銭形平次捕物控
夕立の女
野村胡堂
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江戸八百八町が、たった四半刻のうちに洗い流されるのではあるまいか──と思うほどの大夕立でした。
「わッ、たまらねえ、何処かこう小鬢のあたりが焦げちゃ居ませんか、見て下さいよ」
一陣の腥い風と一緒に、飛沫をあげて八五郎が飛込んで来たのです。
「あッ、待ちなよ、そのなりで家の中へ入られちゃたまらない──大丈夫、鬢の毛も顎の先も別条はねえ、鳴神だって見境があらァな、お前なんかに落ちてやるものか」
平次は乾いた手拭を持って来て、ザッと八五郎の身体を拭かせ、お静が持って来た単衣と、手早く着換えをさせるのでした。
全く焦げ付きそうな大雷鳴でした。そうしているうちにも、縦横に街々を断ち割る稲光り、後から〳〵と、雷鳴の波状攻撃は、あらゆる地上の物を粉々に打ち碎いて、大地の底に叩き込むような凄まじさでした。
「驚きましたよ、あっしはもうやられるものと思い込んで、四つん這いになって此処へ辿り着くのが精一杯──どうも腹の締りが変な気持ですが、臍が何うかなりゃしませんかしら──」
「間抜けだからな、自分の臍を覗いて見る格好なんてものは、色気のある図じゃないぜ、第一お前の出臍なんか抜いたって、使い物にならないとよ、味噌が利き過ぎて居るから」
掛け合い話の馬鹿々々しさに、お静はお勝手へ逃げ込んで、腹を抱えて笑いを殺して居ます。
いいあんばいに雷鳴も遠退いて、ブチまけるような雨だけが、未練がましく町の屋並を掃いて去るのでした。
「それにしても大変なことでしたね、御存じの通り、あっしは雷鳴様は嫌いでしょう」
「─雷鳴は鳴る時にだけ様をつけ─とね、雷鳴を好きだという旋毛曲りも少いが、お前のように、四つん這いになって逃出すのも滅多にないよ、あの格好を新造衆に見せたかったな」
「散々見られましたよ、何しろ明日の神田祭だ、宵宮の今晩から、華々しくやる積りの踊り舞台にポツリ〳〵と降って来た夕立の走りを避けて居ると、あの江戸開府以来という大雷鳴でしょう」
「江戸開府以来の雷鳴という奴があるかえ」
「兎も角も、そのでっかいのが、グヮラグヮラドシンと来ると、舞台に居た六、七人の踊り子が、──ワッ怖いッ──てんで、皆んなあっしの首っ玉にブラ下ったんだから大したもので、あんな役得があるんだから大かい雷鳴も満更悪くありませんね」
「罰の当った野郎だ」
「そのまま鳴り続けてくれたら、あっしは三年も我慢する気で居ましたよ、──ところが続いてあの大夕立でしょう、ブチまけるようにどっと来ると、女の子はあっしの首っ玉より自分の衣裳の方が大事だから、チリ〳〵バラ〳〵になっては近所の家へ飛込んでしまいましたよ、一人位はあっしと一緒に濡れる覚悟のがあってもいいと思いますがね」
「呆れた野郎だ」
「空っぽの舞台で、大の男が濡れ鼠になるのも気がきかねえから、川越をする気分で、雨の中を掻きわけ〳〵、四つん這いになって此処まで辿りつきましたよ」
「何が面白くて、空模様に構わず、手踊りの舞台にねばって居たんだ」
「六、七人の女の子が、いきなりあっしの首っ玉に噛り付きそうな空合でしたよ」
「馬鹿な」
「それは嘘だが、喧嘩があったんですよ、女と女の大鞘当、名古屋のお三に不破のお伴」
「それは手踊り番組か」
「なァに、実は小唄の師匠のお組と、踊りの師匠のお園の掴み合いで、いやその激しいということは、親分にも見せ度い位のものでしたよ、あっしも女と女の命がけの喧嘩というのを、生れて始めて見たが──」
「そいつも江戸開府以来じゃないのか」
「飛んでもない、あんなのは神武以来ですよ、最初はネチ〳〵といや味の言い合いから、だんだん嵩じて甲高な口喧嘩、それから触ったり、打ったり、引っ掻いたり、とう〳〵髪のむしり合いから、左四つに組んで水が入る騒ぎ──」
「何んだえ、水が入るとは」
「あの大夕立ですよ、天道様だって、あんなキナ臭い喧嘩は見ちゃ居られませんよ」
八五郎の説明は、面白可笑しく手振りが入るのです。
「そんな大喧嘩始めるには、深いワケがあるだろう、言葉の行き違いと言った、手軽なことじゃあるまい」
「良い年増と年増の喧嘩だ、食物の怨みや酒の上じゃ、あんなにまで耻も外聞も忘れて、引っ掻いたり噛み付いたり、命がけで揉み合えるものじゃありません」
「男のことか」
「図星、さすがは銭形の親分」
「馬鹿にしちゃいけねえ」
「情事となると、恐ろしくカンの悪い親分だが、今度は当りましたよ、鞘当の目当ては、金沢町の平野屋の若旦那金之助──口惜しいがあっしじゃありません」
「で?」
八五郎の話術に引入れられて、平次も少しばかり興が動いたようです。
「それからグヮラ〳〵ドシンの、六、七人あっしの首っ玉に噛り付いて匂わせの、大夕立と来たわけで、敵も味方も何処へ散ったか、あとは四つん這いの、借着の単衣の、お先煙草の──ああ、熱い茶が一杯呑み度え」
こんな調子で筋を売る八五郎でした。
昔の江戸は、非常に雷鳴の多いところで、甲州盆地や、上州の平野で育てられた雲の峰が、気流の関係で大部分は江戸の真上に流れ、此処で空中放電の大乱舞となって、三日に一度は夏の江戸っ子の胆を冷やさしたのです。
電気事業の発達は、雷鳴や夕立を非常に少なくしたことは、敢て故老を俟つまでもなく、誰でも一応は知って居ります。
その雷鳴や夕立は、どんなに一般人の恐怖と尊崇の的であったか、宝井其角が「三囲」の発句を詠んで、夕立を降らせたという伝説が、真面目に信ぜられた時代の人達の心持は、今の人には想像もつかぬものがあった筈です。
蚊帳と線香と桑原の呪文で表象される迷信的な江戸っ子が、大雷鳴、大夕立の真っ最中に、冒涜的な言動、──わけても人殺しなどという、大それたことをやりそうもないことは、容易に想像され得ることで、此処で起った大雷鳴の真っ最中の犯罪が、どんな意味を持つかと言うことは、此事件の重大な鍵の一つになるのです。
八五郎が踊り舞台の女の喧嘩の話を、面白可笑しく続けて居るうちに、大夕立も漸く霽れて、九月十四日の夕陽が、西窓から美しく射し込んで来ました。
「あれ、八五郎さん、まだお帰りじゃないでしょうね、今お燗が付いたばかりですのに」
モゾ〳〵と腰をあげかける八五郎に、お静は声を掛けました。
「ヘェ、一杯御馳走して下さるんですか」
「不思議そうな顔をするなよ、俺のところだって年中粉煙草ばかりが御馳走じゃない──明日は年に一度の明神様のお祭だ」
平次は盃を挙げました。大きい膳に並べた料理は、ひどく貧乏臭いものですが、お静の心尽しが隅々まで行亘って、妙にこうホカ〳〵とした暖かいものを感じさせるのです。
「明神様の宵祭か──一升提げて来るんでしたな、親分」
八五郎は鼻水を横なぐりに拭いて、盃を頂くのです。この涙もろい男は、どうかしたらもう湿っぽくなって居るのかも知れません。
でも、二つ三つ傾けると、陶然として、天下泰平になる八五郎です。
「親分、ちょいと来て下さい」
入口の格子を叩いたのは、顔見知りの隣町の指物職人というよりは、小博奕を渡世にして居る、投げ節の小三郎という男でした。
「何んだ、何があったんだ」
平次は盃を置いて中腰になって居ります。小三郎の隠やかな調子のうちには、ガラ八の「大変」以上の緊迫したものを感じさせるのです。
「横町の師匠がやられましたよ」
「横町の師匠?」
此辺は師匠だらけ、生花、茶の湯から、手踊り、小唄、琴、三味線、尺八まで軒を並べて居るので、平次も一寸迷ったのです。
「踊りの師匠──江戸屋園吉のお園さんで」
「お園さんが殺された?」
八五郎は横から口を出しました、少しホロリと来て居ります。
「そうなんです、親分」
「お園が──? 先刻、お組と掴み合いの喧嘩をしたぜ」
「気が立っていて、首でも縊りそうな見幕だったそうです」
「兎も角、行って見ることだ」
