銭形平次捕物控
恋患い
野村胡堂
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「親分は、恋の病というのをやったことがありますか」
ガラ八の八五郎は、大した極りを悪がりもせずに、人様にこんなことを訊く人間だったのです。
素晴らしい秋日和、夏の行事は一とわたり済んで、行楽好きの江戸っ子達は、後の月と、秋祭と、そして早手廻しに紅葉見物のことを考えている時分のことでした。
相変らず縁側に腹ん這いになって、不精煙草の煙の行方を眺めていた平次は、胆をつぶして起直りました。いかに親分子分の間柄でも、こんな途方も無い問を浴せられたことはありません。
「あるとも、風邪を引くと、ツイ咽喉を悪くするが──」
何という平次のさり気なさ──
「その声じゃありませんよ、恋患いの恋で、小唄の文句にもあるじゃありませんか」
「馬鹿野郎ッ」
「ヘッ」
「恥を掻かせまいと思って、いい加減にあしらって置くのに、何んて言い草だ、俺は恋患いをする柄か柄でないか、考えて見ろ」
「へエ、そうですかね──あっしのような呑気な人間でさえ、思い詰めると、鼻風邪を引いた位の心持になるんだが」
「呆れた野郎だ。お前のような人間でも、恋患い見てえなことをやるかえ」
「たんとはやりませんね。精々月に一度か二度」
「間が抜けて挨拶も出来やしない。月に三度も恋患いが出来るかよ、馬鹿々々しい──見ろ、お静はとうとうたまらなくなって、腹を抱えてお勝手口へ飛出したじゃないか」
この掛け合いの馬鹿々々しさは、まさに女房のお静を井戸端まで退散させてしまったのです。
「ところが、その恋の病で、死にかけている人間が、あっしの知っているだけでも、五人はあるんだから大したものでしょう」
八五郎はおめず臆せず話を続けるのです。
「成るほど、世の中は広いな」
「ね、驚くでしょう」
「あとの四人は何処の誰だえ」
「四人じゃ無い五人ですよ」
「そのうちの一人は八五郎だろう」
「冗談じゃありませんよ、あっしなんかの相手になるものですか、高嶺の花で──」
「大層六つかしいことを知って居るんだな」
「これも小唄の文句で」
平次と八五郎の掛け合いは、危うく脱線しそうになりながらも、巧みに筋を通して行くのです。
「ところで、その死にかけて居るのは誰と誰だ、人の命に拘わると聞いちゃ放っても置けまい」
「第一番は和泉屋の倅嘉三郎、──練塀小路の油屋で、名題の青瓢箪」
「第二番は?」
「無宿者、薊の三之助、これはちょいと良い男ですよ、何んだって、あんな野郎がまた、尋常な眼鼻立を持って居るんでしょう」
「無駄が多いな、第三番は?」
「五丁目の尺八の師匠竹童、四番目は御家人伊保木金十郎様の倅で、まだ部屋住みの金太郎──名前は強そうだが、女に惚れて病気になる位だから、人間は大なまくら」
「五人目は?」
「金沢町の地主、江島屋鹿右衛門の養子与茂吉」
「六人目がお前か、五人じゃ数が悪いな」
「六阿弥陀と間違えちゃいけません」
「ところで、それだけの男を病みつかせる疫病神は何処に居るんだ」
「疫病神じゃありませんよ、江戸一番のピカ〳〵する娘で、このまま放って置いたら、講中がふえるばかりだから、恋患いを束で数えることになりやしないかと心配して居る位のもので」
「言うことが馬鹿々々しいな」
「その惚れられ手は、親分も聴いて居るでしょう、この半歳か一年の間にメキ〳〵と綺麗になった、金沢町の大地主、江島屋鹿右衛門の一人娘お艶」
「何んだ、あのお艶坊か──俺はまた何処のお姫様の話かと思ったよ」
「ね、親分だって驚くでしょう、あれは毛虫が蝶々に化けたようなもので、──その蝶々だって、並大抵の蝶々じゃありませんよ」
「蝶々にも並出来と別誂えとあるのか」
「揚羽のお艶というんだから、大したものでしょう」
などと、八五郎の話は他愛もありません。
「ところで、その亡者共が、どんな騒ぎをやったと思います、親分」
八五郎の話は第二段に入りました。
「俺は知るものか、恋の病と血の道は、患った覚えは無いよ」
「銭形の親分が暗いのはその道ばかり──世間ではそう言って居ますよ」
「余計な心配だ」
「何しろ金沢町の居廻りは、薄寒いのに夕涼みの人通りで大変な賑いだ」
「それは何の禁呪だ」
「何んかの弾みで、揚羽のお艶が、門口へ顔を出さないものでもあるまいという、心細い望みなんだそうで」
「厄介だな」
「町内の湯屋は大変で、お艶が来る日を心得て居て、その日の男湯は芋を洗うほどの騒ぎで、それに羽目も壁も穴だらけにされて、桜湯の親爺は大こぼしですよ」
「──」
平次は黙り込んでしまいました。
「それから江島屋の通りは、宵から夜中へかけて、のど自慢が押すな〳〵ですよ、歌うの吹くの──」
優にやさしき騎士達は、行列を作って夜もすがら、セレナーデを歌い奏で続けて、お艶の一顧を得ようとするのでしょう。
「──」
「時々は喧嘩が始まって、怪我をする者もある騒ぎで──訊いて見ると、お艶さんに二度振り返って見られた野郎が、三度振り返られた報果者を殴ったんだそうで」
「もう沢山だ、八、俺はもう胸が悪くなったよ」
平次はやけに煙管を叩いて、胸などをさすって見せるのでした。
「もう少し聴いて下さいよ、親分、これからが面白いんで」
「勝手にしやがれ」
「その揚羽のお艶が、今度一枚絵になって売出されたんだから、大したものでしょう」
「素人娘が一枚絵にね」
平次の顔は酢っぱくなるばかりです。「美人崇拝」は昔も今も変りは無く、名ある美人が一枚絵になって売出される例は、随分古くから行われたことですが、それはほとんどことごとく遊女とか茶汲女とか、精々御師匠さん位が止りで、素人の娘が一枚絵になって、絵草紙屋の店頭にブラ下るということは、先ず前例の無いことです。
「素人娘の一枚絵でも、売れ行きは大したもので、吉原の名ある太夫の一枚絵にも負けないだろうという噂で」
「誰がそれを買うんだ」
「岡惚れ筋は皆んな一枚ずつ買いますよ、恋患いの口は、一人で十枚二十枚と引受けるから、それだけでも大変で」
「お前は?」
「ヘッ、ヘッ、一枚買いましたよ」
八五郎はニヤリ〳〵と小鬢のあたりを掻くのです。
「持って居るのか」
「持って来ようと思いましたがね、枕皺がひどいから止しましたよ」
「正直でいいな、お前は、毎日その一枚絵を抱いて寝るのか」
「抱いてなんか寝やしません、枕の下へ敷いて寝るんで」
「まるで宝船だ」
「あまり結構な夢も見ませんね」
「当り前だ」
話は際限もなく馬鹿々々しい調子になります。が、この市井の一些事らしい「揚羽のお艶」の噂が、飛んだ凄まじい事件に発展しようとは、銭形平次も思い及ばぬことだったに違いありません。
八五郎の「大変」が、つむじを起して舞い込んだのは、それから十日位経ってからでした。
「さア、大変、親分」
井戸端で顔を洗って居る平次は、猿屋の房楊子を井戸側の割れ目に突っ立てて、静かに振り返りました。
「悪い陽気だ──今時分から、お前の「大変」が降るようじゃ」
「霙と間違えちゃいけません──兎も角、直ぐ行って下さいよ、親分」
「何処へ行くんだ、俺はまだ顔も洗っちゃ居ないぜ──袖を引張ったって、無理だよ八」
「でも、今直ぐ行けば、揚羽のお艶の顔が拝めて礼の一と言位は言わせますよ」
「止さないか、馬鹿々々しい、俺は今朝滅法寝起が悪いんだ」
無駄を言いながらも、平次は手早く顔を洗って、さてと向き直ります。
「本当に大変なんですよ、親分」
「あわてた野郎だ──揚羽のお艶がどうしたんだ、俺は腹を拵えねえうちは、お大名に取立てると言っても、出かけねえことにしてあるんだ」
