銭形平次捕物控
春宵
野村胡堂



【第一回】



 その晩、出雲屋の小梅の寮は、ハチ切れそうな騒ぎでした。

 出雲屋の主人、岩太郎が、野幇間のだいこの奇月の仲人で、新たにお滝という召使を雇い入れ、その御披露やらお祝やらを兼ねて、通人出雲屋岩太郎が、日頃昵近じっこんにして居る友達や、お取巻の面々を、小梅の寮に招き、一刻千金と言われる春の宵を、呑んで騒いで、頃合を見計って船と駕籠かごで送り返そうという寸法だったのです。

 多寡たかが召使を一人雇入れるのにと思う人があるかも知れませんが、これは毎年三月になると交代する、一季半季の召使ではなく、家付の女房が死んでからは、金と時間とが有り余る出雲屋が、江戸何大通の番付尻を汚す手前、取換引替え蓄えた妾の一人で、既に神田鎌倉町の本宅には、お峰という美しい妾があるにもかかわらず、向島の寮にはもう一人の妾、お滝という十七になったばかりの、お人形のように可愛らしい妾を入れることになったので、今夜はその披露の宴を開こうという、世にも人にもはばからぬ、不思議な催しだったのです。

 客は仲人役の奇月、恐ろしく下手な雑俳と、妾の世話と、剃り丸めた自分の頭を叩いて、変な音頭を唄う外には取柄の無い五十男。それに岩太郎の碁敵ごがたきで、篠崎小平という四十年配の浪人者。出雲屋の孫店で、日頃恩顧を蒙っている田屋甚左衛門。それに本店に居る先輩の妾お峰と、手代の才六という三十男。これだけの人数が、月にも雪にも花にもよろしという、三宜楼さんぎろうの二階、折から三月十六日の朧ろ月を眺めて、まことに散々の狂態でした。

 召使お滝──新たに雇入れられた妾のお滝は取ってようやく十七歳、こしらえ立ての糝粉しんこの姉様人形に、生命を吹込んだような清らかな娘でした。家は鎌倉町の本店裏の路地に挟まれた駄菓子屋。母親一人の細い商で、資本もとでに困って居るところを、野幇間の奇月が見付け、結構な株に投資するつもりで少しばかりの金を貸しつけ、利に利を積らせて、とうとう娘を抵当流れに奪い取り、売物に花を飾らせて、出雲屋の岩太郎に、第三号の妾として人身御供に上げたのでした。

 母親の丹精と、奇月の指図で、美々しく着飾った花嫁衣裳、角隠しはさすがに遠慮しましたが、四十五歳の花婿岩太郎と、金屏風の前に押し並んだ姿は、美しくもまた哀深い姿だったのも無理はありません。

 散々泣き尽して、母親を手古摺てこずらせて来たお滝は、最早涙も涸れた様子ですが、声の無い歔欷なきじゃくりが、玉虫色に紅を含んだ、可愛らしい唇に痙攣けいれんを残して、それがまだ好色漢すきもの岩太郎の眼には、一段の魅力でもあったのです。

 哀しみまでも塗り隠す、濃い白粉、銀燭が長い睫毛まつげの影を落して、幸い濡れた黒瞳さえ誰にもわからなかったでしょう。

 臆面もなく、三重結婚の高砂やが奇月宗匠によってうたわれると、あとはもう、放歌と乱舞と、浴びるような鯨飲でした。十七娘の神聖さを、荒淫無恥な悪獣に献ずるの宴は、こうして果てしもなく続くのです。

 この酒神バッカナルの狂宴を、たった一人、悪夢に襲われるような気持で眺めている者があったとしたらどうでしょう。呪いと憎悪と、自棄やけと憤怒と、焦げつくような心持で、人間の心の怒りが、そのまま焔になって絡みついたら、出雲屋の寮の三宜楼を、一団の火焔にして、夜空に高く燃え上がらせでもし度いほどの執心さで──

 それは、主人岩太郎の甥で、取って十六になったばかりの、新吉という少年でした。早く親に死に別れて、叔父の出雲屋岩太郎に引取られ、鎌倉町の店で、多勢の番頭小僧と一緒に、ぬかだらけになって働いて居りましたが、去年の秋から、馴れない俵などを担がせられた為に、今の肋膜炎──昔の所謂いわゆる脾腑ひふを揉んで病気になり、そのままブラブラ病いになって、小梅の寮に追い払われ、しばらく養生をするということになって居たのです。

 それは、長い発熱と、たまらない胸部の疼痛とうつうの続く病気で、冬一杯はほとんど枕もあがらなかったのですが、正月からはグングン良い方に向い、近頃は床もあげて、一日の半分は外で暮すと言った、気儘きまま気随の療養生活を送り、もう一と月もしたら、又鎌倉町の店へ帰るがよい──と言うところまで漕ぎつけて居りました。

 鎌倉町の店で成人した新吉は、その裏の横手を走る、浮世小路の貧しさ、哀れをもよく知って居り、その路地の中に、母娘二人の駄菓子屋があり、その娘のお滝が、神田切っての美しい娘であったこともよく知って居ります。

 いや、それどころでは無く新吉とお滝は、何時の間にやら顔を見合わせ、笑顔で会釈し、そして互いに、軽い挨拶を交し合う仲になり、更に進んで、不思議な苛立いらだたしさと、夢のようなあこがれと、機会を掴もうとする、不思議な焦躁をさえ感ずる仲になって居たのです。



 小梅の寮の変事の報告を、明神下の平次の家へ、八五郎が持って来たのは、その翌日の昼頃でした。

「鎌倉町の出雲屋の岩太郎が、妾のお滝を小梅の寮に入れて、人をめた酒宴を開いた晩、さてこれからお開きという時になって、──火事だッ──と怒鳴った者がある。目出度く酔っ払った一座だ、借金取の大軍が車掛りで押して来たって、滅多に驚くこっちゃねえが、火事と聴くと江戸っ子は気が早えや、それッと縁側から首を出すまでもない、何処からともなくクワッと挙がった火の手が、酔った額を焼金で叩くように照りつけた。火元を見定める隙もなく、一座七、八人、たった一つの梯子はしごから、一の谷逆落しに庭へこぼれ落ちた。この騒ぎは瞬きをする間のことで、何が何やら解らず、少し気が落着いてから見回すと、火事は何処にあるか真っ暗でわからず、肝腎の灯まで消えて、お互の顔も見えなかった──」

「お前は一体何を話すつもりなんだ」

 平次の方が参ってしまいました。八五郎の長講一席は、何時果つべしとも見えなかったのです。

「早い話が、その騒ぎの中で、出雲屋の主人の弟岩三郎が、土手っ腹をえぐられて、一ぺんに死んでしまいましたよ」

「早くそれを言やいいのに、誰が殺したんだ」

 平次もようやく膝を立て直しました。

「正直のところ、誰が殺したかわかりゃしません。二階から七、八人、真っ逆様に落ちるところを、下から突き上げんだから、たまりゃしません」

「下から突き上げたなら、下手人は大変な血を浴びたことだろう」

「皆んな血を浴びていますよ。血を浴びないのは、庭に居た甥の新吉たった一人で」

「甥の新吉──」

「病身でヒョロヒョロで、青瓢箪あおびょうたんで、こいつは全身に血を浴びていたところで、人なんか殺せる人間じゃありませんが、困ったことに三輪の万七親分は、昨夜のうちに乗込んで来て、血なんか浴びていない新吉を縛ってしまったんで」