平次は手早く支度をすると、夕立の上ったばかりの街へ、足駄のまま飛出しました。それに続いたのは、借着のままの八五郎と、投げ節の小三郎。
明日の神田祭を控えて、九月十四日の明神下──御台所町、同朋町から金沢町へかけては、全く沸り返るような賑わいでした。
日枝神社の山王祭と共に、御用祭又は天下祭と言われ、隔年に行われたこの威儀は、氏子中の町々を興奮の坩堝にし、名物の十一本の山車が、人波を掻きわけて、警固の金棒の音、木遣りの声、金屏風の反映する中をねり歩いたのです。
前夜の宵宮も、一種の情緒を持った賑わいで、江戸で無ければならぬ面白さでしたが、その日は相憎の大夕立で出足を阻まれ平次とガラ八が出動する頃になって、残る夕映の中に、漸く町々の興奮は蘇返って行く様子でした。
「此処ですよ」
小三郎はお園の家へ案内し、格子の前で立ち淀みました。中は内弟子と近所の衆で、何やら取留めもなく騒いで居ります。
入口の格子の横手は少しばかりの空地で其処には小唄の師匠、坂東久美治こと、お組の舞台が掛けてあり、大夕立に叩かれて、見る影もなく塩垂れて居ります。
「御免よ」
平次と八五郎は、その中へ入りました。
「ま、親分さん方」
出迎えたのは五十五、六の老母、それは殺されたお園の養い親で、お槇という因業な女と──八五郎は心得て居ります。
「師匠ら──気の毒だったね」
「親分、どうしましょう、私はもう木から落ちた猿で」
お槇は日頃の因業さをかなぐり捨てて、ひどく打ち萎れて居ります。
たった三間の小さい家、その一番奥の六畳に、殺された師匠のお園が、血だらけの死体を横たえて居るのでした。
平次と八五郎の姿を見ると、弟子達も近所の衆も、遠慮して縁側に立去り、凄惨な死の姿が、覆うところもなく二人の眼に曝されます。
「こいつはひどい」
八五郎は音をあげました。
股や裾は、母親の手で僅かに隠されましたが、床を敷いて掻巻を引掛けて休んで居るところをやられたらしく、斑々たる上半身を起して見ると、首から顔へかけて、突き傷が三、四ヶ所、盲目突に突いた一と太刀が、偶然に頸動脈を切ったのが致命傷らしく、あとの傷は心得の無い下手人が、駄目押しに突いたとしか思えない、無意味なものです。
死顔は、さしたる苦悩もなく、お園の美しさは、血の洗礼も奪う由はありません。引締ったクリーム色の肌、美しい生え際、大きい眼は見開いて居りますが、それは極めて無心な死の苦悩の無いもので、ほのかに開いた唇から、真珠色の白い歯の見えるのも、妙な艶めかしさを感じさせるのです。
胸は少しはだけて、乳のふくらみはほの見えるのも、踏みはだけたらしい股に、血潮に染んで大きい掌の跡らしいものの残るのも、下手人の性格を暗示して居るようで歪んだ姿態と共に、平次の注意をひきつけます。
「師匠が一人で居たのか」
あれほどの殺しを──いかに大夕立の中と言っても、隣の部屋の者が知らない筈はありません。
「大変な見幕でした、あんまり怖いので、お弟子さん方も帰ってしまい、私もお隣の菓子屋さんへ行って、夕立の止むまで無駄話をして居りました。外の雷鳴より、内の雷鳴の方が怖かったんです」
母親のお槇は言うのです、口辺に漂う苦笑を、あわてて掻き消して、精一杯の真剣な顔になるのは、かなりの見物でした。
お園の美しさと、その激しいヒステリーの発作のことは、平次も聴かないではありませんが、小唄の師匠のお組と掴み合いの喧嘩をした後の凄じい発作は、恐らく因業で聞えた母親さえも、三舎を避ける外は無かったのでしょう。
「縁側は開いて居たんだね」
平次は重ねて訊きました。
「あの娘は上気せると、雨だろうが風だろうが、閉め切ってなんか置けない性分でした、風下の雨戸を一枚開けて、枕を出して横になって居たんでしょう」
腹を立てると起きては居られない女──その激しいヒステリー性の怒りの発作が、この女を殺させる原因になったのかもしれません。「刃物は?」
平次は四方を見廻しました。其処には此女を突殺したような、鋭利な刃物などは転がって居そうもありません。
「雨が止んでから、御近所の子供衆がこれを拾って来ました、庭に捨ててあったんだそうです」
母親は四つ折の手拭に畳み込んだ匕首を一本、縁側の隅から持って来ました。無気味なものを持った手が、少し顫えて居るのも無理のないことです。「──」
手に取って見ると、よく光っては居りますが、泥と夕立に洗われながらも、血脂のべッとり浮いた、刃渡り六、七寸の、凄い匕首です。
「こいつは誰のだ。持主はわかって居るだろう」
平次は物の気配に後ろを振り向きました。其処には、平次と一緒に来た「投げ節の小三郎」が、真っ蒼になって突っ立って居るのです。「──」
「お前のだろう」
「先刻踊り舞台の楽屋へ忘れて来たんです──あっしじゃありませんよ、師匠を殺したのは」
小三郎は、柄にもなく、タガが弛んだように、ガタ〳〵して居るのです。小作りですがちょいと良い男で、臆病なくせに遊びが好き──と言った肌合らしく見えます。
「親分、妙なものが来ましたぜ」
八五郎が拇指を蝮にして、自分の肩越しに入口の方を指すのです。
「誰だえ?」
「喧嘩の相手、小唄の師匠のお組が、お悔みに来たんだから大変でしょう」
八五郎は存分に面白そうです。この男の守り本尊の天邪鬼が、何処かを擽ぐってでも居そうな顔でした。
「町内附き合いだもの、お悔みにも来るだろうよ」
平次は大して気もしない様子ですが、入口の方では、ヒソ〳〵と声を忍ばせながらも風雲の唯ならぬものを感じさせます。
「でも、お前さんからお悔みを言って貰う筋合はありませんよ」
それは母親のお槇の声でした。
「私は悪うございました、師匠とつまらない喧嘩なんかして。でも、元々つまらないことなんで、日頃仲の良かった師匠が死んだと聞くと、じっとしては居られなかったんですもの、せめて、仏様の前で、一と言詫を言わして下さいな、おっ母さん」
お組の声はすっかり萎れて居ります。お園と張合って、一寸も退けを取らなかったお組にしては、それは思いも寄らぬ挫けようです。
「おっ母さんなんて、言って貰い度かァありませんよ、先刻掴み合いをしたばかりのお前さんを通しちゃ、娘だって浮かばれないにきまって居る」
「でも」
「さァ、帰って下さい、大夕立が来なきゃ、舞台の上で、お前さんが掴み殺したかも知れないじゃないか」
母親のお槇は、頑として関所を据えるのです。
「八、放って置くと、又何が始まるかわからない、お前が口をきいて、お組師匠を隣の部屋まで通して貰うがいい」
平次は見兼ねて仲裁案を出しました。それから一と揉みの後、八五郎のとぼけた調子が、どうにか母親を撫めて、お園の死骸のある隣の部屋まで、お組は誘い入れられました。
「師匠、大層な萎れようだね」
平次は近々と膝を寄せました。
「でも、私と喧嘩をして、間もなく死んだと聴いて、私はもう、居ても起ってもいられなかったんですもの」
お組は顔を挙げました、鬘下が露を含んだようで、浴衣に染めた源氏車が、重々しく肩にのしかかるのです。
殺されたお園より一つ二つ若くて、三十前後と聴きましたが、磨き抜かれた肌の美しさや、よく整った顔立は、どう見ても二十四、五としか見えず、お園のややブロークンな道具立の魅力に比べて、それは端正な古典的な美しさとでも言えるでしょう。
「何んだって又、女だてらに掴み合いの喧嘩なんかしたんだ」
平次は静かに言い進みました。
「お隣の空地へ、踊り舞台を拵えるのに、お園さんに挨拶をしないのが悪かったんです──でも、懇意づくで、つい後で断わればよかろうと思ったのが、師匠の気に入らなかったのでしょう」
「それっ切りか」
「あとは、髪へさわったとか、変な眼で見たとか、──女同士の喧嘩の種は、殿方にはわかりゃしません」
お組はさり気なく言って、ほろ苦く笑うのです。
「情事の揉めがあったそうじゃ無いか」
八五郎は横合から口を出しました。相手が何人であろうと、これを言わずには居られない八五郎です。
「飛んでもない、八五郎親分」