「殺しですよ、親分、江島屋鹿右衛門の塀の上で、薊の三之助が忍び返しに引っ掛ったまま、百舌の贄のようになって死んでいるんだ、こいつは江戸開府以来の変った殺しじゃありませんか」
「江戸開府以来の殺しは大袈裟だが──兎も角、行って見ようか」
さすがに平次でした、そのまま朝飯も忘れて、手早く出かける仕度に取かかるのです。
「親分、腹拵えは?」
「もういいよ」
「お大名に取立てられても──と言ったじゃありませんか」
「お大名に取立てられても動かねえ積りだが、仕事は別だ」
「てヘッ、有難えな親分」
八五郎は額を叩いて、ペロリと長い舌を出すのです。自分もまだ朝の餌にもありつかない癖に、そう言った親分の心意気が嬉しくてたまらない八五郎です。
金沢町まではほんの一と走り。
「あ、これは大変な騒ぎじゃないか」
江島屋の裏、狭い路地を埋める野次馬の群に、平次は先ず胆をつぶしました。
「親分に見せるまで、放って置くように、やかましく言って置きましたよ」
八五郎は心得たことを言います。
野次馬の群をかきわけて、江島屋の裏口近くまで行くと、平次がもう一度驚いたほどの、それは不思議な殺しでした。
「成程こいつは、江戸開府以来だ」
金沢町は言うまでもなく、神田から下谷へかけて、五本の指に折られた大地主、江島屋の構えは町人にしては贅に過ぎるほどで、四方にめぐらした板塀の厳重さ、その上に植えた忍び返しは、天に向って振り立てた、無気味な武器にも似て、僭上の限りです。
その裏口の切戸近く、鑓のように突っ立った忍び返しの上に、若くて丈夫そうな男が一人、手拭の頬冠り、縞物の渋い袷を着たのが、ほとんど逆さ大の字になった形に、胸から腰のあたりを引っ掛けて死んでいるではありませんか。
八五郎がこれを『百舌の贄』と言ったのは、適切過ぎるほど適切な譬えでした。大の人間が一人、こんな格好になって死ぬためには、天狗の悪戯か、雲を踏み外した仙人か──そんな途方もないことでも考えなければなりません。
「八、手を貸せ──いや、二人じゃ六つかしいだろう、梯子を二、三挺、四人位の人手が要るが」
「待って下さい親分」
八五郎はその用意に何処かへ飛んで行きました。
その間に平次は、江島屋の庭から掛けた九つ梯子を登って、死骸の側まで行くと、下から、上から、横から、念入に調べ始めたことは言うまでもありません。
薊の三之助というのは、二十五、六のやくざ者によくある型の、ちょいと良い男でした。華奢で、筋肉質で、きかん気で、喧嘩強そうで──そのくせ、顔一面に漲る恐怖は、死面一杯に青隈になってコビリ附いて、物馴れた平次も、その不気味さに身を震わせた程です。
忍び返しの一本は、三之助の帯に引っ掛り、次の一本は背中から胸の一部をかすり、袷を破って前へ突き抜けて居りますが、忍び返しで受けた傷は、ほんのかすり傷で、人の命を奪る程のものでなく、三之助を忍び返しに留めて置いて、その命を奪ったのは、背後から深々とえぐった左胸元の傷、──心の臓を破った一と突きでなければなりません。
やがて八五郎が集めて来た三挺の梯子と四人の人手で忍び返しの上の三之助の死骸は江島屋の庭に降されました。江島屋の主人鹿右衛門は、この死骸を塀の内に降ろすのを、ひどく嫌がりましたが、路地を埋める野次馬の好奇の眼を避けるためには、これより外に工夫は無かったのです。
「困ったことで、銭形の親分」
などと、この五十年配の、気の弱そうな中老人は、積極的にそれを断わる力もなく独り言のように愚痴を言って居ります。
手伝ってくれたのは、養子の与茂吉と、下男の幹助の二人、一人は二十三の青白い若旦那型で、一人は赤黒い三十男、一人は弁舌の達者な、感じの滑らかな人間で、一人は無口で丈夫そうで、眼鼻立までがっちりした男、面白い対照です。
その騒ぎの中に、見廻り同心、打村小右衛門が、検死に立ち会いましたが、銭形平次の顔を見ると、
「拙者は外にも用事がある。万事よきように」
と平次と町役人に任せて引揚げてしまいました。
平次はその寄託は無くとも、事件の異様な形相に興味を持ったらしく、恐ろしい熱心さで調べ始めます。
死骸の懐中には、腹巻に突っ込んで、匕首が一と口、肌守りと煙草入と、その煙草入の中に、小粒が三つ四つ、外には持ち物もなく、素より誰がこんな恐ろしいことをやったのか、手掛りらしいものは一つもありません。
塀と母屋の間は僅かに一間半ほど、庇の端から塀の上へは六尺ほどしか離れて居ません。下は滑らかに苔蒸して、足跡もよくは見えず、三之助の死骸の引っ掛って居る忍び返しと相対するのは、二階の窓の格子で、その中が娘のお艶の部屋になって居るのは、何んかの暗示がありそうです。
「親分、あの庇に登って居るところを突き飛ばすと、一寸忍び返しの上に落ちはしませんか」
八五郎は早くも、この江戸開府以来の変な死から「可能」を嗅ぎ出そうとして居ります。
「庇の上に足跡があるか無いか、あの窓の格子が外せるかどうか、──それを見窮めなきゃ、きめてかかるわけに行かないよ」
平次は直ぐにはその仮定に乗りません。
「親分」
「何んだ、八」
「あれを──後ろですよ」
八五郎に横っ腹を小突かれて、平次は何心なく後ろの方──母屋の縁側を振り返りました。
「──」
ハッと、平次も息を呑んだほどの素晴らしさ、柱に凭れて、不安そうに此方を見て居るのは、幼な顔に見覚えのある、それは江島屋の一人娘、成熟し切ったお艶の姿に紛れもありません。
娘が年頃になるとこうも綺麗になるものか──平次が、眼を見張ったのも無理もないことです。十年前まで、それは、眼ばかり大きくて、青黒く薄汚れた、唯の小娘だった筈です。何時の間にそれが脱皮して毛虫から揚羽の蝶になったか、想像を絶した造化の奇蹟という外は無いのです。
薄桃色の羽二重に、銀粉をまぶしたような皮膚や、端正な目鼻立、わけても少し大きい眼や、ポッチリ咲いたような唇の魅力など、一つ一つの美しさは算え立てても際限がありませんが、何より、体内に灯された処女の生命が、一顰、一笑、一挙手、一投足に、恐ろしいばかりの光明になって、その五体から発散するのです。
「美人礼讃」では、決して人後に落ちない江戸っ子達が、急に騒ぎ出したのも無理のないことでした。五人、六人と、若い男を束にして、恋患いさせたという、八五郎の報告も決して嘘では無かったでしょう。
「お嬢さんですかえ」
平次はこう訊いて見たい衝動をどうすることも出来なかったのです。並外れに美しいものに対する、平次の好奇心の、ささやかな現われだったかも知れません。
「──」
娘は黙ってうなずきました。
「昨夜何んか気のついたことはありませんか、人の声とか、物音とか」
「いえ、少しも」
娘は自衛的に表情を引緊めました。こう答える声は、顔にも姿にも似ぬ、少し錆のある女声最低音、平次は妙な幻滅をさえ感じました。
「殺された三之助を、お嬢さんは知っていることでしょうな」
「よく知って居ります、でも」
お艶は言い憎そうに、可愛らしい顎を襟に埋めました。
「でも?」
「あの人は怖かったんですもの」
お艶が答えるのは、それが精一杯でした。平次が次の問を用意する前に、娘の姿はスル〳〵と、障子の蔭へ隠れたのは、せんすべも無いことでした。
「あの通り、年は十九でも、まだほんの子供で」
振り返ると主人の鹿右衛門は、揉み手をしながら、娘のために弁じて居るのです。
「心当りはありませんかえ、江島屋さん」
平次は此父親から先ず手ぐる外はありませんでした。
「心当りと申しますと」
「薊の三之助は、うるさくお嬢さんに付き纏って居たということだが──」
「それはもう、困ったことでございました。物を言ってわかる人間ではありませんし、こればかりは金づくで追っ払うわけにも行かず、私も娘も、閉口いたして居りました」