「変な様子でもあったのか」

「刃物を持って、ボンヤリ庭に立って居たそうで」

「フーム」

「今朝になって、あっしが其話を聴き込み、飛んで行って調べると、どうも甥の新吉が殺したというのが変になって、三輪の親分へそう言ってやろうと思いましたが、ね」

「それで?」

「その前に一応親分の耳に入れて、どうしたものか、腹をきめようと思ったんで、歯を食いしばって飛んで来ましたよ」

 そういう八五郎の口調には、何やら割り切れないものがあるようです。

「三輪の親分の向うを張るのはイヤだが、お前の見込が確かなら、行って見ないものでも無い。一体お前は何をつかんで、そんなに意気込んでいるんだ」

「さすがは親分、天眼通てんがんつうだね。実は親分、あっしは小梅の寮へ行って、これを手に入れたんです」

「何んだえ? それは」

「見て下さい、可哀相じゃありませんか」

 八五郎は煙草入から半紙を小さく畳んだものを出して、煙草の粉を叩いて、平次の前にしわを伸ばして見せるのです。

「何んだえ、それは?」

「寮の庭へ入ると、頭の上から、これが落ちて来たんです」

「どれ、どれ?」

 平次は差覗きました。たどたどしくも拙い仮名文字で、

新吉さんを助けて下さい。人を殺したのは、あの方ではありません。

 とだけ、紙の上に斑々として汚点しみのあるのは、書いた者の涙の跡でしょう。

「こいつを書いたのは?」

「お滝ですよ──昨夜輿入した若い妾の──」

「昨夜の輿入はどうなったんだ」

「主人の弟の岩三郎が殺されて、祝言騒ぎはマル潰れでしたが、お滝は籠の鳥で、外へなんか出られやしませんよ」

「それから、もう一つ、火事はどうなったんだ。昨夜火事騒ぎがあったじゃないか」

「火事なんかありゃしません、裏に積んであった藁へ火をつけた奴があったんです。皆んな飛出した時は、もう真っ黒に消えて居たそうで──」

「成程、よくよく企らんだ奴があったのだ。此処でお前と相談しても仕様がない、小梅まで行って見ようか」

 向島までは遠くとも、そぞろ歩きにも悪くない時候でした。



 向島へ着いたのはもう夕景でしたが、あまりの騒ぎに顛倒てんとうして、殺された主人の弟岩三郎の死骸も其儘そのまま、客の田屋甚左衛門と、浪人篠崎小平が帰っただけで、あとの人数は昨晩のままに残って居ります。

 主人の出雲屋岩太郎は、四十五というにしては、若くて精力的で、なかなか良い男でもありました。遊び馴れた如才なさで、

「銭形の親分、遠いところを御苦労でした。いやもう飛んだ恥を掻いて」

 などと間の悪さを取繕って居ります。

 小梅の寮「三宜楼」は月、雪、花によろしと言う意味でしょうが、主人の岩太郎はこれを、酒にく、女遊びに宜く、そして金儲けに宜しと解して、此処へ取引先の客や、旦那筋の武家などを招じ、一夜の歓を尽させる場所にも当てているわけで、その建築も設備もまことに至れり尽せりでした。

 ひなびた門や庭も、容易ならぬったもので、一木一草にもうんと金を喰って居るのが、主人には自慢の種らしく、弟岩三郎の死骸よりは、そっちの方を見て貰い度そうなのは、苦々しくもあります。

 門を入ると、かなり広い庭で、二階へ通ずる梯子段はしごだんが、縁側から直ぐ通じて居りますが、昨夜の名残りで、其辺が何んとなく荒れて居ります。梯子段も縁側も、庭石までも、撒き散らされた鮮血を洗い清め、苔も錆も一ぺんに落したためでしょう。

「弟の死骸は此方こっちですが」

 その直ぐ傍の八畳に、岩三郎の死骸は、兎も角納められて居ました。床の上に寝かして、簡単な供え物をしただけ、膝行いざり寄って、それを一と眼見た平次が、ハッと息を呑んだほど、それはよく兄の岩太郎に似て居りました。

 年は岩太郎よりぐっと若く、精々三十そこそこですが、柄が小さくて精力的で、ちょいと良い男で、これが同じような紋付姿で、灯の無い梯子を飛降りて来たとしたら、随分兄の岩太郎と間違えないものでもありません。

 傷は下から突き上げた左の胸の一ヶ所だけ、恐らく弾みの付いた身体へ、存分に刺したために、心の臓を破ったのでしょう。

「刃物は?」

「曲者は捨てて行きました。胸に突っ立てたまま、これですが」

 岩太郎は死骸の側に置いた、晒木綿さらしもめんで巻いた脇差を示しました。

「見覚えはあるでしょうな」

「奇月宗匠の持物です。馴れない脇差は腰が重くて叶わないと言って、酔が回ると手洗ちょうずに下へ降りた時、下女のお角に頼んで、梯子の下の三畳に置いた、自分の風呂敷の上へせたそうで、現に、さやはそのまま、風呂敷包の上に置いてありました」

 そう聴くと、この殺傷は突発的なもので、其晩、此家に居た者の仕業と見る外はありません。

「岩三郎さんは人に怨まれるようなことは無かったでしょうか」

「いや飛んでもない、人に怨まれるような男じゃございません。鎌倉町の店の支配をさして居りますが、私とはまるっ切り気風が違って、自分の女房にまで捨てられるような弱気の男で──」

 岩太郎は、弟の死骸の前に苦笑するのです。

「ところで、昨夜二階に居たのは、誰と誰ですか」

「私と、手代の才六と、奇月宗匠と、田屋さんと、篠崎さんと、それに殺された弟と女共が二人、お峰と、お滝で」

「他の者は?」

「下女のお角、下男の次六、外に手伝いが三人、板前の金三郎まで、お勝手に揃って居たそうです。この寮で養生して居る、甥の新吉だけは、庭に居た様子で、薪が足りないと下女のお角に怒鳴どなられて、物置へ薪を出しに行ったと本人も下女のお角も言って居りますが、なたが見付からなかったので、薪を束ねた縄を切るのに、道具箱の中から切出し代りに使って居る、古い匕首あいくちを持って行ったと言って居ります。火事だッと聞いて驚いて物置を飛出すと、弟の岩三郎が梯子段の下で刺される騒ぎで、物置から飛出して来た新吉は、匕首を持って居たのが怪しいというので、駆けつけた三輪の万七親分に縛られてしまいました。もっとも──匕首には血も何んにも付いて居りませんでしたが──」

「その新吉というのは?」

「まだ十六で、私の甥には違いありませんが、両親が無くなったので、店に引取って面倒を見て居ります」

「岩三郎さんを怨む筋でもあったのかな」

「弟とは大の仲よしで──それに病身のせいもあって、猫の子のようにおとなしい男ですよ。──お滝とは前々から知り合いで、若い者同士で、何んとか思ったかも知れませんが、それはもう、他愛もない話で、才六は変なことを言いますが、私は気にも掛けて居りません」

 岩太郎は声を立てて笑うのです。金と押しと男前に物を言わせて、女から女へと渡り歩く通人に取って、十六や十七の少年少女の恋などは、鼻風邪ほどにも思って居なかったでしょう。



 平次は兎も角、一応家中の者に逢って見る気になりました。

 妾のお峰──第二号の思い者は、二十五、六の達者そうな年増で、白象のような豊満な肉体と、タラタラとしたたれそうな愛嬌と、その癖、気の強そうなカン高い声とで、かなり扱いにくい女ですが、四十五歳の脂切った岩太郎に取っては、これは又一つの魅力であったかも知れません。

「そう申しちゃ済みませんが、旦那が少し気が多過ぎますよ。お滝さんと祝言ごっこもいいけれど、目の色を変えてるのが二、三人あることを御存じないんですもの、ねえ」

「誰だえ、それは?」

「第一番に甥の新吉さん、あの人はお滝さんと何んか言い交してるかも知れません──それから手代の才六どん、あれは飛んだ猫っ被りですよ。今までも鎌倉町の路地裏へ潜り込んで、お滝さんの母親に取入って居たことを、知らない者はありゃしません。──もっとも、三十一まで独り者じゃ無理もありませんがね」

「それから?」

「田屋さんだって変ですよ。あの人はお滝さんの叔父さんなんだそうで、姪のお滝さんをひどく案じて居ましたよ」

「篠崎さんとかいう御浪人は?」

「気の知れない方ですよ。碁が強いくせに、わざと旦那に負けて御機嫌をとるような人ですから」

「すると怪しくない人間は無いじゃないか」

「奇月宗匠位のものでしょうよ」

「そう言うお前は?」

「まァ」お峰はサッと顔色を変えました。平次の突っ込んだ語気が鋭かったのと、不意を打たれたためでしょう。

 次に、平次は二階に昇ってお滝に逢って見ました。このお妾第三号は、幸いの騒ぎで、冒涜的な祝言もフイになりましたが、いずれは主人岩太郎の好色の餌になる娘でしょう。

「──」

 黙って平次の前に崩折れた姿は、憐れ深くも美しい小娘でした。十七と言っても遅生れの、まだ門松を取ったばかり、十五と言っても随分通用しそうな若々しさで、四十五歳の岩太郎の玩具にするのは、誰の眼にも痛々しい限りです。