「いや、平野屋の若旦那を奪り合って、事毎に啀み合って居たことは、町内で知らない者は無いぜ」
「一頃は、そんなこともありました。でも近頃平野屋の若旦那は、許嫁のお嬢さんと、いよ〳〵祝言することに決り、お園さんが執つこく絡みつくのを、ひどく嫌がって居ました」「──」
「平野屋の若旦那と仲の良いのは私の方で、そんなことで殺されるなら私の方が殺されなきゃなりません」
お組はこうはっきり言い切るのです。
「それに──」
お組は尚おも続けました。
「私は雷鳴が大嫌いで、鳴り出すともう生きた空もありません、家へ帰ると雨戸を締め切って蚊帳を吊って線香を焚いてお念仏ばかり称えて居たんですもの、人なんか殺すどころか、物を言う力もなく弟子達を追っ払って、死んだようになって居ました」
お組はそう言って、自分の雷鳴嫌いを証明してくれる相手を捜すように、そっと四方を見ました。
「気が悪いぜ師匠、誰もお前さんが、お園師匠を殺したとは言やしない」
平次はさり気ない調子でした。
「それで安心しましたよ、嘘だと思うなら、私の家へ行って訊いて見て下さい。あの大夕立の間、私はもう死んだもののようになって寝て居たんですもの」
「お前の家というのは、此処からは遠い筈じゃないか、よく濡れずに駆けて行ったことだな」
「表から廻れば遠いようでも、路地を抜けて、大家さんの家の庇の下を通して貰えば直ぐですよ、ピカリと来て大きいのが鳴ると直ぐ、私はもう喧嘩も何も忘れて帰ったんですもの、家へ飛び込むとすぐ、あの大雨がどっと来ましたよ」
お組の報告は詳し過ぎます。
「ところで、師匠には心当りがあるだろう、お園を怨んで居る者は誰だ」
「第一番は投げ節の親分」
お組はそっと四方を見ました。匕首のことから話が妙になって、小三郎はもう其処には姿を見せなかったのです。
「それから?」
「御浪人の阿星右太五郎様」
「お園を追い廻して居るという噂があったな」
「平野屋の若旦那は、お園さんを怨んでは居ないが、邪魔にはして居ましたよ。もっとも許嫁のお夏さんは、心から怨んで居たようで」
「そんな事かな」
「お新さんだって、お円さんだって、お園さんを怨んで居ないとは限りません、町内の若い男を皆んな手なづけて、狼の遠吠みたいな声を出させるんですもの」
お組はチラリと鋒鋩を出しました。
「何んだとえ、狼の遠吠で悪かったね、そう言うお前こそ、案山子に魔が差したようなのを教えて居るくせに」
母親のお槇は我慢のならぬ顔を次の間から覗かせるのです。
「もういい、仏様の前だ、お互に喧嘩はたしなむことだ」
平次はもう一度、この女同士──老いたると若いのとの喧嘩を引分けなければならなかったのです。
「親分」
何処かを漁って歩いたらしい八五郎が、縁側から顔を出した。
「何んだ、八」
「変なことを聴込みましたよ」
「?」
「あの大夕立の真っ最中に、平野屋の若旦那の金之助が、お園に逢いに来たらしく、濡れ鼠になって、此処から帰って行ったのを見た者がありますよ」
「そいつは手掛りだ、一寸平野屋まで行って見よう」
「あっしも」
「待ちなよ、お前には用事がある」
平次は八五郎の耳へ、何やら囁きました。
「成る程そいつは良い考えだ」
八五郎は話を半分聴いて飛んで行きます。
「師匠、折角此処へ来たんだ、お袋と仲直りをした上、暫く手伝って、仏様の始末をして行くがいい、あのままじゃ通夜もなるめえ」
平次は隣の部屋の死体を痛々しく振り返るのでした。
「私もその積りで参りました、おっ母さんさえ承知して下されば」
お組はいそ〳〵と立上りました。生前の深酷な恋敵、ツイ先刻掴み合いの喧嘩までした仲ですが、生死境を隔てると、昔の昔の、幼な友達のお組とお園になるのでしょう。血に塗れた死骸の側に膝をついて、ツイ涙に暮れるお組を見極めると、平次はもう次の活動の舞台へ踏出して居りました。
「あれは?」
夕明りの中にしょんぼり立っている十七、八の娘、町の一角を、ほの〴〵と明るくしたような、それは言うに言われぬ可憐な姿でした。
「お園の内弟子で、お菊という娘ですよ、ちょいと良いでしょう親分」
八五郎は小戻りして教えてくれます。こと苟くも、若い娘の噂に関する限り、見過しも聞き過しも出来ないのが此の男の性分でした。
「お前はお組の家へ行ってくれ、急ぐんだ、あの女が帰る前に──」
平次は家の中に居るお組に気を兼ねて、八五郎の道草をたしなめます。
「お菊坊の口を開けさせることなら、あっしの方が心得てますよ、親分」
「わかったよ──俺は口説きもどうもしないから、安心して行くがよい」
「ヘェ」
八五郎が未練らしく姿を隠すと、平次は改めてお菊の前へ──精一杯さり気ない顔で立ちました。
「お前にちょいと訊き度いことがあるが」
お菊は顔を挙げました。隣町に住んで居て、銭形平次の顔も知って居り、その評判も心得て居りますが、名ある御用聞にこう声を掛けられると、十八娘の心臓が高鳴るらしく、道具の細々とした顔が引締って、可愛らしい唇がおののきます。
この臆病らしい小娘から、筋の通った話を引出すのは、平次にしても容易ならぬ手数でしたが、でも、散々手古摺らした末、よく遊びに来るのは平野屋の若旦那と、投げ節の小三郎さん、それに御浪人の阿星右太五郎様──などと覚束ない指を折って見せるところまで、心持がほぐれて行きました。
「そのうちで、師匠が一番好きだったのは誰だえ?」
「若旦那の金之助さんでしょうか知ら、──小三郎さんはよくいらっしゃるけれど、嫌われてばかり、帰ると塩を撒いて掃き出すんですもの」
などとお菊は可笑しがるのです。
「御浪人の阿星右太五郎様は、もう四十過ぎの年配じゃないか」
隣町に住んでいる有徳の浪人者、小金などを廻して呑気に暮している中年過ぎの男が踊りの師匠のところに出入するというのは腑に落ちませんが、先刻小唄の師匠のお組が、殺されたお園を怨む者の名の中に、この浪人者を加えていたことを平次は思い出したのです。
「あの阿星右太五郎様の一人息子の右之助様は、師匠と良い仲だと言われて居りましたが、今年の春お勤めの不首尾とやらで、甲府で腹を切ったとか聞いて居ります。師匠もそれを話しては気の毒がって居りましたが」
平次もそれは薄々聴かないではありませんでしたが、お菊の口から改めて聴かされると、お園の死と何んかしら、一脈の関係がありそうにも思えるのです。
「お前はあの雷鳴のとき、何処に居たんだ」
「お向うの店先に雨宿りをして居ました。お師匠さんが怖かったんですもの、──大変な見幕で」
お組と掴み合いの喧嘩をした後の紛々たる忿怒は、全く雷鳴以上の怖ろしいものがあったに違いありません。
「お向うの唐物屋の店先から、お師匠さんの家はよく見えるわけだな」
「表の格子のところはよく見えます」
「誰か来たことだろうと思うが──」
「阿星右太五郎様が格子を開けかけましたが、思い直した様子で、木戸をあけて裏へ廻り、暫くして出て来ました──まだ雨が降る前で、ひどく雷鳴が鳴って居ました」
「傘はさして居たのか」
「お師匠さんの家を出るとザーッと降って来たので、阿星さんは傘をさして、大急ぎで帰った様子です」
「それから」
「若旦那の金之助さんが、格子から入って暫くして出て来ました。これは傘も何んにも無く、ひどい風をして、濡れ鼠になって帰って行きました」
「それっ切りか」
「三人目は小三郎さんで──これは雨が小止みになってから、格子の中へ入ったと思うと、大きな声を立てて、気違いのようになって出て来ました。お師匠さんが殺されているのを見て、びっくりしたんですって」
お菊は表情的な眼を大きく開いて、びっくりして見せるのです。
「唐物屋の店に、その時誰も居なかったのか」
「大変な嵐でした。雷鳴と稲妻と、雨と風と、──家中の人は皆んな奥へ引込んで、蚊帳の中へ入ってしまって、私だけ店に取残され、大戸をおろして、臆病窓から、此方を眺めて居たんです」
「外に何んにも見えなかったのか」
