銭形平次捕物控
復讐鬼の姿
野村胡堂



本篇は、銭形平次がまだ独身で活躍している頃の話です。



「た、助けてくれ」

 若党の勇吉ゆうきちは、玄関の敷台へ駆け込んで眼を廻してしまいました。

 八丁堀の与力よりき笹野新三郎の役宅、主人の新三郎はその日、鈴ヶ森の磔刑はりつけに立ち会って、跡始末が遅れたものか、まだ帰らず、妻のおくには二三人の召使を供につれて、両国の川開きを見物かたがた、浜町の里方に招かれて、これもまだ帰らなかったのです。

 留守宅は用人の小田島伝蔵おだじまでんぞう老人と、近頃両国の水茶屋を引いて、行儀見習のために来ている、銭形平次の許嫁いいなずけお静。それに主人新三郎の遠縁に当る美しい中年増のおきち、外に下女やら庭掃きやら、ほんの五六人が鳴りを鎮めて、主人夫婦の帰りを待っておりました。

 そこへこの騒ぎです。

「それッ」

 と飛出してみると、玄関にへた張った勇吉の背中には、主人新三郎の一粒種、とって五つの新太郎しんたろうが、これも眼を廻したままおんぶしておりました。

「あッ、若様が」

「どうしたことだろう」

 身分柄、贅沢ぜいたく羅物うすものを着せた、男人形のように可愛らしい新太郎を抱き取って、医者よ、薬よという騒ぎ。幸い間もなく正気付きましたが、余程ひどくおびえたものと見えて、すすり泣いたりふるえたりするばかりで、容易に口も利けません。

 若党の勇吉は眼を廻したまましばらく玄関の板敷にっておかれましたが、御方便なもので、これは独りで正気に還りました。さすがに面目ないと思ったものか、コソコソ逃げ出そうとすると、

「これこれ勇吉」

 小田島老人が後ろから呼止めます。

「ヘエ、ヘエ」

「一体これは何というざまだ。大事な若様を預かりながら、腰を抜かしたり、眼を廻したりする奴があるかッ」

「ヘエ──」

「第一、何でお前だけ先に帰って来たのだ。奥様方はどうなすった。判然はっきり言えッ」

 昔気質むかしかたぎで、容赦ようしゃがありません。

「ヘエ──」

 勇吉というのは、二十五六のい若い者、見たところは、充分賢そうでも、強そうでもあるのですが、何の因果か生れ付きの臆病者で、──「腰抜けのくせに勇吉とはこれ如何いかに?」──などと、のべつに朋輩衆から揶揄からかわれている厄介者だったのです。

「頭を掻いて済むどころではない。何が一体お前を取って食おうとしたんだ、言わないか」

「ヘエ──、どうも相済みません。両国の人混みの中で、奥様やお女中方を見失ってしまいましたが、どうせお帰り支度のようでしたから、浜町へ一言お断りして、若様をおんぶしてやって来ると──」

「──フム」

「どうも──、人間が皆んな両国に集まってしまったせいか、今晩の江戸の淋しさというものはありませんでしたよ」

「馬鹿野郎」

「どこへ行ったって人っ子一人居やしません。背中の若様といろいろお話をしながらやって来ると、人形町の往来で、いきなり前に立ちはだかった者があるじゃありませんか。何だろうと思って、ヒョイと見ると、ブル、ブル、ブル」

しっかりしろ、なんて間抜けな声を出すんだ。好い若い者の癖に」

「それがその、一件なんで」

「何だ、一件というのは」

磔柱はりつけばしら背負しょった、血だらけな男で──」

「えッ」

「今日鈴ヶ森で処刑おしおきになった、おしゅ殺しの何とかいう野郎ですよ」

「そんな馬鹿な事があるものか」

「馬鹿だか馬鹿でねえか、若様に聞いてみりゃア判ります。──ハッと思って駆け抜けると、そいつがまた執念深く追っかけて来るじゃありませんか。人形町から八丁堀まで駆け通し、お屋敷の玄関へ着くと気がゆるんでブッ倒れてしまいましたが、まだ門のあたりに磔柱を背負った血だらけな奴が居やしませんか、そっと覗いてみて下さい」

 歯の根も合わないような恐怖のうちに、これだけ話の筋を通すのは、勇吉にしては全く手一杯の努力でした。

「そんなものが居てたまるか、馬鹿野郎。確りしろ、みんなお前の臆病がさせたことだ」

 小田島老人はまるで相手にしません。

「そう言ったって、途中でブッ倒れずに、ここまで辿たどりついたんだから、少しは褒めてやって下さいよ。背中に大事なお主がいらっしゃると思って、一生懸命気を張り詰めたんだ。ね、そうじゃありませんか」