鹿右衛門はツク〴〵言うのです。
「ところで、お嬢さんへ絡みつくのは、二人や三人では無かったということだが、三之助と張り合って、一番うるさくしたのは、誰で?」
「さア、誰と申して」
一向に要領を得させません。五十年配の苦労人らしい遠慮でしょう。
「ところで、江島屋の跡取りはどうなるんです」
「与茂吉と申す養子でございます。」
それははっきりして居りました。
「いずれお嬢さんと祝言させることでしょうな」
「そう言うことになると思いますが、何分娘が厄で」
女の十九の厄年が、どんなに重大なものか、徳川時代の空気に触れて見なければ、これは呑込めないほどの意味を持つのです。
「早く祝言させて、世間へも披露したら、こんな騒ぎが起らずに済んだことだろう」
「そうでしょうか」
娘の美色は、セレナーデを奏する塀外の騎士達ばかりでなく、肉身の親までも白痴にして居る様子でした。
平次はこの愚かしき親を見放して八五郎に手伝って、何彼と世話を焼いて居る、養子の与茂吉を相手にして見る気になりました。
「飛んだお世話で──」
などと、この華奢な息子型の男は、平次を迎えました。
「お前さんも、昨夜何んにも聴かなかった方の口かな」
平次は諦めた調子です。
「いえ、子刻過ぎでしたか、妙な音を聴いたように思います」
「妙な音?」
「何処かで人間の悲鳴を聴いたように思います。それから、どたりという恐ろしい音と」
「待ってくれ、人間の悲鳴の方が先だつのかな、確かに」
「間違いございません──私はよっぽど起きて見ようかと思いましたが、若い者の喧嘩は毎々のことですし、つい、そのまま寝てしまいました」
「お嬢さんは、大変な評判のようだが、お前はそれをどう思って居なさる?」
「さア、どう思ったところで、致し方もございません。」
与茂吉は諦め切った姿でした。そうかと言って、此家から飛出しもならず、怪しい蜘蛛の糸に繰られて、お預けを喰いながらジッとして折を待って居るのでしょう。
「今朝、忍び返しの上の死骸を見付けたのは?」
平次は話題を変えました。
「下女のお六でございました、大きな声を出したので、あっしが飛んで出ると」
それは側に居た下男の幹助の説明です。赤黒くて武骨ですが、話の筋も通り、物の役にも立ちそうな男です。
「お前は此家へ長く奉公して居るのか」
「三年になります」
「昨夜は?」
「私は何んにも聴きません、もっとも私の寝て居るのは家の向う側で」
そんな話をして居るところへ、八五郎は飛んで来ました。
「親分、あの庇から窓のあたり、梯子を掛けて念入に見て来ましたが──」
「何んか変ったことがあるかえ」
「庇の上は苔もそっくりして居るし、人間の歩いた様子もありません。朽った板屋根だから、忍び込んだ曲者を突き飛ばせば、足跡位は残りますよ」
「それから?」
「格子窓は恐ろしく頑丈な釘付けで、近頃外した様子もありません」
「よし〳〵、そうわかると、調べが楽だ。ところで、お前はお勝手から下女のお六というのを呼んで来てくれ」
「あの女は大変ですよ、親分」
「何が大変なんだ」
「慾の深い四十女で、お嬢さんへ手紙を頼むと、駄賃に三百文から一朱二朱まで取るそうで、相手の懐中を読んで相場を拵えるから、色文の取次を頼みながらも、皆んな腹を立てて居ますよ」
八五郎までが腹を立てるところを見ると、これも何百か唯で取られた講中の一人かもわかりません。
「あれで、お嬢さんから返事は来るのか」
「滅多に手応えが無いんだそうで、──もっとも返事も貰ってくれたら、一分位は奮んでもいいというのもありますがね」
これも八五郎自身の経験かもわからないのです。
が、江島屋の娘をめぐる、これが、最初の事件で、恋患いの一味には、これを切っかけに、思いも寄らぬ変事が、次から次と起るのでした。
金沢町江島屋の忍び返しに、百舌の贄のように引っ掛って死んだ薊の三之助の下手人は、それっ切りわからず、四日五日と苛立たしい日は続きました。
もっとも平次は外に手の離せない南町奉行所直々の御指図の仕事があって、金沢町はツイ、八五郎任せになってしまったせいもあったでしょう。
「親分、何んとかして下さいよ、あっしじゃ何うにも眼鼻が付きませんよ」
八五郎が音をあげて来たのは、それから丁度五日目。
「意久地のねえ野郎だ、──人間が空を飛んで、忍び返しに引っ掛るわけはねえ、それに江島屋には、揚羽のお艶という、若い男をフラ〳〵にさせる、結構な餌が居るんだ、恋患いの講中を、片っ端から洗って見るがいい」
平次は、せめてこれだけでも八五郎の手柄にしてやり度いと思ったのか、ツイこう言った激しい言葉も浴びせるのでした。
「洗いましたよ、一人々々灰洗いにして、蔭干にして居ると、いつもの三輪の万七親分が飛んで来て、手一杯に掻き廻した上、五丁目の尺八の師匠、竹童とかいう鼻の下の長えのを縛って行きました」
「その男に怪しい素振りでもあったのか」
「尺八吹きのくせに大男で力も並々じゃないから、三之助を手玉に取って、忍び返しの上へ投げ上げるのは、恋患いの講中では、竹童の外に無いというのですよ」
「成程ね」
「その上、あの晩は尺八のけえがあって、夜半過ぎに自分の家へ帰って居ますよ──松永町から五丁目への帰り途、金沢町へ廻って江島屋を覗くと、先客の三之助が、変な素振りで江島屋の裏手の忍び返しを乗越そうとして居るから、いきなり脇差か何んかで突き上げて殺したに違えねえ──と」
「待ってくれよ、八、忍び返しを乗越すところを突き上げたというなら、大した力が要らないわけじゃ無いか」
「そこが、それ三輪の親分の考えで──」
「それは、それとして、三之助を突き上げた刃物はどうしたんだ」
「どっかの溝へでも投り込んだことでしょうよ、神田川だって、そんなに遠くなし」
「忍び返しの上に居る人間を突くのは六つかしいぜ、それに、うんと返り血を浴びるわけだが、竹童の家を捜して見たことだろうな」
「年寄の雇婆さんと二人暮しですが、血の付いたものなんかありゃしませんよ、いずれあれから三日も四日も経って居ることだから、自分で始末したことでしょう」
「兎も角、腑に落ちないことだらけだ。あれから五日もお前はジッとして、三輪の親分のすることを、見て居たわけじゃあるめえ、調べただけを、皆んなブチまけてみな」
「随分骨を折りましたよ、五日の間というもの、夜の眼も寝ずに──」
「嘘を吐きやがれ」
「夜は思う存分寝ましたが、陽のあるうちからは随分働いた積りで──」
「第一番にどんなことに気が付いたんだ」
「江島屋の娘──お艶という女は、見れば見るほど綺麗だということですよ」
「それっ切りか」
「その綺麗なのが抑々間違いの因で」
「そも〳〵と来やがった、近頃はどうも、お前の話を聴いて居ると、学が邪魔をしてならねえ」
「でもね、親分、あんな良い美女の娘は、ザラにある代物じゃありませんよ」
「美女の娘は嬉しいな、そいつも学のせいだろう」
「色白──と言ったって、あんな底光りのする色白は滅多にありませんよ、白羽二重に紅絹を包んで銀の粉をまぶしたような色だ、眉がボーッと霞んで、眼が大きくて、妙に素気ない癖に情愛を含んで、目元の可愛らしさというものは──」
「もう沢山だよ──その次は、鼻の穴が二つあって、耳が間違いもなく二つで──と来るだろう」
「あっしはもう、親分の見立てじゃないが、いよ〳〵六人目の恋患いに取付かれたかと思いましたよ、あの娘を見ると、胸がドキ〳〵して、眼がクラ付いて、無暗に腹が減って──」
「まさか喰い付きやしまいな」
「兎も角も、あんな女は眼の毒ですね、お奉行様にでもお願いして、江戸構か遠島にでもして貰わなきゃ、神田中の若い男は気が変になりますよ」