「雨がひどかったんですもの、でも、どしゃ降りの中で──」
お菊の眼は、空を仰ぐように、庇から屋根へと見上げるのです。
「何があったんだ」
「私の眼の迷いかも知れないんですもの」
お菊はぞっと自分の胸を掻い抱くように、それっ切り口を緘んでしまいました。
「どんなものを見たんだ」
「──」
平次は重ねて訊きました。が、娘の閉じた口を開かせることは、平次の知恵でも、十手捕縄でも出来ることではありません。
「変だと思うことがあったら、そっと俺に話してくれ、今でなくてもいい、明日でも、明後日でも、気が向いたら」
「それにお前は、何んだってこんなところに立っているんだ」
若い娘が、何時までも門口に立っている不自然さに平次は気が付きました。
「だって、私、怖いんですもの」
十八娘のデリケートな神経は、血だらけな死骸に脅やかされて居るのでしょう。その死骸は、たとえ大事な師匠であったところで、仏様らしく始末をしてくれる迄は、娘に見せるような生優しいものでは無かったのです。
平次は其処から直ぐ、金沢町の平野屋へ行ったことは言うまでもありません。今までに調べたところでは、お園を殺し得る機会を持った者は、浪人阿星右太五郎でなければ、平野屋の若旦那金之助でなければ、投げ節の小三郎の外には無いことになります。
平野屋は地主で家作持で、界隈の金持ですが、先代が亡くなってからは、若旦那の金之助は手綱の無い若駒のようなもので、母親のお早の言うことなどは耳にも入れず、放埒の限りを尽した上、この半歳ばかり前から、踊りの師匠のお園と、小唄の師匠のお組を手に入れ、江戸一番の色男のような気になって、有頂天な日を暮して居たのです。
どちらも、金が目当てだったことは言う迄もありませんが、それでも、お園とお組が、掴み合いの大鞘当てをするだけあって、若旦那の金之助は、なか〳〵の美男でもありました。
色白で、面長で、眉が薄くて、ひどく撫で肩で、下唇が突出して、いささか舌っ足らずで──こう条件を並べただけで、大方若旦那金之助の風貌は想像がつくでしょう。
母親のお早は持て余したあげく、親類中での褒めものの娘、お夏という十九になるのを娘分にして貰い受け、厄が過ぎたら金之助と嫁合わせる積りで、朝夕の世話までさせることにしました。
お夏は可憐で楚々として、充分に美しい娘でしたが、性根もなか〳〵に確りして居り、その上知恵も逞ましく、近頃は道楽者の金之助も、次第にお夏の良さに引摺られる恰好になって来ました。でも一度女道楽の味を覚えた金之助は、三十年増のお組やお園の、濃艶極まる魅力が忘れられず、時々は発作的な情熱に駆られて、二人のうちの、何方かに通う癖は止まなかったのです。
「若旦那は居るかえ」
平次が店からヌッと入ると、出逢い頭の可愛らしい娘が、ヒラリと奥へ姿を隠してしまいました。金之助の許嫁、お夏というのでしょう。
素よりチラリと見ただけですが、これは実に、馥郁たる乙女でした。碧い単衣に赤い帯も印象的ですが、それよりもほの白く清らかな頬や、霞む眉や、少し脅えては居たが、聡明らしい眼が、突嗟の間ながら、平次に素晴らしい印象を与えてくれたのです。
「おや、銭形の親分。まァ、どうぞ」
などと、お夏と入れ替りに出て来た、若旦那金之助は如才がありません。
「あっしの用向はお察しだろうが、ね、若旦那」
隣町附き合いで、十手捕縄の手前はあるにしても、平次にも少しは遠慮があります。
「ヘェ」
「お前さんは、あの大雨の中で、ズブ濡れになって、お園の家へ行き、間もなく雨の中へ飛出したということだが──」
「其処ですよ、銭形の親分──乾いたものと着換えて、さて落着いて考えて見ると、黙って居た私が悪かったと思います。矢張りこれは、銭形の親分にでも申上げて、良い知恵を拝借するのが本当だった──と漸く覚りました」
「それは? どういうわけで?」
「私は、お園の死骸を見て、驚いて飛出したのですよ」
平次は黙って先を促しました。何も彼も見通して居るような態度です。
「始めから順序を立てて申しましょう──私はあの時明神様へ行って居りました。空模様が怪しくなったので、大急ぎで帰ろうとすると、鳥居をくぐった頃からもうどしゃ降りで、お台所町へ降りた時は、先の見通しもつかない程の大雨です。その上にあの大雷鳴ですから、日頃雷鳴嫌いのお園がどうして居ることか、ぐしょ濡れの姿ですが、雨宿りかた〴〵覗いて見る気になりました」
「──」
平次は黙って先を促します。
「声を掛けても返事は無いし、少し心配になりましたので、ザッと入口の雑巾で足を拭いて、濡れてボト〳〵雫の垂れるまま、奥へ入って見ると──」
「──」
金之助はその時の凄まじさを思い出したらしく、ゴクリと固唾を呑みました。
「お園は血だらけになって死んで居るじゃありませんか。その時はもう夢中で、息が通っているかどうか、見定める暇もありません。薄情なようですが、追っ駆けられるような心持で、大雨の中に飛出し、無我夢中で家に戻りましたが」
「お園の寝て居るのを、部屋の外から覗いたのだね」
「そうなんです。唐紙を開けると、たった一と眼であの姿が見えました」
「部屋へも入らず、向う側の──雨戸の開いて居た縁側へも廻らなかったことだろうな」
「それどころではございません。一と眼見て、四つん這いになるようにして、元の入口へ戻りました」
「どうしてそれを今まで人に話さなかったんだ」
「私は怖かったんですよ、親分」
若旦那金之助はその時の事を思い出すと、歯の根も合わない心持になるのでした。
「曲者は裏の方の縁側から入って、後ろ向になって寝て居るお園を刺し殺し、元の縁側から外へ出て居る。お前さんは入口の格子を開けて入って、廊下から唐紙を開けて、中の死骸を見、肝をつぶして元の入口に戻った。
裏と表の二つの足跡は、部屋の入口から死骸のところまで縁が切れて居る。お前さんは表から入って表から出たことは、見て居た者があって確かだから、お園を殺したのは、外の者ということになるのだ。畳の上をひどく濡らした足跡が、お前さんの命を救ってくれたよ、若旦那」
平次は自分へ言い聴かせるように、こう言い切るのでした。
「私の言うことに間違いはありません、ね、親分、もう一度行ってみて下さいな」
若旦那金之助は重荷をおろした心持でひどくはしゃぐのです。
「いや、そんな事に見落しがあるものか──一応は見て置いたが、いずれ乾くまでには間があるだろう。もう一度誰かに見せて置くとしようよ。ところで──その時、裏の縁側の方に何んにも見えなかったのかな」
「あわてて居たんで、何んにも見ませんよ。でも、庇のあたりに、チラリとしたものを見たような気もしますが──」
それはしかし、はなはだ頼りない証拠です。取込み忘れた干物かも知れず、雨に驚いて飛込んだ、小鳥だったかも知れないのです。
「ところで、若旦那は、お園とお組と、二人の師匠にチヤホヤされて居たということだが──」
「面目次第もございません」
「今でも何んか、あの二人に引っ掛りがあったのかな」
「私はもう、あんな女達に掛り合うのを懲々して居りました」
「それが、どうしてお園のところへ寄る気になったのだ」
「雨宿りで、場所の選り嫌いは言って居られませんでした。それに、お園は恐ろしく雷鳴が嫌いだったので、フト覗いてやろうという気になったのです」
「お組は?」
「あれは、雷鳴を好きでは無かったにしてもお園ほどは怖がらなかったようで」
「すると、若旦那は、あの二人の女と手を切って居たのか」
「いえ、改めて手を切るとなると、又一騒ぎですから、別にそう言ったわけではありません」
蛇の半殺しで、愚図々々に二人女から遠ざかって良い子になろうという金之助の態度に潔癖な平次は、一寸胸を悪くしました。
遊びくたびれた若旦那の金之助は、二人の年増女に遠ざかって、あの新鮮で清潔で、馥郁たる魅力の持主──お夏に興味を持っていることは事実で、二人の師匠が、鞘当筋で喧嘩をしたとしたら、金之助にとって、それはまことに、迷惑千万なことだったに違いありません。
