さ。貴様の義理のお父つあんに使われた川手さ。だが何もそんなに威張るこたあなかろうぜ。元は貴様も俺と同じ山本商会の使用人じゃないか。それを、貴様はそののっぺりとした面で、御主人の一人娘、この満代さんをうまくたらし込み、まんまと跡取り養子に入りこんだまでじゃないか。財産といったところで、元々死んだ山本の親爺さんのもの、貴様が我が物顔に振舞っているのが、無体癪に触ってかなわねえのだ」
「ハハア、すると何だな、川手、貴様はこの満代が俺のものになったのを、いまだに恨んでいるんだな。その意趣返しにこんな無茶な真似をするんだな」
「そうともさ、俺あこの遺恨はどうあっても忘れるこたあ出来ねえ。丁度今から八年前、貴様も知っている通り、俺はちっとばかり店の金を遣い込んで、いたたまれず逃げ出したが、それというのも、思いに思った満代さんを、貴様に取られたやけっ八。あれから朝鮮へ高飛びして、ほとぼりのさめた頃を見はからって帰って見れば、山本の親爺さんはなくなって、貴様が主人に納まり返っている。商売は益々盛んで、山本さんもよい婿を取り当てたともっぱら世間の噂だ。
にっくい貴様達夫婦が、こうしてお蚕ぐるみでぬくぬくと暮らしているに引かえ、この俺は朝鮮で目論んだ山仕事も散々の失敗、女房と子供を抱えて、まるで乞食同然の身の上さ。しょうことなしに、この間恥を忍んで貴様の店へ無心に行ったが、貴様はけんもほろろの挨拶、イヤそればかりじゃねえ、大勢の店員の見ている前で、よくも俺の旧悪を喋り立て、赤恥をかかせやあがったな。
若し満代さんが、あの時俺になびいていさえすりゃ、今頃は俺が山本商会の主人となり、何十万の身代を自由にする身の上になっていたかと思うと、俺と貴様の運勢の、あんまりひどい違いに、俺アくやしくって、くやしくって、天道さまを恨まずにやいられなかった。
エエ、ままよ。どうせ天道さまに見離されたこの俺だ。まっとうにしていたんじゃ、一生乞食同然のみじめな暮しをせにゃならねえ。いっそ浮世を太く短くと思いついたのが、貴様達の運の尽きよ。
それから様子を探って見ると、丁度今日、一万円という現金が、この自宅の金庫の中へ納まるという目ぼしがついたので、それを待ち兼ねてやって来たのだ。サア、金庫の鍵を渡さねえか」
賊は時代めいたせりふを、長々と喋り終ると、又しても、血に濡れた短刀で、満代と呼ばれた美しい妻女の頬を、ペタペタと気味悪く叩くのであった。
「川手、そりゃ逆恨みというものだ。何も僕が無理やりにこの満代を、君から奪い取ったという訳ではなし、親の眼鏡に叶って、ちゃんと順序を踏んで結婚をした間柄だ。それを、根に持って兎や角云われる覚えはない。サア、トットと帰ってくれ。ぐずぐずしていると貴様の身の為にならぬぞ」
主人の山本は、身の自由を奪われながらも、負けてはいなかった。
「ハハハハハハ、その心配はご無用だ。女中達はみんな縛りつけて猿轡をかましてあるし、それに淋しい郊外の一軒家、貴様達がいくらわめいたって、誰が助けに来るものか。お巡りの巡回の時間まで、俺アちゃんと調べてあるんだ。サア渡せ、渡さねえと……」
「どうするんだ?」
「こうするのさ」
又しても、ウームという身震いの出るようなうめき声。満代の頬にスーッと二筋目の糸が引いて、真赤な血がボトボトと畳の上に滴った。
「待て、待ってくれ」
主人は身もだえして、ふり絞るような声で叫んだ。
「鍵を渡す。大切な預り金だけれど、満代の身には換えられぬ。鍵はこの次の間の、金庫の隣の箪笥にある。上から三つ目の小抽斗の、宝石入れの銀の小匣の中だ」
「ウン、よく云った。で、組合せ文字は?」
「…………」
「オイ、組合せ文字はと聞いているんだ」
「ウーン、仕方がない。ミツヨの三字だ」
主人が歯がみをしてくやしがるのを、賊は小気味よげに眺めて、
「ウフフフフ、金庫の暗号まで満代か。馬鹿にしてやがる。よし、それじゃ、俺が次の間へ行ってる間、大人しくしているんだぞ。声でも立てたら、満代さんの命がねえぞ」
凄い口調で云い残して、賊は次の間へ消えて行ったが、ややしばらくあって、袱紗包の札束らしいものを手にして、ニヤニヤ笑いながら戻って来た。
「確かに貰った。久しぶりにお目にかかる大金だ。悪くねえなあ。……ところで、これで用事もすんだから、おさらばといいたいんだが、そうはいかねえ。まだ大切な御用が残っておいで遊ばすのだ」
「エッ、まだ用事があるとは?」
主人の山本は、なぜかギョッとしたように、賊の覆面を睨みつける。
「俺ア、今夜は貴様達二人に恨みをはらしに来たんだ。その方の用事が、まだすんでいないというのさ」
「じゃあ、貴様は、金を取った上にまだ……」
「ウン、先きに殺したんじゃ、金庫を開くことが出来ねえからね」
「エツ、殺す?」
「ウフフフフ、怖いかね」
「俺を殺すというのか」
「オオサ、貴様をよ。それから、貴様の大じの大じの満代さんをよ」
「なぜだ。なぜ俺達を殺さなければならないんだ。君はそうして、大金を手に入れたじゃないか。それだけで満足が出来ないのか」
「ところがね、やっぱり殺さなくちゃならないんだよ。マア考えても見るがいい。俺がこの家を立去ったら、貴様はすぐ俺の名を云って警察へ訴えて出るだろう。そうすれば、俺は折角貰ったこの金を使うひまさえなかろうじゃないか。エ、色男、どうだね。マアそう云った理窟じゃねえか。貴様が余計なおせっかいをして、俺の正体を看破ったのが運の尽きというものだ。自業自得と諦めるがいいのさ。
イヤ、そればかりじゃない。仮令貴様が俺を看破らなかったとしたところが、貴様達夫婦がそうして仲よくしているところを見せつけられちゃ、俺ア黙っちゃあ帰られねえ。八年前の意趣ばらしだ。イヤ、八年前から今日が日まで、片時として忘れたことのねえ恋の遺恨だ。貴様も憎いが、満代はもっと憎いんだ。恋いこがれていただけに、今の憎さがどれ程か、思い知らせてくれるのだ」
賊は憎々しく云いながら、血に濡れた九寸五分を、又しても満代の頬に当てた。それと知った満代は、恐怖の絶頂に、身を石のように固め、両眼が眼窩を飛び出すかとばかり見開いて、狂気のように賊を見つめながら、猿轡の奥から、この世のものとも思われぬ凄惨なうめき声を発した。
「待ってくれ、川手、俺は決して君の名を口外しない。誓いを立てる。決して決して警察に訴えたりなんかしない。その一万円は俺の自由意志で君に贈与したことにする。だから、ねえ川手君、どうか許してくれ。命は助けてくれ。お願いだ」
云いながら山本は、ハラハラと涙をこぼした。
「川手君、君もまさか鬼ではあるまい。僕の気持ちを察してくれ。僕は果報者だ。満代はよくしてくれるし、二人の小さい子供は可愛い盛りだ。商売の方も順調に行っている。僕は幸福の真只中にいるのだ。まだこの世に未練がある。死に切れない。あの可愛い子供達や、この事業を残しては、死んでも死に切れない。川手君、察してくれ。そして、昔の朋輩甲斐に、俺を助けてくれ。ねえ、お願いだ。その代り、君の事は悪くはしない。これからも出来るだけの援助はするつもりだ。もう一度、昔の朋輩の気持になってくれ」
「フフン、相変らず貴様は口先がうまいなあ。女を横取りして置いて、一人いい子になって置いて、昔の朋輩が聞いてあきれらあ。そんな甘口に乗る俺じゃねえ。マア、そんな無駄口を叩く暇があったら、念仏でも唱えるがいい」
「それじゃ、どうあっても許しちゃくれないのか」
「くどいよ。許すか許さねえか、論より証拠だ。これを見るがいい」
そして、賊はいきなり短刀を満代の胸へ……。
川手氏は最早や見るに忍びなかった。今二人の男女が殺されようとしているのだ。目を閉いでも、断末魔の悲痛なうめき声が聞えて来る。しかもそれは、一寸だめし五分だめし、歌舞伎芝居の殺し場そっくりの、あのいやらしい、陰惨な、惻々として鬼気の身に迫るものであった。
その残虐を敢てしている人物が我が亡き父であると思うと、川手氏は余計たまらなかった。自分よりも若い父親が、目の前に現われるなんて、理性では判断出来ない不思議だけれど、それを思いめぐらしている程、川手氏は冷静ではなかった。夢にもせよ、幻にもせよ、この残虐を黙って見ている訳には行かぬ。止めなければ、止めなければ……。
川手氏はもう気も狂わんばかりになって、いきなり拳を固めて前の板壁を乱打し始めた。地だんだを踏みながら、声を限りに訳も分らぬ事をわめき始めた。
それから十分程のち、川手氏はもうわめくことをやめて、又節穴を喰い入るように覗き込んでいた。
その間に板壁の向側で何事が行われたかは、ここに細叙することを差控えなければならぬ。川手庄兵衛なる人物は、それ程残虐であり、夫婦のものの最期は、それ程物恐ろしかったのである。
いま、節穴の向うには、最早や動くものとては何もなかった。二人の男女は、後手に縛られたまま、グッタリとうつぶせに倒れていた。青畳の上には、池のように真赤なものが流れていた。苦悶と絶叫のあとに、ただ死の静寂があった。丸火屋の台ランプが、風もないのに、さまよう魂魄を暗示するかの如く、ジジジジと音を立てて、異様に明滅していた。
暫くすると、一方の襖が慌しく明けられて、二十五六歳程の召使らしい女が、胸に嬰児を抱きしめ、四五歳の男の子の手を引いて、息せき切って駈け込んで来た。賊に縛られていた繩を、やっと解いて、主人夫婦の安否を確めに来たものに違いない。赤ん坊を抱いているのを見ると、乳母ででもあろうか。手を引かれている男の子は、アア、これは何としたことだ。川手氏をこの地下室へ導いた、あの不思議な幼児であった。
乳母らしい女は、一目、座敷の様子を見ると、あまりの恐ろしさに、サッと顔色を変えて立ちすくんだが、やがて気を取り直すと、倒れている二人の側に駈け寄って、涙声を振りしぼった。
「旦那様、奥様、しっかりなすって下さいまし。旦那様、旦那様」
こわごわ肩に手をかけて、揺り動かすと、主人の山本は、まだことぎれていなかったと見えて、機械仕掛の人形のような、異様な動き方で、ゆっくりと顔を上げた。オオ、その顔! 目は血走り、頬はこけ、紙のような不気味な白さの中に、半ば開いた唇と舌とが、紫色に変っている。しかも、その額から頬にかけてベットリと赤いものが。
「オオ、ば、ばあやか……」
死人のような唇から、やっとかすれた声が漏れた。
「エエ、わたくしでございます。旦那様、しっかりなすって下さいまし。お水を持って参りましょうか。お水を……」
乳母は狂気のように、瀕死者の耳もとに口をあてて叫けぶのだ。
「ぼ、ぼうや、ぼうやを、ここへ……」
血走った目が、座敷の隅におびえている男の子に注がれる。
「坊ちゃまでございますか、サ、坊ちゃま、お父さまがお呼びでございますよ。早く、早くここへ」
乳母は幼児の手を取るようにして、瀕死の父の膝の前に坐らせ、自分は甲斐甲斐しく、主人のうしろに廻って、繩を解くのであった。
やっと自由になった山本の右手が、おぼつかなく幼児の肩にかかって、我が子を膝の上に抱き寄せた。
「ぼうや、か、かたきを、討ってくれ。……お父さんを、ころしたのは、かわて、しょうべえだ。……か、かわて、かわてだぞ。……ぼうや、かたきを、とってくれ。……あいつの、一家を、ねだやしにするのだ。……わ、わかったか。わかったか。……ばあや、たのんだぞ。……」
そして、ギリギリと歯噛みをして、すすり泣いたかと思うと、幼児の肩をつかんだ指が、もがくように痙攣して、ガックリと、そのままうっぷして、山本は遂に息が絶えてしまった。
ワーッと泣き伏す乳母、火のつくような赤ん坊の泣声、今まで余りの驚きに、泣く力さえなくおびえ切っていた男の子も、俄かに声を立てて泣き入った。
目もあてられぬ惨状だ。川手氏は又しても節穴から顔を放して、貰い泣きの涙を拭わなければならなかった。
暫くすると、乳母はやっと気を取り直して、男の子を我が前に引寄せ、決然とした様子で言い聞かせた。
「坊ちゃま。今、お父さまのおっしゃったこと、よくお分りになりまして。坊ちゃまは、まだ小さいから、お分りにならないかも知れませんが、お父さまやお母さまを、こんなむごたらしい目にあわせた奴は、元お店に使われていた川手庄兵衛でございますよ。よございますか。坊ちゃまは、お父さまの遺言を守って、仇討ちをなさらなければなりません。あいつの一家を根絶やしにしてやるのです。
あいつには坊ちゃまよりは少し大きい男の子があるっていうことを聞いております。坊ちゃまは、その子供も決して見逃してはなりませんよ。そいつを、お父さまと同じような目にあわせてやるのです。いいえ、もっともっとひどい目にあわせてやるのです。そうしなければ、お父さまお母さまの魂は決して浮かばれないのです。お分りになりましたか」
乳母の恨みに燃えるまなざしが、まだ物心もつかぬ幼児の顔を、喰い入るように睨みつけた。すると、男の子は、その刹那亡き父親の魂がのり移りでもしたように、幼い目をいからせ、拳を握って、廻らぬ舌で甲高く答えるのであった。
「坊や、そいつ、斬っちゃう。お父ちゃま、みたいに、斬っちゃう」
それを聞くと、節穴の川手氏は慄然として三度顔を背けた。アア、何という怨恨、何という執念であろう。無残の最後をとげた父母の魂は、今この幼児の心の中に移り住んだのである。でなくて、幼い子供が、あの様な恐しい目をする筈がない。あのような気違いめいた表情をする筈がない。アア、恐ろしいことだ。
再び節穴に目を当てると、いつの間にか、台ランプが消えたらしく、そこは墨を流したような闇に変っていた。人声も途絶え、物の動く気配とても感じられなかった。
だが、あれは何だろう。闇の中に直径一丈程の丸いものが、巨大な月のように、ぼんやりと白んでいた。そして、見る見るそれがはっきりと輝いて行く。
節穴から目を放していた僅かの間に、正面に白い幕のようなものが垂れ下ったらしく感じられた。その幕の表面に、一丈の月輪が輝いているのだ。
初めは、その月の中の兎のように見えていた薄黒いものが、光の度を増すにつれて、もつれ合う無数の蛇に変って行った。オオ、そこにはあの無数の蛇が蠢いているのだ。蛇ではない、千倍万倍に拡大されたあの指紋が、……お化のような、あの三重渦状紋が。
「オイ、川手庄太郎、貴様の父親の旧悪を思い知ったか。そして俺の復讐の意味が分ったか」
どこからともなく、不気味な声が、まるで内しょ話のような囁き声が聞えて来た。
「俺は今、貴様の見た山本の息子、始というものだ。貴様の一家を根絶やしにする事を、一生の事業として生きている山本始というものだ」
声はどこから響いて来るのか見当がつかなかった。前からのようでもあり、うしろからのようでもあり、しかし、その低い囁き声が、地下室全体に轟き渡って、まるで雷鳴のように感じられるのだ、川手氏は全身から脂汗を流しながら、金縛りにでもあったように、身動きさえ出来ない感じであった。
「貴様の父川手庄兵衛は、乳母の訴えによって、間もなく逮捕され、牢獄につながれる身となった。無論死刑だ。しかし、俺の両親の恨みはそんな手ぬるい事で霽れるものではない。目には目を、歯には歯をだ。ところが、庄兵衛はその死刑さえ待たないで、牢獄の中で安らかに病死をしてしまった。アア、父母の恨み、俺の恨みは、一体どこへ持って行けばよいのだ。
俺はその当時、まだ幼かったので、乳母の訴えることを止めて、自分からこの手で復讐するという分別も力もなかった。あとで病死と聞いたときには、俺は泣いてお上を恨んだが、もうあとの祭だ。そこで俺は、父親の代りに貴様を相手にする事に決めた。子は父の為めに罪を負わなければならないのだ。これが復讐の神の掟だ。
俺はその準備の為めに、四十年の年月を費した。はやる心を押え押えて、機の熟するのを待った。目には目を、歯には歯をだ。ただ貴様を殺すのはたやすい。しかし、それだけでは父母の魂が浮ばれぬ。貴様にも、父母と同じ苦しみ悲しみを与えなくてはならぬのだ。
そこで、俺は我慢に我慢を重ねて貴様の立身出世するのを待った。子供を生み、その子が立派に育つのを待った。そして貴様の出世が絶頂に達した今、俺の毒矢は遂に弦を離れたのだ。第一矢は妹娘を斃した。第二矢は姉娘を斃した。そして、第三矢は今、この瞬間、貴様の心臓を射抜こうとしているのだ」
川手氏は父の牢死を知っていた。知って秘し隠しに隠していた。しかし何の罪によって入牢したかは、誰も教えてくれなかった。無論これ程の大罪とは知る由もなかったのだ。彼は貧苦と艱難の幼時を女親の手一つに育てられ、努力奮闘、遂に立志伝中の人となって現在の地盤を築いたのだが、母はいまわの際まで、我子に父の恐ろしい秘密を語らなかった。何とやら腑に落ちぬことが多くて、屡々不審を抱くこともあったが、しかし父がそれ程の極悪非道を行っていようとは夢にも知らなかった。
「川手、何をぼんやり考えているのだ。恐ろしさに気が遠くなったのか、それとも何か腑に落ちぬことでもあるというのか」
囁き声がもどかしげに聞えて来た。
「腑に落ちぬ」
川手氏は猛然として、大勇猛心を奮い起し、いきなり怒鳴り返した。
「俺は父の罪を知らぬのだ。今聞くのが初めてだ。証拠を見せろ。俺は信じることが出来ない」
「ハハハハ、証拠か。それは、この俺が、山本始が、四十年を費して貴様に復讐を企てたことが何よりの証拠ではないか。ちっとやそっとの恨みで、人間がこれ程の辛苦に堪えられると思うのか」
「今のは、お芝居をして見せたのだな」
「そうだ。貴様に十分思い知らせる為に、多額の費用を使って地底演劇をやって見せたのだ。あの無残極まる貴様の親父の所業を目のあたり見せたら、いくらぼんやり者の貴様にでも、俺のやり場のない無念さを、悟らせることが出来るだろうと考えたからだ。口で話した位で、あの残虐が分るものではない。
俺は子供心にも、あの父の断末魔の苦しみと、血の海にもがき廻った両親の苦悶のさまが、目の底に焼きついて、数十年後の今も、昨日のことのようにまざまざと思い出されるのだ。貴様の親父が牢死した位のことで、この恨みが、この悲しみが、消えてしまうと思うのか。俺の父は川手の一家を悉く亡ぼさなくては浮ばれないと遺言した。俺はその遺言を果したいばかりに、今日の日まで生き永らえて来たのだ。俺の生涯は父と母との復讐の為に捧げられたのだ。
川手、俺の父と母と、俺自身との怨恨がどれ程のものであったかを、今こそ思い知るがいい。俺は貴様一家を皆殺しにするまでは、死んでも死に切れないのだ」
「だが、若し俺が貴様の復讐に応じないといったら、どうするのだ」
「逃げるのか」
「逃げるのではない。立ち去るのだ。俺にはここを立ち去る自由がある」
「ハハハハハ、オイ、川手、それじゃ一つ君のうしろを振返って見たまえ」
川手氏はそれまで、節穴の向うの巨大な指紋を睨みつけて物を云っていたが、この時初めて、どうやら敵はうしろにいるらしい事に気附いた。そして、ハッと振向くと、淡い蝋燭の光に照らされて、そこに、一間とは隔たぬ目の前に、いつの間に忍び込んだのか、二人の男が立ちはだかっているのを発見して、ギョッと息を呑んだ。
オオ、あいつらだ。犯罪の行われる毎に姿を現わしたあの二人だ。一人は一方の目に大きな眼帯を当てた、無精鬚の大男、一人は黒眼鏡をかけた、痩せっぽちの小男だ。その二人が、小型ピストルを構えて、じっと川手氏に狙いを定めているのだ。
「ハハハハハ、これでも逃げられるというのか。身動きでもして見ろ、貴様の心臓に穴があくぞ」
大男の方が、今度はハッキリした声で、さも愉快らしく怒鳴った。
川手氏は、あくまで用意周到な相手に、最早や観念の眼を閉じる外はなかった。
「で、君達は俺をどうしようっていうのだ」
すると、大男は左手を上げて、静かに地下室の隅を指さした。オオ、そこには、あの薄気味悪い棺桶が、主待ち顔に置かれてあるのだ。
「君はこの中へ入るのさ。ちゃんと君の名が書いてあるじゃないか。川手、君はこれまでに、生きながらの埋葬という事を想像して見たことがあるかね。ハハハハハ、ないと見えるね。それじゃ一つ味わって見るがいい。君はこの棺の中に入って、生きながら土の底深く埋められるのだ」
云い放って、二人の男はお互に顔見合せ、さもおかしくて堪まらぬというように、腹を抱えて、ゲラゲラと笑い出すのであった。
川手氏は立っている力もない程の烈しい恐怖に襲われた。身体中の血液がスーッと引潮のように消えて行って、異様な寒さに、歯の根がガチガチ鳴り始めた。
「だ、誰か、誰か来てくれエ!」
土気色の顔、紫色の唇から、気違いのような絶叫がほとばしった。
「ハハハ……、駄目だ、駄目だ。君がいくら大きな声を出したって、ここは山の中の一軒家だぜ。鳥や獣物がびっくりして逃げ出すくらいのものだ。アア、君は爺や夫婦が、その声を聞きつけて、助けに来てくれると思っているんだね。フフフ……。
ところがね、川手君、それは飛んだ当て違いというものだぜ。もうこうなったら、何もかも云ってしまうが、あの婆やというのは、外でもない、今君が見た山本家の乳母だった女なのさ。つまり俺の味方なのだ。爺やの方も、夫婦であって見れば、まさか女房を裏切って、俺の邪魔立てをする筈もなかろうじゃないか。
ハハハ……、君は不思議そうな顔をしているね。あの爺や夫婦が俺の手下だとすると、そんなところへ、宗像先生が君を連れて来たのは、変だとでもいうのかね。ハハハ……、何も変な事はないさ。宗像大先生は、この俺のためにマンマと一杯食わされたという訳だよ。俺がちゃんとお膳立てして置いたところへ、先生の方で飛び込んで来たのさ。あの三角髯の先生、見かけ倒しのボンクラ探偵だぜ。そんな探偵さんの云うままになった君の不運と諦めるがいい」
眼帯の大男山本始は、得意らしく種明かしをして、さも面白そうに笑うのだが、川手氏は、その言葉さえ殆んど耳に入らなかった。ただ、あの真暗な「死」が、目の前にチラチラして、恐怖の余り魂も身に添わず、無駄とは分っていても、何かしら訳の分らぬ事を絶叫しないではいられなかった。
「ハハハ……、オイ川手、貴様も実業界では一廉の人物じゃないか。みっともない、その態は何だ。オイ黙らんか。黙れというのだ。……まだ泣いているな。往生際の悪い奴だ。……よし、それじゃ俺が黙らしてやろう」