 多い毛、品の良い下ぶくれの細面、お人形のような無邪気な唇の曲線カーブが、どうかすると直ぐ泣き出しそうで、平次もうっかりしたことがけそうもありません。

 眼は大きい方、うるんでいるのは、昨夜からの激動で、感情の嵐の処置に困っているせいとも見えます。

「この手紙は、お前が書いたのだろう?」

 平次は八五郎の煙草入から出した、あの拙い字の半紙の手紙を畳の上に拡げて見せました。

「──」

 お滝は素直にうなずきました。

「新吉とお前は、何んか約束したことでもあったのか」

 平次はこう突っ込んで見る外はありません。おびえ切っているこの小娘の口から、尋常一様のことでは、何んにも引出せそうは無かったのです。

「──」

 お滝は黙って首を振りました。口へ出しては、何んにも言い度くない様子です。でも青白い頬のあたり、わずかに処女むすめらしい血潮の流れたのを、平次は見逃す筈もありません。

「お前が此処へ来たことを、怨んでいる者は無かったのか」

「──」

 もう一度お滝は首を振りました。

「そして、お前は、進んで此処へ来たのか」

「──」

 お滝は激しく首を振りました。大きい眼がうるんで、可愛らしい唇が心持歪みます。

「お前は、母親のところへ帰り度いのだろう」

「親分──私は、私は」

 お滝は初めて声を立てました。ひしと自分のたもとを噛みますが涙は頬を洗って、大きな前髪が、嵐のように揺れるのです。

「よしよし何んとかしてやろう──短気を起すな、よいか」

「親分さん」

 平次は滑るように座を立って、静かに梯子段を降りました。二階にたった一人お滝を残して、夕陽はもう薄れかけて、幸い誰も見る者はありません。泣き度いだけ泣いたら、処女の心も鎮まることだろう──と言った、淋しい気持で。

「あ、御主人」

 主人岩太郎は、二階の様子を案じたのか薄暗い梯子段の下に立って居りました。

「お滝が何んか申しましたか」

「いや、もう、何んにも言わない。若い者はあれだから困るが」

「へェ」

「ところで、御主人。岩三郎さんを殺した者は、容易には見当るまいよ──大方見当もついたことだろうが、あれは岩三郎さんをねらったのでは無くて、兄のお前さんの命を狙ったのだ」

「へェ──私も薄々そんな気がいたして居りました。誰でしょう、一体、私を狙う者は?」

「多勢あるよ、急にはこの下手人は挙がるまい」

「へェ」

「ところで御主人、一度あることは二度だ。曲者くせものはいずれ、もう一度仕掛けて来るだろう。相手の出ようを見るためにも、お滝は側へ置いちゃ危いが──」

「へェ」

 岩太郎の返事はひどく不平そうでした。それは金で買った人間は、どう処分してもよかった時代の旦那衆の自負です。

「兎も角、あの祝言ごっこだけはしばらく止すがよい。曲者は取りのぼせているから、何時また御主人の命を狙わないものでもあるまい──暫くはあの娘を唯の奉公人にして置く方が無事だろうよ」

 平次はとうとうこう言い切ってしまいました。自分ながら変な論理ですが、兎も角も暫くの間は、あの娘を無垢むくのままにして置いて、返すべきところへ返すのが、平次の良心の務めのような気がしたのです。



 手代の才六は縁側にウロウロして居りましたが、主人が奥へ入ると、あわてて平次に挨拶しました。狐のような感じの男です。

「お前はお滝へ大そう眼をかけて居たというじゃないか」

「飛んでも無い親分、近所ですから、チョイチョイ口もききましたが」

 才六はひどくあわてて居ります。

「ところで、昨夜火事騒ぎのあった時、梯子段をどんな順序で降りたか、それを聴き度いが」

「一番先は私で、次は田屋さん、それから岩三郎さんで、その次は奇月宗匠かしら、あとはよくわかりませんが、お二人の女の方は一番後だったようで」

「火事だッと怒鳴ったのは誰だえ」

「下女のお角でございますよ」

 そんな事が精一杯、あとは何をいても一向にらちがあきません。

 奇月宗匠は、厄介そのものでした。人間も人生観も、言うこともことごとく角がとれて、一向につかまえどころが無く、扇をパチパチさせながら、禿げ上った坊主頭ばかり叩いて居ります。黄八丈のあわせに、黒縮緬くろちりめんの十徳、医者とも宗匠とも、幇間たいこもちともつかぬ風格で、

「──いえもう、私は仲人と申しても、本人のお滝さんが此奉公口に大の執心で、同じ御奉公するなら、出雲屋さんのような、物のよくわかった、しっかりした方のお側の御用をし度いと申しましてな。母親も、それはもう大乗気で」

 歯が浮きそうなことを、よくこうしゃべりまくる奇月宗匠です。

 昨夜は岩三郎の次に梯子を降りたに間違いなく、突いた傷は背中でなくて──せつは人殺しの疑いだけは受けずに済むわけでへッへッ──などと、ヌケヌケしたことを言います。

 あとは四十女の下女のお角。これは裏に積んであった藁に火が付いてボーッと燃え上ったのでびっくりしたというだけのこと。

 下男の次六は昨夜は使いに出て、あの騒ぎの時は家に居ず、あとは臨時に雇った人達ばかりで問題の外に置かれます。

「親分、帰って来ましたよ」

 八五郎は庭から声を掛けました。

「誰が帰って来たんだ」

 縁側の平次はそれに応えます。

「甥の新吉ですよ。三輪の万七親分も、調べようは無かったんでしょう──それ、其処へ」

 見ると薄暗くなった門の中へ、トボトボと入って来たのは、十六というにしては、これも子供子供した少年、庭の植込の陰に立って、灯の無い二階をじっと見上げて居るのです。


【第二回】



「お前は何を見ているんだ」

 平次はそっと後ろへ回ると、新吉の肩をポンと叩きました。掌への感触は、物心つく前の女の子のような、せた弱々しい感じでした。

「──」

 新吉は振り返って、ジッと銭形平次の顔を見詰めて居ります。眼鼻立の整った、利発らしい少年ですが、病後のせいか蒼白く痩せて、瞳の中に、不屈の負けじ魂の燃えると見たのは、今昇りかけた、十六夜の月が映ったせいだったのかもわかりません。

「三輪の親分に、連れて行かれたと聴いたが、いいあんべえに許されて帰ったのか」

 平次の調子は、何処までも穏やかで、許されて帰ったことを心から喜んでいそうです。

「お前さんは?」

 新吉の眼には一瞬疑惑らしいものが動きましたが、やがてそれは、持ち前の自尊心に変って行く様子です。

「明神下の平次だよ」

「あ、銭形の親分さん」

「疲れているだろうが、少し話してみないか、お前にき度いことが沢山あるのだが──安心するが良い。俺は、いきなりお前を縛るようなことはしないから」

「三輪の親分は、いきなり殴って置いて、──証拠は皆んなあがっているんだ。白状しろ──ですって、そんな乱暴なことって、あるものですか」

「そいつは気の毒だったな。岩三郎が殺された時、庭に居たのはお前たった一人だし、ツイ疑い度くなるだろうよ。でも、お前は薪の束を切るのに、匕首あいくちの古いのを持って居たというじゃないか。その上左手に、奇月宗匠の脇差を抜いて、人なんか殺せるわけは無い、──宮本武蔵じゃあるめぇし」

「──」

 新吉はフト誘われたようにニッコリしました。平次の調子が、ひどく親しさを感じさせた様子です。

「兎も角、裏の田圃へでも出てみようか」

 平次は先に立って、冬田のままの田圃道を、何処へともなく歩き始めました。

 まだ名物の桜のつぼみも固く、道の枯草に浅緑も蘇返よみがえらず、うるんだような宵月が、二人の影法師を長く苅田の中へ引いて居ります。

「──」

 新吉は黙って平次の後から、向島の土手へ、そして夜の水を眺めながら、黙って下手の方へついて行くのでした。

「お前は帰ったことを、一応は皆んなに教えて来るとよかったね」

 とある掛け茶屋、花には早い雨ざらしの縁台に掛けて、平次はこんな世間並なことを考えて居るのでしょう。

「いえ、私が帰らなくたって、誰も案じてくれ手なんか、ありゃしませんよ」

 縁台の向うの端に掛けた新吉の声は、ツイ尖ります。葭簾よしずの陰で、顔は半分見えず、あの燃える瞳も隠れて居りますが、気魄の激しさを、平次は近々と感ずるのでした。

「そんなことは無い。お前のことを案じて居る者が、一人は確かにあった筈だよ」

「あの──それは誰でしょう、親分さん」

「この手紙を見るがよい。この字に、お前は見覚えがあるだろう」

 平次は懐中から、『新吉さんを助けてくれ』と書いた拙い女文字の手紙を出して見せました。新吉は心せく様子でそれを拡げると、身体を曲げるように月光りにすかして読んで居りましたが、