「五日の間に捜ったのは、それっ切りか」
「へエ、それっ切りで」
「馬鹿野郎、夜の眼も寝ずに、お艶の後ばかり追い廻して居たんだろう」
平次は怒る張合いもありません。恐らく江戸一番のフェミニスト八五郎は、役得の気で江島屋に乗込み、朝から晩まで娘お艶の人相ばかり調べて居たことでしょう。
「それじゃ親分、どんな事をやりゃいいんで」
「暫くの間、お艶と顔を合せたら、眼をつぶるんだよ、唾位吐いてもいい、──お前の顔を見ると、胸が悪くなる──と言った顔をして、せっせと外の事を調べるんだ」
「外を?」
「恋患いの講中がまだ四人残って居るだろう、その身許から、平常の暮し、近所の評判、あの晩の動き、身だしなみ、力があるか弱いか」
「ヘェ」
「それから江島屋の内輪の様子、暮し向き、養子の与茂吉の里方、下男の幹助と下女のお六の身許から請人、日頃の心掛、お艶の親達の様子、世上の噂──」
「──」
「それ位のことがわからないお前ではあるめえ、今後お艶の顔ばかり見て、デレりとして帰って来ると、笹野様にお願いして、島送りの役人に付けて、八丈島へやるから、そう思え」
「やりますよ、やりますとも、それ位のことなら、わけはありませんよ」
八五郎はまことに這々の体でした。
「親分、今日は」
その翌る日でした。八五郎はひどく上機嫌で、泳ぐように狭い路地を、平次の住家の格子に辿り着くのでした。
「どうだ、島送りの役人に付いて行く気になったか」
「冗談で──三宅島や八丈島に、良い新造が居るとわかれば別ですが」
「あんな野郎だ、呆れて物が言えねえ」
「ところで、親分に言い付けられたのを、一と通り調べて来ましたよ、もっとも、合間々々に江島屋へ行って、あの娘にも逢いましたがね」
「又、デレ〳〵と顔ばかり見て居たろう」
「ところが、今度は、親分に教わった通り、首から上は見ないことにしましたよ、物を言うんでもソッポを向いてね──お前の面なんざ見たくも何んとも無い──てな顔をして」
「そんな事が出来たのか」
「胸が悪くて叶わないということにして、江島屋の庭を唾だらけにして」
「汚いな」
「すると、効験あらたかでしたよ。今まであっしなんかには、鼻も引っかけないような、素気ない顔をして居たあの娘が、急にチヤホヤして、──お茶が入ったからちょいといらっしゃい──とか──良いお菓子がある──とか、いろ〳〵のことを言って、あっしを自分の部屋に誘い、結構なお茶やお菓子を御馳走した上、此節は物騒で叶わないから、戸締りを見てくれとか、格子の具合を調べてくれとか、いやもう、大変な持てようでしたよ」
「で?」
「きりょう自慢の女に逢ったら、その顔を見てやらないに限ると思いましたよ、時々つまらなそうな顔をしたり、胸が悪そうにして唾を吐くのは、なか〳〵きき目がありますね」
「で、何んか気の付いたことがあるのか」
「ありますよ──あの娘の顔ばかり見て居ちゃ気が付きませんが──あの手の美しいということは」
「──」
「細くてしなやかで、指が一本一本笑くぼが寄って、爪が桜貝のようだ」
「馬鹿野郎──水仕事一つしないような、怠け者の手なんか見て感服したって、何んの足しになるんだ」
「でも、若い娘の手が、あんなのは悪くありませんね──もっとも、左の手に少し怪我をして居る様で、手の甲から手首にかけて、膏薬を貼っていましたが」
「お前の調べは、相変らず、あの娘のことばかりじゃないか、三輪の親分に鼻を明かされるのも、無理はないぜ」
「まだ沢山調べて来ましたよ」
「詳しく話してみな」
「恋患いの第一番、練塀小路の油屋、和泉屋の倅嘉三郎は、思い焦れて、枕もあがらないと言われて居ますが、骨と皮ばかりになって居ても、夜中に一度は外へ出て、フラ〳〵と金沢町まで歩いて行き、江島屋の塀の外から、お艶の部屋のあたりを見上げて、大きな溜息を三つばかりして、又とぼ〳〵と帰るそうですよ」
八五郎の話は奇っ怪でした。
「家の者がそんな話をするのか」
「飛んでもない、家の者は倅は大病だからと言い張って、あっしにも逢わせやしません、そのフラ〳〵のトボ〳〵は、近所の衆の噂ですよ──お隣の若い者が、宵から見張って居て、練塀町から金沢町まで跟けて行き、一伍仔什を見届けたというから、こいつは嘘じゃ無いでしょう」
「恐ろしく達者じゃないか、それで昼は人に逢えないほどの大病だというのか」
「あっしも不思議でならねえから、いろいろ訊いて見ると、枕のあがらぬ大病も本当なら、時々夜中に抜け出すのも本当だそうですよ、いやになるじゃありませんか、もっとも横町の奎斎先生に訊くと、──恋患いや貧の病なんてのは、病気じゃないそうですね、その証拠は、恋い焦れている相手に添わせてやると、厚紙を引っぺがすように治るんだって、随分勝手な話じゃありませんか。あっしも話の種に一度位は恋患いてえのをやって見ようと思うが、いけませんね、どんなにあの娘のことを思い詰めても、時分時になると、意地が悪く腹が減って、我慢にも寝ちゃ居られませんよ」
などと、八五郎の脱線振りは際限もありません。
「無駄はいい加減にして、お前の調べはそれっ切りか」
「まだありますよ。尺八吹きの竹童は三輪の親分に縛られましたが、あの男はお月様の良い晩なんか、江島屋の裏へ行って尺八を吹くんだそうですよ──恋慕流し──って言うんですってね、手数のかかった野郎で、尺八で思いのたけなんか吹いたって、相手に通じるわけはありませんよ、面と向って、手っ取り早く惚れたら惚れたと──」
「お前の話を聴いて居ると日が暮れるよ、もう少し先を急げ」
「御家人の伊保木金十郎様の倅金太郎、こいつは名前が馬鹿に強そうな癖に、本人は青瓢箪の大腰抜けの、柔弱野郎で──この柔弱野郎──てえのは、あっしの学で考えた名前じゃありませんよ、親父の金十郎様が、倅の顔を見ると、時も所も構わず、「此柔弱野郎」ときめつけるんだそうで、御近所じゃ伊保木様とも、金太郎様とも言やしません、頭から柔弱野郎様で通って居るから面白いじゃありませんか」
「面白かないよ、それがどうしたんだ」
「癆症だか恋患いだか知らないが、青くてヒョロ〳〵して居るくせに、どう渡りをつけたか、江島屋の下女のお六を手に入れ、毎日一本ずつ、一年も続けて恋文を取次がせるんだそうですよ、お六にとっては一番の大檀那で、取込んだ金は三両や五両じゃあるまいという評判ですよ」
「──」
「その上、返事を書かせれば二朱、お艶の身についた物を、そっと持って来てくれると一分──鼻紙の濡れたのが一分になるんだから、大した商法じゃありませんか」
「それから?」
「江島屋の養子の与茂吉は、いずれお艶と一緒になる約束でしょうが、この騒ぎを見せつけられて気が揉めない筈はありません。それにお艶と同じ屋根の下で暮して居るだけに、このお預けは骨身にこたえますよ、薄っぺらで、男のくせにおしゃべりで、ちょいと良い男でもありますが、近頃少し気が変になって居るんじゃ無いか──と、これは下女のお六の見立てですがね」
「何んか変なことでもあるのか」
「許婚の娘にこき使われて、色文の使いまでさせられるんだから、正気の沙汰じゃありませんね──もっとも親兄弟もなく、身寄も無くて、江島屋に引取られて育った人間だと言うから、腹を立てて飛出したところで、行く当ても無いことでしょう、──これがあっしなら、お艶をさらって山の中へでも逃げ込み、思う存分苦労をさしてやるが」
「物騒なことを考える奴だな、お前は」
「大丈夫ですよ、あっしには許婚も何んにもありゃしません」
「それっ切りだったな」
「もう一人、江島屋の下男の幹助、あれは良い男ですね、色が赤黒くて、恐ろしく達者で、秩父山中から生捕って来た熊の子みてえな野郎ですが、無口で無愛想で、お嬢さんのお艶に白い歯も見せないのは、あの男ばかりですよ」