云いながら、大男はいつの間にか川手氏のうしろに廻って、一方の手でギュッと喉をしめつけ、一方の手で口を蓋してしまった。川手氏は何の抵抗力もなく、まるで人形のように、されるがままになっている。
それと見ると、黒眼鏡の小男は、どこからか長い細引を取出して、素早く川手氏の足元に走り寄り、いきなり足の先からグルグルと巻きつけ始めた。
足から腰、腰から両手と、見る見る内に、川手氏は無残な荷物のように、身動きも出来ず縛り上げられてしまった。
「よし、お前、足の方を持つんだ。そして、棺の中へ納めてしまおう」
大男の指図に、小男は無言で川手氏の膝の辺に両手を廻し、力まかせに抱き上げた。
そうして宙を運ばれながら、生きた心地もない焦慮の中で、川手氏は不思議にはっきりと、ある異様な事柄を気附いていた。
というのは、黒眼鏡の小男が、どうも本当の男性ではないという事であった。膝に巻きついたネットリとしなやかな腕の感触、時々触れ合う胸の辺の肌触り、それに、小刻みな柔かい息遣いなどが、女としか思われないことであった。
だが、それは、慌しい心の隙間に、一瞬チラッと閃いたばかりで、やがて例の不気味な寝棺の中にドサッと抛り込まれてしまうと、もうそんなことを考えつづけている余裕などある筈もなかった。
「川手、俺はとうとう目的を達したんだ。俺がどんなに嬉しがっているか、君に想像がつくかね。四十年の恨みを、俺の父と母とのあの血みどろの妄執を、今こそはらすことが出来たのだ。
お父さん、お母さん、これを見て下さい。あなた方の敵は、今生きながら棺桶の中へとじこめられようとしているのです。あなた方のあの残酷な御最期にくらべては、これでもまだ足らないかも知れません。しかし、僕は智恵と力の限りを尽したのです。
一思いに殺すなんて、まるで相手を許してやるのも同然です。と云って、耳を削ぎ鼻を削ぐ一寸だめし五分だめしも、その苦しみの時間は知れたものです。それよりも、何が恐ろしいと云って、生きながらの埋葬ほど恐ろしいものはないと思います。無論、それ程の苦しみを与えても、お父さん、お母さん、あの時のあなた方のお苦しみには、やっと匹敵するかしないかです。でも、僕の智恵では、その上の思案も浮びません。どうかこれで思いをおはらし下さい。
ところで、川手、この生きながらの埋葬というものの恐ろしさが、君には想像が出来るかね。真暗な土の中へ入ってしまうのだ。そこで、一日も二日も三日も、空気の不足と餓えと渇きとに責められて生きていなければならないのだ。
いくら藻掻いたところで棺桶の蓋は開きやしない。君の指の生爪がはがれて、血まみれになるばかりだ。フフフ……、君はその血をさえ、餓鬼のように貪り啜ることだろうて。
藻掻きに藻掻いて、やっと息が絶えると、待ち構えていた蛆虫が、君の身体中を這い廻って、肉や臓腑を、ムチムチと啖い始めるのだ。……」
川手氏は棺桶の中に身動きも出来ず横わったまま、この無残な宣告を聞いていた。イヤ一語一語を聞き取る程の余裕はなかったけれど、聞かなくても、生埋めの恐ろしさは、彼自身の想像力によって、魂も消えるばかり、ひしひしと思いあたっていた。
口が自由になっても、もう叫び声さえ出なかった。ただ、自分では何か大声に叫んでいる積りで、血の気の失せた唇を、鯉のようにパクパク動かしているばかりであった。
「では、もう蓋をしめるぜ、観念するがいい。だが、その前に一言云って聞かせて置くことがある。……それはね、こんな目に会うのは、君が最後ではないということだよ。フフフ……、分らんかね。君は知るまいが、君には一人の妹があるんだ。君の父親があの泥棒をした金で、数ヶ月の間贅沢な暮らしをしていた頃、ある女の腹に出来た子供があるんだ。
俺は川手の血筋は一人残らず、この世から絶やしてしまうという誓いを立てた。だから、どっかに庄兵衛の血筋が残ってやしないかと、どれ程苦心をして探し廻ったか知れない。そして、君さえ知らぬその妹を見つけ出したのだ。
そいつも、今に君のあとを追って、地獄へ行くことだろう。地獄で目出度く兄妹の対面をするがいい。イヤ、地獄といやあ、君の二人の娘も、そこで君を待っているはずだったね。ハハハハ……、久しぶりで、親子の対面も出来るというものだぜ。
それからね、序にもう一つ云い聞かせて置くが、ここにいる黒眼鏡の男は、実は男じゃない。女だよ。エ、誰だと思うね。君がさい前覗き穴から見た女だぜ。と云っても、あの頃はまだ乳母に抱かれた赤ん坊だったが、あの赤ん坊がこんなに大きくなったのさ。そして、兄の手助けをして、一生を復讐の為に捧げて来たのさ。
君の二人の娘も、決して俺一人の手では料理しなかった。この妹にも存分恨みをはらさせたのだ。オイ、お前も今わの際に、こいつに顔を見せてやれ。あのときの赤ん坊が、両親の断末魔の血を啜って、どんな女に生長したか、よく顔を拝ませてやれ」
山本始の指図に従って、男装の女は川手氏の上に顔を近よせ、大きな黒眼鏡を取って見せた。
川手氏は、蝋燭の光の陰に、眼界一杯にひろがった中年の女の顔を見た。気違いのように上ずった、二つの恐ろしい目を見た。
女はじっと川手氏の顔を睨みつけて、キリキリと歯噛みをした。そして、いきなり川手氏の顔に唾を吐きかけた。
「ホホ……、泣いているわ。顔の色ったらありゃしない。兄さん、あたしこれで胸がせいせいしたわ。サ、早く蓋をして、釘を打ちつけましょうよ」
妹は兄に輪をかけた狂人であった。この無残な言葉を、まるで日常茶飯事のように、子供の無邪気さで云い放った。亡き山本夫妻の怨霊のさせる業か、この復讐鬼兄妹は、揃いも揃って、精神的不具者としか考えられなかった。その所業の残忍、その計画の奇矯、到底常人の想像し得る所ではなかった。
やがて、鬼気漂う地底の窖に、一打ち毎に人の心を凍らせるような金槌の音が響き渡った。その金槌の音につれて、赤茶けた蝋燭の火が明滅し、ニヤニヤと不気味に笑う男女二匹の鬼の顔が、闇の中に消えたり浮上ったりした。
釘を打ち終ると、二人は棺桶を吊って窖の外に出た。真暗な廊下を幾曲りして、雨戸を開き、そのまま庭の木立の中へ入って行く。
大樹の茂みに囲まれた闇の空地、昨日川手氏が自分自身の墓石を見たあの同じ場所に、何時の間に誰が掘ったのか、深い墓穴が地獄への口を開いていた。
二人は小さな蝋燭の光をたよりに、棺桶をその穴の底に落し入れると、その辺に投げ捨ててあった鍬とシャベルを取って、棺の上に土をかけた。そして、穴を埋め終ると、その柔かい土の上で、足を揃えて地均しを始めた。
足拍子も面白く、やがて、男女二いろの物狂わしい笑い声さえ加わって、地上に立てたほの暗い蝋燭の光の中に、二つの影法師は、まるで楽しい舞踏ででもあるように、いつまでもいつまでも、地均しの踊りを踊り続けるのであった。
お話は一転して東京に移る。
あの無残な川手氏の生体埋葬が行われた翌日の夜、隅田川にボート遊びをしていた若い男女が、世にも不思議な拾いものをした。
男は丸の内のある会社に勤めている平凡な下級社員、女は浅草のあるカフェーの女給であったが、丁度土曜日のこと、まだ季節には早いけれど、川風が寒いという程ではなく、闇の中で、たった二人で話をするのには、これに限るという思いつきから、もう店開きをした貸ボートを借りて、人目離れた川の真中を漕ぎ廻っていた。
やがて十時であった。
季節でもないこの夜更けに、ボート遊びをしているような物好きもなく、暗い川面には、彼らの外に貸ボートの赤い行燈は、一つも見当らなかった。
彼らはその淋しさを、却ってよい事にして、楽しい語らいの種も尽きず、ゆっくりと櫂を操りながら、今吾妻橋の下を抜けようとした時であった。夢中に話し込んでいる二人の間へ、ヒューッと空から何かしら落ちて来て、女の膝をかすめ、ボートの底に転がった。
「アラッ!」
女は思わず声を立てて、橋を見上げた。空から物が降る筈はない、橋の上を通りかかった人が、投げ落したものに違いないのだ。
男は櫂を一掻きして、ボートを橋の下から出し、それと覚しい辺りを見上げたが、その辺に川を覗いているような人影もなかった。怒鳴りつけようにも、相手はもう立去ってしまっていたのだ。
「痛い? ひどく痛むかい」
女が渋面を作りながら膝をさすっているので、男は心配そうに訊ねた。
「それ程でもないわ。でも、ひどいことをするわね。あたし、まだ胸がドキドキしている。誰かがいたずらしたんじゃないかしら」
「まさか。それに、あの時、ボートは橋の下から半分も出ていなかったから、きっと、こんな所に舟なんかないと思って投げたんだよ。川の中へ捨てたつもりで行ってしまったんだよ」
「そうかしら、でも危いわねえ。軽いものなら構わないけど、これ随分重そうなものよ。アラ、ごらんなさい。何だかいやに御丁寧に縛ってあるようよ」
男は櫂を離して、ボートの底に転がっている一物を拾い上げ、行燈の火にかざして見た。
それは石鹸箱程の大きさのもので、新聞紙で丁寧に包み、上から十文字に細い紐で括ってあった。
「あけて見ようか」
男は女の顔を眺めて、冗談らしく云った。
「汚いわ、捨てておしまいなさい」
女が顔をしかめるのを、意地悪くニヤニヤして、
「だが、若しこの中に貴重なものが入っていたら、勿体ないからね。何だかいやに重いぜ。金属の箱らしいぜ。宝石入れじゃないかな。誰かが盗んだけれど、持っているのが恐ろしくなって、川の中へ捨てたというようなことかも知れないぜ。よくある奴だ」
男は多分に猟奇の趣味を持っていた。
「慾ばっている! そんなお話みたいなことがあるもんですか」
「だが、つまらないものを、こんなに丁寧に包んだり縛ったりする奴はないぜ。兎も角開けて見よう。まさか爆弾じゃあるまい。君、この行燈を持っていてくれよ」
男の酔狂を笑いながら、しかし、女も満更ら好奇心がない訳でなく、蝋燭のついた行燈を取って、男の手の上にさしつけてやるのであった。
男はその新聞包をボートの真中の腰かけ板の上にのせ、その上にかがみ込んで、注意深く紐を解き始めた。
「いやに沢山結び玉を拵えやがったな」
小言を云いながら、でも辛抱強く、丹念に結び玉を解いて、やっと紐をはずすと、幾重にも重ねた新聞包を、ビクビクしながら開いて行った。
「ホーラごらん。やっぱり捨てたもんじゃないぜ。錫の小函だ。重い筈だよ。ウン、分った。この函は重しに使ったんだ。中のものが浮いたり流れたりしないように、こんな重い函の中へ入れて捨てたんだ。して見ると、この中には、ひょっとしたら、ラヴ・レターかなんか入っているのかも知れないぜ。こりゃ面白くなって来た」
「およしなさいよ。何だか気味が悪いわ。いやなものが入っているんじゃない? こんなにまでして捨てるくらいだから、よっぽど人に見られては困るものに違いないわ」
「だから、面白いというんだよ。マア、見ててごらん」
男はまるで爆弾でもいじるような風におどけながら、勿体らしく小函の蓋に手をかけ、ソロソロと開いて行った。
「ハンカチらしいね」
小函の中にはハンカチを丸めたようなものが入っていた。男は拇指と人差指で、ソッとそれの端をつまみ上げ、函の外へ取出した。
「ア、いけない。捨てておしまいなさい。血だわ。血がついているわ」
如何にもそのハンカチには、ドス黒い血のようなものがベットリと染み込んでいた。
それを見ると、女が顔色を変えたのに引かえ、男の好奇心は一入激しくなりまさった。
彼はもう無言であった。何かしら重大な事件の中にまき込まれたという興奮のために、目の色が変っていた。彼は咄嗟の間に、嘗て愛読した探偵小説の中の、それに似た場面をあれこれと思い浮べていた。
ほの暗い行燈の下で、血染のハンカチが注意深く開かれて行った。
「何だか包んである」
男の声は、囁くように低かった。顔をくっつけ合った二人には、お互の鼻息が、異様に耳についた。
「怖いわ。よしましょう。捨てておしまいなさいな。でなければお巡りさんに渡した方がいいわ」
だが、男はもうハンカチを拡げてしまっていた。真赤に染まったハンカチの上に、何かしら細長いものが、鈎なりに曲って横わっていた。
「指だよ」
男が鼻息の間から喉のつまった声で囁いた。
「マア!」
女はもうお喋りをする元気もなく、行燈をそこに置いたまま、顔をそむけてしまった。
「女の指だよ。……根元から切取ってある」
男が憑かれた人のように、不気味な囁きをつづけた。
「指を切取って、川の中へ捨てなければならないなんて、これは一体どうした訳だろう。……犯罪だ! 君、これは犯罪だよ。……悪くすると殺人事件だよ」
隅田川の夜更け、ボート遊びの男女が、吾妻橋の上から投げ捨てられた奇怪な錫の小函の中から、今斬り取ったばかりのような生々しい人間の指を発見して、色を失った、その翌朝のことである。
警視庁の中村捜査係長は、出勤の途中、ふと宗像博士を訪ねて見る気になり、丸の内の宗像探偵事務所に立寄った。
中村係長は、民間探偵とはいえ、宗像博士の学識と手腕に、日頃から深く傾倒しているので、何かというと、博士を相談相手のようにしていたのだが、殊に今度の三重渦巻の怪指紋の犯人の事件では、博士は被害者川手氏の依頼を受けて、その捜査に当っていることでもあり、何か新しい手掛りの発見でもないかと、時々宗像探偵事務所を訪問して見るのであった。
宗像博士は中村警部の顔を見ると、
「や、いいところへお出で下すった。実は僕の方からあなたのところへ出向こうかと思っていたところです」
といいながら、先に立って、警部を奥まった化学実験室へ案内した。
「ホウ、そうでしたか。じゃ、何か新しい手掛りでも……」
「そうですよ。マアお掛け下さい。色々重大な御報告があるのです。無論例の三重渦状紋の怪物についてですよ」
中村警部はそれを聞くと、早朝の訪問が無駄でなかったことを喜びながら、目を輝かして博士の顔を見つめた。
「そいつは耳よりですね、一体どんなことです」
「サア、どちらからお話していいか。実は御報告しなければならない重大な事柄が二つ重なって来たので、僕も面喰らっているのですが、マア、順序を追ってお話しましょう。
その一つは、川手庄太郎氏が行方不明になってしまった事です」
「エッ、行方不明に?」
「そうです。これは僕に全責任がある訳で、全く申訳ないと思っているのです。川手氏を甲府の近くの山中の一軒家へ匿ったことは、先日お話した通りですが、あれ程用心に用心を重ねて連れて行ったのに、どうしてこんなことになったのか、殆んど想像もつきません。
一昨日でした。川手氏から至急来てくれという電報を受取ったのです。用件は書いてありませんでしたが、あの不便な山の中から電報を打つくらいですから、よくよくの事に違いないのです。
ところが、その日僕は別の事件で、どうしても手の放せないことがあったものですから、一日延ばして、昨日の午後やっと川手氏のところへ行ったのです。
行って見ると、留守番の爺さん夫婦のものが、オロオロしながら、今朝から川手氏の姿が見えないというのです。昨夜お寝みになったまま、蒲団がもぬけの殻になっていて、いつまで待っても食事にもいらっしゃらないので、家の中は勿論、庭から附近の山までも探し廻ったのだけれど、どこにも姿が見えぬというのです。
調べて見ると、川手氏の衣類はちゃんと揃っている。寝間着のままで行方不明になってしまったのです。まさか寝間着のまま汽車に乗る筈もなく、自分の意志で家出をしたとは考えられない。てっきり何者かに攫われたのです。イヤ、何者かではない、あの三重渦巻の怪物に連れ去られたのに違いありません。
僕は余程あなたにお電話しようかと思ったのですが、東京からお出でになるのじゃ夜中になってしまいます。で、やむを得ず、僕自身で出来るだけのことをしました。
あちらの警察と青年団の手を借りて、一寸した山狩りのようなこともやって見ました。その捜索はまだ今でも続けられている筈ですが、昨夜僕の帰るまでには、何の発見もありませんでした。
一方僕は自身で、附近の三つの駅に電話をかけて、怪しい人物が下車しなかったか、何か大きな荷物を持った人物が乗車しなかったかと、訊ねて見たのですが、どの駅にもそういう怪しい人物の乗降はなかったのです。イヤ、あったとしても、駅員には少しも気附かれなかったのです。
で僕は一先ず東京へ帰ることにしました。例の怪指紋の犯人の仕業とすれば、その本拠は東京にあるのですし、いずれは川手氏の死体を東京の真中で、衆人に見せびらかす計画に違いないと考えたからです。それと、この事をあなたにも報告して、今後の処置について、よくお打合せしたかったのです。その上、都合によってはまたNへ引返すつもりでした。
ところが、今朝夜明けに新宿に着いて、一応自宅に帰り、今し方事務所へ来て見ますと、ここにも亦、実に驚くべき事件が待ち構えていたのです」
「エッ、ここにもですって?」
中村警部は、川手氏の行方不明について、もっと詳しく聞き糺そうとしていたのだが、今はそれも忘れて、膝を乗り出さないではいられなかった。
「そうです。僕が来る少し前、この事務所へ妙な品物が届けられたのですが、それを見て、僕は川手氏の行方を急いで探す必要はないと思いました。あの人はもう生きてはいないのです。その品物が川手氏の死をはっきりと語っているのです」
「それは一体何です。どうして、そんな事がお分りになるのです」
「これですよ」
宗像博士は、化学実験台の上に置いてある、小さな錫の小函を指し示して、
「今朝、三十歳位の会社員風の男が僕を訪ねて来て、助手が不在だというと、手帳の紙をちぎって、こんなことを書きつけて、これと一緒に僕に渡してくれといって、逃げるように立去ったというのです。その男はひどく青ざめて、震えていたといいます」
云いながら、博士はポケットからその手帳の紙を取出して、中村警部に渡したが、それには鉛筆の走り書きで、左のように記してあった。
昨夜午後十時頃、ボートを漕いでいて、吾妻橋の下で、この品を拾いました。包んであった新聞紙も紐もそのままお届けします。なぜこの品を先生のところへ持って来たかは、小函の中のものをよくごらん下されば分ります。今出勤を急ぎますので、後刻改めてお邪魔します。
「フーム、吾妻橋の下で拾ったというのですね。すると、誰かがこの品を隅田川へ投げ捨てたという訳ですか。綺麗な小函じゃありませんか。中に一体何が入っているのです」
「実に驚くべきものが入っているのです。マア開けてごらんなさい」
博士は錫の小函を中村警部の方へ押しやった。
「錫の函を、こんなに沢山の新聞で包んで、その上をこの紐で括ってあったのですね。ひどく用心深いじゃありませんか」
警部はそんな事を云いながら、拇指と人差指で、小函の蓋をソッとつまみ、静かにそれを持ち上げた。
「オヤ、血のようですね」
小函の中には、読者は既に御存知の血染めのハンカチが丸めて押し込んである。中村氏はそのハンカチを、実験台の上に取出して、恐る恐る開いて行った。開くに随って、何か不気味な細長いものが現われて来た。指だ。人間の指だ。鋭利な刃物で根元からプッツリ切断した、まだ生々しい血染めの指だ。
「女の指のようじゃありませんか」
警部は職掌柄、はしたなく驚くようなことはなかったが、その顔には流石に緊張の色を隠すことが出来なかった。
「僕もそう思うのですが、しかし女と極めてしまう訳にも行きますまい。華奢な男の指かもしれません」
「しかし、この指が川手氏の死を語っているというのは? これが川手氏の指だとでもおっしゃるのですか」
警部は血に染まった女のように細い指と、宗像博士の顔を見比べるようにして、不審らしく訊ねた。
「イヤイヤ、そうではありません。ここに拡大鏡がありますから、その指をもっとよく調べて下さい」
博士が差出す拡大鏡を受取ると、警部はポケットから鼻紙を取出して、それで指をつまみ上げ、拡大鏡の下に持って来て、熱心に覗き込んだ。
「オヤッ、この指紋は……」
流石の警部も、今度こそは顔色を変えないではいられなかった。
「見覚えがありましょう」
「見覚えがあるどころか。渦巻が三つ重なっているじゃありませんか。三重渦状紋だ。例の奴とそっくりです。これは一体……」
「僕は今、その隆線の数も算えて見ましたが、例の殺人鬼の指紋と寸分違いません」
「すると……」
「すると、この指は犯人の手から斬り取られたのです。恐らく犯人自身が斬り取って、隅田川の底へ沈めようとしたのでしょう。重い錫の小函を使ったのも、その目的に違いありません」
「なぜです。あいつは、なぜ自分の指を斬り取ったりしたのです」
「それは容易に想像がつくじゃありませんか。考えてごらんなさい。犯人はこの指さえなくしてしまえば全く安全なのです。我々が犯人について知っているのは、ただこの三重渦状紋だけです。これさえ抹殺してしまえば、犯人を捉える手掛りが皆無になる訳ですからね。
犯人は川手氏を脅かし苦しめる為めに、この怪指紋を実に巧みに利用しましたが、その大切な武器を惜しげもなく切り捨てたところを見ると、もう指紋そのものが不要になった、つまり復讐の目的を完全に果したとしか考えられないじゃありませんか。僕が川手氏はもう生きていないだろうというのは、そういう論理からですよ」
「なる程、目的を果してしまったら、俄かに逮捕されることが恐ろしくなったという訳ですね。よくある奴です。僕もあなたの想像が当っているような気がします。それにしても、その小函が、どういう経路で佐藤という男の手に入ったか、又この手帳の切れっぱしに書いてある事が事実かどうかを、先ず取調べて見なければなりません。変な奴ですね、警察へ届けもしないで、いきなり先生のところへ持って来るなんて、この男を疑えば疑えない事もないじゃありませんか」
中村警部は警察が無視された点を、何より不服に思っているらしく見えた。
「ハハハ……、イヤ別に深い考えがあった訳じゃないでしょう。世間では三重渦巻の事件といえば、すぐ僕の名を思い出すような具合になっているのです。新聞があんなに書き立てるのですからね。佐藤という男も、それを知っていて、態と僕の所へ持って来たのでしょう。これを拾って指紋に気附いたところなどは、なかなか隅に置けない。例の街の探偵といった型の男ですね」