「目の廻しようを自慢するんじゃあるまいネ、あきれた野郎だ。このうえ若様の御容体が悪かったら勘弁しないぞ」

「ヘエ──」

 この騒ぎの中へ、主人笹野新三郎と、妻のお国は相前後して帰って来ました。



 与力笹野新三郎一家に対する不思議なたたりは、これをキッカケに、執念深く繰り返されました。

 せがれの新太郎があの晩から虫を起して、夜もおちおち眠れない有様。若い母親のお国の心労は一と通りではありません。

 その晩もようやく新太郎を寝かし付けて、さて雨戸を締めようとすると夜更けまで開けておいた窓の障子へ、遅い月に照されて、ハッキリ映っているものがあります。

 ハッと思って見直すと、紛れもない人間の生首。

「あっ」

 お国は思わず声を立てました。

 しかし、さすがは武家の女房で、生れ落ちるからたしなみを教わっておりますから、そのうえ騒ぎ出すようなことはしません。

 そっと床を脱け出して、隣のへやに寝ている夫新三郎を揺り起しながら、

「旦那様、旦那様、ちょっと、お目に掛けたいものがございます」

 とささやきます。

「何だ、泥棒でも入ったというのか」

 一刀をひっさげて、寝巻のままでやって来た新三郎。お国の指さす方を見て、これも思わずギョッとしました。

 遅い月が一杯に射した窓格子まどごうしに、生首が一つ、もとどりを格子に絡んだまま、ブラ下げてあったのです。

「フーム」

 新三郎は一度はうなって躊躇ためらいましたが、次の瞬間には、障子に手を掛けるとサッと引開けました。

 水のごとく流れ入る月影。

 その青白い光を半面に受けて、窓格子にくくり付けられているのは、血だらけの中年男の生首、カッと眼を見開いて、白い歯に下唇を噛んだ、うらみの物凄い形相は、二た眼と見られません。

「あッ」

 お国は気が遠くなったようにそこへ崩折くずおれると、何に驚いたか寝付いたばかりの新太郎は、火の付くように泣き出しました。

 笹野新三郎の記憶にはこの首の相好そうごうが焼き付くように、まざまざと残っております。忘れもしないそれは、今日鈴ヶ森の処刑場おしおきばで打ち落した首の一つ、死に際まで生の執着にもがき抜いて、一番醜い、一番物凄い最期を遂げた、贋金にせがね使いの男の首だったのです。

 それから引続いて起った不祥事は、不思議なことに、なんか、お仕置のある日に限られておりました。ちょうど吟味与力笹野新三郎を忌避して、無実の罪を訴えでもするように、生首と死体とが実に頑固な威嚇いかくをくり返しました。

 いろいろ人手を殖やして、締りや夜廻りを厳重にしましたが、結局は何のしるしもありません。家の中へ入れないと見ると、処刑場から盗んで来た不浄のものを、塀の外から庭へ投込んで、スタコラ逃げ出してしまうのです。

「旦那様、何とか遊ばして下さいまし。このままほうっておおきになると、相手は増長して、何をやりだすか判りません」

 お国は時折そんな事を言って、夫新三郎の決意を促しますが、新三郎にはどんな考えがあるか、それを取上げようともせず、言葉少なにうなずく日が多くなるばかりでした。



 思案に余ったお国は、夫新三郎の留守の時、そっと石原いしはら利助りすけを呼んで、相談してみる気になりました。

 お国は二十六の女房盛り、美しさも賢さも不足はなかったのですが、倅新太郎の容体がはかばかしくないのに、後から後から不気味な事ばかり続いては、ツイ我慢がしきれなくなってしまったのです。

「利助、こういうわけだ。役目柄、こんな事が世間に知れてはまずいが、何とかなるものなら、一と骨折ってはくれまいか」

 と言うと、

「よく判りました、奥様。何の、たかが虚仮脅こけおどかしの化物ごっこぐらい、口幅ったいことを申すようで恐れ入りますが、この利助の黒い眼でにらめば、一と縮みでございましょう」

 利助は大呑込みで、少し光沢つやのよくなった中額をツルリとで上げます。銭形の平次と同じように、笹野新三郎には恩顧を受けている御用聞ですが、近頃は若い平次の評判が馬鹿に良いので、少しはムシャクシャしているところへ、お国がこんな相談を持ちかけたので、渡りに船の心持で乗り出してしまったのでした。

「これはやはり、内に手引するものがありましょう。外からだけでは、そんな器用なカラクリは出来るものじゃございません。ただ今お屋敷に居る人別を片っ端からおっしゃって下さいまし」

「主人と私と坊やの外には、身内の者というと、主人の遠縁で、お吉さんというのが居るよ。年は私と同じ二十六で、そりゃア美しい人だが、お前は逢ったことがなかったかねエ」