「性分だろう」
「そのくせ、あっしなんかには当りがよくて、最初から馬が合いましたよ、何んだってそんなにお嬢さんに素気なくするのかと訊くと、女の高慢なのと坊主の腰の低いのは大嫌いだって言やがる」
「それじゃ、お嬢さんを綺麗だとは思わないかと訊くと、──梨でも桃でも、虫が付くと不思議に綺麗になる──って言やがる、皮肉な野郎ですね」
「生れは?」
「あんなのは間違いもなく信濃者ですよ」
「下女のお六は」
「相模女で、あんなに慾の皮の突っ張ったのは、場違いですね、あの女は三十両は溜めているに違えねえという評判ですよ」
「外には?」
「主人の鹿右衛門は、上へ馬という字の付く方」
「何んだえそれは?」
「馬鹿右衛門とね、内儀のお浅はちょっと良い大年増で、気象者で、利巧で、少し扱い憎い方でしょうな」
「ところで、そのうち、誰が一体三之助殺しの下手人だと思う」
平次は八五郎に訊くのではなくて、以上の報告から自分の結論を引出そうとして居る様子です。
八五郎の「大変」が舞い込んだのは、それから又三日も経ってからでした。
「サア、親分、神輿を上げて下さいよ、今度こそ本当の大変、──古渡りの大変ッ」
髷節で拍子を取って、格子の外から怒鳴り込むのです。
「何がどうしたてんだ、相変らず騒々しい野郎だ」
南町御奉行指図の仕事も一段落になって伸々と煙草にして居るところへ、八五郎が新しい種を持って来たのでした。
「二本差が自分の刀を、尻から胴中まで突き立てられて死んで居るんだ、まるで焼鳥ですぜ、親分」
「何? 自分の刀を尻から、──何処でそんな事があったんだ」
「金沢町の江島屋──此間薊の三之助が殺された場所、今度は塀の下の、犬潜りの穴に首を突っ込んだ伊保木金太郎がやられましたよ」
「成程そいつは厄介だ、行って見よう」
平次はこうして二度目の出動になりました、やくざの三之助が、忍び返しに引っ掛って死んだのと、侍の子の金太郎が、塀の下で刺されて死んだのと、大した違いのあるわけは無いのですが、武家の子が野良犬のように殺されたとなると、その頃の世界では、実際上の影響が小さくは無かったのです。
江島屋の裏路地は、相変らずの野次馬の人波で一杯、こいつは蝿と同様、追っても怒鳴っても、大したきき目はありません。
金太郎の死骸は、此前の三之助と同様、江島屋の主人の嫌がるのもかまわず、一応江島屋の裏手の縁側に取込んで、佐久間町の伊保木家から、引取りに来るのを待って居ります。
「銭形の親分、又困ったことになりました」
江島屋の主人鹿右衛門は泣き出し度いような顔で平次を迎えました。縁側に取込んだ伊保木金太郎の死骸は、町役人が二人、迷惑そうに番人をして居ります。
「伊保木様へは知らせてやったことでしょうな」
平次は町役人へ話しかけました。
「もう四半刻も前に人をやったが、何んとも返事がありません。跡取がこんな死様をしたことが世上の噂に上ると、家名に拘わるとでも思って居るんだろう」
町役人の一人は、いかにも苦々しいと言った調子です。家名を救うためには、倅の一人位を犠牲にしても、大した不都合とも思わないのが、その頃の武家の慣わしだったのです。
「でも、知らぬ存ぜぬでは済むまいよ、これが佐久間町の伊保木様の跡取ということは、路地へ入って来た、何百という野次馬が皆んな知って居るから」
もう一人の町役人は口を尖らせます。
平次は筵をあげて、一応死骸を見ましたが、あまりの虐たらしさに、ハッと眼を閉じたのも無理はありません。
伊保木金太郎は二十一、二、まだ蔓草のような匂いのする青侍でした。色白の華奢な方で、身体も手足も細く、薄肉で眼鼻の無暗に大きいところや、顎のあたりが歪んでいる様子は、肉体的にも性格的にも、畸形な感じを抱かせるに充分です。
身扮は案外地味で、眼立たぬ紬の小袖、木綿の黒っぽい袴、忍ぶ身にはふさわしい身扮でしょう。それが下半身夥しい血潮に濡れて、病的な顔にコビリ着いた、恐怖と苦悩の表情は、無気味という一語に尽きました。
両刀は鞘に納めたまま、死骸の側にありますが、
「長い方でやられたんですよ、一応拭いて鞘に納めてはあるが──」
町役人の説明です。
「いかに華奢な身体でも、両刀を腰に差して居ちゃ、あの犬潜りの穴は脱けられない、──そこで、腰の両刀を鞘ごと抜いて穴の傍に置き、穴の中へ身体が半分潜って、途中でつかえて前へも後ろへも行かなくなり、声を立てることもならずに、藻掻いて居るところを、後から跟けて来た曲者が、塀の下に置いてある刀を拝借して、力任せに尻から突っ立てた──ということになりましょう」
もう一人の町役人、金沢町の家主で、外神田では顔の通った大川屋五郎兵衛という中老人が、見て居たように説明するのです。
「持ち物は?」
「印籠一つ、紙入一つ、──その紙入の中に、鼻紙に挟んで、これがありましたよ」
五郎兵衛は、懐中から取出して、平次に見せます。手紙一枚を結び文にしたもので、
──こんや、うらぐちの、犬くぐりからおいでをまちあげます──
とたったこれだけ、恐ろしく拙い字で書いてあるではありませんか。
「この手蹟は?」
「──」
平次は四方を眺めました。二人の町役人の外に、主人鹿右衛門、養子与茂吉などが居りますが、誰も応える者はありません。
「御主人、この手に見覚えは?」
「一向見たことも無い字で」
「お嬢さんの手に似ちゃ居ませんか」
「飛んでも無い、お艶さんは字が上手で、町内の手習師匠の折紙付ですよ」
養子の与茂吉は憤然として答えました。
「お嬢さん、この手紙に覚えはありませんか」
平次の調子は穏やかですが、言葉には妥協を許さぬ劇しさがありました。
伊保木家から死骸を引取りに来る様子もなく、暫くの事件の空白を利用して、平次は急所々々に釘を打ち込む気だったのです。
主人に頼んで、問題の娘お艶を呼出してもらったのは、お勝手に近い裏の四畳半、多分それは、下女のお六の部屋でしょう。
「いえ、少しも」
お艶は肩を縮めて、自分の袖を爪さぐって居ります。少し伏目に、八五郎を讃歎させた白い額を見せて、柔らかい公卿眉と、美しい鼻筋、ほのかな唇の紅が、幾人かに恋患いをさせた魅力でしょう。
「でも、見当位はつくだろうと思うが」
「──」
「お嬢さんの手紙と思い込まなきゃ、二本差の立派な若侍が、犬潜りから這い込むような、恥曝しなことはしなかったでしょう」
平次は件の手紙を畳の上に置いて、なおも詰め寄るのでした。
「でも、私、何んにも知っては居ません」
お艶は追い詰められた兎のように、部屋の隅に小さくなって、怨めしそうに平次を振り仰ぐのです。
「薊の三之助がどうして死んだか、──伊保木金太郎様が、こんな事をしなきゃならない、突き詰めた心持になったわけも、お嬢さんは知らないというのだね」
「私は、私は何んにも知らないんです。皆んなは、どうして、あんなに騒ぐのか──」
お艶はとうとう泣き出してしまいました。長い睫毛に伝わる涙が、大粒の真珠のよう、柔らかい頬から、赤い鹿の子の襟へ──。
それは言いようも無くいじらしい姿でしたが、平次は日頃にもなく執拗に、この泣き濡れる娘から、何んか引出そうとして居るのでした。
「お嬢さんは、あの伊保木金太郎様から、毎日手紙を受取って居るそうですね」
「──」
「それに返事を書いたことがあるでしょう、──お六にせがまれるか何んかして?」
「書きました、二度か、三度、もうこれからは、こんな手紙を下さらないように──と」
「昨日も書いたことでしょう」
「──」
「その文句を聴かして下さいな、お嬢さん」
「──覚し召しは有難いけれど、身分の違いもあり、人目もうるさいことですから──と書きました」