平次は平野屋を切上げて、店口から出ようとして、何心なく振り返りました。店暖簾がパラリと動いて、あわてて姿を隠した女──それはお夏が心配して、二人の話を聴いていたのでしょう。白い額と紅い唇だけが、平次の眼に美しい残像として残ります。
次は、同じ金沢町の浪人、阿星右太五郎の家へ──と思いましたが、フト八五郎のことが気になって、もう一度お台所町に引返して、お組の家を覗いて見る気になりました。
お園の家とは隣路地の背中合せで、急造の舞台はその間に挟まって空地を塞いで居るのです。平次は狭い路地を入って行くと、
「ブル〳〵畜生奴、ひどい事をしやがる」
飛出して来た八五郎と、鉢合せしたようにハタと逢いました。
「どうした、八」
「どうもこうもありゃしませんよ、この通り」
八五郎の髷から肩へかけて、ひどく濡れて居るではありませんか。
「夕立は半刻も前に上った筈だが──」
「水をブッ掛けられたんですよ。飛んでもねえ女だ。犬がつるんだんじゃねえやい」
「其処で啖呵を切ったって物笑いになるだけよ。どうしたというのだ」
「親分の言い付けられた通り、お組の留守を狙ってあの家へ忍び込んで見ましたよ。あの女の家の中に、夕立でズブ濡れになった着物があれば、先ず間違いもなく、お園殺しの下手人だ。ツイ夕立の来る前まで、お園と掴み合いをした女だ。それ位の事はあるに違えねえと思ったが──」
「あったか」
「ありませんよ、濡れた足袋一足ありゃしません──だからあの女は気が強くなってお園の仏様の世話をして帰ると、風呂場にマゴ〳〵して居るあっしを見つけて、いきなり手桶の水を一パイ、頭からブッ掛けて──泥棒──はひどいでしょう」
「そいつは大笑えだ」
「笑い事じゃありませんよ、頭から水をブッ掛けられて御覧なさい」
「怒るな、八──それからどうした」
「あっしと気がつくと──あら八五郎親分、済まなかったわねえ──と来やがる、その後がなおいけねえ──私にそっと逢い度いなら逢い度いと、そう言って下さればいいのに、まさか八五郎親分が風呂場に隠れて居ると気が付かないから水なんかブッ掛けたじゃありませんか──なんて人を喰った女じゃありませんか」
「でも、お組の家に、濡れた着物が一枚も無いとわかれば、それでいいのだよ。あの大夕立の中で、お園を殺して逃げた者は、間違いもなくズブ濡れになって居る筈だ」
「もっとも、白縮緬の湯もじが一枚、風呂場の盥に漬けてありましたよ」
「それ位のことはあるだろう」
「あの歳で、緋縮緬で無いのが気障ですね」
などと、又他愛も無い掛け合いになりそうです。
「ところで、喧嘩の後でお組は、何処を通って自分の家へ帰ったんだ」
「あの女が言ってる通り、路地の突当りの木戸を開けて、大家の庇の下を通して貰い、自分の家へ駆け込んで蚊帳を吊って線香を焚いて居たことには間違いありません。近所の衆は、お組が大騒ぎをしながら雨戸を締める音も聞いたし、線香を一と束ほど燻して、長屋中を匂わせたことも、皆んなよく知って居ましたよ」
八五郎の答は水も漏らしません。
八五郎の肩の濡れは、立ち話のうちに大分乾いてしまいました。
二人は予定の順序を踏んで、もう一度金沢町に取って返し、浪人者、阿星右太五郎の家を訪ねたのです。
「銭形の親分か──いや先刻から待っていたよ、いずれ親分が来るだろうと思ってな」
有徳の浪人阿星右太五郎は、ひどく心得顔に、平次と八五郎を迎えたのです。
何処でどう金を溜めたのか、阿星右太五郎はなか〳〵の富を貯え、高い利子でそれを運用して、気楽な生活をしている浪人でしたが、そんな蓄財癖が、この人を浪人にさしたのだという噂も、決して火の無いところの煙では無さそうです。
四十五、六──充分に円熟した肉体と知恵の持主らしく、如才ないくせに、いかにももっともらしい阿星右太五郎でした。
「打ち開けてお話し下さいますか、阿星様」
平次はひどく下手に、掛引無しに持ちかけました。
「それはもう銭形の親分、あの女が死んでしまえば、誰憚る者も無い」
「何を仰しゃり度いので? 阿星様」
「私は──何を隠そう、あの女を殺そうと思って居たのだよ」
「え?」
それは実に、銭形平次も予期しない言葉でした。後ろで聴いている八五郎の口が、拳固が一つ丸ごと入る位、ポカリと大きく開いたほどです。
「驚くだろう、銭形の親分、──口惜しいことに、誰かが先を潜って、あの女を殺してしまった──私はこんな手持無沙汰な心持になったことは無い」
阿星右太五郎はこんな途方もないことを、苦がりともせずに言ってのけます。
「それはまた、どういうわけです、阿星様」
「聴いてくれ、私には、たった一人の倅があった。右之助と言ってな、先ず十人にも優れた若者であった──と申しても、決して親馬鹿の言い草では無い。ところで、この私が十年前に浪人したのは、私の不徳のせいでいたし方も無いが、せめて倅を元の武家にしてやり度さに、今から二年前二千両という大金を積んで、御家人の株を買わせ、兎も角も直参に取り立てられた」
「──」
「どうせ株を買った御家人だから、最初から良い役付を狙うわけに行かない。閑職の甲府勤番になるのも、出世の階子段の一つと思い、充分教えもし励ましもして、甲府へ差立てた」
「──」
「が、禍いは何処にあるかわからない。甲府から江戸へ、御上の御用で幾度となく往来するうち、──年頃の倅を一人で置いたのが親の手落ちであったが、右之助はフトあのお園という女に迷い、夥しい御用金に手をつけ、進退谷まって──今から半年前腹を掻き切って死んだのじゃ」
「お気の毒な」
平次もツイこう言わなければならなかったのです。此上もなく厳めしく構えた阿星右太五郎は、自分の言葉に感極まって、ポロ〳〵と泣いて居るのです。
「父親の私に打ちあけてくれさえすれば、それは一応は小言を申したかも知れぬが、多寡が千や二千の金、何んの苦労もなく出してやったものを──こう思うと、あの出来の良い褒めものの倅を、腹を切るまで迷わせた女が憎くなるのは当り前では無いか」
「──」
「千万無量の怨みを包んで、私があの女に接近したのは、折を見て一刀の下に斬り捨てようため──だが、折はあっても、売女一人の命と引き換えでは、この私の命が惜しい。人知れず葬る工夫は無いものかと、卑怯なようだが折を狙って居るうちに、気の早いのが、あの女を殺してしまったのじゃ」
浪人阿星右太五郎の述懐は、想像も及ばぬ奇怪なものでしたが、その真実性は、顔にも涙にも溢れるのでした。
いや、そればかりでなく、隣の部屋で啜り泣く声が次第に大きくなって、やがてそれは押え切れない嗚咽と変り、平次と八五郎を驚かすのです。言うまでもなくそれは、阿星右太五郎の内儀──腹を切った右之助の母親で、お円という中年女でした。
阿星右太五郎が雨の寸前にお園の家を覗いたのは事実ですが、腹立ち紛れに横になって居るお園は、右太五郎が縁側から声をかけても、返事もしなかったので、そのまま帰ったという言葉に、恐らくは嘘は無かったでしょう。
翌る朝になりました。昨日の夕立に洗われた町の朝は、申分なく清々しく明けて、平次は井戸端で歯を磨いていると、
「あ、親分、た、大変ですぜ」
竹の木戸につかまって、八五郎は張上げるのです。
「何んだえ、相変らず騒々しい野郎だ」
「殺されましたよ、あの綺麗なのが──」
「誰だえ」
「お菊ですよ、お園の内弟子、あの可愛らしい娘が、昨夜のお通夜の後で、路地の奥で絞め殺されて居るのを、今朝早く見付けて大騒ぎになり、あっしが見張らせて置いた下っ引の忠吉が飛んで来て教えてくれましたよ」
「成程、それは大変だ」
「ね、親分、こいつが大変で無かった日にゃ」
「よし、わかった」
平次は猿屋の揚子を井戸の柱に突っ立てると、仕度もそこ〳〵、朝飯のことばかり心配するお静の声を背に聴いて、一気に現場に駆けつけました。
「寄るな〳〵見せ物じゃねえ、あんまり見て居ると眼が潰れるぞ」