「いえ、存じております。元なんでも旦那様のところへお嫁にいらっしゃるようなお話のあったのが、御両親がお亡くなりになって、そのまま縁談は流れ、それっきりお宅の掛人かかりうどになった方でございましょう」

「よくお前、そんな事まで」

「へッ、へッ、商売商売で、そんな事に抜け目はございません」

「気味が悪いねえ」

「疑えばまずその方が疑えるわけでございますね。旦那様にも奥様にも、そう言っちゃ何ですが、怨みがましい心持を持つとすれば、このお屋敷の中では、その方が一番強いわけで──」

「そうねえ、そう言えば言えないこともないけれど、お吉さんはそりゃいい方なんだよ」

「大それた事をする人間は、思いのほか人触りのいいものでございます。それから外には」

「あとは奉公人ばかし。まず用人の小田島さんに」

「あの方は化物とは縁がございません」

「若党の勇吉──」

「あの臆病者の!」

「それに、平次の許嫁いいなずけのお静」

「フーム」

 お国は片っ端から雇人を数え上げましたが、石原の利助の興味をひいたのは、お吉一人だけ。

「そのお吉さんを呼んで頂けませんでしょうか」

「そんな事をしたら、一ぺんに主人へ知れてしまいます」

「構やしません。今のうちに睨みを利かしておかないと、増長してどんな事をするか解りゃしません。それに旦那様は下総しもうさの御領地の方へお出かけだそうじゃございませんか」

「知行所の世話番の方が御病気で、その代理にいらしったから、四五日はお帰りがないだろうよ」

「ちょうどいい塩梅あんばいじゃございませんか。鬼の留守と言っちゃなんですが、その間にほこりの出るものなら、引っぱたいてみましょう」

 事ごとに若い平次にしてやられて、少し功を急ぐ心持のある利助と、賢いようでも、夫新三郎と縁談のうわさまであったお吉に対して、日頃妙に嫉妬しっとを感じているお国とが、とうとう大変なところで意見が投合してしまったのです。



 こう屋敷中で見張っているところへ、新太郎の膳のお菜の中へ、石見銀山いわみぎんざん鼠捕ねずみとりを入れたものがありました。幸い子供心にも、匂いを嫌って食わなかったから助かったものの、そうでもなければ、一とたまりもなくやられてしまったところでしょう。

 お国はツイかっとしてしまって、石原の利助を呼寄せ、二人相談の上、主人新三郎は留守ですが、とりあえずお吉を一と間に閉じめ、利助は丁寧な口調ながら、水も漏らさぬ調子で一と責め責めてみました。

「ね、お吉さん、こんな事を言いたくないが、細工が器用すぎて、お前さんのような方でなきゃア、出来ない芸当だ。旦那様や奥様を怨むのももっともだが、何にも知らない若様を脅かしたり、石見銀山で命までろうとするのはヒドかろう」

「あれ、お前は何を言うのだい。本当に呆れて物が言えない」

「白ばっくれちゃいけねえ、ここで口を開かなきゃア、お白洲しらすの砂利をつかませるばかりだ。穏便に願って身を退く方が、お前さんのためじゃないかね」

「まア、何という事だろう。この間っからの不気味な悪戯わるさが私の仕業だとでも言うのかい」

 今では掛人かかりうどで、奉公人も同様ですが、もともと育ちのいいお吉は、老獪ろうかいな岡っ引に絡んで来られると、口もろくに利けません。おろおろしながらこんな事を言うのがせいぜい、利助の張り渡したわなに掛って、やがてはどんなことになるか判らない有様です。

「お前さんは、旦那様と奥様の仲の好いのを好い心持で眺めているわけじゃあるまい」

「そりゃア私だって人間だもの、でも──今では何もかもあきらめているんだから、お主だと思ってお勤めしているよ」

「うまく言うぜ、そんな甘い口に乗るものか。とにかく、お前さんを放し飼いにしておいちゃ物騒でかなわねえ。窮屈でも旦那様のお帰りまで、ここで我慢をして貰おうか。もっとも、その間俺がとぎをしてやるから、淋しがらせるような事はねえ」

 とうとうお吉を納戸にほうり込んで、利助がの目たかの目で見張ることになってしまいました。

 驚いたのは、お吉と一番仲よくしていたお静です。

 平常ふだんから心掛けの良い、少し気の弱いお吉が、どんなに嫉妬に眼がくらんだにしても、そんな大それた事を仕出かそうとは思われません。一と言お吉のために──と思わないではありませんが、奉公人の悲しさで、奥様へツケツケと意見がましい事が言える身分でもなく、それに、お吉を封じ込んだ納戸の前には、少しばかり職業的な物凄さを持った、老獪無比の岡っ引が、鼠一匹もただでは通さじと見張っているのです。