「すると、この仮名書の手紙──犬くぐりから忍べ──とは書かなかったわけで?」
「こんな失礼なことを、書くわけはございません」
お艶は必死と抗弁するのです。涙は漸く乾きましたが、銀の粉を吹いたように薄桃色の頬が、不思議に涙に洗われながら、溶けて流れもせずに、反って新しい光沢と、美しい色調を持ったのは、何んという美女の奇蹟でしょう。
「その手紙は、下女のお六が取次ぐのでしょうな」
「──」
お艶はうなずきました。
「八、其処に居るなら、ちょいと下女のお六を呼んでくれ」
平次は庭のあたりに、ウロ〳〵して居る八五郎に声を掛けました。
「あっしも先刻からあの女を捜して居ますが、何処にも見えませんよ」
「何んだと?」
平次は縁側に飛出しました。
「荷物もそのままだし、三十両という大金は主人に預けてあるというから、逃げも隠れもする筈はありませんがね」
八五郎の言葉の裏には、何やら重大なものが匂うのでした。
江島屋の下女お六の行方不明は、事件を急角度に展開させました。
「八、お前一人では手が廻るまいが朝っから誰も外へ出た者は無いか、外から来た者は無いか、第一番にそれを調べるんだ、一人も出入りした者が無きゃ、下女のお六は此家の何処かに居るに違いない」
「そんな事なら、あっし一人で沢山で」
八五郎は気軽に飛んで行きます。
その後ろ姿を見送って平次は、養子の与茂吉に案内させて裏木戸の方に廻って見ました。
裏木戸の近く、板塀の裾にあいている犬潜りの穴は、飼犬や野良犬が往来するために、板の割れ目を押し破って作ったもので、素より人の手でわざ〳〵拵えたものではありませんが、横七寸、縦一尺ほどで、華奢な身体なら、存分人間も潜れないことは無かったのです。
「これは何時頃から出来ているんだ」
平次は与茂吉を振り返りました。
「この春まで犬を飼って居りましたが、さかりがつくと、どんなに厳重に繋いで置いても、綱を噛み切って、塀を押し破って飛出してしまいます。あんまり度々のことでそのままに放って置きましたが、ツイ一と月ばかり前、その犬も番木敞か何んかを食わされて、殺されてしまいました。犬潜りの穴は塞ごうと思いながら、ツイそのままになって居ましたので」
与茂吉の話は、よく筋が通ります。もっともこの男は多弁で軽薄らしささえ無ければ、立派に若旦那で通る男前です。
平次は念のために、穴を捜ってみて、あわてて手を引込めました。穴を形作る板の縁には、幾箇所かに釘を植えて、その錆びた釘で、少しばかりの引っ掻きを拵えてしまったのです。
「この釘は、誰が打ったんだ」
「少しも気が付きませんでしたが」
よく見ると、その穴の方へ尖端を向けて、横木や両側の板から逆に打った釘の先には、此穴に引っ掛って死んだ、伊保木金太郎の着物から毟れたらしい、糸屑や小さい巾などが引っ掛って居るではありませんか。
一歩退いて見ると、路地の方には、穴から一尺ほど離れた下水へかけて、夥しい血潮が、昨夜の殺しの凄惨さを物語って居ります。
丁度その時でした。
「親分さん、伊保木様から、死骸引取りのお使の方が見えましたが、御渡し申してよろしいでしょうか」
江島屋の主人鹿右衛門は、恐る〳〵顔を出します。
「あっしが立会おう」
平次は気軽に庭の中へ入ります。相手は武家、それも小禄の御家人だけに、うるさいことを言いそうで、江島屋鹿右衛門少なからず恐れをなして居るのです。
「そう願えれば──」
平次の蔭に隠れるように、金太郎の死骸を置いてある部屋の前へ引返します。其処では、
「それでは御主人、若様御遺骸は引取って参る」
などと、少し権柄ずくになって居るのは五十前後の用人らしい男、あとは二人の折助で、店先には死骸を運んで行く駕籠が用意してある様子です。
「これは伊保木様御使の方で、あっしは町方の御用を承って居る明神下の平次でございますが」
平次は丁寧に挨拶しました。
「あ、銭形の親分か、いろ〳〵手数をかけたそうだが」
「飛んだことで」
「私は用人の川村左馬太と申すものだが、伊保木家もことごとく閉口して居られる。事公になれば、若様一人のお命では相済まぬ、相成るべくは、このまま内聞にいたして貰い度いが、どうじゃ。早速急病にてお隠れということにして、公辺の屈けを済まし、その上で、いずれは親分に、御挨拶も御礼の沙汰もあろう」
川村左馬太は、当り前のことを言う調子でヌケ〳〵とこんな事を言うのです。
「あっしは町方の御用聞で、別に武家方の内輪事に立入る筋はございません、が、御覧の通りの野次馬で、何処からどう御目付の御耳に入らないものでもございません、その時うるさいことの無いように、有りのままお届けになっては如何でございましょう──飛んでもない、あっしにお礼など、そんな物をお受けするわけには参りません」
「まァ、そう堅いことを言わずに、頼むぜ、平次親分」
などと、川村左馬太は、平次の肩をポンと叩くのでした。
「では、一つだけ伺いますが、御屋敷では金太郎様が江島屋の娘のことで夢中だったことを、御存じは無かったのでしょうか」
「いや、薄々は知って居られた。相手は町人とは申しながら、大地主の江島屋のことでもあり、その娘とあれば、世間への聞えも大した悪い筈は無い、いずれは仮親でも立てて、二人を一緒にしてやり度い──と、御両親の間では話も無いでは無かったが、親御の方ではそんな事をうっかり口にするわけにも行かず、若い者はまた、取のぼせて、一日も待っては居ない」
悲劇の原因はその辺にあったのでしょう。用人川村左馬太は、年配の者らしく、主家の総領の無分別さが、苦々しくてたまらない様子です。
「恐れ入りますが、そのお腰の物を」
平次は死骸の側に進み寄ると、其処に並べてあった大小を取上げ先ず長い方を先に抜いて見ました。
それは反りの少い新刀で、一応拭いたとはいうものの、斑々たる血糊がこびり付いて居ります。言うまでもなくそれは、金太郎自身が命を奪られた得物で、痛々しさは平次の顔を曇らせるに充分です。
もう一つ、短い方のを手に取って、平次は何心なく抜いて見ました。
「あ」
一応拭き清めてありますが、それにもまた血脂が浮いて、どんより鉄色の曇って居るのは唯事ではありません。
「御用人様、金太郎様一昨日の御召物に、何んかお気付のことはございませんか──今お召しになって居るのでは無く、その前のでございますが──」
平次は押して尋ねました。
「左様」
「お屋敷にお帰りになりましたら、金太郎様部屋と、お風呂場などをお調べ下さいませんか、万一血に染んだお召物でもあったら、そっと御知らせを願います、──金太郎様御最期のことは町方からは何事も申上げないことにいたします」
平次は明かに交換条件を持出したのです。
「左様か、確と承知いたした」
「金太郎様は御病死と決れば、少しばかりの事は、御係の方も御聞流しのことと存じます」
「いかにも、では万事お頼み申すぞ、銭形の親分」
などと、川村左馬太は急に態度を変えると、二人の折助に金太郎の死骸を運ばせ、待たせてあった駕籠に乗せて、追わるる者のように退散したのです。
「親分、下女のお六が見付かりましたよ」
ドタ〳〵と飛んで来たのは八五郎でした。
「何処に居たんだ」
「後ろ手に縛られて首を絞められ、眼を廻して鼻汁だらけになって、大納戸の布団の中に投り込まれて居ましたよ」
「生命は?」
「息は吹返しましたが、まだ正体はありませんよ、あれは絞められた位で死ぬようなやわな女じゃありませんが、何しろ半刻近く布団の中で蒸されたようで」
「よし行ってみよう」