下っ引の忠吉が精一杯骨を折って、野次馬を追っ払っている中へ、平次と八五郎が飛込んだのです。
野次馬が容易に動かないのも無理のないことでした。若くて可愛らしいお菊の死は痛々しくも色っぽく、眼にしみるようなものを感じさせたのです。
「可哀想に、何んか掛けてやりゃいいのに」
平次は死骸に近づくと、大手を拡げて、多勢の眼から、それを庇ってやり度い気になりました。
露の深い路地、下水に半分身を落して、乙女の身体は斜に歪み、裳の紅と、蒼白くなった脛が、浅ましくも天に冲して居るのです。
首に巻いたのは、真新しい手拭、顔は痛々しく苦悩に歪んで、その端正さを失いましたが、それがまた一つの破壊された美しさで、野次馬の同情と好奇心をかき立てるのでした。
「八、此処に置くまでもあるめえ、家の中へ入れてやろう、手を借せ」
平次は膝を折って、娘の首にそっと腕を廻しました。
お菊の死骸は家の中へ担ぎ込まれ、お園の棺の前へ静かに寝かされました。日頃眼鼻立の細かい可憐そのもののような娘姿が、一と晩の夜露に晒されて、蝋人形のように蒼白く引締って見えるのは、言いようも無い痛々しさで、さすがに無駄の多い八五郎も、謹しみ慎しんで何や彼と世話をして居ります。
「親分、憎いじゃありませんか、こんな小娘に、怨みがある筈は無いのに──」
「お菊は何んか知って居たに違いないよ、昨日の夕方、此家の入口で俺と逢った時、何んか言いかけて急に口を緘んでしまったじゃないか」
「すると、この娘を殺したのは、お園を殺した人間の仕業ですね」
「先ず、そうきめて間違いはあるまいよ」
平次の胸の中には、次第に下手人の仮想図が、はっきり浮んで来る様子です。
「ところで、親分、お菊を絞めた手拭は、投げ節の小三郎の持物とわかりましたよ」
「その小三郎が昨夜家へ帰った時刻を調べるんだ、大急ぎで頼むぜ」
「ヘェ」
八五郎は飛んで行くと、平次は其辺に居る者一人一人をつかまえて、昨夜のお通夜の模様を念入に調べ始めました。
「半通夜で、お経が済んで、一とわたりお酒が出て、亥刻(十時)過ぎには、皆様に引取って頂きました。残ったのは私と内弟子のお菊と、遠い親類の者が二、三人だけ」
お園の母親のお槇が説明するのです。
「小三郎は?」
「何んか御用があるとかで、そわ〳〵して居りましたが、亥刻少し前──皆様より一と足先に帰ったようでございます」
「その小三郎の側にすわって居たのは、誰と誰だったか、覚えているだろうな」
「若旦那の金之助さんと、それからお組さんの間に挟まって居りました」
「あの手拭を持っていたのに気が付いたことだろうな」
「柄の変った手拭で、誰でも気が付きます」
大きく「鎌」と[輪」と「ぬ」の字を染め抜いた手拭、それはひどく意気な積りで、実は此上もなく野暮っ度い手拭でした。
「その手拭を、小三郎は持って帰ったことだろうな」
「いえ、忘れて帰りました。座布団の側に落ちていたのを、お菊が見付けて後を追っ駆けたようですが、もう見えなくなってしまったとやらで、そのまま持って帰って、入口の隅に置いたようでしたが、それからどうなったか、私も気がつきませんでした」
母親がこれだけでも記憶して居たのは見付けものでした。が、その上り框のあたりに置いた手拭を、誰が持出して、お菊を絞め殺したか、其処まではわかりません。
「それから?」
平次は糸をたぐるように、静かにその後を促します。
「小三郎さんが帰ったのは一番先で、それから皆さんが帰り、若旦那の金之助さんと、小唄の師匠のお組さんが一番後まで残りましたが、それも帰ってしまったのは、亥刻少し過ぎだったと思います。若い人達が眠そうで可哀相ですから、床を敷かせて、彼方此方に休ませ、一番お仕舞にお菊が、路地の木戸を締めに外へ出たようでございます、──木戸は今朝確かに内から締って居りましたから、あの時お菊が締めたに相違ございませんが、木戸を締めてから、家の中へ入ったのを、確かに見たというのは一人も無いようで、多分木戸を締めて入ろうとした時、其処で暗がりから出た者に、不意に殺されたことでございましょう──」
母親のお槇は思いの外記憶もよく、時間と事件の関係など、極めて要領よく話してくれます。
もっとも年の頃もまだ四十七、八、昔は芳町あたりで嬌名を馳せたことがあると言われ、お園が踊りの師匠として一本立ちになってからは、その蔭に隠れて、お園の成功に大きな役目を果して居た母親だったのです。
近所附き合いで、お組もお園も平次はよく知って居りますが、今から五、六年前までは、この土地では先輩のお組は手踊りの師匠として鳴らし、多勢の弟子も取って居りましたが、お園が此処へ移り住んで、同じ手踊りの師匠として看板をあげると、お組はその競争を避けて、二枚看板の小唄の方に重点を置き、両虎互に傷つかずに、二年三年と過して来た仲でした。
そんな内部工作は、お園の母親のお槇の賢さから産み出されたもので、娘に死なれた大きな悲しみと落胆の中でも、こう冷静に物事を整理して行く、老女の聡明さは、どんなに平次の探索を助けてくれたかわかりません。
「ところで、銭形の親分さん」
「何んだえ、おっ母さん」
お槇は四方を見廻して、突き詰めた顔になりました。
「お菊は昨日、銭形の親分のことばかり申して居りましたよ」
「?」
相手は十七、八の女の子、恋でも物好きでも無い筈とわかっているだけに、平次は変な気持になりました。
「お菊は、昨夜のお通夜に、銭形の親分が見えたら、──私の知ってることを皆んなお話して、考えて頂くんだ──と言って居りました。あの娘は何んか、心配で〳〵たまらない様子でしたが」
「──」
「きっと、何んか大変なことを知っていたに違いありません、どうかしたら──」
「お園を殺した下手人を知っていたとでも言うのか」
平次はさすがに気が廻ります。
「これは私だけの考えですが、あの大夕立の時、娘が腹を立てて寄りつけないので、私はお隣へ逃げて行き、お菊はお向うの唐物屋さんの店先で、雨の止むのを待って居りました」
「?」
「私は少し耳が遠いので、雷鳴様の外には何んにも聴きませんが、お菊は往来の向うから、何んか見るか聴くかしたに違いないと思うのです。それを、後の祟りが恐ろしいので、胸一つに畳んでいたが、我慢が出来なくなって、銭形の親分さんに打ち明けようとし、下手人はそれを嗅ぎつけて、お菊を殺したのじゃございませんかしら──」
老母お槇の知恵のよく廻るのに、平次は褒めてやり度いような心持でした。恐らくたった一人の、杖とも柱とも思う娘お園を殺された、大きな悲歎の底から、一世一代の知恵の灯が燃え立ったのでしょう。
「そんな事もあるだろうな」
平次は、それ以上のことまで考えて居るのですが、四方の聴く耳に遠慮して、お槇の報告を軽くいなしました。
「でも、私は、みす〳〵娘を殺した相手が居るのに、それをどうすることも出来ないようでは、娘も行くところへ行けないと思いまして──」
お槇は母親の愚に返って、サメ〴〵と泣くのです。
「まァ、心配しない方がよかろう、人を二人まで殺して、百まで生きていられる筈は無い──ところで、お園を怨んでいた者が、二人や三人はあったようだが」
「それは、あったことでしょう、あの通りの気象者で、どうかすると、産みの母親の私でさえ、側へ寄れないこともあった位ですから」
「御浪人の阿星右太五郎さんも怨んでいたし、やくざ者の投げ節の小三郎も怨んでいたかも知れない。商売敵の師匠のお組だって、好い心持でなかったことだろう」
「そう言えば、夕立の来る前、お組さんと掴み合いの喧嘩をして居たそうですが、──お組さんの株を取って、踊りの師匠の看板をあげた時から、娘とあの人は敵同士のようなものでした。近頃は若旦那の金之助さんのことも揉め、踊りの仮舞台を此家の隣の空地へ建てて、一言も挨拶をしなかったと、お組さんをひどく怒って仲が悪くなって居りました」
そんな事はしかし、お槇が説明するまでもなく、平次はことごとく承知して居ります。