「それにしても、その男がもう一度ここへやって来るのを待って、詳しく聞き糺して見る外はありませんね。この指や小函だけでは、犯人が何者だか、どこに隠れているか、全く見当もつかないのですから」
「イヤ、僕の想像では、佐藤という男も多くを知ってはいまいと思うのです。ただ橋の上から投げ込まれたのが、偶然ボートの中へ落ちたというような事でしょうからね。それよりも、我々は手に入ったこれらの品を、綿密に研究して見なければなりません。一本の紐も、一枚の古新聞も、ましてハンカチなどというものは、証拠品として非常に重大な意味を持っていることがあるものです」
「しかし、見たところ、別にこれという手掛りもなさそうじゃありませんか。手掛りといえば、この指紋そのものが何より重大な手掛りですが、こうして犯人の身体から切り放されてしまっては、全く意味がない訳だし、この錫の小函にしても、どこにでも売っているような、ありふれた品ですからね」
「如何にも、指と小函に関しては、おっしゃる通りです。しかし、ここにはまだ紐と新聞紙とハンカチがあるじゃありませんか」
宗像博士は、何ぜか意味ありげに云って、相手の顔を見つめた。中村警部はそれを聞くと、脇に落ちぬ体で、改めて血染のハンカチを拡げて見たり、包装の古新聞を裏返して見たりした。
「僕には分りませんが、これらの品に、何か手掛りになるような点があるとおっしゃるのですか」
「もっと念を入れて調べてごらんなさい。僕はこの品々によって、犯人の所在を突きとめることが出来るとさえ考えているのですよ」
「エッ、犯人の所在を?」
警部はびっくりしたように、博士の顔を見た。博士はさも自信ありげに微笑んでいる。学者めいた三角型の顎髯に、何かしら奥底の知れぬ威厳のようなものが感じられた。
「先ずこの血染めのハンカチです。血まみれていて、ちょっと気がつかぬけれど、この隅をよくごらんなさい。赤い絹糸でイニシアルが縫いつけてある。光にかざして見ないと分らないが」
警部はハンカチを手に取って、窓の光線にかざして見た。
「なる程、RとKのようですね」
「そうです。犯人はR・Kという人物ですよ。偽名かも知れないが、いずれにしても、これは犯人のハンカチでしょう。川の底へ沈めてしまうものに、まさか作為をこらす筈もありませんからね」
「しかし、広い東京には、R・Kという頭字の人間が、無数にいるでしょうから、この持主を探し出すのは容易のことではありませんね」
「ところが、よくしたもので、その無数の中からたった一人を探し出す別の手掛りが、ちゃんと揃っているのですよ。この頭字をクロスワードの縦の鍵とすれば、もう一つ横の鍵に当るものを、我々は手に入れているのです」
中村警部はそれを聞くと、面羞ゆげに瞬きをした。博士の考えていることが、少しも分らなかったからである。
「その鍵というのは小函の包んであった新聞紙の中に隠されているのですよ。御丁寧に五枚も新聞を使っていますが、その内四枚は『東京朝日』です。ところが、ごらんなさい。一枚だけ地方新聞が混っている。『静岡日々新聞』です。これは一体何を意味するのでしょうか」
だが、情ないことに、中村氏にはまだ博士の真意が理解出来なかった。ただ先生の前の生徒のように、じっと相手の顔を見つめている外はないのだ。
「犯人が往来や外出先で指を切るなどということは考えられない。無論自宅でやったのに違いありません。そうすれば、この新聞も、その場にあり合せた、犯人自身の購読している新聞を使用したと考えても、先ず間違いはないでしょう。『東京朝日』は皆昨日の朝刊です。『静岡日々』だけが一昨日の日附になっている。これによっても、犯人がその日読み捨てた新聞を、何気なく使ったことが、よく分るではありませんか。
ところで、この『静岡日々』ですが、これは犯人が街頭の地方新聞売子から買ったものか、それとも、直接本社から毎日郵便で犯人のところへ送っているものか、二つの場合のどちらかです。
そこで、僕は若しやこの新聞に郵送の帯封の痕が残っていないかと、拡大鏡で調べて見たのですが、ごらんなさい、ここにちゃんとその痕跡がある。極く僅かだけれど、ハトロン紙を剥がした痕が残っている。
サア、これがあいつの致命傷ですよ。無論犯人は川に沈める積りだったのだから、ハンカチのイニシアルもそのままにして置いたし、ハトロン紙の痕跡など、まるで注意もしなかったのでしょうが、それが偶然ボートの中へ落ちて、僕の手に入るなんて、恐ろしいことです。どんな賢い犯罪者でも、いつかは尻尾を掴まれるものですね」
「アア、なる程、やっと分りました。その静岡日々新聞社の直接読者名簿を調べればいい訳ですね」
中村警部は疑問がとけて、ホッとした面持である。
「そうですよ。東京でこんな田舎新聞を取っている人は、そんなに沢山ある筈はない。精々百人か二百人でしょう。その中からR・Kの頭字の人物を探せばいいのですから、何の面倒もありません。あなた方警察の手でやれば、数時間の間に、このR・Kの住所をつきとめることが出来るでしょう」
「有難う。何だか目の前がパッと明るくなったような気がします。では、僕はすぐ捜査課に帰って手配をします。ナアニ、電話で静岡警察署に依頼すれば、R・Kの住所姓名はすぐ分りますよ」
中村警部は面を輝かして、もう椅子から立上っていた。
「じゃ、この証拠品はあなたの方へ保管して置いて下さい。そして、犯人の住所が分ったら、僕の方へも一寸お知らせ願えれば有難いのだが」
「無論お知らせしますよ。では、急ぎますからこれで……」
中村捜査係長は、博士がハトロン包みにしてくれた証拠品を受取ると、いそいそと事務所を立去るのであった。
その日の午後三時頃、待ち兼ねている宗像博士のところへ、中村警部から電話がかかって来た。
「大変おくれまして。例の人物の住所が判明したのです。若しお差支なければ、これからすぐ青山高樹町十七番地の北園竜子という家を訪ねて、お出で下さいませんか。高樹町の電車停留場から一町もない場所ですから、じき分ります。僕も今そこへ来ているのです」
警部の声は犯人を突き留めたにしては、何となく元気がなかった。
「北園竜子、キタゾノ、リュウコ、アアやっぱり女でしたね。それがあのR・K本人ですね」
「そうです。今まで調べた所では、そうとしか考えられません。しかし、残念なことに、その家は、昨日引越しをしてしまって、空家になっているのです。……イヤ、詳しいことはお会いしてからお話しましょう。ではなるべく早くお出でをお待ちします」
という訳で、博士は直ちに自動車を青山高樹町に飛ばした。運転手に尋ねさせると、北園竜子の住んでいた空家はじき分ったが、それは大邸宅と大邸宅に挟まれた、ごく手狭な建物であった。
「ヤア、お待ちしていました。汚いですが、こちらへお入り下さい。今丁度昨日まで北園に使われていた婆さんを見つけて、調べを始めようとしている所です」
空家の中から中村捜査係長が飛び出して来て、博士を屋内に導いた。階下が三間、二階が二間程の、ひどく古めかしい建物である。
その階下の八畳の座敷に、中村氏の部下の刑事が胡坐をかいていて、その前に六十歳程の小柄な老婆がかしこまっていた。博士が入って行くと、刑事は丁寧に目礼して、有名な民間探偵に敬意を表した。
「この人が北園竜子に使われていたお里さんというのです」
中村警部が紹介すると、老婆は博士をえらいお役人とでも思ったのか、オドオドしながら行儀のよいお辞儀をした。
さて、それから宗像博士の面前で、老婆の取調べが始められたが、その結果判明した点を略記すると、老婆は一年程この家に使われていた事、北園竜子は三十九歳だといっていたが、見たところ三十前後と云ってもいい程若々しい美人であったこと、彼女は数年前夫に死別し、子供もなく、両親も兄弟もなく、ひどく淋しい身の上であったこと、少しは貯金もあったらしい様子だが、職業としては生華の師匠をしていたこと、弟子の娘さん達の外に、友達といっては生華の仲間の婦人数名が出入りするだけで、全く孤独な生活をしていたこと、今度の引越しは郷里の三島在へ帰るのだと云っていたが、そこにどんな親戚があるのか、老婆は少しも知らぬこと、引越しを思い立ったのは一週間程前で、それから不要の品を売払ったり、女手ばかりでボツボツ荷造りをしたりして、荷物を送り出したのは、昨日のお昼頃であったこと、運送屋が荷物を運び出してしまうと、老婆は暇を出され、主人を見送るからといっても聞き入れられず、そのまま同じ区内の身寄りの者の所へ立去ったこと(若し北園竜子が犯人とすれば、指を切ったのは、無論その後に違いない)だから、主人の竜子が何時の汽車に乗って、どこへ行ったかは少しも知らぬことなどであった。
「で、あんたの主人には、特別に親しくしている男の友達というようなものはなかったのかね。くだいて云えば、マア情夫といったようなものだね」
中村警部が訊ねると、老婆は暫くもじもじと躊躇していたが、やがて思い切ったように語り出した。
「それがあったのでございますよ。こんなことをお喋りしてしまっては、御主人様に申訳ございませんが、お上のお訊ねですから、何もかも申上げてしまいます。
どこのお方か、何というお名前か、わたしは少しも存じませんが、何でも四十五六のデップリと肥った背の高い男の方でございますよ。その方がいらっしゃる時分には、奥様が必ずわたしを遠方へお使いにお出しになるものですから、妙な話ですが、まるでお顔を見たこともなければ、お声を……アア、そうそう、たった一度、ある晩のことでした。奥様に云いつけられたお使いを、思いの外早くすませて帰って見ますと、丁度そのお方も格子を開けてお帰りになるところで、出会いがしらに、電燈の光で、たった一度お顔を見たことがございます。それは立派な好男子の方でございましたよ」
「フーム、それで、あんたは、今でもその男に出会えば、これがそうだったと顔を見分けることが出来るかね」
「ハイ、きっと見分けられるでございましょう。たった一度でしたが、奥様があんなに隠していらっしゃる方かと思うと、いくら年寄りでも、やっぱり気を附けて、胸に刻み込んで置くものでございますよ」
老婆は歯の抜けた口をすぼめて、ホホホと笑うのであった。
「で、その男は泊って行くこともあったのかね」
「イイエ、一度もそんなことはございません。わたしがお使いから戻るまでには、きっとお帰りになりました。ですが、その代り、奥様の方が……」
「エ、奥様の方が、どうしたというの?」
「イイエね、奥様の方がよく外でお泊りになったのでございますよ」
「ホウ、そいつは変っているね。で、どんな口実で留守にしたの?」
「遠方のお友達の所へ遊びにいらっしゃるのだと申してね。一晩も二晩もお留守になることが、ちょくちょくございました。どんなお友達だか知れたものじゃございませんよ」
それを聞くと、捜査係長と私立探偵とは、思わず目を見合せた。若しその竜子の外泊の日が、これまでの殺人事件の日と一致すれば、愈々この女を疑わなければならないのだ。
そこで、中村警部は川手氏の二人の令嬢が殺害されたと覚しき日附、その死体が陳列館やお化け大会へ運ばれた日附、それから川手氏自身が行方不明になった日附などを思い出して、それらの事件の当夜、竜子が外泊したかどうかを確めて見ることにした。
老婆の記憶を呼び起すのに、ひどく手数と時間がかかったけれど、月々の行事などに結びつけて、結局それらの事件の日と竜子の外泊の日とがピッタリ一致していたことを確め得たのである。
中村警部はこれに勢いを得て、更に質問をつづけた。
「で、奥さんの様子に、近頃、何か変ったところはなかったかね。どうして突然引越しをする気になったか、どうもそこの所が少しはっきりしないようだが」
「サア、わたしもそれを不思議に思っているのでございますよ。変った様子といえば、引越しの十日余り前から、奥様は何か深い心配事でもおありの様子で、いつもの奥様とはまるで人が変ったように、ソワソワしていらっしゃいました。
わたしなんかには何もお話しにならないので、事情はちっとも存じませんが、なんでもよっぽどの御心配事のようで、それから間もなく引越しの話が持上ったのでございます」
老婆との問答の、後々に関係のある重要な点は、以上に尽きていた。
老婆の取調べが終った頃、引越しの荷物を運んだ運送屋の若い者が、一人の刑事に連れられて入って来た。そこで又問答が行われたのだが、その結果、北園竜子の大小十三箇の引越し荷物は、運賃前払、東海道三島駅前運送店留置という指図で、昨日の夕方貨車に積み込んだことが判明した。
運送屋が帰るのと入れ違いに、待ち兼ねていた鑑識課の指紋係が、指紋検出の道具を携えて入って来た。窓のガラスだとか、襖の框や引手だとか、家の中のあらゆる滑かな箇所が、次々と検査されて行った。その結果を簡単に記すと、不思議なことに、屋内の滑かな物の表面は、悉く布様のもので拭き取った形跡があり、指紋らしいものはどこにも発見されなかったが、ただ一つ、流石にここだけは拭き忘れたのか、便所の中の白い陶器の表面に、幾つかの指紋が検出された。そして、その一つに、問題の三重渦状紋がはっきりと残っていたのである。
刑事達は歓声をあげんばかりであった。愈々三重渦巻の怪犯人は北園竜子と決ったのだ。老婆が云った四十五六の情夫というのが相棒かも知れない。噂によれば竜子は非常に若々しく見える、風にも堪えぬ風情の、なよなよとした美人だという。ただ、いくら尋ね廻っても写真が手に入らぬのが残念だが、附近の人々は口を揃えて、その美貌を説き聞かせてくれる。妖魔だ。今の世の妲己のお百は、逞しい情夫と力を合せて、残虐の数々を演じ、忽然として大都会の唯中に消え失せたのだ。
やがて、中村係長の命を受けて、四方に散っていた刑事達が、次々と帰って来た。附近の住宅や、その近くに住む竜子の生華の弟子を訪ねて、聞込みの報告を持ち寄るもの、夜番の爺さんを叩き起し、出入商人の御用聞きを引きつれて来るもの、一々を記していては際限がないが、それらの聞込みや問答からは、読者に伝えて置かなければならぬ程の、重大な事柄は殆んど発見されなかった。
だが、その中にただ一つ、ここに書き漏らすことの出来ないのは、一人の刑事に連れられて来た食料品店の御用聞きの陳述である。
「そういえば妙なことがあるんですよ。一昨日の夕方、こちらへ御用を聞きに来ますと、奥さん自身で勝手口へ出ていらしって、今夜中に届けてくれって、妙な註文をなすったのです」
「フム、妙な註文とは」
「それがね、実に妙なんです。店で売っている牛肉の罐詰と、福神漬の罐詰の大きい奴を五つずつと、それから、パン屋さんで食パンを十斤買って、一緒に届けてくれっておっしゃるのです。
そんなに沢山どうなさるんですって、聞いたら、奥さんは怖い目で睨みつけて、何でもいいから持ってお出で、その代りにこれを上げるといって、一円下すったのです。それはもう使ってしまいましたがね。そして、お前の店には内しょに出来ないだろうけれど、パン屋さんにも、その外の人にも、あたしがこんな註文をしたことは、決して云うんじゃないよって、口止めされたんです。しかし、警察の旦那には白状しない訳に行きませんや」
「で、君はそれを届けたのか」
「エエ、夜になってからお届けしました。すると、婆やさんはいないと見えて、やっぱり奥さん自身で受取りに出ていらっしゃいました」
中村警部はそれを聞くと、何だかえたいの知れぬ不気味な謎にぶッつかったような気がした。一体これは何を意味するのだ。その翌日引越しをする矢先になって、十斤のパンと十個の罐詰を註文するなんて、狂気の沙汰ではないか。まさか罐詰やパンを国への土産にする奴もなかろう。それとも彼女は逮捕を恐れる余り、人里離れた山の中へ、たて籠る積りででもあったのだろうか。
美しい殺人鬼とパンと罐詰。この妙な取り合せは何となく滑稽な感じであった。だが、そのおかしさの裏には、ゾッとするような不気味なものが隠れていた。中村警部は、ふとそれに気附くと、心の底からこみ上げて来る、一種異様の戦慄を感じないではいられなかった。
その日の取調べは、この御用聞きの不思議な陳述を以て一段落を告げた。宗像博士は、終始これという意見を挟むこともなく、中村警部の活動を傍観していた。
やがて、捜査係長と民間探偵とは、刑事達と別れて、同じ自動車で帰途についた。
「僕が今考えているのは、無論偽名だとは思いますが、兎も角あいつの戸籍簿を調べて見ること、一枚でもあいつの写真を探し出すこと、それから荷物の送り先の三島駅の運送店に張込みをすることなどですが、そういう正攻法では、うまく行きそうもないような気がします。何だか今日の取調べには、不気味な気ちがいめいた匂いがつき纒っていたじゃありませんか」
中村警部が半ば独言のように呟いた。
「気違いめいているのは最初からですよ。殺人犯人が死体を衆人に見せびらかすなんて、正気の沙汰じゃありません。恐るべき狂人の犯罪です。狂気の分子は到る処にちらついています。しかし、犯罪にかけては天才のように正確無比な奴です」
博士は殺人鬼を讃嘆するように溜息をついた。
「今日のパンと罐詰の一件なんか、僕は何だかゾーッとしましたよ。ナンセンスのようでいて、実はその奥にえたいの知れない怪物の着想が隠されているような気がするのです」
「怪物の着想、そうです。僕もそんな風のものを感じます。例えばですね。君は三重渦巻の指紋の持主が女性、しかも美しい女性であったことを、どう考えますか。
この事件には最初から女性がいたのでしょうか、しかし、我々は眼帯の大男と、黒眼鏡の小男しか見ていないではありませんか。
僕は今こんなことを考えているのですよ。あの少年のように小柄で、素敏こい黒眼鏡の男こそ、外ならぬ北園竜子その人ではなかったかとね」
中村警部はそれを聞くと、ハッとしたように顔を上げて博士を見た。そして、そのまま二人は、お互の目の中を覗き合うようにして、いつまでも黙り込んでいた。
翌日の各新聞には、この意外な犯人発覚の径路が、夜更けの隅田川、ボート遊びの男から説き起して、事細かに報道され、全読者に思いもかけぬ激情を味わせた。血染めのハンカチ、切断された生指、美貌の生華師匠、その不思議な失踪、分けても十箇の罐詰と十斤の食パンの謎は、二人以上の人の集るところ、必ず好奇の話題となって、さも気味悪げに囁き交されるのであった。
北園竜子の写真を手に入れる事、彼女の戸籍簿を調べる事、三島駅前の運送店に張り込みをする事という、中村捜査係長の三つの捜査方針は、戸籍簿を除いては全く失敗に終った。
刑事を八方に走らせ、竜子の知人という知人を訪ねて、写真を探し求めたけれど、流石に殺人鬼は用心深く、どの知人の手元にも一葉の古写真さえ保存されていなかった。
また三島駅前の張り込みは、少しの抜かりもなく行われたが、運賃前払いの十数箇の荷物は、運送店の倉庫に積み上げられたまま、受取人の姿はいつまでたっても現われず、三島駅にそれらしい人物の下車した様子もなかった。
ただ一つ、戸籍簿だけは満足な結果が得られた。犯人は意外にも偽名もせず、寄留届もちゃんとしていたので、戸籍は何の苦もなく判明したが、それによると、北園竜子は原籍静岡県三島町の北園弓子というものの私生児で、母は竜子の十三歳の時病死しており、竜子には兄弟もなく、近い身寄りは悉く死亡しているという孤独な身の上であることが分ったが、それ以上戸籍簿からは何の得るところもなかった。原籍の番地を調べても、北園の家は遠い昔に跡方もなくなって、母の弓子を記憶している人さえない有様であった。
そして、竜子失踪の翌々日の夜となった。宗像博士の事務所へは、中村警部から、その都度電話の報告があったので、博士は捜査の行き悩んでいることを知り、博士自身、警察とは別に、どんな捜査方針を採るべきかを苦慮していた。
いつもなれば、午後五時には事務所を閉めて帰宅する博士が、その夜は八時になっても、例の実験室にとじこもって、しきりと考えごとをしている。その様子を、次の間から新しく傭い入れられた助手の林という青年が、心配そうに窺っていた。
林は去年ある私立大学の法科を出たばかりの、まだ二十五歳の青年であったが、探偵小説を愛読した余り、未来のシャーロック・ホームズを夢見ている男で、小池、木島の二人の先任助手が、殺人鬼の毒手に斃れたことも承知の上、志願して博士の助手となったのである。
謂わば、この事件を目当てに傭われたようなものであったから、三重渦巻の指紋の主が、意外にも美しい女性と分り、その女性が不思議な失踪をしたことを知ると、林はもう夢中であった。飛んでもない見当はずれの想像説を組み立てては、博士に笑われて、頭を掻きながら引下る事も度々であった。
彼は、宗像博士を現代随一の名探偵として畏敬していた。実験室にとじこもっている博士の頭の中に、どんなすばらしい論理が組立てられているのかと、咳払いの聞える度に、影法師の動く度に、ただその事ばかり考えていた。
「林君、ちょっとここへ来てくれ給え」
突然ガラス戸の向うから博士の声が洩れて来た。林は待ち兼ねていたように「ハア」と答えて、勢いよく実験室へ飛び込んで行ったが、見れば、博士の顔に明るい微笑が漂っている。さては、何か妙案が浮かんだのに違いないと、林も思わずニコニコと笑った。
「林君、君は幽霊とかお化けとかいうものを怖がる質かね」
博士の藪から棒の質問に先ず面喰った。
「それはどういう意味でしょうか。まさか、先生が幽霊なんかを信じていらっしゃる訳ではないでしょうが……」
「ハハハ……、幽霊そのものは存在しないにしても、幽霊を怖がる恐怖心だけは、不思議と誰にもあるものだよ。君はそういう恐怖心が強いかどうかと訊ねるのさ」
「アア、そうですか。それなら、僕は怖がらない方です。真夜中に墓地を歩き廻ったりするのは大好きな方です」
「ホウ、そいつは頼もしいね。それじゃ、これから一つ僕と一緒に、夜の冒険に出かけるのだ。うまく行けば、すばらしい手柄が立てられるぜ」