「お滝さんだ、──お滝さんだ」

 不意に、かれたもののように立上りましたが、何を思い出したか、元の縁台の上に崩折れて、深々とうな垂れたまま、シクシクと泣き出してしまったのです。

 それは、長い長い沈黙でした。ザッと四半刻あまり。新吉の涙の納まるのを、辛抱強く待って居る平次も、とうとうしびれを切らして、

「サァ、お前は助かったのだ。女の子のように泣いている時ではあるまい」

 そっと新吉の肩へ──波打つように揺れて居る肩へ手を掛けたのです。

「でも、私は、本当のことを言うと、伯父さんを殺そうとしたんです」

 とうとう、新吉は白状してしまいました。

「それは、嘘じゃあるまいな、新吉」

 平次はもう一度、引寄せるように、少年の肩へ手を置きました。

「嘘なんか言やしません。私は──あの馬鹿気た祝言の前に伯父さんを殺す気で、道具箱の中から、匕首を持ち出しました。すると、すると──」

「すると、どうした」

「あの火事騒ぎでした。──火事騒ぎが無ければ、私は伯父さんの部屋に忍んで行って一と思いに刺し殺した上、私も隅田川に飛込んで、死んでしまう積りでした」

「──」

「──匕首を持って、私は梯子段を昇ろうとしました。と」

「待ってくれ、新吉。その時梯子段の下に人が隠れていた筈だが──」

「いえ、誰も居なかった筈です」

「誰も──?」

 平次の予想は外れた様子ですが、恐らく伯父岩太郎を殺そうとした少年新吉の眼には、もう一人の曲者くせものが居たところで、それは気がつかなかったことでしょう。平次はそう考える外は無かったのです。



 平次はこの少年の心の中にひそむものを全部さらけ出さしてやる気になりました。

「伯父殺しは大罪だが、お前はそれを知らないわけではあるまい」

「よく知って居ります、磔刑はりつけか獄門か、いずれにしても無い命です。でも……」

「それを覚悟の上で、お前はそんな大それた事をしようと思ったのか」

「あれは本当の伯父でしょうか、親分」

「何? 何を言うのだ」

 少年の思わぬ言葉に平次は聴き耳を立てました。

「あれは、私の親父の、兄だと言って居りました。でも、本当の兄なんかじゃありません。出雲の国の親父の在所から出て来たときは、乞食のような男だったと、皆んな言って居りました。──が、今ではもう、そんな遠い昔のことを知って居る者もなく、本当の伯父のように振舞って居りますが」

「それは何時のことだ」

「今から十年も前──私はまだ六つか七つの時でした。──うろ覚えに私も覚えて居ります。私の親父が嫌な顔をするのも構わず、乞食のような男がやって来て、何時の間にやら、私の家で一番威張る人になってしまいました。それがあの伯父の岩太郎なんです」

「──」

「子供心に私は、──親父が時々、あの人に、ひどくおどかされて居るのを見て居りました。親父が死んでしまった今となっては、親分さんに申上げても構わないでしょうが、何んでも私の父親は、故郷の出雲で、若気のあやまちで人をあやめ、江戸へ逃げて来て名前まで変え、同じ国から出た出雲屋に婿入し、十年ばかりのうちに、すっかり身上しんしょうふやして、江戸の鎌倉町で、押しも押されもせぬ暖簾のれんに仕あげたのだということでした。其処へ出雲の国から訪ねて来た赤の他人の岩太郎が、父親の旧悪を並べ立てて、兄のような顔をして我儘わがまま一杯に振舞ったことは、子供心の私にもよくわかって居ました」

「──」

 平次は黙って先を促しました。事件は思いの外に深さと根強さを持って居そうです。

「暫く経つと、伯父は、自分の弟だという、岩三郎まで故郷から呼寄せ、二人で出雲屋の身上をかき回しましたが、古い番頭も皆んな追い出され、親類達も寄りつかなくなって、伯父の我儘を押え手もなくなってしまいました。それから五年目」

「──」

「私の父親は、得体の知れない病気で亡くなり、私の母もその年のうちに続いて亡くなってしまいました。怪しい死にように違いありませんが、私はまだ十一や十二で、どうしようも無く、世間付き合いの良い伯父は、誰にも怪まれずに、そのまま出雲屋の主人に納まり、あの身上をヌクヌクと自分のものにしてしまいました。表向の言い分は、兄から身上を預かったので、甥の新吉が二十歳はたちになれば、身代を増やして渡す──という振れ込みですが、今から三年か四年経ったところで、素直に渡してくれそうもありません」

「──」

「私は此通りの病身で、何ももあきらめて居ります。うっかり身上に未練のある顔でもしたら、二十歳はたちになる前に、私の命も得体の知れない病気で断たれることでしょう。──私はもう身上に未練もなく、何べんか家出をしようと覚悟しましたが──」

「?」

「父の代から残って居る、たった一人の奉公人のお角が、陰になり日向になり私をかばってくれて、私の短気を慰めてくれました」

「──」

「それに、近頃は、伯父のあの乱行です。お峰という妾があるのに、お滝まで──」

「お前はそのお滝と、何んか約束でもしたのか」

「──」

「こいつは大事なことなのだが」

 平次は重ねて問いました。月の光を半分受けた少年の顔が、夜目にも血潮が匂ったようですが、それは平次の気の迷いだったかもわかりません。

「一緒に死のうと約束しました」

「無分別だな」

「その折が無いうちにお滝はこの寮に引取られて、昨夜のようなことになってしまったんです」

 新吉は深々と首をうな垂れるのです。

「そいつは止した方がよかろう。若い者が思い詰めるのはもっともだが、死んでしまった日にゃ取返しが付かねえ。お滝の方は、万に一つも間違いのねえように、しばらく俺が預かろう。よいか、無分別なことをしちゃならねえよ、判ったか」

「──」

「それから、伯父であろうと何んであろうと、人をあやめる気になるのも止さなきゃいけない」

「親分さん、大丈夫。もう二度とそんな気は起しゃしません」

「そう聴けば俺も安心する。間違っても、変な気を起すんじゃないぜ」

「──」

 新吉は二つ、三つ、身を入れてうなずくのでした。



 事件はそれっきり発展もせずに、三日五日が経ちました。

「親分、小梅の寮の殺しは一体どうなったでしょう」

 八五郎は時々やって来ますが、平次は家へ引込んだきり、あまり向島の方へ足を向けず、妙に考込んでばかり居るのです。

「あれは鎌鼬かまいたちだな」

 脂下やにさがりの煙管きせる日向ひなたぼっこ、植木の世話と、ぬるい茶と、時々は縁側の柱にもたれて天文を案じながら、平次はこんな途方もないことを言うのです。

「江戸には鎌鼬は居ないというじゃありませんか」

「小梅の百姓地だ。鎌鼬だってモモンガァだって居るよ」

「鎌鼬が幇間たいこもちの脇差を盗んで、人間の土手っ腹へ突っ立てるなんてぇ話は、何処にあるんです。え、親分」

「日本の国に──それも向島にあったんだから、俺はこの四、五日考えてばかり居るよ」

「下手人は矢張りあの甥の新吉じゃありませんか」

「いや違う、──新吉は伯父を殺そうとしたが、岩三郎を殺したのは、私じゃ無いと言ってるんだ。匕首と脇差を両手に持っちゃ人を殺せないよ」

「へェ?」

「不足らしい顔をするが、ちょいとやってみるがいい。匕首に気を取られて、一方の脇差は、思うように動きゃしないよ」

「へェ?」

「まだ堪能しないか、──脇差を岩三郎の胸へ突っ込んだ時、うんと血が出た筈だ」

「?」

「二階から逆落しに飛降りて来る人間へ、下から脇差しを突き上げたんだ。いやでも応でも全身に血を浴びるだろう」

「──」

「ところがあの騒ぎのあった時、庭に突っ立って居た新吉は、右手に匕首を持って、ぼんやりして居たというし、身体に血なんか少しも付いちゃいなかった筈だ。どうしてそんな器用なことが出来たんだ。オイ、八、考えてみろよ。俺はそれを三日も四日も考えて居るんだ。お前も少しはお蔵の中から知恵袋を取出してよ、たまには陽の目を見せてやるもんだ」