事態容易ならずと見て、平次は家の中に飛込みました。大納戸というのは、大町人の家などによくあった夜具部屋で、お六の部屋の丁度真上に当たり、その隣は娘のお艶の部屋になって居りますが、お艶は朝から取込みで、階下の両親の部屋に逃避して居り、此辺は家中でも一番人眼の疎いところで、下女のお六の達者さでも、不意を喰っては、助けを呼ぶ方法は無かったのでしょう。
平次が行った時は、下男の幹助と養子の与茂吉に介抱され、口に水を注ぎ込まれたり、脇腹を擽られたり、百方手を尽して、漸く正気づいたところでした。
「どうしたお六、飛んだ目に逢ったじゃないか」
平次は一応皆んなを次の間にやると静かに衣紋を直させてお六とたった二人相対しました。
「あ、親分さん、私は、私は」
「誰がそんな目に逢わせたんだ」
平次は顔を持って行くと、お六は夢から覚めたように、眼ばかりパチ〳〵させながら、
「押入へ首を突っ込んだところを、背後から不意に首を絞められて、フラ〳〵と気が遠くなってしまいましたよ、──誰が絞めたかわかるもんですか、振り返って見る隙も無かったんですもの、──でも、プーンと良い匂いがしたようですよ、──恐ろしい強い力で──おお痛い、──喉がヒリ〳〵する」
と自分の喉をさすりながら、言うこともしどろもどろです。
「良い匂い──というと、どんな匂いだ」
平次は重大な鍵を掴んだのです。
「香油の匂い──いえ、白粉の匂いだったかも知れません」
「相手の頭のあたりが匂ったのか、──それとも顔」
「いえ、私の頭は、相手の懐中のあたりに触ったようでした。無我夢中でしたが、それでも夢のように、何んか良い匂いがプーンとして来たようで」
お六の言葉から、これ以上のことを捜る工夫はありません。
「お前は、何んか大事なことを知っては居ないか、──お前に口を開かれると、ひどく困る人がある筈だが」
「──」
お六は黙って首を振りました。
「お前は薊の三之助か、伊保木金太郎さんを殺した相手を知っては居ないのか」
平次はなおも突っ込みました。曲者はこの女の口を塞ぐ気になったことは、あまりにも明らかです。
「私は何んにも知りません、内緒事というと、いろ〳〵の人の手紙をお嬢様へ取次いだだけ」
「それをお前の手から、相手へ直にやったのか」
「私は外へ出られないんですもの、それは無理ですよ」
「すると」
「外の方は、幹助さんが取次いでくれました」
「駄賃は二人でわけたのか」
「あの人は馬鹿正直で、恐ろしく堅いから、私がわけてやっても取りやしませんよ」
「その手紙をお前は一々見ることだろうな」
「見たいことは山々ですよ、──四十にはなっても独り者の女ですもの、でも、口惜しいけれど、私は」
四十女の頬には赤黒い羞恥の色が浮びました。
「字が読めないというのだろう」
「手習いをさせなかった、親が悪いんです」
妙な話になってしまいました。
「ところで、あの納戸へ何んの用事で入ったんだ」
「季節の変り目には、布団を入れ換えなきゃなりません、取込はあったところで、この天気ですもの」
その辺はまことに忠実なものだったのでしょう、平次はその弁解をいい加減に聴いて、納戸の窓から首を出して見ました。
「?」
其処で平次は、思いも寄らぬ発見をしたのです。窓は一間の腰高ですが、格子は無くて二枚の雨戸があり、その一端に逞しい柱があって、柱にはほんの微かながら摺り剥きの傷のあることがわかったのでした。
見下すと、庇のすぐ先は厳重な塀とその上の忍び返しが突っ立ち、忍び返しの外は、細い路地を隔てて、江島屋の持家の、二階建の空家と相対しているのです。
平次はお六を家の者に任せて、お勝手から飛出すと其辺にウロ〳〵して居る八五郎と、養子の与茂吉を誘って、裏木戸から路地へ出ました。江島屋の大納戸と相対して居るのは、まだ建ったばかりの新しい長屋で、与茂吉に開けさせ中へ入り、二階に飛上って雨戸を開けると、
「あ、矢張り此処だ」
平次が歓呼をあげたのも無理はありません。二階正面の柱が一本、中程がひどく傷んで、向うの江島屋の大納戸の柱の傷と、まさに呼応して居るのです。
「八、其処の押入を見てくれ、綱がある筈だ」
「よし来た」
八五郎の引開ける手に従って、空っぽの押入の中にとぐろを巻いて居る、逞しい綱が一本、
「それだよ、八、出して見てくれ」
平次が声を掛けるまでもなく、八五郎はもうそれを手ぐり出して居ります。
「あ、この綱は、家の物置にあったものですが、何うして此処へ」
与茂吉はいささか呆気にとられた形です。
「あ、痛ッ」
八五郎は飛上りました。何んかにさされでもしたか、無闇に左の手を振って居ります。
「どうした、八」
「綱に棘がありますよ」
「そんな馬鹿なことが」
平次は八五郎の手ぐり出した綱を、丁寧に調べ始めました。
「成程、これは大変だ、針だよ、八、それも三本や五本じゃねえ」
綱の中程のところに、一寸では見えないように刺し込んである針が五本、十本、それは布団針の太く逞しいので、そのあたりの綱に、少しばかり血がにじんでいるのも無気味です。
「薊の三之助は、身軽で元気な男だったね」
平次は与茂吉に向ってつかぬことを訊きました。
「ヘェ、梯子乗も建前も自慢で、良い職人でしたよ、男っ振りが良いのと、いかさま博打が器用なので、身を持崩しましたが」
与茂吉の答には、日頃の鬱憤も交って居るのでしょう、褒めてやるようなくさしつけるような皮肉な調子です。
「この家の鎖りは恐ろしく厳重な様子だが、誰がそれをやるんだ」
平次は新しい問を持出しました。
「父親と私がいたします。恐ろしく念入りで、店の方は父親が見廻り、裏の方、勝手口から裏木戸は私の受持で、一々錠をおろした上、鍵は肌身を離さないことになって居ります」
「すると、夜中裏木戸からは入れないわけだね」
「戌刻には潜りの大海老錠をおろします。それから先は私が開けにかからなければ、外からは入れないことになって居ります」
「有難う、そんなことでいいだろう」
「ヘェ、何分よろしく願います」
与茂吉を帰すと、平次は少し離れて待機して居た八五郎を呼びました。
「八、いよ〳〵六つかしいことになるよ。お前は家中の者を嗅ぎ廻してくれないか、相手に気が付かれぬように、それとはなしにやるんだ。突んのめして抱き付いてもいいし、後ろから肩を叩いてもいい、兎も角良い匂いをさせている奴を捜すんだ」
「女にやっても構やしませんか」
「いいとも」
「有難え、天下御免で、あの娘に噛り付いて見せますよ」
「天下御免という奴があるものか、手荒なことをするな」
「ところで親分は?」
「一寸外へ行って来るよ」
平次が行った先は、練塀小路の油屋、和泉屋嘉七の店でした。
「若旦那に逢い度いが」
というと、主人の嘉七が、
「倅は大病で、どなたにお目に掛りませんが──」
というのを振り切って、無理に嘉三郎の病間へ通ると、奥の四畳半に寝て居た嘉三郎は、
「あ、銭形の親分か」
と予期したことでもあるように、あわてて床の上に起直ります。年の頃二十一、二少々馬面で、丈夫で、そのくせ意志が弱そうで疳が強そうで、どう見ても恋患いなどをしそうもない人柄です。
「気の毒だがお前さんに、今日は八丁堀まで行って貰わなきゃならねえ。江島屋のお艶のことで、人が二人まで殺されたことは知っているだろう。恋患いの仲間を、一人々々調べることになったんだ」
「親分、私はこの通りの病人で、一と足も外へ出られませんが」
嘉三郎は手を合せて拝まないばかり。すっかり顫え上って、床の上に並べた膝小僧までガタガタして居ります。
「何を言うんだ、お前は恋患いだって言うじゃないか、大の男が恋患いで死ぬ気遣えはねえ、それに、夜中にそっと抜け出して、金沢町のあたりをフラ〳〵歩くことまでわかっているんだ」
「親分、私は──」