「夜の冒険といって、一体どこへ行くのでしょうか」
「北園竜子の住んでいた空家へ、これから二人で忍び込むのだ。そして、空家の中で夜明かしをするのだ」
「では、あの空家に何か怪しいことでもあるとおっしゃるのですか」
「怪しいことがあるかも知れない。ないかも知れない。それを二人で試して見るのだ」
林助手には博士が何を考えているのか、まだよく分らなかった。しかし、無論北園竜子捜査に関する、何かの手掛りを得るためには違いない。
「まさか、あの空家に幽霊が出るという訳ではありますまいね」
林が冗談らしく笑うと、博士は案外真面目な顔で、
「ウン、幽霊が出てくれるといいんだがね。わしは、それを念じているくらいなんだよ」
と訳の分らぬ事を云った。
林助手は就職間もなかったけれど、博士の奇矯な言動には、もう慣れっこになっていた。一日中実験室にとじこもって一言も口を利かないで、哲学者みたいに瞑想に耽っているかと思うと、突然車にも乗らないで、異様なモーニングの裾を飜えしながら、鉄砲玉のようにどこかへ飛び出して行く。そして、そのまま二日も三日も帰らないことさえ珍らしくはなかった。名人肌ともいうべき奇行家なのだ。
その調子を呑み込んでいるので、突如として「化物退治」のお供を命じられても、今更驚くことではない。イヤ、そういう突飛な企ての裏に、博士のどんな深い智慧が隠されているのかと思うと、未来のシャーロック・ホームズは、嬉しさに身内がゾクゾクするのであった。
それから、二人が葡萄酒とサンドイッチを詰めた小鞄をさげて、自動車に乗り込み、青山高樹町の問題の空家の一町ほど手前で下車したのは、もう九時半頃であった。
前にも記した通り、その辺は物淋しい屋敷町なので、さして夜も更けていないのに、殆んど人通りもなく、まばらな街燈の光も薄暗く、商店街に比べてはまるで別世界のように、ひっそりと静まり返っていた。
「僕らは無断であの空家へ忍び込むのだからね。そのつもりで、通行人などに怪しまれないように」
博士は小声に注意を与えながら、足音も盗むようにして、空家の裏側の路地へ忍び込んで行く。細い路地には電燈もなく、全くの暗闇である。その闇の中を、手探りで、二人の洋服男が影のように忍んで行く有様は、若し第三者が見たならば、探偵どころか、恐るべき夜盗の類と早合点したことであろう。
空家の勝手口に辿りつくと、先に立った博士は、ポケットから鍵束のようなものを取出して、それをあれこれと戸の錠前に当てがっていたが、忽ち易々と錠をはずし、ソッと板戸を押し開いて、真暗な土間へ入って行った。
いよいよ夜盗である。博士は錠前破り専門の盗賊も及ばぬ巧みさで、空家の戸締りを開いたのだ。
「林君、ここで靴を脱ぐんだ。声を立ててはいけないよ。わしがいいというまでは、無言の行だ。いいかね、忘れても音を立てたり、声を出したりするんじゃないよ」
博士は暗闇の土間に立って、林助手の耳に口を寄せ、やっと聞える程の囁き声で命じた。
靴を脱いで、板の間に上り、手探りで、博士のあとについて行くと、博士は中の間と覚しき部屋で立止り、林助手の肩を押えて坐れという合図をして、自分も、その暗闇の中に胡坐をかいた。
声を出すなと云われているので、これからどうするのかと質問する訳にも行かず、林は博士の隣に坐ったまま、息を殺すようにして、真暗なあたりを見廻すばかりであった。
電車通りからは遠く、自動車も滅多に通らぬ横町なので、滅入るように静かだ。その上にこの暗闇、山奥の一軒家にでもいるような心細さである。
やがて、暗闇に目が慣れるにつれて、あたりの様子が、ほのかに見分けられるようになって来た。階下は三間ほどの狭い借家、それが荷物を運び出したまま、どの部屋も開けっぱなしになっているので、階下全体が一つの大きな暗室のような感じである。初めは白い襖がポーッと浮かび出し、それから障子、黄色い壁、床の間と段々物の形が見え始め、やがて、障子の桟が算えられる程にはっきりして来た。
そうして、十分、二十分と無言の行をつづけているうちに、林助手は喋るなと云われていても、何だか口がムズムズして、もう我慢が出来なくなった。彼は博士の耳の側へ口を持って行って、まるで蚊の鳴くような低い声で、ソッと囁いた。
「先生、僕らは一体何を待っているのですか。こんな空家の中で、こうしていたって、別に何事も起りそうもないじゃありませんか」
すると、博士は幽に舌打ちをして、林の耳に口を寄せ、押し殺した声で囁き返した。
「幽霊が出るのを待っているんだよ。喋っちゃいけない。少しでも物音を立てたら、出なくなってしまうんだからね」
そう云って、叱りつけるように、肩の所をグッと押えられたので、林はもう囁き声で質問する事も出来なくなった。
変だな、先生気でも違ったのじゃないかしら、この家で人殺しがあった訳じゃなし、お化けや幽霊の出る因縁がないじゃないか。
だが、先生程の人が、こんなに真剣になっているんだから、ひょっとしたら本当に幽霊が出るのかな。一体その幽霊というのは、何者であろう。待てよ、幽霊といったって、無論昔の怪談にあるような奴が現われる筈はない。先生がそんなものを信じているとは考えられない。すると……アア、そうだ。若しかしたら……。
林助手は、何だか博士の待っているものの正体が、おぼろげに分って来たような気がした。そして、その想像が、彼をゾーッとさせた。若しそんなことがあり得るとしたら、そいつは幽霊なんかより、幾層倍も気味悪く、恐ろしい代物に違いなかった。博士がお化けとか幽霊とか形容したのも尤もである。
彼は何だか背筋がゾクゾク寒くなって来た。じっと目を凝らしていると、ポーッと白い襖の蔭から、黒い朦朧としたものが、ヒョイとこちらを覗いては引込んで行くような気がした。
何かソッと腕に触るものがあるので、びっくりして振り向くと、博士がサンドイッチを摘んで彼に渡そうとしているのだ。どうやら博士自身もそれを頬張って、ムシャムシャやっている様子だ。
無言でそのサンドイッチを受取って、口に入れたことは入れたが、博士の所謂幽霊が気になって、今にもそいつが、向うの真暗闇から、バアッと飛び出して来るのではないかと思うと、食慾どころではなかった。
あとになって考えて見ると、そうして坐っていたのは一時間余りに過ぎなかったのだが、その一時間の長かったこと。林助手にはそれがたっぷり十時間にも感じられたのであった。
じっと我慢をして坐りつづけている彼の網膜には、あらゆる奇怪なるものの姿が、走馬燈のように去来し、耳には、彼自身の動悸の音が、種々様々の意味を持って、悪魔の言葉を囁きつづけた。
目を閉じれば瞼の裏の眼花となり、目を開けば暗闇の部屋に蠢く怪しい影となって、幻想の魑魅魍魎が目まぐるしく跳梁するのだ。
無言の行が永引くにつれて、彼の全身には、ジットリと脂汗が浮かび、息遣いさえ異様にはずんで来るのを、どうすることもできなかった。
ふと気がつくと、頭の上に、人でも歩いているような気配が感じられた。二階の闇の中を、誰か歩いているのかしら。ハッとして、耳をすましたが、その物音は二三度ミシミシと幽に鳴ったばかりでやんでしまった。
気のせいかしら、今のは耳鳴りの音だったのかしらと怪しんでいると、今度は、すぐ次の間の梯子段がミシミシと鳴りはじめた。
足音を忍ばせて、何者かが階下へ降りて来る様子だ。
すると、闇の中から、誰かの手がニューッと伸びて、林助手の肩先をグッと押えつけた。宗像博士の手だ。博士が身動きしてはいけないと、無言の指図をしたのだ。そんな指図を受けなくても、林助手はもう金縛りにでもあったように身がすくんで、足音の主に立向って行くような勇気は少しもなかった。
まさかお化けや幽霊ではあるまい。幽霊が足音を立てる筈はない。では一体何者であろう。林助手にはそれがおぼろげに分っていた。分っているからこそ、一入恐ろしいのだ。
やっと階段の軋みがやむと、次の間の闇の中に、朦朧として黒い人影が浮び出した。やっぱり人間だ。
息を殺して見ていると、そのものは、二人がそこに坐っているとも知らず、スーッと中の間を通り抜けて、奥座敷の縁側の方へ消えて行った。そして、ギイーと開き戸の軋む音。
あんな音のする開き戸がほかにある筈はない。縁側の隅の手洗い場だ。オヤ、すると、あの怪しい人影は、手洗い場へ入る為めに、二階から降りて来たのであろうか。
「先生、あれは何者です」
博士の耳に囁くと、博士も囁き返す。
「分らないかね」
「何だか、分っているような気がします。でも、今の奴は黒い洋服を着ているように見えましたぜ。男のようでしたぜ」
「それでいいのだよ。あれがあいつのもう一つの姿なのだ」
「捉えるのですか」
「イヤ、もう少し様子を見よう。相手をびっくりさせてはいけない。もう袋の鼠も同じことだからね」
そして、二人はまた押黙ってしまったが、すると、再び開き戸の軋む音がして、黒い影が戻って来た。
暗闇とは云え、相手も闇に慣れている筈だ。見つけられてはいけないと、二人は中の間の隅に身を縮めて、息を殺した。
黒い影は、足音も立てず、スーッと中の間へ入って来たが、ふと何かの気配を感じたように、そこに立止ってしまった。どうやら、闇をすかして、こちらを見つめているらしい様子だ。匂いを気附いたのかしら。それとも幽な呼吸の音が相手の耳に入ったのかしら。
闇の中の、息もつまるような、脂汗のにじみ出すような、恐ろしい睨み合いであった。そして、黒い影の口から「アッ」という幽な叫び声が洩れたかと思うと、怪物は風のように次の間へ逃げ込み、大きな音を立てて階段を駈け上って行った。
「見附けられたね。だが、大丈夫だ。逃げ路はないのだ。サア来たまえ」
博士はそう云って、鞄の中から二箇の懐中電燈を取り出すと、一つを林助手に手渡し、パッとそれを点じて、先に立った。
階段を上って見ると、二階は、僅か二間しかない上に、家具も何もないガランとした部屋なので、一目で見渡すことが出来る。
「オヤ、変ですね。誰もいないじゃありませんか」
博士の振り照らす懐中電燈の光が、二つの部屋をグルッと一巡したのに、その光の中へは何者の姿も現われなかった。
調べて見ると、両側の窓の雨戸は閉まったまま、中からちゃんと枢がかかっている。二つの押入れも開いて見たが、中は何もないがらんどうだ。
「外に隠れる場所もないし、どこへ消えてしまったのでしょう」
林助手はけげんらしく呟いたが、呟いているうちにゾーッと背筋が寒くなって来た。やっぱり幽霊だったのかしら。それともあいつは、幽霊よりも不気味な魔法使なのかしら。
「シッ、静かにしたまえ。あいつが聞いているじゃないか」
博士の囁き声を聞くと、「ソレ、そこに!」と云われでもしたように、又ドキンとした。
「どこに隠れているのでしょう」
怖々訊ねると、博士は闇の中でニヤニヤと笑っているらしく、懐中電燈の光で、ソッと天井を指し示した。
「エッ、では、この上に?」
囁き声で聞き返す。
「そうだよ。外に逃げ場所はないじゃないか」
博士は囁いておいて、一方の押入れを覗き込み、懐中電燈でその天井板を調べていたが、オズオズと近よる林助手の腕を掴んで、耳に口をつけ、
「ここだよ。この天井板がはずれるようになっているのだ。……君、勇気があるかね」
と、からかい気味に訊ねた。
林助手は、勇気がないとは答え兼ねた。相手はお化でも幽霊でもない、生きた人間、しかも一人ぼっちで逃げ隠れている奴だ。それを怖がって尻ごみするようでは、探偵助手の恥辱である。
「僕この上へ上って、確かめて見ましょう。先生はここにいて下さい。若し相手が手強いようでしたら、声をかけますから、加勢に来て下さい」
「じゃ、捉えなくてもいいから、ただあいつがいるかいないかだけを確かめてくれ給え。あとは警察の方に任せてしまえばいいのだから」
ヒソヒソと囁き交して、林助手は上衣を脱ぎ、なるべく物音を立てないように注意しながら、押入れの中段によじのぼり、天井板をソッと横にずらせて、埃っぽい屋根裏へ這い上って行った。
彼は嘗て、猟奇の心から、電燈工夫のあとについて、自宅の天井へ上って見た事があるので、屋根裏というものがどんな構造になっているかを、大体知っていた。天井のどの辺を足場にして這えばいいかというような事も心得ていた。
態と懐中電燈は消したまま、蜘蛛の巣と埃の中を、四ん這いになって、ジリジリと進んで行った。
博士に軽蔑されまいと、痩我慢を出しては見たものの、そうして何の隔てるものもなく、真の闇の中で、えたいの知れぬ怪物に相対しているかと思うと、不気味さは一入であった。
広くもない屋根裏のこととて、脅えながらも、ジリジリと進んで行くうちに、もうその中央の辺に達していた。
息を殺し、耳をすまして、じっとしていると、どこからか「ハッハッ」と小刻みの呼吸の音が聞えて来る。
「オヤ、それじゃ、相手も怖がっているのだな。あの烈しい息遣いはどうだ」
それと悟ると、林助手は俄かに勇気が出て来た。
「よしッ、思い切って、懐中電燈で照らしてやれ」
彼はいきなりそれを点じて、人の気配のする方角を、パッと照らして見た。
すると、その丸い光の中に、案の定、一人の異様な人物が蹲まっていた。
古ぼけた黒の背広服の襟を立て、黒のソフト帽の鍔をグッとさげて冠っている。そのソフト帽の下から、大きな眼鏡がギラギラと光って見える。ひどく小柄な弱そうな奴だ。その姿を見て、林はまた一段と勇気をました。
パッとさし向けられたまぶしい光に、その人物は思わず顔を上げて、こちらを見たが、それはまるで追いつめられた小兎のようにオドオドした、見るも哀れな表情であった。
細面の女のように優しい顔が、恐怖に青ざめ歪んで、目には涙さえ光っている。「どうか見逃して下さい。お願いです、お願いです」と手を合せて拝まんばかりの様子である。
「ナアンダ、こんな弱々しい奴だったのか。よしッ、それじゃ一つ引っとらえて、手柄を立ててやろう」
林はますます大胆になって、無言のまま、ノソノソとその方へ這い寄って行った。だが、相手は猫の前の鼠のように、もう身動きさえ出来ないらしく、ただ泣き出しそうな顔で、じっとこちらを見つめているばかりだ。
やがて、二人の顔と顔とが、一尺程の間近に接近した。相手の心臓の鼓動が聞えるかと思われるほどであった。それでも、相手はまだじっとしていた。
林はなぜか妙な躊躇を感じた。相手が可哀想になって来た。そのやつれ果てた、哀願しているような表情は、一生忘れられないだろうと思った。
しかし、躊躇している場合ではない。屋根裏に逃げ隠れているような奴を憐れむことはないのだ。彼は思い切って、サッと腕を伸ばすと、相手の手首を掴んだ。想像していた通り、非常にしなやかな細い手首であった。
すると、相手の目がキラッと光った。「これ程頼んでも許してくれないのか」と叫んでいるように感じられた。そして、その態度が突然一変した。こんな弱々しい奴に、どうしてこれ程の力があるのかと、びっくりするような烈しい勢いで、掴まれている手首を振り放した。
アッと思う間に、相手は本当に小兎のような素早さで、向うの闇の中に飛び退っていた。
ウヌ、逃がすものか。林はもう懐中電燈で照らしている余裕もなく、その方へ飛びかかって行った。天井板が今にも破れそうに、メリメリと鳴った。
だが、飛びかかって行った場所には、どうしたのか相手の身体がなかった。身体はなかったけれど、頭の上の屋根の方から、二本の足がブラブラと下っているような気がした。
オヤッ、変だなと思ったけれど、ゆっくり考えている暇はない。無我夢中で、その二本の足のようなものにしがみついて行った。
すると、その足が、スーッと屋根の方へ引込んで行くような感じがしたが、次の瞬間には、それが恐ろしい勢で、グーンと下へ伸びて来た。
アッと思う間に、林助手は天井板をメリメリ云わせて、そこに転がっていた。
何が何だか分らなかった。懐中電燈は点火したまま転がっていたけれど、その異変の起った場所には直接の光が射さぬので、はっきり見定めることが出来ないのだ。
だが、忽ち事の次第が分って来た。ほのかな反射光の中に、屋根の裏側の薄い板張が見えている。その板張の一部分に、ポッカリと二尺四方程の穴があいているのだ。穴の上には何の目を遮るものもなく、遥かの彼方に、キラキラと星が光っている。
アア、何ということだ。こんなところに屋上への抜け穴が用意してあったのだ。
ガタガタと瓦を踏む音が聞える。怪物は林を蹴飛ばして置いて、屋根の上へ逃げ出したのだ。
「先生、外へ廻って下さい。大屋根の上へ逃げました。屋根を伝って、下へ降りる積りかも知れません」
押入れの外に待っていた宗像博士の耳に、屋根裏の闇の中から、林助手の声が聞えて来た。
それでなくても、天井の恐ろしい物音に、もう身構えをしていた博士は、この声を聞くと、矢庭に身を躍らして、疾風のように階段を駈け降り、裏口から闇の道路へと飛び出し、空家の表側に廻って、相手に悟られぬよう、物蔭から、じっと屋根の上を注視した。
怪物は二階の大屋根から、雨樋を伝わって、非常な危険を冒しながら、やっと一階の屋根まで降りたところであった。遠くの街燈のほのかな光線が、守宮のように二階の窓の雨戸にへばりついた黒い背広に黒いソフト帽の人物を、朦朧と映し出している。
その者は、雨戸にへばりついた姿勢のまま、ソッと首を伸ばして、下の道路を眺め、耳をすまして様子を窺っている。
博士は一層注意して、物蔭に身を隠し、僅かに一方の目だけで、屋根の上を見つめていた。
もう十一時に近い時刻、淋しい屋敷町には、全く人通りも途絶えている。遠くを走る電車の響きの外は、何の物音も聞えない。その死に絶えたような静寂の中で、黒い怪物は、屋根の上を、四ん這いになって、ソロソロと庇の端の方へ乗り出して来る。不気味な無声映画でも見ているような感じであった。
するとその時、怪物の頭の上の大屋根に、瓦の軋む音がして黒い人の姿が現われた。林助手が抜け穴から這い出して、その辺を探し廻っている姿である。
怪物はハッとしたように、大屋根を見上げた。そして、瓦の音に追手の迫るのを察したのであろう。何か非常な決心をした様子で、いきなり庇の端に乗り出すと、パッと闇の地上へと身を躍らせた。大きな黒い塊が、博士の目の前の道路へ、スーッと墜落して、コロコロと転がったが、忽ち起き上って、非常な早さで走り出した。
宗像博士がそのあとを追ったのは云うまでもない。追い縋って捉えようと思えば、捉えられぬ筈はないのだが、博士はなぜかそれをせず、あくまで相手の跡を追って、どこへ逃げるのか、その行先をつきとめようとするらしく、適当の距離を保ちながら、執拗な追跡をつづけた。
怪物はこの辺の地理をよく知っていると見え、淋しい方へ淋しい方へと町角を曲りながら、十丁近くも走ったが、息切れがするらしく、段々速度が鈍くなった頃には、行手に何かの神社のこんもりとした森が見えて来た。そして、その森の中が逃走者の目ざす場所であった。
破れた生垣の間から、森の下闇へ踏み込み、ジメジメとした落葉の上を、奥の社殿へと辿って、その裏側の高い床下へ隠れる姿が、辛うじて認められた。
博士は相手に悟られぬよう、足音を忍ばせながら、社殿の裏に近づき、床下の闇の中に、幽に蠢く人影をつきとめると、突然、パッと懐中電燈を点火して、相手の顔にさしつけた。
背をかがめて歩ける程の高い床下、柱と柱の間に身を縮めて蹲まっている怪物、その胸から上の半身像が、電燈の丸い光の中に、クッキリと浮き上った。
黒ソフトをまぶかく冠り、大きな眼鏡で顔を隠しているけれど、その眼鏡の中から、恐怖の為めに一杯に見開かれた両眼が、追いつめられたけだもののように、こちらを見つめ、青ざめた頬、激動の為めに白っぽく色を失った唇が、半ば開いたままになって、ゾッとするような烈しい息遣いをしている。確かに女だ。しかも美しい女だ。
「ハハハハハハ、とうとう追いつめられてしまったね、北園竜子。そうだろう、君は北園竜子だね」
博士は物柔かに云って、じっと相手の表情を注視した。
「誰です。あなたは誰です」
竜子の顔がキューッと歪んで、今にも泣き出しそうな渋面になった。あの兇悪な殺人鬼が、どうしてこんな弱々しい表情をするのか、不思議と云えば不思議であった。だが、油断は出来ない。女というものは、ましてこれ程の悪人となれば、悲しくもないのに涙を流し、怖くもないのに恐怖の表情を作るなどは朝飯前の芸当に違いない。
「わしかね、わしは三重渦巻の指紋を持つ殺人犯人を捉えるために、永い間苦労している宗像というものだ。無論君はわしをよく知っている筈だね」
相手は答えなかった。答える代りに一層恐怖の表情を強めて、身をすくめた。
「わしは実を云うと、君の腕前には全く感心しているのだよ。君は悪魔の智恵を持っている。そんな悄らしい顔をしていて、実は人殺しの天才なのだ。川手氏の妹娘の死骸を博物館の陳列箱の中へ飾ったり、姉娘の死骸をお化け大会の破れ蚊帳の中へ寝かした腕前には、流石のわしも兜を脱いだ。永年の間にはずいぶん毛色の変った犯罪事件も取扱ったが、君のような魔法使を相手にしたのは初めてだよ」
博士がそこまで云うと、男装の竜子が突然両手を前にさし出して、博士の口を塞ぎたいとでもいう様な恰好をした。そしてまるで気でも狂ったように叫び出した。
「違います。違います。わたしはそんな恐ろしい罪を犯した覚えはありません。わたしは何も知らないのです。川手という方にも、その二人のお嬢さんにも、会ったことさえありません。これには何か深い訳があるのです。何者かが私を罪に落そうと、恐ろしい企らみをしているのです」
「ハハハハハハ、つまらんお芝居はよしたまえ。このわしをそんな手で欺そうとするのは、浅墓だよ。わしは何もかも知っているのだ。若し罪がないものなら、なぜ逃げ隠れをするのだ。それも普通の逃げ方ではない。引越しをして、空家と見せかけて、そこの天井裏に隠れているなんて、悪魔でなくては考えつけないことだよ。この一事からでも、君があの恐ろしい殺人者であることは、立派に証拠立てられている。現に警察の人達は、君の行方を探しあぐねて、途方に暮れているじゃないか。若しわしが君のトリックに気づかなかったら、君はまんまと世間を欺きおおせたかも知れぬ。そして、あれだけの大罪を犯しながら、永久に法網を脱れてしまったかも知れぬ。