 思案にくれているところへフラリとやって来たのは、お静とは許嫁の仲の、銭形平次です。

 新三郎はまだ下総から帰って来ないので、用事は足りませんが、奥へちょっと挨拶をして、何の気もなくお勝手へ下がろうとすると、日頃仲のよくない石原の利助が、閉め切った納戸の前に座蒲団ざぶとんを敷いて、少し脂下やにさがりに安煙草の輪を吹いております。

「お、石原の兄哥あにき。どうしたい」

「銭形のか、久し振りだったな」

「掛け違って久しく逢わねえが、そこで何をしているんだ」

「なアに、何でもねえよ」

「…………」

 少し妙な調子──、頭の早い平次は、仔細ありと見てとって、そのうえ追及をせずに、天気の挨拶かなんかをして引下がってしまいました。

 お勝手口から、八丁堀の往来へ出ると、

「ちょいと、親分、待って下さいな」

 少し息を切って追って来たのは、先刻さっきお勝手でチラリと顔だけ見せたお静です。

「何だ、おしい坊か。親分てえ奴があるかい」

「だって、私には何と呼んでいいかわからない」

「まアいいやな。まさかこちの人とも言えまいから、何とでも言っておくがいいやな」

「あら」

「ところで用件は何だ。美しいところを見せようて寸法ばかりじゃあるまいね。大方納戸の前に頑張っている石原の一件だろう」

「え、そうよ、大変な事が始まったんです。お吉さんが可哀想で、可哀想で」

「何をいきなり涙ぐみやがるんだ。順序を立てて話してみるがいい」

 捕物の名人銭形の平次と一時両国で鳴らした美しいお静とは、人目と陽射しを避けて、街の片蔭へ入りました。



 それから銭形の平次は、お静としめし合せて、死物狂いの活動を始めました。まかり間違えば、一方ならぬ恩顧を蒙った笹野一家に、拭うことの出来ない瑕瑾きずの付く事件ですから、主人新三郎の帰りを便々として待っているわけには行きません。

 石原の利助はすっかりお吉を張本人と決めてしまって、屋敷の外から呼応した、相棒の名を言わせようと、手を替え、品を替え責め立てますが、お吉は執拗に口をつぐんで、悲しくも眼を伏せるばかり。まさか拷問ごうもんにかけるわけにも行かず、二三日の後には、石原の利助も少し持て余し気味になりました。

 一方、その間に平次は、第一番に奉公人の身許を洗ってみました。小田島伝蔵老人の三十何年を始め大抵は五年十年と勤めた者ばかり、一番短いので一年以上ですから、主人を怨む者があろうとも思われません。

 お仕置のあるたびに、何か嫌がらせな悪戯わるさをした事を思い付いて、この三年の間に、笹野新三郎の手掛けた事件で、無理な罪に落された者はないかと、いろいろ調べてみましたが、笹野新三郎は近頃の名与力で、辛辣しんらつな加役などからは、手緩てぬるいと評判を取っている人物、人に怨まれる筋などがあろうとも思われません。

 平次の調べは遅々たるうちに、またもう一つ大変な事が起ってしまいました。

 それは、近頃はすっかり丈夫になってお静と一緒に庭や門の外まで遊びに出ていた新太郎が、水天宮様の縁日へ行ってみたいと言い出したのです。

 お国も思案に余って利助に相談すると、新太郎へ祟ったお吉はこの通り取っちめているから、大概大丈夫だろうという話。子供には甘すぎるお国は、それでもと留めるほどの母親ではありません。

 念のため、お静の外に勇吉を付けてやりましたが、それから二たときあまり、日が暮れそうになって、勇吉がたった一人、

「若様とお静さんはまだ帰りませんか」

 フラリと、気楽な顔をして戻って来ました。

「坊やとお静が、どうしたと言うのだい」

 お国も驚いて飛んで出ました。

「お静さんが知ってる人に逢って、境内の水茶屋に入りましたが、いつまで経っても出て来ません。どうかしたら裏から帰ったのじゃないかしらと思って戻って参りましたよ」

 という気のない話です。

「それッ」

 と手分けをして、八方を探しましたが、どこへ行ったか、新太郎とお静の行方ゆくえはさらにわかりません。

 水茶屋で聞くと、混んでいる最中で、気が付かなかったと言い、お静の里やら平次の留守宅やら、心当りへ全部人を出しましたが、どこへも行った様子はなく、二人の姿は、水天宮様の境内から、煙のように消えてしまったのではないかと思うような、見事な失踪しっそうぶりです。