「話は違うが、今朝、お菊の死んでいるのを見付けたのは、お前さんだと言ったね」
「ハイ、格子を開けて、いつものように木戸を開けるつもりで外へ出ると、ツイ鼻の先にお菊が──可哀想に首に手拭を巻いたまま、下水に半分落ちて居りました」
「木戸は締って居たのだな、間違いもなく」
「間違いはございません、私が此手で開けたのですから」
「もう一つ、お菊の首を絞めた手拭は、確かに小三郎のものだと言ったね」
「あんな変な柄の手拭など、滅多に堅気の人は持って歩きません」
「その手拭を──」
「ゆうべ、小三郎さんが忘れて行ったのを、お菊は持って追っ駆けましたが、追いつき兼ねて、此上り框の隅っこに置いた筈ですが──おや、おや、おや、これはどうしたことでしょう」
入口の沓脱の間を覗いたお槇は、其処に落ちていた手拭を拾いあげて、思わず眼を見張ったのも無理はありません。
それは紛れもなく昨夜投げ節の小三郎が忘れて行った「鎌、輪、ぬ」と染めた手拭に紛れもなかったのです。
「どれ」
平次はお槇の手から手拭を受取りました。切り立ての手拭ですが、いくらか皺になって、隅っこの方に、「小三郎」と墨で小さく書いてあるではありませんか。
お菊の死骸の首に捲きついていたのは、同じ「鎌、輪、ぬ」の模様ですが、それは死骸の首から外して、別に証拠の一つとして、町役人に預けてあるので、それが沓脱の下に紛れ込む筈もなく、此処で明かに不思議な柄の手拭が二本現われ、その一筋は間違いもなく昨夜小三郎が忘れて行ったものとなるわけです。
「今朝小三郎が来なかったのか」
「まだ薄暗い時間に──私が木戸を開けに出て、お菊の死骸を見付けて大騒をしている時、一寸顔を見せましたが──その辺をウロ〳〵して直ぐ帰ってしまいました」
そう聞くと、もし小三郎が昨夜此手拭を忘れて行かなければ、お菊殺しの疑いは、真っ直ぐに手拭の持主の小三郎に懸って行くことになるでしょう。
手拭を忘れて行ったばかりに小三郎は、此恐ろしい疑いから免れて、恐ろしく知恵の廻る下手人が、小三郎と同じ柄の手拭を買って来て、お菊を絞め殺したという結論に導かれるのです。
「鎌、輪、ぬ」の柄は好んで手拭にも浴衣にも染め、中には刺青にまでしたもので、やくざ、遊び人、のらくら者、と言った肌合の人達は、好んでこれを用いもしました。
「親分、いろ〳〵面白いことがわかりましたよ」
そんな中へ、八五郎は飛んで来ました。
「大層早かったじゃないか、何処を歩いて来たんだ」
「何処も歩きやしません、投げ節の小三郎に逢って、一ぺんにわかっただけで」
「何が──?」
「第一に先ず小三郎は昨夜亥刻少し前に自分の家へ帰って、亥刻半(十一時)には佐竹の賭場へ潜り込み、暁方まで裸体に剥がれて居ますよ、証人が十人もあるから、こいつは嘘じゃありません」
「それから?」
「これからが大変で、──一昨日の大夕立の真最中、往来には入っ子一人居ず、家と言う家は、雨戸も窓も皆んな閉め切っている時、自分の家の物干から屋根へ飛降り、踊り舞台の足場を渡って、此路地へ飛込み、開けたままの縁側から忍び込んで、向う向きになって、ウト〳〵して居た、師匠のお園を刺し殺した者があったとしたらどんなものです」
「誰がそんな事をしたというのだ、誰にしてもグショ濡れになる筈だが──」
「曲者は裸体だったとしたら」
「?」
「大夕立に叩かれて、曲者の身体は人魚のように綺麗だったそうですよ、──もっとも、湯もじ一つだけは締めていたが──」
「小唄の師匠のお組が下手人だという積りか、お前は?」
「外にお園を殺しそうな人間は無いじゃありませんか、──お組の家を捜しても、濡れた着物は無かった筈で──裸体でやったんですもの。三十になったばかりの脂の乗り切った良い年増が、大夕立の中を、素っ裸体で屋根を渡り──口にこう匕首なんかくわえて、怨み重なる女を殺しに来るなんて図は、たまりませんね、親分」
八五郎は自分の首筋を撫でたり、肩を縮めたり、膝を叩いたりするのです。
「誰がそんな事を言ったんだ」
「もっぱら世上の噂ですよ」
「町内の人が皆んな口を開いて眺めていたわけじゃあるめえ、お前は口留めされたんだろう」
平次は早くも八五郎にこの話を吹込んだもののことを考えて居る様子です。
「お菊が向うの唐物屋の店先で、それを見て居たんですよ」
「お菊が?」
「此家の前で、親分に話そうとしたが、奥にお組が居るから──私は怖い──とか何んとか言って、口を緘んでしまったでしょう」
「フーム」
「それを、娘の心の中に畳み兼ねて、昨日うっかり人に話してしまい、それがお組の耳に入って、昨夜この路地で殺されたんでしょう」
「お菊を殺したのも、お組だというのか」
「そうとしか思えませんよ、木戸は締っているが、お組は元踊りの師匠をした位で、恐ろしく身軽だから、板塀に飛付いて、踊り舞台の足場に登り、大夕立の時と逆に、自分の家へ帰り、素知らぬ顔をしていたんでしょう」
「──」
「小三郎が忘れて行った「鎌、輪、ぬ」の手拭を持出したのは、細工過ぎて憎いじゃありませんか」
「だが、待てよ、八」
平次は漸く八五郎の懸河の達弁を封じました。
「あの大夕立の中を、裸体で屋根を渡って来たにしては、昨日のお組の髪は、少しも濡れては居なかったぜ」
「そこはそれ、風呂敷か何んか冠って」
「風呂敷や手拭であの夕立が凌げるものか、まるでブチまけるようだったぜ」
「ヘェ?」
「若い女が、あの大雷鳴の中を、裸体で屋根を渡るのは容易のことじゃないぜ」
「もっとも若い女は、それ程でもない癖に、雷鳴嫌いを見得にして居ますよ、──それに若旦那の金之助は言ったでしょう、お園はひどく雷鳴は嫌いだが、お組はそれ程でも無いと、──ね、雷鳴嫌いのお園さえ、横になってツイうと〳〵とやった位ですもの、お組が裸体で屋根を渡ったって、雷鳴様だって面喰って、臍は取りませんよ」
八五郎は大に弁じますが、平次は黙って考え込んでしまいました。
「そいつは一応面白そうだ、お組のところへ行って臍が無事かどうか、訊いて見ようじゃないか」
平次はもうお園の家を出て路地に立って居りました。袋路地の入口、一方は板塀で、踊り舞台の足場が、塀の上へ高々と組みあげてありますが、此処からお組の家へ行くためには、路地の奥の木戸を開けて、大家の庇の下を通して貰うか、猿のように足場を攀じ登るか、でなければ、表通りをグルリと廻る外はありません。
平次と八五郎が行った時は、お組は一と息入れて、これから又お園の家へ出かけようという時でした。
何処かで祭の太鼓、まだ朝のうちだというのに、樽御輿を揉んでいるらしい、子供達の声などが、遠くの方から揺り上げるように聴こえます。
「あら、親分、何んか御用? こんなに早く」
などと、お組の磨き抜かれた顔は如才もない愛嬌がこぼれます。引締った三十女、古典的な眼鼻立、お園のような不均整な顔の道具から来る魅力はありませんが、いかにも自尊心に充ちた人柄です。
「何処かへ出かけるのか師匠」
「お園さんが死んでしまって、あの踊り舞台をどうしようもありません。二年に一度の本祭で、皆んな張り切っているし、娘達の仕度も大変でしょう、──お園さんのお母さんと相談して、昔は踊りを教えたことがあるから、兎も角も後の始末は私が引受けて、格好だけはつけることにしました。せめて今日一日だけでも、あの舞台で皆んなを踊らせれば死んだお園さんも浮べるというものでしょう」
お組はホロリとするのです。
「掴み合いの喧嘩までした師匠がねェ、大した心掛けじゃないか」
「喧嘩は喧嘩、義理は義理ですよ、これで踊りの師匠を又始める気じゃ、そんなお節介は出来ないけれど、どうせたった一日だけの代役で、私はもう二度と舞扇を持つ積りは無いから、飛んだ気が楽ですよ」
「えらいな師匠、その心掛が気に入ったよ、──ところが、その気持も知らないで、お組師匠がお園師匠を殺し、その上、それを知って居るお菊までも、絞め殺して口を塞いだと言ってる者があるんだがね」