君はどうして、わしが天井裏の隠れ場所を察したか知るまいね。まぐれ当りではないのだよ。食料品屋の小僧から聞き出したのだ。そして、あの不思議な十箇の罐詰と十斤の食パンの謎を解いたのだ。引越しにそんなものの必要はない。これは君が、数日の間、世間と全く交通を断って、どこかに隠れる積りに違いないと考えた。では、どこに隠れるか。鬼熊のように人里離れた山の中に隠れるか。イヤ、君がそんな間抜けな真似をする筈がない。これまでのやり方でも分っているように、君という人は巧みに人の意表を突く手品使なのだからね。
わしはそういう手品使の気持になって、君の計画を想像して見た。すると、どうも君の突然の引越しそのものが臭いのだ。殊更あの家を空家にして見せたところに、何かカラクリがあり相な気がするのだ。わしはつい数時間前に、やっとそこへ気がついた。そこで、助手を連れて、空家の探検に出かけて来たのだが、そのわしの想像がまんまと的中した。これでわしも、君と同じくらいの智恵を持っているという自信を得た訳だよ。ハハハハハハ」
「イイエ、違います。それはあの家を引越したと見せかけて、屋根裏へ隠れたのは本当ですけれど、それにはどうにも出来ない恐ろしい訳があったのです。逃げ隠れをしたからといって、決してわたしは罪を犯した訳ではありません。人殺しなんて、全く身に覚えのないことです」
男装の女性は、さもさもくやしげに、ハラハラと涙を流してかき口説くのだ。
「ハハハ……、そんな筋の通らない理窟では駄目だよ。罪も犯さぬのに逃げ隠れする奴があるものか。だが、そのどうにも出来ない恐ろしい訳というのは、一体どんな事だね」
博士は半ば揶揄するように、嘲笑を浮べて訊ねる。
「アア、もう駄目です。どんなに弁解して見ても、あなた方が納得して下さる筈はありません。わたしは呪われているのです。あんないまわしい指を持って生れて来たのが、わたしの業だったのです」
「フフン、実にうまいもんだ。流石に君は名優だよ。そういうと、何だか、君は例の三重渦巻の指紋の持主ではあるけれど、殺人罪は犯さない。真犯人は外にあるのだとでもいうように聞えるね」
博士は懐中電燈の丸い光を、近々と相手の顔にさしつけ、どんな細かい表情の変化も見落すまいとするかのように、つくづくとその顔を見つめるのであった。
丸い光の中の女性は、一入悲しげな、絶望の表情になって、なおもかき口説く。
「そうなのです、犯人は決してわたしではありません。でも、その無実を云い解くすべが、全くないのです。ごらん下さい。ここにあの恐ろしい指紋の指が着いていたのです」
彼女は云いながら、丸い光の中へソッと左手をさし出した。手首全体に繃帯が巻いてあるので、切口は見えぬけれど、人差指のあるべき場所が異様にくぼんで、歯の抜けたような感じを与えている。
「わたしは、三重渦巻の指紋を持った殺人鬼の話は聞いておりましたけれど、つい十日余り前まで、迂濶にも、わたしの人差指の妙な指紋が、その恐ろしい三重渦状紋とやらだとは、まるで、気もつかないでいました。
ところが、ふと新聞に出ている、犯人の指紋の拡大写真を見たのです。そして、ハッとして、自分の左手の人差指と比べて見ますと、アア、何という恐ろしい事でしょう。形は勿論、筋の数まで、一分一厘違わぬ事が分りました。その時のわたしの気持をお察し下さいませ。いきなり、地獄の底へ突き落されたとでも申しましょうか、スーッと目の前が真暗になって、気を失わぬのがやっとでございました。私は広い世界に、全く同じ指紋が二つとあるものではないと云う事を、ハッキリ知っていたのでございます」
長々しい繰り言に、博士はもどかしげに足踏みをした。
「それで、疑いを逃れるために、思い切って人差指を切り落し、隅田川へ投げ込んだというのだね。だが、おかしいじゃないか。身に覚えのないことなら、何も指など切らなくても、殺人事件のあった日には、どこそこにいましたと、アリバイという奴を申立てればいいのだからね」
それを聞くと、丸い光の中の女性の顔が、またしてもキューッと引き歪んで、青白い頬にハラハラと涙がこぼれた。
「アア、それが出来ましたら。それが出来さえしましたら。……わたしは呪われているのです。本当に引くことも進むことも出来ない地獄の呪いにかかっているのです。
アリバイという言葉は本で読んでよく知っております。わたしもそれに気がついて、一まず安心したのです。そして、念の為めに、古い新聞を探して、あの殺人事件の最初からの日附を確めて見ました。
すると、どうでしょう。わたしは又息もつけない程の驚きにうたれました。アリバイが全くないことが分ったのです。どの殺人事件の日にも、わたしは家をあけて外出していました。それも一時間や二時間ではなく、半日以上、ある時は一晩中帰らない日さえありました。そして、何という恐ろしい運命でしょう。そのわたしの外出していた日に限って、必ずあの殺人事件が起っているではありませんか。イイエ、外出と申しましても、よそのお家を訪ねたわけではありません。ただ何となく歩き廻ったのです。郊外だとか、時には鎌倉江の島など……」
「ハハハ……、益々辻褄が合わなくなって来た。そんな永い時間、一人で歩き廻る奴もないものだ」
「イイエ、一人ではありません。あの、お友達と……」
「エ、お友達? それじゃちゃんとアリバイがあるじゃないか。その友達を証人にすればいい筈じゃないか」
「でも、それが、……」
「それが?」
「それが、普通のお友達ではなかったのです」
「ウン、分った。君の家の婆やが云っていたが、君には男の友達があったそうだね。だが、そんな事を恥しがって、殺人の嫌疑を甘んじて受ける奴もないものだ。その男の友達に証言させればいいじゃないか」
「でも……」
「でも、どうしたんだね」
竜子はもう口が利けなくなった様子で、ワナワナと唇を震わせながら、烈しく泣きじゃくり始めた。泣き声を噛み殺そうとするのだが、そうすればする程、胸の奥から嗚咽がこみ上げ、涙はとめどもなく流れ落ちる。これをお芝居とすれば、実に驚くべき名優である。
宗像博士も流石に憫れみを催したらしく、無言のまま、相手の激情の静まるのを待っていた。すると、ややあって、彼女は漸く泣きじゃくりをやめ、さも悲しげな細い声で、幽に呟くのであった。
「その人には、もう二度と逢うことが出来ないのです」
「どうしてだね」
「こんなことを申し上げても、あなたは信じて下さらないでしょうが、わたしはそれ程親しくしていた、その人の職業も住所さえも知らないのです。
名前は須藤と申していましたが、それさえ本当の名かどうか分りません。その人は、所も名も明かさないで、こうして夢のようにつき合っている方が、童話の国の交わりみたいで、面白いではないかと申すのです。
三月程前、ふと汽車の中で御一緒になったのが、最初でしたが、その人は、大変身分のある人のように感じられました。きっと奥さんも、お子さんもおありなのでしょう。でも、その人の何とも知れぬ不思議な、夢のようなお話に、いつとはなく引きつけられて、お恥しいことですけれど、わたしは小娘のように夢中になってしまったのです。
丁度四日程以前、この指を切る前の晩のことでした。わたしは、その人と約束した時間に、このお社の森の中へ来たのです。エエ、ここなのです。その人と外で出逢う時はいつもこの森の中だったのです。そして、この間からの、わたしの恐ろしい境遇を、よく相談しようと思ったのです。
ところが、その晩は、どうしたことか、その人の姿が見えません。丁度ここです。このお社の床下に、わたしはあの人を待って待って、明け方まで待ち暮らしました。まさかとお思いでしょうね。でも、わたしは何かに魅入られていたのです。本当に夢のように、一夜をここで過したのです。
そして、夜の白々あけに、ふと見ますと、そうです、丁度この柱でした。この柱に小さな紙切れが貼りつけてあるのに気がつきました。その紙切れに、何と書いてあったとお思いです。
縁切り状でしたの。もうこれっきり、あなたと逢うことはないでしょう。楽しかった夢を忘れませんと、そう書いてあったのです」
語り終って、男装の竜子は、又込み上げる悲しさに、今は恥も外聞も忘れたように、声を立てて泣き伏すのであった。
思わぬ長話に、さい前から三十分余りも時がたっていた。人なき深夜の社殿の床下で、男装の女と、モーニング姿の私立探偵とが、光と云えば懐中電燈ただ一つをたよりに、ヒソヒソと語り合う。その二人が恋人でもあることか、一人は稀代の殺人魔、一人はそれを追いつめた名探偵。何という不思議な取合せ、常規を逸した光景であったろう。
宗像博士は泣き伏す女怪を、あきれ果てた面持で眺めていたが、やがて感に堪えたように、しきりと肯きながら、
「うまい。実にうまいもんだ。君は名優なばかりでなくて、すばらしい小説家だ。よくもそこまで考えたもんだねえ。すっかり辻褄が合っている。
だがね、それは君が創り出したお話に過ぎないと云われても、何の反証も上げられないじゃないか。男の友達があったということは、証人もある事だから、本当に違いない。しかし、それは、君を捨てた夢のような恋人ではなくて、君の人殺しの相棒だったと考える事も出来るのだからね。
この殺人事件には、君とそっくりの男装の女が、度々顔を出しているのだが、その女にはいつでも左の目に眼帯を当てた大男がついている。君の今云った男の友達にそのままあてはまるじゃないか。
エ、どうだね。そう考えた方が、少くとも実際的ではないかね。君の今の話は、なかなかロマンチックで面白いことは面白いが、まさか、そんな夢のような話を信じる裁判官はあるまいぜ。
君は既に指を切っている。その指を御丁寧に錫の函に入れて、態々隅田川に投げ捨てている。そして、引越しをしたと見せかけて、空家の屋根裏に身を潜め、発見されたと知ると、いつの間にか屋根を打ち抜いて、女の身には想像もできない危い芸当を演じて逃走している。犯人でもないものが、こんな馬鹿な真似ができると思うかね。誰に聞かせたって、君が犯人だという事を疑うものは、一人だってある筈がないよ」
女は顔を上げなかった。泣き伏したままの姿勢で、絶望的に呟くばかりであった。
「アア、もう駄目です。……わたしは呪われているのです。……あなたはきっと、そうおっしゃるだろうと思いました」
「気の毒だが、君のお芝居は無駄骨折りばかりだったよ。サア、それではわしと一緒に出かけようか」
宗像博士がそう云って、懐中電燈を持ち変えた時であった。泣き伏していた女が、突然、物に驚いたように、ヒョイと顔を上げた。
「アラ、あなたは誰ですの?」
博士はこの突飛な言葉を聞くと、相手が気でも狂ったのかと怪しんだのであろう、ギョッとしたように、身動きをやめて、鋭く答えた。
「何を云っているのだ。わしは宗像だよ。私立探偵の宗像だよ」
「本当ですの? でも、何だか……、ねえ、すみませんが、その懐中電燈で、あなたの顔を照らして見て下さいませんか」
真実気が違ったのかも知れない。男装の女は、何か異常な熱心さで、床下から這い出して、博士の前に立ちはだかった。
「ハハハ……、妙な註文だね。よろしい。サア、よく見るがいい。君を捉えた男がどんな顔をしているか、よく見覚えて置くがいい」
博士は電燈の丸い光を、我れと我が顔にさし向けて、朗かに笑って見せた。
女は闇の中から、大きな眼鏡を光らせて、異様に執念深く博士を見つめた。いつまでも、いつまでも、獲物を狙う牝豹のような感じで、名探偵を凝視しつづけた。真暗な中から、ひどく弾んだ息遣いが、ハッハッと薄気味悪く聞えた。
二人とも身動きもしないで、永い間立ちつくしていた。それは実に不思議な、息づまるような光景であった。両人の身辺から、何とも名状の出来ない殺気のようなものが立ち昇るのが感じられた。
神社の森の中で、宗像博士と北園竜子との不思議な問答が行われている頃、警視庁の中村捜査係長は、麻布区龍土町にある、私立探偵明智小五郎の事務所を訪ねていた。
明智小五郎は、年こそ若かったけれど、私立探偵としては、宗像博士の先輩であり、随ってその手腕も、博士をしのぐものがあった。現に川手庄太郎氏も、この物語の初めにも記した通り、この事件をまず明智探偵に依頼しようとしたが、丁度旅行中で、いつ帰京するとも判らなかったので、それではと新進の宗像博士を選んだのであった。
明智は三重渦巻指紋の事件が起る少し前、政府からある国事犯捜査の依頼を受けて、朝鮮に出張し、京城を中心として半島の各地を飛び廻っていた。そして、首尾よくその目的を果し、今日帰京したばかりのところであった。
中村捜査係長は、明智から帰京の通知を受けると、何はおいても、今度の奇怪な殺人事件について、彼の意見を聞いて見たいと思った。係長は明智とは宗像博士よりもずっと早くからの知合で、ごくうちとけた交りを結んでいた。
予め電話があったので、明智は事務所の応接室に、久し振りの友達を待ち受けていた。
「あちらの仕事は大変うまく行ったそうだね。お目出度う」
中村警部は明智の顔を見ると、先ずその喜びを述べるのであった。
「有難う。つい今し方まで陸軍関係の晩餐会に呼ばれていたんだが、恐ろしく歓待してくれてね、なんだか英雄にでもなったような気持がしているんだよ。しかしああいう種類の仕事は、随分敏捷に立廻らなければならないし、冒険味もたっぷりなんだが、実を云うと、僕なんかには、例えば今君がやっている、三重渦巻指紋の事件などの方が、ずっと魅力があるね」
明智は大仕事を済ませたばかりの、のびやかな気持から、いつもよりは多弁であった。
「君はあの事件を注意していたのかい」
「ウン、京城の新聞の簡単な記事で初めて見たんだが、それでも僕はすっかり惹きつけられてしまったよ。何とも云えない一種の匂いがあるんだ。僕の鼻は猟犬のように鋭敏だからね。ハハハ……、だから帰る途中大阪で、事件の最初からの新聞をすっかり揃えて貰って、汽車の中で読み耽って来たのさ」
「ハハ……、君らしいね。だが、そいつは都合がいい。実は今夜こんなに遅くやって来たのも、あれについて君の意見が聞きたかったからだよ。明日まで待っていられなかった程、僕は弱っているんだ。何だか壁のようなものにぶッつかってしまってね。白状すると全く途方に暮れているんだ。あんなに新聞が騒ぐものだから、世間がうるさくってね。僕がまあこの事件の担当者みたいになっているので、やり切れないのだよ。
で、君はあの事件の大体の輪郭は分っている訳だね」
「ウン、新聞に出ただけは分っている。だが、君の口から詳しい話が聞きたいもんだね」
「無論話すがね。それよりも、ここにいいものがあるんだ。僕個人の捜査日記だよ。君に読んで貰おうと思って持って来たのだ。口で云うよりも、これを一読してくれれば、一切がよく分ると思う」
警部はポケットから大型の手帳を取出して、そのある頁を開き、明智に手渡した。
明智はそれを受取ると、早速読み始めた。ソファに深く凭れ込んで、長い脚を組んで、その膝の上に手帳をのせ、丁寧に頁を繰って行った。
疑問の箇所にぶつかると、読むのをやめて、警部に質問する。警部は一々詳細に答える。そんなことを繰返して、たっぷり三十分程も費すうちに、明智は事件の経過をすっかり呑み込んでしまったように見えた。
「遠慮なく感想を聞かせてくれたまえ。僕は渦中にあるので、冷静な判断がむずかしいのだ。全く白紙でこの事件を見渡して、君はどう考えるね」
警部が促すと、明智はソファに凭れ込んで、腕組みをして静かに目をつむったまま、暫らく黙り込んでいたが、やがて落ちついた口調で話しはじめた。
「僕は宗像君とは二三度会ったばかりだが、彼の一種の才能には、深く敬意を表している。恐ろしい男だ。だが、今度の事件は流石の彼も、少なからず手古摺っているようだね。いつも犯人に先手をうたれて、後へ後へと廻っている。被害者は予め分っているのに、一人だって助けることは出来なかった。宗像君にしては珍らしい不成績だね。エ、そうは思わないかね」
明智はそこで言葉を切って、じっと中村警部の顔を見た。なぜかその唇の辺に幽な微笑が浮かんでいる。警部にはその微笑の意味が分らなかった。商売敵に対して非難めいた口を利いた事を、はにかんでいるのだと考える外はなかった。
「恐ろしい事件だ。この犯人は、あの俊敏な宗像博士よりも、更に一枚上手の役者らしいね。新聞は魔術師だなんて書き立てているが、全く魔術師だ。その上に、この犯人は露出狂だね。殺人その事よりも、その結果をできるだけ飾り立てて、世間に見せびらかしたいのだ。一種の狂人だね。狂人の癖に、恐ろしく賢い奴だ。名探偵と云われる宗像君を、思うままに飜弄するほど賢くて抜目のない奴だ。
しかし、宗像君も、なかなか味をやっているね。殊に隅田川に投げ込まれた小函の包装から、犯人の住所をつきとめたあたりは、流石に水際立っている」
「だが、それも後手だったよ」
警部は投げ出すように云って、唇を噛んだ。
「この北園竜子という女のやり口が、又実に面白い。引越しの前晩に、沢山の罐詰とパンを買入れた点など、興味津々としてつきないものがあるよ。君の手帳には、その記事の横に赤い線が引いてあるが、これはどういう意味だね」
「僕には全く見当がつかない。多分犯人は人里離れた山奥へでも身を隠す用意をしたのだと思うが、何だかそれも信じられないような気がする。ただ、僕はその事実を聞いた時に、ゾーッとしたのだよ。なぜか分らないが、胸の中を冷い風が吹き過ぎたような、変てこな気持がしたんだ。それで赤線など引いたのだろう」
「ハハハ……、なる程渦中にあると盲目になるもんだね。だが、君の潜在意識はちゃんと真相を感づいていたのだよ。君がゾーッとしたというのは、その口の利けない潜在意識が、非常信号を発したのさ。ハハ……、僕には犯人の隠れ場所は大方想像がついているよ」
「エッ、隠れ場所が? 冗談じゃあるまいね。ど、どこだい? それは」
警部は思わず椅子から立上って、頓狂な声を立てた。
「なにも慌てることはない。お望みとあれば、君をその場所へ御案内してもいいよ。だが、宗像君程のものが、そこへ気のつかぬ筈はない。ひょっとしたら、今晩あたり、宗像君単独で、その場所へ犯人を捉えに行っているかも知れないよ」
「そんな近い所なのか」
「ウン、北園というのはなかなか利口な女だよ。君達を錯覚に陥れようとしたのだ。引越しをして、家を空家にしてしまえば、その家はもう捜査網から除外されるわけだからね。その日から、一番安全な隠れ場所に一変する」
「エッ、するとあいつは、あの空家に隠れているというのか」
「若しその女が、僕の想像しているような賢い奴だったらね」
「ウーン、そうか。成程、あの手品使いの考えつきそうな事だ。よしッ、兎も角も確めて見なくっちゃ。明智君、僕はこれで失敬するよ」
「まア、待ち給え。君が構わなければ、僕も一緒に行ってもいい。……ア、電話だ。一寸待って呉れ給え」
明智は急がしく卓上電話の受話器を取って、一こと二こと話したかと思うと、その受話器を中村警部の方へ差し出しながら、
「君だよ。捜査課の徳永君からだ。何だかひどく慌てているぜ。重大な用件らしい」
警部はすぐさま受話器を耳に当てた。
「エッ、宗像博士が? 発見したって?……ウン、青山の……明神の境内だね。……エ、社殿の床下?……ウン、分った、分った。よし、僕はここから直ぐ行くから、君達も手配をして、駈けつけてくれ給え」
中村係長は興奮のため、顔を真赤にして、ガチャンと受話器を置くと、明智に事の次第を告げた。
「やっぱり君の推察の通りだった。あの女は空家の屋根裏に隠れていたんだって。そこから屋根を破って逃げ出したのを、宗像博士が追いつめて、近くの神社の境内で捉えたらしい。博士から今電話で知らせて来たというのだ。僕はすぐ出かけるが、君は……」
「無論お供するよ。北園という女の顔も見たいし、久し振で宗像君にも会いたいからね」
明智は云いながら、呼鈴を押して、助手の小林少年を呼び、電話で車を命じさせて置いて、手早く外出の用意をするのであった。
それから十分余りの後、例の神社の鳥居の前で車を捨てた二人は、暗闇の森の中へ入って行った。
向うにチラチラする幽かなる光を目当てに社殿の裏へ近づくと、そこに三人の黒い人影が、手に手に懐中電燈をかざして佇んでいた。モーニング姿の宗像博士と制服の二人の警官である。あとで聞けば、それは博士の知らせによって、附近の交番から駈けつけた警官達であった。
「宗像さんですか。中村です。丁度明智君を訪ねていましてね、捜査課から電話の知らせを受けたものですから、明智君と一緒に駈けつけたのですよ。警視庁からも間もなくやって来るでしょう」
闇の中で、中村警部が挨拶すると、宗像博士は、明智と聞いて一歩前に進み出でた。
「オオ、明智さん、お帰りになった事は新聞で承知していました。あなたのお留守中に、僕は途方もない難事件を引受けさせられてしまいましてね。やっと犯人を追いつめたかと思えば、ごらん下さい、この始末です」
博士は弁解でもするような調子で云いながら、社殿の床下へ懐中電燈の光を向けた。
「アッ、これは……」
中村警部が、驚きの余り、思わず叫び声を立てた。
それも無理ではない。社殿の床下、懐中電燈の丸い光の中に、まざまざと浮き出していたのは、無残な生人形のような、血みどろの死骸であった。
黒い背広の胸が開いて、その白いシャツが真赤に染まり、血の塊が電光を受けて、ギラギラと毒々しく光っていた。ソフト帽が脱げて、長い黒髪が乱れ、土気色になった女の唇から顎にかけて、一筋二筋、赤い毛糸のような血が流れていた。女の右手には五寸程の白鞘の短刀が握られ、その刃先にベットリ血のりがついている。
「自殺ですね。しかし、どうしてこんなことに……」
警部の言葉を受けて、宗像博士が申訳なさそうに説明した。