 お国は気も顛倒てんとうして、

「坊やを探しました者には、望み次第の褒美をやる」

 と言いますが、これだけに手際よく誘拐かどわかされては、手の付けようがありません。

 その騒ぎの中へ、一人の女中が変なものを持って来ました。

「ただいま、お勝手口へこんなものをほうり込んで行った者がございます」

 と差出したのは、急拵きゅうごしらえらしい結び文。

「どれどれ」

 利助が受取って中を開くと、まずい仮名文字でたった三行みくだりばかり。

 ──新太郎を殺したくなかったら、お吉をゆるせ。その女に罪はないぞ──

 と書いてあります。

「畜生ッ、人をめた事をしやがる。外に居る仲間が、お吉を助けようとしての細工だ」

 利助は地韛じだんだ踏んで口惜くやしがります。

「坊やに万一の事があってはならない。口惜しいけれど、その女を納戸から出して、どこなと、好きなところへやっておくれ」

 お国はさすがに母親らしい弱いことを言いますが、

「とんでもない奥様、これはですよ。女を助けたところで若様を返すとは言やしません。それよりこの女をお白洲に突き出して、言わせるようにして物を言わせましょう。この女さえ口を開けば、何もかも判ってしまいます」

 利助は意地になって聴き入れません。

「どうなとお前のいいようにしておくれ。私には、何が何だか判らない」

 お国は精も根も尽き果てて、たださめざめと泣くばかりです。

「よし、この上は容赦しねえ。女来い」

 納戸を開けて、三日越しの監禁に、すっかり弱り果てているお吉を引出しました。

「これ、何をするのさ」

「黙って来てみりゃ判る。それが嫌なら、相棒の名前とその巣を言えッ」

 いきなりねじ倒して、悲鳴をあげるお吉の腕を後ろに、キリキリと縛り上げてしまいました。

「邪魔が入ると面倒だ、歩けッ」

 邪慳じゃけんに縄尻を引くと、

「あッ、ッ」

 悲鳴をあげてお吉は縁側に倒れかかります。



 平次が飛込んで来たのは、ちょうどその後──。

「若様がお見えなさらない? 何ッ、水天宮様で誘拐かどわかされたッ」

 お勝手から奥へ真一文字に、

「奥様、大変なことになりました。さぞ御心配でいらっしゃいましょう」

 今度の事件では、面白くないことばかりの平次ですが、こうなっては遠慮してもいられません。敷居の外から声をかけて、お国の機嫌を伺います。

「お、平次よく来てくれた──。どうぞ坊やを助けてやっておくれ、お願いだよ」

 日頃のたしなみも忘れて、しどろもどろに取乱しております。

「石原の兄哥あにきはどうしました」

「お吉さんに縄を打って、どうしても仲間の事を白状させるって、奉行所へ行ったよ」

「えッ、そんな、そんな無法な事を」

「そうでもしなければ白状する女ではない」

「とんでもない、お吉さんは何にも知っちゃいません。それより吟味与力のお家から、縄付を出してその納まりがどうなると思います」

「え?」

「軽くてお役御免、重くて食禄召し放し。旦那様が家事不取締の罪はまぬかれません」

「えッ」

「それでなくてさえ、お若くて切れものの旦那様、お役所向きは味方ばかりと思うと大当て違い、これはとんでもない事になりましたなア」

 平次の恐れるのはそれでした。吟味与力で相当に敵も作っている笹野新三郎が、家族から縄付を出して晏如あんじょとしていられる道理はありません。

 お国は女で気がつかないのも無理はありませんが、そんな事は百も承知の助の石原の利助が、宵とはいっても、人の目につかないとは限らない縄付を、与力の家の門から引張り出して、わざわざ奉行所までれて行くとは何とした事でしょう。

「若様は急に命にかかわる事もありますまい。それより大事なのは、お家の瑕瑾きずにもなる縄付の始末です。利助はいつ頃ここを出かけました」

「ツイ今しがた」

 お国はさすがに恥入って顔も挙げません。

「それでは及ばぬまでも追っかけてみましょう。御免」

 平次は挨拶もそこそこ、真一文字にお勝手へ抜けて、数寄屋橋すきやばしの南町奉行所まで、韋駄天いだてん走りに駆け付けました。



 三十間堀へ来ると、宵暗よいやみながら、向うへ急ぎ足に男女の人影。

「石原の、ちょいと待って貰おうか」

 平次は飛鳥のごとく駆け抜けて、二人の前へ立塞たちふさがりました。

「何だ平次か、何の用だ」

 石原の利助は、もっての外の機嫌で平次を見据えます。

「お吉さんは何にも知っちゃいねえ。気の毒だが縄を解いて渡して貰えまいか」

「何を言やがる。こっちには証拠があってすることだ。十手捕縄を預かる利助に、人を縛っちゃならねえという法でもあるのか」

「そうじゃないよ、兄哥。吟味与力の笹野の旦那のお屋敷から、縄付を出したとあっちゃそのままじゃ済むめえ。お互い旦那には言葉に尽せねえ恩を受けている身体だ。よしんばどんな証拠があったにしたところで、お吉さんにお白洲の砂利を噛ませて、笹野の旦那の破滅にはしたくねえ。解ったかい、石原の、おねげえだから、その縄を解いて俺に渡してくれ。あの悪戯者いたずらもの誘拐かどわかしの悪者は、俺がキッと探し出して、お前の手柄にさしてやる」