「そんな事がわからないんですかね、親分」

 八五郎は茫漠ぼうばくとした顔を挙げました。

「大層きいた風な事を言うじゃないか。お前にはわかって居るのか」

「一向わかりませんよ」

「あれだから、嫌になっちまう。お前は長生きをするよ」

「ところでね、親分」

「何んだえ」

「出雲屋岩太郎は、いい塩梅あんばいに忙しそうで、妾の祝言のやり直しは、弟の岩三郎の初七日が済んでからということになったようですよ」

「初七日というと」

「十二日の明後日で」

「新吉とお滝はどうしている」

「気をつけては居ますが、あっし一人じゃ手にえないので、下女のお角に頼んで、二人に間違いのないように、見張らせてありますよ。何しろ隅田川が近いからうっかり目を離せないでしょう。ドブンとやられた日にゃ取返しがつかねえ」

「若い者が思い詰めると恐ろしい。ところで明後日が岩三郎の初七日とすると明日の晩は逮夜たいやじゃないか」

「此間の顔触れが又集まるそうですよ。何んか変ったことが無きゃいいが──」

「お前の口吻くちぶりだと、変ったことを待って居るようだぜ。御苦労だが、眼を離さないようにしてくれ」

「親分は?」

「俺は行くまでもあるまいよ」

 平次はすまして居りますが、曲者は此隙を狙って、第二段の計画を樹てようとは、平次も思い及ばなかったでしょうか。



 岩三郎のお逮夜。いとも賑やかに営まれました。あらゆる機会を利用して、お祭騒ぎと酒を呑むことを考えずに居られない人達は、祝儀、不祝儀の隔てなく、夜と共に呑むことばかり計画して居たのです。

 逮夜の坊さんが帰ったのは薄明るいうち、抹香臭い一式の道具を撤すると、もう酒肴が運び込まれ、芸子が呼出されて、二階は一瞬にして、酒神バッカナルの狂宴と変ります。

 その席には、お妙は最初から出て、芸子と一緒に取持ちましたが、お滝は一度盛装の姿を見せて、新鮮な匂いに座の襟を正させたっきり、あとは顔も見せてくれません。

 一座は主人の岩太郎、浪人者の篠崎小平、孫店の田屋甚左衛門、取巻きの奇月宗匠、手代の才六、それにお妙と妓共、最初から割れ返るような賑わいで、隅田川の河童かっぱを驚かし、その乱酒と狂態が、夜と共に深まって行くのでした。

「ところで、旦那、お滝の方はどうなさいました」

 奇月宗匠はもうろれつも怪しくなって居ります。杯持参で主人席の前ににじり寄り、一杯献上しながらお世辞を言って居ります。

「ひどく嫌がるから、下で休まして居るよ。お前のような蛸入道が居ちゃ、娘は怖がるのも無理は無いよ」

 主人岩太郎は悠揚ゆうようと毒を言いながら、杯を受けております。

「へッ、その蛸入道が結びの神なんだから、そのうちに親より可愛くなりますよ。へッ、へッ、へッ」

「宗匠、大変酔ったようだね、大丈夫かえ。いつかのように、小間物店を並べられちゃ叶わないが」

「大丈夫、仲人のお役目が済むまでは、これでも大事な身体で」

「その仲人の役目を、明後日勤めて貰おうと思うが、どうだえ」

「御舎弟の初七日が済んだばかりですぜ」

「それでいいじゃないか。弟も女運が悪くて、死んでも泣いてくれる女の子も無いが、俺は精々弟の代りに、女の子をうんとこさえて置こうと思ってな」

「結構ッ、その心意気は嬉しいね、旦那。承知しました。──奇月、命を賭けて引受けますよ。明後日──というと三月十四日御祝言のやり直し。有難いね、旦那。そのつもりで前祝いに一杯、私はこの小さい杯が大嫌いでね、──盃洗はいせんを借りますよ。水を開けっちまえ」

「あらっ、水がかかるじゃありませんか。そんなところで盃洗なんか振り回して」

 芸子共の頭越しに、盃洗の水を、屋根の上へ捨てると、奇月宗匠その中へ徳利で三本まで、なみなみと酒をつがせてしまいました。

「止せよ、宗匠。そんな乱暴なことを。酒は夜っぴて呑んでも構わないが、大きいのでやると、又潰れるから、後が大変だ」

 主人岩太郎はおし止めましたが、

「大丈夫、御覧の通り、一と息に呑んでお目にかける。──ゲープ、驚くな、女共」

 奇月宗匠はとうとう、盃洗一パイを見事に傾けて、さすがに酔が回ったらしく、半分は這うようにして、障子の外へフラフラと出て行きました。

 外は三尺の縁側、華奢な手摺てすり。それにもたれると、小梅の百姓地の田圃を見晴らして、遅い月が、木立の上へぼんやり顔を出します。

 部屋の中は、まさに乱痴気騒ぎの絶頂でした。人間という動物に、アルコールを呑ませると、よくもこう騒がれるものかと思うほどの、それは動物実験的な混乱の中に、

「あッ、あれは何んか知ら」

「変な音ね」

 わずかに正気な芸子が二人、ささやき合って居るのも煮えこぼれる騒ぎを鎮める役には立ちません。

 と間もなく庭の方から、大きな声がしました。

「た、大変ッ」

 下女のお角の、打ち割ったような絶叫です。

「どうした、どうした」

 誰やらが二階の障子を開けました。

「奇月さんが、大変ッ」

 下女のお角は応えます。

 それッ──といつかの晩のように、り性もない人間の奔流が、梯子段を逆落しに、下の庭にこぼれ落ちました。

あかりだ」

 主人岩太郎の声が、突っ走ると、一度家の中に入ったお角は、手燭を取って庭へ戻って来ました。

「あッ」

「これは?」

 野幇間のだいこの奇月宗匠は、庭の上へ蛙のように叩きのめされた上、手頃の石灯籠いしどうろうを首筋から背中に背負って、血へどを吐いて死んで居たのです。

 いや、まだ虫の息と体温はあったかも知れませんが、二、三人寄ってたかって抱き起す間に、一言も口をきかずに、僅かに残る虫の息も絶えてしまったのです。

「医者へ」

 主人岩太郎が声を絞りましたが、小梅の寮では、急場の医者も間に合わず、間に合ったところで、二階から落ちて、庭石で頭を打った上、はずみをくらって倒れた石灯籠を背負わされては、奇月宗匠一とたまりもあるわけは無かったのです。



 この報告を、平次が八五郎から聴いたのは、あくる日の朝でした。

「そんなわけで、此騒ぎの中で、新吉とお滝の姿の見えないのが、又も疑いの種でしたが、幸い土手の呑み屋で一杯やりながら、それとなく小梅の寮の様子を見て居た私が、死神に取っつかれたように、向島の土手をフラリフラリと歩いて居る新吉とお滝の二人を見付けて、寮へ引返して来ました。危ないところでしたよ。心中でもしようという人間は、こう魂が抜けてしまって、フラフラになるんですね。傍から見ると、二人共丁度雲を踏むようでしたよ」

「それからどうしたんだ」

 平次は心せく様子で先を促しました。

「寮へ戻って来ると、あの騒ぎでしょう。心中をやり損ねたお陰で、新吉とお滝は、奇月殺しの疑いを免れましたが──」

「奇月殺し? ──奇月は人に殺されたのか」

「二階の縁側から庭へ落ちた位のことじゃ、あの蛸入道は死にゃしませんよ──二階の縁側から落ちたのだって、手摺は高いし足場は良いし、──人に突落されたにきまって居ますよ」

「すると?」

「下へ落ちて庭石へ頭を打ったかも知れないと言いますが、奇月が落ちたところから、庭石は遠いし、石の上には血も付いちゃ居ません。土が柔らかいから、蛸入道の頭の跡まで庭に残って居るから、間違いはありません。二階の手摺から落ちたところへ、石灯籠を突っ転がして、首筋から背中へ背負わされたに違いありません。灯籠の笠はちょいと三十貫位はあるでしょうよ。あれを背負わされちゃ、達者な蛸入道も一とたまりも無かったでしょうよ」