「僕の手抜かりでした。あなたに報告して、警察の手で、あの空家の捜索をして頂けばよかったのです。しかし、決して抜けがけの功名をしようとした訳ではありません。確信がなかったのです。若しやという想像ぐらいで、警察を煩わす気になれなかったのです。兎も角、その想像が当っているかどうか、僕自身で確めて見ようとしたのです。
すると、僕のその想像は当りすぎる程当っていました。そして、この女をここまで追跡して、なんなく捉えてしまったのです。ところが、何を云うにも僕一人だったものですからね。自動車を探すのに、この女を引きつれて歩く訳にも行かず、それよりは、電話でお知らせして、あなた方に来て貰った方がと考えたのです。
で、僕はこの女を、ここの床下の柱に縛りつけて置いて、近所の商家まで電話を借りに走ったのです。その商家の人に頼んで、交番にも知らせて貰ったのです。ホンの五分間程ここを留守にしたばかりです。
ところが、帰って見ると、この始末じゃありませんか。どうして解いたのか繩目を解いて、見事に心臓を突いて自殺していました。まさか短刀など隠していようとは思いも及ばなかったのです」
宗像博士は大切な犯人を殺してしまった失望に、説明もしどろもどろであった。
成程、死人の身体には、解けた細紐が幾重にも纒いつき、その端が側の柱に括りつけてあった。宗像博士が、常に身辺を離さぬ、絹糸製の丈夫な細紐である。
「どうしてこれを解くことが出来たんだろう。まさか縛り方が悪かったのではないでしょうね」
明智は柱の側にしゃがんで、その細紐を調べながら、半ば独言のように呟いた。
「僕もそれを不思議に思っているのです。捕繩のかけ方ぐらいは心得ているつもりですが」
博士も不審に耐えぬ面持だ。
「宗像さん、この女は自殺したのではないかも知れませんね」
明智がふと何かに気附いたらしく、妙なことを云い出した。
「エッ、自殺でないというと?」
宗像博士も中村警部も、意外な言葉に、明智の顔を覗くようにして、聞き返す。
「他殺ではないかと思うのです。誰かがこの女の心臓を抉って、その短刀を死人の手に握らせた上、自殺と見せかける為めに、あとから繩を解いて置いたとも考えられますからね」
「しかし、誰が何の為めにそんな真似をしたのでしょう。犯人に恨みを含むものが、この森の中に忍んでいたとでもいうのですか」
宗像博士は腑に落ちぬ様子で、明智の軽率な判断をなじるように云った。
「イヤ、必ずしも恨みを含む者とは限りません。宗像さん、僕はさい前、中村君から、事件の経過を詳しく聞いたのですが、この事件には、男装の女らしい小柄な犯人の外に、もう一人、一方の目に眼帯をあてた大男がいるというではありませんか。
犯罪者が一身の安全を計る為めに、仲間を殺すというのは、例のないことではありません。僕は何だか、その辺の闇の中に、まだ眼帯の大男が身を潜めて、僕らの話を聞いているような気がするのですよ。つい身近にそいつの気配を感じるのですよ」
明智は闇の中の宗像博士の側に近よって、そのモーニングの腕を、指先で注意を促すように軽く叩きながら、声を低めて云うのであった。
「なぜです。仮令共犯者がここへ来たとしても、何もこの女を殺すことはないじゃありませんか。単に繩を解いて連れ去ればすむことではありませんか」
博士は彼の優れた商売敵を、嘲笑うかのような口吻であった。
「しかし、彼としては、我々の常識では判断の出来ない深い事情があったのかも知れませんよ。宗像さん、僕はこの事件の全体の経過を、静かに考えて見て、どうもそんな気がするのです。なぜ眼帯の男は、共犯者を救わないで、その命を絶たなければならなかったか。そこにこの事件の恐ろしい謎があるのじゃないかと、そんな風に感じているのです」
「感じですか?」
宗像博士は一層皮肉な調子になった。だが、明智は少しもひるまない。
「そうです。僕はまだ明確に云うことは出来ないのです。しかし、この事件は最初から、理論を超越して、狂気と魔術に満ちていたではありませんか。犯人は、あらゆる不合理と不可能を易々と為しとげているのです。救うべき共犯者を殺すなども、彼の狂気と魔術の一つの現われでないと誰が断言出来ましょう。眼帯の男は、なぜ北園竜子を殺さなければならなかったか。実に面白い謎々ですね。この難題が解けさえすれば、事件の全貌は自ら明かになって来るのじゃないでしょうか」
明智は言葉以上に、事件の奥にあるものを見通してでもいるように、静かに云うのであった。
「あなたは共犯者がこの女を殺したものと決めていられるようですが、僕にはどうも信じられませんね。しかし、それは兎も角として、眼帯の男を捉えなければならぬのは、云うまでもありません。僕は最初からこの事件に関係している責任上、あいつは必ず捉えてお目にかけます。そうすれば凡てが明かになるでしょう。魔術師の正体があばかれるでしょう」
博士は明智の言葉に反撥を感じたのか、やや切口上になって云った。
「オオ、あなたは眼帯の男を捉えるとおっしゃるのですか。何か確信がおありなのですか」
明智はなぜかびっくりしたような、烈しい口調で聞き返した。皮肉ではなく、真実驚いているらしい様子だ。宗像博士ともあろうものが、もう一人の共犯者を捉えて見せると云ったからとて、何をそれほど驚くことがあるのだろう。まるで「そんなことは不可能ですよ」と言わぬばかりの口吻であった。
今夜の、明智の態度口吻には何となく解し難い所があった。日頃の明智なれば、他人の手がけている犯罪事件に口出しをするさえ好まぬ筈だ。それに、今夜はノコノコ犯人逮捕の現場へ出かけて来たばかりか、同業者の宗像博士を揶揄するかのような態度を示しているのだ。明智らしくないやり方である。これには何か深い訳があるのではないだろうか。
「あの男を捉える確信があるかとおっしゃるのですか。ハハハ……、マア、見ていて下さい」
博士は何を失敬なと云わぬばかりに、挑戦的な口調で、闇の中の明智の顔のあたりを、グッと睨みつけた。
明智はたじろがなかった。彼も亦、博士の顔を異様に見つめている。長い間妙な睨み合いがつづいた。中村警部は、後日その折の有様を形容して、二人の目から青白い火花が散るかと怪しまれたと語った程である。
そうしているところへ、鳥居の前に自動車の停車する物音が聞え、捜査課長を初め警視庁の人々が来着し、順序を踏んで、物慣れた現場調査が行われた。暫くすると、検事の一行も駈けつけて来た。そして一応の取調べが終ると、身柄引取人とてもない北園竜子の死体は、一先ず警視庁の死体置場へと運ばれたのであった。
明智小五郎は、調査の終るのを待たないで、先に帰宅したのだが、その帰りがけに、中村警部を人目のない場所に招いて、こんなことを囁いた。
「僕はこの事件にすっかり惹きつけられてしまった。一つ僕は僕で、宗像君の邪魔をしないように、調査をして見ようかと思うのだよ」
「調べると云って、もう主犯が死んでしまって、あとは共犯の眼帯の男を探すばかりだが、君は何か心当りでもあるのかい」
中村警部は、いぶかしげに聞き返す。
「イヤ、共犯者を探すことは、宗像君に任せて置けばいい。宗像君が、どんな風にしてあの眼帯の男を捉えるか、僕は非常に興味を感じている」
明智は意味ありげに答えた。闇の中でニヤニヤ笑っているらしい様子だ。
「それじゃ、後には何も調べることがないじゃないか。犯人は川手氏一家への復讐の目的を完全に果してしまったのだから、これ以上事件の起りようはないし、その犯人の一人は自殺か他殺か、兎も角死んでしまった。残っているのは眼帯の男ただ一人だ。あの男を探さないで、君は何を調べようというんだい」
「君は忘れているよ。川手氏一家がみなごろしになったといっても、川手庄太郎氏だけは、山梨県の例の山の家で行方不明になったことが分っているばかりで、まだその死骸も現われないじゃないか」
「ウン、それはそうだ。しかし、今まで行方が分らないところを見ると、川手氏も無論殺されているに違いない。でなくて、犯人があの怪指紋の指を切ったりする筈がない。あの指を切って、隅田川へ捨てたのは、奴らの復讐事業が全く終ったことを意味すると考える外はないじゃないか」
「そうも考えられるがね。しかし、川手氏に限って、犯人が例の死体を見せびらかす手を用いなかったのはなぜだろう。一番怨みの深い筈の川手氏を、安らかに眠らせて置くというのは、この犯罪の動機から考えても変じゃないか。これには何か、死体陳列の出来ないような特別の事情があったとしか考えられない。僕はそこに一縷の望みをつないでいるんだよ。
いずれにしても確めて見なければならない。僕は明日N駅へ行って、あの一軒家を調べて見るつもりだ。そして、川手氏がどんな最期をとげたか、探り出して見るつもりだ。
だが、それは宗像君には云わないでくれ給え、警視庁の人達にも内密にして置いて貰いたい。僕は全く陰の人として、僕自身の好奇心を満足させれば、それでいいのだからね。分ったかい。じゃ、いずれ調査の結果は、君だけに報告するからね」
そう云い捨てて、明智は境内の闇を、鳥居の方へ立ち去って行くのであった。
それから数日は何事もなく過ぎ去ったが、丁度北園竜子変死から七日目の夕方、日本橋のK大百貨店に、飛降り自殺の騒ぎが起った。
百貨店閉館の間際に、その側面の道路を歩いていた人々は、空から大きな黄色いものが、爆弾のように落下して来て、目の前の鋪道に恐ろしい地響を立てて叩きつけられるのを見た。
飛降り自殺者であった。
一瞬間ギョッと立ちすくんだ人々が、やがて、それと知って駈けよって見ると、そこの敷石道の上に、カーキ色の労働服を着た男が、血にまみれて、押しつぶされたようになって息絶えていた。
附近の交番から警官が駈けつけて、調べて見ると、覚悟の自殺らしく、死体の胸のポケットから、一通の書置き様の紙切れが発見された。
警官は何気なくその紙切れを読み始めたが、見る見る顔色が変った。その飛降り自殺者こそ、外ならぬ川手氏一家鏖殺しの共犯人、例の眼帯の男であることが分ったからだ。
遺書には、
「自分は生涯をかけての大復讐の目的を果して、ここに自決する。この自殺は必ずしも予定の行動ではないのだが、私立探偵宗像博士の為に、素性を看破られ、数日に亙る執拗な追跡に、最早逃亡の気力も失せたので、博士に手柄を立てさせるよりは、自ら一命を絶つ決心をしたのだ。自分は復讐の為に、川手の娘達を群衆の前に晒し物にした。今こうして賑かな人通りにむくろを晒すのも、その罪亡ぼしの積りである。
川手一家は自分の父母の仇敵である。父母は川手庄太郎の父の為に、自分が川手一家に加えたよりも、もっと残虐なやり方で殺害されたのだ。自分は父の今わの際の遺言に基いて、川手の子孫の根絶やしを思い立ち、生涯をその復讐事業の為に捧げたのである。
北園竜子は本名を山本京子といい、自分の肉親の妹だが、三重渦巻の異様な指紋を持っていたので、それを利用して川手一家のものを脅かす手段とした。この目論見は、意外の効果を収め、自分達は三重渦巻の賊とまで呼ばれるに至った。その妹京子も宗像博士の為に捉えられ、遂に隙を見て自殺してしまった。自分はもうこの世に何の思い残すところもない。一刻も早く冥途に行って、可愛い京子に会い、二人の生涯をかけての大事業の完成を喜び合いたいばかりだ」
という意味のことが、拙い鉛筆文字で細々と認められ、その終りに「山本始」と署名がしてあった。これで明智小五郎の竜子他殺説は全く誤解であったことが判明した。流石の明智も、この事件では、いらざる差出口をして、却って新進宗像博士の引立て役を勤めたかの観があった。彼の推察が見当違いであったのに反して、博士の口約は見事に果された。眼帯の男山本始を殺してしまったのは残念だけれど、博士の手が犯人の直後に迫っていたことは、彼の遺書によっても明かであった。
かくして、あれ程世間を騒がせた三重渦巻の怪殺人事件も、ここに全く終焉をつげたのである。被害者一家はみなごろしになってしまった。加害者は二人とも自殺をしてしまった。恨むもの、恨まれるもの、共に亡び去ったのだから、事件がこれ以上続きよう筈はなかった。さしもの大事件も、山本始の自殺を境として、もう過去の語草となってしまったのだ。世人は勿論、警視庁自身さえ、そう考えていた。ただ一人、モジャモジャ頭の私立探偵明智小五郎を除いては、誰一人事件の終焉を信じないものはなかった。
殺人鬼山本始が自殺してから数日後のある夜、警視庁の刑事部長は、捜査課長や中村係長の進言を容れて、この大犯罪事件の終焉を祝し、並々ならぬ労苦を嘗めた民間探偵宗像博士を犒う意味の小宴を催した。別段手柄を立てたわけではないが、捜査課長や中村係長の友人である明智小五郎も、席を賑わすためか、博士と共に招待を受け、主客五人、京橋区のF──レストラントの別室に、食卓を囲んで雑談の花を咲かせていた。
「宗像さんは、二人まで助手の命をとられているんだから、今度は一生懸命だったでしょうね。しかし、あなたのお蔭で、案外早く犯人達の自決を見て、何よりでした」
刑事部長が宗像博士を慰めるように云うと、博士は鼈甲縁の眼鏡を直しながら、恐縮の面持で答えた。
「イヤ、今度は最初から失策つづきで、実に申訳ないと思っております。いつも一歩の差で犯人にしてやられたのです。私の助手はともかくとして、折角依頼を受けた川手家の人達を、遂に救うことが出来なかったのは、実に残念でした。
私としては全力を尽したのですが、今度の奴だけは、明智さんも云われたように、どこか人間放れのした、気違いめいた智慧を持っている奴で、常識では想像もつかない手を打つので、非常な苦労をして、しかも苦労甲斐がなかったのです」
「明智さん、中村君に聞けば、あなたも今度の事件には非常に興味を持っていられたということですが、何か御感想は?……あなたは、北園竜子は自殺でないという御意見だったそうですね」
刑事部長は、なぜか明智の痛いところへ触れるような云い方をした。すると、明智はそれを待ち兼ねてでもいたように、
「そうですよ。僕はそう考えているのです」
とキッパリ云い切るのであった。
「エ、あなたは今でもあれを他殺だとお考えなのですか」
捜査課長がびっくりしたような表情で、横合から口を出した。
「他殺としか考えられませんね」
明智は極り切ったことのように、動ずる色もなく答えた。
それを聞くと、宗像博士の目が異様に光った。博士は明智の挑戦を感じたのだ。もう黙っているわけには行かぬ。
「ハハハ……、明智君、大人げないじゃありませんか。いくら名探偵の君でも、時に失策がないとはいえぬ。それを、一度口にしたことは、あくまで押し通そうというのは、つまらない意地というものですよ。飛降り自殺をした山本始は、竜子の実の兄だったじゃありませんか。いくら我身を守る為だといって、真実の妹を殺すなんて、考えられないことです。現に山本の遺書にも、妹は自殺したのだと、はっきり記してあったではありませんか。……それとも、あなたはあの山本の遺書を認めないとでもいうのですか」
博士はまるで後輩にでも云い聞かせるような態度で、明智をたしなめた。
「認めませんね。あんな都合のいい遺書なんてあるもんじゃない。あれはまるで出鱈目ですよ」
アア、何を云い出すのだ。明智は気でも違ったのではないか。彼は宗像博士との手柄争いに敗れて、まるで駄々ッ子のようにやけくそになっているのかとさえ怪しまれた。
「明智君、君は本気でそんな無茶を云っているのですか。酔っているのじゃありませんか、仮令悪人にもせよ、死の間際に書き残したあの告白が、出鱈目だなんてあり得ないことです。君こそ出鱈目を云っているとしか考えられませんね。それとも何か、あの遺書を認めない、はっきりした理由があるのですか」
一座の人々も、この口論では、宗像博士に味方しないわけには行かなかった。明智は今日はどうかしているのだ。博士が云ったように、酔っぱらっているのかも知れない。刑事部長と捜査課長とは、非難をこめた眼差で、無言のまま明智の顔を見つめるばかりであった。
ところが、博士の詰問に答えた明智の言葉は、ますます意外な、殆んど健康人の論理を無視したようなものであった。アア、明智は本当に気が違ってしまったのではあるまいか。人々はもう、あっけに取られて、急には言葉も出ない有様であった。
「無論、遺書を認めない理由ははっきりしていますよ。あの自殺した男が、果して犯人の一人であったかどうかを疑うからです」
「エッ、なんですって? 君は、犯人でもない男が、あんな遺書を書いて飛降り自殺をしたというのですか」
宗像博士は開いた口が塞がらぬという体で、殆んど笑い出さんばかりの表情であった。
「眼帯の男の顔をはっきり見届けたものは、誰もないのです。ただ無精髭を生やした労働者風の大男ということが分っているばかりです。それがあの飛降り自殺をした男と同一人であったと、どうして保証出来ましょう。無論、眼帯の男の筆蹟も分っていないのですから、あんな遺書など誰にでも偽造出来るじゃありませんか」
明智の止め度もない放言に、宗像博士は激怒のために真赤になってしまった。
「それじゃ君は、あの自殺した男が、偽物だったというのですか。馬鹿馬鹿しい、犯人でもないものが、態々遺書まで用意して自殺するなんて、君は一体何を考えているのです。酒の上の戯談でないとすれば、君は気でも違ったのではありませんか」
「ハハハ……、そうかも知れませんね。相手が気違い犯人ですから、僕もおつき合いをして気が狂ってしまったのかも知れません。
僕自身でさえ、今僕の考えていることが、余り並はずれな奇怪な事柄なので、本当に頭がどうかしたのではないかと、不安になるくらいです。例えば、僕はまだこんなことも考えているんですよ。
飛降り自殺をした男が犯人でなかったばかりでなく、あの北園竜子さえ、犯人かどうかよく分らないということです。僕は確証がほしいのです。あの二人があなたの信じているように、真犯人であってくれればいいと、僕は随分その確証を掴むために悩んだのですが、遺憾ながら確証は全くないことが分ったのです」
ここまで来ると、一座の人々はもう黙っているわけには行かなかった。明智は実に驚くべき妄想を描いているらしいことが分って来たからだ。彼は眼帯の男を否定し、北園竜子をすら否定せんとしている。すると、この殺人事件の犯人は、まだ一人も捕まっていないことになるではないか。事件が落着した心祝いの集いに招かれて、彼は事件の落着そのものを、頭から否定しているのだ。アア、これは一体どうしたことであろう。
刑事部長も捜査課長も、何か口々に驚きの叫び声を発したが、当の宗像博士の憤慨はもう極点に達していた。博士は例の三角型の顎髯を、ピリピリ震わせて、思わず椅子から腰を浮かし、明智の前に握り拳を振廻しながら、わめくのであった。
「明智君、黙りなさい。君は僕に何か私怨でもあるのですか。僕が解決した事件を、なぜぶち毀そうとするのです。しかし、お気の毒だが、君の云い草は支離滅裂、まるで気違いのたわごとじゃないか。そんな出鱈目な論理で、僕の仕事にけちをつけようなんて、君も余りに子供らしいというものだ。
北園竜子が犯人でないなんて、一体どこからそんな結論が出て来るのです。君は三重渦巻の指紋を忘れたのですか。犯人でもないものが態々指を切断して、屋根裏に身を隠すなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことが出来ると思うのですか」
「ところが、僕は北園竜子があの怪指紋の持主だったからこそ、真犯人ではないと考えるのですよ。エ、宗像君、この意味がお分りですか」
明智は落ちつき払って、ニコニコ笑ってさえいるのだ。
「分りませんね。そんな気違いのたわごとは、僕には少しも分らない。……皆さん、あなた方には大変失礼ですが、私はもう一刻もこんな気違いと同席するのは御免です。中座させて頂きます」
宗像博士は椅子から立上って、今にも食堂を立去ろうとする気組みを見せた。
「マア、待って下さい。主賓のあなたに帰られては、今夜の集りの意味がなくなってしまいます。……明智さん、あなたは今夜はどうかしていらっしゃるようですね。折角我々が宗像さんの慰労の宴を催したのですから、この席で論争をなさることは差控えて頂きたいと思います。兎に角、事件は落着して、世間でもホッとしているのですから、この際、根拠のない否定論は慎んで下さらないと困りますね」
捜査課長が仲裁するように云って、取ってつけたように笑って見せた。
「イヤ、皆さんが、僕が無茶を云っているようにお思いなさるのは、無理もありません。しかし、僕の考えには、決して根拠がない訳ではありませんよ。僕の悪い癖でしてね、筋路を話さないで、突然結論から始めるものですから、僕の頭の中の論理を御存じない皆さんは、まったく感情的な暴言のように感じられるのです。
では、順序を立てて、なぜ僕が二人の犯人を偽物だなどと云い出したか、その訳をお話しましょう。宗像君も、そんなに立腹しないで、マア一応、僕の話を聞いて下さい」
明智は、両手を上げて制するようにしながら、いつに変らぬニコニコ顔で一同をなだめるのであった。
酔っぱらったのでもなければ、頭が変になったのでもない。明智は何かしら、一座の人々には想像も出来ないような、奇怪な推理を組立てているらしい。ひょっとしたら、彼の犯人自殺否定論には、深い根拠があるのかも知れない。人々はそう考えると、半信半疑ながら、兎も角、明智の説明を聞いて見る外はなかった。宗像博士も不承不精に着席した。
そこで、明智が話しはじめる。
「僕は中村君からこの事件の経過を聞いた時に、殺人鬼の行動に、一つの心理的な矛盾があることを気附いたのです。そして、その角度から、宗像君とは全く別の見方で、この事件を眺めて見ようと思い立ったのです。
その矛盾というのは外でもありません。犯人はなぜ川手氏の死体を衆人の前に陳列して見せなかったかということです。