「えッ、何を言やがる。黙って聞いていりゃ、悪者を縛って、俺の手柄にさしてやるッ? 若僧の癖にしやがってなんて口の利きようだ、はばかりながら石原の利助は手前てめえよりは十年も前から十手を預かってるんだぞ。けえれ、さっさとけえりやがれ、尻尾を巻いて消えてなくならないと、ただは置かねえぞ」

「それじゃ、兄哥、これほどまでに頼んでもか」

「知れた事を言えッ、この女は近頃の大物だ。手前などに横奪よこどりされてたまるものか」

「えッ、聞分けのない。笹野の旦那のためだ」

 飛付くようにお吉の縄尻を引ったくって、せわしく解きにかかると、

「何をしやがる」

 利助は年甲斐もなく、平次へ武者振り付きます。

「兄哥、勘弁してくんな」

 身体をひねった平次、よろめく利助の後ろから、力任せに突き飛ばすと、一とたまりもなく道端のほりの中へ。

「あッ」

 折からの上汐あげしお、あぶ、あっぷとやる利助を尻目に、

びは後でする。兄哥勘弁してくんなよ」

 お吉を促して元来た道へ、平次は飛ぶがごとく取って返します。



 平次が利助を追って駆け出した後──。

 笹野新三郎は下総しもうさから帰って来ました。虫が知らせるというものか、妙に里心が付いて帰って来てみると、ちょうど下総の知行所へ急使を立てたばかりというところ、家の中は煮えくり返るような騒ぎです。

「お国や奉公人達から、いろいろ話を聞いて、驚きに驚きを重ねていると、先刻水天宮様からぼんやり帰って来た勇吉が庭口からヒョックリ顔を出して、

「旦那様、今思い出しましたが、水天宮様の水茶屋へ、お静さんを誘い入れた男が判りましたよ」

 妙な事を言い出します。

「なんだって今まで黙っていたんだ。誰だ、その男というのは!」

「すっかり忘れていました。──その男てえのは、名前はわかりませんが、なんでもお茶の水辺の男で──」

「家は知ってるか」

「行ってみたら大抵見当はつきましょう」

「よし、それじゃ案内しろ」

 新三郎は、飛立つ思い、旅装束のまま、駕籠かごを二挺呼んで、驀地まっしぐらにお茶の水へ──。

 昌平橋しょうへいばしまで来ると、

「ここで降りて歩かなきゃアなりません。駕籠で行っては拙い」

 案内者の勇吉がとんでもないことを言い出します。

 仕方がないから駕籠を帰して、勇吉を先に立てた新三郎。聖堂の前をダラダラ登って、お茶の水の方へ、その頃は橋はありませんが、眺めの良いところで、数丈の断崖の上へお茶屋が二三軒建ち並んでおります。余談にわたりますが、その後『江戸名所図会ずえ』を描いた長谷川雪旦はせがわせったんが、ここのお茶屋で風景を写生して、謀反人と間違えられた──などという話の伝わっているところです。

 お茶屋といったところで、道端に建った粗末な板屋根で、お茶の水の絶壁数丈の下から、足場を組み上げて張り出した、葭簀よしず張りの涼しい別室が名物。昼はいくらか客もありますが、日が暮れるとサッと店をしまって、婆さんと娘が、菓子箱と緋毛氈ひもうせんを背負い、大薬缶おおやかんをブラ下げて自分の家へ帰ってしまいます。

 もっとも、この辺一帯、聖堂の前から元町へかけては、恐ろしく淋しいところ、明治になってからでさえ、松平某の皮剥かわはぎ事件があったくらいですから、旧幕時代は追剥と辻斬りの本場といってもいいところだったのです。

 臆病者の勇吉が、そこへスタスタと入って行ったのですから、笹野新三郎も少し面喰らいました。

 しかし、一子新太郎の生死にも拘わる場合、贅沢ぜいたくを言っている時ではありません。勇吉の後について、黙って行くと、三軒ある断崖の上の茶店の一番奥、久しい前から立ち腐れになっている家の表戸を開けて、