「二階には誰と誰が居たんだ」

「皆んな居たと言いますがね、──呑んで騒ぐから、小便持ちが悪くて、梯子段はお百度石の前ほどの賑わいだ。小便におりししにおり、引っ切りなしの往来だから、誰が座敷に居たか、誰が縁側に居たか、わかりゃしません」

「酒を呑まないのは?」

「才六と篠崎小平さんは、あんまり酔って居なかったようで」

「奇月は何んにも言わなかったと言ったな」

「一と言も言わなかったそうで──」

「兎も角、行って見よう」

 平次はいよいよ出動する気になりました。小梅の寮の事件は、こうして又厄介な問題を一つ投げかけたのです。


【第三回】



 小梅の寮へ駆けつけた平次は、何より先ず庭に入って、野幇間のだいこの奇月が死んだ場所へ、八五郎に案内させるのでした。

「間違いあるまいな、八、確かに奇月宗匠の死んでいた場所は此辺か」

 平次は恐ろしく念入です。

「大丈夫ですよ、この倒れた石灯籠を背負って居たんだから」

 八五郎は生湿りの上に、めり込むように崩れている石灯籠を指します。

「成る程」

「坊主頭の手形がちゃんとあるんでしょう」

「変な言い草だな」

 よく見ると、石灯籠を除かせた後に、人の倒れたらしい跡が、浅ましくもハッキリ読めるのでした。

「もう一つ、少し離れたところに坊主頭の手形があるんだから変でしょう、親分」

「どこだい」

 八五郎が指したのは、少し離れた鞍馬石くらまいしの巨大な沓脱くつぬぎの外、小さいひさしの雨落に添って、これも生湿りの土の上に、明らかな凹んだ跡は、坊主頭というよりは、むしろ尻餅を突いた跡か、肩のあたりを打った跡でしょう。いずれにしても、着物のひだまではっきり見えて居るのは、恐ろしい力で人間が落ちたのでなければ、こういった鮮明な跡はつかなかったでしょう。

「成程、人間の跡が二つ、少し離れた柔らかい土の上へついて居るのは変だな、二階の手摺から落ちたのは、間違いもなく沓脱の側だろう、其処で奇月は眼を回したかも知れぬて、わざわざ石灯籠の側まで這って行って、自分で石灯籠を自分の背中の上へ転がす奴は無い筈だ」

「そうでしょう。現に沓脱のところから、石灯籠の側まで、物を引摺った跡が付いてるじゃありませんか」

 それは八五郎の言う通りでした。よく見ると二間ばかりの間、土の上へほうきで撫でたような引っ掻きがついて居るのです。

「その時、庭に誰が居たんだ、二階には、誰と誰が居たんだ」

「そいつは念入に調べてありますよ」

「二階の手摺から突き落した奴と、引摺って来て、石灯籠を転がした奴とは違った人間かも知れない──第一、石灯籠などといふものは、危なそうに見えても、滅多に転がるものじゃない。この石灯籠は出来がどうかして居て、直ぐ転がる癖があるんだろう、それを知ってる者でなきゃ、わざわざ二間も先から、眼を回した奇月を引摺って来て、その上へ石灯籠を背負わせる知恵が出るわけは無いぜ」

 平次の観察は、次第に緻密ちみつに正確に、その時の様子を再現して行くのです。

「そう言えば、石灯籠の笠に、二箇所ほど欠けたところがありますね」

 八五郎は石灯籠の笠石を起して、あちこち調べて居ります。

「昨日や今日っ欠いたものじゃあるまい、御影の欠けた場所が、少し古くなって居るようだ。前にも何度か、地震か風で転げたことのある石灯籠だろう、植木屋が知ってる筈だが──」

 平次は出入の植木屋を呼ぶ気になりましたが、それにも及ばず。

「銭形の親分、又飛んだことでお骨を折らせます、こう祟られちゃ、私もやり切れませんよ」

 主人の岩太郎が縁側から挨拶をして居ります。剛愎ごうふくらしい男ですが、重なる不祥事に、さすがに気を腐らせて居る様子です。

「お気の毒でしたね。ところでこの石灯籠ですが、笠に古い傷があるようだが、時々転がる癖でもあるんで?」

 平次は身を開いて、石灯籠の古い傷を見せました。

「縁起の悪い灯籠ですよ、よっぽどすわりが悪いと見えて、三年に一度位ずつは大風か大雪で笠と火屋ほやが転がり落ちますよ。石屋に直させようと思ったが、そうすると折角の灯籠の形が悪くなるそうで、そのまま放ってありますがね、なるべく傍へ寄らないように、奉公人共には申しつけてあるんだが、奇月宗匠が二階から転げ落ちたはずみで、又転げたんでしょう、物騒なことで」

 主人岩太郎も、今度はよくよくこの風流な石灯籠に愛憎あいそかした様子です。

「ところで、もう一つ訊き度いが──昨夜奇月宗匠が二階の縁側へ出たとき、部屋に残って居る顔ぶれはどんなものです」

「それは、よく覚えていますよ、私とお峰と、その側に篠崎さん、田屋さん、才六は一寸小用に降りて、部屋へ帰ったところでした。間もなく、ドシンと来たようで」

「皆んな揃っていたわけですね、──お滝と新吉さんの外は」

「そんな事になりましょう」

「ドシンと音のした時は、才六は、確かに二階の座敷に戻ってきた筈ですね」

「間違いありません、──あれは何んだろう、と私が言うと、才六は立上って障子を開けましたが、縁側に居る筈の奇月宗匠の姿が見えないのと、下でお角が大きな声を立てたので大騒ぎになりました。まさか、石灯籠の下敷きになって居ようとは思いません、──もっとも、宗匠はその時、ひどく酔っては居ましたが」

 主人岩太郎の説明をきくと、奇月宗匠を二階から突き落した人が無くなるわけですから、乱酔した奇月が、自分で手摺を越して庭に落ち、這い出して石灯籠を背負ったことになります。

階下したには?」

「多勢居たようです。料理の方は、重三郎という、これは顔馴染かおなじみの板前で、外に近所の女達二人、下女のお角が采配さいはいを揮って居たようで。奇月宗匠に貸しのあるのはうんと居ますが、怨みのあるのは一人もありません。下男の次六は、昨夜も鎌倉町の店へ使いに行って騒ぎのずっと後で戻って来たようで」

 岩太郎は言い捨てて、何んか用事を思い出したらしく奥の方へ姿を隠しました。

「親分、変なことになりましたね」

 奥へ引込んで行く主人の後ろ姿を見送って、八五郎は囁くのです。

「何が変なんだ」

「殺し手が無いとなると、奇月は酔っ払って二階の縁側から欄干らんかんを越して庭へ落ちた上、石灯籠の側まで這い寄って、自分で石灯籠を揺すって、自分の背中へ背負しょったことになりますね」

「そんなことだろうな。そこで、お前が土手で新吉とお滝の心中しそうにして居るのを助けたと言ったね」「へェ」

「それは何刻なんどきだえ」

亥刻よつ(十時)でしたよ。二人をなだめて、兎も角も死ぬのを思い留らせ、寮へ戻ると、奇月が死んだ騒ぎで──」若い二人は矢張り此疑いからは除外されます。

「その時お勝手の方に居た人間は、念入に調べたことだろうな」

 平次はもう一つ念を入れました。

「調べましたよ、手伝いの女二人は近所の女房達で、こいつはのべつに口を動かして居るから、一人居なくなると、直ぐ気がつきますよ。板前の重三郎は、何んか客寄せがあると、浅草から呼んで来る中年男、俎板まないたの傍を煙草一服の間も離れません。下女のお角はあの通り達者な四十女だが、先代から奉公して居る忠義者、これは何彼につけての目付け役、昨夜も一人で切って回して居たようで──二人の手伝いの女は、おしゃべりに夢中で、奇月が二階から落ちたのも知らずに居る中に、下女のお角は一人だけドシン音がしたのに気がついて、庭へ出て見ると奇月が灯籠の下敷になって死んでいた──とこう言います。そこで一杯に張りあげると、その声を聴いて二階から堤を切ったように、一と塊りになって、皆んな飛降りて来たそうです。」