川手氏の二人の娘さんは、実に残酷なやり方で、見世物のように衆人の眼の前に晒されている。娘さん達でさえそんなひどい目にあわせた復讐者が、当の川手氏に限って、その挙に出なかったのには、何か特別の理由がなくてはならない。若しかしたら、犯人は川手氏を、死体の陳列は出来ないけれども、しかし、死体の陳列などよりももっと残酷な方法で殺害したのではないか。例えば長い時間かかって、徐々に死んで行くような、極度に残虐な方法を案出したのではないかと考えたのです。
そこで僕は竜子が自殺をした翌日、川手氏が行方不明になったというN駅の近くの、山中の一軒家へ出かけて行きました。ある理由の為に、このことは、ここにいる中村君以外には、誰にも知らせず、こっそり出発したのです。
あの一軒家は、今では留守番もない全くの空家になっているので、門を開くことも出来ず、僕は非常な苦心をして、堀を渡り、高い塀をよじ登って、邸内へ忍び込んだのです。そして、たっぷり一日かかって、屋内、屋外を残るところなく捜索しました。
しかし、その捜索の模様などを、ここで詳しくお話しする必要はありません。すぐに結果を申上げますと、結局、僕の推察が当っていたのです。つまり、僕は川手庄太郎氏を発見したのです」
そこまで聞くと、刑事部長はもう黙っていられなくなった。
「川手氏の死骸をですか。一体どこに隠してあったのです。当時あの地方の警察が、山狩りまでして捜索しても、とうとう発見出来なかったのですが」
「イヤ、死骸ではありません。僕は生きている川手さんを発見したのです」
明智の意外千万な言葉に、人々は色めき立った。
「エッ、生きていた? それは本当ですか。じゃあ犯人は肝腎の川手氏に復讐をとげなかったわけですか」
「イヤ、そうではありません。犯人は犯罪史上に前例もないような、残酷極まる方法で、川手氏に復讐したのです。若し僕の発見が、もう一日おくれたならば、恐らくこの世の人ではなかったでしょう」
「一体、それはどんな方法です」
捜査課長が、ひどく興奮して、思わず口をはさんだ。
「生き埋めです。川手氏は棺桶ようの木箱の中へ入れられて、あの家の庭の林の中に埋められていたのです」
「で、あなたはそれを救い出したのですか。一体どうして今日まで生き永らえていたのです」
「今日ではありません。僕がそれを発見したのは、今から十日も前なのです。川手氏が行方不明になってから丁度五日目でした。五日の間、土の中にいたばかりです。
多分川手氏をいやが上に苦しめるためでしょう、その棺桶ようの箱には、ところどころに隙間が作ってあったのです。つまり、あっけなく窒息してしまわないように、出来るだけ長く闇の地中で苦しみもがくように、息の通う場所を作って置いたのです。それに、埋められた位置も割合に浅く、土と落葉の混ったようなもので蔽われていたのですから、川手氏は棺の中でも、辛うじて呼吸をつづけることが出来たのです。
しかし、ただ息が出来るというだけで、食いものは無論なく、厳重に釘づけにされた厚い板の中で、殆んど身動きも出来ず、飢餓と迫って来る死の恐怖とのために、可哀想に川手氏は髪の毛がすっかり白くなっていた程です。
僕がどうして川手さんの埋められている場所を発見したかというと、若しやそんなことではないかと、予め想像していたので、庭の林の中なども念入りに歩き廻って見たからです。警察の人達が、あれを発見出来なかったのは、まさか邸内の土の中に埋められていようなどと、考えても見なかったためでしょう。
そこで、僕は川手さんを助け出して、僕が乗って行った自動車にかつぎ込み、そのまま甲府市のある病院へ入院させたのです。そして、数日後、川手氏の元気が回復するのを待って、コッソリ東京に連れ帰り、実は、今僕の家にかくまってあるのです。
勝手な真似をしたとお叱りを受けるかも知れません。しかしこれには止むを得ない訳があったのです。甲府市の病院でも、態と川手さんの名を隠して置きましたし、無論警察へも届けませんでした。
なぜかといいますと、僕は川手さんの口から、この事件の裏に潜む、あらゆる秘密を探り出そうとしたからです。それには、瀕死の病人も同然のあの人の記憶が、完全に甦るのを待たなければならなかったのです」
「で、川手氏はすっかり元気を回復しましたか。元々通りの健康体になりましたか」
宗像博士が初めて口を開いた。博士の顔には、何は兎もあれ、事件依頼者の無事を喜ぶ色が浮かんでいた。
「イヤ、まだ健康体とは云えません。僕の家の一間にとじこもったきり、寝たり起きたりという状態です」
「そうですか。何としてもお手柄でした。それを聞いて僕も心が軽くなりましたよ」
博士は他意もなく明智の手柄を称えたが、ふと何事か思い出した様子で、
「アア、話に夢中になっていて、うっかり忘れるところだった。皆さんちょっと失礼します。ある事件依頼人に、電話をかける約束があったのです。じき戻りますから明智君、話の続きは暫らく待っていて下さい」
と慌しく電話室へと立って行った。
「明智さん、そんなに、私立探偵の権能を揮われては困りますね。川手氏を発見しながら、無断で自宅にかくまって置くなんて、事を荒立てれば、何かの犯罪を構成しますぜ」
刑事部長は半ば戯談のように、明智の勝手な振舞を責めた。
「イヤ、その説明は、今に詳しく申上げますが、決してお叱りは受けないだろうと信じています。犯人が魔法使みたいな恐ろしい奴ですから、こちらも少し変則な手段をとらなければならなかったのです」
明智は弁解しながら、なおも川手氏発見の模様を何かと話しつづけるうちに、やがて、電話室から宗像博士も席に戻って来た。
「御用はすみましたか」
明智は非常に愛想よく、ニコニコ笑いながら声をかけた。
「すみましたよ。どうもお待たせしました。では、今のお話をつづけて頂きましょうか」
博士も妙に丁寧な口調で答え、何かひどく嬉しい事でもあるようにロイド眼鏡の中の目を細め、三角髯をゆるがせながら、ニタニタと笑って見せるのであった。
博士が電話室から帰って来ると、その間中絶していた話題が、刑事部長の質問でまた元に戻った。「で、あなたは、その川手氏の口から何か聞き出されたのですか。北園竜子が真犯人でないというようなことを」
「イヤ、川手氏は別に何も知ってはいないのです。ただ今度の犯人の親達が川手氏のお父さんのために無残な最期をとげた、その復讐のために川手氏一家の鏖を企てたということ、犯人の一人の眼帯の男は本名を山本始といい、男装の女はその実の妹であることなどが分ったばかりで、二人とも変装をしていたので、犯人達の顔さえはっきりは覚えていないという仕末です」
明智が答えると、刑事部長は畳みかけるようにして、質問の二の矢を放った。
「それじゃ、百貨店の屋上から飛降り自殺をした男の遺言と全く一致しているじゃありませんか。あなたが、北園竜子や、あの自殺をした男が真犯人でないとおっしゃる論拠は?」
「それは論理の問題です。中村君から詳しいことを聞いて見ますと、この事件は初めから終りまで、あらゆる不可能の連続と云ってもいいくらいです。彼等が魔術師と云われた所以もそこにありました。僕はそれらの不可能について静かに考えて見たのです。真実の不可能事が行われ得る筈はありません。それが行われたように見えたのは、何かその裏に、何人も気附かぬ手品の種が隠されていたと考える外はないのです。その秘密さえ解き得たならば、この事件はこれ迄とは全く違った相貌を呈して来るかも知れませんからね」
「で、君はその秘密を解いたというのですか」
横合から宗像博士が堪り兼ねたように口を出した。
「解き得たつもりですよ」
明智は、博士の方に向き直ってニッコリ笑って見せた。博士も嘲るように笑い返したが、二人とも目だけは異様に光っていた。そして、その四つの目の間に、何かしら烈しい稲妻のようなものが閃き合うのが感じられた。
「では、参考のためにその論理とやらを聞きたいものですね。事件の最初から、二人の部下まで犠牲にして、目と耳と足と頭を働かせて来た僕の解釈が正しいか、事件が殆んど終ってしまってから、机上に組み立てた君の空想が正しいか、一つ比べて見ようじゃありませんか。ハハハ……」
博士は無遠慮な笑い声を立てて、腕組みをしながら椅子の背に反り返って見せた。
「イヤ、そういう感情の問題はともかくとして、我々としても一応明智さんの論理を承わらなければなりません。若し北園が真犯人でないとすると、この事件は最初からやり直しですからね」
捜査課長も真剣な表情で、明智を促すのであった。
「僕はこの事件の最初からの、常識では判断の出来ないような不思議な出来事を、すっかり、ここに書き出して見たのですがね」
明智はポケットから手帳を取出して、その頁を繰りながら、落ちつき払って語りはじめた。
「この事件に最も異様な色彩を与えたのは、申すまでもなく、例の怪指紋です。犯人はあの指紋を実に巧みに使用して、川手一家の人々に、どれほどの恐怖を与えたか知れません。あの指紋をじっと見ていると、何かこう悪魔の呪いとでも云ったようなものが、ひしひしと感じられますからね。
しかし、あの指紋は、非常に奇怪ではありますが、別に不可能が行われたわけではありません。北園竜子が偶然あんな恐ろしい指紋を持って生れたのだとすれば、指紋そのものには何の不思議もありません。ただ異様なのは、その指紋の現われ方です。たとえば、川手雪子さんの葬儀の日に、告別式に列した妙子さんの頬に、どうしてあの指紋が捺されたか。また、お化け大会の中で、骸骨や人形の生首が持っていた通行証明の紙片に、どうしてあの指紋がついていたか、それから川手氏の話によりますと、あの人が、宗像君に連れられて自邸を逃げ出す直前に、女中の持って来た煎茶茶碗の蓋にまで、例の指紋がついていたそうですが、事件の最中で見張りの厳重な川手家の台所へ、どうして犯人は忍びこむことができたか。これらは殆んど不可能に近い奇怪事と云わねばなりません。
その他、川手雪子さんの殺害の通告状が、どこからともなく川手家の応接室に現われた不思議、雪子さんの葬儀の日に、川手氏のモーニングのポケットに復讐者の脅迫状が忍び込ませてあったことなど、そういう小さな出来事まで拾い上げれば、殆んど際限もない程ですが、僕はこれらの不思議を、あらゆる角度から眺めて、そのすべてを満足させるような一つの仮説を組み立てて見ました。
僕は正面から解決することのできない、非常に難解な事件にぶッつかった場合は、いつもこの論理学上の方法を用いることにしているのです。その仮説が、事件のあらゆる細目にぴったり当てはまって、少しも無理がないことが確められたならば、それは最早や仮説ではなくて真実なのです。今度の事件が丁度それでした。そして、僕の組み立てた仮説は、あらゆる細目を満足させたのです。
ここで、その僕の推理の過程を一々説明するのは、少し煩雑すぎると思いますから、今度の事件の様々の不思議の中から、最も重大な、また異様な三つの出来事を拾い出して、僕の仮説がどんなものであるかをお察し願うことにしますが、その第一は例のお化け大会のテントの中から、黒覆面の犯人がどうして逃げ去ることができたかという点です。
あのテントの外には沢山の見物人が群っていました。テントの中には警官や興行者側の人達が四方から犯人を取り巻いていました。その真中の鏡の部屋の中で、犯人はただ一挺のピストルを残したまま、消え失せてしまったのです。直ちに鏡の部屋は打毀され、地中に抜け穴でもあるのではないかと、十二分に調べたと云いますが、そういう手品の種は何一つ発見されなかったのです。
この魔法めいた不思議を、どう解釈すればよいのでしょう。鏡の部屋に何の仕掛けもなく、十数人の追手の目に間違いがなかったとすれば、犯人は絶対に逃げ出す術はなかったのではありますまいか。つまり犯人はそこにいたのではないでしょうか。僕はこういう仮説を立てて見たのです。犯人は決して逃げなかった。最後まで追手の真中に踏みとどまっていたのだ。しかも、追手達はそれが犯人だとはどうしても考え得ないような、一種不可思議の手段によって、ちゃんとその場にいたのだという仮説です」
明智はそこで言葉を切って、謎のような微笑を浮べながら一座を見廻したが、誰も物を云うものはなかった。人々は酔えるが如く押黙って、ただ話手の顔を凝視するばかりであった。
「第二は山梨県の山中の川手氏の隠れ家を、犯人はどうしてあんなに易々と発見することが出来たかという点です。川手氏の話によりますと、宗像君は犯人の尾行を防ぐために、実に驚くべき努力をしておられます。宗像君と川手氏とは、念入りな変装をした上に、市内のビルディングで籠抜けをしたり、態々別の方角へ汽車に乗ったり、目的地へ達しても駅へは降りないで、危険を冒して進行中の汽車から飛降りたり、実にここには云い尽せない程の苦心をしているのです。
ところが、それ程までにして、川手氏を匿まった場所が、忽ち犯人によって発見されたというのは、犯人が千里眼の怪物でもない限り殆んど不可能なことではありませんか。これをどう解釈すればよいのでしょう。僕の仮説によれば、この場合もまた、犯人はそこにいたのです。絶対にそれと分らぬ一種不可思議の手段によって、絶えず川手氏を尾行していたのです。
お分りになりますか」
明智はまた言葉を切って、一同を見廻したが、一座の沈黙は深まるばかり、誰一人口を利くものもなかった。
「第三は北園竜子がなぜ自殺をしたかという点です。縲紲の恥かしめを逃れるために自決したと云えば、一応筋道が通っているようですが、実はそこに非常な矛盾があります。一種の心理的不可能と云ってもよいのです。
彼女は決して縲紲の恥しめを受けることはなかった。なぜと云って、短剣で自殺するためには、先ず床下の柱に縛りつけられていた繩を解かなければならなかったからです。ところが、繩を解いた以上は、最早や自殺する必要はどこにもない。闇にまぎれて逃げ去ってしまえばよかったのです。屋根裏に隠れてまで逃亡を計った女が、繩を解いて自由の身になりながら、突然自殺する気持になるなんて、全く考えられないことではありませんか。
一方また、彼女は自殺したのではなくて、神社の森の中に隠れていた同類に殺されたのだという考え方もありますが、それは一層不合理です。同類が我が身の安全を計るために相棒を殺したのだとすれば、何もわざわざ繩を解くことはないのです。縛られているのを幸、闇にまぎれてこっそり刺し殺してしまえばよい訳ですからね。
自殺の場合は繩が解ければ死ぬ必要はなくなるのだし、他殺の場合は殺すために繩を解く必要はないのですから、残る可能な解釈はただ一つ、何者かが彼女を殺害して、後から自殺と見せかけて置いたという考え方です。これは同類の仕業ではありません。同類なれば既に幾人もの殺人罪を犯しているのですから、今更苦心をして自殺を装わせる必要は少しもないのです。
僕が今度の事件の裏には、何か非常な秘密が伏在しているのではないかと、ふと気附いたのは、実はこの事実からでした。繩を解きながら、しかも自殺していたというこの事実からでした。僕はひどく難解な謎にぶッつかったのです。
先程申上げた仮説は、無論これにも当てはまります。前後の事情は悉くその仮説の犯人を指しているのです。しかし、何かしら一つ足りないものがありました。僕の推理の環に一寸した切れ目が残っていたのです。
それを川手氏が埋めてくれました。川手氏を生埋めにする直前、犯人はまだもう一人復讐しなければならぬ人物が残っていると告白したといいます。それは、川手氏自身は少しも知らなかったのですが、妾腹に出来た妹さんがどこかにいて、犯人はその妾腹の子まで根絶やしにするのだと豪語していたというのです。
皆さん、これを聞いて、僕がどんなにハッとしたかお分りですか。まるで、闇の中に突然太陽の光が射した感じでした。僕の推理の環は完全につながったのです。何もかも白昼のように明かになったのです。
川手氏のお父さんが獄中で病死したのは、川手氏の十歳の時だと云いますから、そのまだ見ぬ妹さんというのは、いくら若くても、川手氏と十以上は違わない訳です。川手氏は今四十七歳だそうですから、妹さんは四十歳近くの年配です。これは北園竜子の年齢とピッタリ一致するではありませんか」
宗像博士はさい前から何かいらだたしそうに頻りに身動きしていたが、明智の言葉がちょっと途切れると、もう堪らなくなったように、いきなり取って着けたような笑い声を立てた。
「ワハハハ……、明智君、夢物語はいい加減にして貰いたいね。黙って聞いていれば、君の空想はどこまで突走るか、分りやしない。だが、いくら何でも、君はまさか、北園竜子がその川手氏の妹だなんて云い出すのではあるまいね」
「ところが僕はそれを云おうとしていたのですよ。北園は犯人ではなくて被害者だったということをね」
明智の調子はいよいよ皮肉になって行くのだ。
「ハハハ……、これはおかしい。君は、犯人でもないものが変装して屋根裏に隠れたり、女の身で、屋根から飛び降りて逃げ出したりするというのかね。それに、何よりの証拠は、北園竜子のあの指紋だ。君は、あの怪指紋のことを、すっかり忘れてしまっているじゃないか」
「イヤ、決して忘れてやしない。北園竜子は怪指紋の持主だったからこそ、本当の犯人でないと考えるのです。宗像君、僕達は常識的な出来事を論じているのではない。常識を超越した恐るべき犯罪者を相手にしているのですよ。僕の想像力なんか、今度の犯人のずば抜けた空想に比べたら、取るにも足らぬものです。アア、何というすばらしい手品だ。僕は犯人のこの空想力を考えると、余りの見事さにうっとりしてしまう程ですよ。
犯人は事件の初めから終りまで、これでもかこれでもかと、実に執拗にあの怪指紋を見せつけましたね。俺はこういう特徴のある指紋を持っているのだぞ、この指紋の持主こそ真犯人だぞと、凡ゆる機会を捉えて広告している。そして、それが同時に川手氏をこの上もなく脅えさせる手段ともなったのですから、犯人の狡智には全く驚く外ありません。
しかし、これは無論逆を考えなくてはならないのです。犯人が広告している事実には、いつもその裏があるのです。あの怪指紋は決して犯人のものではない。イヤ、それどころか、あの指紋は逆に被害者の指についていたのです。
皆さん、犯人の智慧の恐ろしさは、この一事によっても、はっきりと分るではありませんか。三重渦巻の怪指紋は、その紋様が象徴している通り、実に三重の大きな役割を勤めたのです。第一はそのお化けめいた隆線模様によって、被害者を極度に脅えさせ、復讐をいやが上にも効果的ならしめた事、第二は世人にこの怪指紋の持主こそ犯人だという錯覚を与えて、犯人自身の安全に資した事、そして第三は、その怪指紋を当の復讐の相手である川手氏の妹さんの指から盗んで来たこと、つまりそうして最後には殺人罪の嫌疑を悉く被害者自身に転嫁しようと、深くも企らんだ訳です。
犯人はどうかして、当の仇敵である川手氏の妹さんの指に、偶然あの奇妙な指紋のある事を発見したのです。そして、そこからこの復讐事業の筋書が仕組まれたのです。犯人はある手段によって(この手段がまた非常に面白いのですが)川手氏の妹さんに接近しました。恐らくそうして妹さんの指紋を盗み、精巧な写真製版技術によって、怪指紋のゴム印を造ったのだと思います。そのゴム印は絶えず犯人のポケットに忍ばされていました。
皆さん、あれは巧みに出来たゴム印に過ぎなかったのです。それが魔術師の手品の種だったのです。ゴム印なればこそ、あらゆる不可能を超越して、どんな場合にでも、例えば被害者の妙子さんの美しい頬にさえ、混雑にまぎれて、ソッと押しつけることも出来たのです。
しかし、犯人のこの奇妙な手品が、その指紋の持主である川手氏の妹さんには、全く想像も出来ない程のひどい打撃となって帰って行きました。彼女は最初の間は気もつかないでいたかも知れませんが、新聞に殺人鬼の怪指紋として、その拡大写真が掲載されたときには、ハッとばかり、自分自身の指先を見つめないではいられなかったことでしょう。アア、その時の彼女の驚きと恐れがどれ程であったか、想像するさえ身の毛もよだつ程ではありませんか。
彼女はもう絶対に殺人の嫌疑を免れることは出来ないと信じ込んでしまったのに違いありません。そこで、呪わしい指を切断して隅田川に捨てるようなことにもなり、転宅と見せかけて屋根裏に潜み、捜査の手がゆるんでから、どこかへ逃亡しようと企らむにも至ったのです。まるで犯罪者のような奇矯な行動ではありましたが、相談相手とてもない、独り身の女としては、恐ろしさに気も顛倒して、そんな気違いめいた考えになったのも、少しも無理とは思われません。
しかし、彼女はそうして、結局真犯人の思う壺にはまったのです。それ程彼女を苦しめたというだけでも、犯人の目的は半ば達せられたのですが、彼は更にこの哀れな女をあくまで追いつめて、無残にも刺し殺してしまいました。そして、自殺のように見せかけて、何喰わぬ顔をしていたのです。
イヤ、それだけではありません。犯人の悪企みには殆んど奥底がないのです。皆さんは北園竜子の召使の老婆の証言によって、竜子がどこの誰とも知れぬ四十歳余りの男と、ひそかに逢曳を続けていたことを御存知でしょう。僕の仮説は、その相手の男というのが、外ならぬ真犯人自身であったことを教えてくれます。彼はそうして、仇敵の娘を弄び、復讐事業の材料として指紋を盗み、その上に、竜子のアリバイを悉く抹殺することに成功したのです。つまり、今度の事件で数々の殺人罪が犯された当日は、竜子は必ずこの男の為に呼び出され、家を留守にしていたという事実があるのです。
若しアリバイさえ成立すれば、いくら気の弱い竜子でも、まさか指を切るような事はしなかったでしょうが、それが全く見込みがないと分ったものですから、ああいう気違いめいた行動に出たのでしょう。真犯人はあらゆる点にいささかの抜かりもなかったのです」
人々は、今は石のように身動きもせず、ジットリと汗ばむ手を握りしめて、微に入り細を穿って鮮かな、名探偵の推理に聴き入っていた。だが、ただ一人宗像博士だけは、彼の打立てた推理が、見る見る片っ端からくずされて行くのを見て、焦躁の色蔽うべくもなく、顔色さえ青ざめて、追いつめられた獣のように、隙もあらば反撃せんと、血走る目をみはっていた。