嘉三郎はまさに追い詰められた鼠でした。平次は滅多にこんな手は用いないのですが、相手が恋患いの仮病をつかって、容易のことでは落ちそうも無いと見ると、珍らしく十手などを取出して、逆手に畳の上に突っ立てるのです。
「お調べは八丁堀へ行くまでも無く、正直に言いさえすれば、此処でも済むことだ。お艶に付き纏って居るのが五人、それ〴〵どんな事をして張合って居るか、それから聴かして貰おうじゃないか」
「申上げます、親分、──私共は何時の間にやら敵同士になって、お互に爪を磨いで居りました。此間殺された薊の三之助は、男がよくて、気がきいて、調子が派手で一番女に持てました。その上地本問屋の知合があるとかで、お艶さんの姿を一枚絵にして貰って恩を売り、それを種に一番よく取入って居りました」「──」
平次は黙って次を促しました。
「伊保木金太郎はお武家で、身分が身分ですから、お艶さんも心引かれて居る様子です。竹童師匠は大したこともありませんが、江島屋の養子の与茂吉も大敵で、私はうかうかしては居られません」「──」
「そこで、考えたのはこの恋患いでございます。力も金も知恵も無い私は、命がけの恋患いでもして、お艶さんに可哀想だと思わせる外は術が無かったのでございます。私は患いました。もう一月も前から床に就いて居りますが、思ったように痩せないのが情けないと思いながら、こればかりはどうすることも出来ません」
嘉三郎は感慨無量な声を振り絞って、平次を相手に掻き口説くのです。
「良い心掛けだよ、『私は患いました』──と聴かされちゃ腹も立たねえ、精々患ってこがれ死をするがよかろう、──両親は蔭で泣いて居るぜ、馬鹿々々しい」
平次は珍らしく激しいことを言って立ち上りました。先刻店口へ迎えて、涙ぐんで倅のことを話して居た父親嘉七のことを考えると、二つ三つ張り倒してやり度くなるほど腹が立ったのです。
江島屋へ帰って来ると、伊保木家の折助が、用人の川村左馬太の手紙を持って来て居りました。開いて見ると、
──平次殿の仰る通り、風呂場には強かに血の付いた、袷が一枚、盥につけてありました。これは御厚志に酬ゆるために、密かに申上げる。万事御内聞に──
とこれだけ書いてあったのです。素より署名も何んにもありません。
「御主人、御店に居る者で、無筆は下女のお六だけでしょうな」
平次は川村左馬太の手紙を読むと、何やら思い付いたように主人鹿右衛門を顧みて、妙なことを訊ねました。
「いや、下男の幹助も、無筆同様と自分で言って居るが」
「その幹助の部屋を見せて貰いましょうか」
「どうぞ」
家の反対側、物置の隣に下男幹助の部屋がありました。幸い本人は留守、捜して見ると、押入から、矢立が一挺と、紙が少しばかり出て来たのには主人鹿右衛門を驚かしました。丁度其処へ、
「親分、──良い匂いをさせて居るのがわかりましたよ」
相変らず、飛込むように八五郎がやって来ます。
「お嬢さんのお艶さん。滑って転げるような格好をして、首っ玉へ噛り付いてやりましたが──」
「ひどい事をするじゃないか」
「天下御免で──良い匂いでしたよ」
「それだけか」
「下男の幹助の懐中も匂いました。嫌がるのを無理に押えて取出させると、あの野郎、親の遺言で女を断ったような事を言って居るくせに、内懐中に、お嬢さんの手柄だの半襟だの、赤い可愛らしいものをくすねてうんと温めて居るじゃありませんか」
「それだよ、八」
「何が、それで?」
「伊保木の倅を殺して、下女のお六を絞めたのは、矢張りあの野郎だ」
「大丈夫逃げはしません、裏でお嬢さんと話をして居るから」
八五郎は飛んで行きました。お艶の見て居る前で、それは難儀な捕物でしたが、兎にも角にも、下男幹助に縄を打って引立てたのです。
「野郎、神妙にせい」
* *
一件落着の後、
「あの幹助という下男は、薊の三之助も殺したのでしょうね」
と、八五郎は平次の説明を引出しにかかります。
「いや、薊の三之助を殺したのは幹助じゃない、三之助はお艶を一枚絵に描かせる世話をしたので、それを恩に着せて口説き廻したことだろう、──お艶はまた、綺麗に生まれついたのが災難で、きりょう自慢が嵩じた果て、何んとかして自分を江戸一番の美人と言わせようと思ったことだろう」
「大した望みですね」
「魔がさしたのだよ。そんな事で薊の三之助と逢引をする約束をさせられたが、戸締が厳重で引入れる工夫は無い、そこで、身軽な三之助は、軽業をやってお艶の面白がるのを見ようと思い立ち、お艶に手伝わせて、路地の先の長屋の二階から、お艶の部屋の隣の大納戸まで忍び返しを越して綱を手ぐって行くことを思いつき、二、三度はそれで逢引を重ねたことだろう」
「この節の娘は物好きなんですね」
「ところが、下男幹助がそれに気がついた。幹助は熊の子のように不意気で醜男だから、口ではお艶を大嫌いで仕様が無いように言って居るが、実は恋患い組の一人で一番深く思い詰めて居た──三之助とお艶が綱を渡って逢引しているのを見て業を煮やし、綱の中途──丁度忍び返しのあたりに針を植えて置いたのだ──それとは知らずに綱を伝わって来た三之助は塀の真上で掌をやられ、あッと言う間もなく忍び返しの真上に落ちた」
「ひどい事をやったものですね」
「恋の怨みだよ、──其処へ、その晩も人目を忍んで、お艶の様子を見ようとして来た、伊保木金太郎が通りかかり、逢引の縮尻と見ると、憎さも憎しと、一刀を引抜いて忍び返しに引掛っている三之助を刺した──がさすがに武士の子で、長いので刺すのは刀の汚れとでも思った、短いのでやったらしい」
「あとで綱の始末は?」
「多分、幹助に始末をさせたことだろう、その時手伝って、馴れないお艶も、荒い綱で左手を擦り剥いた」
「翌る日の晩、伊保木金太郎を殺したのは?」
「お艶から金太郎へやる手紙をお六に頼まれたのは幹助だ。幹助は無筆と言って居るが実は仮名文字位は書ける──その手紙をすっかり書き直して、翌る日の晩金太郎をおびき寄せ、板塀の穴の犬潜りから半分入って、釘に引っ掛り、出ることも入ることも出来ずにもがいて居る時を狙って、金太郎の刀──長い方を取って思う存分尻から突いた」
「ひどい野郎ですね」
「綱の始末をする時、幹助は裏木戸の鍵をどうして手に入れたか、そればかりはわからないが、多分昼のうちに錠前へ仕掛をして、与茂吉が鍵を掛けたつもりでも、実は掛からないように細工をして居たのかも知れない」
「ヘェ?」
「もう聴くことは無いのか」
「あの娘はどうなるでしょう」
「気がもめるか、八」
「少しはね」
「きりょう自慢も、あそこまで行くと怖いよ、娘の綺麗なのは嬉しいことだが、江戸一番になり度かったり、五人も六人も夢中になり手を拵えたりするのは、浅ましい事だな」
「一番馬鹿を見たのは養子の与茂吉で」
「いや、あれは馬鹿じゃないよ、お艶の逆上がさめて、尋常な娘になるのを待って居たんだ。悪く賢い男だよ」
「ヘェ?」
「一番気の毒なのは和泉屋の倅嘉三郎さ、恋患いの仮病なんてものは、ゴロ〳〵寝て居るんだから、楽なようだが、本人にして見れば、ハタで見たほど楽じゃあるめえ」
「それじゃあっしも、恋患いだけは止しましょうよ、──ちょいとやり度い気になることもあるが──」
面白そうに笑う八五郎です。
底本:「銭形平次捕物控 鬼の面」毎日新聞社
1999(平成11)年3月10日
初出:「サンデー毎日」毎日新聞社
1950(昭和25)年8月13日号~27日号
※初出時の表題は「銭形平次捕物控の内」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:結城宏
2017年5月31日作成
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