「ここでございますよ、旦那」

 勇吉は案内顔に入っていきます。

「ここに新太郎が居るというのか」

「確かにここに相違ありません。あかりを用意して来ますから、ちょいとお待ち下さい」

 新三郎を中に誘い入れて、勇吉はそのまま外へ出てしまいました。

 しばらく待ったが帰って来ません。なにぶんひどい闇で一寸先も判りませんが、床板一枚の下は、数丈の絶崖ぜつがいということだけは、遥かに聞える水音で判ります。

「ハテ」

 新三郎は立上がりました。愚直な勇吉を信じ切ってはいますが、何となく不安な心持になったのでしょう。立上がって戸口の方へ探り寄ろうとすると、床板の釘が抜けていたものか、それとも、陥穽おとしあなの仕掛になっていたものか、足の下の板が一枚、パッと跳ね返ると、

「あッ」

 新三郎の身体は、数十尺の下へ、支えるものもなく落ちて行きます。



「へッ、へッ、とうとうち込みやがったか」

 どこからともなく、闇の中の人声。

 燧石ひうちいしに鎌の当る音がすると、パッと蝋燭ろうそくともされた。

 見るとそれは、今まで臆病者とばかり思い込ませていた若党の勇吉。妙に引緊ひきしまった凄い顔をして、裸蝋燭を片手に、新三郎の陥ち込んだ穴を覗きます。

「おーい兄哥あにき

「勇吉か」

 遥かに下からは応ずる声。

「野郎はどうなった」

「まだ落ちて来ねえぞ」

「そんな事があるものか」

「落ちて来さえすりゃア、ボチャンとか何とか音がするだろう──万一舟か岸へい上がるようなら、竹槍で芋刺いもざしにするつもりで待っているが、一向音沙汰はねえぞ」

「はてな」

 勇吉は左手の蝋燭を穴の中へ差し込むようにして下を覗きました。

「あッ、居るぞ、居るぞ」

「それ見ろ」

 床の下のたくましいはりから垂れた握り太の麻縄。その中ほどのところに、雁字がんじがらめにして猿轡さるぐつわを噛ませた、新太郎とお静を吊してありますが、その縄の上から三分の一のほどのところに、もう一人、人間がブラ下がっているのです。

 言うまでもなく穴から落ちるはずみに、運よく麻縄を探り当てた笹野新三郎、無我夢中で獅噛しがみ付きましたが、身体に落ちる勢いが付いていたので、両手のてのひらをひどくいたために、麻縄をつかむには掴んだものの、手繰たぐって上がることが出来ません。

 歯を喰い縛って辛くも身体を支えているうちに、上から射した蝋燭の光で、自分をこの九死の境に陥れたのは、臆病者の勇吉だとはわかりましたが、下の舟に居る相棒がわかりません。

 その顔を見るつもりで、大骨折りで身体をねじ曲げると、最初に眼に映ったのは、舟の中の曲者くせものではなくて、自分の足の下、同じ麻縄に縛られて、宙にブラ下がっている、せがれ新太郎とお静の浅ましい姿です。

「あッ、新太郎。──お静も」

 と言ったが、どうすることも出来ません。

 上の勇吉は早くもそれに気が付いたか、

「旦那、気が付きなすったかい。父子おやこ主従三人一緒に死ぬのも因縁事だ。へッへッ、かえってあきらめが付いてようがしょう」

 憎々しくも歯をきます。

「勇吉、お前は何だってこんな事をするんだ。随分目をかけて使ってやったはずだが、何の怨みでこんな非道なことをする──、俺を怨むのはともかく、罪もとがもない新太郎やお静をこんな目にあわせて済むと思うか──」

 新三郎は血を吐く思い、次第に力の抜けるに、わずかに身体を支えて悲憤のまなじりを裂きます。

「まだ解らないのか。今下の舟にいる兄哥に、磔柱はりつけばしら背負しょわせて、その餓鬼がきを脅かしたり、鈴ヶ森から梟首さらしくびを持って来て、窓の外へ掛けたのは、みんな俺達の深い怨みを思い知らせるためだったよ──。血の巡りが悪いからお前は気がつかなかったろうが、何を隠そう俺達はな、──八合判のいかさまますを使ったという罪で、三年前に獄門になった、米屋──越後屋勇助えちごやゆうすけ夫婦の忘れ形見だよ」

「えッ」

「悪い番頭が勝手にそんなものをこしらえて、自分の懐をやしていたのを、何にも知らない俺達の親父とお袋が罪を背負わされ、いかさま枡は罪が深いというので、鈴ヶ森で白髪首を並べてさらされたことは、よもや忘れはしめえ、みんなお前のした事だよ。その上、世上の憎しみが加わって、お袋がへそくりでやらしていた、この茶店まで立ち腐れになり、俺達二人は長い間食うや食わずの路頭に迷った上、かたきが討ちたいばかりに伝手つてを求めて、弟の俺がお前のところへ奉公に上がったんだ」