「中村君が調べた戸籍簿によりますと、竜子は北園弓子というものの私生児ですが、すると、川手氏のお父さんの妾であった女はこの弓子でなければなりません。僕は川手氏に、北園弓子という名前に記憶はないかと訊ねて見ました。すると、川手氏は、その名をちゃんと記憶していたのです。幼い時分二三度家へ来た事のある知合の美しい女に、確かそういう名前のものがあったという答えでした。最早や何の疑う所もありません。竜子こそ川手氏のお父さんの妾腹の娘だったのです。犯人ではなくて、被害者の一人だったのです」
この時テーブルの一方に、ガタガタという音がしたので、一同その方を眺めると、真青になった宗像博士が、果し合いでもするような顔で突立っていた。立上る時、興奮の余り、つい椅子を倒したのである。
「明智君、実に名論です。しかし、それはあくまで名論であって、事実ではない。論理と空想の外には、現実の証拠というものが一つもないじゃないか。証拠を得ようにも、残念ながら竜子が死んでしまっているので、今更どうすることも出来やしない。
これで君の竜子が犯人でなかったという空想はよく分ったが、それじゃもう一人の犯人、あの眼帯の男の方は一体何者だね。これも犯人ではなくて被害者だったとでもいうのですか」
明智は少しも騒がず、にこやかに答えた。
「一種の被害者です。しかし、川手氏の一族だという意味ではありません。彼はこの事件とは何の関係もない、恐らくは一人のルンペンなのでしょう。
犯人は眼帯の男によく似た大男を探して、甘言を以て眼帯の男の服装を与え、多分は御馳走もしたことでしょう。或は金銭を与えもしたでしょう。そして、閉店間際の百貨店の、人影もない屋上に誘い出し、例の偽の遺書をポケットに突込んで、隙を見て地上へ突き落したのです。これは僕の想像ですが、恐らく間違ってはいないと思います」
明智は強い語調で云って、じっと博士の目の中を見つめたが、博士はややまぶしそうに、その視線を避けながら、しぼり出すように、空ろな笑い声を立てた。
「ハハハ……、またしても想像ですか。僕は君の空想を訊ねているのじゃない。確証のある事実が聞きたいのだ」
「その答は簡単ですよ。僕は真犯人の眼帯の男が、まだ生きてピンピンしていることを、よく知っているからです」
「ナニ、生きている? それじゃ君は、その犯人がどこにいるかも知っているのだね」
「無論知っていますよ」
「では、なぜ捉えないのだ。犯人のありかを知りながら、こんな所で無駄なお喋舌りをしていることはないじゃないか」
「なぜ捉えないというのですか」
「そうだよ」
「それは、もう捉えてしまったからです」
明智の意外な言葉に、一座は俄に色めき立った。刑事部長も、捜査課長も、中村警部も、思わず椅子から腰を浮かして、口々に何か云いながら、明智につめよる気配を見せた。
宗像博士の血走った両眼は、異様にギラギラと輝きはじめた。
「犯人を捉えたって? オイオイ、冗談はよしたまえ。一体いつどこで捉えたというのだ」
「犯人はいつもそこにいたのです」
明智は平然として答えた。
「お化け大会の中でも、川手氏が山梨県の山中に身を隠す途中でも、北園竜子が一命を失った刹那も、犯人は常にそこにいたと同じように、今も犯人はここにいるのです。犯人は全く気附かれぬ保護色に包まれて、我々の目の前に隠れているのです」
それを聞くと、刑事部長はもう打捨てては置けぬという面持で、鋭く質問した。
「明智君、君は何を云っているのです。ここには我々五人の外に誰もいないじゃありませんか。それとも、我々の中に犯人がいるとでもいうのですか」
「そうです。我々の中に犯人がいるのです」
「エ、エ、それは一体誰です」
「この事件での数々の不可能事が起った時、いつもその現場に居合わせた人物です。被害者川手氏を除くと、そういう条件にあてはまる人物は、たった一人しかありません。……それは宗像隆一郎氏です」
明智は別に語調を強めるでもなく、ゆっくり云いながら、静かに宗像博士の顔を指さすのであった。
「ワハハハ……、これはおかしい。こいつは傑作だ。明智君、君は探偵小説を読み過ぎたんだよ。小説家の幻想に慣れすぎたんだよ。如何にも探偵小説にありそうな結論だね。ワハハハ……、実に傑作だ。こいつは愉快だ。ワハハハ……」
宗像博士は腹を抱えんばかりに笑いつづけたが、悲しいかな、その笑い声の終りは、泣いているのかと疑われる程、弱々しい音調に変って行った。
「宗像さん、明智君は冗談を云っているのではないようです。今までの明智君の推理を聞いていますと、我々としても、何となくあなたがその手品遣いの本人ではなかったかと考えないではいられません。あなたはこの際、是非弁明をなさる必要があります」
刑事部長が宗像博士をキッと見つめながら、厳然たる警察官の口調で云った。
「弁明せよとおっしゃるのですか。ハハハ……、夢物語を真面目に反駁せよとおっしゃるのですか。僕はそういう大人げない真似は不得手ですが、強いてとおっしゃるならば申しましょう。……確証がほしいのです。明智君、確かな証拠を見せて貰おう。君もこれ程僕を侮辱したからには、まさか証拠がない筈はなかろう。それを見せたまえ、サア、それを見せたまえ」
「証拠ですか。よろしい、今お目にかけましょう」
明智はチョッキのポケットから時計を出して、眺めながら、
「話に夢中になっている間に、もう一時間半もたっています。宗像君、君が電話をかける為にこの部屋を出てから、もう一時間半もたってしまったのですよ。ハハハ……、一時間半の間には、随分色々なことが起っているかも知れませんね。……オオ、ボーイがやって来た。手に紙片を持っている。多分僕の所へ来たのでしょう。証拠が車に乗って駈けつけて来たのかも知れませんよ」
明智は冗談のように笑いながら、その白服のボーイの手から小さな紙片を受取って、そこに書いてある鉛筆の文字を読み下した。
「やっぱりそうでした。丁度うまい所へ証拠がやって来たのです。ではすぐここへ通してくれ給え」
ボーイが立去ると間もなく、明智の言葉の意味を解し兼ねて、不審げに入口を見つめる人々の視線の中へ、先ず現われたのは明智の助手の小林少年であった。詰襟金釦の服を着て、林檎のような可愛い頬に、利口そうな目を輝かせながら、人々に一礼すると、ツカツカと明智の側に進みより、何か二言三言ささやいたが、明智の肯くのを見ると、入口に向って「お入り」と声をかけた。
すると、ドヤドヤと足音がして、二人の屈強な青年に、両方から抱えられるようにして、後手に縛られた小柄な真黒な人の姿が、部屋の中によろめき込んで来た。
それを一目見るや、宗像博士はギョッとしたように立上り、キョロキョロとあたりを見廻していたが、何を思ったのか、いきなり表の道路に面する窓の方へ走り寄った。
「宗像君、その窓を開けて、下を覗いてごらん。中村君の部下の私服刑事が十人ばかり、今にも君がそこから飛降りるかと、手ぐすね引いて待ち構えているんだよ」
刑事部長も捜査課長も知らなかったけれども、中村警部は明智の依頼によって、予め部下のものを、このレストラントの周囲に張りこませて置いたのである。
博士はそれと聞くと、素早く窓の下を一瞥して、明智の言葉が嘘でないことを確かめたが、何かきまり悪げに、しかし、なおも虚勢をはりながらノロノロと元の席に戻るのであった。
「皆さん、御紹介します。この黒い覆面の人物は、世間体は宗像君の奥さん。その実は宗像君の血を分けた妹さんです。宗像君の本名は、もう御想像になったでしょうが、山本始と云い、この妹さんは山本京子というのです。偽物の山本始と京子は殺されてしまいましたが、本物はこうしてちゃんと生きていたのです。
僕はさっき申上げた仮説を組み立ててから、それを確めるために宗像君の自宅に捜査の手を入れました。そして、宗像君の夫人が、極度の人嫌いで、事務所の助手達にも一度も顔を見せたことがないというのを知って、いよいよ僕の仮説が間違っていないという自信を得たのです。そして、この夫人にはそれ以来絶えず見張りの者をつけて置きました。
宗像君は、さい前僕が川手氏を匿っているということを話した直後、口実を設けて電話室へ行き、どこかへ電話をかけましたが、それはこの妹の京子を呼び出して、邪魔の入らぬうちに一刻も早く仕損じた敵討ちを完成するように云いつけたのです。つまり、僕の留守の間に、即刻僕の家へ忍び込んで川手氏を殺害することを命じたのです。宗像君、僕の推察が間違っていますか。ハハハ……、僕は君の心の奥底までも見通しているのですよ。
ところが、そうしてこの女が僕の家へ忍び込んでくれるのを、僕は待っていたのです。その為に態と川手氏が僕の家に寝ていることを、ハッキリ口外したのです。それを聞いて宗像君が顔色を変え、電話室へ行った時には、実を云うと僕は心の中でしめたと叫んだくらいですよ。
では山本京子の素顔をお見せしましょう」
明智は云いながらツカツカと黒衣の人物の前に進んで、いきなり覆面の黒布をかなぐり捨てた。するとその下から、極度の激情に紙のように青ざめ、細い目のつり上った、四十女の痩せた顔が現われた。
「サア、小林君、この女が僕の家で何をしようとしたのか、君から簡単に皆さんに御報告するがいい」
云われて小林少年は一歩前に進み、ハッキリした口調で、ごく手短に事の次第を語った。
「先生の命令によって、僕達三人は、川手さんの泊っていらっしゃる寝室の中に、待ち伏せしていたのです。
天井の電燈は消して、スタンドだけの薄暗い光にして置いたのですが、その光の中で、川手さんは何も知らず眠っていました。僕達はてんでに物蔭に身を隠して、じっと待っていたのです。
すると、今から三十分程前、庭に面したガラス窓が(それは態と掛金をはずして置いたのですが)ソーッと音もなく開いて、そこからこの黒覆面の人が忍び込んで来ました。
息を殺して見ていますと、この人は寝台に寝ている川手さんの顔を、確めるように眺めていましたが、どこからか西洋の短剣を取出して、それを右手に握り、川手さんの上にのしかかるようにして、その胸を目がけて、いきなり刺し通そうと身構えました。
僕達三人は、それを見て、隠れ場所から鉄砲玉のように飛び出して行きました。そして、三方からこの人に組みついて、何の苦もなく取りおさえてしまったのです。
川手さんは物音に驚いて目を覚ましましたが、かすり傷一つ受けてはいませんでした」
小林少年が報告を終るのを待って、明智はとどめを刺すようにつけ加えた。
「宗像君、僕の証拠がどんなものであったか、これで君にもハッキリ分っただろうね。だが、この君の妹さんは、僕の予想がうまく的中して、幸いに捉えることが出来たが、僕の握っていた証拠はこれだけではないのだ。君は気附いていないかも知れぬが、北園竜子に雇われていたお里という婆やが、竜子の恋人に化けた君の素顔を、よく見覚えているのだよ。
小林君、あの婆やも連れて来たのだろうね」
「エエ、廊下に待たせてあります」
「じゃ、ここへ呼んで来たまえ」
やがて、小林少年につれられて、お里婆やがオズオズと入って来た。
「お里さん、君はこの人に見覚えがないかね」
明智が指さす宗像博士の顔を、老婆はつくづく眺めていたが、一向記憶がないらしく、かぶりを振って、
「イイエ、少しも存じませんですが……」
と恭しく答えた。
「アア、そうだった。君が知っているのはこの顔ではなかったね。宗像君、この婆やの為に、面倒だけれど、一つそのつけひげと眼鏡を取ってやってくれたまえ。イヤ、とぼけたって駄目だよ。僕は何もかも知っているのだ。
君は川手氏と一緒に山梨県の山中へ行く途中で、変装をする為に、その三角ひげを取って見せたっていうじゃないか。いずれは殺してしまう川手氏のことだからと、つい油断をしたのだろうが、その川手氏が生返って見れば、あれは君の大失策だったよ。川手氏の外には、君のその精巧なつけひげの秘密を知っているものは、一人もないのだからね。
ハハハ……、宗像君、今更ら躊躇するのは未練というものだよ。それじゃ、一つ僕がそのつけ髯をはがして上げるか」
明智は云いながら、素早く宗像博士の前に近より、いきなり猿臂を延ばして眼鏡を叩き落し、口鬚と顎髯とをむしり取ってしまった。するとその下から、今までのしかつめらしい博士とは似てもつかぬ、のっぺりとした無髯の悪相が現れて来た。
「オオ、そのお方なら存じて居ります。おなくなりになった御主人様の所へよく訪ねていらしった方でございます。お名前は存じませんが、御主人様と二人づれで、時々どこかへお出かけになった方でございますよ」
お里婆さんが、やっきとなって喋べり立てる。
「つまり、いつか君が云っていた、北園竜子の情夫というのが、この男なんだね」
中村警部が横合から質問すると、老婆は肯いて、
「エエ、マアそういう御関係のお方と、お察し申していたのでございますよ」
と答えながら、口に手を当てて、羞にかみ笑いを隠すような仕草をした。
「宗像君、これでも君はまだ弁明をする勇気があるかね。若しこの二人の証人で足りなければ、僕の方には外にも証人があるんだよ。例えば山梨県の例の一軒家の留守番をしていた老夫婦だ。川手氏の話で、あの老婆の方が君達兄妹の昔の乳母だったことも分っている。その老夫婦は僕の部下が今捜索しているのだが、所在をつきとめて裁判所に引渡す日も遠くはあるまい。
それから、君が川手氏に地下室でお芝居を見せた時の役者連中だ。この方にも、もう捜索の手が伸びている。君は一人も証人などはあるまいと安心していたようだが、川手氏が生返ったばかりに、こういう証人があり余る程出て来たのだ。
宗像君、君がいくら魔法使いでも、もう逃れる道はない。見苦しい真似はしないでくれたまえ。僕は君の犯罪者としての才能と狡智には驚嘆に近い感じを持っている。僕がこれまで取扱った犯罪者には、君程の天才は一人もなかったと云ってもいい。
復讐事業の為に、先ず民間探偵に化けて、様々の事件で手柄を立てて見せた遠大の計画といい、怪指紋を巧みに利用して、被害者を逆に犯人と見せかけた着想といい、イヤ、そればかりではない、犯人からの脅迫状を、塵芥箱の中や、当の被害者のポケットに入れて置いて、さも不思議そうに驚いてみせたり、怪指紋のゴム印を、色々な器物や人間の頬にまで捺して、自分自身で捺した指紋を怪しんで見せたり、たとえ正体を見破られた苦しまぎれとはいえ、助手を二人まで我が手にかけて、嫌疑の転嫁を計ったり、その機敏と大胆不敵には、流石の僕も舌を捲かないではいられなかった。
君の五つの殺人のうちで、最も手の込んでいたのは、妙子さんの場合だが、あの記録を読んだ時にも、僕は君のすさまじい虚栄心に目を見はった。ただ予告の殺人を成しとげたいばっかりに、君は実に手数のかかるトリックを考え出している。
あんなにまで苦労しなくても、予告をやめて、不意を襲いさえすれば、易々と目的を達することが出来るのに、態々そのたやすい道を避けて、不可能に近い困難な方法を選んでいる。
君はその為に、クッションの下に空洞のある特別のベッドを、非常な苦心をして、予め妙子さんの寝室に持込まなければならなかった。しかし、それは人目を欺く手品の種、犯人も被害者も決してその空洞の中に隠れていたのじゃない。あの夜、廊下の見張り番を勤めていた君は、探偵という保護色によって、誰に疑われることもなく、妙子さんの寝室に忍び込み、そこにいた川手氏を縛り上げ、妙子さんを絞め殺して、その死体をすぐ表庭に運んで、塵芥箱の底へ隠して置いたのだ。
それから夜が明けて、邸内の大捜索が始まってから、君は捜索に参加しているように見せかけて、その実は、コッソリ邸を抜け出し、眼帯の男に化けて、京子と一緒に塵芥車を挽き込んで、死体運び出しの大芝居を演じたという訳だ。
態々註文して作らせた、仕掛けのあるあのベッドは、ただ見せかけの手品の種で、犯罪には全く使用されなかったという点を、僕は非常に面白く思った。気違いでなくては考えつけないような、ずば抜けた着想だ。ただ殺人を見せびらかすという、『殺人芸人』のみのよくするところだ。
お化け大会の中では、君は黒い衣裳と黒覆面を、予めどこかへ隠して置いて、探偵と犯人との一人二役を演じて見せた。君の賢い助手は、犯人が宗像博士と知らないで、巧みな手段によって、見事に黒衣の人物を捕えたが、そうして君の素顔を一目見たばっかりに、その場で撃ち殺されてしまった。
鏡の部屋では、扉の隙間からピストルの筒口を覗かせて置いて、人々の躊躇する間に、洋服の上に着ていた黒衣を手早く脱ぎ捨て、元の宗像博士の姿になって追手の前に立ち現われたのだ。つまり君はいつも人々の目の前にいたのだ。しかし、名探偵その人が稀代の殺人犯人だなんて誰が想像し得ただろう。君は実に驚くべき保護色に包まれて、易々と世人をあざむきおおせたのだ。
それ程の悪智慧を犯罪捜査に使ったのだから、君が名探偵と謳われたのも無理ではない。犯罪者でなくては、犯罪者の心は分らないのだからね。盗賊上りのヴィドックが稀代の名探偵となり上ったのも、君の場合と全く同じだったといっていいのだ」
明智は思わず犯人を讃美するかの如き口吻を漏らしたが、そこで何に気附いたのか、ふと言葉をとめて、鋭く宗像博士を睨みつけた。
眼鏡と髯のなくなった宗像博士は、狂えるけだものの相好を呈していた。彼は今こそ彼等兄妹の運の尽きであることを、はっきり悟ったのだ。如何なる魔術師も、この重囲の中を逃げ出す工夫は全くなかった。ただ追いつめられた野獣の最後の一戦を試みるばかりだ。
彼は部屋の隅に突立ったまま、腰のポケットから一挺の小型ピストルを取出して、先ず仇敵明智の胸に狙いを定めた。
「明智君、問答無用だ。俺は負けたのだ。俺の犯罪力は君の探偵力に及ばなかったのだ。しかし、このままおめおめと捉えられる俺ではないぞ。君を道連れにするのだ。俺の罪をあばいてくれた君の胸板に、この鉛玉を進上するのだ。覚悟するがいい」
宗像博士の山本始はピストルの引金に指をかけて、じっと狙いを定めた。そして、彼の気違いめいた目が、糸のように細められたかと思うと、その指にグッと力が入った。
人々はハッと息を呑んだ。ピストルは発射されたのだ。しかも銃口は、一直線に明智の心臓部を指していた。この近距離で玉のそれる気遣いはない。では、明智はもろくも撃ち倒されたのか?
だが、不思議なことに、明智は何の異状もなく、元の場所に突立ったまま、ニコニコと笑っていた。
「ハハハ……、そのピストルからは、鉛の玉は飛び出さないようだね。どうしたんだね。サア、もう一度やって見給え」
山本始は、それを聞くと、あせってまた狙いを定め、引金を引いた。しかし、今度も弾丸は飛び出さないのだ。
「ハハハ……、よし給え、いくらやったって、引金の音がするばかりだ。君は今夜はひどく興奮していたので、僕の小手先の早業に気づかなかったのだよ。そのピストルの弾丸は、さい前僕がすっかり抜いて置いたのだ。見給え、これだ」
明智はそう云って、ポケットから取出した幾つかのピストルの弾丸を手の平の上で、コロコロと転がして見せた。兇悪な犯人を捉える際には、常に用いる彼の常套手段である。
「兄さん、いよいよ最期です。早く、あれを、あれを……」
突如として劈くような金切声が響き渡ったかと思うと、黒衣の京子が、二青年の手を振り払い、後手に縛られたまま、髪振り乱して、兄の側へ駈け寄った。
兄はその華奢な妹の身体を抱きしめて、
「よしッ、それじゃ今から、お父さんお母さんのお側へ行こう。そして俺達が復讐の為にどんなに骨折ったかを御報告しよう。サア、京子、今が最期だよ」
その言葉が終るか終らぬに、妹の色を失った唇から「ウーム」という細い鋭いうめき声が漏れて、彼女はクナクナと床の上にくずおれてしまった。
兄はうめき声さえ立てなかった。ただ青ざめた顔に、見る見る玉の汗を浮べて、苦痛を堪える様子であったが、遂にその力も尽きたのか、彼の大きな身体は、妹をかばうように、折重なってその上に倒れ、兄も妹もそのまま動かなくなってしまった。
人々は何が何やら訳が分らず、あっけにとられて、ただこの有様を眺めるばかりであった。
やがて、明智小五郎が、何に気附いたのか、二人の死体の側に身をかがめ、その唇を開いて、口中を調べていたが、しきりと肯きながら立上ると、低い声で呟いた。
「アア、何という用心深い悪魔だ。二人とも奥歯に金の義歯を篏めていたのですよ。その義歯の中が虚ろになっていて、強い毒薬が仕込んであったのでしょう。いざという場合には、たとえ手足を縛られていても、その義歯の仕掛けを噛み破って、中の粉薬を飲み込みさえすればよかったのです。
皆さん、悪魔の狡智は、考え得るあらゆる場合を計算に入れていました。そして、今その最悪の場合に際会したのです。
それにしても、何という執念だったでしょう。この兄妹の心理は常識では全く判断が出来ません。恐らく幼時の類例のない印象が、二人の魂に固着したのです。残虐な殺人現場で、両親の流した血の海を這い廻った、あの記憶が彼等を悪魔にしたのです。
仇敵の子孫を根絶やしにする為に、生涯を捧げるなどという心理は、寧ろ精神病理学の領分に属するもので、我々には全く理解し難い所です。
この二人は気違いでした。しかし、復讐という固着観念の遂行の為には、天才のように聡明な気違いでした」
いつもにこやかな名探偵の顔から、微笑の影が全く消え失せていた。そして、その青白い額に、これまで誰も見たことのないような、悲痛な皺が刻まれていたのである。
底本:「江戸川乱歩全集 第12巻 悪魔の紋章」光文社文庫、光文社
2003(平成15)年12月20日初版1刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩選集 第二巻」新潮社
1938(昭和13)年10月
底本の親本:「日の出」新潮社
1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:北川松生
2017年1月12日作成
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