 小梅の寮の事件の調べは、それっ切り、また停頓してしまいました。出雲屋の主人の弟岩三郎の死も、野幇間のだいこ奇月の死も、明らかに人手にかかったものですが、その下手人となると、ハタと行詰って、全く疑いをかける相手も無かったのです。

 そのうちに、春は一日一日とけました。三月の末近くになると、江戸中の八重桜も名残になりましたが、行楽の夢のさめ切らない人達は、葉桜の若芽に興じて、未練がましい隅田川のほとりに、一刻の春宵を惜しんで居ります。

 出雲屋岩太郎も、その遊んでまざる遊蕩児の一人でした。弟の岩三郎が刺されてまだ二た七日も経たず、野幇間の奇月が石灯籠に押し潰されて五日目、もうお峰とお滝を左右に引きつけ、三宜楼さんぎろうの二階に陣取って、千金の春の行楽に、身も心もとろけそうになって居りました。

 その晩はもう、客を呼ぶのも止してしまい、お滝との祝言ごっこも断念し、二人の妾を左右に引付けて、夜と共に浅酌低唱する気だったのでしょう。

 南の方、障子を少しかせると、春の夜の香わしい風が、ほの暖かく物の芽の匂いを吹き送って、わざと灯心を小さくした行灯あんどんの灯を、消してはならないほどに明滅させて居りました。

 夜は漆のように真っ暗でした。この時、この嬌態きょうたいを覗いてくれるものは如法の闇だけ、岩太郎はお滝の柔らかい膝にもたれ、お峰の忍び駒で、近頃覚えたばかりの小唄をうなって居たのです。

 時々、身体を起して、お滝のいでくれる盃をふくみました。十年前に出雲の国から出て来たこの山男も、金と時間があって、江戸の空気に同化して行く器用さがあったために、何時の間にやら一とかどの蕩児とうじになり切って、浅酌低唱に、千金の宵を過す趣味も心得たのでした。

 だが、このたくましい生活力の持主なる岩太郎にも、一脈の恐怖はありました。解語ものいう花ともたとえられる、手入らずの処女おとめお滝、──言いようもなく可愛らしく清純で、岩太郎にうずくほどの食欲を感じさせる娘が、不思議に手をさし伸べる度毎に祟りをなして、好きものの岩太郎にとって、永久に禁厭タブーであるらしい存在だったことです。

 それはまた、一つの冒険味を伴う魅力でもあり、嗜虐的しぎゃくてきな欲望の的でもありました。

「お峰、お前は階下したへ行ってよい」

 不意に岩太郎はお峰が邪魔になったのです。この縮緬皺ちりめんじわの寄りそうになった年増女は妖艶ではあるだろうが、厚塗にした白粉おしろいも、唇一パイにさした紅も、大袈裟な表情も、こびをまき散らす肢体も、岩太郎の眼には急に嫌らしく、汚らわしく、浅ましく映って来たのでした。

「お銚子ちょうしの代りを持って来ましょうか」

 お峰は立ち悩みながら、つまらない用事にしがみつきました。

「いや、よい、──それには及ばないよ」

「──」

 お峰はもう返す言葉もなく、怨めしそうに二人を見比べて、そっと座を立ちました。それを見送るお滝の瞳が、どんなに絶望的で、痛々しいものであったか、追わるるお峰も、追う岩太郎も、気が付かなかったことでしょう。

 暫く経ちました。

「来い、お滝」

 岩太郎は立ち上ると、逃げ腰になったお滝の手首を無図むずと取りました。



「親分、とうとう三人目がやられましたよ」

 ガラ八の八五郎が、明神下の平次の家へ注進に来たのは、その翌日の早々でした。

「誰が、どうしたんだ」

 平次はまだ起き出したばかり、楊枝ようじをくわえての応対です。

「出雲屋岩太郎が、とうとう小梅の寮でやられましたよ」「──」

「やられたに違いありません。二階の六畳──あの酒盛をした部屋の隣ですがね、大名ほどの贅沢ぜいたくな寝部屋で、背後から土手っ腹をえぐられて死んだんだから、文句はありませんよ」

「背後から?」

「唐紙の陰に隠れて、よく狙いを定め、丁度よいところでやったようです」

「それは何時のことだ」

「昨夜亥刻よつ(十時)過ぎだったそうです。あっしのところへ使いが来たのは、今朝町木戸が開いてから、すぐ使いの者を返して、此処へ飛んで来ましたが」

「そいつは放っちゃ置けない」

 平次は井戸端の柱に楊枝を突っ立てると、朝の膳を尻眼に、出かける仕度を始めるのです。

「あれ、お前さん、もう御飯の仕度が出来て居ますのに」

 お静は追っかけましたが、平次はもう路地の外に飛出して居りました。

 明神下から向島の小梅まで、平次も八五郎も汗になって辿り着いたのは、辰刻いつつ(八時)少し回った頃。

「銭形の親分、とうとうこんなことになってしまいました」

 泣き出しそうな顔で迎えたのは、若い番頭の才六でした。狐面がオドオドして、ひどく情けない表情です。

「そのままにしてあるだろうな」

「御検視をお待ちして居ります」

 才六に案内されて二階へ登りかけた平次は、フト梯子段の下に足を留めました。其処に少しばかりの足溜りの遊びがあって、フト上から降りて来た、下女のお角とれ違ったのです。

 四十年配のたくましい女だ、正直そうではあるが四角な顔はひどく頑固そうで、こんな女は何んか思い付いたら大変な事をやってのけるのではあるまいかと思わせます。

 二階へ登ると、奥の六畳が主人岩太郎の寝部屋で、其処に岩太郎の死骸が、豪勢な床の中に、無造作に転がしてあるのです。床の側にはお妾のお峰が、たった一人泣き濡れて居り、無闇矢鱈むやみやたらべるらしい線香の煙が、部屋一杯にこめて、いきなり入るとむせ返るような心持になりました。

「こんな姿になりましたが──親分」

 お峰は平次を迎えて涙とこびと異様な警戒とこんがらかった顔を振り仰がせました。

 見ると早くも黒髪を、襟のあたりで切り落して、しおらしく珠数などを爪繰つまぐって居るではありませんか。

 岩太郎の死骸は、血を失って蒼黄色くなって居りますが、脂の乗り切った顔には、さしたる変化もなく、苦痛のあとさえありません。傷は後から左の胸を突き貫けるほど刺したもので、第一番に駆けつけたお峰の手が抜いたという脇差が、死骸の側にさやと一緒に転がしてあるのも浅ましい限りでした。

 死骸の側に崩折れて、気をうしなって居たというお滝は、お峰と才六の計らいで、階下の部屋に軟禁され、下男の次六が見張って居りました。

 雨戸は全部締めてあり、階下の六畳には才六と新吉が、お勝手にはお角と次六が頑張って居り、妾のお峰だけは階下の自分の部屋に引籠ひきこもって、少しけ気味に蒲団を引っ被って早寝をして居たというのですから、下手人はお滝の外には絶対に無いことになります。

 雨戸の開いて居たのは二階だけですが、其処には殺された岩太郎と、気を喪って居たという、お滝と二人が居たのですから、外から二人に知られずに、曲者は忍び込む隙があろうとは思われません。

「脇差は?」

「主人の秘蔵の品で、階下の居間の箪笥たんすに入れてあった筈でございます。──もっとも、其処に脇差のあることは誰でも知って居りましたが」才六は進んで説明しました。

「お前と新吉は確かに、一緒に居たことだろうな」

「へェ、でも、新吉さんは二度ばかり小用に立ちました。二階がひどく気になる様子で──」

 恋人のお滝が、必死のきわに引摺り込まれていることが、新吉にわからなかった筈もありません。

 下女のお角と下男次六は、どちらも出雲屋に長く奉公して居るくせに、妙に仲の悪い二人でした。何方かに怪しい振舞があれば、もう一人の方が黙って居る筈もなく、二人がにらみ合って居る限り二人が下手人でないことは誰にでもよくわかることです。

 念のため、平次は、妾のお峰の部屋というのを覗いて見ました。階下の部屋のうちでは、あれが一番贅沢で、その隣のお滝の部屋の同じ六畳は比べものにならぬ程粗末です。

 お峰の部屋は鉄桶の如く厳重で、窓には丈夫な格子があり、お滝の部屋との仕切りは壁になって居り、一方には廊下に向いてその廊下を隔てて、居間の六畳に頑張って居たという、才六と新吉の注意をひかずに二階へ登る工夫は無いのでした。