平次はとうとう言うべきことを言ってしまいました。
「まァ、まァ、それは本当ですか、親分、誰がそんな事を──第一あの大夕立の中を──」
お組の仰天も見事でした。どんなに期待した驚きの仕草も、これほどまでには効果的でなかったでしょう。眼を大きく見張って、唇の色までがサッと変ったのです。
「あの大夕立の中を、お前は腰巻一つの裸体になって、物干から屋根に降り、隣の空地に建てた仮舞台の足場を渡り、あの楽屋から小三郎が忘れて行った匕首を持って、板塀を越してお園の家の裏から入り、お園を殺して帰って来たというのだよ──昨日お前に逢った時、少しでも髪が濡れて居ると、俺もそう思ったかもしれない」
「まァ、そんな事が──」
「お前の家に濡れた着物が一枚も無かったと聴いて、作者がそんな事を拵え上げられたのさ」
「それで、あの時八五郎親分が、私の家の風呂場でウロ〳〵して居たわけなんですね」
お組の眼はジロリと、平次の後ろに小さくなっている八五郎を睨みました。
「まァ、怒るな、八に風呂場を見るように言い付けたのは此俺だ」
「そんな事が出来るかどうか、考えてもみて下さい。いくら大夕立の中だって、真っ昼間の屋根の上を、若い女が裸体で渡れるものかどうか、私はこれでも三十になったばかり、まだ独り者よ」
「それはわかって居る」
「第一、家の屋根と来たら、家主がケチでトン〳〵葺きが腐りかけているんだもの、物干の下なんか猫が歩いても踏み抜きそうよ、嘘だと思ったら、八五郎親分、あの屋根を渡ってみて下さい、首尾よく舞台の足場に辿り着いたら、私は黙ってお園さん殺しの下手人になり、随分お処刑台の上へ此首を載っけて、都々逸の一つ位は歌って上げてもいいヮ、随分人を馬鹿にして居るのね、畜生ッ」
お組の爆発する嬌悳の前に、八五郎はまことに散々です。
「いい、わかったよ、師匠、お前が怪しいと思えば、わざ〳〵やって来て、こんな事を言いやしない──ところで」
平次は一応撫めて置いて、まだ訊き度いことがあったのです。が、お組もなか〳〵引込んでは居ません。
「お菊さんが殺された時だって、私は若旦那の金之助さんと一緒に帰り、若旦那を此処へつれて来て──恥を言わなきゃわからないけれど、撚を戻したわけでなく、いよ〳〵手を切る積りで名残りを惜しむため、若旦那を一と晩此処へ泊めたじゃありませんか、お通夜の帰りの情事で、こんなことは言い度くないけれど、人殺しなんかにされちゃ叶わない」
「それはもういい、が、一つだけ、小三郎が踊り舞台の後ろの楽屋へ、匕首を忘れて来たと言ってるが、それを師匠は見なかったのか」
平次はお組の怒りをやり過して、新しい問いを持出しました。
「見ましたよ、多勢居る前で、帯を締め直すんだとか言って、不気味な匕首を取出し、皆んなに見えるように葛籠の上に置いたようでしたが、それっ切り、元の懐中へしまい込んだのを見ませんでした。匕首は何時までも葛籠の上に載って居た様です、──私がお園さんと喧嘩をして、大夕立が来そうになって、驚いて家へ帰るまで──」
「お前は本当に雷鳴が嫌いなのか」
「好きじゃないが、そんなに嫌いでもありませんよ、でも、若い女が雷鳴が怖くないなんて、平気な顔をしていると、色気がなくて変じゃありませんか」
こんな秘密までは、平次も気が付きません。
「八、どうだ、見当は付いたか」
お組の家を出ると、平次は面白そうに八五郎を振り返りました。
「驚きましたね、あの女が下手人じゃ無いんですか」
「どうも、そうらしくないよ。お園の死骸の股のところに、血染の手形が着いていたが、あれは随分大きかったようだな」
「女の下手人が、自分の掌を動かして、わざと、あんな大きな手形をつけたんじゃありませんか」
「動かしながらつけた手形なら、指先の渦巻や、手の平の筋の跡が消える筈じゃないか」
「すると、どんな事になりましょう」
「お前にお組が下手人に違いないと教えたのは誰だ」
「小三郎ですよ、──賭場から裸に剥かれてぼんやり帰って来たという投げ節の小三郎に、昨夜お通夜の人達より半刻も早く帰ったから、何処へ潜り込んだか訊くと、──実は、お組が下手人に違えねえと教えてくれたんで」
「そんな事だろうと思った──おや、お園の家へ小三郎が来て居るようだ、お前は外で待って居てくれ、いいか」
平次は何やら八五郎に囁くと、それを路地の外へ出してやり、自分の手で木戸を閉めて、さて、お園の家へ外から声を掛けるのでした。
「小三郎兄哥ちょいと来てくれ、見て貰い度いものがあるんだが」
「へえ? 銭形の親分ですか、ちょいと待って下さい」
小三郎は殊勝らしく仏様の前で線香などを上げて居りましたが、麻裏を突っかけて気軽にヒョイと顔を出しました。
「小三郎兄哥、お組の家の屋根は、すっかり腐っていて、人間は歩けそうも無いぜ」
「えッ?」
「お園を殺した下手人を、向うの唐物屋の店先からお菊が見ていた、──それを俺に教えようとしたとき、俺の側に居て眼顔で留めたのは、小三郎兄哥、──お前じゃなかったのか」
「──」
「お園の死骸の股にある血の手形は、まだ拭き取っていない筈だ、お前の手と比べて見ようか」
「親分、そんな事が、と、飛んでもない」
「お前がお通夜の席から帰ったのは亥刻前で、佐竹の賭場へ行ったのは亥刻半だ、その半刻の間、お前は路地の暗がりに隠れていて、皆んな帰った後で、木戸を閉めに出たお菊を殺し、塀を乗越えて逃げ出した筈だ」
「──」
「自分の匕首を楽屋に忘れて来て、それを皆んなに見せて置き後から行ってその匕首を持出してお園を殺し、夕立に濡れたのを胡魔化すために、夕立が晴れ切らぬうちに、皆んなに見えるようにお園の家を覗いて、大声で騒ぎ出したのは細工が細かいな」
「──」
「お菊を殺すために、手拭を二本用意し、一本をわざと忘れて出たのも巧い手だが、今朝早くお園の家を覗いて、忘れた方の手拭を持出そうとして見付からなかったのは天罰だよ、手拭は入口の沓脱の間に落ちて居て、お前の眼にも見付からなかったのだ──お前の様な悪い奴は無いぞ、なまけ者で小ばくち打で、お園もお組も相手にしないのを怨み、お園を殺して、その疑いをお組に着せる積りで、細々と仕組んだに違いあるまい」
平次の論告は峻烈でした。それを黙って聴くと見せた小三郎は、隙を狙ってサッと塀に飛びつくと、曾てお園やお菊を殺して逃げた時と同じ道順を、舞台の足場に飛付き、猿の如く渡って、隣の路地へポイと飛降り、そのまま逃出そうとしましたが、どっこい、
「野郎、神妙にせい」
其処に待機していた八五郎が、無図と組み付いたのです。
この捕物は少しばかり汗を掻かせましたが、それよりも神田祭の人出が、宏大な野次馬群になって、十重二十重に路地を塞いだのには驚きました。
* *
「でも念入にイヤな野郎さ、女に嫌われてそれを殺すのに、あんな細工をするというのは」
事件が落着してから、平次はツク〴〵言うのでした。
「でも、あの大夕立の中を、神田一番の綺麗な年増が、裸体で屋根を渡って人殺しに行ったと聴いた時は、全く、そいつを見たら孫子の代までも話の種だろうと思いましたよ」
「馬鹿だなァ」
「安やくざの小三郎が下手人じゃ、一向つまりませんね、親分」
「その代り、神田一番の結構な年増が、飛んだ侠気な、良い女とわかったじゃないか」
「そこで、あっしもこれから小唄の稽古でも始めようかしら」
そんな事を言って長んがい顎を撫でる八五郎です。
底本:「銭形平次捕物控 鬼の面」毎日新聞社
1999(平成11)年3月10日
初出:「サンデー毎日」
1950(昭和25)年7月2日号~16日号
※初出時の表題は「銭形平次捕物控の内」です。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:結城宏
2017年5月31日作成
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