「…………」

いかさま枡を拵えた張本人の番頭は、それっきり行方知れず。俺達兄弟の怨みは、両親に縄を打ったお前──与力笹野新三郎にかかるのは当り前の事じゃないか」

「…………」

「下にいるのは俺の兄哥の勇五郎ゆうごろうだ。その縄を這い上がったって、下へ飛降りたって助けるこっちゃねえ、──いつまで苦しませるのも殺生だ。この辺で引導を渡してやろう、──見ろ」

「…………」

「兄哥、落してやるよ。気を付けてくれ」

「よし心得た。宙に留めて竹槍で芋刺だ」

 勇吉はどこから持って来たか、脇差を抜いて麻縄を切り始めました。

 三本り合せた丈夫な縄へ、ドキドキする刃を当てて、

「それ一本」

 ブツリと切ると、縄の縒りが戻ってキリキリと三人の身体は宙に廻ります。


一〇


「もう一本」

「待て、待て勇吉。お前の怨みは筋違いだが、今更それを言っても始まるまい。──わしはあきらめて殺されもしようが、倅とお静には罪はないはずだ。私はこの手を離して下の川へ落ちるから、縄を切らずに、後の二人を引上げて助けてくれ。頼むよ、勇吉」

 新三郎は下から、わずかに支える身体をのし上げて、必死の言葉を絞りますが、赤い蝋燭の灯影ほかげに、物凄まじく描き出された、勇吉の顔の怨みは解けそうもありません。

「どうしような、兄哥」

「どうもこうもねえ。俺達は両親ふたおややられたんだ。さっさと切ってしまえ」

「よしッ」

 やいばはまたもブツリと第二本目の縄を切りました。

「さあ、あと一本だ、念仏でもとなえろ」

 逆落しに毒々しい声。

「新太郎、お静、気の毒だが、お前達も聞いての通りだ。あきらめてくれ、一緒に死ぬんだぞ」

 と観念を決めた新三郎、俯向うつむき加減に下へ言い送ります。

「いい覚悟だ」

 と勇吉が最後の一本へ刃を、

「南無──」

 その時遅く、

 宙を飛んで来たは一枚の銭。

 勇吉の拳をハタと打って、思わず、脇差の手が緩むところへ、

「待て、待て、待て」

 闇の中から、銭形の平次が飛出しました。

「えッ、邪魔をしやがる」

 振り上げた脇差は叩き落されて、上になり下になり、しばらくとっ組み合いましたが、平次の力は遥かに優ったものとみえて、勇吉をとって押えて、猫の子のようにつかみ上げると、

「どうともなれッ」

 数十尺の下、夜のお茶の水の流れの中へ、水音高く投げ込んでしまいました。


     *


 平次が危機一髪のところへ駆け付けたのはこうしたわけでした。

 三十間堀に利助を叩き込んで八丁堀へ引返した平次。主人新三郎が勇吉に誘われて出かけたと聞くと事件の秘密が鏡に映したように、判然はっきりわかってしまいました。

 お静からいろいろの事情を聴かされた時、雇人のうち手引のあることも、役向きの事で怨みを買ったらしいことをも直観してしまった平次は、それから三日経たないうちに、独特の機関で奉公人の全部の身許を洗い上げ、秘し隠しに隠してはいるが、若党の勇吉が刑死した越後屋の倅であったことも、お茶の水に立ち腐れになった茶店のあることも知り尽していたのです。

 勇吉が「お茶の水辺」と言ったと聞いて、大方事件の落着きを察した平次は、駕籠かごと自分の足とを存分に働かせて、危機一髪の場合に間に合ったのでした。

 新太郎やお静と一緒に、大骨折りで茶店の床へ引上げられた新三郎は、

「勇吉兄弟を捕えろ」

 と言うと、平次は暗い夜の水を眺めながら、

「多分死にましたよ、放っておきましょう。親が無実で死んだと思い込んでいるんですから、可哀想じゃございませんか──それに、あの兄弟は二度とあんな悪戯わるさをする気づかいはありませんよ」

 と、けろりとしております。

底本:「銭形平次捕物控(九)不死の霊薬」嶋中文庫、嶋中書店

   2005(平成17)年120日第1刷発行

底本の親本:「銭形平次捕物百話 第八巻」中央公論社

   1939(昭和14)年

初出:「オール讀物」文藝春秋社

   1931(昭和6)年9月号

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:結城宏

2018年127日作成

2019年1123日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。