 その隣──一番奥のお滝の部屋は、四通八達で窓には格子もなく雨戸を開けると鼻の先に梧桐あおぎりが一本あって、丈夫な男ならそれを伝わって二階の奥の六畳に行けないこともありません。

 だが、それはお峰の部屋でなくて、二階でいどまれて居た筈の、お滝の部屋であったことが、お峰に取って何んという仕合せなことだったでしょう。

 平次はそれを見極めて、もう一度才六のところに引返しました。

「もう一つ聴き度い」「へェへェ」

 才六は米屋の番頭らしく揉手もみでをしました。

「お前は部屋を明けはしないか」

「飛んでもない」

「二階の様子は、階下に居てはわかったことだろうな」

「へェ、お峰さんは腹を立てて、プリプリしながら自分の部屋へ入ると、蒲団を冠って寝てしまった様子ですし、二階からは、旦那様の突き詰めた声と、お滝さんの泣き声が漏れて居りました、──階下に居ても大方の見当はつきました。」

 才六の説明は行届きます。

「新吉から眼を放さなかったと言ったな」

「時々二階へ駆け登ろうとしますので、それを引留めるのが精一杯でした。一度などは梯子を半分程も登った位で」

「その新吉は何処に居るんだ」

「お勝手で、お角と話をして居るようで」

「お角は幾つになるんだ」

「一度縁付いたことがあるそうで、丁度四十だと聞きました。──出雲屋には先代からの奉公で、──最初新吉さんの乳母に上ったまま家も身寄もないので、一生奉公の積りで踏み留ったと、本人が申して居ります」

「よしよし、それで何も彼もわかったよ」

 平次はようやく会心の吐息を漏しました。が、その顔には、ひどく苦渋の色があって、日頃事件の謎を解いた時の平次とは、まるっ切り違ったものがあるのです。



「親分、下手人は誰です」

 平次の顔色から、事件の解決を読んだ八五郎は、たもとの中の捕縄などを爪捜つまぐって居ります。

「八、お前はお滝の部屋の窓から、青桐を伝わって、二階の主人の部屋へ登って見てくれ」

「そんな事なら、わけはありませんよ」

「そっとやるんだ、いいか」「へェ」

 八五郎はグイと尻を端折ると、お滝の部屋の窓から身軽に飛出し、鼻の先のたくましい青桐の幹に伝わって、何んの苦もなく二階へ登りました。

 二つ目の枝がひさしへ、三っ目の枝からは、大した骨も折らずに、主人岩太郎の死骸を置いてある六畳の欄干らんかんに飛付けるのです。二階の窓をそっと開けて、バァと顔を出した八五郎、

「あれ──ェ」

 お峰は悲鳴をあげて飛上りました。もし八五郎の出現がお峰を驚かす為であったら、これほどの見事な成功は無かったでしょう。

 主人の死骸の側で、涙と共に掻き口説いて居たお峰は、不意をくらった狐のように、一足飛に隣の八畳を突っ切ると、梯子段に飛付いて、逆落しに階下へ降りました。が、其処で待って居るのは、思いも寄らぬ──それは平次の十手だったのです。

「お峰、観念しろ」「あれ親分」

「お前は、昨夜ゆうべと言う昨夜、主人の気がすっかり変って、お滝にられてしまったと思い込み、主人岩太郎を殺す気になったに違いあるまい」

「いえ、違います、私は階下したの自分の部屋で、蒲団を被って寝て居たんです、どうして二階などへ──」

「いや、新吉と才六が梯子の途中でみ合って居る間に、お前は廊下に脱出してお滝の部屋に忍び込み、窓の外の青桐を伝わって、八五郎が入った窓から二階に忍び込んだに違いあるまい、女でも身体が丈夫で一生懸命になれば、それ位のことは出来る筈だ」「違う、違う」

「そして、主人とお滝が揉み合って居る後ろから、唐紙の陰に隠れて忍び寄り、一と思いに──気の変った主人を刺した」

「畜生、畜生、それ位のことは当り前じゃないか、畜生っ」

 平次の冷たい声が、驚きと怖れと、怒りとに、歯噛みをして立ちすくむお峰の顔へ、まともに叩きつけるのです。

     *     *

 お峰を八丁堀に送って、小梅から神田明神下への帰り、八五郎は執拗しつように平次に喰い下るのでした。

「ね、親分、主人の岩太郎を殺したのは、妾のお峰とわかりましたが、主人の弟の岩三郎や、野幇間のだいこの奇月を殺したのは誰でしょう、あっしには、まるで見当がつかないんだが──」

「そいつは六つかしいよ」

 平次は気のないことを言うのです。

「でも、岩三郎も奇月も、洒落しゃれあやまちで死んだわけじゃありませんよ──お峰は二度とも主人の傍から離れなかったから、これは下手人でないことは確かで──」

 八五郎はなかなか諦め切れません。

「岩三郎は、兄の岩太郎と間違えられて殺されたことは間違いもあるまい、──あの時庭に居た新吉は、手を下した下手人では無かったが、本当の下手人の正体は確かに見た筈だ、新吉がかばってやるのは誰だと思う」

「?」

「曲者は奇月の脇差を持出し、庭の藁に火をつけて火事騒ぎをこさえ梯子の下の物陰に隠れて、上から飛降りて来る岩太郎を待ったのだ、──兄によく似て居る岩三郎を、岩太郎と間違えて刺したが──」

「その時曲者は、返り血をうんと浴びたことだろうと、親分は言いましたね」

「その通りだよ、──が、その血だらけになった着物を脱ぎ、一とまとめにして、直ぐ目と鼻の間の隅田川に沈めたことだろう、後で引上げて洗うのは、お手のものだ」

「成る程ね──ところで奇月を殺したのは?」

「二階の手摺にもたれて酔っ払った奇月がフラフラして居るのを、下へ突き落したのは、手代の才六さ」

「へェ、あの野郎が──?」

「小用に下へ降りた帰りの悪戯いたずらだ、──殺すほどの気は無かったかも知れないが、日頃から主人に取入って居る奇月の幇間振りがしゃくにさわって居た上に、近頃才六もぞっこん惚れて居るお滝を取持って、主人に人身御供に上げようとして居る奇月が憎かったのさ」

「すると、石灯籠を転がして、奇月に留めを刺したのも才六で?」

「いや違う、才六が二階から庭へ下りたのは、二階の人達は酔っ払って騒いで居るから気がつかなかったのだ、──庭へ落ちた奇月を、丁度庭に出て見付けたのが、先に岩三郎を殺した人間だ、お滝と新吉を救うためには、奇月か岩太郎を殺す外は無いと思い込んで居るから、二階から奇月が転げ落ちて眼を回したのを見ると、ムラムラと憎くなった、──で、沓脱くつぬぎのところから石灯籠の側まで引摺って行き、その上へ一と思いに石灯籠を転がしてしまった──二階の人達は、その音を聞いたのだよ」

「ひどい事をしますね、誰です、それは?」

「わかるじゃ無いか、岩三郎を刺した時、自分で藁火をこさえて、火事だ火事だと怒鳴った奴、──奇月に石灯籠を背負わせて大きな声で騒ぎ出した奴──新吉を我が子のように可愛がってる奴」

「女だ」

「新吉の乳母だった女、主人岩太郎は、今から十年前、先の主人──新吉の父親を殺して、出雲屋の身上を横領したと思い込んでいる女、──新吉を護るために、それから十年もの長い間、歯を喰いしばって、出雲屋に奉公して居た女」

「下女のお角だ、何んだってあの女を挙げなかったんです、親分」

「俺は嫌だよ」

「でも、みすみす」

「手柄にし度きゃ、此処から戻ってお前が縛れ、──俺はもうお峰一人を縛っただけで沢山だよ──誰が本当に悪いか、わかったものじゃ無い──」

「──」

 平次は足もめず、両国橋の夕陽の中を、明神下へ急ぐのです。その後から八五郎は、首を振ったりあごを撫でたり、に落ちない顔で、ついて行きます。

底本:「銭形平次捕物控 猿回し」毎日新聞社

   1999(平成11)年610

初出:「サンデー毎日」

   1951(昭和26)年17日号~121日号

※初出時の表題は「銭形平次捕物控の内」です。

※「梧桐」と「青桐」の混在は、底本通りです。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:結城宏

2017年72日作成

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